ベナウィの質問が、時に詰問と化する事は往々にしてあることは、別段珍しくない。だが、今回は妙な言い方だとコゥーハは眉を上げる。
「つまり。隊長は、本日の聖上は、あまり寝ておられないのでは、と?」
流れにつられてしまい、コゥーハも曖昧な質問を投げてしまう。
ベナウィの書斎、以前よりも書簡の数が少なくなっているためか、風通しの良い室内。しかし書簡処理を淡々と行う部屋の主は相変わらずで、コゥーハもその正面で筆を走らせている。
「五十七、と」
「……」
やや俯いてしまった顔をコゥーハは慌てて解いた。隣には算盤が置かれているが、必要が無いからと備品を突き返しながら、計算を終えた結果を記していく。
「暗算は得意で御座います故。何でしたら、後で答え合わせして頂いても構いませんよ」
「いえ。……相変わらず、貴女の速さと正確さは、尋常ではありませんね」
褒めているわけではないのだろう、と理解しつつも、褒め言葉として受け取っておくとコゥーハは笑う。
「しかし。隊長が、聖上のお体を御心配なさる日が来ようとは」
「……」
冗談です。とコゥーハは真剣な表情で切った。
「ですが。仮に睡眠不足でいらっしゃったとしても、どこかの侍大将のせいで、別段珍しいことでは御座いませんでしょう」
「貴女は、夜明け前、聖上とお会いしたと聞いていますが」
「ですから自分めは」
早く目が覚めてしまったので、暖を取りつつ私物を処分していた――今日三度目になるベナウィの問いに、コゥーハはうんざりした態度を前面に押し出しながらも説明を繰り返す。
ベナウィが自分の心配をしているなどあり得ない事であるからして、コゥーハは改めてハクオロの様子を振り返る。確かに、明け方に話した時も朝議を終えた際も、欠伸を噛み殺すようにハクオロは口に手を当てては、視線を彷徨わせることもしばしば見受けられた。しかしながら、それを除けは至って普段通りのハクオロに見えるとコゥーハは思える。議題に上の空でもなく、エルルゥと談笑していた様子は実に楽しそうにしている。最近処理する書簡の数が減ってありがたい限りだが、逆にベナウィが何か大事を持ち込んでくる前触れではないのか、という冗談――のはずである――を言っていた辺り、コゥーハの知り得るハクオロそのものである。
しまった、とコゥーハを口を噤む彼女の向かいで、ベナウィは至極真剣な面持ちで、真下の書簡を見つめる。動いていた筆は落潮に留まり、流れ落ちた墨は不規則な線を描いて深い水面に消える。
「聖上は。私のことを、どう思っていらっしゃるのでしょうか」
「
「……ふっ。かもしれませんね」
薄く嗤ったベナウィに、真に受け過ぎないで下さい、とコゥーハは呟く。が、底の見えない黒い瞳で尚も微笑する彼に新たな書簡の山を渡され、思わず机に突っ伏した。
(やはり
早く済ませるように命令され、コゥーハは苦々しい顔で任務に戻る。淡々と、いつもと同じ時間が続いていくものの、尚も不安が垣間見えるベナウィの俯く顔に、やれやれと首を振る。
「聖上も、同様に仰っていたのではありませんか? 早く目が覚めてしまったから、皇城内を御散策されていたと」
昇る陽に雲が掛かり、開け放った入口から差し込む光の一部が途切れる。僅かに暗くなった廊下と部屋の中、まさか、と思いつつも、念のためにコゥーハは一つはっきり問う。
「聖上のお言葉を、疑っておられるのですか?」
「……」
ベナウィは案の定、肯定はしなかった。しかし、しばしの間、否定もすることはなかった。
「すみません。考え過ぎのようです」
ふうん? コゥーハは首を傾げつつも、やはり、現在のベナウィはどこか妙だ、と心中で吐く。しかしコゥーハの疑念は任務の山によって弾き飛ばされ、話題を切り替えたベナウィは、至って、無慈悲な彼に戻った事もあり、しばし忘却された。
「夜間の警備体制の見直しですが――」
「未だあるのですか。いやはや」
部下の文句は一切受け付けず、ベナウィは複数の紙と書簡を広げる。机上を最も占有する紙は皇城の見取り図で、二色の丸と矢印が所々に書き加えられている。その中で、コゥーハが一番惹かれた矢印……最も長く、そしてベナウィが危惧するのも無理ない。多くの丸を避けている、危険な経路。
(ほう。これは見事な警備の穴が)
「その様子だと。貴女も気づけなかったようですね」
「私とて、万能ではないのですよ。それに、同じく気づけなかった隊長に言われたくは御座いません」
しかし、これは流石に大きな失態に他ならない。ハクオロへの謝罪と今後の対策を思案し始めるコゥーハの向かいで、実は、とベナウィは顔を上げる。
「この議題は。聖上が本日の朝議で初めて提案されたものなのです」
「? 聖上の思いつきは、いつも突拍子もない――……ん?」
本日の朝議で、ベナウィは初めて知ったのか? 肯定するベナウィに、コゥーハは口元へ手を当てる。
(今日の今日まで、侍大将を通さない提案だった?)
オボロ達にも話していなかったのか、という質問に、是と思われる態度をオボロ達は示していた、とベナウィは頷いた。
おかしい、否、ハクオロらしくない、とコゥーハは口元に手を当てる。ハクオロの提案は得てして突飛だとコゥーハは言ったが、実際に携わってみると、最低限各所への根回しを忘れていない。養蜂場建設の場合も朝議に出すまでは公にせず、必要な概要と各部署での審議が行われた――それを半日でやらされたことを思い出し、コゥーハは呻いた――し、ベナウィに反発する臣下達が多く残る現状、彼らに弱みを見せるのは如何なものか、と眉を顰める。
牽制か、信頼か……コゥーハは一旦思考を停止させる。少し休憩したい、と席を立ち、沈黙を続ける上官を眺めながら冷茶を注ぎ始める。
「…………」
撥ねた水滴で揺らぐ水面、映るコゥーハの後方で、ベナウィはずっと地図を見つめている。コゥーハが提案した改正案を比較し始める様は普通の侍大将であるが、どこか暗い瞳は、全くもって彼らしいとコゥーハは盆に湯呑を置く。
置かれた湯呑にベナウィは一旦手を伸ばすも、至極疑う目でそれをコゥーハへ突き返した。
「結構です」
「失礼ですね。今回のお茶には、睡眠薬など入っておりませんよ。むしろ目を覚ます薬を入れたい位です」
「……。今後は、菓子等の差し入れも気を付ける必要がありそうですね」
結局、ベナウィは茶を飲むことはなかった。せっかく淹れたというのに、とコゥーハは肩を竦めて作業に戻った。
湯呑の中身が全て無くなる頃。一通りの案が纏まり、コゥーハは軽く伸びをする。書簡をハクオロへ持って行くように命令され、目を丸くしながら相手をじっと見つめた。自身で持って行くべきではという提案に、忙しいからと尤もらしい回答をし、何時も以上に口数が少ない彼を。妙に憂いを帯びた黒い目を伏せるベナウィを。
(もしや、自分は信用されていないのでは、と言い出すのでは)
いえ。と、心を見透かしたかのように、ベナウィは否定する。
「聖上が私を信用されているか否かは、問題ではないのです」
「……」
「聖上が、オボロ達や、ましてやエルルゥ様にもお話しておられない事がある、という事態が問題なのです」
そうと決めつけるのは……コゥーハの否定は途切れた。愚かしい事に、コゥーハはハクオロへ疑念を持っていることを心中で認めてしまう。
シケリペチムの侵攻前後、コゥーハの中で、ハクオロに対する好奇心が想定以上に膨らんだ。加えて、そのほとんどが解消していない――満足する結果が出ていない事が、積もりに積もって否定的な感情を生む土壌となり、懐疑的な思考へ繋がっていることも同時に自覚している。ハクオロの過去については各所の結果待ちでしかない現状は理解しているが、無意識なところで行動へと滲み出ているのかもしれない、とコゥーハは俯く。実際、察しているのか、ハクオロは必要最小限の会話で留めている節があるし、ベナウィもコゥーハへ割り振る仕事をハクオロが関わらない物を多くしている気がする、とも感じている。
全くもって、情けない。息を吐き、コゥーハは心を閉じた。感情を埋めるかの如く頬を突き、話題へと思考を切り替える。
「しかし。聖上に直接お訊きするのは」
「聖上にはお伺い致しましたが、婉曲に躱されました」
流石はベナウィというべきなのか、と脱力し、コゥーハは額に手を当てた。
「それで」
これから如何されるのか。形式的な問いに対して目を伏せたベナウィに、コゥーハは定型的な答えを置いた。
「でしたら。自分達が出来ることは、一つだけでは御座いませんか」
様子を見る。小さく頷きあい、コゥーハが膝を浮かせた、直後。がたり、と入口から音が立ち上がる。少々恥じ入りながら振り返ると、先端が茶色の白い尻尾と、白黒の縞模様が目を惹く巨体が視界から消えゆく様を捉える。
「ん? アルルゥ様でしょうか?」
此処へ来るのは珍しい。驚いているベナウィの一言にコゥーハは肯定し、引っ掛かった感情に胸を押さえる。アルルゥに気付けなかったことへの申し訳なさもあるが……先程のベナウィとのやり取りが、奇妙な事に離れない。
「隊長。申し訳ありませんが」
ベナウィは首を横に振った。が、むっとしたコゥーハを制する所作から非難はない。困惑の色を覗かせる部下を一瞥し、ベナウィは別の木簡を手にする。
「この書簡を共に、聖上へ、言伝として「御心のままに」と。それと」
ハクオロを捜す過程でアルルゥに挨拶することを、咎めるようなことはしない。ベナウィの一言に苦笑しつつも、ありがたい事だとコゥーハは頭を下げた。
アルルゥ様! とコゥーハがアルルゥを呼び止めたのは皇城の上層。ベナウィの執務室から此処へ辿り着くまでに、紆余曲折とも言うべき道のりが存在したが、比較的早く追いつけた事は幸いか、と関わった者達に心中で感謝する。
「如何しましたか、このような場所でお立ち止まりになって」
階の前で立ち止まり、ムックルと共に床へ顔を近づけていたアルルゥの顔が上がる。コゥーハの存在に身体を硬直させた彼女ではあったが――気になる事があるのだろう、ムックルの躰にしばし隠れた後、すぐに同じ場所へと戻った。
「匂い」
え? と目を瞬かせるコゥーハから視線を戻し、アルルゥは再度階段へと顔を寄せる。
「匂い追ってきたら、ここに着いた」
ムックル。と促しながら、アルルゥは手摺や壁を確認していく。ムックルも同様に周囲を嗅ぎまわり、やがてアルルゥへ報告するように『ヴォ』と息を吐いた。
ムックルを撫で、顔を上げたアルルゥの眉が、ゆっくりと上がる。
「…………」
アルルゥ様? とコゥーハは問いかけるが、アルルゥは考え込むように俯き動かない。一瞬浮かべてしまった困惑の表情をコゥーハは隠し、自らも確認するべく鼻を動かす。が、先程飲んだ茶の香りが想定以上に残っており、敏感だと自負する嗅覚はしばし役に立ちそうにない。
「匂い、ですか」
携帯している徳利の中身を呷り、コゥーハは改めて周囲を見渡す。嗅覚以外の五感を優先的に研ぎ澄まし、別の側面から情報を収集する事を試みる。手摺の汚れ、階段や廊下の軋み、埃の積もり具合、流れる風の音……以前来た時と比較した結果、細かな変化はあったが、幸か不幸か、誰もが気にし過ぎだと一笑するものしか見受けられない。それでもコゥーハはつぶさに再確認していく。一段目を足で踏んでは離してを繰り返している、アルルゥとムックルの側で。
失礼、とコゥーハはゆっくり足を上げる。集中するべく目を瞑り、床へ足をつけた、刹那。
(――っ?)
一瞬。瞼へ景色が焼き付き、コゥーハの身体が強張る。しかし束の間、背後から肩を掴まれ、現実へと引き戻された。手の主は上層を警備している衛士で、いつの間にか数段昇っていたコゥーハへゆっくりと首を振る。
コゥーハは深く謝罪し、アルルゥとのやり取りを説明した。確認してきた衛士にアルルゥは慌てて距離を取ったが、何とか二人で宥めて彼女から言葉を引き出した。
考え込む二人の側で、アルルゥは階段を仰ぎ、呟くように口を開いた。
「上からも、匂いするって」
上、と申しますと。と仰いだ先は、禁裏である……改めて彼には感謝せねば、とコゥーハは頭を下げる。
「その、匂いと申しますのは」
やや間があり、アルルゥは静かに答えた。
「ひとの匂い」
(ヒトの?)
禁裏に入る事が出来る者は限られる。ハクオロに近しい者か、ハクオロ自身が許可を出した者――コゥーハが以前エルルゥから聞いたところによれば、ハクオロは
危惧する推測が頭を過り、同時に、アルルゥが一つ付け加えた。
「知らないひとの匂い」
不安で顔が歪んだコゥーハの隣、共に青くなっている衛士がコゥーハの胸の内を代弁した。
「お、おい……まさか。侵入者か?」
「……」
断定するのは早計かと。と言いつつも、コゥーハの顔は厳しい。
「ですが。今この上にいる可能性は十分考えられるかと」
アルルゥとムックルは否定を示したが、コゥーハ達は譲らなかった。衛士は遠くにいる他の者へ手を振り、コゥーハは上階を仰ぎながらアルルゥを階段から遠ざける。耳と両眼を最大限使用して探ってみるものの、少なくとも部屋から此方へやって来る気配は感じられない。
「アルルゥ様。一つお頼み申したいことが御座います」
簡略な見取り図を取り出し、衛士はアルルゥへ差し出した。周囲に人が増えたこともあり、アルルゥは怯えた様子でコゥーハの腰を掴むが、コゥーハの促しもあり、床に広げられた地図の上を指でなぞり始める。
(この経路は……あっ)
ムックルも答えてくれたのであろう――鼻をつけた紙は濡れ、鋭利な爪が置かれた部分には巨大な穴が開いた。ボロボロと化した、もはや役に立たない地図をコゥーハ達は困惑を含みながら苦笑し、アルルゥはくっと眉を上げてムックルの頭を叩いた。
「めっ」
『キュ、キュフン』
まあまあ。とコゥーハは微笑し、取り出した紙へと経路を簡略的に記した。アルルゥへ確認を取った後、衛士の数人が各所へと走っていく。その一方、やって来た男へ、兵士達は一斉に礼を取った。
「これは聖上。お騒がせしており、申し訳御座いません」
いや。と欠伸を隠すようにハクオロは口へ手を当て、階段の側で説明へと耳を傾ける。衛士の話を一通り聞き終えると、鋭い目で部屋を仰ぎ、腕を組んだ。
「侵入者、か」
アルルゥ様は問題ないと仰っていらっしゃいますが、念のため。とコゥーハは頷く。それで如何しますか、と問うが、考え込むように動かないハクオロに首を傾げる。
「聖上?」
すまない、とハクオロは軽く謝罪し、コゥーハにしか聞こえない声で肯定する。
「皇女の一件もあったしな」
「あ、あれは非常に特殊な一件だったかと、思われますが」
さすがに、幻術を使用して気配を消し、空中を飛んで侵入するなんていう賊は、そうそう居ないはずである。こと術法に関しては
首を振ったコゥーハの隣で、ハクオロの困惑した声が上がる。
「な、なんだアルルゥ? ムックルも……服に鼻を擦り付けて」
コゥーハが顔を上げた先では、言葉通りアルルゥとムックルがハクオロの躰へ鼻をつけている――ムックルのよだれが、
「同じ」
最初、コゥーハはアルルゥの意を理解できなかった。……正確には、理解することを拒否したのかもしれない。
「おと~さんから、同じ匂いする」
知らない匂い。アルルゥの一言に、周囲が硬直したのは言うまでもない。が、それも刹那。最悪な事態を想像した武官達の行動は迅速だった。一人はハクオロとアルルゥの距離を離させ、一人は背後へすっと移動した。彼女の手はアルルゥを庇うように広げられ、彼の手は左腰にある柄に置かれている。
「もしや」
偽物か、という問いに、問われた当人は全力で否定する。
「待てまて! 私は、私だ!!」
「でしたら。その仮面を思いっきり引っ張っても宜しいですね?」
「いや、今日は寝不足ぎみだし遠慮したいん――まてっ、だからっ、私はっ!」
仮面へ手を伸ばしたコゥーハを強く引っ張り、駄目、とアルルゥは叫んだ。ハクオロとコゥーハの間へ勢いを利用して割って入り、激しく首を振りながら両手を広げる。
「おと~さんは、おと~さん!」
アルルゥはひしっとハクオロに抱き着く。気迫に圧され、二人は緊張の乗った手を解く他なかった――とはいえ、警戒までは手放すことは出来ない。墨色の瞳の奥底へ沈め、コゥーハは背を正す。その側で、小さな顔が俯かれる。
でも。アルルゥは至極小さな声で、しかし確かに呟いた。
「おと~さん。なんかヘン」
「……」
仮面の下にある口元が僅かに歪む。娘の柔らかな手が落ちたというのに、閉じられた唇は一層固くなる。一瞬逸らした黒い瞳は一人の父親だが、相手の肩へそっと手を乗せる仕草は、
「みんなに何か隠してる」
「それは」
風のせいではない、ぴりっとした肌を刺す冷たい空気が場に満ちる。その中心で、大きな瞳と小さな眼は互いに向き合っている。叱責と疑問、困惑と焦燥が交わされる――聞き取りづらい程に小さく息を吐き、ハクオロはしっかりと謝罪した。
「すまない。アルルゥ。……未だ、みんなには言えないんだ」
「…………」
ぷいっ。と首を振った後、アルルゥはハクオロを突き飛ばして廊下を駆けて行った。その後を、ハクオロを睨んだムックルが続く。
アルルゥ! とハクオロは呼び止めたが、逆効果だと思ったのだろう、アルルゥを追わなかった。後を追う旨を示した彼にすまなさそうに頷き、じっと睨み続けている彼女へ目を向ける。
「悪いが。お前にも言えない事だ」
ですが、と浮かんだ次の一言は、声にはせず沈める。承知致しました、とコゥーハは返し、尚も感情を隠すことなく相手の一挙手一投足へ気を配り続ける。
「ですが。自分達が勝手に捜索することはお許し頂けないでしょうか」
「構わんさ。第一、そうでもしない限り納得しない奴がいるだろう?」
軽くからかう調子に更にむっとしつつ、コゥーハは努めて冷静に指を鳴らす。
「では。まず念のために仮面を――」
目の前に掲げた鉄扇を握らせられ、コゥーハの息が詰まる。最初からこうするべきだった。と小さく呟き、ハクオロは大袈裟に両手を上げた。
「良いか?」
「結構で御座います。一応、禁裏を拝見しても宜しいでしょうか」
別の衛士が一人やって来てから、ハクオロ同行の元、コゥーハ達は禁裏の捜索を行う。先日とほとんど変わらぬ様に苦く笑いながらも、三人は異常がない事を確認した。
やはりアルルゥを追いかける、とハクオロが去った後。念のため、と称して二人は周囲を注意深く観察する――結論から言えば、何も無い、この一言に尽きた。安堵と不満が同居する息が抜けた廊下、神経質な人は嫌いじゃないです、と衛士は笑った。
「一応、昨日から今日の警備について、担当していた者達に話を聞いておきますよ。休日を取っている者もおりますので、報告書は明日でも構いませんか?」
「勿論です。感謝致します」
ベナウィには話を通しておく旨を伝え、コゥーハは頭を下げた。
(……)
遠くから視線は感じるが、誰もいない廊下。涼しい風が茶色の耳を撫でる中、コゥーハは再度見渡す。神経質、と称した一言は褒め過ぎだと独りごちながら、誰が見ても
胸に引き寄せた指の隙間から、"黒い光"が漏れ出る。制御が難しくなりつつある事を改めて認識しながら、コゥーハはもう一方の手へと指を伸ばす。
(仮に一日も経っていない、ともすれば。"残光"が残っているはず)
不意に、先日の戦の景色が頭を過る。一瞬だが指輪を外した前後の光景が、同じ心情だと確認させる――國のため、ハクオロのため、というのは建前である。ただただ真実を知りたい欲求が、あらゆる手段を用いずに諦めてしまう腹立たしさがいつも以上に膨らんでいる。さながら奥底にあるモノが表出しようとするかの如く、さながら"アレ"が事実を伝えたいと訴えかけてくるかの如く。気味が悪い、とコゥーハは顔を歪める。まるで、
(自分は――……)
結局、コゥーハは指輪を外すことはなかった。強い意思を心に打ちつけたこともあるのだろうが、肩を叩かれた事で強制的に逸らされたという方が正しい。男に名を呼ばれたとほぼ同時、不安定な感情のまま懐に手を入れたコゥーハに、相手はやけに落ち着いた様子で手を上げる。
「待った」
添えられた小刀は綺麗に軌道を逸らされ、折り返した刀身は首から指一本を挟んだ位置で制止する。至極落ち着いた様子で肩を竦める相手をコゥーハは見据え、クロウだと認識する時間は数拍もなかった。
「……取り乱しました。誠に申し訳ありませんでした」
得物をしまうコゥーハを、クロウはしげしげと眺める。何処か緊張した雰囲気を感じ取ったのであろう、やって来た衛士達へ適当な言い訳を並べながら、何もない意を伝えた。彼らを任に戻らせ、大きな背中をゆっくりと壁に預ける。
「らしくないっすねぇ」
「お気遣い、痛み入ります」
気にするな、と言わんばかりの表情で、クロウは手を振った。
「それで?」
コゥーハはしばし戸惑うが、その場でじっと見つめてくるクロウに肩を下げる。黙ったままのコゥーハに、クロウは腰に手を当てながら背を壁から離した。
「その侵入者について、何か分かったんスかね」
去る気のないクロウから目を逸らし、コゥーハは両手を挙げてみせた。
大まかな概要を説明され、ほう、とクロウは腕を組む。
「あのちっこい姐さんが、わざわざ追いかけて来たってことは」
ハクオロは、アルルゥの知らない外部の人間と会っていた可能性が高い。理由の一つを、クロウは補足する。
「案外。皇城の警備がここまで少なくても何とかなっているのは、あの
「だとすれば」
護衛も付けずに、ましてやエルルゥ達に無断で外出するなど――コゥーハの心中はクロウの意見となって吐き出される。仮にハクオロが誰かに会っていた場合、相手の推測は幾つか考えられるが、とクロウは呟くが、それ以上を語る事はなかった。
「あの
エルルゥ達に言えない理由がある、もしくはエルルゥ達に伝える必要もない。仮に前者である場合の理由を熟考し、コゥーハは浮かんでしまった不本意な推測によって思考を停止させてしまう。
「も、もしや……」
紅くなった頬を手で覆うコゥーハとは対照的に、冷静な様子でクロウは手を振る。
「歓楽街に関する法整備は確かに総大将の提案で、視察もこの前行ってきやしたが――少なくとも
まあ、直感でしかありやせんが。と付け加えた上で、顔を真っ青にしているコゥーハの別の推測に、クロウは呻いた。
「いやいや、だからといって、
多分、とクロウは小さく重ねながら咳払いをする。目を泳がせているクロウに向き直り、しかしながら、とコゥーハは背を正す。
「我々の知らぬところで、聖上に何かあっては事です。聖上には申し訳御座いませんが、あらゆる手段を尽くしてでも、不審な点は潰しておきたいものです」
クロウは腕を組み、型良い眉をくっと上げる。
「……で?」
「……」
「他に何か"掴んだ"のか位は、教えてくれるんですよね?」
まさか、とクロウは微笑する。しかし、コゥーハをしっかり捉えて離さない双眸は、一切笑っていない。
「何もない理由で斬りかかろうとした、とか、野暮な事は言いませんよねぇ?」
コゥーハは改めて己の行動を悔やむ。感情に流されるがままに動くものではない――息を吐く音は、無情にも金属音によって掻き消される。逃げ切る自信がないことを悟り、誰もいないことを確認する。本当に一瞬だけだ、と前置きをした後、コゥーハはゆっくり切り出した。
「"見えた"のは、
何と申しましょうか、とコゥーハは慎重に言葉を選んだ。ふっと、先日の戦の一幕が想起される……炎の対岸で響いた、甲高い笑い声が。適当かと問われると躊躇う部分があるが、数ある記憶の中で最も近い印象か、と冷たい首を擦る。
「尋常ではない、覇気です」
訝しんだクロウに、コゥーハは肯定する。迷っているのかもしれない、墨色の目が揺れた事をはっきり自覚する。
「強き武人が持つ、特有の気と申しましょうか。たとえば、そうですね。クロウや、オボロ侍大将のような」
「や。ありゃあ未だ大したことないだろ」
オボロ侍大将が聞いたらお怒りになりますよ、と眉を顰めるコゥーハに、言わせておけば良いとクロウは一蹴した。
「だが。そりゃあ」
つまり。仮にコゥーハの言が正しいとすれば。クロウは各所の要点を纏めながら、一つの推測を述べた。
「コゥーハの姐さんが怯える位にヤバイ手練れが、衛兵の誰一人とも会わずに禁裏までやってきて、これまた誰にも気づかれずに総大将を連れ出したと」
「ええ。正直私でもどうにか出来るかどうか――」
吐き気のする違和感に、コゥーハは咳き込む。
(今、自分は何を)
推測は、あくまでも可能性の話です。と苦しい言葉を並べ、コゥーハは激しく首を振った。
「とにもかくにも。仮に信じるなれば、相当の御仁かと思われます」
おそらく。と目を落とし、コゥーハは小さく呟いてしまう。
「ベナウィ様よりも」
「……」
ほぅ。と、どすの利いた声が、茶色の耳の先端まで戦慄させる。殺気なのか、はたまた……胸に走る冷たい感覚、反射的にコゥーハは左腰へ手を伸ばしていた。咄嗟に緊張を解き、おずおずと見上げた先、クロウは背中を向けていた。考えているのか、禁裏へ続く道を見上げており、こめかみに手の平をあてている彼の表情は垣間見れない。
「そりゃあ――……ヤバいってもんじゃないでしょ。おっと」
勘違いしないで欲しい。怒っている訳ではない、とクロウは距離をとる。にやりと微笑んだ側で手を振り、しっかりと収められている直刀の上へと乗せる。
「是非とも会って、本気で手合せしてみたいもンだ。そうは思いやせんか」
コゥーハの姐さん。くっと顎を引いたクロウの横顔は、落ち着いた微笑みを湛えている。何処か飄々さを滲ませる普段通りの彼に、コゥーハの乾いた唇がゆっくりと離れる。
「クロウ」
それ以上はナシですぜ、コゥーハの姐さん。とクロウは片手を瞑り、コゥーハの首元に指を突き立てる。
「アンタは謝るような事をしちゃいねえ、そうだろ?」
大きな指と濡れた唇が擦れる。片頬を掻き、クロウは軽く伸びをする。同様に首へ手を当てているコゥーハに向き直り、他にないかと確認した。
しばし悩んだ末。コゥーハは眉を上げ、極力小さな声で切り出した。
「もう一つ」
感じたモノは、覇気。"見えた"のは、
紅い外套。その場を切り取ったかの如く、はためく布が残像としてよみがえってくる。紅い外套からは
(そういえば)
以前、似たような紅い外套を夢で見たな、とコゥーハは心中で呟く。沈黙している彼女を一瞥し、クロウは腕を組んで再び壁へ背を預ける。
「紅い外套ねえ」
コゥーハは解っていると思うが、と前置きし、クロウは腕を組む。
「仮に信じても、外部の人間っていう線が色濃くだけ。ただ、國内で大将以上の猛者を俺は知らねえですし。ま、
クロウは言葉を切り、しばし熟考するように口元へ手をやる。が、「やめた、やめた」と頭を掻いた後、ゆっくりと伸びをした。
「さて。んじゃあ、俺はこれで。俺が言ったことも含めて、大将へ報告よろしく頼みやす」
「お、お待ちください」
さらっと面倒事を押し付けてきた相手をコゥーハは呼び止める。しかし、立場が立場……想定外だったことあり、事も無げなく言い渡された一言に呻く他なかった。
「副長命令」
「ぐっ」
クロウ副長が職権乱用する日が来ようとは。驚きと怒りを押し殺した声を漏らす部下に、そう怒りなさんなって、とクロウは彼女の肩を叩く。
「ちょっくらこっちの任務が立て込んでいやしてね。これで勘弁してください」
特別手当、とハチミツの入った小瓶を正面で振るクロウに、むむっ、とコゥーハは口を尖らせる。
「またしても、自分めをハチミツで釣ろうなどと」
「要らないってんなら別に」
頂きます。とコゥーハは両手で受け取る。パタパタと尻尾を振り、頬を擦り付けている相手を一瞥し、クロウは踵を返した。
「ま。元気そうで、何よりで」
「――……」
んじゃよろしく、と念を押した後、クロウはその場を去った。相手が視界から消えるまで下げていた頭を上げ、しまった、とコゥーハは任務を思い出した。
「聖上を急ぎ追いかけねば」
どちらを優先すべきか。独りごちる廊下は、想像以上に足音が響き続けた。
相変わらず書簡の山が連なっている、ハクオロの書斎。仮面の下に隈を隠し、恐ろしい程に普段通りの書簡処理を行うハクオロの向かいで、コゥーハは処理を終えた物を選り分けていく。
「昨日の深夜。自分めに会う少し前、皇城から抜け出しお出かけになった事は、事実で御座いますか」
「……」
そこは認めよう。持ってきた書簡を眺め始めるハクオロの一言に、コゥーハが色めき立つ――それだけではない。その際使用した経路は朝議で自ら指摘した経路であり、アルルゥが示した経路である事、今回の件をエルルゥ達に話していない事もハクオロは肯定した。
何故、自分には話したのかとコゥーハに問われ、視線を彷徨わせながらハクオロは頭を掻いた。
「……お前の前では、どうも嘘を吐きにくくてな」
「冗談はお止め下さい」
ぐったりしたようにハクオロは手を振り、詮索され過ぎるのは困るのだと息を吐いた。言葉通り、コゥーハはそれ以上の事をハクオロの口から聞き出せなかった。特に出かけた理由に関しては頑なに口を閉ざし、いわゆる黙秘を貫いた。各衆の諜報部隊からの報告、あるいは地方の豪族からの使者、もしくは他國からの使者、等々……予想は幾つも浮かぶが、やはり一つだけ理解できない事がある。
「せめてエルルゥ様とアルルゥ様にはお話するべきかと思います。お二人がハクオロ様の御心配召される事は、聖上と致しましても本意では御座いませんでしょう」
「善処する」
コゥーハは軽く唇を噛んだが、それ以上踏み込むことは、他人であるコゥーハには躊躇われた。整理を終えた書簡を廊下へ運ぶコゥーハから視線を外し、ハクオロは薄く笑って窓の向こうを眺める。
「なんて言うべきか、エルルゥやベナウィ達に話す内容など無いのだ」
奇妙な事を仰る。訝しむコゥーハに、全くだ、とハクオロは苦笑する。
「ただ、二つだけ言える事は」
出来ればベナウィにも伝えて貰えるとありがたいのだが、と前置きし、ハクオロは臣下へ向き直る。
「……時期が来たら、話せるとは思う。それまで待って欲しい」
もう一つは。促され、ハクオロはくっと顎を引いた。
「私の身は安全だと、断言できる。安心してくれ」
至極疑問であるという目を前面に押し出すコゥーハの前で居住まいを正し、それと、とハクオロは木簡を閉じ、真下の地図へと目を戻す。
「これを機に、徹底的に警備体制を見直してくれ」
見事に出し抜かれて、悔しかったからな。ハクオロの本音に、無論です、とコゥーハは断言した。
「ではこれにて」
「待った」
膝を浮かせたコゥーハを止め、ハクオロはコゥーハが持って来た木簡を差し出した。
「これを、アルルゥとユズハのところへ持って行ってくれないか」
ハクオロが持って行けば良いのではとコゥーハは口にしたが、整理したいと呟いた相手の寂しげな顔に、木簡を受け取る他なかった。ベナウィに報告をするために遅くなるかもしれない旨を伝え、夕刻までに届けるようにという命に頷いた後、コゥーハは部屋を後にした。
補足:
今回の話は、原作ゲーム(PSP版)の展開に準拠したものとなっております。展開が異なるTVアニメ版のみ視聴された方には、違和感を覚えるかもしれないことを申し上げます。