うたわれるもの 琥珀の軌跡   作:ななみ

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衷心

 夜が明けきらない暁、射し込む皇城の一室に、戦の鍵を握るソレが届けられた。空になった茶器から手を離し、オボロは机の隅にある物をしげしげと見つめる。 

「これが、なあ」

 別に兄者を疑っている訳じゃないんだが。訝しむオボロの手へとコゥーハは割って入った。

「お待ちを。今から御説明致しますので――」

 ソレの設置方法と注意点を、コゥーハがかいつまんで説明していく。過程で、オボロやドリィ、グラァから出された質問にはハクオロが補足する。

 時折話の流れを変えるハクオロの言動から、ハクオロはソレの取り扱い方は教えても、禁忌の結果はオボロ達へ教えていないようにコゥーハは推測している――失礼ではあるが、オボロの理解範囲を超えているであろう事は理由にならない。オボロ達も訊ねないあたり、互いに信頼している証なのだろうか……納得しがたい感情が、コゥーハの胸中で焦れる。

(……もしや。自分めにお教えしたのは)

 考えが過ぎた、とコゥーハは首を振る。光の強い発光石の光に目を押さえるも、集中するべく深呼吸して座り直した。

 話は、設置後の逃走および合流経路の事へと移る。設置後はすぐさま城を離れることを念を押した上で、地図上の一点へ置いた指をコゥーハは動かしていく。

「予定日の天候や煙の風向き、相手の脱出経路を鑑みますと……こちら側から脱出された後、合流された方がよろしいかと、自分は提案致します」

 こっちに奴らが来る可能性だってあるんじゃないのか? もう一つの道を示したオボロに、コゥーハは顎に手を当てつつ見解を続ける。

「この辺りは山が多いせいもあり、道は現在も整備されておりません。また、地図には描かれておりませんが、道の先に当たる此方と、此処――他に数か所の沼地があることが判明しております。昼間に城へやって来た敵も、それは承知のはずです」

 ヒトが持てる数倍の重さの荷を、早ければ一日で隣國へ届けることが可能である故、荷の運搬の基本はウマ(ウォプタル)である。しかしウマ(ウォプタル)という乗り物は、足場が悪いと機動力は半分以下になる。ましてや、決行予定時刻は夜明け前。辺りはまだ暗く、瞬時に地面の状態を把握することは難しい。故に、沼地のある方から逃げる確率は低い。

 ああ。とコゥーハは眉を上げ、提案した経路の側の一部へ朱を入れる。

「脱出の際はお気を付け下さい。此処の北側、塀付近はそれほどでもありませんが、奥に行けば沼地に足を取られる可能性は格段に上昇します。同様に他の――」

 コゥーハの注意に、それなら心配いりませんよ、とドリィとグラァは笑う。無理をしている顔ではない、余裕が見える微笑で彼らは言い切った。

「若様は夜目が利きますから」

「僕達も夜の活動には慣れていますから」

「な、慣れ?」

 オボロが視線を逸らし、その側で、ばつが悪そうにハクオロが自身の額へと手を当てた。

「以上だな? コゥーハ」

 大きな手の平の奥から、これ以上立ち入るなと言わんばかりの視線を向けられ、コゥーハは肩を下げた。興味が尽きないのは全くもって肯定するが、この場で追及する事は一武官として好ましくない。時間も迫っている状況、今すぐにでも出立するべきなのは言うまでもない。

「作戦について申し上げたいことは以上ですが。他に何かございますでしょうか」

 特に無い意を示した面々に、コゥーハはお辞儀をする。一通り机上を片付け、紺色の外套(アペリュ)を着込み始めていたオボロへ品物を差し出した。

「オボロ侍大将」

「っだからその言い方は――」

 部屋の敷居を挟んで向かい側。本当に嫌なのだろう、背中を向け、苦々しく布で口を覆うオボロから、コゥーハは一瞬目を逸らしてしまう。暗がりに顔を埋めた彼女を一瞥し、オボロは小さな声で――部屋の中で紙面を未だに眺めているハクオロに聞こえない位の大きさで、呟く。

「……煙。そして、すぐ離脱しろ。つまり、そういう事だろ?」

 コゥーハの身体が、はたりと上がる。じめっとした空気が部屋から流れてきているが、オボロの声が一蹴した。

「兄者が知る必要がないって言うんだ。だったら問題ない。第一、難しい話をされても困る」

「しかし」

 はっ、とオボロは笑って品物を無造作に受け取る。慌てた様子を取ったコゥーハを気にすることもなく懐へ押し込み、正面を向いた。

 慢心ではない、ましてや自惚れでもない自信が、純粋な黒い瞳から溢れ出している。オボロだけではない、薄い外套を着込み微笑む二人、ドリィとグラァからも同様のものを向けられている。ただただ、無言で、見つめてくる三人から、はっきりとした意思が伝わってきた。

 部屋の灯りが消えた影の正面で、外套(アペリュ)の留め具が擦れる音が響く。

「俺は兄者に何処までも付いて行くと決めている。兄者がお前を信じるなら、俺はお前を信じるまでだ」

 留め具を止める音が響く。同時、去り際に伸ばされたオボロの片手が伸び、コゥーハの胸当てを叩く。

「兄者を頼む」

 長い外套(アペリュ)を靡かせ、頭を覆ったオボロが廊下を歩いて行く。コゥーハ達に軽く頭を下げ、ドリィとグラァもそれに続いて走って行った。

 いつの間にか敷居を跨いでいた事に、コゥーハは情けない顔で伸ばしていた腕を下ろす。人影が無い三人が消えた先、くっと姿勢を正し、敬礼する。

「御意に」

 部屋から出てきたハクオロへ向き直り、コゥーハは改めて指示を仰いだ。

「総大将。自分の隊は如何致しましょうか」

 ああ、とハクオロは微かに微笑しながらも、冷静な目で廊下の先を見つめる。

「コゥーハの隊は、私と共に敵輸送隊の殲滅を」

「了解、しました」

 いよいよ空が白み始めた明け方。光陰を惜しむ暇はないというのに、コゥーハの足は妙に重い。持ち物が多い故か、はたまた……影が薄まる廊下を歩く足音は茶色の耳を嫌になく突き、若草色の外套が擦れる感触が首元から離れない。

「一つ。お訊きしても宜しいでしょうか」

 ハクオロは一瞬だけ目を向けるが、何も言わずに前へ進み続ける。失礼しました、と謝罪したコゥーハにも終始無言で階段を降り、ひたすらに目的地へと急いで行く。しかし幾つかの角と階段を下った後、ハクオロはとある場所で立ち止まり、やはり何も言わずにじっとコゥーハを見据えてきた。

 皇城の下層、階段を下りて最初の丁字路。一方は兵舎や武具庫へ、一方は正門へ続く分かれ道でもあるが、どちらも誰かしら居る事はコゥーハにも理解できる。故に、ハクオロが此処で立ち止まった意図も。

 くっと眉を上げ、コゥーハは努めて冷静に息を吸った。

「何故、わざわざ総大将自ら戦場へ行かれるのでしょうか。危険を冒してまで赴く必要性が感じられませんが」

「今回の作戦を立てたのは私自身だ。最後まで結果を見届ける責任はある」

「しかし」

 それに、とハクオロは制する。

「仮に。作戦が失敗した場合の対処が、コゥーハには出来ないだろう」

「……」

 その通りだ。とコゥーハは唇を噛んだ。

 案自体は二、三通り考えている。しかし実際対処出来るかと問われると、零に限りなく近い。コゥーハの立場は騎兵衆(ラクシャライ)の一分隊長でしかない。ベナウィやオボロ、クロウのように相応の立場もなければ、無論他の隊の者達との信頼関係も薄い。その上で、コゥーハは女性である事――現在こそ周囲は何も言わなくなったが、所詮は女だろうという態度をする者がいる事は度々感じている。少なくとも、短所になることすれ、長所として働くことはあり得ない。万一ハクオロがコゥーハへ全権を委ねたとして、それらの要因が重なり、纏まりに欠ける軍となりうる可能性は非常に高い。

 出来なかったでは、済まされない。ベナウィに掛けられたハクオロの一言が、心の中で復唱される。俯くコゥーハに息をつき、ハクオロはやや感情的な様子で微笑した。

「すまない。少しずるい事を言ったな」

「いえ」

 ごもっともだと思います。と首を振り、コゥーハは改めて背を正す。

「ご出陣(しゅっぱつ)何時(いつ)に?」

「すぐに出陣()る。準備ができ次第、正門へ来てくれ」

 御意、とコゥーハは頭を下げ、ハクオロを見送った。誰も見えない床にくっと口を結び、無意識に伸ばしていた剣の鍔を鳴らした。

 

 

 

 

 

 兵舎の一角、正門へ続く道に面する入口前にて、パララの怒鳴り声が響く。

「どういう事だよ! あっしだけが城の警護ってのは?!」

 自分達の任と指示、各人への役割を告げた後。手を上げた相手を難なく地へ這いつくばせ、コゥーハは見下ろす。急く感情を墨色の瞳の底へ沈め、何回目かになる建前を再び口にする。

「聖上も各衆の総隊長も居ない現在。エルルゥ様達がいらっしゃる事もあります、信頼の置ける者を置いておきたいのですよ」

「なら他の隊が残れば良い! 何であっしだけが」

「……」

 はっきり言うべきなのか、否か。思案しながら、コゥーハは普段以上に冷静さの欠ける彼女をくっと睨む。柄に掛けた相手の手を叩き落とし、苛烈な双眸の根底を見定めようと覗き込む。

 コゥーハには、既視感がある――昔、自分の目の前で命が零れ落ちた際、自身へ向けられた呪詛と同じ色をした目に、似ていると。

「私情に囚われたまま戦場を彷徨う者は往々にして、願いを遂げられないまま無残な死を晒してしまうものです」

「馬鹿を言うなっ! あいつが、奴が来るかもしれねえってのに――」

(あいつ……?)

 ひとまず落ち着くように諭しながら、コゥーハは腰にある水筒を手渡す。案の定、拒絶したパララに息を吐き、彼女へ向かって派手に中身をぶちまけた。その際、水筒の紐が簪を引っ掛け、パララの美しい髪がばさりと広がった。

 酷い顔をしている、とコゥーハは片膝を折る。支柱に背をあて、座り込んでいるパララはさながら消火しきれていない焚き火のように佇んでいる。濡れた髪は重さで垂れ、落ちた簪の一つはパララにきつく握りしめられている。未だ薄暗さが残る中、コゥーハは足元に転がってきたもう片方の簪を拾い、持ち主の視界に差し出した。

 冷たい金属の感触が、未熟な薄い皮へ突き刺さる。

「足手まといです」

「――……っ」

 パララの目が大きく見開かれ、血の付いた簪が、地面に転がり落ちた。

 刺し傷の血が滴る手でパララは簪を受け取り、慣れた手つきで髪を結い直し始める。丁寧に土を掃い、もう一つの簪もしっかり挿し込み、頬の水滴を指で掬う。微かに赤い糊が付着してしまったことに薄く微笑し、情けない声で吐き出した。

「すまねぇ。ちっとばかし、熱くなっちまった」

 服で水気を拭き取り、パララは立ち上がる。一旦手甲を外し、化粧の香する肌色の甲をなぞった指先で顔を整える様は、どことなく哀愁漂う。

「隊長に従いやすよ。……なに、心配は要らねぇ。命令無視なんてしやせんって」

(……)

 一瞬逸らしてしまった目を、コゥーハは自身の懐へ伸ばす。パララは書簡を受け取り、胸に当てていた拳を上官の胸へと近づけた。

「それこそ、アンタの好きにしたら良い」

 だが、立場が逆転したら従って貰う。威勢の良い一言と共に人差し指を相手の顔へ突きつけた後、パララは笑って皇城内へと去っていった。普段の調子に戻りつつある彼女の背中を見送り、コゥーハは改めて自身の首元にある外套を直す。痛みが残る左手、碌に手入れをしていない荒れた指が顎を擦り、ささくれは淡い下唇を突いた。静かに吹いた南風は冷たく、傷んだ墨色の髪をすり抜けていく。

 コゥーハの数歩離れた背後。軽装特有の軽い音が響き、長い茶色の耳は上がる。一連のやり取りを見ていたであろうワッカにコゥーハは目を向け、柱の向こう側にいる存在にも微笑んだ。

 時間を取らせた事を謝罪するコゥーハに首を振り、ワッカは真剣な面持ちで礼を取った。

「姫」

「ですから、姫とは……いえ、失礼しました」

 条件を提示したのは自分でしたね。肩を落とすコゥーハの様子を見つめているが、ワッカの表情に変化はない。

「パララ姫を城に残す理由をお聞かせ願いたい」

「先程の通りです。何もないとは思いますが、彼女は万一のため伝令役に残したいだけですよ」

 それよりも、やや軽装が気になる。というコゥーハの指摘に、ああ、とワッカは微笑を浮かべる。

「私は、他人よりも力が御座いませんから。剣を振る前に、装備に振り回されては姫のお役に立てません故」

「……時間がありません。自分も先程指摘しなかった事もありますし、今回は目を瞑ります。ですが」

 負傷は許しませんよ。命令に近いコゥーハの言葉に、ワッカは深々と礼を述べる。コゥーハの乾燥した手を取り、僅かに化粧の香がする爪に艶やかな唇を当てた。しかし、照らされた彼の視線はどことなく不安定に揺れているようだとコゥーハは眉を動かす……そして、ワッカの後方にある柱から向けられている視線にも同様のことが言えた。

 柱の横で顔を覗かせていたススを眺めながら、コゥーハは腕を組む。

「二人とも納得できていないようですね」

 はい、とワッカは立ち上がり、そんなことは、とススは柱に隠れた。出てくるように息を吐くコゥーハとススのやり取りを見ながら、ワッカは口を開いた。

「姫は。パララ姫を、この戦に巻き込みたくないと、考えているように思えます」

「理由は?」

「パララ姫の過去とシケリペチムとの関係性を知った上で、パララ姫を接触させたくない意図があると」

 はっきり言ってくれる。と心中で項垂れながらも、コゥーハは一部を肯定し、否定し、誤魔化した。立場上、パララの情報を入手しているものの、現時点での情報は少ない。コゥーハはパララの過去を知らないし、シケリペチムとの関連性もはっきりした情報を掴んでいる訳でもない。しかし、帰國後から見受けられる彼女の挙動から、普段とは違う不自然さを抱くのは容易な事であった。

「ススは。現状の、パララをどう思いますか?」

 突然話を振られたためか、ススは怯えたように身体を竦める。

「いまの、パララさんですか」

 しばしの熟考の後、ススはおずおずと口を開く。

「どこか、上の空だったり、怒りっぽいかなと……いえ、ちょっと違うかな。コゥーハ隊長に抗議している時とか、すごく焦っているというか。必死っていうか」

 シケリペチムの使者がやって来た日からあんな感じなのだ、とススは補足する。

 戦のことばっかり考えていて、自分に必死で、回りが見えていない節が見受けられる。ワッカの冗談も真に受けとり殴りかかろうとし……そういったやり取りは日常で度々目撃するが、度が過ぎている。

 私はいつも本気だ、と主張するワッカを無視し、コゥーハはススを見据えていた視線が揺らいだ事を自覚する。生じた感情を一旦押しこめ、彼の様子を観察する。

 でも。続いたススの一言は、独り言のように小さく置かれる。

「その気持ち。ちょっぴり、分るかもしれない」

(……)

 眉間に寄った皺を解くようにふっと笑い、ススもワッカに恨みでもあるのですか? とコゥーハは茶化した。彼女の問いに目を瞬かせ、ススは全力で否定する。呆れている素振りを見せているワッカに対して更に萎縮し、コゥーハに窘められるまで謝罪が途切れることは無かった。

 何でもないんです。何度目かになる言葉を止められ畏まるススの側で、これまた何度目か分からない溜め息をコゥーハはあらぬ方向へ吐き出す。ススも置いて行くべきかと逡巡するが、ウマ(ウォプタル)の扱いに慣れた者が軍内部に少ない現状、万一の備えのために彼を連れて行きたい思惑が重なる。輸送体殲滅部隊も、その機動力から騎兵衆(ラクシャライ)中心の部隊であることも要因となり、すぐに決着となった。

「ワッカの冗談を受け流せないそんな彼女を。隊に入れるとどうなるか、お分かりでしょう」

 姫、私はいつでも本気です、と胸を張るワッカの隣で、それは、とススは唇を開いては閉じたりを繰り返す。彼も理解しているのだろう、心中で推測し、コゥーハは頷いた。

「彼女に限りませんが。一人が感情に流され、単独行動を取れば隊は乱れる。また先述した通り、複数の隊と連携し更には聖上を御守しながらの任務となります。不測の事態が起こる確率は最大限、零に近づけなければなりません」

 故に、パララを今回の任から外した。コゥーハは肯定し――懺悔も付け加えた。

「……残念ながら。現在の不甲斐ない自分では、パララの胸の内を受け止めることはできません。彼女を知らず、近しくもない自分には、ね。故に、このような方法でしか接することができない己が、情けないものです」

 隊長、と呟くススに儚い笑顔を散らし、コゥーハは揺れる外套を手繰り寄せる。

「長話が過ぎました。()きましょう」

 離した布が靡く前方、コゥーハは顎を引いて歩き出す。その後を追うように、しっかりとした足音が廊下の木々を軋ませた。

 

 

 

 

 

 厩舎の一角、改めて水筒を用意して貰った兵士に礼を述べ、コゥーハはウマ(ウォプタル)を含めた荷物の整理の最終確認を行い始める。手伝い始めた彼にそれとなく断りを入れるが、相手は手を休める事はない。

「それにしても、木簡なんて持って行く必要なんてあるんですか?」

「万一のためですよ。緊急時の伝令などに、ね」

 分隊長ともなれば大変なんですね、と笑って荷物を詰め込む兵士に、単に神経質なだけです、とコゥーハは首を竦める仕草を見せた。疑いの目がつついてくることを理解しながらも、何食わぬ顔のまま完了の意と礼を述べる。

 己の相棒を撫で、コゥーハは短槍を背負うように携帯する。尚も不思議そうに目を丸くしている相手に微笑した。

「剣はあまり、好きませぬ故。それに」

 武器は現地調達になるだろう、という一言は伏せた。失礼すると手を上げた兵士に改めて礼を取り、コゥーハは相手を見送る。その方向、曲がり角で慌てて誰かに礼を取る様子にコゥーハは首を傾げる。

「エルルゥ様?」

 声が聞こえたのか、エルルゥはコゥーハの所へ駆けてきた。息を切らしている様子に目を丸くしつつも膝を折り、コゥーハは思わず水筒を渡す。薬箱を置いて断るように手を振ったエルルゥに手を戻し、礼を取った。

「如何なされましたか」

「そ、その……」

 周囲をしきりに見渡すエルルゥに、コゥーハも目を配る。誰一人いないことを確認し、尚も落ち着きのない様子の相手に今一度全体に目を向ける。ふっと視界にアルルゥとムックルを捉えたため、二人を捜していたのかと訊ねるも、違うという返事にますます困惑する。

 エルルゥはしばらく俯いたままだったが、やがて沈黙を破った。

「……ハクオロさんが」

「聖上で御座いますか?」

 ハクオロは今しがた出発した事をコゥーハは告げた。

 パララの一件もあり自身の準備が手間取っているため、ハクオロには謝罪を述べた上で先に出立して頂くようにコゥーハは奏上した。ワッカ達もハクオロの護衛という元で先行させ、現在編成部隊で皇城に未だ残っているのはコゥーハと、コゥーハが無理を言って雑用を任せてしまった数人だけである。自分の不手際の何者でもないのだが、だからこそハクオロの手を煩わせる事があってはならない。

 彼らには後でお礼をしなければ。心中で呟くコゥーハの正面、エルルゥの表情は晴れない。むしろ先程よりも深刻さを増した様子で俯いている。いつの間にかやって来たアルルゥも同様で、ムックルは二人を心配するような目で彼女達の側に座った。

(まさか、聖上の御身に何か)

 正門方面へ身体を向けたコゥーハの手が、くっと引かれる。柔らかで、熱い手が二人分――真剣な眼差しで顔を近づけてくるエルルゥとアルルゥに、コゥーハの膝が折れかかる。

 握る手が強くなる。比例して、伝わってくる温度も増した向かいで、教えて下さい、というエルルゥの声がコゥーハの耳へと訴える。

「ハクオロさんが、禁忌を犯してまでやろうとしている事って、一体何なんですか?!」

 コゥーハは彼女達を見つめながらも、固く口を閉ざした。だが、二人の気迫に気圧され、嘘を吐く事は出来なかった。

「……聖上が仰せにならないと、お決めになっておられるのでしたら。自分から申し上げる訳には参りません」

 それがたとえ、皇女二人の頼みでも。俯く二人に、コゥーハは唇を噛む。

 ハクオロを想う二人の事である。不安で堪らない内を、疑問としてハクオロにぶつけた……あるいは抱えたまま見送ったのだろう、とコゥーハは目を逸らす。ただ、どちらにしろコゥーハは言える立場ではない。禁裏でのやり取りからして、ハクオロが望んでいないであろうことは推測に容易く、禁忌を知る一個人的な感情からも、ハクオロの意に同意する点をコゥーハは持っている。城を一瞬で焼き払うという事は、何百の兵士を一気に殺すことの同義に近い。圧倒的な力を有する大國の侵攻を一時的に退ける策としては適切かもしれないが、ヒトによれば非道に見えよう……最悪の場合、無関係の商人や味方が巻き込まれる可能性もある。そんな酷な事を、彼女達に伝えて良いものだろうか、と。

 コゥーハの返答を予想はしていたのだろう。エルルゥは首を振り、尚も同じ目でコゥーハの腕を握る。

「それじゃあ。私達を、ハクオロさんの所へ連れて行って下さい!」

 何を言い出すのかと思えば、と心中でたじろき、コゥーハは半歩退った。私達、とエルルゥが強調した通り、アルルゥもエルルゥと同じ表情でコゥーハの腕に抱きついている。ムックルも二人を止める様子は全く無く、むしろ二人の願いを聞き届けないと襲いかかると言わんばかりの目をぎらつかせている。

 コゥーハの意見は変わらない。皇女達を戦場へ連れて行くなどあり得ない事であるし、自分がハクオロの立場でも二人には皇城でお待ち頂く形を取ったに違いない。無論――

(……)

 禁裏であったやり取りで抱いた心情が、コゥーハの胸を痒くする。もしハクオロと同じ立場であれば、エルルゥに禁忌の使い道を教えただろうか、という疑問。あの時、コゥーハは言葉にしなかったが、生じた一片は胸に深く刺し込まれて抜くことが出来ない。

 不安なんです。沈黙していたエルルゥが、口を開いた。

「ハクオロさん。さっき、すごく暗い目をしていたんです」

 自分が禁忌の結果を知らない事を述べた上で、エルルゥは俯く。

「きっと、沢山の人が傷つくんだろうって……私はそれくらいしか想像できないですけど、すごく心が痛い。なのに、知っているハクオロさんは、それでも決めたハクオロさんの心は、それ以上に傷ついていると思うんです」

 エルルゥの膝が折れた。影に埋める顔に引き寄せられ、コゥーハの足も自然と動く。擦れた足装備の上、エルルゥの手を沿った滴が落ちた。

 嗚咽に近い叫びが、エルルゥの髪飾りを強く揺らす。

「私は知っていたい。知って、ハクオロさんの苦しみも分かち合いたいんです! だって、私達は――」

 家族なのだから。

 痛いまでの握力に、コゥーハの顔が情けなく歪む。

「エルルゥ様……」

 コゥーハは、エルルゥ達とハクオロのような家族関係を築いてきた訳ではない。しかし、だが故に、エルルゥの言葉は響いた――養父は物心ついた頃から最期の時まで、コゥーハが本当に知りたかった事を隠し、貫き通した。様々な研究を通して喜びを共に分かち合うことこそあったが、彼は本当に苦しい心情を決してコゥーハに話すことはなかった。コゥーハへの愛情、という言葉で無意識に合わせていたが、アトゥイが苦しむ様子を無知ゆえに見守ることしか出来なかった自分へ、一種の負の感情が今でもしっかり根付いている。

「申し訳御座いませんが。自分は、お連れ致すこと叶いません」

 それでも、コゥーハとしての意見は変化しない。立場上、という点もあり……禁裏での折、コゥーハはハクオロに胸の内を語らなかった事もある。

 下瞼に涙をためたまま、やや怒りを含む表情の二人からコゥーハは目を逸らす。

(ですが)

 立ち上がったムックルと、彼に乗ろうとしているアルルゥ、真下の薬箱に手を伸ばしたエルルゥを順に追い、コゥーハは息を吐く。

「御二人の事です。自分めがお止めしても、ムックル殿を伴い、聖上を追いかけるおつもりでは?」

「そ、それは」

「……。やはり、ですか。さて、自分はどうするべきでしょうか、ね」

 どれも本心なのだろう。という確信があるが、仮にこれら全てが意図したものだとすれば、結構な策士達だとコゥーハは心中で寂しく自嘲する。他の者の所ではなくて、自分に訴えかけて来られた事が。

 自分はどうするべきか。否――答えは既に出ているのかもしれない、と笑う。ただ、一つの疑問を残して。

 ムックルの殺気に怯えをみせたウマ(ウォプタル)を宥め、コゥーハはムックルへと左手を伸ばす。アルルゥの制止も聞かず噛みついた彼に一瞬顔を歪めるも、滴る血の真上で白黒の頭へ右手を乗せた。

(……そう)

 精悍な彼の青い瞳をしばし見つめ、コゥーハは微笑してムックルを撫でた。解放された左手をだらりとさせたまま、エルルゥに向き直った。

「訂正致します」

 え? と目を丸くしたエルルゥとアルルゥに、コゥーハは真剣な面持ちで二人に礼を取る。

「お連れ致しましょう。自分めの一存で」

 自分達の知らない所で、戦場を彷徨われる訳には参りませんから。エルルゥの薬箱を閉じさせ、コゥーハは左の手甲を外す。自身の薬箱を開き、手際良く応急処置を行いながら、エルルゥが心配してきた問いに答える。

「個人的には、御二人が御勝手に皇城をお出になった事にして頂けると、嬉しい限りですが。それではエルルゥ様達が、ハクオロ様に叱られてしまいますでしょう」

「それは」

 それに、とコゥーハは婉曲的に窘めた。

「皇城内を警護している面々に責任を取らせるのは、エルルゥ様達の本意では御座いませんでしょう」

「……」

 少々言い方がずるかったか、と思いつつも、コゥーハは訂正しない。ハクオロもエルルゥ達も、御自身の立場を大切にして頂きたいという気持ちは仕え始めてから今日まで変わらない。

 今回は何日牢に繋がれるだろうか、とズレた事を考えながらも、コゥーハは最終確認を行う。

「お止めになるなら、今です」

 三人の意思は固かった。コゥーハは眉を下げ、包帯をきゅっと締める。さすがに装備を取りに行く暇はないかと、罅のある手甲を付け直した後、改めてエルルゥ達に向き直る。

「自分が出来るのは、ハクオロ様の所へ御二人をお連れするまでです。その点だけは、どうかご容赦下さい」

 構わない。改めて二人の意を確認した後、コゥーハは襟を正した。定期的に飲んでいる薬を流し込み、ウマ(ウォプタル)を厩から出し、白い空を仰ぐ。

 少々急ぎます。頷きが聞こえた事を確認した後、コゥーハは鐙に足を掛けた。


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