うたわれるもの 琥珀の軌跡   作:ななみ

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遡及

 コゥーハが騎兵衆(ラクシャライ)に復帰してから、五日が経った。何事も無く――エルルゥとウルトリィが仲良く皇都を散策したり、アルルゥとカミュ、ユズハ達が楽しく遊んだり、政務に飽きたハクオロがベナウィを始めとする臣下達から逃げ彷徨ったり、その皺寄せでコゥーハが徹夜を強いられたり……ひと時の麗らかな日差しのような、至って平和な日々が、あっという間に過ぎ去った。

 陽が真上に来る頃合い。使節団を見送りに行くハクオロに敬礼した後、コゥーハは別方向へ歩き出す。私服に着替え、軍服と額当てを鞄へ押し込み、正門とは違う裏門へと足を運ぶ。相棒ともいえる自身のウマ(ウォプタル)を用意して貰った調教師に礼を述べ、手綱を受け取った。相手を見送り、待たせていた別の男性に軽く会釈した。

「ちょっとちょっとお。待たせすぎじゃあないですかねぇ~」

 まさか。少しばかり品のある私服が似合っていない男は、口を更に尖らせる。

「この前の事、恨んでいないですよね?」

「まさか。自分めの初日に中層への取次ぎが面倒だからと自分を言葉巧みに騙した上、報告しなかったのは自分が許したという嘘の報告書を書いて全て責任を自分へ押し付けたことなんて。これっぽっちも恨んでおりませんとも、イワン殿」

「思いっきり恨んでんだろ、それ!」

 おりませんとも。否定するコゥーハの顔から、微笑みがすっと消える。

「それよりも。ヒトの私物を盗み見るその腕、さすがは歩兵衆(クリリャライ)十三番隊の隊長に任命されるだけのことと感心しております」

 そっちかい。布にも見える灰色の耳を掻きながら、男は――イワンは得意げな笑みを逸らす。

「何時か知りたいかい?」

「ええ。是非とも」

「茶屋じゃあないからな。ったくあの商人、何者なんだ、恐ろしく寒い視線をしていたぜ?」

 こっちが知りたい。苦い顔で俯くコゥーハをしげしげと観察し、おいおい調べてやるとイワンは息巻いた。

「アレを書き終えたあの時。丁度いい具合にベナウィ侍大将に呼ばれただろう?」

 身体を硬直させたコゥーハに、イワンはそれ以上の言葉を重ねる事は無かった。冷たい沈黙が周囲へと降りる。痛みさえ覚える空気はウマ(ウォプタル)にも伝染し、戦慄く相手の手綱をコゥーハは強く引いた。

(……まさか)

 昨日顔を突き合わせた相手の顔がちらつく――正門へと振り返るコゥーハに、イワンは緩い笑みでウマ(ウォプタル)を宥める。

「推測は結構だが、俺が言えるのはここまで。ただ、あんたよりは偉い人に命令されて動く種類の者だよ」

 少し口が滑ったか。優しくウマ(ウォプタル)の首を撫でる相手をよそに、俯くコゥーハの瞳は苛烈に揺らぐ。ウマ(ウォプタル)を擦る手こそ柔らかく繊細さがあるが、手首から内側は棒のように固い。墨色の虹彩同様、震える芯は全てを隠すことができずに表出する。その様をしげしげと見据えていたイワンだったが、やがて飽きたように両肩を大きく上下させた。 

「まあ。個人的には。騎兵衆(そっち)の八番隊の方が、得体が知れなくて怖いこわい。主に敵対勢力への潜入工作活動でしょ? 姿を見せないし、何時、同種に足元を掬われるかと思うと、もうね」

「ああ。あそこの隊長は……」

 コゥーハは溜め息を吐き、お酒が好きで強いですよ、と適当に流した。男なら誰でも酒は好きだろ、と怪訝な表情をする相手に、貴方のような下戸もおりますから、と返した。

「で。今回、隊長自ら、自分めに御協力して頂くということは。よほど特別扱いして頂いていると判断して宜しいのですね」

「さて。そういうことでも、俺は一向に構わないぜ。とりあえず」

 出発しないか、と笑って蔵に乗ろうとするイワンを、コゥーハは制止しようとする。が、相手の俊敏な動きに対応が遅れ、大きく舌打ちをする。

「……。イワン殿のウマ(ウォプタル)は」

歩兵衆(クリリャライ)には、すぐに貸出せないってよ。どこかの誰かさんが、ウマ(ウォプタル)の調教師がいないから、頭数増やすのは後で良いとか聖上に奏上したからな。数が無いんだってよ。どっかで調達する金は渡されたが、それまでは相乗りで行って来いと」

「恨んでおられます?」

 真剣な面持ちで、イワンは差し出された手を取る。

「まさか。俺はそんなに小さくねえよ」

 後方にコゥーハが乗ったかさえも確認を取らず、イワンはウマ(ウォプタル)を走らせ始める。これといって嫌がらない相棒へ聞こえるような大きさでコゥーハは溜め息を吐き、不貞腐れた顔を片手で覆った。

 

 

 

 

 

 大きな街道を南へ一刻ほど走らせ、南と東へ分岐する場所にある大きな茶屋で二人はひとまず休息を取ることにした。飛脚や早荷が多く行き交う立地故にウマ(ウォプタル)を預ける厩舎がある数少ない場所である事や、これから向かう目的地への道は未だ整備が十分行き届いていないため休める場所がほとんど存在しない事――何より、これから数日間の予定と任務の確認を行うため、腰を据える機会が欲しかったためである。

 適当に聞き込みをしていたイワンが、コゥーハの座る座敷の向かい側に腰をつける。店員に茶と焼きモロロを注文し、すでに昼食を摂っている彼女の食事に目を向ける。

「げ。焼きモロロにどんだけハチミツ掛けるんだよ……」

「ハチミツは万能食品ですから」

 にしても限度がある。呻くイワンだが、コゥーハがハチミツ談義を始めようとするや否やすぐに本題を切り出した。

「件の隣國を通って来た商人達に話を聞いたが、目ぼしい情報は無かった」

 ただ。やってきた食事を受け取り金を払った後、イワンは眉を寄せる。

「トゥスクルが兵の一部を動かしたことは、結構話題になっていたぜ」

 や~、仕事熱心なことで。欠伸をする相手とは違い、コゥーハの意識はさめている。

 最終的に、ハクオロは南西に展開していた兵の一部を南部へ動かす判断を取った。理由は幾つかあるが――南西にいた賊の一派を先日壊滅させた事、最も危惧していた南西の大國シケリペチムが他國に侵攻を始めたために、しばらくこちらへ侵攻しないのではと予想したため、そして……彼の國で情報を集めるべく諜報活動を行っていた兵からの定時連絡が途絶えた点。

 まだ若かったんだがなあ。呑気に聞こえるが、抑揚の無い声でイワンは肩を竦める。

「んで? コゥーハ殿は、本当に戦になると思いますかねえ?」

「件の國との間では。ないと思います」

「即答ときたか……」

 思わず吐いてしまった口を、コゥーハは抑える。聞き込みの結果を木簡へ認める手を一旦止め、何故かと問われた答えを数々の情報を結びつけながら理由を述べる。

 今回派兵した藩に接する件の隣國はトゥスクル國建國前後で前の(オゥルォ)が病で急逝し、皇太子であった現在の(オゥルォ)が即位した経緯がある。現皇は前皇よりも温厚で戦を好まない事は知られていること、即位後に隣國……今回停戦を結ぼうとしていると思われる國に複数回攻め込まれ激しい戦に発展した点もあり――それがトゥスクル樹立の折に彼の國が攻めて来なかった、また同時にトゥスクルの國力回復に一役買った理由ではないだろうか、とコゥーハは笑う。

「複数の報告を総合すると。仮に二國を合わせても兵力はそう多くないであろうとも、推測を加えておきます」

 しかし一つだけ解せない点……定時報告が途絶えた点を突かれ、コゥーハは言葉を詰まらせた。

「体の悪い賊に襲われたのでしょうか」

「本気で言ってんなら軽蔑するぜ」

 いえ。コゥーハは深く謝罪し、首を捻る。だが答えは出てくることはなく――ふっと、西の空に"黒い光"が漂っていた事を思い出し、激しく首を振った。

 トゥスクル國建國からずっと晴れない、西の空にかかる"黒い霧"。戦絶えない時勢である、"見える"情景などそう変化する物ではないが……寒気にも似た空気がピリリと肌を刺し、コゥーハの喉元を締める。過去の統計から大きな戦の前兆ではなかろうかと危惧しているが、調査の結果を並べる程に予想とは遠ざかっていく。ハクオロやベナウィに相談してみる事も考えたものの……先日の、コゥーハが騎兵衆(ラクシャライ)へ復帰した際に交わしたハクオロとのやり取りが、無感情にも見えた(オゥルォ)の瞳が、コゥーハを閉口させる。

 沈黙するコゥーハに、ばつが悪そうな顔を手で覆いつつ、イワンは彼なりの予想を述べた。

「この一件は他國が関わっているんじゃねえかなってな」

「理由は? 具体的にどの國でしょうか。彼の國でしょうか? それとも――」

 う゛っ、と呻き、イワンは背を丸めた。決め手となりうる理由は特に無いのだろう、とコゥーハは心中で笑い、強引に議題を終わらせた相手の調子に合わせる。

「今回話した内容も含めた物を、彼に渡せば宜しいのでしょうか」

 肯定した相手の隣にやって来た男に、コゥーハは纏め終えた書簡を渡す。二人に軽く会釈し、踵を返した彼にイワンは低い声で呟く。

「……急ぐな。慎重に行け」

 視線だけで肯定の意を示した相手の肩を、イワンは微笑みながら送り出す。今日一番の穏やかな顔にコゥーハは目を丸くし、気の抜けた顔でようやく食事に手をつけ始めた相手に吹き出す。

「新兵の教育、大変そうですね」

「アンタのところが一番厄介だろう。三人揃って問題だらけの……そういや、あのネーチャンちゃんと受かったのか?」

 それはもう。コゥーハは笑って肩を大袈裟に上下させる。

 厳しい訓練に食らいていたパララの精神に感服するのもあるが、クロウの指導が非常に上手かった、とコゥーハは目を細める。相手の力量を素早く見極め――だが、ベナウィとは違い突き放し過ぎず、彼女のやる気を削がないようにしっかりと手を回す。時には理解させるまで凹ませ、時には褒め過ぎではという程に持ち上げる……その均衡が絶妙であり、自分には到底真似出来そうにない、と苦笑する。試験結果は筆記実技共にベナウィ曰く及第点、ギリギリではあるが合格し、パララは異動されることなく正式に騎兵衆(ラクシャライ)として配属される事となった。

「訓練初日、ウマ(ウォプタル)と殺り合った。と聞かされた時は流石に頭を抱えましたが。何とか無事に」

 御苦労だった事で。食べ終えた皿を隅に移動させ、イワンは他二名についても尋ねてきた。

 ススは相変わらず、とコゥーハは深い溜め息を吐く。

「ワッカも相変わらずですよ。ただ、四日で報告書を書けるようになる程に器用だったことは想定外でしたが」

 十日で物になれば良いとコゥーハは思っていたが、ワッカは希望した半分以下の時間でやってみせた。報告書自体は要点さえ掴めば誰にでも簡単に書けるものではあるとコゥーハは思っているが、その要点を物にするまでが難しいと腕を組む。ましてや、ベナウィが認める文官が求めるもの……極めて高い水準を求められるともなれば、幾ら器用といえど短期間では困難である。

 部下の頑張りに驚いているコゥーハに、イワンは嘲笑に近い笑いで手を振った。

「女性の前ではいい格好したいんだろうよ。俺だって、エルルゥ様の前だと見栄を張りたくなる」

「そんなものでしょうか? 自分の場合は、背伸びをしている相手を見るとぶん投げたくなり、化けの皮を剥がしたくなるのですが」

「……。アンタ、絶対、友人いねえだろ」

「おや。よく御存じで」

 努力は認めてやれよ、と真剣に迫られ、勿論だとコゥーハは頷く。ただ、それを直接本人に言う事は、彼の性格上激しく躊躇われると俯く。調子に乗せると止められそうにない、それに――心中に留めておく言葉は、同僚の呆れた声となって突き刺さる。

「間者の疑いある三人とは、仲良くはやれないってか?」

「…………」

 あんたはそこまで不器用には見えないが。静かに肯定したコゥーハにイワンは意地悪く笑う。

「そんな事を言い出したら。アンタは勿論として、俺も、全員。果ては記憶喪失の聖上まで疑う事になり兼ねない。トゥスクルは流れ者が多いんだからよ」

 ここ数十年から今日まで。広大な大陸の中で、最も勢力図の変化が激しいのは中央――トゥスクルから西、丁度シケリペチム周辺にあたる場所である。先の大戦で激戦地となった場所が数多く存在し、オンカミヤムカイの介入はあれども依然として戦が絶えない。先の大戦後の一時期は、勢力を拡大していた大國ラルマニオヌ……戦闘に恵まれた身体能力を持つギリヤギナ族が治めていた國によってほんの一時期の平和が存在したものの、シャクコポル族の叛乱により分裂、滅亡した事で、再び混沌の地となる。その後、ラルマニオヌの西方の一部はシャクコポル族の治める國、クンネカムンとなり、三大大國の一つとして現在に至る――数十年に渡る戦の中で敗北した兵士や豪族は四方へ散り、比較的平和な東方へも多く流入している。ある者は安息の地を求めて、またある者は平和にかまけた小國の(オゥルォ)の玉座を奪い取り己の國を復興させるために。

「此処は(オゥルォ)同様、流れ者に対しては寛容とか思われているが。皇都周辺は商売っ気多い奴らが多いからか、顔に出さないだけで、案外神経質な一面もある。そりゃあ戦を毎日やっているような西方よりは人が良いが……ましてや前の國の(オゥルォ)が政にとんと無関心だった上に贔屓が過ぎただろ? (オゥルォ)に気に入られようと賄賂やら謀略やら、利用し利用され、足の引っ張り合い。そんなもんは日常茶飯事で、そこに漬け込み他國が干渉してきたことすらだってある」

 相手よりも有利な状況に立つための諜報活動、相手を陥れるための工作活動、相手に足元を掬われないようにするために間者を炙り出す技術。朝廷と、文官と、商人と、時には集落……互いに質を高め合っていった果てが、皮肉にも現政権の平和へと利用されている。

「そんな戦を繰り返してきたベナウィ侍大将にしてみれば、()()()んは挨拶みたいなもんでしょうよ。で、今回の聖上は分かった上でやってやらせている。おお、怖いねぇ」

 ただ。コゥーハの部下三人に対する疑いは少々度が過ぎる判断だ、とイワンは机に手をつき立ち上がる。

「俺に言わせりゃ。囲われているアンタ以外はみんな白だよ。せいぜい、あのいけ好かない侍大将や聖上が手の平で転がせて遊ぶ位の小物。……いやあ、そう思うと、色々怖くなってきたぁ」

 とはいえ。仕事を増やさないで欲しいものだ。騎兵衆(ラクシャライ)八番隊への文句をつらつら垂れながら歩くイワンの後ろで、コゥーハは苦笑する。

「意外にお喋りな方で驚きました」

「はぁ? んなの挨拶にもならねえだろ。全く、食えたもんじゃねぇ」

 自信に満ち溢れた鋭い目が、コゥーハの眉を動かす。

「今回は目を瞑ってやるけどよ。その分厚い化粧をいまにがっつり落としてやるよ」

 期待しています。化粧の香を漂わせ、コゥーハは微笑みながらウマ(ウォプタル)の手綱を取った。

 

 

 

 

 

 二人が皇都を出発して五日が過ぎた。途中でウマ(ウォプタル)を何度か借りつつトゥスクル各所を巡り、命じられた複数の任をこなしては報告書を送っていく。街道の整備状況、藩や集落の復興具合、現政権に対する民達の思い――その中で、主とする二つの命の一つ、トゥスクル東部にある一集落で、一つの任務が決着しかけていた。

「だーかーら! もう良いってんだろうがっ!」

 集落の西、土嚢の目立つ川が見える村長(むらおさ)の部屋へ入った刹那、コゥーハの耳にイワンの叫び声が飛び込んできた。別の用事で他の集落を回っていたこともあり、コゥーハは彼から現状を聞き出す。

「例の仮面の男は、聖上を騙って金品巻き上げていただけの可愛い賊。はいおわり」

 集落の者達と思われる数人に囲まれたその中心、ハクオロの仮面に似た、しかし良く見てみると全く似ていない仮面が置かれた隣で土下座している男を見下げ、イワンは軍服の襟を正した。

 ハクオロと同じ仮面を付けた者が目撃された。その情報の真偽を確かめるべく、コゥーハ達は目撃された周辺の聞き込み調査を行っていた。仮に事実なら、ハクオロの記憶に関する情報が得られるかもしれない――だがイワンが調査を行ってみると、街道を襲うただの賊であった。適当に待ち伏せてひっ捕らえ、彼の素性を暴いた後にこの集落へと連れて来た。

 窃盗、恐喝、傷害。そして不敬罪。殺人は周囲の集落の話から行っていないと推測した、とイワンは小さく呟く。

「ああ。単独犯で、仮面は皇都へ行ったとき偶々ぶらついてい……もといお忍び視察していた聖上を見て作ったらしいから。件に関する事は見つかんないだろうよ」

「彼が隠しているという推測は」

 嘘を吐ける顔してねえだろ、と嘲笑するイワンを横に、コゥーハは彼らのやり取りを見守る。

 動機は、たった一人の肉親である病弱な弟の治療費を稼ぐため。薬は――ユズハほどではないが、一集落の男が定期的に買うには高く、薬が無い時期もしばしばある。その度に弟が数日間苦しむ姿を見ていられなかったと、男は懺悔した。また、集落の者達は男のために皆で金銭を工面しあっていたのだが、半期前にあった大雨で水害に遭った影響で復興のために資金を回しているため、彼や彼の弟を慮ってやれなかったのだと、村長は話す。

「だからってよう」

 極刑はねえよ、肩を落すイワンにコゥーハも同意する。

 男はハクオロ(オゥ)に深く謝罪をした後、極刑を求めていた。村長も似たような意思を口にし、集落としても同様の処罰を与えて欲しい、代わりに男の弟には寛大な処置をして欲しいと彼らは懇願する――先の戦において、早くからハクオロ達と共に戦ってきた集落の一つということもあり、このような事件が発生してしまった事を深く恥じているのだろうが、とコゥーハは俯く。ハクオロが彼らの言う処断を行うとは到底思えないが、彼らの差し迫る表情から、たとえハクオロが赦しても自害し兼ねないのでは、と困惑する。

 同じ事を思ったのだろう、コゥーハと似た表情で固まっていたイワンだったが、やがて発狂しながら己の髪を掻きむしり、ずれた額当てを外した。

「ったくよぉ。第一、俺が決める事じゃねえから言われても困るっての。とりあえず、望み通りハクオロ(オゥ)の前で連れて行ってやるから、言いたい事は全部その時言ってくれ」

 呼びつけたのだろう、やってきた兵士にイワンは一つの書簡を渡す。相手が目を通し始めたのを確認しつつ額当てを懐にしまい、顔を上げない男の前で言葉を零した。

「……俺。末っ子でさ。六人兄妹の六番目。んで、昔は一番上の姉ちゃんですら満足に食えない貧しさで。集落も戦で大半が焼けちまって、両親死んで、大きい兄ちゃんでも仕事もすぐには就けかった時期があったんよ。なのに姉ちゃん兄ちゃん、俺のために少ない食べ物くれんの。自分のお腹擦って「ほら、お腹が大きいでしょう? さっき食べたから」って笑いやがるの。なんも食べてないの、分るのにな。だから、アンタの優しさ、俺にはちょっと分かる。弟としてな」

 連れて行かれる前に、可愛い弟に謝って来いよ。膝を折り、相手の肩にそっと手を乗せる。

「俺が弟なら。兄貴のいない裕福な生活よりも、兄ちゃんの温もりのある貧しくて周りから蔑まれる生活の方が嬉しいってもんだ」

 男の身体が震えた直後。兄を呼ぶ彼の弟の声が入口付近から聞こえる。はっと顔を上げた男に駆け寄り、咳込みながらも兄の腕に泣きついた。強く抱きしめ、嗚咽を発しながらひたすら謝罪を繰り返す兄に、兄ちゃんは悪くないと必死にしがみつく弟――二人の様子から目を離し、コゥーハは口元を隠す。ふっと、兄弟から距離を置き同じ行動を取っていたイワンと目が合い、相手は不快そうに眉を上げた。

「あん? んなの作り話に決まってんだろ。言わせんな恥ずかしい」

「――……」

「ま。六人兄妹の末っ子ってのは違いねぇし、貧しかった事は確かにあったからな。だが」

 この時勢、そんな話は石ころと一緒だろう。男の背中を最後まで見送った憂いのある彼の横顔に、コゥーハはそれ以上尋ねることはなかった。

 あぁ~……。とイワンは疲れたように天井を仰ぐ。

「期待はしていなかったが。こうも見事に振られ続けると、やってられねぇ」

 ハクオロの記憶に結びつくかもしれない手掛かりは、過去の調査同様に潰れた。コゥーハやベナウィも――あくまでも個人的に探っているが、完全に行き詰っている現状である。それよりも多くの情報を精査し調査し潰してきた歩兵衆(クリリャライ)十三番隊および騎兵衆(ラクシャライ)八番隊の疲労は想像に容易い。前者は主に國内を、後者は主に外部の情報を軸に、他の任務と並行して行っているが、コゥーハの耳に届く物は糸口さえない。

 新たな試みを考えねば。心中で考え始めるコゥーハだったが、泣きじゃくる子供を宥めていたイワンの問いに思考を転換させた。

「そういやアンタ薬師(くすし)だろ? 今日の分くらいの薬作れねえか?」

「病名は? もしくは病状を詳細に」

 数人の話から病気と薬を特定し、コゥーハは手持ちの簡素な薬箱を開いた。足りない材料や道具は持っていないかと訊ねつつ、薬の調達方法をそれとなく聞き出す。湯を沸かして貰っている間に筆記具を取り出し、問題点を改善するべく二つの書簡に認め始めた。

 先日の洪水で……亡くなった薬師(くすし)に黙祷を捧げ、コゥーハは書簡を丸めた。

「自分の方からも、薬師(くすし)の派遣を改めて促してみましょう。一武官ゆえ、あまり期待されても困りますが、事情を伝えれば派遣を早めてくれる可能性も御座いますでしょう。それから」

 新しくお越しになる薬師(くすし)や、帰ってきたら彼に渡して下さい、とコゥーハは薬の処方箋を渡す。

「遠くへ買いに行くよりも、集落内または隣集落でその都度薬師(くすし)に作って頂いた方が安くなります。上記二つの葉は些か高価では御座いますが、トゥスクル北部のものは時期を問わず比較的安定しており、安く仕入れる事が可能です。しかし似非商人やぼったくり商人も最近見かけますので、藩を通し紹介して貰う方が無難かと思います。此方からも追加でお伝え致しましょう」

 実際に処方を知りたいという者がいたので、コゥーハは説明を挟みながら薬を完成させた。ひどく驚く周囲に若干の照れを覚えつつ、注意点を復唱して伝えた。苦いからと飲むのを躊躇う相手を軽く窘め、きちんと飲んだ彼に微笑んだ。

 その様子を真剣な面持ちでイワンは見守っていたが、コゥーハにからかわれ不満そうに眉を顰めた。

「処刑される前に弟が死んだら、寝覚めが悪いだろが」

「そういうことにしておきます」

 殺すぞ、とイワンに睨まれるが、コゥーハは笑って流した。少なからずの礼だと差し出された重い袋を返し、ゆっくりと首を振る。

「いえ。御代は結構です。慈善事業をしているオンカミヤリューが通りかかったとでも」

 ちゃっかり謝礼を貰おうとしていたイワンから袋を奪い、コゥーハは再度彼らへと突き返す。文句を並べる同僚は無視し、納得いかないと食い下がる急落の者達に息をついた。

「では。代わりに。お聞きしたい事がございます」

 何でも言ってくだされ。そう言った村長に、コゥーハは耳を上げる。

「以前。この集落に、両耳の無い男がやって来ませんでしたか?」

 温かい談笑が一気に変化したことを、コゥーハは肌で感じる。冷ややかなざわめきには焦り、次々に吐かれる吐息には動揺、村長に向く彼らの視線には大きな困惑と不安が見て取れた。少年を心配して追って来たのだろう、入口で待っている年端もいかぬ少年少女達にもそれは伝染している。

 他者を排斥しようとする空気に似た感覚。訊ね方が悪かった、そんな事を思いながら俯くコゥーハを見据え、鋭さがある声で村長は口を答えた。

「その男が何かしでかしたのですかな?」

「……」

 いえ、とコゥーハはゆっくり首を横に振り、努めて柔らかな表情で微笑む。

「実は、自分めは彼の――若く未熟な自分では御座いますが、ワッカの上官で御座いまして。お恥ずかしいことに先日、彼を叱った際に少々彼の心を傷つけてしまったようでして。考え付く非は詫びたのですが、修復には至っておらず……少しでも彼について知りたく思い、できればお伺いしたと思っている次第です」

 若い? どこが? 側でイワンの呆れた声が聞こえるが、ざわめいた子供達の声に溶け込んだ。

「あのヘボ兄生きてるのか?! 嘘だぁ! 俺より力ねえあのヘボ兄が兵士になれるもんか!」

「畑仕事もロクにしないで俺達に押し付けて、自分はやっていたって母ちゃん達に嘘並べてたクソ兄の事だ。手紙にも嘘書いて、この兄ちゃん達にも色々誤魔化してるんだぜきっと!」

「兄ちゃん、騙されちゃ駄目だ! 俺達が目を覚まさせてやるから!」

 少年達に駆け寄られ、ワッカについて様々な事を口々にする彼らにコゥーハは困惑する。隣で反論している少女達からの情報は正反対なのだが……そちらをイワンに任せ、茶色の耳を傾ける。

(まあ。概ね、兵士達から聞くものと変わらないですね。しかし)

 必死になって話す彼らを微笑ましく思いながら、コゥーハは書簡の山を持ってきた村長へと目を向ける。席を改めて設けて貰ったことに感謝し、促された席へと腰を下ろす。

 ワッカから、定期的に金銭と共に来る手紙だと村長は木簡の一つ――つい最近送られてきた物をコゥーハへ差し出した。

「前は代筆して貰っていたらしいが……最近は、自分で書くようになったらしくての」

 師が良いのだろう、恐ろしいまでの流麗な文字と中身を眺めながらコゥーハは手紙に目を通し始める。

 集落の復興具合はどうか、資金が必要ならば工面してみる故言ってほしい、村長の腰の具合はどうか、皆は……病弱の少年は、子供達は――ひたすらに綴られている主は心配事であり、自分の様子は何一つ書かれていない。それ以外はひたすらに――多少、異性への感謝が仰々しい部分があるものの……奴隷(ケナム)だった自分を長い間置いてくれたこと、先の戦の折にかくまってくれた事、等々、集落の皆への感謝が綴られている。

 大きな地震があった一期前くらいですかな。茶を受け取る客人達の向かい側に村長は座り、おもむろに話を始める。

 先日より小規模な洪水が発生する程の荒れた日があった。その翌日、ここから北で難破した船に乗っていた者数人が、集落の入口で倒れていた。集落総出で必死に行った看病も虚しく、一人を除いて全員死亡……その生き残った一人がワッカである。

 シロトゥクの方へと向かえば、あるいは。と村長は言いかけるが、首を振って言葉を一旦閉ざした。

「ともあれ。良くなったあやつは、律儀にも、礼がしたいと言って聞かんで。が、力仕事はてんで役に立たんし疲れれば怠けおるし、家事の手伝いをさせてみると、ばあさんや集落の娘達を口説いているだけで……まあ、子供達の面倒は良く見てくれおったから、それで良しとするか」

 周囲に笑いが起こり、コゥーハも微笑し手紙へ再度目を落とす。最後に記されている一文に口を開きかけるが、くっと強く結び直す。

(……)

 もし、自分の上官を名乗る胸の無い絶世の美女がやってきたら。自分の過去について知りたいだろうから話して欲しい――ワッカの好みそうだが、どこが美人なのか、と呆れる声を諌め、村長は答える。

「ワシは、あやつの……ワッカの過去なんてほとんど知らんし、興味もない。残念ながら、お前さんの助けにはなれないかもしれん」

 幼い頃に耳と尻尾を切り落とされ、各地を転々とさせられる。途中で船が難破し、運良く助かったものの、激しい雨で方向が分からないままひたすら歩き続けていたら、この集落の入口で倒れていた……残念なことに、コゥーハ達にしてみれば既に入手している情報がほとんであった。知らぬものは二つ、彼が奴隷(ケナム)であった事、そしてもう一つ。

「本当の名前が無い、ですか」

 現在名乗っている名は、自分の最後の所有者がつけた名前である。妙に引っ掛かると眉を上げるコゥーハに、イワンは小さくため息を吐く。

奴隷(ケナム)ってんなら、別段珍しくもねえだろ。生まれてすぐに売り飛ばされれば名前なんて番号がザラだし、持ち主が変われば振り直すなんてのはある。仮に事実なら、これ以上は、正直無駄だな」

 ま。とイワンは型良い眉を上げ、くっと顎を引いた。

「人身売買なんてのは。この辺でやっている國なんぞ、数える位しかねぇし。まだ突っ込みたいってんなら、そっから探り入れるのも悪くはなさそうだ」

 奴の仕事を増やしてやる、と息巻くイワンから目を逸らし、コゥーハは礼を述べる。いえ、と手を振り、そろそろお暇すると立ち上がる。子供達に袖を引っ張られ、口々に文句を言われて困惑する――だが、冴えない笑みは、突如大声で入って来た一人の男……トゥスクルの兵士によって吹き飛んだ。

「伝令、伝令!」

 騒々しい、とイワンはすぐさま立ち上がった。男の口へと指を当てつつ、有無を言わせず入口へと押しやる。赤色が帯び始める日差しを背に、子供達にも聞こえぬ影まで誘導し、側にいるコゥーハを横目に短く問う。

「どっちにだ」

「御二人に」

「コゥーハ隊長だけにしておけ」

 コゥーハに、と大きく口にし、兵士はコゥーハへ一つの書簡を渡した。後方からやって来る子供達や村長を意識しつつ、彼らから見えないように書簡を開く。目を通した刹那、思わず力が入り書簡が折れるが、コゥーハの視線は釘付けになったまま動かない。

「――……」

「特に。コゥーハ隊長におかれましては、至急戻るようにとの、聖上の御命令に御座います」

 シケリペチムがトゥスクルへ侵攻。対策を練るため、皇城へ帰還するように。端的に書かれた木簡から、コゥーハの血が滴り落ちる。赤い水滴は靴上に撥ね、一滴、一滴が歪な形で留まる。ほんのり表面を覆う化粧の内側、白くなりゆく肌色にあるのは少しの驚きと焦り。そして、何故という疑問が彼女の心を束縛する。あらゆる情報と思考が駆け巡る。兆候は無かったか、見落としたところは無かったか、推測が甘かったのではなかったのか。衝突しては同じ言葉を残して消え去っていく。そこに自責は無く、ただただ、純粋な何故だけが存在する。思考を回す毎に感情が消失していく感覚に捕らわれるが、それすらもどうでも良いとまで一蹴しそうになる――

 顔色が悪い、と子供達に指摘され、コゥーハはようやく躰を動かす。書簡を懐にしまいながらも、無理に笑顔を作る。尚も怪訝そうに耳を揺らす相手に表情が更にぎこちない物へと変化するが、イワンの機転によって助けられた。

「あぁ。こっちのネーチャンの父親が危篤らしい」

 真面目な顔でさらっと嘘を吐くイワンに一種の寒気を覚えるものの、コゥーハは心中で謝辞を述べる。微笑するコゥーハをイワンは一瞥するが、彼女に何も言う事無く目を離し、兵士の耳元で囁く。

「付けられてねえだろうなぁ」

「抜かりなく。……おそらく」

「ったく弱気は顔に出すんじゃねえよ」

 容赦無く相手の頬を抓りつつも、イワンの瞳は曇っている。今後の対応などを考えているのか、あるいは……それすらも推し量れない無感情な横顔にコゥーハは身体を固くするが、対照的に笑みがこぼれた。微笑った相手をイワンは不快そうに睨み、彼女の懐から書簡を引っ張り出す。

「後の事はやっておく。内容からして、俺はそれほどお呼びじゃねえみてえだし。……その代わり。こっちの()()は任せてくれよ」

「一任致します。聖上にもお伝え致しておきましょう」

「当たり前だが、帰りはあいつらに従ってくれよ」

 遅れる旨と謝罪を重ねて伝えて欲しい、差し出された片手をコゥーハは軽く叩いて答えた。

「構いませんよ」

 周囲に礼をして回り、心配な顔を覗かせる子供達をからかう事で視点を転換させた。村長の屋敷を出て、足早に厩舎へと向かう。逆光が目を灼く中、手を翳した左手の中指、一際眩しい指輪に惹かれコゥーハは思わず手を伸ばした。

「…………」

 コゥーハ隊長? 相手に名を呼ばれ、コゥーハは己の足が止まっていた事に気づく。指輪を外そうとしていた手を離し、くっと軍服を正す。何でもない事を伝えながら、沈みゆく夕日へと歩き始める。眉を上げる彼女の背中では、強風に煽られた若草色の外套が音を立てつつ靡くも外れることは無かった。


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