うたわれるもの 琥珀の軌跡   作:ななみ

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照査

 予想通りの突きに、コゥーハは一種の落胆を抱いた。決して遅くはない相手の攻撃、受け止めようかとも刹那に考えるが――結局は側面へと回り込み、足を引っ掛け上体をくいっと押し倒した。後頭部から派手に落ちていった相手を見下げ、まだ意識があるのを確認した後相手の首を掴み壁へと叩き付ける。

 その場に居た他二名の内一名が悲鳴を上げたが、この位で彼女が死ぬわけない、とコゥーハは笑う。

「しかし。仮にも上官へいきなり掴みかかろうとは」

「ぐっ――」

 元気なのは結構なのですが。とコゥーハは握っていた手を離す。何て怪力だと毒づきつつ、相手――若草色の軍服を着た彼女はコゥーハを睨む。

「あっしは、アンタを上官だと認めねえ」

 認める認めないを抜きにしても、その殺気立った無駄な動きは頂けない、と指摘しつつ、コゥーハは相手を見つめる。

 ゆっくりと立ち上がった彼女の背丈は、コゥーハやベナウィよりも高い。クロウ程の身丈は無いが、かっちりとした体躯は着込んだ服の上からも判断できる。茶混じりの黒い長髪を左側頭部で団子状に纏め、茜色の花と蜻蛉の装飾が美しい簪を二つ挿して佇む様は、皇城内にいる女官達に引けを取らない容姿と美貌ではある。が、性格に似た尖った耳と、大きな黒い瞳に似合わない釣り目と常に固く結ばれている唇、何よりも負けん気の強さが彼女の女性らしさを相殺しているようだ、とコゥーハはこめかみを掻く。

 ヒトの事を言えたことはないのだが、と心中で苦笑するコゥーハに彼女は眉を顰め、相手の口元を指差した。

「部下をほったからして、菓子食っていた手前を認めねえ!」

「う゛っ」

 口元に付いていた物を舐めながら、コゥーハは僅かに滲んだ汗を拭う。皆の分は御座いますから、と宥めるも、怒りが静まる気配が全く見られない。

 コゥーハは腰に手を当て、気を取り直すようにくっと眉を寄せた。

「パララが認める認めぬどちらにしろ。聖上から任を受けた以上、自分は貴方方をいかなる手段を講じても従わせます故、そのおつもりで」

 流れる風が変化し、墨色の短髪が背中から前面へと揺れる。人差し指で頬を押しつつ、コゥーハは自信に満ちた眼で続ける。

「無論。いつでも勝負をお受けいたしますとも、隊長の座を賭けて。一つでも勝てれば、辞表を出した上でベナウィ侍大将や聖上に奏上致しましょう。自分とて、短い余生をゆっくり過ごしたいのです。何でも構いませんよ? 武でも、文でも、何でしたら、ウマ(ウォプタル)で競い合っても」

 最後を強調したコゥーハに、彼女――パララの顔がさっと青くなる。更に追撃でもしようかとコゥーハは口を開こうとするが、二人の間に割って入ってきた男に口を結ぶ。

「おお、姫よ。気高く、美しい、我が日天之神(ラヤナソムカミ)よ」

「……」

 一番面倒そうな彼がいましたね、とコゥーハは肩を落とす。

 艶やかな黒の短髪に、白みが強い肌を持つ端正な顔立ち。コゥーハより少し背が高く、しかし恐ろしく華奢な彼は、端的に言えば、優男である。女官達の間では、しばしベナウィとの比較対象に挙がる位の美形ではあるが、常に眉間に皺を寄せているベナウィとは対照的である、とコゥーハは認識している。柔和な表情に甘美な笑顔を彩り、魅惑漂う台詞とその低音で皇城内の女性達を口説く――だが、他者が抱く彼へ対する印象は男女問わず上々である。とはいえ、コゥーハが抱く印象はあまり良くない。

(またですか)

 彼と初めて会った時から、ずっと口説かれている気がしてならない。愛おしそうに片手を触ってくる相手に、コゥーハはげんなりする。待ち伏せなどは無いが……訓練の折に一度指導してからというもの、すれ違う度に彼はコゥーハを拘束する。コゥーハへの出会いを神へと感謝し、真実味の無い美辞麗句を重ねる――他の女性に対しても同様なのかと調べてみるも、此処まで長く続いている事例は現在のところ耳には入っていない。また、丁寧に断ろうとも、無視を決め込んでその場を去ろうとするも、対応が変わる気配が全くない。

 本日も例外なく賛辞を贈る男に、コゥーハは例に漏れず受け流す。が、いつもの如く胃もたれを起こし、話がパララとの喧嘩は止めて欲しいという旨を述べている頃には疲れ切っていた。これがパララを庇うための彼なりのやり方だとしたら、なんとまどろっこしいのだろう……そんなズレた思考を誘発させる位には。

「わかりましたよ、ワッカ。自分も大人げなかったですから」

「おお! 寛大なるその御心に感謝致します」

「……その仰々しい態度は、なんとかして欲しいものですが。後、できれば額当ては付けて下さい」

 彼の――ワッカの頭に額当てはない。代わりに青い布が両耳を隠すように巻かれており、支給されている額当ては彼の二の腕にある。自分には重すぎて剣が振れない、青い布で耳は隠せるから問題ない……相手の主張に多少なりとも同意をするも、何度注意しても改善されない彼とどうやって接するべきなのか、とコゥーハは視線を彷徨わせる。

 その視線の先、柱の陰から覗いていた者と目が合い、咄嗟に隠れる相手にコゥーハは微笑した。

「ああ。スス、いい加減、柱の後ろに隠れていないで出てきて頂けませんか」

 ひっ、と声を上げる柱に向かって、コゥーハは更に命令する。

「後。額当てを取って下さい。最初の顔合わせのみで構いませんが、貴方の種族(こと)を隊全員が把握する必要が御座います故」

 数拍した後。三者の視線を浴びた場所から、一人の若い青年が顔を出した。

 ドリィやグラァ程ではないが、成人の男性というには少し幼く見える青年である。背もコゥーハより少し低く、常におどおどしているが故か更に低く見受けられる。それを除けは、至って年齢相応の――成人したての新兵の躰つきである。表情こそ頼りないものの、上官の前で礼を取る姿勢は綺麗で……綺麗すぎるとさえコゥーハは思う。茶色に近い黒の短髪を乱し、そそくさと取った額当て――側面の布の下からは白くて小さい、尖った耳が露わになる。が、もう良いですよね、とすぐに彼は額当てを付け直した。頭に無いと不安で、と口にした微笑みは、儚く散る。三人に見つめられていた事に気づいたのか、青い顔で周囲を見渡し、やがてワッカの……額当てとは違う、頭に巻かれた青い布を不思議そうに指差す。

「そ、そういえば……ワッカさんの種族って」

「スス」

 コゥーハに窘められ、ススは慌てて口に手を当てた。涙を流しながら謝る彼に、あっけらかんとした様子でワッカは両手を上下させた。彼を責めないで欲しい旨をコゥーハに伝え、頭に巻かれた青い布を外す。はらりと落ちた布の奥、彼の横顔――二人の呻き声が聞こえるであろう彼の耳は、存在しない。

「物心つく前、両親に耳と尻尾を切り落とされてしまいましてね。正直、私も教えて頂きたい」

「と、いうことは」

 耳が聞こえていないのか? コゥーハの問いに、ワッカは否定する。

「多少聞こえ辛い程度で御座います。また、唇の動きで判断がつきます故――しかし、先日の試験で何人か落とされているという点からして。私は問題ないと判断されたのではと、恐れながら愚考致しますが。姫のご判断を、是非ともお聞きしたく御座います」

 自信に満ちた眼で迫られ、愚問ですね、と相手に聞こえる程度の小声で呟く。

「ただ。問題があると判断すれば、打つ手は速いですよ。自分も、隊長も」

 肝に銘じましょう。ワッカはコゥーハの手に頭を垂れた後、寄って来た同僚へと身体を向けた。

 耳が聞こえ辛いというのに、普通に会話が出来るなんて凄い、と囃し立てるススとは対照的に、コゥーハの目は冷めている。

 腕力は最低、武器一つも最初は満足に持てなかったため戦闘能力は常に平均以下、知識と暗算は平均だが読み書き算盤は最低――一兵士としてみると、所謂、彼は劣等生である。ただ、集団訓練においてはかなり良い成績をおさめている。常に個を持ち、己の力量を理解している節があり……社交的な性格と相まってか協調性は高く、彼の所属する隊は非常に纏まりある集団となる事が多かった、とコゥーハは振り返る。また、相手の唇や表情から言動を読み取る癖がある故か、観察力や洞察力が高いと見受けられ――過去に起きた戦の考察を話し合った際の記録を見て、中々に興味深いとハクオロが感心した事は、妙に悔しささえ覚えた。

 話が廻って再び謝罪を始めたススに呆れ、コゥーハは強引に話を戻しつつ適当な嘘を吐く。 

「種族に関しては、自分めと同じかと推測はしております。口が減らないのは、彼の種族の影響を多大に受けているのでしょう、と」

 妙に納得できる、と俯く二人に複雑な思いを抱き、コゥーハは話題を切り替えた。

「そういえば。ススはどうして此処を希望したのでしょう?」

「そ、それは」

 コゥーハが目を通した志望書通りの内容を、ススはそのまま声にした。

「コゥーハ隊長が、すっごく格好良かったからです!」

「――……」

 間の抜けたコゥーハの溜め息が、小さな部屋にこだまする。

 自慢する事ではないが、はっきり言って、何一つとして格好良いなどと思われる事を新兵の前で行った事は無い。むしろ率先して、嫌われるような――明らかに怠けている者達を居残りさせたり、中身の無い報告書しか持って来ない者へ追加の課題を要求したり、どさくさに紛れて胸を揉んでこようとした者を投げ飛ばしたり、自分が男性だという事実と異なる内容を周囲に流していた者を締め上げたり……ベナウィ程ではないが、程々に厳しく接してきたと、コゥーハは振り返りつつ思う。

 組手です、と目を輝かせるススに、コゥーハは更に目を泳がせる。

「……ベナウィ隊長との組手は」

 先日行われた、ベナウィとの組手。だが結果は散々で、数拍も経たずして決着がついた。ハクオロには驚かれ、クロウには呆れられ、オボロには後に責められ、ベナウィには例の如く手を抜くな等々こっぴどく部屋で説教され、故にあれが格好良いなどとは絶対に思えない。

 断じて手を抜いている訳ではない……しかし、正直なところ、ベナウィとの手合せは昔から身が入らないのだと溜め息を吐く。過去に一度、殺すつもりで来るように言われた事もあるが、言葉の通り従い――剣で手合せした際、本当に殺してしまいそうな感覚に襲われ踏み止まってからというもの、全くもって力が入らなくなってしまった。それ以来、何かと難癖をつけては避け、特に剣で手合せしたことは一度も無い。

 情けなく首を振るコゥーハに、違いますよ、とススは否定した。

「この前の、クロウ副長との組手です。すっごく格好良かったです! 自分より大きい副長相手に引き分けなんて、本当に憧れます!」

 目を丸くしたパララに目もくれず、ススは強い口調で此処を希望した理由を述べた。

「僕は、コゥーハ隊長の下で働きたいんです」

 素直な感情なのだろう、と思いつつも、コゥーハは眉を寄せる。

 厳密に言えば。あの組手において、コゥーハはクロウに引き分けてはいない。あくまで、勝敗は負けである。初めて見たであろう組手の凄さに圧倒されて審判の判断を聞いていなかったのか、あるいは……前者であれば、その純粋さに危うさと心配を覚え、後者であれば――彼という存在に再度一石を投じる必要がある。

(考えすぎですかね……ただ)

 喉元に引っ掛かった物をコゥーハは呑みこみ、突然やってきた男の声に耳を上げた。

「おっ。お前はよく解ってるじゃねえか。姐さんところに来るだけはあるってか?」

 ひっ、とススは悲鳴を上げる。声のした入口から真っ先に離れ、再び柱に隠れた。

「ふ、ふふ、副長!?」

「ったく。男のくせにそんな情けねえ声出すんじゃねーよ……。ああ、コゥーハの姐さんに大将からの伝言」

 クロウに耳打ちされるも、コゥーハは眉一つ動かさない。

「またですか」

「またッス」

 どうするかはいつも通りコゥーハに任せる、と笑う上官にコゥーハは顎を引く。

「副長自ら、無視しても良いと仰ると?」

「大将に睨まれるのは俺じゃないんでね」

 眉を上げるコゥーハなど構いなく、クロウは新兵三人を見渡す。

「んで? 問題の奴はどいつだ?」

「彼女ですよ」

 コゥーハに軽く指名され、パララは茶色の尻尾を上げる。

「何であっしが問題なんでい!?」

 噛みつくパララに対して、コゥーハはきっと相手を睨んだ。

「馬鹿を言わないで下さい。ウマ(ウォプタル)に乗れない者は、騎兵衆(ラクシャライ)に置くことはできません。パララには今日を含めた三日間、クロウ副長の元でみっちり訓練して頂きます」

「ぐっ……」

 コゥーハは息を切らすことなく続ける。

 パララは歩兵衆(クリリャライ)として入隊したものの、本人の強い希望によって騎兵衆(ラクシャライ)への異動が特別に許された経緯がある。本来であれば、両者間の異動には半期に一度行われる定期試験まで待ち、試験に合格しなければならない。が、彼女が新兵だからという理由で、ハクオロが条件付きで異動を許可した。

「四日後の試験でウマ(ウォプタル)を乗りこなせていないと自分が、あるいはベナウィ隊長が判断した場合は、即刻、辞令を送りますので覚悟をして臨んでください」

 部下の要望を大いに汲み取る傾向にあるハクオロはともかくとして、適材適所ではない人事を許すことを良しとしないベナウィが今回の措置を呑んだという事は、ベナウィが彼女の能力を――無論、性別を抜きに認めている可能性がある、とコゥーハは腕を組む。確かにワッカやススと比較した場合、パララの能力、特に戦闘能力は躰半分抜きんでている。口ではああ言ったコゥーハではあるが、冷静なパララと殺りあった場合、正直なところ四肢が全て満足に残っているかどうか怪しいと肩を竦める。

 武器を扱う腕は、狩猟部族と謂われるヒタンウンタ族であるという天性も要因であろうが、七番隊を希望した理由が、出世したいから……何とも巫山戯た理由ではあるのだが、言うだけあって学ぶ態度が尋常ではなかった、と彼女の訓練時代を振り返る。

(隊長、好きですからねぇ。努力をする御仁を)

 前髪を弄り、コゥーハは改めてパララを見据える。

「自分めはともかくとして。僅かな時間を割いてまで訓練にお付き合い頂くクロウ副長、機会を与えてくださった聖上とベナウィ総隊長に感謝をし、必ず合格するように」

「うぐぐ」

 スス以上に委縮するパララの肩に腕を乗せ、コゥーハは耳打ちする。

「良い機会ですよ。クロウ副長は、良い血筋ではないというのにその実力だけで副長の地位まで登り詰めた御方。彼の姿勢を見習う事はもちろん――人事権を掌握しているベナウィ隊長の片腕的存在である彼に気にいられることは、上を目指す貴女としても、何かと宜しいのではないでしょうか?」

「む……」

 パララは俯くも、コゥーハに背中を押されてくっと顔を上げる。早くも見定め始めているクロウに真っ直ぐ姿勢を正し、彼女なりの最大限の礼を取った。

「よ、よろしくお願いします。副長!」

 付いてきな、とパララを出口へ促すクロウの側で、コゥーハは呟く。

「まさかクロウが来るとは思いませんでした。自分はただ、分隊長達に声を掛けてみてくれとお願いしただけなのですが。皆忙しいでしょうから、期待はしておりませんでしたのに」

「たまたま暇だっただけッスよ」

 嘘が上手い、と微笑むコゥーハに、アンタが言うかい、とクロウは真顔で吐き捨てる。

「……大将と総大将の顔に泥を塗るわけにはいかんでしょう」

 言いかけたコゥーハの肩を叩き、クロウは振り返ることなく入口へ向かう。投げられた二つの袋を受け取り、「なら、一つは遠慮なく」と普段の調子で笑いながら部屋を去った。コゥーハは茶色の外套が見えなくなるまで、その背中へ敬礼を止めることはなかった。

 完全に足音が消え、コゥーハは手を下ろした。その光景をずっと睨んでいたワッカが、おもむろに口を開く。

「姫。私はこれからどうすればよろしいのでしょうか?」

「まずは『姫』と呼ぶことを直してください」

「お言葉ながら。それはいくら姫の頼みでも致しかねます」

 ワッカの言動は固い。疲労を顔に出すコゥーハに対してなお、彼の姿勢は変わらない。

「大陸中に生まれた女性はみな『姫』であり、私は『姫』に奉仕するが使命にございます」

「色里には、少数ではありますが、働く女性向けの店も多いと聞きます。軍を抜けて、そういったお店で働くもの良いのではないでしょうか」

「それでは、姫に――貴女にお会いすることはできなくなるではありませんか」

「……」

 だが、コゥーハも一歩も引く訳にはいかない。上官としても、一個人としても、という理由もあるが……一番は、現状で起きうるであろう問題を挙げる。

「では。自分以外の『姫』はきちんと名前も呼んで差し上げて下さい。後。貴方の容姿と言動によって女官の間で、少々いざこざが発生しております。一個人と致しては、貴方が一筋であろうと何股であろうと全く興味ありませんが――あらぬ誤解を招く恐れもありますので、各要人の前では『姫』はやめ、『様』を使用すること。以上を守らないというのであれば、ありとあらゆる手を使って貴方を追い出しにかかりますので、そのつもりで」

 ふむ、とワッカは目を丸くするも、「御心のままに」と頭を下げた。やたら物分りが良いと一瞬きょとんとするも、今が一番の攻め時であろう、とコゥーハは畳みかける。

「ワッカの任務ですが。隊長の部屋で書類整理を行ってください」

「姫の補佐、ということでしょうか」

「ベナウィ総隊長の補佐、ということです。自分はススと回るところがありますので」

 しかし、と言いたげに口を動かすワッカに、貴方も特例措置なのですよ、とコゥーハは釘を刺す。

「読み書きが全く出来なかった貴方が、先日の試験までに最低限の読取と筆記が出来るまで勉強してた事は自分も隊長も承知済みですし、その努力を隊長が認めた故の特例なのだとも思います。しかしこの隊に課せられる任務上、報告書を書けないではウマ(ウォプタル)に乗れないことと同等に困ります。四日……は無理にしても、十日できっちした物が提出出来なけば、自分の隊から離れてもらう他ありません」

 そんな無茶です、とススは声を上げたが、上官の視線に制されて口を噤いた。

「無茶であれ。やって頂かないと困ります」

 譲らないコゥーハから目を離し、ワッカは微かに俯いた。そのまま膝を折り、さながら宣誓するかのようにコゥーハの片手に唇を当てた――彼の瞳に不安はなく、生意気さえ漂う自信で満ちている。

「……姫がそう仰るのであれば。従いましょう」

 不思議な手だ、とコゥーハは相手の手を握り返す。

 良く鍛錬をしているのだろう、拍子に指先が触れた彼の手の平は乾燥している。だが、コゥーハの手を包む指は、非常に滑らかな肌をしている。爪も綺麗に磨かれ手入れをされており、触り心地良く柔らかい。そして、決して筆肉刺のある場所は相手へ触れさせない。さながら女性のような――まるで大事な物に触れるかの動きにコゥーハは興味を惹かれた。

「今日は書簡を見るだけで構いません。明日から本格的に学んで頂くのでそのつもりで」

「おお。姫自らこの私めにご指導頂けるとは――」

「いえ。隊長が選んだ文官が貴方の指導を行います。ちなみに、男性です」

「…………」

 丁度良いところに、迎えに来た武官がやってきたのでコゥーハは彼にワッカを引き渡した。心底不満そうにしている相手をそれとなく宥め、クロウに渡した物と同じ物――非常食としても度々持ち歩かれる菓子の入った袋を渡す。ガタガタと身体を震わすワッカに「任に就く前に全部食べるように」と何度も念を押すも、ひたすら賛辞を残していった相手の背中に溜め息を吐く。

「どうせ一つだけつまんで、色里の女性達に渡すのでしょうね」

 色里ってなんですか? おずおずと訊ねてきたススに、貴方はもう少し勉強するべきだ、とコゥーハは返す。落ち込んでいるのだろう、更に小さく丸まったススに溜め息を吐き、菓子入りの袋を差し出した。

「ススは。自分と共に他所への挨拶周りで皇城内を回ります。並行して、聖上をお捜しします」

「そうですか。聖上を――……って?!」

 何故聖上を探すのに城を回るのか。叫ぶススの隣で、ふむ、とコゥーハは干菓子をつまむ。

「ススは知りませんか。衛兵の間では賭けの対象にもなる有名な話なのですが」

 聖上が度々政務を()()()()され、護衛も付けず一人で皇城内や城下町へと()()()()()()されている、という、あくまで噂……ススに説明された内容に笑いをかみ殺しながら、コゥーハは肯定する。

「はい。その聖上を捜索されるためにベナウィ隊長が皇城内を歩き回っている、という事実です」

 何時、ハクオロが無断で書斎を抜けるか。何時、ハクオロがいない事にベナウィが気づくか。何時、誰が、ハクオロを見つけ書斎へ連行するか、あるいはハクオロが逃げ切るのか――兵舎の裏でひっそり行われている様々な賭けに、トゥスクルは平和でなによりだ、とコゥーハは大袈裟に両手を上げる。

「いやぁ。見物ですよ、アレは。ここ最近の聖上は、姿をお隠しになるのが上手くなった様子で、隊長もお仕事を投げ出し躍起になって捜していらっしゃるようです」

 からからと笑うコゥーハの側で、ススは大きく首を傾げる。

「でも、それって。ベナウィ侍大将のお仕事が、もしかしたら自分達に回ってくるってことになるんじゃあ」

「……」

 冷静なススの指摘に、コゥーハが持っていた菓子が粉々に砕け散る。

「スス、全力で捜しますよ」

「え、ええ?!」

 お菓子がもったいない……と床にこぼれた粉を拾うススの真上、狩猟を行う眼をしたコゥーハが、手に付いた甘い菓子を舐めた。

 

 

 

 

 

 各所への挨拶周りは、一点を除けば滞りなく行われた。

「ですから。何故、自分めの後ろに隠れるのですか」

 廊下を歩く文官達に挨拶をするコゥーハの後方に、ススは素早く隠れる。一度や二度ではない……しかも、初めの挨拶すら満足にできていない。できたかと思えば、簡単な質問や取るに足らない世間話を振られて、何も返せない始末。コゥーハが指摘するも、注意するも、励ますも、擁護するも……怒っていると捉えているのだろうか、一様として萎縮し、半泣きし、謝罪ばかりである。幸いにも、挨拶している相手はコゥーハと同じく新兵の指導を行う立場だった者ばかりで、ススについて理解ある者も多いため、ある程度の配慮をして貰ったものの――このままでは先が思いやられる、とコゥーハは溜め息を吐く。

「良く、今まで、新兵の訓練をこなしてきましたね……」

「だ、大事なところだけ、大きな声で頑張りました……」

「のようですね。貴方の事を少々誤解している者もおりましたよ。すごく声が大きな、元気だけが取り柄の……」

 うぅ、と呻くススを見るに耐え兼ね、コゥーハは静かに謝罪した。

「ですが。元気だけ、というのは誤解だと思いますよ」

 ぱっと顔を上げるススに、コゥーハは微笑する。

「今期の新兵の中で、貴方ほどウマ(ウォプタル)を乗りこなす者はおりませんから」

「ほ、ほ、ホントですかっ?!」

 ベナウィ侍大将が感心していた事は内緒ですよ、とススの心を掴むべく様々な言葉を並べるが、決して世辞ではないのだとコゥーハは目を閉じる。

 性格が災いしてか、剣の腕は常に最低点であり、調練での戦闘時においても同様である。が、ことウマ(ウォプタル)の扱いに関して、ススは他を圧倒する。知識、調教、騎乗――時には、群を抜いて苦手な戦闘でさえ、平均並みにこなすこともあった。特にウマ(ウォプタル)の速さを引き出す技術は目を見張るものがあり……ススには誤魔化したものの、訓練の折、ベナウィが「何か盗めるものはないだろうか」と呟いた事は、コゥーハの記憶に新しい。

 やや浮かれ気味に鼻を伸ばしている部下に、コゥーハは不安を覚える。とはいえ少しは緊張が取れただろうと思い、適当に話題を振ってみる。

「ススは、やはり東方からやってきたのですか?」

 種族柄、良く尋ねられるんですが、とススは顔を俯かせながら笑う。

「ちょっと昔に住んでいた事はあるんですけど。トゥスクルにやって来る前は、パララさんと同じで南の方にいました」

「シケリペチム方面ですか?」

「僕は東よりだったので、そっちは何とも」

 役に立てず申し訳ない、と謝罪するススだったが、思い出したように手を合わせた。

「パララさんは南西からやってきたみたいなので、詳しいかもしれません」

「成程」

 パララにはおいおい尋ねるとして、とコゥーハは眉を寄せる。

「そちらの周辺諸國で、何かありませんでしたか」

「う~ん」

 特に何もない。変わらぬ回答を示し、ススは考えるように頬を掻いた。

「もしかして、何かあったんですか?」

「……」

 コゥーハは周囲を見渡し、そっと足を止める。くれぐれも内密に、と念を押した後、小さく口を開いた。

「実は。南部で少し動きがあったとの情報を聞きまして」

「えっ……」

 隣國が、東部と隣接する他國との仲介のために『調停者』の派遣を依頼したという報告――今日の朝議で出された議題だが、先刻での文官達のやり取りから多くの者に知れ渡っているだろうというのはコゥーハの推測である。ただ、この事実をどう受け止めるかは分れるところであると腕を組む。

 二國間の仲は良くはなく、年に数回は小規模な戦を数十年続けていた間柄である。停戦ともなれば喜ばしいことではあるのだが、件の隣國とはケナシコウルペ時代にこちらから一方的に國交を絶った経緯がある……前政権の権力者達が多く居座っている事もあり、決して良い感情を抱いていない可能性は高い。また、トゥスクル南部に展開している賊の一派に流れている物資の多くがその隣國から流れてきている報告もある。最悪の場合、彼らが隣國と繋がっており、今回の動きはトゥスクルへ攻め込むための準備の一つではないだろうか、などという見解が挙げられた。故に念のため南部へ兵を割くべきか否か――いずれにしろ情報があまりに少ないため、情報収集を行うことでその場は纏まったものの……隣國に関しての情報を些細な事でも、できるだけ早く欲しいというのが、一武官としての心境である。

 無論、オンカミヤムカイに詳細を尋ねられる訳も無し、とコゥーハは笑いつつ、人差し指を頬に当てる。

「まあ。何もないのであれば。南部へ兵を動かすということもないでしょう」

「戦になるのでしょうか」

 さて。小さく呟き、曇った瞳でコゥーハは西の空を仰ぐ。雲が多くなる空に若干の心配を留めながら、ふっと表出したモノを吐き出した。

「この世から、戦なんてものは無くなりませんよ。ヒトが、ヒトである限り」

 なんて。コゥーハは明るく笑い飛ばし、左腰へと手を乗せる。

「知り合いがそんな事言っておりましたが。少なくともこの件に関しては、どうにか避けるような策を見出しますよ」

 心配要りません、と胸を張るコゥーハに、ススの表情がぱっと明るくなる。

「さ、さすがコゥーハ隊長です!」

「いえ、考えるのは自分ではありません」

 広場の隅にある蔵の方へと目を向けていたコゥーハの目が細くなる。

「そこの聖上が」

 悪戯を考えた子供のようにコゥーハは笑い、遠くで両肩を震わすハクオロに手を向けた。

 

 

 

 

 

 両腕を擦りつつ、ハクオロはやってきた部下を睨んだ。

「……さっき寒気がしたんだが。お前か」

「ベナウィ隊長の方が宜しかったですか?」

 構えるハクオロに、冗談だとコゥーハは意地悪く笑う。

「御安心ください。つまみ食いのためにお越しになったことは、エルルゥ様には申し上げません」

「ベナウィには言うのか?」

「隊長に何を報告すればよろしいのでしょうか?」

「いや。何でもない」

 ため息をつくハクオロに首を傾げ、ススはコゥーハにそっと尋ねる。

「あ、あの……つまみ食いって、何ですか?」

「スス。深く考えないことも、この隊に所属する者にとって大事なことですよ」

「は、はあ……」

 考えないかんがえない、と言い聞かせるように復唱するススの肩をそっと叩き、コゥーハはハクオロに向き直る。改めまして、と礼を取り、不満そうな声で否定を始めた相手に耳を上げる。

「待て。私は決してつまみ食いをしに来たわけではない」

「しかしながら、空腹だとお見受けしますが」

 口より先に腹が回答し、ハクオロはわざとらしい咳払いで音を掻き消した。

 現在の蔵には何も食べるものは無いと思う、とコゥーハは指摘しつつ、菓子の袋をハクオロへ渡した。受け取った相手は中身をみるや否や、口元を微妙に曲げる。

「この菓子は……すごく甘いやつじゃないか」

「甘い物は苦手でしたでしょうか」

 ススには好評だったのですが、と口に手を当てるコゥーハに、ハクオロはじめっとした目を閉じた。

「お前から貰う差し入れは、ハチミツを除けばどれも味が濃すぎて極端だらな。喉が渇く程に甘いか、舌が痺れる程に辛いか、吐きたくなる程に苦いか……」

 うっ、とコゥーハは一瞬顔色を曇らせた。苦い物は常時飲んでいる薬と師の実験台にさせられたせいだと、頬を引き攣らせつつ誤魔化す。要らないのであれば返して欲しいと手を出すが、空の袋を渡され思わず吹き出した。

 貰った水を飲みながら。ハクオロはやや冷たい口調で、いつまでもそばにいるコゥーハに質問する。

「そういえば。コゥーハは何処か」

「これが、任務ですので」

「……そうか」

 意を理解したのか、ハクオロは相手を追い返すことなく両肩を落とす。心中を知らぬフリをしつつ、コゥーハは笑って礼を述べた。

「本日予定しておりました挨拶周りは全て終えましたので、御心配には及びません」

「の割には。彼しかいないのが不思議だが」

 コゥーハの側に控えていたススは慌てて礼を取る。ハクオロに声を掛けられ、身体をびくつかせながらもはっきりと返答していく。コゥーハも交えた話は特に他愛もない――先程コゥーハとやり取りした内容と被るものも多い。

 ひとしきりの談笑の後、会話の合間にハクオロはコゥーハへ耳打ちをしてきた。

「だから言っただろう。特に問題なさそうだと」

「……」

 何処から来たのか、訓練は大変だろうか、兵舎の生活に馴染めているか――自然と話題を振り、会話の流れを常に持っているのはハクオロだが、受け答えしている相手は確実にススである事にコゥーハは眉を寄せる。

 会話とは、常に互いが受け答えが出来ていないと成立しない。故に、訓練時のススは周囲との協調性は非常に悪いというのがコゥーハの見解である。周囲に同調はするが、いざ話し合いとなると自分の意見を全く言えずにおろおろするばかりで、初回はまともに会話さえできていなかった。全く何も考えていないのかと一時期思ったが、とある作戦についての報告書を書かせると驚く程しっかりした意見を書いた物を提出してくる辺り、ただただ他者とのやり取りが激しく下手なのだという結論に至った。現在もその性格が大いに見受けられる節がある、と今日の彼の言動を振り返りつつ、コゥーハは腕を組む。

 相手が(オゥルォ)ということで背伸びをしているのか。コゥーハやパララに関してはさほどの緊張を見せていないことから、同性のみに見られる短所なのか。初対面ではない事が大きいのか。あるいは……ハクオロと他者の相違点を洗い出し、コゥーハはもう一つの推測へと辿り着く。

(仮面を被っていることが、影響しているのでしょうか)

 顔を覆う白い仮面――現在は慣れこそしたものの、多の中にいれば圧倒的な違和感となるソレから距離を取るように、コゥーハは己が手で顔を隠す。本人の冷静な性格もあり、時折彼の心情が読み取れない時がある。また逆にその落ち着いた瞳が心を射ぬき、奥底にあるモノへと語りかけてくることがある――不自然なまでに自然な心地良さもあれば、思い出したくない場所へと手を入れ引っ張り出そうとする様に恐怖を感じることすらある。心中を掻き乱される、という表現は正しいが、これまで知り合った者達と同じであり、異なる……幾つかの感情が複雑に絡み合い、奇妙な回顧の念に駆られて疲れる事もある。

「……コゥーハ?」

 コゥーハは我に返り、視線をハクオロの顔から逸らす。同時に、ススも顔を動かしたことにハクオロは目を丸くし、二人を交互に眺めつつも、ススに尋ねる。

「もしかして、この仮面が気になるのか?」

「い、いえ。その」

 否定とも肯定とも取れぬススの回答に、コゥーハは疲れたように首を横に振る。さっきとは打って変わって歯切れの悪い、普段通りの――自分が知っている彼に多少の心配と違和感を心に留め、コゥーハは一つの提案をする。

「聖上。実を申しますと、自分めも気になっておりまして。最近ではその事を考えてばかりで夜も眠れないのです」

「仮に事実だったとしても。お前が言うと胡散臭く聞こえるんだが」

 どうかお気になさらず、とコゥーハは真顔で続ける。

「ススも聖上の素顔が気になっている様子。ここは一つ、彼のために仮面を外し、その素顔をお見せして頂けないでしょうか」

「そうしてやりたいのは山々なんだが……前も言ったが、どうやっても仮面(これ)は外せなくてな」

 油を使用してみたり、刃物を入れてみたり――危険な物も含み、考え付くことはやり尽くしたと豪語するハクオロをじっと見つめながら、コゥーハは指をポキポキ鳴らす。

「コ、コゥーハ?」

「では。最初から全力でいかせて頂きます」

 後退るハクオロにじりじり近づき、コゥーハは表情そのままに人差し指を頬に当てる。

「問題ありません。多少、頭の中身が飛び散るやもしれませんが」

「馬鹿を言うなっ!! 駄目に決まっているだろう!!」

「では、ススにやらせましょう。彼の力は決して強くありませんし」

 でも、とススは呟くが、すぐにコゥーハの元へやって来た。おどおどとする彼の様子をハクオロはしげしげと眺め、同じく観察するように彼を横目で見据えるコゥーハへ目を向ける。笑いが引いている彼女にくっと口を結ぶも、すぐに両肩を竦めてみせた。

「ま、まあ……それでお前達が引き下がってくれるなら、安いものか」

 本当に宜しいのですか、と真剣な顔で確認するコゥーハの眼をハクオロは覗き込むが、すぐに目を細めた。己が仮面と顔の境界線に手を伸ばし、静かに笑って回答とした。

 

 

 

 

 

 蔵の入口にある階段の端、コゥーハの膝枕の上でうずくまっているハクオロの背中を、コゥーハは優しく擦る。

「本当に取れないのですね」

 だから言っただろう、とハクオロは頭を抱え、上体を起こした。

「全く。容赦無くやったものだ」

 そう命令したのは自分ですので、と擁護するコゥーハの側で、ススは俯く。前髪で目を隠し、無言で立ち尽くすススの頭にコゥーハは片手を乗せた。

「納得できましたか?」

「は、はい……」

 躰を竦める彼に、ハクオロは微笑する。

「そんなに萎縮しないでくれ。疑問に思うことは当然のことだろう」

 願わくば、今回の検証結果を、同じく疑問に思っている者へと伝えて欲しい。ハクオロの言葉に、善処します、とススは頭を下げる。今日はもう上がるようにとコゥーハに言われて目を丸くするも、促されるがままに了承し、二人に礼をとった後その場を後にした。

 未だに頭を擦りつつも、ハクオロは意味ありげな目でコゥーハをつつく。

「どうだ。念願の部下達は」

「…………」

 冷たい風が流れ、茜色に染まりつつある道を眺めながら、コゥーハは微かに俯く。笑みもなく、怒りもなく、ただただ兵舎のある方向――ススが去っていた、部下達がいる場所を見据える。

「そうですね。三人共、姿勢が良すぎます」

 問題なのか? と問われ、コゥーハは静かに首を振る。むしろ良い事です、とコゥーハは精一杯微笑む。

「ただ――……アレはともかく、クロウ副長やオボロ侍大将に通ずる背筋の良さが、少し気になっただけです」

 それはハクオロにも言える事なのだが。出てきそうになった言葉をコゥーハは寸での所で呑みこむ。適当に話題をずらし、クロウやオボロはもしかしたら育ちが良いのかもしれない、冗談交じりに述べた感想に、返答が意外なところから――やってきたベナウィの口から語られる。

「クロウは以前、宮中に上がらなければならない時期が御座いましたので。私がきっちり指導致しました」

 クロウに同情する声を上げるハクオロに、ベナウィはくっと眉を寄せる。自分から遠ざかろうとする聖上に溜め息を吐き、いえ、と静かに微笑む。

「聖上は大層お疲れの様子。後の政務はコゥーハにやらせます故、どうぞお休み下さい」

 うっ、と恨みがましい目を向ける部下を適当にあやし、ベナウィはハクオロに礼をとった。本当に良いのかと逆に心配されるものの、お気遣い痛み入りますと頭を下げ、遅れてやってきたエルルゥに後の事を任せる。ハクオロとエルルゥの間に微妙な空気が流れるものの、別段表情を変えずにその場を後にした――無論、コゥーハを引き摺りながら。

 ベナウィの書斎まで連れてこられ、コゥーハは盛大な溜め息を吐く。自分が使うと思われる簡素な文机と発光石を置く台、別の机に置かれている茶器と側にある薬箱、肩に掛ける布や予備の筆記具……明らかに徹夜をさせる気でいる様に、苛立ちが更に募る。

「三人に関する報告書は如何致しましょう」

「此処で聞けば、問題ありません」

 コゥーハはくっと眉を顰める。まだ日暮れには少々遅い空を眺め、相手の意図を噛みしめようと努める。

「そうも参りませんでしょう。隊長がよろしくても、他の隊長達が困ります」

 では今日中に提出するように、ベナウィの一言にコゥーハの感情が最高点に達する。激しく机を叩き、相手が上官であることも忘れ、赴くままに睨みつける――だが、同時に心身の疲れも最長点を突き抜け、身体は一気にしぼんだ。ハクオロの事、部下達の事、そして己自身の心中……考える度に答えは無く、疑問と徒労だけが積み上がる。

「それで。本日の聖上はどの程度、御政務を放棄されたのですか」

「……」

 険しい表情を隠すベナウィの正面で、顔を青くしたコゥーハの頬杖が崩れる。

 昼食後から行う予定だった政務全て。非常な答えに、コゥーハは熱くなった頭ごと文机に突っ伏した。




謝罪:
描写の一部をカットおよび修正しました。申し訳ありません。(2015/12/15)

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