城の中から夜景と朝日を見張る任務を始めてから数日後。何日経っただろうかとコゥーハは指を折るが、きちんと数えていないことに気づき、手を下げた。ゆっくりとした足取りで薬品が並ぶ棚へ近づき、全ての引き出しを開ける。
城の周囲でさえも、これといった戦は発生していない。しかし内部での諍いは飽きることなく毎日起こり、治療に使う薬草が尽きかけていた。数日に一度は荷が場内へ運ばれてくるものの、少なくなりつつある物資の七割は食料と武具。薬草は一割未満で、道具に至っては申請をしてから一度も納品されたことは無い。棚の隣にある、埃を被りつつある上皿天秤も酷く使い古されており、コゥーハがやってきたときの状態で置かれたままである。
軽い引き出し達を一瞥し、コゥーハは深く溜め息を吐いた。
(物資の絶対的不足……だけではないのでしょう。軍内部の統率が取れずに混乱しているのか、あるいは)
一兵士に治療は必要ないという方針なのか。ふっとよぎった推測に、いや、とコゥーハは唇を噛んだ。
外の暗闇が濃くなりつつある中。引き出しを閉じ、コゥーハは隣に置かれた黒い硯箱を手に持つ。簡易な小机の隣に座り、筆記具一式と、真っ新な木簡を机に広げる。
足りない材料の一覧を書き終えた後、ふっと息を吐きつつ額当てを外した。
「……」
湿り気のある墨の香りが立ち上る中で新しい木簡を広げ、仕切り直すように発光石の乗る皿に水を追加する。均一に明かりを放つ発光石の側で墨を摩り、筆の穂先を落潮へ置いた手を止めた。
受け取った文に対する返事として何を書けば良いかと、コゥーハは思案する。自身を取り巻く環境から話題を振るべきか、あわよくばこの現状が改善されるかもしれない。と考え、首を振った。
(いえ。書いたところで、説教しか返ってきませんか)
公私の混同。相手が嫌うものの一つであると、コゥーハは認識している。これはあくまでも私的な書簡であり、部下が上官に嘆願するものであってはならない。何度ものやり取りで幾度となく、言葉は違えど、コゥーハは咎められてきた。
(しかし……字の美しさはともかく。全くもって、色気の欠片も無い内容で)
感嘆の息が出てしまいそうな文字が並ぶ書簡に目を落としつつ、退屈ではないのだが、とコゥーハは過去の記憶を辿る。
関心は広いのか、文に綴られる話題が被ることは滅多にない。しかし話題の内容は、学者が扱う研究内容の様な――軍事演習の頻度が兵士のやる気に及ぼす影響、士官の減給によって國内経済に生じる問題について、女官達の間で流行している香の効能について、等々――独自の視点で推察した物がほとんであり、論文あるいは報告書とほとんど変わり無い。今回送られてきた書簡にも、叛軍の長であるハクオロという男の人物像について事細かに記されており、中には彼の立ち位置からでしか得ることのできないと思われる情報も幾つか交ざっていた。
(混同、してはいませんかね……)
半期に一度の頻度で送られてくるこれらの内容を、折本か巻本として出版すれば稼げるのでは、とコゥーハが考えたのは一度や二度だけではない。が、他國に自國の情報を売り渡すかつ恥を晒すことになり兼ねないことや、固いを通り越し噛み砕けずに歯が欠けるか喉に詰まらせて窒息死しそうなこの文章を、大陸統一を目指す他國の勉強熱心な武官とやや思考がズレた学者を除き誰が好き好んで読むのか、という疑問が常にあり、次の行動に移したことは一度も無い。あれらを嬉々として読んでいたあの頃の自分は、若かったのか。昔から続く習慣に流されているとはいえ、今でもこれに付き合う自分はどこか思考のズレた物好きなのか。湧いた疑問に即肯定してしまい、自身の老いと感性のズレを再認識せざるを得なくなったことにコゥーハは盛大な溜め息を吐いた。
結局、送られてきた書簡に関する感想と自身の見解を、時候の挨拶と共に認め始める。
(長の仮面の色が気になります、と)
筆を置き、緋色に染まる窓を背に、コゥーハはぐっと背筋を伸ばした。ぱちぱちという音に両耳を上げつつ盆の上に書簡を乗せ、窓の下を覗いた。
おそらく書簡をばらし、燃やしているのだろう。金属が膨張する音やモロロを焚く独特の臭いも混じっていることからして、同時に煮炊きをしているといったところか。予想が的中し、コゥーハは期待の混じる表情で釜の中を見つめる。
(おお。モロロ粥)
熱い眼差しに気づいたのか、釜をかき回す兵士がコゥーハを睨んだ。
『やんねーぞ。お前、もう食ったろ』
「わ、分かってやすって……」
笑った拍子に腹が鳴り、コゥーハは赤くなった頬を掻いた。片手を伸ばす相手に合図を送り、読み終えた二つの書簡を投げつつ、弾んだ声を上げる。
「あ。味見なら」
『絶対やんねーから』
目を輝かすコゥーハに舌打ちし、兵士は慣れた手つきで書簡をばらす。木簡を火にくべ、相手を掃うように片手を動かしつつ、早い朝食を貰いに来た兵士達に粥を配り始めた。食欲をそそる香りが立ち上る様を眺めつつ額当てを付け直し、コゥーハは組んだ両腕の上、窓の縁に顎を乗せた。
火の粉と白い湯気に交じって昇り、周囲に降り注ぐ"黒い光"。それを吹き飛ばす"金色の光"が、粥を啜り笑いあう男達を包む様子にコゥーハは微笑する。
コゥーハが"金色の光"に気づいたのは、"黒い光"がどういった時に"見える"のかを理解してから大分経った後であった。
"黒い光"に相反するように存在する"金色の光"。黒きモノを祓い、周囲に笑顔を、やる気を、勇気を広げる存在。ヒトがソレに包まれる時、その者は最も輝かしい笑顔をこぼす。"黒い光"が死を呼ぶものと喩えるのであれば、"金色の光"は生を振りまくものといえるのかもしれない。
それに気付いたコゥーハの視界は、濃い霧が晴れたかのように広くなった。並行して、黒と金とも異なる存在がることに気付く。
ヒトには一つの神が身体に宿るという。宿る神は基本的に四種類――
(明日あたりが、戦でしょうか。"明るい金色"が、近い)
コゥーハが顔を向ける城の外、徒歩で一刻の辺りにあるのは、赤と茶、白の混じる"金色"の光源。その周囲を包むように、城に降りるモノと同色の"黒い光"が遠方で巻き上がっている。ここ数日間観察してきた金色の光源は日を追うごとに大きくなり、比例するようにして城には霧のように立ち込める薄暗い光が濃くなる……この場に居る全員から発せられる緊張と不安が増していることもあってか、コゥーハの目には濃く見える。
「嫌な、気分ですね……まるで」
おや、とコゥーハは震える自身の黒い左手を持ち上げ、あらゆる負の感情を孕んだ低音で呟く。
「……おもしろい、ですね」
反対の手で宥めるように左手の中指――指輪の上に手を乗せ、コゥーハは目を閉じる。
散々相手を傷ついてきたというのに、己が時にはソレを受け入れるのを拒否するとは。いやはや何とも、と薄く嘲い、人形のように従順で死人よりも冷たい
「
不毛な事だと思いつつも、何が己を変化させたのかと考え、二人の――養母と養弟の、家族の穏やかな笑顔が真っ先に浮かぶ。非常によく似た、しかしコゥーハのそれとは僅かに違う二人の茶色の長い耳と養母の滑らかな尻尾、冷たい手を包む柔らかい手の感触、何より鮮明に刻まれているのは、家を出ていく自分を抱擁した全身を包む温かさと、たった一言。その一言を守るために、その一言を実現させるために。『最も望まぬ事態』を回避するために。自分は家を飛び出し、此処にいる。
(しかし)
取り巻く状況の悪化と時間経過から来る焦燥と不安、己に対するいら立ちと嫌悪がコゥーハを切り裂く。
『望まぬ日』が、いつ来るのか。コゥーハは
それでも――
キリリ、と金属が擦れる音が、指輪を外すコゥーハの言葉と重なる。星明かりに照らされ、
(――っ)
指から外れた指輪が、暗い床を撥ねる。
視界が歪み、ふらつく自分を制するようにコゥーハは窓縁を掴み、腕に体重を込めて立ち上がろうとするが、力を入れた足はあっさり折れ、躰ごと床へと落下した。呼吸が浅くなる中で立ち上がろうと床に両手をつくものの、全身の重荷に耐えきれずに曲がる。その上から降る咳から出る唾液は赤く染まり、茶色の床を汚す。
コゥーハは辛くも上体を起こし、徳利に手を伸ばす。窓の向かいにある柱に背中を押しつけ、懐から小さな袋を取り出した。苦しさで顔を歪めつつ袋から取り出した、黒い球体を見つめる満月よりも黄色い瞳が、発光石を乗せていた皿の水面に映った。
こんな物では、気休めにもなるかどうか。そう思いつつもコゥーハは薬を口に放り込み、水を一気に流し込む。呼吸が正常になるまで胸元を掴み続け、落ち着くと同時に手を離した。
力が抜けた仰向けの状態から、コゥーハは窓の外を見る。黒い瞳に映る、雲ひとつない夜空に、月はない。
(新月――)
「迂闊でした……」
誰も上ってこないことを確認し、助かりました、とコゥーハは薄い笑みを浮かべる。
月の満ち欠けにより、"アレ"の見え方は異なる。満月に近づくほど光は視界から消え、新月に近づくほど光は視界を覆い尽くし、特定の人間の死がはっきりとした残像として見える機会もしばしばあった。また、見える光りの量に比例し――新月に近づくにつれ、コゥーハの身体に対する負担も大きくなる。原因は不明だが、一時的に呼吸が困難になり、頭や内臓が引き裂かれるような痛みと、本当に引き裂かれているのか、口腔には血が滲む。幼い頃にコゥーハを診た
様々な色で構成される黒い霧が立ち込める、
(この日ばかりは、"アレ"を制御する法具も役に立たないですか)
コゥーハは窓の外へと身を乗り出し、そっと目を瞑った。発光石の光に照らされた首元を、ねっとりとした、熱い風が撫でる。瞼の裏側、隙間を縫ってきた複数の光が線を結び、コゥーハの意思とは関係なく一つの光景を焼き付ける。
黒い煙に、降り注ぐ灰と、火の粉。家々が炎上し、人々が、
鮮血で濡れた地面に敷き詰められていく、良く見知った彼ら
「――っく!」
窓縁を殴った拳から、数滴の血が落下する。直後、咳き込むコゥーハの手から血が流れる。
(西方は。昨日は、未だ)
そう、
炎に包まれた一軒の家。立派な屋敷の中でうずくまるように倒れている初老の女性と、彼女を支える若い男。親子であると、コゥーハの良く知る茶色で長い耳が上がる。
真上を見た二人の――コゥーハの養母と養弟、カナァンとムィルの顔が燃え盛る梁と共に消えた。
(――っ)
頭をかち割られたかのような痛みにコゥーハは大きく身を引き、腰を床に打ち付けた。すぐさま立ち上がろうとするが、再び咳き込む中で伸ばした膝が再び折れる。それでも自身の頬を抓り、床に拳を叩きつけて立ち上がり、靄のかかる視界の中で階段の手摺りを掴んだ。
「まだ……まだ時間は」
指の隙間から吹き出す赤い血に、複数の透明の液体が混じる。その一滴の落ちた先、床を黒く汚した液体の作りだした沼を踏みしめ、コゥーハは薬と共にぐっと唇を噛む。
赤い線が口端を伝い、滴となって再び波紋を作った。
※※※
朝焼けに焦がれる戦間近の城。戦支度に忙しいわけでもなく、奇襲を受けたわけでも無い城の内は、慌ただしい体を成していた。
また脱走兵か。と、城の警備を任されている将は、部下の報告に溜め息を吐いた。
「人数と、所属は?」
「人数は一人です。ですが……他の隊との連絡が上手く取れていない状態で、どの隊の者かまでは」
おいおい、と将はやや呆れた表情でこめかみを押さえつつも、あちこち走り回っている数人や、大声で不安や世間話――自分への悪態を吐く者達の声を聞き洩らさない。
「一人だろ? 何故ここまで兵が騒いでいる」
それが、と部下がおそるおそる返答する。
「その兵が脱走時に『チェンマが燃える』と騒ぎ立てたもので、兵達の間で動揺が走っているようです」
チェンマ、ねえ。と将は腕を組む。部下の左側――西方を一瞥し、くっと眉を上げる。
「チェンマはここから大分と西だ。叛軍の勢力とも遠く、戦火に巻き込まれることもない。それにあそこは叛軍に加わっていないだろう。若い
詳しいですね、と感心する部下に、あっちの出なんだよ、と将は手を振る。
「あっちの出身は多いからな……此処は。無理はない、か」
とにかく兵達を落ち着かせることを最優先に、という指示、部下は頭を下げ、すぐにその場を去った。入れ替わるように、他の部下が報告を伝える。
「申し上げます。脱走した兵一名がウォプタル一頭を強奪し、逃走。その際、数名が負傷」
ちっ、と将は舌打ちし、部下に確認を取る。
「『チェンマが燃える』とかいっている奴か?」
「は、はいっ」
上官の機嫌を感じ取ったのだろう、全身を硬直させる部下に、そんなに畏まらなくて良いから、将は頭を掻く。
「情けない……たかが一人相手に」
己を叱責するように呟く隣で、それが、と部下はへこへこと頭を下げた。
「何でもその兵の槍捌きが、えらい凄くて。口から血を流して今にも倒れそうな面してんのに、手元にあった槍を振っただけで、俺より強い人達を、ばったばったと倒していきますんよ。ばったばったと倒して――」
嬉しそうに話すんじゃねえ、と相手の頬を引っ張りつつ、将は報告の続きを促す。
「で。負傷者の状態は?」
あ、それなら大丈夫ですよ。と、相手は呑気な声を上げた。
「皆さん急所に一発入れられて気絶しただけなんで。いやー、しかし。いま叛軍に攻められたらどうしようもないですけどー」
不謹慎なことを言うんじゃねえ、と相手の頭を殴り、将は項垂れる。松明の明かりで照らされたその顔には、疲労の色がはっきりと見て取れた。
「……チェンマの前に、此処が燃える」