うたわれるもの 琥珀の軌跡   作:ななみ

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中空

 コゥーハが事情を飲み込むのに、多少の時間を要した。

 オボロが地方視察から帰ってきた日の夕刻。発光石の乗る皿に水を注ぐ女官達の側を、コゥーハとオボロは足早に歩いて行く。しばし無言で歩く二人だったが、やがて先を歩いていたオボロの足が止まった。

 誰も居ない事を確認するかのように目配りし、オボロは静かに腕を組む。

「あんたの故郷に行ってきた」

 涼しい風が墨色の髪を梳く。廊下と共にコゥーハの唇が真っ赤に濡れ、二つの影が交差する。

「チェンマは自分の故郷では……」

 虚しい言葉だ、とコゥーハは心中で思う。肯定と否定、はっきりと言わぬ己に反吐をつき、歪な口元をくっと矯正する。息を吐き、肩を竦めたコゥーハを睨み、オボロは淡々とした様子で感想を述べる。

「変わったところだな。大概の集落は、兄者の代理で行くと歓迎を受けるもんなんだが。表向きこそ兄者に従う事を言っていたが、態度は至って、外から来た客人をもてなす程度のものだった」

「少々閉鎖的な部分がある事は、周囲の集落からも認知されております。お気に障られたのであれば、どうかお許し下さい」

「いや。むしろ感心した。何処へ行っても、兄者に媚びへつらい自分達の要求ばかり押し付ける輩ばかりだからな。……それに、俺達が助けられなかったのは事実だ」

 チェンマの人々は決してハクオロ達を恨んでいる訳ではないだろう。コゥーハは口にしようとするが、決して彼らの口から聞いた訳ではないことから、と沈黙を貫いた。

「で。少し気になって、周辺の集落でドリィとグラァに探らせた訳だ。……"番人"の噂は随分前から聞いていた、捜した事もあった」

「……経緯は、理解致しました」

 ですが、とコゥーハは声を上げるが、オボロの零した感想に重なる。

「正直。受けるとは思わなかった」

「と、仰いますと」

「"常世(コトゥアハムル)の番人"は死んだと、集落のやつらは言っていたそうだ」

 目を瞬かせ、コゥーハは声を上げて笑った。擦れた笑いが口をつく中、震えが止まらぬ腕を片手で必死に支え、筋肉が動かぬ目元を片手を覆う。

()()()のは他ならぬ私ですから、どうかお構いなく」

 赤く輝く指先を拭い、コゥーハは再び歩き始める。慌てた様子で後を追ってくる相手に振り向くことなく角を曲がり、目的の部屋の前で止まった。別段特徴の見られない戸をじっと見据えながら、大きく息を吸った。

「今一度。申し上げておきます」

 自分が――"番人"が決して、"見る"ことで病を治すという事はあり得ないという事。自分が語ることは、"見た"結果に自身で解釈を入れたものである事。信じるも信じぬも自由であるが、"見た"現時点での結果を自分は決して曲げることは無いという事。

 改めて留意点を挙げ、相手が小さく頷くのを確認し……コゥーハは溜め息を吐き、最初に挙げたものを繰り返した。

「……救われたい。そんな目をされております」

 オボロは顔を歪ませ沈黙するが、否定はしなかった。隠すようにそっと目を閉じ、腕を組みつつも綺麗な姿勢を更に正した。

「トゥスクル様を――エルルゥを信じていない訳じゃない。だが」

 オボロはコゥーハの眼を見据える。燻る金色の、更に奥底にある深淵を。

「あんたが"見る"ことで、治療法が見つかるかもしれない。その可能性に賭けたい」

 ほんの数例、コゥーハが気になる点を指摘したことによりアトゥイが治療法を確立したことが過去に存在する。その事実を聞いたのだろうが――限りなく零に近い、とコゥーハは口にできなかった。エルルゥが優秀な薬師(くすし)であるという点も大きいが、何より相手の……オボロの気迫に、負けてしまったためである。

 冷静さを装う必死な虹彩以上に、全く諦めのない両目。夕日に照らされ、赤く燃えるような瞳を――自分から離れていこうとはしなかった者達と同じ目を、コゥーハは全くもって、嫌いではない。

 だから、頼む――膝を折ろうとしたオボロの腕をコゥーハは強引に引っ張り、地に頭をつけさせることなく相手を柱へ押し付けた。瞬きを繰り返すオボロに向かって、無感情に言い放つ。

「殿方が無闇に膝を折られるものでは御座いません。侍大将たる御方であるなら、尚更です」

 それでも、と仰るのであれば――コゥーハが握る手が、さらに強くなる。

「……全てが、終わった後に」

 相手の目が見開かれた刹那、コゥーハは握る手を解いた。部屋の入口に向き直りつつ自身の頬を叩き、筋肉が正常に動くかどうか確認する。

「本来であれば。アルルゥ様やカミュ様と御一緒に、最高のハチミツを頂きたかったものですが」

 ベナウィとハクオロへの愚痴と共に独りごち、コゥーハは正面の戸へ手を伸ばした。

 

 

 

 

 

 上品な暖簾の側を抜けると、ふわりと薬草の香りに包み込まれた。なじみ深い、すっとした空気にコゥーハは一種の安らぎを覚える。部屋は非常に整えられており、家具も必要最小限――衣服を入れる葛籠、茶器を置く机と椅子、手元を照らすために吊るされている照明、そして部屋の中心にある寝台には、この部屋の主が静かに微笑んでいた。

 アルルゥやカミュと同じ年齢か、少し大人びた印象の可憐な少女である。切り揃えられた前髪と、腰まである真っ直ぐ伸びる黒い髪は、濃い青紫色を帯びて艶やかに揺れる。頻繁に外出しないのか、華奢な身体から見受けられる肌は白くきめ細かい。が、発光石の光で更に際立つ美しさはウルトリィとは異なるものだ、とコゥーハは目を細める。気高さに通ずる凛々しさとは異なる、柔らかな物腰の中に一本の芯が通っているような強さを抱かせる。

 澄んだ水面が思い起こされ、コゥーハは人差し指で頬をつきつつ、ぼそりと感想を漏らす。

「……。似ておりませんね」

 背筋に伸びた殺気を感じ、コゥーハは静かに謝罪した。青い顔をするコゥーハに濃い茶色の耳を上げ、彼女はゆっくりと会釈した。

「お客さま。こんな格好でごめんさない。わたしはユズハと言います」

 寝台から出ようとするユズハを、オボロが素早く静止する。その際、ユズハの視線の動きにコゥーハはやや眉を寄せる。

(伺っていた通り、目が……)

 オボロに謝ろうとするユズハにコゥーハは微笑み、寝台の側にある椅子に腰かける。

 拍子に互いの手と手が触れあい、ユズハは耳を上げた。

「もしかして……コゥーハさま、ですか?」

「っ?」

 突然の問いかけに息を詰まらせ、コゥーハはオボロに視線を送る。無言で首を振る相手に頷き、自身の指を唇へ当てる。

 ユズハに会う前、事前にオボロから言われた事は幾つかある。その一つに、ユズハに()()()()が来るという事は知らせていない、とコゥーハは聞いていた。あくまで、一人の薬師(くすし)として、ユズハ接して欲しいと。

 ユズハの専属薬師(くすし)はエルルゥであるが、オボロは定期的に外部から薬師(くすし)を呼んではユズハに診せている。無論この事はエルルゥやハクオロも知っており――むしろ、エルルゥの勉強のために、という建前のもとで一部の補助すら出している。それをずっと行っていること……ずっと続いている理由も、同時に聞かされた。

(不治の病、ですか)

 薬で抑えられているが、躰を蝕む発作の間隔が日に日に短くなり、やがて死に至る――詳細な事をオボロは話さなかったが、深刻な状況であることは痛い程に伝わってきた。そして、本人には決して言わないで欲しいということも。

 コゥーハは深呼吸し、すっと目を閉じた。やがてゆっくりと目を開き、おもむろにユズハの手を取る。

「はい。自分はコゥーハと申します。お初にお目にかかります、ユズハ様」

 やや手荒れの目立つコゥーハの手の平。その上を、白くすべすべとした肌が何度も往復する。品の良い香が溶け合う、発光石の光が八方を照らす、息によって生じた風が消えゆく中――現在の時間を大切に抱くかの如く、ユズハは嬉しそうに息をついた。

「アルちゃんと、カミュちゃんの……言っていたとおり……」

 柔らかい温もりが、指と指の隙間を埋めていく。比例するかのように、接する二人の距離も近くなる。

「薬草と……墨と……ハチミツのひと……」

「さ、左様で、御座いますか」

 ユズハの笑顔を横目に、コゥーハは抱いてしまった一抹の不安を押し殺そうと努める。引き攣りかけた頬をすぐに修正し、思わず口にしそうになった物は、咳払いに混ぜて流した。

(お、御二人は。自分の事をどんなものと捉えておいでなのでしょうか)

 気になる。非常に気になるが、本人達に直接訊くのが激しく躊躇われる感覚に襲われる。聞けば最後、自身の中にある何かが崩れ落ちてしまうのでは、と。呆れる程に漠然としたものに囚われている己に、コゥーハは身震いする。

「それに……コゥーハさま?」

「も、申し訳ありません。アルルゥ様と、カミュ様とは御友人なのですね」

 首を傾げるユズハにコゥーハは謝罪し、やんわりと話題をユズハの日常へと移す。が、ユズハとの温かな談笑の側から流れてくる視線に、コゥーハの動きが若干鈍る。

(…………)

 部屋の端、オボロは無言で壁にもたれ掛っている。ただ、それだけではあるのだが――彼の鋭い視線は、何かを訴えかけるかのように真っ直ぐコゥーハを向いている。兄妹故か、ユズハは別段気にすることなくアルルゥとカミュについて楽しそうに話しているが、コゥーハにとっては、緊張と焦燥で笑顔が歪み――やりづらいことこの上ない。

 話が一段落したところで、コゥーハはすっと立ち上がる。ユズハに断りを入れ、オボロに向かってそっと耳打ちにするように口を手で覆う。

「……。オボロ様」

「その呼び方はやめろと――」

 申し訳ありませんが、とコゥーハはオボロを遮る。

「しばしの間、席を外しては頂けないでしょうか」

 何故だ、とオボロは苛立ちを見せた。が、コゥーハが耳元に手を当てて数拍後、みるみるうちに頬を赤らめていく。

「ま、待てまて!? なななんでユズハをは、は、は――」

「いい年した殿方が、何故そのように恥ずかしがっておられるのです? 全身に妙な痣がないかどうか、確認させて頂くだけです」

 それとも。生温かな目で、コゥーハはオボロを注視する。

「御一緒に確認されますか?」

「ば、ばば馬鹿を言うなっ!!」

「では、部屋の外でお待ち下さい」

 一度で終わらせる故、入念に診ますので。呼ぶまで部屋に入って来ないようにと注意し、コゥーハは元義叔父似の笑みでもう一言付け加えた。無論、ユズハに聞こえないように配慮して。

「万一。お覗きになりましたら……殺しますよ?」

 

 

 

 

 

 最後まで必死に抵抗を続けていたオボロをようやく追い出し、どっと疲れたようにコゥーハは溜め息を吐く。手元の小さな薬箱から最低限の薬師(くすし)の道具を取り出し、机に置いた。

 あの、と戸惑うユズハに、コゥーハは晴れやかな笑みで答える。

「どうぞお気になさらず。少々、御体を診させて頂いた後にオボロ様を呼びます故」

 はい……とユズハは頷き、そっと服に手を当てる。慣れた手つきで脱ごうとしたユズハをコゥーハは慌てて制し、まだ構わないという旨を伝えながら相手の額と手首に手を伸ばした。

 軽い触診の中、無言で座っていたユズハが小さく口を開く。

「コゥーハさま……」

「何でございましょうか?」

「コゥーハさまに……謝らないといけないことが……あります……」

 全く心当たりが無い、と首を傾げつつも、コゥーハは続きを静かに待った。

「この前は……ごいっしょできなくて……ごめんなさい……」

「この前、とは――……あぁ」

 養蜂場建設の件を詰めていた翌日のことか、とコゥーハは首を振る。ハクオロの命で一日休みだった――アルルゥとカミュと一緒にハチミツを食べることになった日。ユズハも一緒に過ごす予定だったのだが、体調が思わしくないため部屋で休むことにしたという事をコゥーハは後に知った。

 気にしていないし、気にすることはない、とコゥーハはやんわりユズハに伝えた。が、尚も顔を曇らせているユズハに苦笑しつつ、相手の服に手を掛けた。髪を分けた先、すうっとした薬の香りが留まる中、コゥーハは相手に了承を求めた。

「……こちらへ目を向けずに、しばしの間、そのままで」

 白く細い首の後ろ、頸椎のある部分に焦点を当て、コゥーハは指輪を外す。集中するべく大きく息を吸いながら目を閉じ、ゆっくり開いた()()()目で視野を広げる。

(これは――)

 口に血の味が広がり、コゥーハは軽く咽た。思わず背けていた目を戻し、目の前の光景を焼きつけるようにぐっと力を込めた。己が納得いくまで繰り返し、意識が保てる擦れ擦れのところで持つ手を離した。

 コゥーハは指輪を嵌め直し、全く表情が動かぬまま墨色の目を瞬かせる。震える片手を必死に制止させ、過去の記憶と照合していく。

「…………」

(ヒトの中に、"神"が複数いるなど)

 ヒトには一つの"神"――基本的に火神(ヒムカミ)水神(クスカミ)風神(フムカミ)土神(テヌカミ)のいずれかが身体に宿るというのが一般で知られるところであり、様々なヒトを"見て"きたコゥーハもそれを信じて疑わない。だが、コゥーハの目に飛び込んできた光景は、それを覆し兼ねないものであった。

 コゥーハにとって、ヒトの首筋はその相手に宿る神を"見る"のに一番適した場所である。首元と胸元……心の臓器がある場所は、"黒い光"が混じる事が最も少ない場所であり、最も"神の光"が強く湧き上がっているため、ヒトの"神"とその様子を特定する時には真っ先に目を向けている。

 数多く"見て"きた経験上。何がしかの病気の際、その者が持つ"神の光"に異変があることが多いとコゥーハは眉を寄せる。胃に異変があれば、胃の部分にある"光"が少なく代わりに"黒い光"が交る、といった具合に。そこから本来の病気や病状を特定し、対策を考える事が、コゥーハが行ってきたことの一つである。だがユズハの場合、それすらも特定が出来ない。濃い靄のように常に"黒い光"に覆われており、色とりどりな"光"が絶え間なく変化している。さながら、ぶちまけられた沢山の絵具がそれぞれ主張し合っているかのような。

(……複数の"神"が存在し、常に相反を繰り返していることで、ほぼ全身に過度な疲労を与え続けている。それに)

 現在は落ち着いているが、"神達"が大きな相反を起こせばどうなるのか――繊細な身体に服を着せつつ、コゥーハは歯噛みする。おそらくエルルゥが処方している薬は、"神達"が争うことで発生した疲労を緩和させるものであり、根本的な解決へ向かわせる物ではないのでは、と推測する。仮に幼い時から続いているのだとすれば、何度か大きな相反――発作を経験しているのではなかろうか……彼女の目を覗き込んでいた事にはっとし、コゥーハは努めて冷静に息をついた。

「現在は特に問題ないように見受けられますが、御体調の方は如何ですか?」

「はい……いまは、気分がいいです……」

 左様ですか、とコゥーハは微笑する努力をし、道具を片付け始める。もう終わりなのかとユズハに問われたので肯定し、オボロを呼ぶかと尋ねた。しかししばらく経っても相手からの返答が来ないため、どうしたのだろうかと首を傾げる。

「ユズハ様?」

「あの……コゥーハさま……」

 こんなことを訊くのは失礼だと思うが、と前置きし。おずおずとした様子で、ユズハは口元に両手を当てる。

「コゥーハさまは……お兄さまのことが……きらい、なのですか……?」

 えっ、とコゥーハは漏らした口元に手を当てた。何故そう思われたのか、と逡巡するものの、悲しそうな顔で小さく丸まっているユズハに向かって肩を上下させた。

「いえ。苦手では御座いますが、嫌いではありません」

「苦手……ですか……?」

「自分めは、洗濯が苦手で御座います。しっかりと洗剤を付けられない、洗い終えた洗濯物をきちんと絞る事ができない――それと同じです」

 ユズハは良く分からないと言いたげに首を傾げるが、コゥーハの嫌いではないという回答に瞬きをし、微笑した。

「よかった……」

 穏やかに微笑むユズハの側で、コゥーハもつられるように目を細める。

「ユズハ様は、オボロ様のことが好きでいらっしゃるのですね」

「はい……ユズハは……お兄さまのことが好きです……」

 微かに戸が揺れたものの、ユズハは気づくことなく、オボロについての言葉を並べていく。誰よりも優しく、ユズハの願いを聞いてくれて、とてもあたたかい――流れていく単語の数は止まることを知らない。僅かに頬を紅くし、楽しそうに話すユズハにコゥーハは頷き――ふっと思い出した過去の記憶に寂しさを覚え、心の奥底に仕舞い込んだ。

「コゥーハさまは……何故、お兄さまのことが……苦手、なのですか……?」

 話を振られ、コゥーハは一瞬息を詰める。あはは、と情けない声で笑いつつ、未だ晴れぬ空を見つめる。

「少々。知り合いの昔に似ていると思ってしまいまして」

「ともだち……ですか……?」

「さあ。友達というには、どちらも違うかと自分は思いますが」

 きょとんとしているユズハに微笑し、コゥーハは口元に手を当てる。

「昔は自分めも若かったこともあり、些細な事で衝突しあいましててね。ただ、理想は高く眩しく、突っかかりたくなるほど真っ直ぐでした」

 故に、一種の憧れがあるのかもしれない。ひねくれた性格が、寸でのところで言葉を押し戻させた。

 第一印象こそ口ではああ呟いてしまったものの、ユズハとオボロは案外似ているのかもしれない、とコゥーハはユズハの目を見つめる。黒く大きな目は曇り一つなく、先程から捉えているコゥーハから逸れることはない。真っ直ぐな視線は薄い冗談を躊躇わせ、無垢な瞳は相手の奥底へ問いかける。コゥーハにとってそれは得てして苦痛を伴うが、不思議なことにひどく少ない。

 コゥーハは普段通りに話を閉じた。もはや反射になっているのだろう、と心中で笑ったものが、自嘲を帯びた微笑として現れる。

「少し、長くなりすぎてしまいました。本日はもう遅いですし、自分はこれにて――」

 違和感を捉え、コゥーハは言葉を切った。窓から風も入ってくることはなく、じめっとした空気が部屋を支配する。

「ユズハ様?」

 相手から反応は返ってこない。代わりに聞こえるのは、浅く激しい呼吸音……己の口に手を当てるコゥーハにとって、誰のものであるか判断することは容易な事であった。

 コゥーハがユズハの名を大声で叫んだ直後、部屋の戸が素早く開かれる。血相を変えたオボロがユズハに駆け寄り、彼が口走った単語にコゥーハは眉を顰める。

(発作……先程は特に問題は――いや)

 馬鹿げた思考だ、と一蹴し、コゥーハは再び薬箱に手を掛ける。二人の間に割って入り、ユズハの額に手を当てる。

 美しい長髪は呼吸と同じように乱れ、白い肌は高熱で明らかに赤く変化している。苦しそうに掴む布は濡れ、ゆっくりと広がる染みはコゥーハの手の平へと到達する。

 手首に指を当てていたコゥーハの手に、ユズハの汗が滑り落ちる。生温い、粘液のようにゆっくりと流れゆく感触が、古い記憶を刺激する。発光石の光から丁度陰になっている左手……深く、暗い、黒い影は糊を連想させ、主の喉元を締め上げる。

 急激に重くなる相手の腕、次々と上がる悲鳴に、巻き上がる怒号に呪詛――忘れるという行為ができないコゥーハの手が、途端に震え始める。謝罪か、弁明か、その上を強烈な既視感が塗り潰し、震えをより一層加速させる。

 一拍か、二拍か。思考が停止していたコゥーハだったが、オボロに右手を掴まれ現実へと引き戻される。 

「ドリィ。すぐにエルルゥを――今の時間、何処にエルルゥがいるか、分るか?!」

 コゥーハは目を見開く。相手と距離を取り、苦々しく首を横に振る。

「申し訳御座いません。担当が変わりましたので、自分は昼までの御予定しか存じ上げません。推測でよろしければ――」

 幾つかの場所を挙げると、部屋の外へ足音が消えていった。茶色の耳を上げるも、振り向くことなくコゥーハは俯いたままその場で硬直する。

 右手の下、膝との間に挟まっている左手は尚も震えている。指輪をしている中指はひどく痛み、己が手汗が罅割れた肌に沁みていく。

 このままでは――

 一旦は指輪に手を掛けるが、異なる主我が足を引っ張る。自分には向いていないオボロ達の視線が、更に強く身体を縛り上げる。

 現在の状況において、自分がした方が良い最善の策というものは、コゥーハ自身理解しているつもりである。そして、何より早さと速さが大切であることも。だが、こびり付く黒い記憶が全身を焼きついて離れない。困惑、拒絶、憎悪――今更ながら、この後に起こり広がるかもしれぬ負の感情に怯える自分自身。己が小ささを禁じ得ないが、固まった筋肉は反応を示さない。

 考えよ、とコゥーハは唇を噛み、生温い滴を舐めた。ようやく動いた左手で顔を覆い、仮に自分が此処で何もしない場合ユズハはどうなるのか、と眉を寄せる。丁度眉間に当たっている指輪の感触が冷静さを与え、幾重もの思惟が駆け巡り……幾重もの感情が広がった故に、折り合いがつくことはなかった。が、最後の最後、判断材料の一つとなるであろう問いかけが、コゥーハの心に向かって真っ直ぐ降りた。

 己が意思は、何処に存在するのか――

 ふっと。昨日ハクオロに言われた問いが、再びコゥーハの心を突く。冷静な瞳で問われた、答えなき、その問いが。

(私は――――)

 目を見開くと同時、コゥーハの手の震えが止まった。何故だか分らぬが、ハクオロのあの眼差しが不思議と落ち着きを取り戻してくれる時がある、と微笑する。そう呟く彼女の視線の先……べっとりとした手の平の中心には、琥珀の指輪が鎮座していた。

「グラァ様。薬草を集めに行かれるのでしたら、しばしの間お待ち頂けないでしょうか」

 コゥーハは懐から筆記具を取り出し、金色の瞳で真っ直ぐユズハを見つめる。隠す行為をしない、ひたすらに目の前の現状を理解するべく目を開き、奥底に眠る無感情な記憶へと干渉する準備を始める。

「必要となる薬草の特定を致します」

 入口から窓へ風が抜けていったが、コゥーハは全く感じることはなかった。聴覚も、嗅覚も、味覚も視覚さえ――手の中にある指輪へ全てを乗せ、空白の机にそっと置いた。

 




謝罪:
描写の一部をカットおよび修正しました。申し訳ありません。(2015/12/15)

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