うたわれるもの 琥珀の軌跡   作:ななみ

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嚆矢

 振り返ってみれば。最後に見た彼の顔は、これまでない位に輝いていたとコゥーハは思えた。

 時は、兵士達に交って日々を送っていた――丁度、大きな地震が発生した日の数日前である。紅紫色の丘、黄色い花弁が舞う白昼の中、すっと佇む背中から伸びる白い両翼は大きい。快晴の空を見上げ、尺にあったオンカミヤリュー独特の青い服を整えながら、コゥーハとそう齢が変わらない彼は、開口一番こう呟いた。

「少し、変わったな」

 柔らかな物腰に合った独特の低音に気圧されたのか、コゥーハの足が止まった。

 数歩、加えて半歩。近くはない距離を残したまま、コゥーハは笑いながらも鋭い視線を相手の背中へと向ける。

「食事が不味くて、痩せましたから。人形のような美しい髪も服も肌も、現在は持ち合わせておりませんよ」

「ふむ。次は根に持ちやすい者の傾向について研究してみるのも悪くはない、か」

「……御冗談を」

 顔を歪めてしまった事を自覚しつつコゥーハは俯く。無意識に出てしまった舌打ちを手で隠す彼女に、彼は――ディーは、ようやく振り返った。垂れた白い短髪をそっと分け、明るく端正な横顔で相手をわらう。

「冗談ではないさ」

 彼の意図は未だに分からない。だが、赤みがかった黒い瞳が放つ自信に満ちた視線――普段よりも勢いのある視線に、額に手を伸ばしたコゥーハの眉は自然と上がった。

 ケナシコウルペ軍の額当てを取った相手の身形をしげしげ見つめつつ、ディーは質問を投げる。

「その服装で、オンカミヤリューに会って問題はないのか」

 つけられるといった下手はしない。それに、とコゥーハは目を細くし、汗で濡れた両耳の手入れをしていた片手を寂しい胸に当てる。

「懐にある物でどうにもなりましょうよ。貴方こそ、どのように此の地へ?」

 國境はアレが――そう言いかけ、コゥーハは軽く咳払いをし、ぎこちなく訂正する。

「若い侍大将になってから、一層厳しくなった筈ですが。もちろん文も」

「蛇の道は蛇、良く出来た言葉だと思わないか」

 若い彼もまだまだ……いやしかし今回は不自然に緩い、と顎に手を当てるディーに、コゥーハは眉を顰める。

「まさか出奔を」

 まさか。至極呆れたようにディーは肩を上下させる。しかし彼の瞳は決して笑ってはいない。常に一歩、二歩も三歩も先を見据えるように遠く、同時に微かな緊張と不安が入り乱れている。

「最初に見つけた蛇の道を、大切に保存しているだけだ。尤も、次回からは消えているかもしれないが」

 変わらない。そう零しかけたコゥーハを、二種の香がくすぐる。

 紅紫色の花が舞い上がる。吹いた風は白い前髪を掻き上げ、額に巻かれた紺色の布が現れる。コゥーハにつられたように布の位置を直しつつ、ディーはくっと眉を上げる。

「己にとって利にならないことを行える程、(わたし)はそう感情的にはなれない。あらゆる知が否応なく集結する場所と、閲覧できる特権を手放すなど、馬鹿のすることだ」

 断言しても()い。くっと顎を引き、ディーはコゥーハの正面で対峙する。服に留まった黄色の花弁を手に取り、花弁を挟んだ指を相手へと突きだした。

「師は――本当に愚かな御人だったよ」

 心底軽蔑する様を、怒りが隠った声を、過去に何度耳にしたか分からない。ただいずれも、はっきりと丘に響いた言葉同様に、確信が感じられた。墨色の瞳の隣を掠めていく視線に「変わりませんね」と俯き、潤んだ目をコゥーハはそっと閉じる。

 コゥーハがディーと出会ったのは、ベナウィと初めて出会う一年程前のことである。"常世(コトゥアハムル)の番人"が少しずつ大陸中に知れ渡り始めた時期、チェンマにやって来る者達のほとんどが"番人"を訪ねてくる中で、アトゥイを訪ねてきたと言った若い彼は異彩を放っていた。彼はコゥーハに対して別段興味を示さなかった。三言目にはアトゥイについての話……正確には、若い頃にアトゥイが行っていたという逸話――語る相手は武勇伝と言い張るが、その大半は他人からしてみれば迷惑千万な悪戯好きにしか聞こえない話ばかりである。にわかには信じ難いと思うためか、妙に心が痛むためか、コゥーハはそれらの話が好きではない――の話を持ち出し、過程でアトゥイが過去に学者や國師(ヨモル)の任に就いていたという事をコゥーハは聞かされた。そして、行きつく話題は決まってアトゥイの研究に対する姿勢である。名前を変えた一部の論文を除けば、大陸中に全く残されていない彼の研究内容。彼が破門された折、完成未完成問わずほぼ全てが破棄されたが、学者時代にアトゥイが唯一自らの手で放棄した不可思議な研究が存在する、とディーは語った。

 その研究だけなのだ、と。何故断念したのか、止めざるを得ない状況になったのか、出奔した事と関係があるのではないのか――アトゥイが生前だった頃の二人は、その点で良く言い争いをしていた事を、コゥーハは現在も尚はっきりと思い出すことが出来る。無論、アトゥイが一切何も語らなかった事も。

 その一点だけを除けば、二人は極めて良好な関係であったとコゥーハはそっと目を開く。現にディーはアトゥイに何度も弟子入りを頼み込み、結局は折れたアトゥイに「元服(コポロ)を終えてから、薬師(くすし)として」と言わしめた。頭の良さも、好奇心の多さも向く矛先も、多少の禁忌を犯してでも研究をとことんまで突き詰める姿勢も同じ……故に、放棄した唯一が、彼にとって許せなかったのかもしれない。

「それで。アトゥイ様が研究されていた内容というのは、出来の悪い自分めには未だお話頂けないのでしょうか。いくら他の方に研究されたくないからと言って、およそ無縁の者にもお教えされないとは、些か無粋で御座いますのでは」

 さてね。最早挨拶となりつつある問いに、彼はこれまたいつも通りの口調ではぐらかし始める。コゥーハは両耳を垂らし、また適当に堀を埋めてみるか、と心中で溜め息を吐いた。が、相手の酷く冷めた呟きに、汗が一瞬で乾いた。

「……"神"は実在すると思うか」

 掴んでいた額当てが、花畑の上に落下した。生温い風が墨色の前髪を掻き分け、乾いた額を露わにさせる。自分がどんな顔をしていたのか、コゥーハは思い出せない。ただただ、ディーの言葉の真意をひたすらに理解するべく、頭の中で何度も繰り返す。独り言なのか、あるいは回答なのか――

 コゥーハの結論は出ていない。無論その場でも理解できたわけでもなく、故に心中で腹を立てながら、コゥーハは額当てを拾い上げる。

「オンカミヤリューが奇妙な事を仰いますね。貴方方は、そういった神々が見えると伺っていますが」

「あ、ああ。そうだ」

 はっとした様子でディーは頬を掻き、苦い菓子をつまんだような笑みで肯定した。

「だが個人差はかなり存在する。私とて彼女達のよう――いや、皇女達のようにはとても」

「彼女? ……皇女?」

 もしや、とコゥーハは額当てを懐へとしまい、ぐっと眉を顰める。

「もしやその顔でウルトリィ皇女とカミュ皇女を誑かしたのですか?」

「なっ――」

 否定が返ってくる際に出来た不可解な間を、コゥーハは詰問する。が、ディーは相手の厳しい問いを避け続け、大体、とわざとらしく襟を正した。

「私は()()()男に見えるのか?」

 見えますね。にべもないコゥーハの強い回答に、確信が加わる。

「少なくとも。自分の浪費癖を棚にあげて、研究費をたかっているのでしょう?」

「っぐ」

 否定できないところが非常に痛い。手で顔を覆ったディーを、コゥーハは追撃する。

「それで?」

「否定できないのは、その一点だけだ。考えても見ろ。仮に事実なら、私はこんなところで女性と会ったりもしないし、第一自由に研究できない」

「おや。新手の口説きですか?」

「私は人形を口説かない。いや、ヒトらしい人形にも興味は無い。口説くのは見果てぬ真実だけだ」

 学者も生活に苦労するのだよ。ディーは黄色の花弁を風に乗せ、やってきた紅紫色の花をそっと手に取る。

「何年か前に、ウルトリィ様が薬草について勉強されたいと仰ってね」

 師の技術も伝えられたのであれば良いのだが、と微笑し、ディーは空を仰いた。

「当時は戦火が今よりも絶えず、適当な医学士どころか学者自体が居なかった。故に、若い自分に白羽の矢が立った。並行して、カミュ様の御勉強もムント様が御不在の時には見る形となった」

「貴方の知識だけは、書庫をも超えますからね」

「光栄だ。と、褒め言葉として受け取っておくことにしよう」

 素直に感心しているのだと伝えるも、軽く手を振った相手にコゥーハは口を尖らせる。が、やや大人げないことを自覚し、仕切り直すように咳払いを入れた。

「つまり期限付きの専属教師ということでしょうか」

「近いな。ただ、任期が切れる前にえらく御二人に好かれてしまったようでね。ウルトリィ皇女に至っては、私の事を師とお呼びになったことも……やめて頂きたいと再三申し上げたが、あの様子では聞き入れては頂けなかった気がする」

「良いではありませんか。貴方にとっては得することしか御座いませんのでしょうし」

 軽いコゥーハの一言に、何がおかしかったのか、ディーは盛大に吹き出した。

 手から漏れ出る甲高い笑い。女性に受けの良い優しい笑いは変化し、嘲りの強い声がコゥーハの頭を大きく揺らす。だが、見せる嘲笑は外ではなく内面――剝がれた仮面を被り直すこともなく、さながら悪戯が発覚した子供のようにディーは自虐的な表情で顔を歪ませる。

「ああ、そうだ。コゥーハは正しい。非常に正しい」

 見据えてくる黒い瞳は、決して自分を向いてはいない。目標を定め、最も効率よくソコヘ到達する方法を必死に探し、あるいは真っ直ぐに捉えて進む視線にコゥーハは胸が抉られることを痛感する。喋る人形はおろか、目の前の研究にしか眼中にない。達成のためならどんなモノも利用していく、狩猟者にも通ずる怖さ――喩えるのであれば、剣というよりは、放たれた一矢。真っ直ぐに軌跡を描くその矢を、コゥーハは止める術を知らない。いつ放たれたのか、行き着く場所も分からぬ、未だに理解できぬ恐怖は確実に喉を締め上げた。

 紅紫色の花を東風に投げ、ディーは花が西へ向かう様を見届けた後、ゆっくりと懺悔した。

「私は皇女達を利用している」

「……」

「現に御二人のおかげで、本来であれば立ち入りが禁止されている場所へ入る許可を頂いた事もある」

「そして禁書を断りもなく持ち出してみたり、立ち入り禁止区域に()()()()侵入してしまった事を不問にして頂いたりと」

 やっと出てきた言葉に対して慌てるディーに、コゥーハはそっと息をつく。ムント様の説教はもう懲り懲りだ、二度としない、と信用ならない返答に眉を上げつつ、おもむろに確認を取る。

「アトゥイ様も」

 勿論、とディーは即答した。が、ふっと口元を緩め息をつき、非常に穏やかな横顔を相手へ見せる。

「しかし……あの人の研究は、私の好奇心をほぼ全て満たしてくれた。師と兄弟子と過ごした時間は、最も充実していたものだ」

 嘘はついていないだろう。そう強く思いたい、と零したコゥーハの言葉は本心である。小さい彼女の呟きに、ディーは品が欠けた笑いを返し、相手から離れるように一歩を踏み出す。

 突風が大きな音を立てて二人の間を別つなか、白い翼が僅かに開く。

「だが。そんな日々も、数日もすれば終わる」

 訂正する。そう前置きし、ディーはくっと顔を上げた。

「私は思ったよりも感情的で、馬鹿な部類の人間だ」

 天を仰ぎながら、ディーはその場に立ち止まる。振り返ることもなく、無言のまま立ち尽くす相手に、コゥーハも押し黙る。

 手を伸ばせば、辛うじて手を取り合える距離の中央、冷たく吹き荒れる風に、花の香りを感じ取ることはできない。ひりひりとした痛覚と重苦しい沈黙、茨の道を掻き分けるかの如く一歩を踏み出し、コゥーハは小さく息を吸った。

 アトゥイが放棄した研究……その完成こそ、ディーが長年さがし求めてきたモノだと、過去に交わしたやり取りからコゥーハは確信していた。

「師を超えたというのですか」

「超えた、という表現は適切ではない。私はただ、長い年月を経て、同じ場所に立っただけなのだろう」

 分からない。苛立つコゥーハに、そうだな、とディーは微笑する。尚もその顔を向けることなく遠くを見つめ、全身を風に靡かせ続ける。その隙間を縫うように現れた少量の"黒い光"に、コゥーハの眼が大きく見開かれる。故に、相手の唐突な問いに反応できるわけもなかった。

「ヒトは、何時から人となり得たと思う。ヒトの祖は、全ての『根源』は」

 一瞬で消え去った"ソレ"に、コゥーハはそっと胸を撫でおろす。が、相手の重い雰囲気に気圧される形で口を開きつつ、手にある指輪を弄り始める。

「それは。ヒトの祖は『大いなる父』が創り――」

「模範回答は止せ。大神(オンカミ)への信仰が無いも等しいコゥーハ自身の意見が聞きたい」

 オンカミヤリューがそれを言って良いものなのか。心中で思いながらも、コゥーハは婉曲に否定した。疑念の目を向ける相手に両耳を動かしつつ、自分なりの回答を探るように繋いでいく。

「アトゥイ様の研究に、モロロの品種改良があります。類似した物で、ウマ(ウォプタル)の研究も」

「あれか。人工的に甘い種や害虫に強い種を作り出すという。ウマ(ウォプタル)の成果は彼の集落で今も細々と行われていると聞いているが」

「試験段階ですが、左様です。成功例も、少なからずは。それらが作為的なものではなく自然に行われた場合、その種は進化した、と呼びます。少なからず、植物も動物もヒトも、形はどうあれ進化の道を辿ってきている。その逆、進化の過程を辿れば」

「具体的には何時だ」

「……分かり兼ねます」

「ああ、そうだ。分からないのだよ。誰にも分からない」

 語尾が僅かに弾んだことをコゥーハは見逃さなかった。無論、彼が次に何を言うのかも予想はついた。

「人の祖は何処にあるのか――若き日のアトゥイ様が、唯一放棄された研究だよ」

 腕を組んだ状態で、ディーはコゥーハを正面から見据えていた。尚も笑みを崩さない相手だが、身体を突く緊張からか、全く笑っていない印象をコゥーハは抱く。過去に似通った場面は何度かあるが、その時とは異なる一抹の不安が、全身を掴んで離さない。

 ふっと。"黒い光"が過った光景がコゥーハの脳裏を掠める。激しく首を振った彼女に、ディーは訝しみつつも話を続けた。

「この話は遥か昔から禁忌、研究対象にしてはいけない物の一つだ」

「わざわざ危険を冒すとも」

「危険と禁忌は必ずしも同じとは限らない。禁忌とは時に為政者によって作為的に仕組まれ利用される、世の常だ。現に歴史が物語っている」

「…………」

 ぞくり、とコゥーハの背筋が粟立った。恐れを知らぬような勇ましさ、勢い……自分が持つことができないが故の憧れと、畏怖にも近い恐怖――咄嗟に隠した手の震えはしばらく止まらなかった。身内批判とも取れる彼の言動にも、うっすらと"見える"光景も、見て見ぬ振りを決めた。自分に何が言えるのか、そう思考を停止させる程に、コゥーハは相手の気に呑まれていた。

 陽がやや傾きを始めた昼下がり、風は尚も吹き続けていた。雑音を振りまき、ただただ温く纏わりつくそれは、コゥーハが抱いている不安や悪寒は取り掃おうとはしない。徐々にコゥーハの息が小さくなっていくなか、ディーは額の布をそっと触れる。

「必死に資料をかき集めてね。密かに続けたよ」

 分からないものほど、かつもう少しで手が届きそうなものほど……これ程までに好奇心をくすぐり、焦がれるものは存在しない。生き生きと語る彼の言葉に、一切の淀みは無かった。相手の気迫に圧されたのか、コゥーハは詳細を思い出せない。だが彼が理路整然と話す様子、自分が付いていけない部分が幾つか存在した点は、彼を端的に表現する言葉を落とした。

 天才。彼は至って、天才と呼ばれる部類の者である――ディーは分かりやすい態度で嫌悪を示したが、コゥーハは意地として撤回する表現を使用することはない。口でこそああ言ってしまったものの、皇女の教師に選ばれたことも決して不思議ではないと。

 彼の言葉を借りるのであれば自分は博識だというが、博識と天才は意味が異なる、とコゥーハは眉を寄せる。彼の発表した論文や主張は斬新かつ突飛な物が多く、時折常人の理解できる範疇を超越している。現に、記憶力が良いだけのコゥーハでさえ付いて行くのがやっとであり、論文を書くたび他の学者達や学会では多くの批判が寄せられている。様々な規律を破っては注意されを繰り返していることもあり、問題児扱いされていた事もあった、という話もコゥーハは彼の口から聞いたこともあった。唯一、彼の論文を正しく理解できたのがアトゥイであり、アトゥイが分かりやすく咀嚼してくれなければ、ディーの事を天才――どちらかといえば奇才、だとは微塵にも思わなかったに違いない、と頭を掻いた。

「物事は普く人々に知らされるべきだ……何処の学者の言葉だったか? それは私にとっては建前でしかないし、衒学者たる自分の欲求を満たすだけのものでしかない。『大神が眠りし地(オンカミヤムカイ)』に何が眠っていようと、仮にオンカミヤムカイが真実を捻じ曲げていようと、私の渇いた好奇心が満たされれば、それで構わないさ。それに」

 それに――

 耳を劈く突風は、ディーの補足を確実に遮った。それでも、微かに見えた唇の動きからコゥーハは内容を把握した……はずなのだが、と歯噛みする。酷い立ちくらみと生臭い味のする吐き気に襲われ、当時の記憶は曖昧なままである。足に強い力を込め、暗く狭い視界をこじ開けるように念じ、必死に感情を押し殺しつつ聴いていた記憶――

 結局。コゥーハは断片だけを軽く纏めたものを、一言の中に集約して相手へぶつけた。

「禁忌、ゆえに、言えぬ」

「まあ。間違ってはいない」

 若干怪訝そうな声を上げながらも、ディーは額に手を当てつつ顎を引いた。

「私はただ、真実を知りたいだけなのだよ」

 その一言がコゥーハの心に残り続けている。

 人の祖は何処か。それが長年に渡り追い続けていたモノなのか。コゥーハは訊ねたが、ディーは否定の答えを返した。

 つい最近までは。頬を撫でていた指の隣で、ディーの型良い口端がくっと上がった。

「あの人は既に見つけていた。全ての始まりを、『根源』を」

 ただ、と強く吐き捨てるように息を置き、ディーは視線を下げた。額に当てた彼の指に力が入り、生じた汗が立った爪を微かに滑らす。

「満足したから止めた、とは到底思えない。納得できるわけがない。我々が血を流して切り拓いて来た道が、生き残るため必死に編み出してきた術が、全てが――……ならば、私達が生きる意味は何だ」

 手の影に隠れた彼の表情を読み取ることはできなかったが、彼の言動から明らかな焦燥と確固たる怒りが滲み出ていた。畳みかける口調は荒々しく、所々詰まった息は苦悶の顔を想起させた。全くもって、先程までの自信は微塵もなく、一瞬だが……一瞬だが、何かに怯えたような呻きが、コゥーハの耳を捉えた。

 コゥーハと同様の物を感じ取ったのか、はっとした顔で肩を竦め、ディーは普段に似た微笑みで取り繕った。

「……らしくもなかった。すまない」

 とにかく、と咳払いをした後、ディーは襟を正した。

「私は『答』を確認しにいこうと思う、全ての始まりが、如何なるものなのか。そして、今までの旅路を知りたいのだ。我々の歩いてきた知の道を」

 そこから。一拍置いて、ディーは眉を上げた。

「そこから、私の研究が始まる。私の、本当の道を拓く」

 決意表明のようだ、とコゥーハは口を閉じた。同時に、自分に言い聞かせているとも。自信に溢れた口調は、今もなお茶色の両耳に残り離れない。輝く黒い瞳も、真っ直ぐでしなやかな身体も、かつてない程に良い彼の姿が、はっきりと瞼の裏に焼き付いている。しかし、その時も無意識に視線を逸らしていたのではないのか、とコゥーハは思うことがある。

 コゥーハは、ディーの研究……否、ディーという相手を理解できないでいる。己が凡人であるが故、同じ目線で眺めることができない。彼が秀才が故に、追いかける背中は遠い。結局のところ、相手があまり語らなかったとはいえ、彼の研究もまともに理解できていない。同時に――そんな、常に自分の先を歩く彼は、コゥーハにとってひどく眩しい。悔しさはある、が、彼は何処か次元の違う存在……さながら”神”のような眩しさに、立ちくらみを起こすことがしばしばある。そしてそれを言い訳にし、彼と正面から向き合っていないのではなかろうか、と強く抱かせる。己が嫌うことを、自分はやっているのでは、と。

 無言で俯くコゥーハにディーは目を丸くし、布を弄りながら相手へと少し歩み寄る。

「どうした、呆けて。お前らしくもない」

 だが、とディーは目を細めた。

「良い顔だ。屋敷にいた頃よりも随分とヒトらしく、幸せそうだ」

「何も、変わっておりませんよ、何も」

「そういうことにしておこう」

 額当てで顔を隠したコゥーハに、ディーはゆっくりと拳を突き出した。

「話せて良かったよ」

「左様ですか」

 ああ、と頷くディーに、コゥーハは差し出されたものへと軽く拳を当てた。オンカミヤリュー特有の風習ではないが、何故か気に入っているらしい別れの挨拶に苦い笑みを浮かべ、重みの少ない社交辞令的な言葉を付け加える。

「道中お気をつけて」

「心配ない。剣の師の実力を疑うなど、弟子のすることではない。無論、若い彼に捕まって格好悪い姿を晒すつもりも毛頭ない」

 黒い鞘が目を惹く細く長い刀を佩き直しながら、ディーは踵を返した。一歩、また一歩と踏み出す彼にコゥーハは手を伸ばし――全身に走ったモノによって凍りついた。

 背中に走る、奇妙な”影”、”光”の量こそ少なく、さながら薄い霞のような存在。だが、ディーの身体全体を確実に覆っていた。こんな例は初めてだ、コゥーハが零した直後、彼女の胸に強い感情が溢れ始めた。

 どす黒い、言い知れぬ不安と焦燥が心中で渦巻く。明確な理由など欠片さえ見当たら無いが、器が持つ限界を超えた存在は確実にコゥーハを侵食していく。関節に、呼吸に、まばたきさえもままならない……強い直感に近いソレは、やがて感情や理性さえも塗り潰していく。 誰かが……自分なのか、誰かが、強く呼びかける。離すな、掴め、と。さすれば――

 気が付けば。コゥーハは相手を立ち止まらせるような事を口走っていた。

「一件が片付いたら、破門されたら、如何なされますか?」

「そうだな……御二人に謝罪の文を送る。事がことだけに、黙っていた事も含めて申し開きを山ほど考えるさ」

「研究は」

「続けるとも。知りたい事はまだまだ存在する。例えば」

 相手の中心を抉るような視線を向け、ディーは自身の眉間に指を当てた。

「コゥーハの"アレ"とか」

「…………」

「結局、全ては解決していないからな。……おいおい」

 何て顔をしている、と困惑した相手に、コゥーハははっとする。

 泣いていたわけではない。だが、乾いた目元をコゥーハは擦っていた。熱くなった目頭を手で覆い、揺らぐ視界を認めず、自分らしからぬ提案を腹の底から押し出した。

「約束。しませんか」

 馬鹿を言うな。苛立ちを含む声で、ディーは横を向く。口調とは対照的に、消えゆく彼の横顔は微笑を浮かべていた。相手の心臓を指差す仕草と共に、生意気さが鼻につく笑みが、コゥーハの――手が置かれた胸の奥、心の片隅にひっそりと刻まれた。

「互いに枷は嫌いだろう?」

 

 

 

 

 

◇◆

 

 

 

 

 

 その一言が、彼と交わした最後の言葉である。そうコゥーハは締め括り、疲れた顔で息をついた。

「大まかではありますが。しかしこうしてきちんと思い出してみますと、全く知らないという訳ではありませんでした。申し訳ありません……おっと」

 声を落としつつ、反応の無い相手の様子にコゥーハは微笑む。座った状態で寝息を立てているベナウィの躰を寝台へと寝かしつけ、ほんのり赤い額へと手を乗せる。

「ただの風邪、のようですが――……いらっしゃるのでしょう、義叔父上。よろしければ幾つかの薬草を譲っては頂けないでしょうか」

 コゥーハが目を向けた先、部屋の入口付近が微かに揺れる。数拍した後、溜め息と共にチキナロがそっと顔を覗かせる。問題ない意をコゥーハから確かめた後、ゆっくりとした足取りで部屋へ入り、薬草三種と道具一式をコゥーハへ差し出した。

 丁度求めていた物であることに舌を巻きつつ、コゥーハは相応の路銀を相手へと渡した。

「悪いですが。そこにある書簡は全て持って帰ります故」

 コゥーハの一言に腹を立てることもなく、チキナロは空の棚を始点に書物の山々を見渡す。

「一向に構いませんとも。むしろ処分の手間も省けますから、助かります」

「……禁忌は高く売れないと?」

「売れないことは御座いません。ですが、相手と状況が極端に限定されてしまいます故、中々に難しい。第一、自分が扱えない物は売り物にさえなりえません。貴女さえ理解し難いものを、一介の商人が理解できるとでも」

 逆を言えば、チキナロが扱う数々は彼自身が熟知しているという事になる。目の前に立つ人物に恐ろしさを改めて思いつつ、一介の、ねえ、とコゥーハは軽く頭を抱えた。

「何故、自分が理解できなかったと?」

「おやおや。図星でしたか」

「っぐ――お巫山戯にならないで下さい」

「分らないものは部屋へ持ち込み、ひたすら読み込む癖が昔からありますからね。もしやと思った次第です、ハイ」

 冷静に指摘され、コゥーハはばつの悪い顔で咳払いをした。薬の調合の準備を整えながらも、チキナロへ向ける視線の鋭さは変わらない。

「それで。本当は義叔父上は何のために」

「それは流石に申し上げにくいのですが」

「初めてお会いした際に、アトゥイ様を殺そうとした事と何か御関係が?」

「またその話ですか。断じて、違いますよ。……とはいえ。私の勘違いだったとはいえ、事実で御座いますからね」

 疑って頂けるだけ、というのはありがたいことです。軽く頭を下げた後、チキナロは部屋の中央に立つ。刺すような視線に動じることもなく、杖で床を叩き始めた。コツコツと響く音の中、一点だけ違う音に耳を上げ、該当する箇所の床を引き剥がした。

 想定以上に軽く外れた床下から、一本の木簡が取り出された。通常の物よりも二倍近い太さの書簡にコゥーハは目を丸くするも、すぐに手渡されたそれに目を向ける。

(日記、のようですが)

 日付から始まる文字の羅列。紛れもないアトゥイの筆跡に多少の胸を躍らせながら、コゥーハは少し唇を濡らした。

「ふむ。『今日はコゥーハが初めて――』……――っ?!」

 弾んでいたコゥーハの顔が、みるみる内に赤く染めあがっていく。

 コゥーハの推測通り、それはアトゥイの日記である。が、ただの日記ではなく、育児日記――その中でも、コゥーハが初めて行ったモノを纏めた、帳簿にも近い内容がびっしりと書かれていた。初めてモロロ粥を食べた、初めて歩いた、といったものまでは微笑ましかったが、生理現象のことまでこと細かく記載されている様にコゥーハは思わず口元を押さえた。一つ一つの行動に対してこれまでもかと言わんばかりの賛辞と喜びが書かれており、一字一句にさえ目を通すのも恥ずかしい……何処か世間とはズレた、彼らしいといえば彼らしい愛情を垣間見る形となり、言葉を失った。

「――――」

「アトゥイ様はソレがあまりにも恥ずかい、と。しかしながら、自ら捨てることはそれ以上に許せなかったそうで」

 多少、本当に多少ですがお気持ちは分かりますとも、と隣で頷くチキナロからコゥーハは咄嗟に離れた。お持ちになっては? という提案に泣きそうになりながらも軽く俯き、ゆっくりと手にある物を相手へ差し出した。

 ささくれ立った木簡が、心地良い強さでコゥーハの指を刺す。

「燃やして下さい。こういった恥ずかしい物は、持ち主へこそ届けるべきです」

「…………」

 チキナロは木簡を受け取り、大きく開いた目でコゥーハを見据えたまま立ち尽くす。表裏のない、普段とは趣の違う、商人特有の笑顔ではなく真摯な顔つきで、小さく息をついた。腹を探られることは気持ちの良いものではないが、時折見せる相手の真剣な視線――自分という存在を真っ直ぐ捉えているような視線は、不思議とコゥーハの気分を落ち着かせる事がある。決して心を許した訳ではないのに、だ。

 しかし、コゥーハがそう微笑んだのは束の間。受け取った木簡をしげしげと眺め、ぶつぶつと内容を読み上げ始めた相手にコゥーハの顔が真っ青になる。

「ちょっと、義叔父上。何をなさって――」

 いえいえ。と笑うチキナロの目は、細い。

「今後の商売を見据えて、少しばかり知識を仕入れようかと思いまして。イエイエ、アトゥイ様には許可を頂いております故」

「ま、まさか自分めを揺する材料にする気ですか?!」

 コゥーハの問いに、チキナロは答えない。裏表のある、普段通りの、商人らしい微笑みを湛えながら、小さく首を傾げた。全くもって可愛くない――むしろ尻尾の先まで冷気が走る。急激に早まった鼓動を抑えながら、コゥーハは声を上擦らせつつ相手の持つ木簡へと手を伸ばした。

「取り消します、今すぐ取り消し致します。自分で処分しますゆえ早急に……お返しに、お返しください!」

 コゥーハの手は届くことはなく、側で起きたベナウィの一睨みによって儚くも散った。




補足:
・原作から拾えるディーの情報が極端に少ないため、八割以上オリキャラと化しております。故に彼に関する設定は一部を除き全て独自設定となっております。何卒、ご了承頂ければと思います。
 原作の情報は常に求めておりますが、見落としも数多くあるかと思いますので、何か御座いましたら、ご指摘ください。
・彼の容姿につきましてはTVアニメ版に準拠しております。

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