うたわれるもの 琥珀の軌跡   作:ななみ

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隠処

 学者の部屋とはこういうものか。そう呟き、入口の前で立ち尽くすベナウィに、コゥーハは目を丸くする。

「足の踏み場が存在する……さすがは義叔父上。こと整理には長けていらっしゃる」

 焦燥や驚きとは異なる、えも言わぬ緊張を向けられ、コゥーハは慌てて部屋を見渡した。

 無常というよりは無機質、殺風景とは言い難い煩雑な場所である。外の景色が"常世(コトゥアハムル)"だと感嘆されるならば、此処は間違いなく"この世"である。地面に散らばっている加工済みの木版や机に広げられたまま埃塗れの木簡、微かに鼻を刺す金属の錆びた臭いがそれを証明している。倉庫、と喩えたベナウィの一言は正しく、外にあった井戸やウマ(ウォプタル)を繋いでおく小さな小屋は併設されているものの、厨等の生活するための物は見当たらない。

 ああ、とコゥーハは笑いつつ、罅の入った壁のある一角を指差した。

「厨は御座いましたが。十日を過ぎても研究に没頭し、つまるところ屋敷にお戻りにならないアトゥイ様に、カナァン様が文字通り……激怒されまして。粉々に破壊されてしまった次第です」

「……。()()のでは?」

「鋭さは、さすが。ですがカナァン様がお怒りになり、破壊するようにと御命令された事は事実です。一応、自分はアトゥイ様を擁護しましたが、連帯責任だと説教され、結果は御覧の通り」

 女性を怒らせると面倒なのですよ、と両耳を下げ――正直なところ。ベナウィの無自覚さによって生じる女性達の怒りが自分へと向けられる現状を、どうにかして軽減させたいコゥーハとしては、決して軽く流したくないのだが――首を傾げるベナウィを部屋の奥へと促す。が、点々と置かれている物に目を奪われている相手に息を吐いた。

「発明品がお気になりますか? ……尤も、それらが一体どんな目的かつどんな方法で使用するものなのか、分からないとは思いますが」

「この赤い布にも別の使用方法があるかもしれない、と」

 ベナウィがそっと手にした布を一瞥し、青ざめた顔でコゥーハはう゛っと呻く。何故そんな物が此処にあるのか、という疑問ではなく、よりにもよって何故そんな物にベナウィが興味を示したのか……もっと言えば、道中で頭を過ったベナウィに対する一つの噂が再び視界を掠め、コゥーハは必死で感情を抑えつける。

「そ、その、アトゥイ様しかあり得ない私物は。本来の目的と使用方法しか、御座いませんよ。殿方の大事な下の部分を隠す目的の下着――」

 おほん、と赤い顔を隠し、コゥーハは説明を省略した。色や悪趣味な柄はアトゥイの趣味だと付け加えたこともあり、ベナウィもコゥーハの意見に同意する部分があるのか、二人の間には微妙な緊張感と粘りが淀んだ空気を作っていく。無言に無風、雲によって生じた暗がりが更に重圧を掛けて来る中、何と申しましょうか……といった憔悴しきった顔を俯かせ、ベナウィは静かに布を置いた。

「ハイカラですね」

「……貴方の語彙力に、深く感服致します」

 咳払いをし、コゥーハは相手へと頭を下げた。

「博識な貴方に驚嘆し、いま一度見習わせてください。ですが」

 そのような苦い顔で、使い慣れない俗語を無理して使わずとも。趣味が悪いと仰って大いに結構、とコゥーハはニッコリと笑う。

「とはいえ。顔立ちと性格のとても良い完璧な貴方であれば、きっと着こなせるに違いありません。よろしければ、如何ですか?」

「要りません」

 コゥーハの冗談にベナウィは即答した。本当に? という相手の追撃も全て叩き落とし、側にある物体へと関心を移した。いつもと変わらぬ空気へ戻ったことを感じながら、コゥーハはベナウィがしげしげと見つめる物の説明を軽く行う。

「それは眼鏡(がんきょう)と呼んでいる物です。完成形ではない、らしいのですが」

 球面のように丸みを帯びた、眼の大きさと形そっくりに加工された二つの硝子。二つを金属の縁で覆い、片方の端同士を金属の細く短い棒でくっつけている、という物体である。

 使い方は、とコゥーハはソレを手に取り、硝子を繋ぐ棒に指を伸ばす。硝子より曲線がきつく掛かった、まるで橋のような棒の長さは丁度指の幅と一致しており、爪の上に掛けた棒をベナウィの鼻の上へと乗せた。

 直後、ベナウィの身体が大きくふらつく。

「……――?!」

 大丈夫ですか? と、ニコニコしながらコゥーハはベナウィを支えようとする。が、ベナウィは素早いコゥーハの対応を怪しいと拒絶し、壁に背中を預けた。

「気分が……」

 多少なりとも赤い顔で咳をした相手に引っ掛かりを憶えつつも、コゥーハはベナウィの顔から発明品を外した。

「これは、主に高齢で眼が悪くなった方々のために開発した、視力矯正装置です。目の良い方が使用すると、非常に気分が悪くなり時には視力低下を招く恐れがあるとか」

 恐ろしい形相で睨んでくるベナウィを無視し、コゥーハは笑って続ける。

「二つの硝子の厚さや曲げ具合によって見え方を調節するそうですが。硝子を加工する高い技術が求められるため、大量生産ができないということで、開発を断念したとか」

 自分としては、とコゥーハは金属の縁から硝子を外し、再度ベナウィの顔へと掛けた。

「こうやって。装飾品として身に付ける方が、よほど需要があると思いますがね」

 お似合いですよ、とコゥーハは手鏡を見せる。しかしベナウィから直ぐに装飾品を突き返され、小さく息を吐いた。

「部屋にある物は全て、アトゥイ様の発明品です。危険な物は御座いませんが、怪我の恐れもありますのでくれぐれも慎重に扱って下さいませ」

 ベナウィの様子に目を配らせつつ、コゥーハは手元の棚を無作為に漁り始める。

 筆記具や法具、計器や料理本、等々。それら全てが眼鏡と同様に金儲け重視で発明されたが、様々な要因が重なり断念された物である。しかしながら、現在の……チェンマでは無理かもしれないが、皇都で、あるいは今後の政策次第――厳密に言えば、斬新な政策を打ち出すハクオロの手腕次第では現実味を帯びる可能性を秘めている物ばかりだ、とコゥーハは目を細める。

 それが目的なのか、と呟くベナウィに、コゥーハは姿勢を正す。

「あくまでも可能性の話です。第一、聖上がお気に召さなければ、どれほど自分にとって素敵な物であっても全てが屑と化す訳ですし。とはいえ、チキナロ義叔父上が捨てずに残している物です。商人が興味を持つ代物、時期と環境次第では化ける可能性に期待したいですね」

 チキナロがどんな人物か、と唐突に問われ「お会いになった通り、そのままの御方かと思います」とコゥーハは適当に返した。案の定、不服な感想が返ってきたため、しばし熟考する。

「絶対に利益になるものしか売らなかったアペエ養伯父とは違い。常に先を見据えた、将来性のある物に対して積極的に投資を行う、挑戦的な御方だとは思います。たとえ目の前の取引で損失が出ようとも。恐ろしいことに、そのほとんどが成功している辺り、先見の明を持つ御仁かと」

「逆に言えば、将来が感じられない物には手を出さないということですか」

「左様ですね。理由なく動くという事は滅多に……おや、不機嫌そうですが、如何しましたか。貴方が義叔父上に、先の戦当時のハクオロ様について調査を依頼した事は以前伺いましたが。今更ながら、利用されたかもしれない事が不服なのですか?」

 そういう訳では……と言葉を濁すベナウィに、コゥーハは腕を組む。

 先の戦に限定すれば。当時の國内事情からして、余程の利や義理がない限り、インカラ(オゥ)の政権に未来はないと判断し、叛軍の勢い――ハクオロの見事な統率力と戦果に食いつく商人は、決してチキナロだけではない、とコゥーハは推測する。現に、現在も彼が統治するトゥスクルは多くの商人に目を付けられ、コゥーハはそれらを裁く仕事をベナウィによって押し付けられている始末である。

 不満不平を婉曲に、しかしきっちりとコゥーハは零した後。単にチキナロの行動が他の商人よりも早かっただけである、と付け加えつつ、棚から取り出した一つの発明品を振る。

「ですが。侍大将に信頼されていない現状を義叔父上はどう乗り切るのか、見物です。客との信頼を大事にする商売の末に、ほぼ國交のないクンネカムンとの繋がりを勝ち得たというあのヒトが。侍大将との信頼を修復するのか、はたまた聖上との信頼強化を図るのか。あるいは他の相手を開拓するのか、大穴でトゥスクルから手を引く、はさすがに考えにくいですね」

 楽しそうですね。と、半ば呆れに呟いた相手に、コゥーハはくっと眉を上げる。

「あのヒトは。決して嫌いではありませんが。正直なところ、全てを信じている訳では御座いません」

 ですから……と、部屋の奥、閉ざされた扉を一瞥したコゥーハの隣で、ベナウィは顎を引く。

「追い払ったのですよ。あの部屋へ、最初に入って欲しくはなかったもので」

「トペニは」

 コゥーハは大袈裟に肩を上下させる。そして、自分が如何なる表情をしているのか分からない顔へ、そっと人差し指を突いた。

「勿論です。それ以外に、何も御座いませんよ」

 

 

 

 

 

◆◇

 

 

 

 

 

 トペニはチキナロを見るなり目を輝かせ、相手を指差しつつ嬉しそうに大声を上げた。

「あ。ハチミツのじいさん!」

 笑顔を崩すことこそなかったものの、明らかに両耳を下げたチキナロに、コゥーハはクスクスと笑った。

「義叔父上の齢では、既におじいさんですか。これからは一層、労わる必要がございますね」

「これはこれは。思いやりのある若い姪を持てたこと、誇りに思いますです、ハイ。では早速――」

 駆け寄ってきたトペニにチキナロは飴を渡す。渋い顔を俯かせたコゥーハを無視しつつ、商人特有の高く通る声で内部の状況を淀みなく説明していく。つまるところ、アトゥイの遺品で溢れ返っている小屋の中の整理――とりわけ、アトゥイが独りで籠っている事の多かった奥の部屋が手付かずなので、重点的に行って欲しいという相手の話に、コゥーハは顎に手を当てる。

「アトゥイ様に入るなと言われた、術法が掛けられたあの部屋、ですか」

「トゥスクル國樹立後。忙しい貴女の手を煩わせたくなかったもので、オンカミヤリュー族の方々に解呪を依頼致しましたが。彼らが仰るには、相当高度な術法のようで無理と断られまして。是非とも術者に会わせて欲しいと縋られました事もありました」

 ハチミツが良いとねだるトペニを宥めながら、チキナロは僅かに目を開く。

「アトゥイ殿によると。指輪は彼の扉を開く鍵だと仰っておりましてね。確か、貴女も同じ推測をしておりましたはず」

 大した記憶力だ、とコゥーハはくっと眉を上げる。

 アトゥイの生前、コゥーハは薬師(くすし)の勉強をするために幾度となくこの小屋を訪れていた。その際、アトゥイは必ずコゥーハに渡した指輪を一旦返却するように命令していた。更に独断で小屋へ行くことを禁じた事や、扉には術法が掛かっているから触れぬようにと念を押した点、彼が部屋へ入る時に指輪を扉へと押し付けていた場面を見る限り、指輪が鍵の役割を果たしているのではとコゥーハは睨んでいた。

 ただ。解せぬとコゥーハは顎を引く。

「何故、義叔父上が解呪の方法を知っていらっしゃるのでしょう」

「勿論。生前のアトゥイ殿に依頼されたからです。あの部屋にある、とある物を処分して欲しいと」

 約款をご覧になりますか、と懐を探るチキナロへコゥーハは軽く手を振る。そして人差し指に頬を当て微笑しつつ、心ない嘘を言葉にする。

「なら。全部燃やしてしまえば良いのでは」

「……」

 それは、と目を大きく開くチキナロの言葉を、静観していたベナウィが継いだ。

「燃やせなかったのではないでしょうか」

 怯えるように縋ってきたトペニの身体をそっと抱き寄せ、ベナウィは小屋の片隅を見つめ続ける。

 古い、黒く焼け焦げた跡が壁一面を覆っている光景が、コゥーハの瞳に焼き付く。微かに香る雲煙に何色にも受け付けない黒い色――幾重にも上塗りされてきた、綺麗とは決して言い難い炎が身体に絡みつき、悶える心を強く縛る。焼け爛れ、切り刻まれ、押し潰された痛みはさして気にならない。あの日、集落が燃えた日に見た微睡のような光景が、烙印の如く再度押される事に叫び声を上げかける。カナァンの亡骸が、ムィルの最期が、二人の命を奪った者達の顔が……そして、最後に憶えている少年の、母親を必死に庇っていたトペニの表情を思い出す。

「…………。申し訳ありません。深く、お詫びを」

 彼に――トペニに謝罪しようとコゥーハは顔を上げるが、向けた先にトペニはいない。慌てて首を動かそうとするが、数歩先の下からした声に両耳を上げる。

 言わなくちゃ。確かにそう言ったトペニは、コゥーハの正面で俯いていた顔をぐっと上げる。

「ねーちゃん!」

 迫力ある相手の声にコゥーハは半歩後退るが、すぐに足を戻してトペニの言葉をじっと待った。

「あんとき……全部燃えたあの時」

 ええ。ただそれだけ、コゥーハは返した。再び俯いた相手を、手足を大きく震わせている彼の手を取れるはずもなく。両耳を注意深く上げながら、深呼吸したトペニの一言を静かに待った。

 落ち着いた声だった。刺々しくも、苛立ちも、悲しみもない、純粋なトペニの一言がコゥーハの傷に沁み渡る。

「母ちゃんを助けてくれて、ありがとう」

 一歩足を引いたコゥーハの手を、トペニはぐっと引いた。その上に一粒の、彼よりも高い位置から落下した滴が濡らした。

 父ちゃんとの約束なんだ。助けて貰ったのなら、誰であろうと礼を言う事……たった一つの約束なのだと。独り言のように呟く彼の手を引く力は強い。小さくも熱い手、震えているも確かにある感触、伝わってくる相手の心にコゥーハは熱くなる目元を押さえる。指先に流れる滴に迫り上がる息を必死にのみこもうとするも、その痛みと重みに耐え兼ねて拒絶した。

 強引に手を離し、踵を返したコゥーハにトペニは目を丸くしながら叫ぶ。

「本当は、みんなだって――」

 トペニの一言は、彼を抑えたベナウィによって遮られる。

「貴方が言う事ではありません」

 けどよ、とトペニは口にするが、暗い目をしたベナウィの視線に俯くように首を振って押し黙った。優しく肩を叩れる少年を一瞥し、チキナロは立ち尽くしているコゥーハに目を向けつつ、こめかみを掻く。

「全く。どちらが年上なのか」

 頭に手を乗せられ、コゥーハは思わずその手を拒否しようとする。が、耳元へと掛けられた声に一旦静止し、ゆっくりと彼の手を下げさせた。

「貴女が。私の事を信用していないこと位、分っておりますとも」

 ひどく低くて暗い、商人らしからぬ籠ったチキナロの声は、コゥーハの頭を急速に冷やしていった。目元に走る熱さも、咽そうになる喉の痛みも流れ去る。良く言えば冷静さを取り戻させ、悪く言えば嫌でも緊張させられる――頬を撫でる微風を感じながら、妙なヒトだ、とコゥーハは襟を正す。

 信用されていないからこそ今回あえて呼んだ事を社交辞令のように付け加え、チキナロはそっとコゥーハから距離を置く。

「トペニを送ってきます。私が帰ってくる間に、全て整理しておきなさい。その前に」

 相手に顔を向けることなく軽い礼を述べたコゥーハに、チキナロは手拭いを渡した。

「みっともない顔を晒すものではありません」

 不思議と打算の感じられない、微笑混じる元義叔父の方へと、結局コゥーハは振り返ることはなかった。無意識に上がった肩を下げ、ただただ温かい重圧に耐えながら、乾いた布に湿った親指を押し付けつつ彼が去るのを待った。

 

 

 

 

 

◇◆

 

 

 

 

 

 熱くなっていた目頭を擦りつつ、俯き加減でコゥーハは唇を噛む。同時に、コゥーハの手から物が滑り落ちる。キンと、金属特有の冷たい音が点々と広がる室内で、墨色の瞳が優しく揺れる。

「と申しましたものの、一つだけ。こと商人という付き合いだけの関係では、全く問題ありません。むしろ……どのような繋がりがあるか測り兼ねますが、持って来る商品の品質の高さは、他の商人達の比では御座いません。使えば使うほどに、良さは分かるかと思いますよ。使いこなす、という前提で」

 押し売りみたいになって申し訳ありません。と、話題を切るように、コゥーハは落とした物を拾い上げる。察したように溜め息を吐き、自分が強く握りしめていた物の説明を求めてきた相手に頭を下げ、普段通りに微笑した。

 コゥーハが月明かりに晒す物は、箸と同じ長さに伸びた金属の棒である。しかし箸と違い僅かに曲線を帯びており、先端は鍬を思わせるように三叉になっている。

「これは。食事を行う際に小さな物を取るために作られた、箸の代用品ともいえる品です。形からもお分かりかと思いますが、鍬や銛を見て閃いたのだとか。名前は特に考えていない、と前に仰っていましたね」

「楊枝や匙が存在する時点で、不必要だと思いますが。それに金属というのは……箸の代用品としては、些か無粋ではありませんか」

 貴方らしい意見ですね。とコゥーハは手にある棒をベナウィへの前で振って見せた。

「楊枝よりも折れにくい点は個人的に評価しているので、これを埋もれたまま破棄するのは惜しい。改良するなり、柔軟な思考をお持ちの聖上やエルルゥ様からお知恵を拝借なりすれば、新たな用途が見つかるやもしれません」

 良い使い道に心当たりは? とコゥーハは、そっと棒を相手の手へ乗せた。相手はしばし考えるように様々な角度から眺め、眉を下げつつも一つの意見を口にした。

「護身用の武器として。懐に忍ばせるにしても手頃な大きさですし、手の甲に刺すだけでも、相応の痛みを与える事はできるかと」

「……。夢が、御座いませんのですね」

「では。貴女は何か思いつくのですか?」

 詰め寄るベナウィの視線から逃げつつ、そうですね、とコゥーハは別の棒を手に取る。三叉ではなく四つ叉となっている理由を考えることをひとまず放置し、相手の問いに向き合った。

「携帯用の拷問道具として?」

「その使い道の何処に夢があるのいうのですか」

 子供の躾に、夫婦喧嘩に、と色々な案がコゥーハの口から飛び出るが、どれも全く夢が感じられない、とベナウィは憮然とした表情で溜め息を吐いた。物を壁に留めておく役割として、とコゥーハが最後に提案した意見については多少の関心を示したものの、実験した結果が芳しくなかった事もあり、おもむろに軌道修正をした。

「本来の目的を忘れていませんか」

 率先してアトゥイの発明品を手にしていた貴方には言われたくはない、という叫びをコゥーハは押し殺す。しかし同時に、少なからず養父の道楽に付き合ってくれた彼の優しさに感謝を述べつつ、部屋の奥へと相手を促した。

 木版や鉄棒の障害物を片手で掻き分け、コゥーハは扉の正面に立った。後方で訝しむベナウィの視線を浴びつつも、金色の瞳で先を睨みつけたまま立ち尽くす。

 一見すれば、厳重な扉とは言い難い。巨大な鎖もなければ、錠も存在しない。埃で塗れているものの、細かく綺麗な紋様が掘られた小さな引手に手を掛け動かせさえすれば、すんなりと開くに違いない――それが、生涯誰も入れる事の無かったアトゥイの部屋、通称、あらゆる禁忌を収めた部屋でなければ、とコゥーハは慎重に手を伸ばす。が、その右手が引手に到達する事はなく、過去に部屋の主が語っていた言葉が思い起こされたと同時に、指一本手前で彼女の指先が止まる。

『術法の効果か。封印(リィ・ヤーク)の応用ゆえに、私にとっては大した事はないが……簡単に言えば、体内にある"神"を制御する機能に干渉して、首を切断し、心臓と頭の内部を破裂させ、股を割くだけだ。構造が単純過ぎるとは思うのでな、すぐに破られるのは癪だし他の効果も付け加えるつもりだが』

 つうっと項から垂れた汗が、コゥーハの首筋を粟立てる。その周囲を濃い"黒色"が包んだのは刹那よりも速かった。首だけではなく胸に腹部、つまるところヒトの急所と呼ばれる部分を的確に"黒色"は現れ、ソレの源流は間違いなくコゥーハの右手から溢れている。胸の鼓動が速くなり、呑んだ息が腹部で微かな痛みを催す――"ソレ"が知らせる警告はコゥーハの動きを確実に束縛する。

 義叔父上が私を呼ぶ訳ですか、とコゥーハは苦く笑い、唯一"黒い光"が寄り付かない左手、厳密に言えば左手にある琥珀(コゥーハ)を扉に当てた。

「しかし」

 扉から生じた突風、逆立った前髪と共に"黒い光"が四散し、埃と共に扉から剥がれ落ちた札らしき紙が落下した。窓から入ってきた風に乗って今にも飛び立ちそうなそれを拾い上げ、コゥーハはくっと眉を上げる。

 おかしい。と心中でコゥーハは呟く。

(紙が新しい……)

 アトゥイ亡き後、この場所は一旦カナァンの所有物に、カナァンが亡くなった後はムィルの物となったものの、カナァンが生きている時に、所有権の一部がチキナロの物となった――カナァンの物となった事を承知した時点で関心が離れてしまったために詳しい経緯をコゥーハは知らないが、部屋の一部の所有権を譲って欲しいとチキナロが希望し、カナァンとムィルが承知した、という事を知らされていた。実際、入口近くの一角には商品と思われる薬草が大量に置かれており、独特の癖字で詳細を記した木簡も付けられている――ため、ムィル死亡後はチキナロに全て所有権が移っている。その所有者たる彼らによれば、アトゥイ死亡後にこの場所に入っているのはカナァンとムィル、そしてチキナロだけだという。無論、危険な術法が掛けられた扉になど近づく訳も無く、故に最後に術が施されたのはアトゥイの生前……長く見積もって十年前と推測される。だというのに、手に取った紙は色褪せ一つもなく真っ白で、傷みも無くしっかりとした強度を有している。紙の質を落とさない術法でも掛けられている可能性も否定できないが、刻まれた文字の微妙な癖が――アトゥイの筆跡には見られない撥ね具合が、コゥーハの思考を揺らす。

 カナァンでもムィルでも、チキナロでもない。この場所を、この部屋の存在を知る彼……得意げに笑むオンカミヤリュー族の知り合いの横顔が頭を過り、コゥーハは激しく首を振る。

 まさか。とコゥーハは声を発して想像を断ち切り、勢いよく目の前の扉を開く。

 激しく振動した扉とは対照的に、部屋の中は不気味さ漂う静けさである。天井は思ったより高く、梁の側を伝うように出口へ出ていく風はひんやりとしている。被っていた埃を丁寧に払い、コゥーハは入口手前に置いてある発光石の皿に少量の水を注ぐ。部屋全体に新たな術法が掛かっていないかと見渡し、安全だと確認を終えてから静かに歩き出す。

 思ったよりも広く物が少ない、というのはベナウィの感想であるが、先程の部屋が雑然としていただけだろう、とコゥーハは返す。事実、所蔵されている木簡の量は半端なく、分野ごとに整理された棚は一つの資料を取り出すのも一苦労する程にびっしりと敷き詰められている。部屋にあるアトゥイの遺物の大半はそれら木簡や巻物であるが、下の棚にある物体――以前、コゥーハの前で研究されていた物に、コゥーハは目を大きく開いた。

「ソレにはお手を触れないでくださいまし」

 片側が塞がっている金属の筒と、穴と同じ大きさに生成された球体の金属が大量に入った袋をじっと見つめていたベナウィに対して、コゥーハは声を荒げた。これは、と問うた相手に対して沈黙するものの、結局は問いに答える。

「武器ですよ」

 未完成ですが、と付け加えるも、俯くコゥーハの表情は険しいまま影に隠れる。

「薬の混ぜ合わせにも、禁忌と呼ばれる混ぜ合わせが御座いましてね。その禁忌の一つ、倉庫一つを一瞬で焼き尽くす程に強力な燃焼を引き起こす禁忌を、有効活用できないかと模索された成れの果てです。禁忌を筒の中で引き起こし、同時に発生する強力な力で鉛の金属を押し出す……左様です、弓に代わる遠距離用の代物をね」

 廃棄ですか、と呟くベナウィに、コゥーハは肯定する。

「当然です。自分には、完成させる技術も頭脳も意志も持ち合わせておりません。それに」

 コゥーハはそっと金色の目を閉じる。影ではない、微かな"黒い光"に隠れたソレから目を逸らすように。

「コレは。世に送り出してはいけないものだと。私の直感が、そう告げているのですよ」

 完成に至れば史実が大きく変化するであろう、とコゥーハはそっと目を開く。戦の形態が確実に変化し、百年――それ以上の進歩が見込まれるが、同時に多くの人々がソレによって命を落とす。

 正直なところ、そこに放置された武器をアトゥイが開発しようとした理由をコゥーハは理解できないでいる。否、厳密に言えば、様々な研究の動機全てが「己の好奇心を満たすため、というただ一点でしかない」と語っていた彼の気持ちを未だに理解できない、と唇を噛む。発明は金のため、とコゥーハはベナウィに語ったものの、結局のところアトゥイにとっては全て()()()でしかないようにコゥーハは思えた。逆に彼の好奇心が満たされさえすれば、アトゥイは途中段階の研究を何の躊躇いも無く放棄した。眼鏡や箸の代用品も決して例外ではなく、開発に掛けた時間や資金――夢中になると周囲が見えなくなる程に没頭した日々や情熱さえ関係ない。彼の研究を趣味だと一括りにし、飽きたから棄てたと結論付ければそれまであるが、アトゥイの好奇心に全くの法則性を見出せなかった悔しさが、自分がそれを理解し少しでも埋められない事への寂しさが、そして同じ不安を呟いていたカナァンの繊細な微笑みが、コゥーハの心に尚も渦巻いている。

 それでも。コゥーハはいつもと同じ調子で微笑む。

「この不安定な情勢、新しい武器の開発は美味しい話だと思いますが。如何ですか? 持ち帰り、試しに聖上へ提案しますか?」

 コゥーハが口にした冗談は、彼女の予想通り、冗談となった。

 外倒しに開け放たれた窓。少々の黴臭さが舞う様を、月明かりが煌々と降り注ぐ。その中央、縁に持たれつつ、渡された木簡を広げるベナウィの白い顔が映える。青みがかった黒い瞳は相も変わらず冷たさと暗さが入り乱れ、遠近の物を捉えているようにコゥーハの目には映る、が、不思議と定点を見据えているようにしっかりとしている、とも同時に抱かせる。高い鼻梁、きつく結ばれた唇も変わらぬ強さと暗さと固さが現れているものの、確信があるのか、微笑んでいるかのような印象さえ漂う。

「聖上は。間違いなく破棄されると思いますよ」

 ベナウィの口調は静かだが、力強い。

「人を活かす事で、何かを生み出す事を考える御方だと思いますので」

 ふーん、とコゥーハは適当に相槌を打つ。――果たして、本当にそうなのか。ふっと沸いた疑問を過去の経験によって封じ込め、コゥーハはきっとベナウィを睨む。

「先程の……刀を抜かなかった理由ですか」

「だとすれば。どんなに楽なのでしょうね」

 心底困ったように眉を下げ、ベナウィはそっと木簡を置く。

「人は、やり直す事ができると。私が、そう思いたいだけです。否定をしてしまえば……私は此処に立ってはいられません」

「…………」

 やり直す、ですか。と、コゥーハは腕を組み、出てきた問いをそのまま吐き出す。

「インカラ(オゥ)も?」

「聖上は――」

 すっと姿勢を正し、ベナウィはコゥーハを睨むように一瞥する。が、すぐに視線を逸らし、夜空を仰いだ。昇っていく細い煙を背景に、相手に背中だけを見せつつ落ち着いた声で返答する。

「……そうですね。()()は、私の出自を気にすることなく取り立てて頂きましたから。私に現在の地位をお与えくださった後も客観的に結果を評価なされ、自分の提案も良く受け入れて頂きました。……、尤も、前者は最初の内だけで、いつしか全てを私に任せるようになられてしまいましたが」

「恩義、あるいは義理、と捉えて良いのでしょうか。とはいえ、意図があったにしろ気まぐれにしろ正当な評価にしろ……彼の(オゥルォ)が遺した唯一の正の遺産が、彼の道を踏み外させた。仮に真であれば、皮肉なものです」

 コゥーハの感想に薄く笑ったベナウィの表情は窺い知る事はできない。自分が諌められなかった事実を悔やむ彼の身体は小さく、兵士達が憧れるという頼もしい侍大将の面影は何処にもない。ただ、主に先立たれたウマ(ウォプタル)の如く囀る様を、現在の主が万が一にでも見れば何と思うのだろうか、とコゥーハは眉を上げる。悩む事はないと寄り添うのか、あるいはこれからの事に目を向けさせる言葉を並べるのか――

「馬鹿馬鹿しい。他人に弱みを見せるなど、貴方らしくもない」

 真っ先に浮かんだ感想を、コゥーハは相手の背中へぶつける。

「悩まれるのは、どうぞ御勝手に。過去を責めて欲しいと仰るのであれば、幾らでも、重みのない罵倒を差し上げますよ。それで貴方の心が癒されるのであれば」

 決して近くはない、されど遠いとは言い難い。微かに揺れた相手の影を見据えながら、コゥーハは距離を測った感想を心中で呟く。

 数歩、という距離は決して遠くない。護衛をするには適した間合いであり、相手が何をしているのかを概ね理解できる間隔。一歩踏み出せば手を手を取り合え、あるいは背中同士を預けることも、肩を並べる事もできる距離。時には寄り添い、温もりを感じる事ができるかもしれない。だが、一歩踏み出す事はないのだろう、とコゥーハはその場に立ち尽くす。過去に積み上げてきた物が強烈な拒絶を生み出しているのもあるが、一歩も下がらない理由は一つ――手を取り合わない長さが、互いの荷物が衝突しない間隔が、上下対等が発生しない広さが、そして時折重なる同じ視界が、疲れない。

 ヒトによっては薄情なこの距離感が、コゥーハにとっては絶妙なまでに心地良い。

「今なら、お安くしておきますよ」

 何とも自己中心的な事だ、と品の欠片もない顔で嗤いながら、コゥーハはベナウィへ目を向ける。想定通り、相手から返ってきた断りの礼を――笑われたような、妙な違和感をコゥーハは抱いたものの――適当に流し、普段通りの顔で見つめてきた相手へと新しい話題を振る。

「馬鹿な話はさておき。さっさと本来の目的を果たしましょうか」

 窓を開け放ちながら、コゥーハは棚の分類に目を通していく。ベナウィに渡した医学書の棚、歴史書の棚、と巡り、不自然に空の棚を睨みつつも、最も蔵書が多い歴史書の棚を漁り始める。

「この部屋の目的は二つです。完成未完成問わずアトゥイ様が禁忌と定義した研究の保管庫、そして彼が密かにやっていた研究の場所。後者はおそらく"シトゥンペの民"についての研究――と結論付けるのは早計ですか。とはいえ調査すれば自ずとはっきりするかと思います」

 扱いをより慎重にしてくれさえすれば、先程の部屋とする事は同じだとコゥーハは笑いつつ、目についた物を取り出し埃を払っていく。

(ふむ。『先の大戦』に関する物が目に付きますね……おや?)

 幾つもの木簡を無造作に取り出した棚の奥の奥、小さな隠し戸を発見したコゥーハの瞳が金色に輝く。術法が掛けられていない事を念入りに確認した後、口元を緩ませつつ戸を動かす。拍子に、おさめられていた物体が転がり、幾度か撥ねて床へと落下する。

 暗闇の中で回転する物体をコゥーハは拾い上げ、雲から抜け出した月明かりへとソレを綺麗に照らす。

「ベナウィ様」

 幾重もの感情を影へと押し殺し、コゥーハは振り返った相手へソレを見せる。光が差す中、この上なく驚いた様子で顔を歪ませるベナウィに笑うことなく、手元へ視線を戻した。

 白色に、二つの突起物が付いた物体。

 コゥーハの右手には、ハクオロが付けている仮面に酷似した物が、しっかりと握られていた。




報告:2013/12/17 に、一部修正しました。(誤字脱字を修正・文がおかしい部分を修正・主語の補填・地の文の一部修正)

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