うたわれるもの 琥珀の軌跡   作:ななみ

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桎梏

 十年ほど前。突然やって来た賊と炎は、雲の多い白昼をも呑みこむ勢いで、ベナウィの通っていた道場を焼き尽した。

 彼らの目的は何であるか。師範の言動一つで、幼いながらもベナウィは理解してしまった。優先的に自分を逃そうとする彼の制止を振り切り、ベナウィは武器を取って対峙した。当時手に取る事さえ許されていなかった真剣の重みは未だに忘れられない。悔いも無い。しかしながら、幼さ故にその判断は間違いであるという事を当時は理解できなかった。己が振っているわけではない――武器本来の重みに、彼らへの怒り、何よりも自身が僅かに抱いていた、相手に勝てるという奢りに、己が振り回されていた。その事に気が付いたのは、武器を取り上げられた瞬間であった。

 門下生の中では群を抜いた実力も、圧倒的な体格差の前では為す術もなかった。首根っこを掴まれ、床に叩き付けられ、お前のせいだと聞かされながら事の顛末を心に焼き付けられる結果となる。ベナウィ同様に立ち向かっていった少年達は、例外なく斬られた。一回ではない、わざと加減して弱らせた後、動けない彼らの四肢を一本ずつ落とされていった。泣き叫ぶ少女達は髪を引っ張られ、飽きられるまで凌辱された。喘ぎ声が聞こえなくなるまで盥回しにされ、最後は首を斬られて殺された。いずれもゆっくりと、断末魔を楽しむように。その時の惨状が、現在もなお思い起こすことができる。

 ベナウィを救出しようとした師範も斬られ、誰もいなくなった場所。ひたすらに赤い、さながら地獄(ディネボクシリ)な光景を、ベナウィは只々眺めることしかできなかった。恐怖を抱いていたのか、己を責めていたのか、皆の死を悲しんでいたのか……拒絶、という言葉は適切で、振り返れば振り返るほど、答えは遠ざかっていく。

 やっと自分の番なのか。呼吸さえ苦しい状態で呟いた一言も、炎で包まれた柱が落下する音に掻き消された。自由を取り返す体力も無く、隙を窺う判断力も低下し、抗う精神力さえあるか分からない。ただ一つ、諦めという言葉が頭を過り、ベナウィは目を瞑った。終わるのであれば、一瞬であれと願いながら。

 だが、ベナウィの背中にふってきたものは、相手の凶刃ではなかった。顔にかかったのは、男の断末魔と、生温かい粘液。

 見開いた目に飛び込んできたのは、墨色の長髪と三本の傷の付いた首元、そしてその主である女性の表情だった。全身が傷だらけであったものの、彼女の容姿にベナウィは心当たりがあった。コゥーハ……決して珍しくもない琥珀(コゥーハ)の名を持つ彼女。常に表面的な笑顔を浮かべ、薄っぺらい言葉を並べ立て、現在(いま)という寂しさを埋める事を自分へ求めてくる――だが、目の前にいた彼女はベナウィの知る彼女とは異なる存在に映った。長時間に渡る金色の瞳もあるが、彼らと同類の、下卑た笑み。目の前の欲望に忠実で、それが満たされていく充実感と昂揚感のある表情……だが、彼らとは決定的に違った。

 殺気ではない。覇気、ともいうべき――強い武人が持つ他を寄せ付けない圧倒的な存在感に、ベナウィは凍りついた。友人達をいとも容易く殺していった彼らよりも強い……否、比較にすることさえおかしいと思える、彼女には絶対に勝てないという直感が全身を硬直させ、息をする事さえ忘れさせた。

 どのように行ったのかは分からない。しかし、ベナウィを押さえつけていた男の腕と首が吹っ飛び、彼女の背後で斬りかかった男が床へとめり込んでいた。脳漿と臓物が交じり合った状態で埋まっている頭蓋骨を躊躇いもなく彼女は蹴飛ばし、満足な顔で血塗られた指を舐める。

 ぼうっとする視界の中、ゆらゆらと揺れる炎の壁へと後退する男達の姿が映った。子供達を嬲っていた時の面影は全く無い。驚愕と憔悴、何よりも恐怖が浮かぶ顔で彼女を追い払う言葉を叫ぶ。虚勢もあれば、命乞いもあった。だが誰一人として彼女を怯ませる事すらできず、無残な醜態を晒す結果となった。

 バケモノ……最後の一人が遺した、コゥーハの嫌うかつ彼女を称する言葉に、憮然とした態度で彼女は口を開いた。

「馬鹿を言うな。バケモノというのは、だ」

 両足から無残に引き裂いたソレを捨て去りながら、彼女はゆっくりとベナウィの方へと振り返った。

 長髪が揺れるその隙間から見えた巨大な傷と、三つに分かれた尻尾、そして続けるように言った()()の一言が、ベナウィの記憶深くへと切りつけた。

 

 

 

 

 

◇◆

 

 

 

 

 

「バケモノというのは。己が孤独を満たすため、数多のヒトを盤上に乗せて楽しむ奴らの事をいうのだよ」

 生臭さは無い、無数の殺気も全身を縛るものも無い。流れる風は穏やかなもので、終わりを告げるように裾を引っ張り、去るのみ。

 気が付けば、全てが終わっていた。

 ベナウィが見渡す周囲は血の海ではない。あるのは気絶した数十人の男達のみ。うち数人は手足があらぬ方向へ曲がっているものの、気絶しているだけでさほどの重症ではない。その中心、自身の真っ白な指を不満そうに鳴らす対象に、ベナウィは一歩……一歩だけ踏み出す。

「あなたは」

 コゥーハの体をした()()は、その金色の瞳でベナウィを一瞥し、地に唾を吐いた。

「十と幾年ぶりといったところか。相変わらず己のせいだと責めて感傷に浸っているのか。吐き気を齎す綺麗な面といい、ヌシ達は変わらぬな」

 不快さを禁じ得ない物言いにも、ベナウィは冷静さを装いつつ手に力を込める。

「誰ですか」

 柄を握りしめたベナウィに対して、ふん、と相手は鼻を鳴らした。

「私は、私だ。それ以上のモノではない」

「…………」

 問答をするつもりはない。不満の態度を示すベナウィに、全くだ、と相手は失笑した。風に乗ってやってきたコゥーハの外套を拾い上げ、手際良く躰を覆い始めた。

「強いて言うなれば。二つのバケモノに囚われ焦がれ求め已まない屑だ。大いなる飼い主に尻尾を振るヌシ達と、大差はない」

「コゥーハ、ではない」

「改めて定義をされると不快だな。とはいえ、推測はヌシの自由であるか。好きにすれば良いさ。多重人格の類、彼女の一部だと思いたければそれでも構わん」

 外套で覆われた背中に、彼の一本傷はもう見る事はできない。破けた服も、奥にある傷痕も、金色の瞳さえ前髪で覆い……壊れかけの微笑で相手はベナウィの瞳の奥へと視線だけを突きつける。

「今回も私の都合だ、恩を感じる事はない」

 怪訝な様子を崩さぬベナウィから視線を変え、相手はその場から一歩踏み出した。

「ヌシの危惧する事もあり得ぬからして、安心すれば良い。所詮は残滓。ヌシや石碑に比べれば、出来ることなど何も無い。この身がもっと自由であれば、今すぐにでも近づくバケモノを狩りに再び興じたいところではあるが……奢り高ぶった阿呆を圧倒的な力で狩る位なものよ。今回は全くもって楽しめなかったが」

 怯え逃げ惑う奴らを殺しても面白くない。十数歩進んだ先で停止し、足元にある物を相手は見下げた。花束が強い風に揺れる隣で佇む石をしばし見つめ、やがて悪戯な笑みを浮かべて片足を上げた。

「おっと。これ以上は、欲望が抑えきられそうにない、か。……ちっ、五月蠅いぞ石が、もう少し好きにさせろ」

 大きな独り言を叫んだと同時、彼女の足が石碑を蹴り飛ばした。

 長い距離を転がって行く石を意外そうに眺めながら、ゆっくりとした面持ちで額に手を当て彼女は息をつく。しかし、直後身に起きた出来事を捌く動きは、指を弾く時間よりも――ヒトが目視できぬ程に早かった。

「悪い、足が滑ったのだ。故に手にある物を置け、気まぐれでヌシ達を殺めてしまい兼ねん」

 背中に向けられた刃を、彼女は振り向きざまに二本指で挟み静止させた。間髪入れず相手の懐へ入り込み、相手の喉を掴んだ――のだろう、とベナウィは現状から推測する。想像の域を超えないのはひとえに、ベナウィが認識出来る時間を遥かに凌駕していたため……得も言われぬ悔しさが、喉元に走る激痛と共に呻き声となって口から零れ落ちた。

 綺麗な爪を血で濡らしながら、それに、と彼女は品の無い笑みでベナウィを見据える。

「とはいえ。今となっては、そう取り繕う必要はないだろう」

「何を……言って……」

「……そうか。別の意味での阿呆か、なれば仕方あるまい、か」

 興が覚めてしまった、と至極呆れた様子で彼女は手を離し、ベナウィの腹部へ軽い一発を入れた。その場に崩れそうになるも手にある刀で地面を刺し倒れない相手に感心の意を送り、自身が飛ばした石を拾い上げた。

「捨て駒か、優秀な駒か」

 寸分違わず石碑と花束を戻し、彼女は目を閉じる。独りごちたように呟いた一言……だが、独り言にしては不自然に大きな声に、ベナウィの耳が反応する。未だに翳む視界であれど、しっかりと足を付けて相手へ向き直る――察知したように彼女はそっと目を開き、青みがかった黒の瞳を見据える。

 呆れはない、興味津々な目つきで、虹彩の奥を触るように。

「主にとって……ヌシは、どちらであろうか」

「……――――っ!」

 おっと、と目を丸くした彼女が肩を動かした側を、ベナウィの切り上げが通過する。しかし、間合いを詰められたというのに、彼女は至極余裕な顔で、腰にある――ベナウィの知りうる限り、コゥーハが腰に差し直してから一度も使用していない、折れ曲がった剣を()()、降ってきた刀身を片手で難なく受け止めた。

 舞い上がった数枚の紅い花弁が、二人の頬を掠める。

「ほう、貴様も怒る事もあるのか」 

 ベナウィの口から滴る血をうっとりと眺めつつ彼女は剣を軽く捻り、刀の鎬の上で剣を滑らせながら相手の懐に飛び込んだ。疾走する得物、鋭利な先で斬りつける殺気、今度こそ殺される――吐息が感じられる距離まで一瞬で詰められ、ベナウィは思わず目を瞑る。だが、浴びせられたのは剣の錆でも赤色の爪でも無かった。

 若いとは良いものだ。高らかな笑いと共に、ベナウィの腰に重力がかかる。直後、体勢を崩した躰全体が、手を離れた二つの得物と共に地面へと打ちつけられた。

 

 

 

 

 

 すまなかった。開口一番、謝罪した相手にベナウィは首を振った。

「こちらこそ、お恥ずかしい限りです。聖上のお手を煩わせてしまい」

「馬鹿を言うな。……この人数を相手に、良く無事でいてくれた、ベナウィ。ついでにコゥーハも」

 せっかくの休日を台無しにしてしまった、と更に謝罪したハクオロに、ベナウィは困惑する。尚も頭を下げ続けそうな雰囲気を掃うべく話題をすぐさま転換し、賊の件について知り得た情報を報告する。話の過程で件の皇太子の話題に移るが、知りうる事は後日改めて話すようにとハクオロがベナウィに命令したため、その場でベナウィが詳しく語る事はなかった。

 一通りの報告を終え、ベナウィは何故ハクオロ達が此処へ来たのかという理由を訊ねた。ああ、とハクオロは姿勢を正す。

歩兵衆(クリリャライ)の十三番隊が奴らの動きを捉えてな。ただ、お前が居ないせいか報告が上がってくるのが遅れた。本当にすまない」

「宜しければ、今からでも復帰致しますが」

「それだけは勘弁してくれ。怪我人をこき使う血も涙も無い(オゥルォ)だと思われたくはない」

 ベナウィが帰ってくる時までには何とかするさ。胸を張って頷くハクオロに、ベナウィは目を丸くし、微笑した。

 相手の反応が気に入らなかったのか、ハクオロはやや怪訝そうな表情でベナウィを見据える。

「なんだ、その疑うような目は?」

「いえ。聖上が普段よりも頼もしいと思いまして」

「……。お前、コゥーハに似てきてないか?」

 非常に心外です。否定を付け加え、ベナウィは嫌悪の意を色濃く示した。あからさまなベナウィの反応にハクオロは苦笑し、しかし、と周囲を見渡しながら腕を組む。

「これだけの数を相手にしたものだ。流石はベナウィといったところか」

「いえ、アレが」

「ん? コゥーハか?」

 コゥーハが気を失った以降の出来事――()()の件をハクオロへ報告するべきか、ベナウィは迷う。コゥーハがトゥスクル國の兵士である以上、ベナウィがトゥスクル國の(オゥルォ)であるハクオロに仕えている以上、報告する必要がある。しかし、()()が何モノであるのかベナウィには判断ができない……更に言えば、得体の知れないアレの何から話すべきか、ベナウィ自身整理がついていない状態にある。

 押し黙るベナウィにハクオロは一瞬目を丸くするが、やがて吹き出すように笑いながら後方を指さした。

「コゥーハなら問題ない、あの通り元気だ。元気すぎて困るほどだ、隙あらば首を掻っ切られそうな位に」

 ハクオロの言う通り、手当てを受けるコゥーハはすこぶる元気だった。全身の怪我を心配そうな目で見つめる部下達をからかい、適切な治療法を指導する様は普段の彼女と変わらない、とベナウィは眉を寄せる。

「ベナウィ?」

 ハクオロに呼び掛けられ、ベナウィははっと息を呑んだ。大丈夫か? と気を遣うハクオロに首を振り、やって来たコゥーハに再度目を向けた。

 新しい服――とはいえ、私服ではなくいつも着用している軍服であるが――を靡かせ、コゥーハはニコニコしながら両手を合わせる。擦り寄るように近づいてきた相手に、ハクオロはくっと口を固くした。

「何だ。さっきも言ったが、追加の休暇はやらんぞ」

「いえ。改めて、お礼をと」

「礼なら、後の働きで示してくれ」

 では新たに発見した道について、と顎を引いたコゥーハの一言を皮切りに遠くで話を始めた二人を、ベナウィはじっと眺める。話の内容は分からないが――呆れを含んでいたハクオロの表情が打って変わって真剣になった事に激しい不安と疑問を覚えるが、ハクオロが自分を制した事もあり、聞いてはならないものだろうとベナウィは己に言い聞かせるよう出来うる限りの努力をした――真剣に話を展開するコゥーハはやはり、いつもと変わりない。

 ベナウィの知るコゥーハが、そこにはいる。

「解った。帰ったら調べてみる」

「聖上」

 話終えたところを見計らい、ベナウィはハクオロに訊ねた。相手がコゥーハということもあり不安が先行し――己を納得させようとした努力は空しく散っていた――訊ねずにはいられなかった。

「先程は、アレと何をお話に」

「い、いや。大したことじゃないさ」

 本当に? と念を押したベナウィに、ハクオロは軽く咳払いをする。

「ああ。全く大したことじゃない……それじゃ、私はこれで」

 頬に滲む汗を拭い、ハクオロは踵を返した。軽い焦りが感じられる言動に一抹の不安を抱きつつ――しかし、別の理由でベナウィは相手を呼び止める。

「聖上」

「な、なんだ、未だ何かあるのか?」

 ()()の言葉が、心から離れない。それを断ち切るように、ベナウィは奥歯を噛みしめる。

「聖上にとって。私は何なのでしょうか」

「……」

 離れゆくハクオロの歩みが、ベナウィが俯いたと同時に止まった。

 ハクオロは、すぐに返さなかった。強い風が吹き荒れる数歩先で、手向けられた花を眺めたままベナウィを焦らした。数拍なのか、十数拍かそれ以上なのか、あるいは一拍かもしれない、ただベナウィの中では長い……非常に長い間を取り、ハクオロは息を吸う。

「ゆっくり休め」

「聖上」

「また酒を呑もう。今度こそ仕事の話は無しで、だ」

 もちろん、仕事が終わった後にな。差し込んだ光に濡れる唇に手を当て、柔和な微笑みでハクオロは去った。……のだろう、とベナウィは目を瞑る。

 光に目が眩み、ベナウィはハクオロを直視できなった。花から伸びる薄暗い影に足を埋め、尚も苦痛が走る首を上げることはなかった。鬱陶とした前髪は重い瞼の上に貼り付き、吸った息は流れ出で、心に浮かんだ婉曲な否定や拒否の言葉――此処で再度誓ったはずの、この身は一生掛けて民へと償っていくという意志を、民をより良い方向へ導く(オゥルォ)へと捧げるという意思を具現化した言葉が、声になる事なく消えた……そう、泡沫の如く。そして少なからず、ベナウィは己の在り様に多少の怒りと動揺で、その場に立ち尽くした。

 ――ハクオロの答えが異なる意のものであれば、自分は正しく返せたのだろうか。

 既に誰もいない道の先へ、ベナウィはおもむろに手を伸ばす。世辞にも綺麗とは言えない、複数の胼胝と少しの墨が香る冷たい右手……吹き抜ける微風の温度と同じその手を、突然ベナウィの正面に現れたコゥーハが強く引いた。

「貴方にも、お礼を」

 明るい地面でふらついたベナウィの隣で姿勢を正し、コゥーハは恭しく謝辞を述べた。

「あんな口を叩いたというのに。気を失ったあげく助けて頂くとは、お恥ずかしい限りです」

「………………」

 コゥーハの言動に、嘘は感じられない。彼女の癖も見られない。嘲笑はあれど、それは自嘲でありベナウィをからかう口調は微塵もない。むしろ心底落ち込んでいるのか、両耳と尻尾を下げる表情からは驚く程に謝罪の意が伺える。

 覚えていないのか。口にしようとしたベナウィの顔を、コゥーハは不思議そうな表情で覗き込んだ。

「如何しました?」

「いえ」

 左様ですか、とコゥーハは息をつき、それで、と一転して晴れやかな笑みで手を組んだ。

「埋め合わせの件ですが」

「何の話ですか」

「自分を巻き込んだ件です。今から埋め合わせて下さい」

 盛大に顔を顰めたベナウィに対しても、コゥーハは特に気にすることなく続ける。

「これからお暇ですか?」

「いいえ」

「嘘ですね」

「……」

 コゥーハの予想は的中している。結局のところ、墓碑以外に巡る場所を決められず今に至っている。ただ、ベナウィの都合を完全に無視し、強気な態度を貫こうとするコゥーハにベナウィは不快感を抱かない訳がなかった。

「確かに。ですが――」

「やはり嘘でしたか。仮にあったとしても、お止めになって下さい」

「…………」

 その場を立ち去ろうとしたベナウィの手を、コゥーハはかさつく手で強引に引っ張る。

「アトゥイ様が趣味を行っていた離れが御座いまして。現在は元義叔父の所有物となっているのですが……その義叔父が、アトゥイ様の遺品の一部が見つかったので引き取って欲しいと言ってきたものでして」

 要するに荷物運びを手伝えという事か、と渋い顔をするベナウィに、自分はか弱いですから――どの口が言うのか、とベナウィは小さく呟いた――とコゥーハは笑って続ける。

「確か、貴方は義叔父上とは面識がないかと思いますが」

 そういうことですか、と息を吐くベナウィに、コゥーハは軽く眉を上げる。

「自分が言うのもあれですが。あの人は割と手広くやっており、それなりの信頼も御座いますので。お会いにあるだけでも損はさせないかと」

「正直なところ。聖上も私も、間に合っているのですが」

「商人との面識は、多くても困らないかと思いますよ」

 コゥーハの知り合い、という点から胡散臭さが否めない。しかしながら、コゥーハの言う事も理解できなくはない。また、この機会……道中で()()について詳しく聞き出してみるのも良いかもしれない。何より、その場の勢いとはいえ埋め合わせをすると口走ってしまった後悔が首元を縛る。

 ベナウィは悩んだ末に、相手の要求を呑むことにした。しかし、結論を出す前にコゥーハが強引に連れて行こうとした件については、厳重に叱りつけた。


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