うたわれるもの 琥珀の軌跡   作:ななみ

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三章
寸暇


 陽が最も高い位置に差し掛かる頃、ハクオロの書斎を訪れる事は、最早ベナウィの日課となりつつあった。今日も簡易な文机の上に筆記具を並べ、座高よりも高く積み上がっている書簡の山々を眺めながら、机に突っ伏しているハクオロに声を掛ける。

「聖上。早朝にお渡した書簡が未だ残っているようですが」

 ベナウィの問いに、ハクオロは呻き声を上げる。が、震える手で山の一角を指し、終わった意を告げるようにその手を振った。

 失礼しました。とベナウィは謝罪し、幾つかの事案に関する報告を始める。

「養蜂場建設の件ですが。皇城周辺の調査がようやく終了したとの事です。学者達の見解と、それに基づく候補地を纏めたものはこちらになります。……私と致しましては、皇城の周辺に建設する事は反対ですが。聖上が御指摘された通り、ハチミツ作りに適した場所が多いようです」

「可能であれば、アルルゥを連れて行ってやってくれ。本人も気にしているようだし、なにより目的の大半がアルルゥのためだからな。人見知りは相変わらずだが、エルルゥかコゥーハの言う事ならば多少は耳を貸すと思う」

 頷くベナウィの隣で顔を上げ、ハクオロは差し出された書簡に目を通す。

「それはそうと。人員の確保はできたのか?」

「クロウが各所へ働きかけたようでして、ようやく。本人もこの件に参加する次第で」

「意外だな。私の目には避けているように映ったんだが」

「面倒事が片付いたから、だと思います。嫌いなのでしょう、昔から、書簡を扱う任に関しては上手く避ける傾向にありますから」

 ふーん、と首を傾けるハクオロにベナウィは微笑み、手元の書簡を閉じた。

「例の賊の件ですが。詳細に関しましては、現在……暗号を解読中でありますが――」

 お前が手間取るなんて珍しいな、と目を丸くしたハクオロからベナウィは目を逸らす。後日書道の講習を開きたいですね、と文句を呟きながらも、すぐに詳細を上げます、と顎を引いた。

「――上手くいけば、本日中に動きがある可能性は高いと思われます。予定通り、彼らに気付かれぬよう慎重を期した上で、複数の部隊を派遣する所存です」

「ああ。承知している」

 他に何かあるか? と、ハクオロに促されて、ベナウィは厳かな表情で口を開いた。

「歓楽街の件で」

 重々しく置かれたベナウィの言葉は、机の端に叩き付けられた鉄扇によって遮られる。鈍い光を放つ胴を持ったその手は固く、持ち主である(オゥルォ)の口元も同様に冷たい。白い仮面の向こう、落ち着きのある黒いは普段と変わらぬ風ではあるが、奥底から飛ばされるぴりっとした空気から読み取れるのはただ一つ。

 ――これ以上は話すな。明らかな拒否であり命令であり、微かに頬を焼く怒り。

 無意識に作っていた握りこぶしを後方へと追いやり、ベナウィは息を吸う。が、それも断つかのようにハクオロは溜め息を吐き、やれやれと言わんばかりの口調でベナウィへ手を振る。

「生き死にといった余程の事が関わらない限り、泳がせておけ。やるなら相応の態勢で一気に釣らんと意味がない。警戒されては後々面倒なことになる」

「しかし」

 ベナウィに次を言わせず、ハクオロは尚も続ける。

「準備不足だ。第一、前期の人事はこうなる事を想定したものだし、今はさせておく時期だと昨日話したはずだが。横領だけなら、金の損失だけで済む。安いものだ」

「聖上。ですが――」

「ベナウィ」

 強い調子でハクオロに窘められ、ベナウィははっと息を呑んだ。声を荒げた事を即座に謝罪し、深く頭を下げる。

 前髪で顔を隠したベナウィをじっと見据え、ハクオロは小さく呟く。

「急いては事を仕損じる事もある。判らぬお前ではないだろう」

「……」

 ハクオロの意は正しい。彼がこれまで正しくなかった事はないし、今回も正しい事は理解している。だが、両肩に圧し掛かった重みがベナウィの言動を鈍らせる。

 過去、ケナシコウルペ國の時代より、ベナウィは数多くの罪を看過してきた。不正に汚職、時には冤罪でさえ――それらで多くの無辜な民を犠牲にし、見過ごした事実。ふとした時に見返す汚れた手は、薄い墨が塗られた以上の赤黒ささえ感じることもある。その度に、一種の脅迫観念に近い衝動が心の底から突き上がる。

 死を持ってしか贖えないであろう罪、しかし己に対峙した男――後のトゥスクルの(オゥルォ)となったハクオロは、生きて償う事をベナウィへ強いた。生き恥を晒しながら、トゥスクルの民のために尽くす……この上ない苦痛と、この上ない喜びを同時に抱えながら身を費やす日々。ただひたすらに、同じ轍を踏まぬように。些細な罪を見過ごさすように、悲劇は繰り返してはならぬと。

 故に、今回の汚職も見逃したくないという感情が、ベナウィの心を掴んで離さない。それを察しているのか、ハクオロはやや困惑したように息を吐いた。

「お前()()()もない。いや、むしろその硬さはベナウィ()()()と言うべきなのか」

 とにかく。たち上がり、ハクオロは鉄扇を佩き直した。

「何かあったのか?」

 いえ。と否定したベナウィの肩を叩き、ハクオロは書斎の隅にある小さな木箱へと歩み寄る。

「なら疲れているんだろう。このところ忙しかったのもある、休暇でも取って少し休め」

「いいえ」

「……」

 顔を強張らせたハクオロに躊躇うことなく、ベナウィは吐く。指摘された通り、疲れているのかもしれないと心の片隅で思いながらも、普段から固い口は上手く制御できなかった。

「私は。立ち止まる事を許されておりません。違いますか」

「…………」

 木と木が軋む音は重なる影を滑り、二つの背中を分かつ。

 不意に吹いた微風が黒い水面をなぞり、不明瞭な光が視界をちらつかせる――微動だにしない二人の顔は、髪に隠れて誰も窺い知る事はできない。奇妙な沈黙が各々の首筋に食い込み、それが続いていくのかと思われた刹那。靡いた髪にハクオロは手を伸ばし、さてな、と笑った。

「最終的にソレを判断するのは、私ではない。だが、休暇を、と言ったのは何も私の独断ではないという事は伝えておかんとな」

 本当に心当たりが無いのか? と普段通りの調子でベナウィに問いつつ、ハクオロは机に箱を置いた。木簡が通る程度の穴が開けられている箱に、ベナウィは軽く眉を上げる。

「目安箱ですか」

 目安箱とは、意見や要望を誰でも匿名で投函することができる箱の事である。皇城や皇都をはじめ各藩や一部の集落に設置されており、より民の声を反映させるためという理由の下、ハクオロが提案した政策の一つである。ある程度の選定はされるものの、謁見の期間を待つことなく議題を(オゥルォ)に直接上奏できるとあって、数日ごとに届けられる投書の数は千を優に超える。

 そうだ。とハクオロは肯定し、箱から木簡の山を空いた机に広げた。

「皇城内の目安箱に、こんな要望が多く入っていた」

 皇城内にある目安箱に寄せられる内容の種類は、それ程多くはない。半分以上が、同僚が怠けているあるいは汚職に手を染めているといった内部告発であり、稀に人生相談といった間違った投函も見受けられるものの、こと皇城内と兵舎内にある目安箱に限れば、ハクオロに奏上する問題はほとんど無いと言っても過言ではない――ベナウィの場合、筆跡と内容から七割の確率で本人を特定できるため、最善な策を実行する事で大体の問題は解決する。また部隊長権限で解決できる案件であれば、コゥーハが問題を特定し、クロウまたはベナウィから指示を受けたオボロが適切な支援を行う事で同様に解決へと向かう。その事をハクオロに話した際、「本人を特定できるって……お前らの頭は一体どんな構造をしている?」と半ば呆れたような目を向けられた事がある。

 選定を一任していたコゥーハに問題があるのか。そんな推測を巡らせるベナウィに、ハクオロは木簡を突きつける。

「『ベナウィ侍大将が、今期に入って全く休暇をお取りにならない事が不安です』だ、そうだぞ。こっちは、『ベナウィ様に長期休暇を』と、単刀直入だな。これは……って、どこをどう見たら、私がベナウィをこき使っていると見える?! 逆だ、逆! 私の方が数倍、いや、それ以上」

「それは。聖上が事ある毎に御政務を放棄されるからではありませんか。その度に、私が出来うる限りの処理を行う。つまり」

 ベナウィの指摘を流すように、ハクオロは軽く咳払いをした。広げた投書をベナウィへ突きつけながら、ちゃんと読むようにと念を押す。

「ちなみに、同様の内容が全体の四分の三を超えている状態が、半期前から続いているという報告を受けている」

「多いですね」

「多いってモンじゃないだろう。判るとは思うが、筆跡はみんな違う。はっきり言って、異常事態だ。これらを捌いているコゥーハからも、問題を解決すべくベナウィに口添えして欲しいという旨を聞いている。後もう一つ。ついさっき一つの投書が来てな」

 コレが一番効くのではとコゥーハは言っていた、と付け加えたハクオロから、ベナウィは新たな投書を受け取る。さっと目を通した直後、青みがかった黒い瞳を小さくさせる。

 内容自体は、他の投書と大差ない。薬師(くすし)の観点からベナウィの体調を気遣い、休んで頂きたいという至極丁寧なもの。しかしその文章を綴る文字は非常に綺麗であり、真摯な思いがひしひしと感じられる。そして、ほんの僅かにみられる癖……侍大将であるが故に、目にすることの多い筆跡に、ベナウィは頭を下げた。

「……エルルゥ様が」

「そういう事だ。文面からしてとある薬師(くすし)、の見立てがそれだ」

 肩の力を抜き、ハクオロは微笑む。

「皆が心配しているのだ、お前をな」

「……」

「このままでは、お前を心配する者達が暴動を起こしかねない。故に私の休息の――いや、彼らのため、トゥスクルの平穏のために。ベナウィ、休暇を取れ。いいか、直ぐにだ。これは命令だ」

 最近良く見受けられるハクオロの強い口調にベナウィは疑問を抱く。しかしそれ以上に――コゥーハへの腹立たしさを認識しながらも――エルルゥの心配する表情が頭をよぎり、その心を大きく揺り動かした。

 では。と、ベナウィは姿勢を正し、一拍置いて返答する。

「三日後に。一日だけ休暇を頂けないでしょうか」

「駄目だ。一日では皆が納得すまい。最低三日、いや四日でも、五日でも六日でも良いんだぞ」

 七日、八日、十日……と、弾んだ声で日数を伸ばしていくハクオロに、ベナウィはくっと眉を上げた。

「……嬉しそうですね、聖上」

「そ、そうか?」

「はい。とても」

 気のせいではないか? と声を上擦らせるハクオロに、ベナウィは眉を下げて微笑した。

「それでは、お言葉に甘えまして。三から五日後の三日間、お休みを頂くことに致します」

「良い心掛けだ」

 柔らかな――しかしベナウィとしては少々気になる緩い笑みを見せたハクオロに一礼し、ベナウィは立ち上がる。その表情に、笑みは無い。(オゥルォ)が確認した書簡を廊下へ出し、新たな……用意していた書簡の山をハクオロの机に置いた。

 甘かったか。とハクオロは呟き、両肘を机に付けた。聞きたくない、見たくない、と両耳を塞ぐハクオロに、ベナウィはいつも通りのはっきりとした声で差し出した木簡の意図を述べる。

「お疲れのようでしたので、一部を明日に持ち越す予定をしておりましたが。私が休む間に政務が滞ってしまう事態は、断じてあってはなりません。故にその分を、本日と此処二日で消化させたく思います。聖上には大変申し訳ありませんが、御政務をこなして頂きますよう――」

「申し訳ないと思っているなら、持って来るな!!」

 吐き捨てられたハクオロの叫びが地平線の彼方へと消えていくが、ベナウィは構わずいつも通り任をこなす。

 

 

 

 

 

 ハクオロの仕事が早かったのか、はたまたベナウィの采配が良かったのか――残り一つを残してはいるが、他の日程を予定よりも早く終えた後。赤色に染まりつつある窓枠を横に、ベナウィは休暇の予定を考えていた。

(…………)

 長い文机の約半分を占領している紙製の地図を眺めながら、ベナウィはそっと息を吐く。

 せっかく頂いた長期休暇である、短期の休みでできる事を行うのは少々もったいない。ならば地方の状況を把握する事も兼ね、トゥスクル國内を旅するのはどうだろうか、という結論に至った事までは良かった。しかしながら、東の一小國とはいえ、トゥスクルは広い。理想は全ての地方を廻る事だが、自身のウマ(ウォプタル)の体調や各街道の整備具合、何より三日という期間を鑑みると、全てを巡ることは到底できない。故に、自身が廻りたいと思う場所を絞り込む作業を始めたのだが――

「大将!」

 ベナウィの思考を遮るように、クロウの声が廊下から部屋へ響いた。一旦筆を置き、多少の焦りが浮かぶ相手を招き入れながら、ベナウィは眉を寄せる。

「何かありましたか」

「あ、いえ……特に急ぎの用じゃないんスが」

 謝罪するクロウに了解の意を示し、ベナウィは部下に頭を上げさせた。物珍しげにこちらを見る相手を逡巡した後、自分の事だという推測に至る。

「休暇の件ですか。心配は無用です。病気ではありませんので」

 なら良いんスけど、と苦笑し、クロウは机上にあるトゥスクル周辺の地図へ視線を移した。

「大将、それは」

 正しくその件ですよ。とベナウィは文鎮を持ち上げ、地図を広げ直した。

「休日を利用して、シシェと共に國内各地を回ろうかと思いまして」

「ああ、あの白い相棒(ウォプタル)と。ちょいとした旅行っすね」

 ええ、とベナウィは微笑する。

「訪れる予定の場所の絞り込みと、効率良く回るようにと――シシェに負担が掛らない部分を主にして、経路の模索を行っていました。しかし先程届けられた定時報告によれば、小さな街道の整備が想定よりも進んでないため、何処へ行くにしても主要な街道を中心に回っていく形になりそうです」

「やっぱりというか、そういうのを考えるの、好きなんですね」

 ベナウィは顎に手をやり、首を傾ける。

「好き、とは違いますね。ある程度の計画を立てないと、落ち着きません」

 大将らしいっすね、と笑いつつ、クロウは机の正面へ座る。

「旅なんてもんは自由気ままに、その日の気分で行きたい道を選ぶ。行った先で問題が起きたら、そんとき考える。下見をしようだの走る道を考えるなんてのは、訓練だけで俺は十分ですらぁ」

「成程……それはそれで、楽しそうですね」

「行き当たりばったりなんで、金はすぐに無くなる事が多いですが」

 仰々しく両肩を下げ、クロウは再び地図へと目を落とした。が、その直後、何かを思い出したかのように声を上げる。

「そういや。コゥーハの姐さんも、大将と同じ日に休暇を取ってましたよね。明日は早起きしないとかで、今日はもう上がりやしたけど――ああ、そうそう」

 その姐さんから、とクロウは懐に手を入れる。差し出されたクロウの右手に巻かれた包帯に目を鋭くさせつつも、ベナウィは木簡を手に取り、小さく巻かれたそれに目を落とす。

「アレが? ……ああ。そうでしたね」

 いや、アレって……。とクロウは呟くが、数拍もすると普段通りにそれを流し、話を続ける。

「いつもは新月の日とその前後にしか休みを取らないってのに、それを削ってまでその日を休むなんてのは初めてじゃないんすか? 大事な用でもあるんすかね」

「さて」

「今の時期は丁度、前の戦で亡くなった家族の供養のために休む奴が多いってのに。あ、いや。悪いとは思っていないんすよ。ただ、人がいない状態で何かあってくれんで欲しい、とですね――」

 クロウの言葉に、紐を解くベナウィの手が止まった。

「法要……そうでしたね」

 落ちた前髪の奥で自嘲したベナウィに、クロウはすっと笑みを下げた。相手の意を図るように無言で顎を引き、やがて静かな部屋の中心で口を開く。

「大将?」

「行きたい場所を考えていただけです」

 尚も心配の意と若干の険しさが残る表情のクロウを、強い眼差しでベナウィは見据える。

 相手の視線にクロウは睨み返すが、しばらくした後、観念したように肩を竦めた。おもむろに広げられた書簡をじっと見つめるベナウィの視線を辿り、書簡に綴られている黒い線に目を凝らした。

「しっかし……モロロって単語以外、全く読めねえんですけど。つか、その前に、文字なのかも怪しいというか。蚯蚓が這った跡っていえば良いんすか――……ん? まさかこれがコゥーハの姐さんが言ってた、大将が考案した新たな暗号、新しい文字ってやつですか」

「…………。アレの言う冗談をまともに受け取らないで下さい。単に筆者の文字に多くの癖があり、非常に読み辛いだけです」

 未だに読むことができない箇所がある、という事実は伏せ。文章そのものは参考になるのですよ、ベナウィは書簡を閉じて立ち上がる。

「ご苦労様でした。聖上が珍しく真剣に御政務に励んで頂いたために、今日の仕事は後一つですが……大したものではありませんので、今日はもう上がって下さい」

 いんや。ベナウィに倣うように、クロウも膝を浮かせた。

「お供しやすぜ。例の賊退治っすよね?」

「……もう、良いのですか?」

 つい口走ってしまったことに気づき、ベナウィは口元を押さえた。その隣で、笑いながら上官を見つめていたクロウの視線が落ちる。

「一つだけ。訊いても良いですかね」

 紫がかった黒い瞳が示す先は、包帯が巻かれた右手。先日から抱いている彼の言動に対する違和感と同じものを心の片隅で覚えながらも、ベナウィは次の言葉を待った。

「俺は。……頼りないですかね」

「いいえ。決して」

 本当に違和感がある。そう感じるよりも前に、ベナウィは答えを口にしていた。

 ハクオロに言われた()()()ないという一言――その通りかもしれない、とベナウィは心中で肯定する。だが、クロウに返した答えを撤回する気は毛頭ない。幼少の頃からの付き合いという私情を抜きにしても、武官としての彼は優秀である。当然ながら腕は立ち、机上の仕事も卒なくこなし、見落とした点を的確に指摘し、些か部下に厳しく当たってしまう自分を時に諭す……自分にできない形で國を支えてきたクロウに謝意をすることすれ、頼りないと感じた事は一度も無い。

「私は――」

「それさえ聴ければ、十分です」

 背を向けたクロウの表情を隠すように、彼の茶色い外套が揺れる。同時に、右手に巻かれていた包帯が解かれた。白い布が舞うその奥、ぐっと握られていく大きな手の平に傷は無い。

「正直言いますと。俺だって、思う事はありますよ。ただ……昔よりも、現在(いま)が、俺にとって重要なんだなって」

「…………」

 いえ。と、ベナウィは自身の胸に手を当て、クロウの背中に向かって歩き出す。

現在(いま)と、未来――」

 重みが分からぬ言葉が、静かに流れる微風が、痛む胸を更に叩く。しかしベナウィは顔を崩さない。紺色の外套を靡かせ、擦れる肩当ての音は変わりない。

「これからも。宜しくお願いします、クロウ」

 彼の隣に立ち、ベナウィは手を差し出した。その様子にクロウは驚いたように目を丸くし、向けられた手へと右手を伸ばす。が、クロウの手はベナウィの手を取る事はなかった。

「何処へなりとも」

 彼らしい肯定。しかし伸ばされたクロウの手は戻され、しっかりと正された姿勢と共に側面へ付く。ぶれる事のない目で上官を見据える様に、ベナウィは過去を思い出す。

 ベナウィが知る限り、クロウが彼の敬礼を示したのは、過去に二回だけである。一つは、トゥスクル建國時にハクオロが改めてクロウを登用したいと手を差し出した際。そしてもう一つは、ベナウィが初めてケナシコウルペ國の侍大将になった際、同じように手を差し出した時――

 痛烈に走る衝動に、ベナウィは出した手を引っ込めた。何も言わず、悟られないよう足早に部屋を後にし、付いてくる相手を見ることなく微笑する。

「硬いですね」

「そりゃお互い様で」

 やや品性に欠けた笑いをするクロウに、ベナウィは眉を顰めた。

「どうかしましたか?」

「いやぁ。いつもの大将()()()ないな、と。今度の休暇で、しっかり休んで下さい」

「……。そのようですね」

 ありがとうございます。と礼を述べ、ベナウィは手甲の結び目に手を伸ばす。

「その前に」

「解ってますって」

 きゅっという音が、周囲の空気を引き締める。

 左右から冷たい風が流れる中、分かれた道の中央でベナウィは振り返る。

「オボロ達を呼んできて下さい。私は聖上の元へ」

「ういッス!」

 クロウの一言が、ここ数日の中で一番大きく、頼もしく感じられた。大きな背中を見送り、ベナウィは刀を佩き直した。その重さを苦く笑いつつ、今日もやるべき事へと足を踏み出した。


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