うたわれるもの 琥珀の軌跡   作:ななみ

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幕間:霧散

 報を聞いたのは、近年稀に見る豪雨の昼だったとコゥーハは記憶している。傘を持たずに建物を飛び出し、滝のような雨に打たれながら走り続け、國境を越えたあの日。後から思えば、関所の者達は金も通行証も持たぬ自分を良く通したものだと呆れてしまう。

 立派な都の郊外、打ち捨てられた廃墟が並ぶ一角で、コゥーハは久方振りにアトゥイと再会した。しかし育ての親はコゥーハの前で喋ることも、笑うことも、動くことも無かった。風穴の空いた壁で囲まれた殺風景な部屋の中央、所々血痕が付着した粗末で薄い布団の中で既に亡くなっていた。沈痛な面持ちでアトゥイを見つめる数人を押しのけると、目を腫らした養母――カナァンが、ずぶ濡れのコゥーハを強く抱きしめてくる。

 コゥーハがアトゥイ危篤の報せを聞いたその日、アトゥイは息を引き取った。死因は労咳であると、診断した薬師(くすし)と当時アトゥイの往診に同行していた弟弟子が証言した。特効薬も無く有効な治療方法が現在も確立されていない病気のためか、死病とも呼ばれ――地域によっては禍日神(ヌグィソムカミ)とも謂われる労咳の研究を、アトゥイは彼の病気が流行しているこの街で始めた。その約半年後に倒れ、回復する事はなかったという。

 今はこうして目の前に亡骸を置いてはいるが、それは布団や部屋にある護符や法具が、労咳が他人へ移ることを予防しているに過ぎない。アトゥイの遺言通り、カナァンとムィルに許可を貰った上で解剖は既に終えており、後は火葬して遺灰は海へと……冷酷なまでに淡々と語る弟弟子の言葉に対して、枯れた声で怒りを露わにしたカナァンとは対照的に、コゥーハは酷く落ち着いていた。普段の調子とは違い微かに震える彼の声に心配の念を抱いたのか、普段通りに振る舞おうとする彼の意を汲みたかったのか、あるいはアトゥイの死を少なからず"予知"していたから心の準備が出来ていたのか、己の胸の内は現在もなお分からない。

 そう。己の事を含め、当時の状況が分からない。否、記憶は存在しているのだろうが、思い出せない。思い出せと言わんばかりに、こうやって度々、夢に出てくるというのに、だ。

 彼がアトゥイの最期について話始めた途中から遺灰が海へ撒かれ始めた時までの記憶が、コゥーハの頭から欠落していた。自分が泣いたのか、怒ったのか、何を言ったのか。周囲の様子はどうだったのか。自身に伝えられた、アトゥイがコゥーハに伝えて欲しいと遺した言葉、何よりアトゥイがどんな顔をしていたのか……。唯一の記憶が、アトゥイの遺体と対面した時には天候が変わっていた事と、遺灰を撒く真上には海と同じ色をした澄み渡った空があった事。

 また今日も、外の霧雨と同じ視界である。曇った視界の先、アトゥイの顔がある方へ手を伸ばし――

(――っつ)

 刃物で斬られた独特の痛みがコゥーハの指先へ――引っ込めた先、右の首筋に転移する。二回ほど首を掻いた痛みに唇を噛むと同時に、生温い鮮血がコゥーハの右頬へ飛び散った。

 鈍い、小さな得物が地面を撥ねる音が聞こえると同時、コゥーハの視界の霧が晴れた。

 薄暗い森の中。返り血を浴びた状態で立ち尽くす若いアトゥイの顔が、コゥーハの奥深くに焼き付く。恐怖で焦点が定まらない瞳に、震えの止まらぬ唇。赤い手を伸ばすと同時に怯えきった顔で身体を引く姿。コゥーハの知るアトゥイではないが、自身のことを似た表情で見る者は幾人も存在することを知っている。しかしそれを見るのは決して良い気分ではないし、何より育ての親であるアトゥイが見せた事が、伸ばした指を硬直させた。

 その硬くなった小さな手が、ぎゅっと握られる。細くて白い手と、柔らかな女性の吐息と共に。

「置いていけるわけ、ありません」

 コゥーハの下で、茶色の両耳を持つ女性が目を細める。手から伝わる温かさそのままに、やがてコゥーハを抱きしめるその微笑みは、首を深く斬られ今にも力尽きそうな者とは到底思えない、慈愛に満ちた強い眼差しを秘めていた。

「たとえ……貴方と血が繋がっていなくとも。この子は――」

 更に深く擦り付けられた錆びた臭いも、頬から零れ落ちる大量の血も、掠れて消えそうな彼女の声も。コゥーハにとって全く不快では、悲しくはない。むしろ心地良く身体を包み、熱い涙が込み上げてくる。

 この人もまた、同じ気持ちなのでは、と手を握りしめる。答えるように、彼女の笑みがコゥーハを撫でる。

「コゥーハは。わたくしと、アトゥイの子なのですから」

 しっかりと握り返した女性の手を、コゥーハは更にきつく握り返す。

 届くことはない。しかしコゥーハは叫ばずにはいられなかった。悲しみ、怒り、喜び――喜怒哀楽が入り混じった、声にならない嗚咽が廻り巡ってコゥーハの全身を焼く。枯れた声で、息も苦しく、如何なる感情を抱いているのか理解できない状態で……それでもコゥーハは手の温もりにしがみつき、赴くままに、泣いた。

 どれだけ長く叫んでいたのか、コゥーハには分からない。

 泣き疲れたのか、上がる息を整え始めたコゥーハの側で、地を固く踏みしめる音が響いた。身体を揺らし、コゥーハがゆっくりと首を動かした先――女性のすぐ側では、見下ろすようにアトゥイが立っていた。

「正直なところ。(わたし)は、あの男の子供を愛することはできない。これからも、その子の父親となることは万が一にもあり得ない」

 ただ。間髪入れずに、アトゥイは付け加えた。

「……誓うよ。貴女の前で、二つだけ誓う」

 前髪で顔が隠れて見えないものの、アトゥイの声は力強い。心の底から響く低音が、己が身体に楔を打つように固い地面へ突き刺さる。

「貴女がいま抱きしめている、貴女が大切だというその子を、貴方以上の立派な女性に育てる事を誓う。そして……もう一つ。仮に――そう、仮に。私がその子を」

 不意に。弟弟子が言った、コゥーハに伝えて欲しいとアトゥイが遺した言葉がある、という一言が頭をよぎる。

 ――ずっと伝える事ができなかった。直接伝えられない事が悔しい。そう何度も呟いていた、と。

「貴女の娘を愛する事が出来たならば。彼女の前で言う事を誓うよ」

 膝を折り、女性の顔へすっと手を伸ばした、アトゥイの顔が上がる。月明かりに照らされ、その顔がはっきりとコゥーハの目へ映り、弟弟子の言葉とアトゥイの発した声が重なった。

「愛していると」

 美しく、醜い。涙を流しながら歪に微笑むアトゥイの顔は、知る中で最も鮮やかであった。非常に彼らしからぬ、一番好きな表情だ、とコゥーハは目の前の光景を焼き付けるように目を閉じる。

 同時に、女性の躰が重く圧し掛かってきたところで、意識が飛んだ。

 

 

 

 

 

※※※

 

 

 

 

 

 自分の名を呼ぶ男性の声、アトゥイではない声に、コゥーハは強く目を閉じる。どこか懐かしく愛おしささえ感じる、聞き覚えのある声が微睡の中でこだまし、ゆっくりと目を開けた。

 同時に、飛び込んできた声の主の顔――白い仮面と、はっきりした声が、コゥーハの意識を覚醒させる。

「コゥーハ!」

 ハクオロの声に、コゥーハは文字通り飛び起きた。乱れた机上や暗い窓の外を一瞥し、ハクオロへ向き直る。

「申し訳ありません、聖上」

「魘されていたみたいだったが……」

 濡れた前髪を下しながら、コゥーハは静かに首を振り、謝罪する。そんな相手を眺めながら、ハクオロは溜め息を吐いた。

「疲れているんだろう。このところずっと、エルルゥの手伝いの後に書簡の整理に付き合わされて」

「いえ。三日前よりは遥かにマシです。あの日は、突発的な任と聖上がまたしても隊長に断りも無く書斎を抜けだされたことによる影響が重なり――聖上?」

 無意識に擦っていた、うっすら傷の残る人差し指へと白い布が差し出され、苦く笑っていたコゥーハの言葉が止まる。

 叱責ではない。真っ直ぐに差し出す表情は心配、心底相手を気遣う真摯な眼差しである。そこに主従関係は無く、しかし受け取らければならぬという確信がコゥーハの心を打った。

 これもハクオロという一人の男の『優しさ』なのだろうか。

 手拭いを受け取り、しげしげと見つめるコゥーハにハクオロは強い口調で命令する。

「今日はもう上がれ。後はやっておく」

 しかし、と顔を隠すように後方へ目を向け、床にまで置かれた木簡の山々を睨む。

「これから隊長がいらっしゃると致しましても。これらを今日中に、というには」

 絶対に無理だ。ハクオロは確かにそう呟いたが、掻き消すように否定し直す。

「い、いや。大丈夫だ。とにかく休め」

「しかし」

「命令だ」

 そう言われてしまえば従うほかないこともあり。御意、とコゥーハは頭を下げた。ふと、隣に佇む湯呑の水面に自身の酷い顔が映り、渡された布で慌てて顔を整えた。恥ずかしさで顔を微かに赤らめながら再度謝罪し、濡れている部分をきちんと折りたたんで相手へ返した。

「聖上は……お優しいのですね。道理でエルルゥ様に好かれるわけです」

 そうか? とこめかみを押さえるハクオロに、はい、とコゥーハは断言する。

「どこかの隊長も、相手を気遣う心を少しは見習って頂きたいものです」

 

 

 

 

 

※※※

 

 

 

 

 

 発光石の眩しさで痛くなった目を押さえ、ハクオロは隣で黙々と作業に打ち込むベナウィへと何気に視線を送った。

 ふっと。コゥーハの残した言葉が、頭をよぎる。

『相手を気遣う心を少しは見習って頂きたいものです』

「確かにな……」

「何か?」

「いや。何でもない」

 左様ですか。とベナウィはハクオロを一瞥し、手が止まっていると婉曲に――本日も徹夜でしょうか、などと僅かな脅しを交えて注意する。

「ところで。アレの姿が見当たりませんが」

「だからアレって――いや、もう何も言わん」

 ややいら立ちのあるベナウィの声に、ハクオロは毅然とした口調で返す。

「コゥーハは疲れているようだったから、今日は休むように私が命令した」

「……。そうですか」

 体調管理に気を付けるように念を押しておきます、と冷ややかに付け加え、ベナウィは作業へ戻る。が、ちらちらと視線を送ってくる相手に気付いたのか、再び筆を置いた。

「如何なされましたか」

「ベナウィは――」

 すっと俯いたベナウィに、ハクオロは口を閉ざした。しかし何も言わずに筆を落潮へ押し付ける相手を見兼ねて――何より、コゥーハに対してあまりに普段通りの対応をするベナウィへの疑問が、ハクオロの口を開かせる。

「お前は。ベナウィは、コゥーハのことが心配じゃないのか」

 心配、ですか。小さく呟きながら、相手に目を向ける事なくベナウィは木簡へ筆を走らせる。彼らしからぬ様子にハクオロは口を結び、静かに答えを待った。

「アレは昔から、心配される事が嫌いなのですよ」

 ベナウィの回答は、たったそれだけである。しかし、小さく呟くような一言に様々な物が……回答に関する確信、相手を突っぱねるような明らかな断定、その裏に隠す吐息といった物が詰まっている、とハクオロは次に掛けたい疑問を口に出すのを躊躇った。

「……そうか」

 結局。ハクオロはそれ以上問わない事を選んだ。とはいえ、部屋を包む沈んだ空気に耐え兼ね、一ついいか、と切り出した。

「その、だな。今日はコゥーハがいないわけだし」

「はっきり仰って下さい」

 そうだな。とハクオロは息を吐いた。一旦筆を置き、服の乱れを正し、(オゥルォ)の威厳を最大限に見せつけるように堂々と胸を張り、ベナウィの正面へ座り直す。さながら、これから戦が始まるかのような目で相手を見下ろし、事の重大さを訴えるその眼差しは、ぶれることはない。

 改まった主の表情にベナウィも眉を上げた。手にした書簡を手元に置き、真剣な顔で姿勢を正し、主の言葉をじっと待つ。

 蟲の声さえも窓から入って来ない沈黙の中、二人の緊張は高まっていく。

 双方の緊張が頂点に達した、一瞬。

 静かな部屋に、木簡が擦れる音がこだまする。発信源は、机にあった木簡を手に取ったハクオロの手元。ハクオロはそれを書簡の山の一つへと指し。低く、尊大に、威圧するように言い放つ。

「まけてくれ」

「まかりません」

 臣下の回答は刹那よりも早く、ハクオロにとって非情なものであった。


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