うたわれるもの 琥珀の軌跡   作:ななみ

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前書き:本当の意味で、ハーメルン様での初投稿です。ついでに、初の予約投稿だったりもします。
二つの意味で緊張しておりますが、楽しんで頂ければ幸いです。


類比

 コゥーハがウルトリィ達の部屋を訪れた日から数日後の昼。晴れ渡る空の下、皇城内にある広場の片隅にある茂みがガサガサと揺れる。

「さて。どうしたものでしょうか」

 切り傷に効く軟膏が入った木筒を手に、コゥーハは茂みの中でじっと熱い視線を送る。

(……アルルゥ様は、一体何をされているのでしょうか?)

 陽が最も高い位置に身を置いてから四半刻。右手に木の枝を携え、アルルゥは鼻歌まじりに広い地面に線を描き続けている。傍らでは、つまんないといった様子で欠伸をする白い獣、ムティカパがうろうろと徘徊していた。

(ムックル殿、でしたっけ)

 獣に対して『殿』を付けるのは如何なものか、とコゥーハは口を曲げる。とはいえ、アルルゥはエルルゥの妹君であり、皇女。その友人である彼――だと思う、とコゥーハは悩んだ末にそう結論づけた――もまた、特別な存在。

(そうです。ウマ(ウォプタル)も共に過ごせば友人)

 一瞬、コゥーハの目とムックルと目が合う。刹那、コゥーハの全身が石のように硬直する。

 コゥーハの数倍近くある巨体は、アルルゥと並ぶと更に大きく見える。白色の体に黒の縞が並ぶ毛並みは一見ふわふわしていてそうだが、陽に当たった照り具合と毛先から察するに、相当な剛毛ではないかとコゥーハは推察している。そして、鋭い爪と牙。あれは様々な肉を裂き、喰らう、それである。

 ぴんと立ったコゥーハの尻尾は、両足の間に吸い寄せられるように垂れ下がる。が、首を激しく振り、両頬を叩いた後、コゥーハは一歩踏み出した。

 しかしその後の一歩が地面から離れない。ムックルが怖くない、はずなどなかった。

 問題は、それだけではない。

 十歩。コゥーハとアルルゥとの距離が、それ以上縮まることはない。コゥーハがそれ以上踏み込もうものなら、独特の足音と軽快な動きを伴い、ウマ(ウォプタル)顔負けの早さでアルルゥは何処かへ去っていく。

(やはり、嫌われているのでしょうか)

 エルルゥ曰く『そんなことはありません』とのこと。しかし何度もアルルゥに話しかけようとするも、コゥーハは見事に失敗している。この事実は可愛らしい相手ゆえに少々堪える、とコゥーハは溜め息を吐く。

 どうしたものかと、いつになく悩むコゥーハの右肩を、ちょんちょんと叩く手があった。その手の主に振り向きつつ、コゥーハは眉を下げる。

「すみません、エルルゥ殿。今しばらく――っのあ!?」

 コゥーハが振り返った先には、茂みに隠れるように膝を曲げた銀髪の少女が一人。その背には、特徴的な漆黒の翼がある。

「か、カミュ皇女!? ななな何故――」

 しっ、とカミュは自身の口に人差し指を当てつつ、小さな声でコゥーハを窘める。

「声が大きいよっ。あのコに気づかれちゃ……あっ」

 カミュが目を向けた先、警戒するように両耳を上げた状態でアルルゥは二人の様子を見ていた。が、カミュが笑って右手を動かしたと同時に、ぷいっと背中を向けその場を去った。その後をムックルが追いかける。

 圧倒的な速さで走り去った様子に驚くように開けていた口を閉じ、カミュはかくんと肩を下した。

「あぁ……いっちゃった」

「も、申し訳ありません」

 頭を下げるコゥーハに、ううん、と首を振り、カミュはアルルゥが去った先を眺めながら、ぽつりと呟く。

「……どうしたらお話できるかな」

「それは――自分も教えて頂きたい次第です、ハイ」

 はあ。と同時に溜め息を吐き、丸くした目でコゥーハとカミュは互いを見つめた。やや緊張感の漂う微妙な空気の中で苦い笑いをこぼし、二人はアルルゥがいた場所に立つ。

「それにしても。アルルゥ様は一体何をおかきになっていたのでしょう」

「ん~。足跡で全部消えちゃってるから、全然分からないや。残念だなぁ……」

 うーん。と二人が再び息を吐いた直後、コゥーハは身体を硬直させた。何気に話していた相手がどういった人物かを思い出したことによって汗が吹き出した手を後方で拭いながら、仕切り直すように姿勢を正す。

「して。皇女は何ゆえ、このような場所に?」

「え、え?! ええっと――」

 コゥーハの問いにカミュは身体をびくりとさせ、考え込むように腕を組んだ。しばし考えた後、あっ、と思いついたように両手を合わせる。

「そう、お散歩。お散歩だよ」

「気分転換、でございますか?」

 そう、それそれ。と得意げに胸を張るカミュに、コゥーハは苦笑した。おそらくは自分の言った通りではないのだろう、と思いつつも、話の続きに耳を傾ける。

「で。歩いてたらあのコを見かけて、それで追いかけてたら、この茂みから音がして」

 成程、と心中で思いつつ、コゥーハは目を細めた。その上を、心地良い風に揺れた黒髪が流れていく。

「アルルゥ様と、お友達になりたいのですね」

「え、えっと」

 やや間があり。うん。と、カミュは頷いた。

 小さくも、はっきりとした回答。そして、とても真っ直ぐな青い瞳。いずれも歳相応の素直さと悩みを内包する少女に、コゥーハはこそばゆい感覚を抱く。決して嫌なものではなく、地を照らす温かい日差しのような――明るく振る舞うもどこか不器用な彼女の助けに、少しでもなればと。そう自身が思ったことを理解した時、コゥーハは既に言葉を発していた。

「カミュ様も、自分と同じことを考えていらっしゃったのですね」

「う、うん……」 

 笑う一歩手前、その一瞬。カミュの表情が曇ったことに、コゥーハは目を丸くした。

 雲が落とす薄い影と共に見えた陰りは、畏まる相手にエルルゥが時折見せる困惑の表情と似通うものがある。その奥で揺らめく濃い影が、コゥーハの心を抉る。戸惑いの裏にある、辟易した視線と諦め――明るい笑顔の裏で常に寄り添っている哀愁を持つ彼女と己が断片を重ね合わせたことに、コゥーハは自分に対して不快感を抱いた。

 過去に置いてきたはずのモノを再び見ているかのようで。至極利己的な理由で、気が付けば、一つの提案をコゥーハはしていた。

「……皇女と呼ばれること、『様』を付けて呼ばれることは、お嫌いですか?」

 え? とカミュは目を瞬かせる。

「そ、そんなこと」

 あるかも、と眉を下げて笑ったカミュに、素直でいらっしゃいますね、とコゥーハは微笑する。

「もしよろしければ。カミュ『殿』とお呼び致しましょうか。公の場ではさすがに致し兼ねますが」

「え~。そ、それもちょっと固くないかな」

 さすがにこれ以上は。とコゥーハは両耳を垂れた。ゆっくり首を振る相手にうーん、とカミュは頬に手を当てる。

「でも。カミュの方が年下だし……せっかくだし、呼び捨て、とかの方がちょっと憧れちゃったり」

 事も無げに提案したカミュに対し、コゥーハは止まりかけた自身の心臓へ手を当て、そんなことをしたらアレに殺されます! と涙を滲ませながら心の奥底から訴える。が、アレって誰のこと? と問われた瞬間勢いは急速に衰え、うぅっ、と口を噤んだ。

 そのコゥーハの背中に、男性の声が掛けられる。

「どうした? こんなところで」

 振り返ると同時に、コゥーハは慌てて礼をとった。

「せ、聖上」

 そう固くなるな。と臣下に頭を上げさせつつ、ハクオロは周囲を見渡す。その視線は鋭さを帯びていると、コゥーハは疑問を抱く。カミュに対して微笑を浮かべて軽く挨拶をしている口元はどこか固く、広場の中央から四方をまんべんなく気を配る様は、まるで誰かに追われているように映る。

 またでしょうか。と思いつつも、コゥーハはハクオロに小さく確認を取る。

「聖上。一つ伺ってもよろしいですか」

「何だ」

「本日の御政務は終えられたのでしょうか?」

「ん゛……」

 大きく俯き、無言のまま仮面の下に黒い瞳を隠すハクオロに、二人の目は丸くなる。

 妙に。上官の怒りの表情が目に浮かび、コゥーハは失笑した。

「さすがは聖上。アレの監視下からまたしても抜け出すとは、見事なお覚悟です」

「あ、アレをアレ呼ばわりするお前も、相当な覚悟があると思うぞ」

「失言でした。どうかお忘れ下さい。隊長には『聖上のお姿は見ていない』と申しておきますので、どうぞ御安心ください」

「助かる」

 もしかして一緒なのかな、とハクオロを見つめながら呟くカミュを一瞥し、ハクオロは軽く咳払いをした。

「ところで。何をしていたんだ? 特に姫君は部屋で謹慎中という話だったが、もういいのか」

「え!? う、うんもちろんだよ」

「…………」

 突然話を振られ、カミュは頷いた。が、声が吃っている上に視線があらぬ方向を行ったり来たりする様子から、明らかな不自然さがある、とコゥーハは眉を寄せる。ハクオロも同じことを感じ取ったのか、探るようにじっとカミュの様子を窺っている。

 無言で見つめ続ける二人にしびれを切らしたのか、カミュはやや引き攣った笑顔で念を押す。

「ホ、ホントにホントだよ」

 そうか。と言いつつ、ハクオロはやや意地の悪い笑みを浮かべる。

「いや、可哀想だから、僧正(ヤンクル)殿に頼んで謹慎を解いて貰えるよう、お願いするつもりだったが……」

 ホント!? と嬉しそうな声を上げたカミュに、ハクオロは変わらぬ笑みで返す。

「だが、もうその必要はないな」

「う゛……」

 人差し指同士を突き合わせつつ俯くカミュを生温かい目で見つめるハクオロに、コゥーハは感嘆する。

(聖上……良い性格をしていらっしゃる)

 沈黙を破るように激しく首を振り、気を取り直すようにカミュは口を開いた。

「そ、そんなこと無いんじゃないかな。ほら、この先何があるか分からないし……」

 そう呟いた刹那。遥か遠くから「ひーめーさーまー!!」という男性の――おそらくはムント様なのだろう、とコゥーハは推測する――声に、カミュは自身の両耳を強く押さえた。

 皇城に響いた声とカミュの行動に目を瞬かせ、ふっとハクオロは吹き出した。

「……やっぱり抜け出したのか」

 現在の聖上が仰っても良いのでしょうかと心中で思うコゥーハの横で、あ~……、とカミュは白状する。

「だって、朝からずっとずっと、お勉強ばっかりさせるんだよ」

「まぁ、気持ちは分からんでもないな。ウチにも同じようなことを、させる奴がいるし」

 はぁ、と溜め息を吐く二人の隣で。全くです、とコゥーハは深く同意した。

「御二人は同じような生活をされていますからね」

 他人事のような物言いに――コゥーハからすれば、正しく他人事ではあるのだが――ハクオロとカミュはコゥーハへ詰め寄った。

「そう思うのであれば。あの木簡の山を減らすようベナウィに働きかけて欲しいのだが」

「そう思うなら。ムントにお願いしてくれないかな? お願いっ!」

 二人の放つ気迫、殺気にも近い切羽詰まった声に、それは、とコゥーハは一歩後ずさる。

「それは……どちらも大変難しい御相談かと」

 笑みを引き攣らせ、コゥーハは更に半歩後ずさる。

 特にハクオロの場合。ベナウィへ意見する言い方一つ間違えようものなら、最悪の場合、書簡の山を増やすことになり兼ねない。そして仮に上手く伝わり、ハクオロの仕事量が減ったとした場合、過去の事例から減った量の仕事がコゥーハへ八割以上回ってくることが想定されるため、正直なことを言えばそれはやりたくない、とコゥーハは視線を泳がせる。

 カミュの場合もハクオロ同様で、言葉を選ぶことは必定である。また、一度会ったことがあるとはいえ、コゥーハは小國の一武官であり、相手はオンカミヤムカイの僧正(ヤンクル)。いくら皇女の頼みとはいえ、双方の立場が立場なだけに、接点作りからしても困難を極めていると言っても過言ではない。

 とはいえ。ハクオロとカミュの切実なる思いも理解できないわけではないため――むしろ、大きな手の平を両肩へ乗せられ、白くて美しい両手で強く握りしめられ、ここで二人の頼みを受け入れなければ解放されない状態に陥っているため、コゥーハは何か案をと思考を巡らせる。

 うーむ、と散々考えた挙句。幾つか浮かんだその場凌ぎの案を、申し訳ないと思いつつもコゥーハは提案する。

「書斎を抜け出すだけでしたら、幾つか方法が思いつきますが。意外に多い皇城内の隠し通路や。隊長の日程と行動周期、ウルトリィ皇女並びにムント様の視察日程は記憶しておりますので。後は、御政務や御講義の中に御自身にとって息抜きとなる内容を忍ばせる事が一番よろしいのではないでしょうか。例えば、調練の様子を視察されるですとか、経本を挿絵付といった物に変更する事で一定の期間に学ぶ量を減らすですとか」

 ハクオロとカミュは顔を見合わせ、コゥーハの言葉を待つ。

「しかし抜け出したところですぐに発見される可能性が高いですし、意図が発覚すればすぐに対策をされてしまいますので、どれも一回限りであり、根本的な解決は――っう゛?!」

 相手が悲鳴を上げる中、二人は熱く照りつける陽に負けぬ位に輝く瞳をコゥーハに近づける。

「そういう大事なことはだな」

「もっと早く言ってよ!」

 二人の言葉に押し切られる形で、コゥーハは小さく謝罪した。

 

 

 

 

 

 ベナウィやムントに見つからないようにと、人気のない場所へと移動した一室にて。それ程に警戒されなくても、とコゥーハが内心で苦笑する位の小声で、ハクオロは切り出した。

「で。コゥーハは一体何をやっていたんだ?」

 そうでした、とコゥーハは改めて居住まいを正した。

「切り傷に効く薬をアルルゥ様にお渡しするよう、エルルゥ様に頼まれまして」

 ですが、と言い淀んだコゥーハを、ハクオロは促す。

「どうした?」

「アルルゥ様は、どうも自分を避けているようでして」

「…………」

 やっぱりな、と溜め息を吐き、ハクオロは腕を組んだ。

「アルルゥは人見知りが激しいからな」

「どうにかしてお友達になりたいのですが」

「友達に?」

 コゥーハの物言いにハクオロは首を傾げる。その意を探るように目を向けた微笑するコゥーハの視線の先、何か言いたげに口を開いたカミュと目が合う。

「カミュも! あ……あのコと友達になりたくて……その」

 身体をすぼめ、左右に小さく肩を揺らすカミュに、ハクオロは失笑した。きょとんとした相手に、すまんすまんと謝りつつ、カミュに聞こえない小さな声でコゥーハへ問う。

「そういうことか」

「はて。自分には分かり兼ねますが」

 人差し指で頬を突きつつ笑うコゥーハに、まあ良いさ、とハクオロは口元を緩ませる。ん~そうだな、とカミュの関心を惹ようにわざとらしく唸った。

「そういうことなら協力しないとな」

 え? と目を丸くしたカミュの正面で、ハクオロは頷く。

「とっておきの方法を教えてあげよう」

「とっておきって……?」

 首を傾げるカミュに、ハクオロは胸を張った。

「とっておきは、とっておきだ」

 

 

 

 

 

 ハクオロに指示された場所――皇城内の広場に戻ってきた場所でコゥーハとカミュが待たされること四半刻弱。やって来たハクオロから手渡された物に、えっと……とカミュは困惑するように眉を下げた。

「これ……なに?」

 ハチの巣だ。とハクオロは説明する。

「それさえ持っていれば、香りに誘われてやって来る」

「ケモノみたいなコ……なんだね」

 動揺を隠せない顔で、カミュはコゥーハと共に手渡された入れ物の中を覗き込む。一見すると茶色の塊であるソレを一瞥し、失礼、と躊躇いもなく指でソレを手に取るコゥーハに続いて、小さな六角形が連なった物体を手にした。

 ねっとりとハチミツが付いた指を近づけ、うぅっ、とカミュは呻く。

「でもこれってホントに食べ物……なの? (なん)か土の塊みたいで……べたべたするよ」

 甘くて美味いぞ。と笑うハクオロに疑うような目を向けつつ、カミュは手にあるハチの巣を口元へ近づける。が、六角形の溝の奥――僅かな土とたっぷりのハチミツが詰まった場所で蠢く白い物体と目が合い、驚いた拍子に持っていたハチの巣を入れ物の中へと落とした。

「あわっ……な、中で何か動いてる」

「それは幼虫だ。一緒に食べると更に美味い」

 うんうん、と頷くハクオロに、カミュは一歩後ずさる。

「こ、これも一緒に食べるの!?」

「もちろんだ。アルルゥとの友情は、共にハチの幼虫を喰らうことから始める」

「なんか……やな友情だね」

 そう言いつつも、手に付いたハチミツを舐めて「ん、美味しい!」と嬉しそうな声を上げるカミュに微笑し、ハクオロはコゥーハへ目を向ける。

「コゥーハ?」

 背を向けている相手に首を傾げハクオロは声を掛けるが、コゥーハは声に反応しない。尚もハクオロはコゥーハの名を呼ぶが、身体と長い尻尾をゆらゆら揺らすだけで振り返ることはない相手に首を傾げ、コゥーハの横顔をそっと覗き込む。

 ほんのり紅く染めた頬と、緩み切った口端。切れ長の目は更に細く、悦に浸っているのか、その視線は前髪を揺らす風と同じく定まることをしない。両側にある茶色の長い耳も声に全く反応することなく、身体や尻尾と同様不規則に上下している。

「ん~んふふふ~」

「――…………」

 ハチの巣を持っていた指を口に入れながら、大層幸せそうな吐息を漏らしているコゥーハに、ハクオロは言葉を失った。

「だ……誰だ、お前は」

 数拍置き。辛うじてハクオロが発した言葉に、ようやくコゥーハの両耳がぴんと上がる。おそるおそるハクオロのいる方へ向き、視線が合った刹那、真っ赤になった顔を片手で隠した。

「せ、聖上……少々恥ずかしいので、この事はどうか。お忘れになってとは申しませんので、御内密にお願い申し上げます」

 ふむ。とハクオロは腕を組み、仮面の奥で目を細める。

「そうだな。今日残っている仕事の一部で手を打ってやらんこともない」

 うっ。と肩を上げたコゥーハに、別に断っても良いんだぞ、とハクオロは真剣な目つきでコゥーハの正面で構えた。ただ、その瞳の奥には何かを生温かく見守るような、その口調には楽しんでいるような印象を相手に抱かせる。

「ただ最近は武官や女官達が部屋に入ってくる程に忙しいせいか、みな面白い話に飢えていてな。休憩の間に、その時の流れでエルルゥや彼らに話してしまう可能性も」

「誠心誠意、お付き合いさせて頂きます」

 まあ……それ程気にする必要は無いと思うが、と呟くハクオロの横で、コゥーハはぐったりした様子で肩を下げる。

「さ、さすがは聖上、であらせられる」

「臣下は出来うる限り利用して己の仕事を分散させる、とさっき教えてくれたのはコゥーハだったと思うが」

 自分としたことが、と項垂れるコゥーハに、それ程残っていないから心配するなとハクオロは苦笑した。

「しかし。その様子だと余程好きなんだな」

「はいそれはもう出来ることであれば一日三食一年中でもといいますかこの大陸にハチの巣が嫌いという失礼極まりない輩がいるとは到底思えませんがそもそもハチミツと申しますのは非常に健康に良いとされており――」

 爛々と輝く目を相手に押し付け、嬉々とした表情で捲し立てるコゥーハをハクオロは制する。コゥーハがどれだけハチの巣が好きなのか理解できた意をきっちりと伝え、とにかく冷静になるように誘導した。

 コゥーハはばつが悪そうな顔で咳払いをし、声を聞きつけやってきたカミュの持つハチの巣を覗く。

「こ、このハチの巣は。幼い頃に初めて頂いた、思い出のハチの巣と同じ種の物でしたので。感銘を受けたと申しますか」

 成程、とハチの巣を覗くハクオロの視線に同調するように、コゥーハも輝きを取り戻した目でその後を追う。

「この芳醇な香り。色艶。ふっくらとした幼虫。とても上等なハチの巣とお見受けいたします」

「そ、そうか? 自分には良く分からんが」

 敬意を表すように胸に手を当て、コゥーハは深呼吸をした。

「このような物を自分に頂けるなどと」

「念のために言っておくが。二人と一緒に食べるんだぞ?」

 勿論でございます、と言ってハチの巣を見つめる墨色の目はかつてない輝きを放つ。

「とても美味なハチミツを、自分一人で独占しようなどと、何ともおこがましい」

「……目的を、忘れてないか?」

 ハクオロが呆れるような声を上げた刹那。獣の鳴き声が広場に響き、カミュの翼とコゥーハの両耳が反応する。

 来たか。と、ハクオロは漏らすと同時に、緊張で固まる二人の肩を叩いた。

「では、頑張ってくれ」

 待って! というカミュの手を振り切り、ハクオロは足早にその場を去った。広場に取り残され、不安と緊張、僅かな警戒感の入り混じる瞳でカミュは周囲を見渡し始める。

「行っちゃった……。頑張れってどうしたらいいの……ああ、待って!」

「う゛っ」

 自分もその場を後にしようと足を動かし、数歩。カミュに手首を握られ、コゥーハは歩みを止める他なくなった。強く掴んでくるカミュの手からひしひしと伝わってくる焦りや動揺、やや怒りのような感情が、コゥーハの肘の内側にじわりと汗を滲ませる。

「な、なんで行っちゃおうとするの?!」

「と、年寄りは退散するべきだと思いまして。若い方は若い方同士で、御交流を深めて頂く方が――」

「ダメダメ! 絶対に駄目! 怖いから一緒に居て!」

 更に強くなった力と近づけてくるカミュの目に、コゥーハは立ち去ることを諦めた。両耳を下げ、溜め息を吐きつつ足の向きを変え、相手にその意思を告げる。

 コゥーハが留まることを確認し、カミュは小さく息を吐いた。微かに崩れた微笑を浮かべるコゥーハにちらちらと視線を送り、何かを言いかけた、その直後。

 唸る獣の――ムックルの声が二人の背中に圧し掛かった。

『ヴォルルルル……』

 ビクッ、と、今まで以上に二人の尻尾や翼が大きく上下する。その正面――数歩もない先で、いつの間にか姿を現していたアルルゥが、カミュとハチの巣を交互に、注意深く観察するように見ていた。

「…………」

「え、えっと……」

 カミュの手が。双方共に、持つ力が強くなる。

「こ、これ……食べる? ハチの巣」

 カミュは手にあるハチの巣を、そっと相手へと差し出した。

 差し出された入れ物から咄嗟に距離を取ったものの、アルルゥは物欲しそうな顔でカミュとコゥーハとの周りを彷徨い始めた。やがて、ムックルが二人の――特に、ハチの巣を持つカミュに近づき、その躰を嗅ぎ回り始める。首筋辺りに鼻を押し付けられ悶えるように躰を震わしながらカミュは引き攣った笑みを浮かべていたが、くすぐったい状態が我慢できなったのか、ふっと吹き出した。

「もひゃひゃひゃひゃ――」

 声を上げたことで一旦動きを止めたムックルにカミュは硬直するが、「平常心……平常心……」と小さく繰り返しながら笑みを絶やさぬようにと努めていた。その光景に微笑し、コゥーハはそっと場を離れようと後ずさるが――

「うっ」

 カミュの手がコゥーハの腕を一層強く掴み、身動きが取れない状態は続いていた。更にムックルの大きな躰が進路を塞ぎ、何より笑みの奥で鋭く光るカミュの両目から送られる視線にコゥーハの足が止まる。

『行っちゃダメ』

 非難の色が濃い視線を向けられ、コゥーハは両耳を下げた。

 完全に諦めたコゥーハを一瞥し、カミュはほっとため息を吐く。そのすぐ側にアルルゥが再び立ち、じーっとカミュの持つハチの巣を眺める。

「…………」

「た、食べる?」

 カミュの言葉に、アルルゥはおずおずと手を伸ばす。が、ハチの巣に触れたと同時に、ひったくるようにして再び距離を取った。

「あ……」

 手にあるハチの巣を見つめるアルルゥに、カミュは小さな声を上げた。残念そうに、どこか寂しそうに目を伏せるのだろうかとコゥーハが思った直後。アルルゥがカミュの袖をくいっと引っ張る。

「いっしょに食べる」

 カミュの手が、コゥーハの腕から離れた。

「え?」

「いっしょに食べる」

 手にあるハチの巣を差出すアルルゥにカミュは戸惑いを示していたが、やがて決心がついたようにハチの巣を口の中へ放り込んだ。

「――ん! これも美味しい!」

「ん」

 カミュは更に手を伸ばし、口に入れてはハチの巣を絶賛する。その隣でアルルゥは嬉しそうに頬を紅くさせ、カミュと一緒にハチの巣を楽しんでいた。

 二人の様子をじっと見ていたコゥーハは目を細め、気付かれないようにとゆっくりと後ずさりながら、彼女達から距離を取り始めた。

(さて)

 カミュ達から十歩近く離れたところで踵を返し、コゥーハはそそくさと広場を後にする。しかし、その進路を塞ぐものが、一人……否、一頭。

『ヴォ?』

「ム、ムックル殿。これは、失礼を」

 いきなり襲いかかってこない事への感謝を含め、コゥーハはムックルへ軽く礼をし、違う方向へと足を踏み出す。しかし数歩前進したところで再びやってきたムックルに止められ、眉を上げた。右へ、左へ、時には上下に方向を変え、歩調を突然変更したりして広場を去ろうとするも、その正面には必ずムックルの躰があり、阻まれる。

 挙句の果てに尻尾で軽くあしらわれ、コゥーハはその場でよろめいた。少々の苛立ちを微笑の後ろへ隠し、必死さを前面に押し出すように両手を合わせる。

「あー……も、申し訳ありませんが、そこを通して頂くわけには参りませんでしょうか」

『ヴォフ』

 駄目、と言われたような気がする、とコゥーハは首筋を手で拭う。予想以上に汗が手に付いていた事にこめかみを押さえ、どうしたものか、と振り向いた側で、アルルゥと視線が合う。

「ん」

 手にあるハチの巣を差し出され、コゥーハは半歩後ずさる。

「えっと」

「食べる」

 コゥーハは更に後ずさるが、その背中はふかふかの毛が――ムックルの躰がそれを良しとしなかった。アルルゥが更に近づくという四半刻前とは全く逆の状態の中で、コゥーハはそれとなく断る理由を探す。

「い、いえ。自分めは、お構いなく」

「いっしょ」

「お、お腹は一杯でありますので」

「うそ」

 アルルゥが指摘したとほぼ同時、コゥーハのお腹が正直な回答をした。顔を赤くし咄嗟にうずくまる相手に、アルルゥは眉を上げる。

「うそはダメ」

「むむぅ」

 ずいっと渡されたハチの巣を受け取り、コゥーハは喉を鳴らした。立ち上る甘い香り、とろりと指を擦るハチミツ、程よい固さの巣、その中で躰を揺らす白い幼虫――どれをとっても最高であるという事を、過去の記憶達が繰り返し告げている。そして何より、先程口にした忘れようもないあの味が大量の唾液を呼び、自制心を吹き飛ばした。

 気が付けば、コゥーハはハチの巣を口に入れ、あの味を堪能していた。尻尾と両耳を振り、頬を紅く染め、細い目を更に細め、だらしのない口元で間の抜けた吐息を発しながら。

「にょほほほほほ。やはりこのハチの巣は最高でありま……っぐ」

 きょとんとした様子の二人――アルルゥと、駆け付けたカミュと目が合い、コゥーハの表情が硬直する。周囲に冷たい沈黙が流れ始めたことで頭の中が真っ白の状態になる。自己防衛とも言うべき貼りついた微笑を浮かべながらコゥーハはゆっくりと後ずさる。一歩、二歩、三歩目で背中の異変に気付いた直後――

「――おわっ!」

 激しく転倒した。

 先程までコゥーハの後ろにいたムックルは、現在はアルルゥの後方で二人と共にコゥーハを見下げていた。機嫌が良さそうに鼻を鳴らし尻尾を振っている相手に、自分はからかわれたのではなかろうか、とコゥーハが頬を膨らませると、二人の笑い声が降ってきた。

 顔を横に逸らし、必死に堪えるように口に手を当てるアルルゥ。対称的に、大声を上げ、お腹を抱えて笑うカミュ。己の表情がどれほど可笑しなものであるかは分からないが、笑われているというのに不思議と嫌な気持ちは無いようだ、とコゥーハも二人に交って笑った。

 ひとしきり笑った後。三人は残りのハチの巣を余すことなく堪能した。一部はムックルにも分けられ――ねだってきたムックルに慣れた手つきでアルルゥはハチの巣をあげた。その様子に驚き最初は戸惑いつつ、「咬んだりしない?」とカミュはアルルゥに再三問いかけていたが、アルルゥの「大丈夫」という返答にムックルへとハチの巣を渡し、ムックルも美味しそうにそれを食べた。その事がきっかけとなり二人の距離は一気に近づき、カミュはムックルの躰を抱きしめられる程の距離に至った――時間は瞬く間に過ぎていった。

 一通り食べ終えた後。ムックルの躰を撫でていたカミュの隣で、アルルゥはコゥーハの袖を引っ張り、俯き加減で相手に言った。

「……さい」

 声が小さく聞き取り辛かったために、コゥーハは再度問いかけた。

 精一杯言った言葉を聞き取れなったコゥーハに怒っているのか、あるいは相手にきちんと伝えなかった自身に苛立ったのか、アルルゥは微かに赤い頬を膨らませ、何度も視線をコゥーハに向けては逸らしつつも、しっかりした声で相手に伝えた。

「ごめんなさい」

 思わぬ謝罪に、コゥーハは目を丸くする。謝られることを何かされただろうか、としばし考え、先日の――アルルゥがコゥーハの尻尾を引っ張った事を思い出した。

 ああ。とコゥーハは微笑し、屈んでアルルゥの視線をやんわりと上げさせる。

「先日の事でしたら、構いませんよ。もしや、自分の尻尾が少々変わっているから、興味をお持ちになったのでしょうか」

 んう? と首を傾げるアルルゥに、コゥーハは目を丸くする。

「おっと。これは失礼致しました。よろしければ、もう一度尻尾をお触りになりますか?」

「……いいの?」

「あ、ええと」

 その場の勢いで提案してしまった事をコゥーハは後悔する。側で今にも手を伸ばしそうな、期待を秘めた瞳――アルルゥだけではなく、カミュも興味津々にコゥーハを……正確には、緊張で揺れるコゥーハの尻尾を見つめている。何故かムックルも同じ目でコゥーハの尻尾を狙っている気がするという想像を半ば無視しつつ、確認のためにコゥーハはアルルゥとカミュに問う。

「い、今でありますか?」

「ん」

「うん」

 うっ、と呻いたコゥーハの尻尾が僅かに上がる。

 自身が許す範囲であれば触られることは構わないのだが、覚悟が出来ていない今からとなれば少々事情が異なり、コゥーハは即答できなかった。それだけコゥーハにとって尻尾は非常に敏感かつ繊細な場所の一つ――しかしながら、好奇心で輝く二人の目を見てしまった以上、自身の立場としても、一個人としても断ることはできない。全くもって勢いでものを言うものではない、とコゥーハは己を呪った。

 言い訳を考えるか、覚悟を決めるのか。素早い決断を迫られ唸るコゥーハの背後で、遠くから聞き覚えのある男性の声が聞こえた。

「ひ、姫様~!!」

 息も絶え絶えに、しかし割と元気な男性――ムントの声に、カミュの翼が開く。

「ム、ムント!」

 マズイ、と呟きおたおたするカミュと、こちらへ駆けてくるムントを交互に見た後、アルルゥはムックルへ視線をやり、カミュに向かって一つの提案をする。

「行こ」

 え? と瞬きするカミュの隣でアルルゥはやってきたムックルの背に飛び乗り、後ろを叩いた。乗せてくれるのかというカミュの問いに同意し、満面の笑みで頷いたカミュが後ろへ乗った直後、コゥーハへも視線を送る。

「乗る」

「いえ。さすがに定員を超えております故。重い自分が乗ればムックル殿に負担が掛かりますし、ムント様に追いつかれてしまいます」

 確かにムントの足って結構速いんだよね、と俯くカミュの前で眉を上げたアルルゥに、コゥーハは目を細める。

「いってらっしゃいませ」

 視線を送ったムックルの躰を押し、コゥーハは遠ざかる三人へ手を振った。その途中、ムックルの尻尾がコゥーハの手を叩き、コゥーハは思わず吹き出した。

「ムント様の方は……何とか引き留めてみましょう」

 できるの? というカミュの問いに声を詰まらせながらも「……立て板、位には。なるかと思います。物理的な意味で」とコゥーハは苦笑しつつ手を揺らす。それに答えるように、カミュは笑って手を振った。

「ありがとう! コゥーハ姉さま」

「い、いえ。自分の事はどうか呼び捨てに――」

 コゥーハの声は、やってきたムントの「ひ~め~さ~まあぁぁ――!」という叫び声によって掻き消された。

 楽しそうに広場を駆けていく三人を背に、僅かに痛む耳を掻きながらコゥーハはムントに声を掛けた。

「これはムント様」

「お、や……これは……」

 その場に立ち止まり、肩で息をするムントの背中をコゥーハは擦る。

「だ、大丈夫ですか。あまり御無理をされない方が――」

 これ位、何ともありますまい。息を整え、ムントは返答した。

「では。急ぎます故、これにて」

「ああ、お待ちください」

 何か? とムントは正面に立ったコゥーハを見据える。あ、ええと、と両手を合わせながら微笑しつつ進路を塞ぐ――広場を駆けるカミュ達を身体で隠す相手をしばし眺め、やがてコゥーハの意とすることを理解したように溜め息を吐いた。

「貴女のことだ。解っておられるとは思いますが」

 しかし。言いかけたコゥーハに鋭い視線が浴びせられる。相手の意にコゥーハは言葉を詰まらせるも、小さく首を振り、姿勢を正した。

「しかし。恐れながら。現在のカミュ皇女は、とても……とても楽しそうでいらっしゃるように、自分は思います」

 己の本心を、コゥーハは正直に話した。

 広場に響く笑い声。記憶の中で最も大きいカミュの声が、コゥーハの胸を打つ。そして、走るムックルの上で弾ける笑顔はアルルゥの微笑みに勝るとも劣らない、同じく最も楽しそうな笑みである。

「あのようなお顔をされる事は」

「……そんなことは分かっておりますわい」

 ムントの呟きに、コゥーハは目を丸くする。

 やや俯くムントの瞳に叱責の色は全くない。穏やかな表情の奥で揺らぐのは、嬉しさと僅かな寂しさ――晴れて独り立ちする子供を見るような目だ、とコゥーハは息を呑んだ。

 気を取り直すように軽く咳払いをし、ムントは普段の表情――生真面目な、物事にひた向きな目でカミュを見つめる。

「なればこそ。姫様はより一層、新たな事を学ばねばなりますまい。交友の輪が広がった以上、数は無限。そしてその最低限を教えるのが、私の役目に御座います」

 何も言えず立ち尽くす相手に、失礼、と軽く挨拶し、ムントは再び歩き始める。が、コゥーハの側で一旦止まり、付け加えるように口を開く。

「少なくとも。あのような乗り方では危なくて仕方がありませぬ。それに、あんなに足を広げては……少々、はしたない」

 コゥーハからも後で注意して欲しいと溜め息交じりに一言残し、ムントは再びカミュを追いかけ始める。そんなムントを引き留めることなく、振り返ることもなく笑うコゥーハの後方から、カミュを呼ぶムントの叫び声が上がった。

 心中でカミュ達に謝罪しつつ、コゥーハは空を見上げた。爽やかな風が流れた方向へ視線を伸ばし、皇城の広縁にいた男性と目が合う。

「せ、聖上――それに」

 軽く手を上げるハクオロの隣、白い翼と金髪を持つ女性――ウルトリィに恭しく頭を下げられ、コゥーハは深く頭を下げた。

 拍子に、懐から飛び出た物が地面を撥ねた。足元に転がる木筒を眺めながら、コゥーハは両耳を垂れる。

「さて……エルルゥ様に何と説明致しましょうか」

 そう呟くコゥーハの表情は髪を揺らす風と同様、非常に穏やかであった。


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