うたわれるもの 琥珀の軌跡   作:ななみ

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呼称

 部屋の主に深々と頭を下げる女官の左側、数歩の間を開けた廊下の端で。部屋にいた二人――ベナウィとコゥーハのやり取りを聞いていた男は、左眼に走る古傷を押さえた。

(何だったんだ、()()は)

 部屋から聞こえてきた会話を振り返りつつ、男は止まっていた足をゆっくりと動かし始める。

 ベナウィが部下に対して説教をする事は、彼の元で数年もの時を過ごしてきた男にとって、決して珍しい光景ではない。しかし思慮深い上官の性格上か、相手に対して強く怒りを顕わにする事は稀であり、男の記憶でも一度だけ――先の戦の折。前に仕えていた(オゥルォ)、ケナシコウルペの(オゥルォ)であるインカラ(オゥ)の、民を蔑ろにする発言に対して、ベナウィは声を荒げた。結果的に、それが(オゥルォ)の怒りを買い、ベナウィは投獄される形となった――である。故に、ベナウィが相手に対してああも……机を叩いてまで怒りを表した事が、男にとっては新鮮でもあり、異様な光景にも取れた。

 男が驚いた事は、もう一つ。コゥーハである。

 槍の腕は一流、頭も良く、容姿も良く。しかし、やや表情に乏しく自他共に厳しいためか、男女共に距離を置かれているベナウィに対して、正面から物を言う人物はほとんど――現在のベナウィの主である、トゥスクル國の(オゥルォ)であるハクオロが最も該当する人物に近い。が、最近は政務に忙しいため疲れているのか、ベナウィに正論を並べられて強く出られないのか、はたまた双方なのか。ハクオロがベナウィに対して意見を言うところを男はほとんど見たことがない――いない。故に、コゥーハがベナウィに対してああも……声を大にして意見を押し通そうとした事が、男にとっては一驚させられる光景でもあり、彼女が奇異な存在である印象を抱かせる。

 男の記憶を辿る限り。過去ベナウィに意見した者達は、二通りに分かれる。

 馬鹿か、傑物か。

 見分けるには些かの情報と時間が掛るだろうと思いつつ、ただ一つだけ言える事は、馬鹿も傑物も相手をするのに疲れることか。などと、困り果てていた男の側を、ベナウィに衣服を渡していた女官が通過する。

「これはクロウ副長」

「あ、ああ、ども」

 女官に一礼され。男――クロウは頭を下げた。

 ふう、とため息を吐き、どうしたものかと部屋の様子を眺めるクロウに、あの、と女官はおずおずと口を開いた。

「クロウ副長は、コゥーハ様のことを御存じですか?」

「え? あぁ、まあ。ちっとはな」

 女官の眉がぴくんと上がる。自身の体格の二倍以上あるクロウの躰を、何処からそんな力が、とクロウが焦る程の力で押しつつ部屋の入り口の十歩程先まで移動し、困惑する相手に向かって耳打ちするように背伸びをした。

「ベナウィ様とコゥーハ様って、一体どのような関係なんでしょうか?」

 もしかして。と続きを口にしようとした女官をクロウが制す。

「いや。そんなんじゃないって大将が――」

「じゃあ、どんな関係なんですか?」

「う゛っ」

 若干の怒りが含まれた表情で更に詰め寄られ、クロウは呻いた。相手の睫毛が濡れていることに気づき、クロウの心に申し訳なさが上積みされていく。

「俺も。良くは知らんのよ、悪ぃな」

「そ、そうですか」

 心底落ち込んでいるのか。白く長い両耳と、先端が同色の薄茶色の尻尾を垂らし、女官は軽く頭を下げた。泣き出しそうな顔を必死に隠しながら早足で去る彼女にクロウは声を掛けようとするものの、何を言えば()いかと迷っている間に、相手は視界から消えていた。

「…………」

 非常に気まずい沈黙が、クロウの心に降りる。

 決して。決して、クロウは嘘をついていない。二人の――ベナウィとコゥーハの関係をクロウは知らない。

 先の戦の折にベナウィから聞いた『知り合い』と『女性』いう単語。それ以外のはっきりとした情報をクロウは持っていない。ベナウィに直接訊けば良い話だが、トゥスクル國建國と共にベナウィやクロウ自身が忙しくなったことや、これまでコゥーハの話題が持ち上がらないこともあり、現在まで問う事は無かった。

 これを機に訊ねてみるのも悪くないか、とクロウは右手にある報告書を握り締め、戸が開いたままの部屋へ足を進める。

(とりあえず。これを――っおわっ!?)

 部屋に入ろうとしたクロウだったが、中を見た直後に顔を引き攣らせ、一目散に廊下へ駆け戻った。荒くなった呼吸を整えながら数拍前に見た部屋の光景を思い出し、おそるおそる部屋を再び覗き。

 再び隠れた。

 話し声が消えた部屋から不規則に漏れるは、軽い何かが落下する音と、衣服が擦れる音。

(な、なななんで此処で着替え始める?! しかも戸を開けっ放しで! ったくアイツは本当に女なのかよ?! ――いやいや、その前に!) 

「つか、大将!」

 その大将の声が部屋から聞こえ、クロウは身体を硬直させた。

『案外動きやすいのではありませんか?』

『ええ。思っていたよりは。やはり尻尾を出せるというのはありがたいですね。とはいえ、訓練や実戦時はこの上から装備一式を着用するわけですし。ただし、ここに物が無い以上――』

 己が取った行動が間違っていると言われたかのような、至極()()()()会話が繰り広げられていく様に、クロウの意識が飛びかける。

「……っ」

 カン、とクロウは戸を叩き、壁に頭を置いた。痛みで意識を繋ぎとめ、やっとの思いで口を塞いだクロウの存在に気づいたのか、二人の会話はぴたりと止んだ。

 そっと、物陰から覗くようにクロウは部屋に目を向ける。コゥーハが着替えを完了させていることを数回確認し、ほっと胸を撫で下ろす。深呼吸で気持ちを引き締めた後に入口の前へ立ち、上官であるベナウィに一礼する。

 ご苦労様です。と、ベナウィはクロウに向かって頷き、文机の左隣にある書簡の山を指した。

 労うような微笑。先程の鋭い声が空耳だったのではと思える位に柔らかな口調。普段通りの反応に、クロウは半歩下がった。その場に立ち尽くしたまま部屋に入らないクロウにベナウィは首を傾げるが、やがて何かを納得したかのような声を上げ、眉を下げた。

「すみません。その報告書は私が受け取りましょう」

「あ、ああ……ういッス」

 再び礼を取り、クロウは部屋へと足を踏み入れた。ゆっくりとした足取りで目的の場所に向かいつつ、頭を下げたままのコゥーハを観察する。

 トゥスクルの一般兵士の軍服は、茶色を帯びた老いた竹のような色の布地に朱色の衿、濃い茶色の(トゥパイ)という服装であるが、コゥーハの服色はやや異としている。基本は若い竹のような色見で衿や袖の先端は白く、(トゥパイ)はくすんだ紅色、動きやすいように下は袴状であり、腰からは長い茶色の尻尾が出ている。コゥーハの隣に置かれた白い上着の袖や丈の端には朱色の紋様が描かれており、その紋様から、明らかに女性の物だとクロウは眉を上げる。兵士が着用する茶色の胸当てや灰色の肩当ても見当たらず――先程の会話からして。未だ装備の一部が完成していないのだろう、とクロウは推測している――上着の上に剣と共に置かれた、唯一の防具である額当てには、種族を判別されることを防止するために備え付けられている、耳を隠すための布は無い。

 剣と額当てからして。コゥーハがトゥスクルの一兵士として――もっと言えば。ベナウィの所にいるということは、騎兵衆(ラクシャライ)の兵士として働くのだろう。それはつまるところ、自分と共に訓練をし、共に(いくさ)場を駆け、共に書簡整理をさせられることもあるだろうということ。

 じんわりと重みが増していく首元を左手で擦りつつ、クロウはベナウィに報告書を渡した。

 ずっとコゥーハから視線を離さないクロウを一瞥し、書簡を開きながらベナウィは軽い説明を行う。

「コゥーハです。騎兵衆(ラクシャライ)第七番隊――正式には明日、配属となります。ある程度のことは何でもできるので、使い古してください」

「は、はあ……」

 心なしか、ベナウィの発した言葉の端々に刺々しさが感じられ、クロウは返答に窮した。やはり()()は、聞き間違いではなかったのか、と唾を飲み込み、先程の光景を見ていなかったかのように振る舞う。

「そういや確か。あん時、牢の中にいた、大将の――」

 ピリッとした、戦場のような空気が一瞬で構築され、クロウは言葉を切る。切らざるを得ない沈黙が、動きを止めた二人から……ベナウィとコゥーハから発せられていた。

『回答次第では斬る』

 実際には斬られることはあり得ないのだろうと理解しつつも。そう言われたような無言の殺気が喉元と胸元に突きつけられ、背筋に緊張が走る。

 牢の中にいた、という所で止めておけば良かったと、左にある柄に手を乗せつつ、クロウは心中で後悔した。二人の()()()()言葉を吐くつもりは毛頭無い。無いのだ、と己に言い聞かせ、息を吸う。

「――知り合い、なんすよね?」

 ベナウィの肯定と、コゥーハが顔を上げる仕草と共に、張り詰めた空気は四散した。まるで何事も無かったかのようにベナウィは木簡を受け取り。コゥーハは頭と茶色の耳を深々と下げ、ベナウィが言った事と同じような内容の自己紹介を始めた。

(……女。なんだよな?)

 相手へ更に疑問の目を向けつつ、クロウはコゥーハの隣に座った。

「まあ、何だ。とにかく。よろしくってことで」

 クロウは、顔を上げたコゥーハを呼び捨てにすべきか悩み、躊躇った。

 小さな顔に艶やかな肌と唇。顔の一部に焦点を当てれば、成程、女なのかもしれない、と頷く。しかしクロウにとって、性別以外に関心を惹くものがあった。

 一つは、切れ長の目に収まる黒い瞳。過去の記憶が正しければ、彼女は金色の瞳をしていたはず。あれは見間違いだったのだろうか、と首を捻る。ベナウィがいることもあり、直接訊けば良いとも考えるが、先程の殺気と微妙な沈黙がそれを良しとしないため、クロウは口を噤む。

 一つは、彼女の武官としての――否、武人(もののふ)としての強さ。

 クロウ自身は直接会った事も戦場で相対したことは無いものの。数こそ少ないが、他國には女性の兵士や雇兵(アンクアム)は確かに存在する。そしてその多くが、並の男どもを寄せ付けない、一騎当千の(つわもの)だとも聞く。故に、女性兵士として配属される彼女の実力に対して寄せる期待は、決して小さくはない。だが彼女は――コゥーハからは、武人としての鋭さや、(つわもの)が持つ独特の空気を持っていない。否。あるかどうか、判断できない、とクロウは眉を寄せる。墨色の双眸に艶はあるものの、底知れない沼のような深さが彼女の感情を呑み込み、縮こまっている細い体躯は、彼女の持つ強さを折り畳んでいるように映る。

 過去に抱いた不思議な感覚――ハクオロに抱いた感覚に似ているが。好意的かつ神秘的なそれとは根本的に異なる、一種の薄気味悪さを抱く感覚。

 コゥーハに抱く印象と、転じた警戒心からか。騎兵衆(ラクシャライ)第七番隊、通称、斥候部隊――俗称、侍大将の使い走り部隊と言われる位に、ベナウィに近い部隊に得体の知れない者を置くことは、たとえベナウィの『知り合い』だとしても、クロウにとっては不安が尽きない。

(さて。どうしたもんかね)

 コゥーハに対する接し方に、クロウは困惑していた。

 クロウの心を知ってか知らずか。コゥーハは再び恭しく頭を下げた。

「こちらこそ。お世話になります。クロウ様」

 真剣な目。決して他意は無く、巫山戯(ふざけ)た物ではない意思は伝わってくる。

 だが。……口調か、語尾か。はたまた、先日ベナウィが会っていた如何にも怪しい商人と――耳の特徴からして、同じ種族だからか。それら全てか。様々な要素が見事に絡まり、クロウに一つの感覚をもたらした。

 蜘蛛が這うかのような、この上ない悪寒。

(――き、気味悪ぃ!)

 自分の名前を何故知っているのかという疑問など、どうでも良かった。耳から下へと駆け、足元から回帰した寒気が身体中を揺るがし、強烈な拒絶を生む。

 間髪いれずに相手を指差し、クロウは叫んでいた。

「そ、その呼び方だけはやめろ!」

「は、はい……」

 コゥーハは一瞬目を丸くするが、気を取り直すかにように瞬きをした後、クロウに提案をする。

「では、どうお呼びしましょう? 『様』がお嫌いでしたら、『殿』は」

「それもやめてくんねえか」

「では、『さん』は」

「あー。駄目だ、ダメ!」

「…………」

 ふむ、とコゥーハは困ったかのような表情で、顎に手をやった。当然の反応だと思いつつも、クロウは黙ったまま相手の反応を待つ。

 どれもこれも。恐ろしく、寒気がする。

 今日は昼寝をしたくなるような心地よい暖かさであり、洗濯物が良く乾くから嬉しいという女官達の喜びが廊下に響くほど、天気は晴れ渡っている。先程も欠伸をしていた衛士を注意し、十数歩いったところで自身も欠伸をしてしまい、苦笑したばかりである。そんな陽気。だが、今は全くその温もりを感じない。欠伸など、したくてもできない、とクロウは腕を組む力を強くする。全身に走る悪寒で鳥肌が立ち、頭を刺激する冷気が危険を察知する箇所に引っ掛かっている。かといって、目が覚めた状態だというのに、彼女の言うような代案が一つも……一つも浮かばない。そんな状態。

 真剣に悩んでいるのか。しばらく経っても、コゥーハから次の案は返ってこない。奇妙な、重い沈黙が続く室内。音があるとすれば、廊下から差し込む鳥のさえずりと、書簡を巻く音のみ。

 重みに耐えられなくなったクロウは、ベナウィに懇願の目を向けた。

「大将。コイツ――あいや、彼女が」

「コイツで構いませんよ」

「いや、さすがに。女性に向かってコイツ、ってのは駄目でしょう――じゃなくてですね」

 微妙に生じたズレを修正するように、心中に生じた焦りを落ち着けるように、クロウは一旦間を置き。息を吸う。

「つい昨日。二人が八番隊へ異動、一人が引退して、誰もいなくなっちまった七番隊ってことは。彼女は部隊長になるんすかね?」

 ええ。とベナウィは顎に手を当てた。

「クロウの言う通り。現在、騎兵衆(ラクシャライ)の七番部隊に所属する兵はいません。故にコゥーハは必然的に部隊長ということになります」

 外套の用意もしなければなりませんか、と呟くベナウィの隣で、クロウはますます不安を募らせる。

 トゥスクルの軍を大まかに分けた場合、三つ――徒歩の兵士で構成された歩兵衆(クリリャライ)ウマ(ウォプタル)に騎乗した兵士で構成された騎兵衆(ラクシャライ)、弓での射撃を専門とする兵士で構成された弓衆(ペリエライ)に別けられる。それら全てを取り纏めるのが、歩兵衆(クリリャライ)騎兵衆(ラクシャライ)の総隊長のどちらかが就く侍大将であり、その上に当たる頂点には(オゥルォ)が存在する。

 弓衆(ペリエライ)のみ他の衆とは異なっているものの、人数こそ違えど二つの衆の構造はほぼ同じである。各衆を纏める総隊長が一人、総隊長を補佐をする副長が一人、その下に部隊数と同じだけ部隊長がいる形となっている。各衆の総隊長は各部隊の中から部隊長を指名し、部隊長の中から副長を指名する。

 騎兵衆(ラクシャライ)の場合。ベナウィが総隊長であり、彼に指名されたクロウが副長してベナウィの補佐を行っている。とはいえ、非の打ちどころのない上官のおかげか、副長として権力を振りかざすことは滅多になく、特に(オゥルォ)が替わってからというもの――無論、良い意味で――誰もが素直に意見を言い合うようになってから、副長の威厳が落ちたような気がしてならない、とクロウはため息を吐く。その影響か、部下達の副長に対する物腰が――良くも悪くも――柔らかくなっている、とも。もちろんそれらが気に食わない訳では全くないが、急激な変化に驚き、その一部に付いていけていない自分がいることを心の片隅で理解していた。

(つー……ことは)

 考え込むクロウの隣で。お待ちください、と、コゥーハが声を上げた。

「法が改正された直後です。女性兵士を受け入れる土壌が無い状況で、いきなり部隊長の一人を女にすることは、些か問題ではありませんか」

 ベナウィは新たな書簡を広げ、空白部分に筆を走らせつつ、コゥーハの質問に回答する。

「適材適所。ただそれだけです。先程も言いましたが、絶対的人数が不足しているのです。性別に拘る余裕などありません」

「しかし」

「……読み書き、算盤」

 筆を置いた音が部屋に響いたと同時に、コゥーハとクロウは息を呑んだ。

「三点が一定水準できる人間が何人いるか。記憶力の良い貴女ならば、すぐに弾き出せるでしょう。そう。我が國の民の識字率は、他國に比べて僅かですが、低い。軍内部でも、それは例外ではありません」

 納得するように、二人はベナウィから視線を逸らした。

 部隊長になる条件の一つとして、文字の読み書き、算盤――正確には暗算ができなければならない、というものがある。理由は部隊内の詳細を伝える報告書の作成義務があることと、他部隊との連携を取る際、瞬時に人数の把握ができなければならないからである。

 前(オゥ)であるインカラ(オゥ)が政策に無関心だった点や財政的な面が理由に挙げられるものの、地方――特に農耕が主の辺境の集落では、村長(むらおさ)薬師(くすし)以外は読み書きができなくても別段困ることが無いことや、集落の子供達の世話や躾を集落全体で行うことが当然という考えがあるため、教育施設と呼ばれるものが極端に少ない。現在、ハクオロ(オゥ)の主導の元、各地方に教育施設を置くことが思案されているものの、一地方に置く施設の数や建設費用の捻出、読み書き算盤等を教える教員の絶対的不足や彼らに支払う給与の問題、成人前の子供に対する教育義務化の是非や教育内容の審議等々、問題が山積しているためか、一朝一夕に片付かない案件とはいえ、一向に前進する気配は無い。また、軍内部にはそういった教育施設が存在するものの、これから指導していく形となるため、時間が掛るのは必定。

 故に、現時点で読み書き算盤ができる人間――特に、読み書きを学ぶ環境が整っていることの多い、高い身分の出身が少ない武官には、貴重な人材であることは違いなかった。

 それに。と、書き終えた書簡を床に置かれた盆に乗せつつ、ベナウィは小さく付け加えた。

「それに。貴女は腕も立ちますし。新兵と比べて、ですが」

「…………」

 ベナウィの一言に、二人の顔色が変わった。

 眉を寄せ、やや頬を紅潮させ、怒気の混ざった低い声で、この場での冗談は相応しくない、と相手を睨むコゥーハ。尚も上官に食ってかかっている彼女のその隣で、震える左手の拳を隠し、彼女の横顔をクロウはじっと見据えていた。

 ベナウィは冗談を言わない。相手によっては詭弁を並べることはあっても、嘘はつかない。そして、滅多なことでもない限り、褒めない。それが。数年間、彼の副官として共に過ごしてきたクロウの、ベナウィという人物に対する認識。

 つまり――

 奥歯を噛みしめ、俯いたクロウに、ベナウィの声が掛った。

「と、いうことです。……クロウ?」

「――っと?」

 クロウは目を瞬かせ、状況を把握しようと首を動かす。

 涼しげな普段と変わらない顔のベナウィと、呻き声を上げながら唇を噛みしめ俯くコゥーハ。先程のやり取りが終わっているからして、女性が部隊長になることに反対していたコゥーハをベナウィがねじ伏せたのだろう、と推測する。

 あー、とクロウは後頭部を掻いた。

「つまり。結局は、俺と変わらん、ってことで良いんすよね? なら呼び捨てで」

「いえ。貴方が副長である以上、貴方の方が立場は上です」

「いやぁ、もう。部隊長達(あいつら)に――酒の席でですけど――呼び捨てにされたこともありやすし――度が過ぎてたんで締めましたけど――正直なところ、上って言われても実感が無いというか。別に、互いが了承すれば呼び捨てでも良いんじゃないッスか。俺は気にしませんし。第一」

 第一、特に女性に『様』を付けられて、畏まられるのには慣れないのだと、クロウは呟く。身分の高くない出自だからかもしれないし、過去に宮中に上がることは……何度かあったが、頭を下げることはあっても、下げられることはほとんど無かったために慣れていないのか、未だに、特に女官に頭を下げられると抵抗がある。ただ、コゥーハの場合は違った意味で抵抗があるのだろうな、とクロウはなおも寒気が走る背筋を伸ばす。

 憮然と、若干の怒りが籠ったような視線を向けるベナウィに、クロウは切り札を切った。

「あぁ。何なら、この件を総大将に相談してみますかね?」

「……いえ」

 肩を落とし、身体を窄め、書簡に目を通す作業を再開させつつ「聖上に相談する事でもないでしょう」と返したベナウィ。事実上の黙認に、じっと見据えていた表情はどこへやら、とクロウは眉を下げた。 

 何故なのか。とクロウは苦笑する。

 数日に一回は部下と酒を酌み交わすほど気さくかつ、部下の提案をさらりと受け入れる寛容なハクオロ(オゥ)のことである。十中八九クロウの提案は受け入れられるであろうし、ベナウィもそれを理解しているのだろう。ただ、その後のベナウィの反応が少し妙な所で、ハクオロが許したものや決定したものであれば、それが法といった拘束力があろうがなかろうが、ベナウィはあっさり受け入れてしまう。ハクオロが決断する前は色々と反対意見を口にするが、納得がいかなくとも最終的にハクオロが決めたことには黙って従い、受け入れ、以降に愚痴は一切こぼさない。故にベナウィは、こういった微妙な、ハクオロに()()()()()()()()()()事柄に関しては、避ける傾向があった。

 ただ。そんなベナウィが嫌いじゃないのだと、クロウは笑う。

「よし。てことだ。呼び捨てで良いだろ」

 肯定するものだと思っていたクロウだったが、相手の反応は違った。

 いえ。口にしたコゥーハの、先程のベナウィと同じ、冷たい視線。やや呆れが多い表情に、クロウの顔がにわかに引き攣った。

「たとえ副長がよろしくても。女の自分が男性の副長を呼び捨てにはできません」

「なっ、なっ」

(め、面倒臭ぇ!)

 変な所で拘りやがって、とクロウは舌打ちした。苦々しく口を結ぶクロウの隣で、ではこうしましょう、とコゥーハは提案する。

「自分は副長とお呼びします。副長はどうぞコゥーハと。呼び捨てでお呼びください。コゥーハは男性にも使用される名からして、たとえ自分が生物学的に女性へと分類されるものでも、呼び捨てに対する抵抗は低いかと」

「…………」

 みしり、と書簡が軋む音が響くほどの重々しい沈黙の中、クロウは必死に考え込む。身体が受け付けるのかを最優先に、周囲の反応や、過去の事例――自分が女官を呼ぶ際に、何と言っていたのかと記憶を辿る。

 あれやこれやと熟考を重ねた末。コゥーハの提案の半分を呑むことを選んだ。

 こういうことを訊くのはアレだが、と前置きし。クロウはじっと相手を……胸元ではなく、幼さが残る顔を見据える。

「本当に。女、なんだよな?」

「お確かめになりますか?」

「あぁ――……はぁ!?」

 素っ頓狂な声を上げ、クロウはコゥーハから身体を遠ざけた。ほぼ同時に、茶色の尻尾を振りながら、コゥーハはじりじりとクロウに近づく。

 彼女の右手は、首元にある服の留め具を触っている。

「現在は装備もしておりませんし、想定よりも薄着なのですぐに脱げますので」

「いっ、いやいやいやいや――」

 女だと信じ難い以上、一回確かめた方が、という邪念を祓うように。脱がなくていい、とクロウは即答した。

 相手の返答が意外だったのか、コゥーハは一旦背筋を伸ばし、小さく首を傾げる。しばし視線を彷徨わせ、やがて何かを思いついたように「あぁ」と笑う。

 屈託のない、晴れ晴れとしたコゥーハの笑みにクロウは立ち上がり、後ずさる。その首に、一筋の汗が流れる。

(い、嫌な予感が)

 では、と。動揺する相手の手を取り、コゥーハは自身の方へと手繰り寄せた。終着地はクロウの鳩尾付近――コゥーハの胸元、握りこぶし一つを置いた距離。 

「では。揉んでみますか?」

「い゛っ?! な、何を?!」

「当然、胸ですよ。身体的に、男と女を見分けるために最適な部分の一つですし。服の上からでは確かめ辛いかもしれませんが。何でしたら、服の中へ手を」

「なあ゛っ――」

 一瞬。開けた胸元から垣間見える白い肌と、クロウの指が触れあう。刹那、全力で相手の手を振り払い、クロウは叫んだ。

「何でそういう考えになる?!」

「おや……ご遠慮なさらずとも」

「遠慮するっ!」

 さっさと着直すように叫び、コゥーハがそれを終えるまで、クロウはじっと相手の顔を見つめる。視線に気づいたコゥーハが手を止め「やはり」と言い出すと、ぐらりと揺れた頭を支えつつ「さっさと着ろ!」と半ば怒鳴り付けた。きちんと着直したコゥーハを見た瞬間、かくんと膝を折る。

「ったく。もうちょっと、こう。恥じらいってものがないんですかい?!」

「恥じらいも何も。自分の裸を見て嬉しい殿方などおりませんでしょう。顔は世辞にも美人とは言えませんし、胸はお情け程度に膨らんでいるものの、洗濯板のように平ら。痩せた躰であるため、くびれといった女性特有の曲線美もありません。結構な歳ゆえ肌はエルルゥ様のように瑞々しくありませんし、首に傷もあります。常日頃、日差しと埃に当てられていた髪はこれといって手入れをしておりませんので痛みも激しく――」

「いや! そういう問題じゃねーだろうがっ!」

 にべも無く回答するコゥーハに、クロウは絶句する。

 首を傾げる表情、淡々と答える口調、躊躇なく服の留め具やクロウの手を自身の胸元に手を伸ばした行動。どれをとっても、コゥーハの回答は決してからかっている訳ではなく、本心であるとクロウは結論づける。おそらくコゥーハは他の女性とは違い、非常に、異常に無頓着過ぎる傾向があるのだろう。そしてそれが、コゥーハが女であることを失念してしまう原因の一つなのかもしれない。

(まさか。男に紛れていた時も、野郎達(あいつら)と一緒に着替えてたんじゃねーだろうな。いや、そんなことをしていたら誰か気付くよな、普通。……いやいや? 服の上からも判る鍛えられた躰とあの胸じゃあ、つか本当にあるのか、アレ。やっぱ一回確かめ――って!!)

 何を考えているのか、自分は。とクロウは自身の右手で顔を覆う。気まずさから、真剣に悩み始めたコゥーハから視線を逸らし。

「…………」

 唖然とした。

 表情一つ変えずに淡々と書簡整理をする、二人の会話などとるに足りないかのように流すベナウィに。

(大将……)

 クロウの視線に気づいたのか。ベナウィは筆を止め、顔を上げた。

「どうしました?」

 何か問題でも? と言いたげなベナウィの表情は、クロウが目にしたことのあるソレ――「問題は無い」と相手が返すことを確信しているソレである。

 クロウの頭に激痛が走った。

(いやいや問題でしょうよ。女性が、何の躊躇いもなく男の前で服を脱ぐなんてのは。それ以前に、男が入って来る部屋で堂々と、しかも戸を開けっ放しで服を着替え……って)

 良く良く考えてみれば。コゥーハが着替えている時にベナウィは同じ部屋にいたはず。だというのに、ベナウィはコゥーハに対し、別の部屋で着替えろとも、この部屋で着替えることをやめろとも、部屋の戸を閉めろとも……そう、何も言わなかった。隅に積まれた書簡の山の状態からして、コゥーハが、あるいはベナウィがそれらを衝立代わりにしたとは考えにくい。

(いや。手元の書簡で顔を隠して――)

 汗と共に次々に浮かぶ考えが、理性の元で次々に否定されていく。その度に、クロウの顔がどんどん青褪めていく。

 考えたくない。しかし、考えずにはいられない。

 加速する思考が、望まぬ苦痛を呼び込んでいく。頭痛と眩暈、軽い吐き気。それらが頂点に達し――

「いえ」

 心の片隅で、何かが折れた。

 クロウは深く考えることをやめ、コゥーハに向き直った。

「もう。副長で良いッス。……ただ。女性を呼び捨てにすることは、俺にはどうしてもできないんすよ、コゥーハの(あね)さん」

 一瞬、目を丸くし。ふふふ、と笑ったコゥーハの撫で声は、少し艶があった。

「副長って。見かけ通り、お優しいんですね。ベナウィ隊長よりも、絶対に、女性に好かれる性格かと」

「……。姐さん。今のは絶対、嫌味っすよね?」

 まさか、本心ですよ。と返すコゥーハの笑みは優しくもあり。やはり嫌味を拭いきれない、とクロウは肩を寄せる。

「実際に心当たりはありませんか? 女性に好意を寄せられたことがあるとか」

「無いって」

(無い、よな?)

 女性であるコゥーハに褒められた――全くもって褒められた気がしないが、とクロウは顔を顰める――ためか、引っ掛かりを覚えつつ。失礼しやす、とクロウは部屋を後にした。


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