うたわれるもの 琥珀の軌跡   作:ななみ

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酔眼

「もう大丈夫です。コゥーハさんのことは(わたし)が看ますので、ハクオロさん達はもうお休みになってください」

 エルルゥは微笑し、患者の――コゥーハのいる部屋へと戻っていった。

 頼りになる薬師(くすし)の背中を見送り、ハクオロは隣にいる臣下に目を向ける。

「薬の処方箋をすぐに差し出した辺り……知り合いなのか」

 はい。と肯定したベナウィにハクオロは目を丸し、くすりと微笑した。

「……随分あっさりと認めたな」

「別段、隠す必要もありませんので」

 くっと眉の上がった相手に、ハクオロは真っ直ぐ向き直る。

「幾つか訊いてもいいか」

「はい」

「何故。彼女の情報を揃えるのに時間が掛った」

 普段と全く変わらない平静な顔で、ベナウィは回答した。

「先程も申しました通り。情報の裏付けに時間が掛ったためです」

「お前が知り合いなのに、か」

「知り合いだからこそ、慎重を期した故に遅れた、とご理解頂ければ幸いです。私の持つ情報や証言のみを上げる行為は、最悪の場合、聖上のお立場を危うくする恐れがあると判断致しました」

 樹立して間もないトゥスクル國は、様々な問題を抱えていた。その一つが、旧ケナシコウルペ國――インカラ(オゥ)体制時に私腹を肥やしていた豪族達との関係である。インカラ(オゥ)の庇護の元、勝手気ままに振舞い民を苦しめていた彼らの大半は、先の戦――ハクオロ達が起こした戦において死亡、あるいは捕縛され相応の罰が科せられたものの、己の保身のために途中で叛乱軍の傘下に加わってきた者達もいた。無論、中には民のためを思って領地を治めていた者もいるが、そうでない輩も決して少なくはなく、傘下に加わっていたということで現在も同じ立場に留まっている者達はいる。よほどの罪を犯したという立証ができない限り彼らを罰する事もできなければ、まがりなりにも先の戦で協力していたため無下にもできず、動向を監視しつつ現在に至っている。いずれは彼らを一掃する手段を講じる予定ではあるものの、他に優先するべき事項が存在するため現状維持、という見解が、ハクオロとベナウィを始めとする側近たちとの間で一致している。

 しかしその状態が結果として改革の妨げになり、新たな火種を内包している事実は否めない。己の利益が損なわれる法案を作る度に難癖をつけられ、それが重なると「民は再び立ちあがるだろう」などと後ろで火種をちらつかせる。そんな彼らに少しでも弱みを見せてしまえば、最悪の場合、再び國は戦火に巻き込まれかねない。故にハクオロや(オゥルォ)に近い側近達は常に細心の注意を払って――一部の人間は除くかもしれない、とハクオロは目を伏せた――行動する日々を送っていた。

「もし御懸念がおありでしたら、調査を行った者達に追加で報告書を提出させますが」

「いや、いい」

 盆の上に大量の木簡を積んで運んでくる日常を思いだし、ハクオロは即否定した。あれの上へ木簡を更に乗せられるなどたまったものではない、と心中で吐きつつ腕を組み、顎を引く。

「では何故。彼女は殺されずに牢に入れられていた?」

 それは、とベナウィの口が淀んだ。沈黙し俯く相手に、ハクオロは声を小さくし、言葉を続ける。

「あの時。私とエルルゥしか、コゥーハの顔を見ていないが」

 青みを帯びた瞳が小さくなる。その一点を、ハクオロは鋭く見据える。

「コゥーハの眼は、黒から黄色に変化するものなのか?」

「…………」

 カチリ、と金属の擦れる音と、床を踏みしめる音。蟲の音に交じって、静かな廊下をこだまする。

 半歩後退った右足、拳の大きさ程度に低くなった腰、佩いた刀の柄に添えられた左手、微かに震えた口端。そして、ハクオロが人払いを命じたその場にいたというのに、二人しかいない廊下を見渡すベナウィの行動。動揺、とは違うのかもしれない。強いて言うなら、警戒心を抱いた、という方が正しいか。普段から表情の乏しい、何を言ってもやらせても平常心を崩さない人形のようなベナウィが、だ。それが可笑しくもあり、彼もまたヒトなのだと安心したのかもしれない。

 ふっ、と吹き出し、ハクオロは声を上げて笑った。

「聖上」

「いや。すまんすまん」

 で、とハクオロは訝しむベナウィを見据える。

「……まさか。種族によっては、ではないだろうな。彼女と同じ耳を持つ男に会ったことがあるが、眼はずっと黒いままだったぞ?」

 とはいえ。目が細過ぎて、きちんと見えていなかったのかもしれんが、という情報をハクオロは伏せた。

 しばし迷うようにハクオロを見つめた後。これを、とベナウィは懐から一つの木簡を取り出し、差し出されたハクオロの手に乗せた。

「彼女の能力について、軽く纏めた物です」

「能力?」

「……先程の回答になるかと」

 纏めた物、と言った意味。そして現在渡す意味。全く質の違う重みを感じながら紐を解き、中身に目を通し始めるハクオロの口から、感嘆が漏れた。

「さっきの書簡の字と比べると、達筆だな」

「恐れ入ります」

 だが、とハクオロは木簡を巻き直し、ベナウィの胸に押しつけた。

「これは明日にでもエルルゥに渡してくれ。可能なら限り、より詳しく話してやってくれ」

「……聖上」

 意図を分かり兼ねると言いたげに眉を寄せた相手に、ハクオロは微笑する。

「今日はもう上がるのだろ?」

 青みがかった黒い瞳が静かに揺れた。

 月明かりが差し込む窓を眺めながら、親指と人差し指で作った円をハクオロは口に付ける。

「今宵は良い月が出ている。どうだ、これから一杯。無論、仕事の話は無しで、だ」

「それは。……しかし」

 口元にある円を傾けるハクオロの向かいで、ベナウィは木簡を強く握りしめた。

 顎に手を当て考え込む臣下に、ハクオロは肩を押す。

「命令だ、ベナウィ。たまには一杯付き合え」

 空き部屋を指す相手の背中に向かって、御意、とベナウィは小さく返答した。

 

 

 

 

 

 皇城内にある、さほど広くない部屋の一室。しかし外に張り出した広縁から丸い月が綺麗に見える数少ない場所の一つである。

 月明かりで白く輝く広縁に敷物を二つ、あいだに丸い台を置き、その上に徳利と肴、男性の手にすっぽりと収まる位に小さな盃を二つ揃えた。頼めば起きている者が設えてくれるのだろうが、自分ですることで充実感が増すものだ、とハクオロは敷物を撫でる。

「意外に早かったな」

 部屋の入り口で立ち止まった相手に、ハクオロは一方の席に座り、空いた左の席を示した。失礼します、とベナウィは頭を下げ、粛々とした足取りで部屋の隅を歩く。

 武装はしていない。しかし、纏う臙脂色の服は普段のそれである。いつでも出陣できるような格好をしている辺りがベナウィらしい、とハクオロは心中で笑った。

「お注ぎします」

「あ、ああ」

 座るや否や、ベナウィは小さな白い盃を差しだし、酒を注ぎ始めた。

 濁り酒に映る月を手元へたぐり寄せ、ハクオロは盃をくっと上げた。水面が白く輝く縁に口をつけ、全てを包み込むような丸い月を眺める。

「今日は満月か」

 同調するように空を見上げるベナウィだったが、ふっと眉を寄せた。

「聖上」

「ん?」

「今宵は満月ではありませんよ」

「う゛っ」

 冷静に指摘され、ハクオロはむせた。

 そうか? と問うたハクオロに、はい、とベナウィは肯定する。

「明日が満月です」

「そ、そうか。……いかんな。最近は特に忙しいせいか、疲れているのかもしれん」

 気まずい雰囲気が立ちこめるかにみえた広縁。だがハクオロの推測は外れ、一つの声が夜の帳を切り裂いた。

 低めの、若い男の声。可笑しさを堪える様な、申し訳なさを落とした様な、安らぎを噛みしめる様な。全く下品ではないが、上品さにも欠ける微笑。

 頬を掻くハクオロの隣で、ベナウィは笑っていた。

 普段とは趣の違った柔和な表情で、相手はやんわりとハクオロを労う言葉を掛けた。

「お疲れ様です」

「あ、ああ」

 嫌味も棘も無い心地良さに少々の気味悪さを覚えながらも、いつもこんな風であれば、とハクオロは心中で吐き捨てる。

 反射的に身体を伸ばし視線を逸らしたハクオロに向き直り、ベナウィは頭を下げた。

「……お気遣い、感謝致します」

 そんなつもりではなかったのだが、という言葉を呑み。夜空を見上げたハクオロは、月の右側にある一筋の曲線を見つける。満月であれば見ることのできない曲線を。

(確かに満月ではない、か)

 ハクオロは手にある盃をベナウィに突きつけ、徳利に手を伸ばす。

「ほら、返盃だ」

「はっ」

 恭しく差し出された盃に、なみなみと酒を注ぐ。

 口元まで盃を手繰り寄せ。ベナウィは濁りのある酒の水面を見つめる。やがて口元に付けられるであろう盃の縁が動き。

 青みがかった黒い瞳が揺らいだ。その真下、震えた右手からは一滴の酒が滴る。

「…………」

 じっと静止している相手に、ハクオロは鋭い視線を送る。

「どうした。酒は嫌いか?」

 いえ、と即答した相手の声は小さい。

「まさか」

 二日酔いを危惧しているのか、というハクオロの疑問を見透かしたかのように、微笑したベナウィの口元から返答があった。

「いえ。明日に支障がでないよう、薬を――申し訳ありません。無粋な発言を、どうかお許しください」

「い、いや」

 謝罪をする直前の一瞬、ベナウィの視線が左方に逸れた。相手の躰で一部しか見えなかったが、視線の先には一つの木筒が確かにあった、とハクオロは目を丸くし、口を歪めた。

(ちょっと待て。あれは、私の分なのか?!)

 無粋だと腹を立てることはない。ただただ、用意周到が過ぎる相手に驚き、一筋の汗が首を駆けた。

「ならば何故――」

 反応せず、()()()()()()()()盃を見ている相手の横顔に、ハクオロは言葉を切った。

 頑なに結ばれた口元、高く見えない鼻梁、視点の定まらない睨み。躊躇、あるいは迷い、と一言で表現できる表情だが、哀愁を帯びたソレはハクオロの心を突き、以前に会った男と重なる。敷物の代わりに白いウマ(ウォプタル)へ騎乗し、盃の代わりに槍をハクオロに向けた男に。

「聖上。私は――」

「気負うな、深く考えるな、とは言わん。言ったところで、どうせお前は聞かないだろうし、クロウの様に振舞えない事位は判る」

 ただ、とハクオロは空を仰ぐ。

「自分は、私は。飲みたくない者と二人きりで酒を飲もうなどと考えないし、信の置ける者にしか盃も渡さない。それだけは――そうだな、トゥスクルの侍大将として、理解しておいてくれ」

「…………」

 ベナウィの声が震えた。

 相手の顔を見ようとすることをせずにハクオロはそっと目を閉じ、夜の音に耳を傾けた。蟲の音が聞こえる程に静まり返った頃。ハクオロはすっと目を明け、相手に視線を向ける。相手は相変わらず盃を持ったまま、思いつめたように水面を眺めていたが、その視線は一点を見据えていた。

 視線を戻し、ハクオロは微笑んだ。

「おっと。仕事の話は無しだったな。すまない」

 いえ、とベナウィは小さく返答した。

「命令しておいてアレだが、無理に付き合う必要は無い。明日も早いわけだし――」

「いえ」

 しっかりとした返答。盃を床に置き、深く頭を下げるベナウィに、固いな、とハクオロは苦笑する。

「お付き合いさせて頂けないでしょうか」

「ああ」

 ぐっといけ、とハクオロは揺れる月を渡した。

 相手の言葉通り、ベナウィは一気に飲み干した。塗れた盃に小さな息を落とし、月を仰ぐ表情は前髪に隠れて誰も見る事ができなかったが、艶やかな口元が穏やかだった事実は、ハクオロの心に留まった。

 

 

 

 

 

 風のない、じめっとした、渇いた沈黙が続いた。何も話すことなく、二人は酒を酌み交わす。いくらか繰り返した頃、本題に入れず沈黙を続ける状況に耐えかねたハクオロが息を吸うと同時に、ベナウィは口を開いた。

「アレとは――彼女と初めて会ったのは十数年前。聖上……インカラ(オゥ)の前の(オゥルォ)がこの地を治めていた時代。アトゥイ殿が(オゥルォ)専属の薬師(くすし)になることが正式に決まったことを祝う宴の席でのことです」

 空の杯を見つめていた黒い瞳が、ゆっくりと閉じられる。

「第一印象は……そうですね」

 杯を真下に置き、ベナウィは顔を上げつつゆっくりと目を開く。

「非常に。退屈そうでした。喩えるならば……死人のような――いえ。売り買いされることに慣れた獣のような目をしておりました」

「……」

 白い月明かりによって潤んでいるように見える瞳を横目に、ハクオロは次の言葉を待った。

「実際。当時の彼女は一日中屋敷に軟禁され、彼女の能力は、大陸中からやってくる人々に買われていきました」

「能力、といったな」

 はい、と肯定し、ベナウィは眉を寄せた。

「どんな能力だ」

「予知を」

「……は?」

 失礼、と頭を下げ。ベナウィは説明を始める。

 ヒトや動物、植物といったモノに宿る神――基本的には、火神(ヒムカミ)水神(クスカミ)風神(フムカミ)土神(テヌカミ)が、コゥーハの目には光として、物体に纏っているように見える。そして神を宿らせた物体同士が触れ合う際、金の光と黒の光が発生する。金色の光は主に子供、健康な成人に多く見られ、生き生きと笑顔で働いている者達は、その躯を眩しい黄色で包まれる。黒色の光は主に老人や病人、戦火で傷ついた者達に多く見られ、ある一定量の光量が躰を覆うと、その者は近い時期に、確実に死亡する。たとえどんなに健康な者であっても、彼女曰く、例外はない。

 つまり、とハクオロはベナウィの持つ杯に酒を注ぎながら言葉を纏める。

「生死を予知する能力、といったところか」

 はい、とベナウィは頷いた。

「また。能力が強まる時期であれば、ある程度の組織の崩壊も予知できるとのこと」

「組織……集落や國の興亡。戦も予見できると」

 はい、と頷き、ベナウィは酒を呷った。

「もしかして、先の戦もか?」

「はい。ただし、正確な時期を彼女は予知しておりません」

「できなかったのか?」

「いえ……。はい。()()()()()()のだと思います。実際に難しい事だと、聞いた事もございます。真実は彼女にしか分かりませんが」

「……。そうか」

 口を閉じたハクオロの前で徳利を差し出し、ベナウィは説明を続ける。

 能力は、新月の夜に近づくにつれて強まり、満月の夜に近づくほど弱まる。コゥーハ自身はある程度能力を制御できるものの、新月は全く制御ができないことがほとんどであり、逆に満月の夜においては、どんなに見ようとしても、光さえ見えない。

 ハクオロの口から離れた杯が、澄んだ音を立てて床へ置かれた。

「しかし。何故それで人が集まる?」

「最初は。商いをしていたカナァン殿の兄……コゥーハの養伯父や、彼に関係のある商人が彼女の能力を見にやって来たとか。無論彼らも、最初は彼女の言葉を信じてはいなかったようです。しかし彼女の予知は、全てにおいて外すことはなく、正確でした。少なくとも、商人達はそう捉えた。月日が経つうちに噂が漏れ、恐ろしさ故か、より崇め恐れる存在へと変化し、大陸中に広がっていきました」

 ベナウィの持つ杯から、少量の酒と月明かりが零れた。

「"常世(コトゥアハムル)の番人"。それが十数年前まで呼ばれていた彼女の異名です」

「番人、か」

 妙な異名だな、という感想は、ハクオロの中で打った。

 真偽はどうあれ、予知などという事ができる女性がいたとしたのなら、神の使い、(カムナギ)として云われても不思議ではないし、番人というよりは、そちらの表現の方がしっくりくる。それとも(カムナギ)という表現は、現在滞在しているオンカミヤムカイの皇女にしか使ってはならない敬称なのか。

 ハクオロの疑問を嗅ぎ取ったのか。ベナウィは空になった杯を置き、唇に手を当てた。

「アトゥイ殿は、破戒僧でした。故に彼女もこの國に留まられたのですが――ああ」

 首を傾けたハクオロに、申し訳ありません、とベナウィは目を伏せた。

 他の種族とは異なり、尻尾を持たず、代わりに見事な白き両翼を背中に持ち、耳に毛が無い種族、オンカミヤリュー族。大神(オンカミ)ウィツアルネミテアの力を最も強く受け継いでいるという彼らは、何も無いところから火を出現させるといった奇跡――術法を使いこなし、天候さえも左右できると謂われている。故にオンカミヤリュー族のほとんどが属するオンカミヤムカイでは、彼らに厳しい戒律と信仰を課し、道を外れぬように教えられる。しかし中には戒律に反発して出奔する者や術法を利用して悪事を働き破門される者もおり、彼らのことを破戒僧と呼ぶ。

 ケナシコウルペ國はオンカミヤムカイと國交を絶っていたものの、先代の以前は國交があったことで信仰が根付いていることや、助け合いの精神を持つ國民性ゆえか、オンカミヤリュー族がやって来ることに民は寛容である。しかし、やって来るオンカミヤリュー族が破戒僧である割合は他の周辺諸國に比べて多く、彼らが招いた問題を解決するのに手を焼いていた、とベナウィは苦笑した。

「何故、アトゥイ殿が出奔、あるいは破門されたのかは、彼女でさえも知らないとのことですが。彼の前で神の――特に大神(オンカミ)ウィツアルネミテアの話は厳禁でした。当時の(オゥルォ)が即位した時からオンカミヤムカイとの國交がなかったことも重なり、國内では(カムナギ)という表現は使われなかったのかと」

「彼の前で大神(オンカミ)の話すと……どうなったんだ?」

 ぽろりと出た疑問に「いや、良い」とハクオロは慌てて付け加えたが、ベナウィは首を振り、ゆっくりとした口調で答えた。

「人が、変わりましたね。普段から温厚で、物腰も柔らかく誰に対しても優しく、やや娘を過保護に扱う傾向にあるものの、非常に常識を弁えた方でしたが。大神(オンカミ)の名がでるや否や眉を吊り上げ、戦経験のある武官も怯むほどの殺気を飛ばしながら、ただ一言。『自分の前で大神(オンカミ)の話はしないで頂きたい』と。以降は、彼の前で大神(オンカミ)の話は一切されなくなったそうです」

 ベナウィは徳利を持ち、差し出された杯に酒を注いだ。

 一つ疑問がある。とハクオロは酒を呷った。

「当時の(オゥルォ)やインカラは、彼女に――コゥーハの能力に興味を持たなかったのか? 他の豪族だって――」

「当時の皇族とカナァン殿の家系との間に僅かながら親交があったことや、(オゥルォ)自らが専属の薬師(くすし)へ重用する程にアトゥイ殿を気にいっていらっしゃったことから、(オゥルォ)はカナァン殿やアトゥイ殿の意志を尊重し、御側に置くことはありませんでした。しかし度々、娘である彼女は宮中に呼ばれていたこともあったようです」

 とはいえ。國としては國交を断絶していた手前、雇兵(アンクアム)である術士を除いてオンカミヤリュー族を登用する事は憚れたため、アトゥイの存在は國史を始めとした全ての歴史書に書かれていない。その事がコゥーハの情報を裏付ける作業が遅れた原因の一つであると、ベナウィは付け加えた。

「聖上は……インカラ(オゥ)御自身は、彼女の能力には些か興味をお持ちのようでしたが、即位してまもなく彼女が行方を眩ましたこともあって、興味を失われたようです。彼女が歳のわりに幼く見えるため、側室にとはお考えではなかったのかもしれません。聖上は、幼子に興味はありませんでしたから」

「そう、なのか」

 空の杯を眺めつつ息を吐くハクオロの隣で、ベナウィは乾いた杯を右方に置いた。

「聖上は興味がおありですか?」

「それなりにな」

 予知、か。ハクオロは心中で呟いた。

 確かに能力の精度によっては、未然に戦を防ぐ事に使えるかもしれない。ふっと生じた思考を、ハクオロは振り払う。

(それでは彼らと同じではないか)

 コゥーハの意思を横に置き、他の使い道を模索し始めた直後。ふむ、と頷いたベナウィによって思考が吹き飛んだ。

「年下がお好み、と」

「いっ、いやいやいやいや」

 何の話だ?! と口を開こうとしたハクオロの隣で、酒を注いでいるベナウィは笑う。

「では。縁談の件は、聖上よりも若い女性を中心に選定するよう指示を出しておきます」

「指示しなくていい! というか、何故自分の知らないところで縁談の話が進んでいる?!」

 冗談にございます。と口にしたベナウィの瞳は、爛々と輝いている。(オゥルォ)の書斎へ大量の木簡を運んでくる――問題が片付く事を確信している、嬉々とした目と、全く同じ輝きで。 

「その目は、絶対に冗談じゃないだろう!」

「冗談にございます。第一、聖上の御歳を私は存じません」

「すまんが、自分も解らん」

 ハクオロの一言で、周囲はピリッとした空気へと変化する。失言でした、と謝罪するベナウィに、内心ですまないと思いつつも、ハクオロはホッと安心する。水面が輝く酒を呷り、参考までにとベナウィに問う。

「何歳に見える?」

「お顔が解らない以上、種族が解らない以上。正直何とも申し上げられませんが……」

 ハクオロは改めて、自身の腰回りや耳、背中、顔を探る。

 尻尾が無く、耳に毛が無い。二つはオンカミヤリュー族の特徴と一致するものの、ハクオロの背中には翼が無い。そして外すことのできない仮面。ハクオロ自身、今日まで様々な者に尋ねてきたものの、ハクオロと同じ特徴を持つ躰をした者や種族は誰も知らないという。周囲から見て目立つ『異質』な躰なのにだ。

(やはり記憶が戻らない限り、解らない、か)

 頭を擦るハクオロの隣で、真剣な目つきで相手を見つめていたベナウィが口を開いた。

「首元の皺や肌の瑞々しさからして、二十七、八。といったところでしょうか」

「お前が言うと、妙に説得力があるな……」

 恐れ入ります、とベナウィは頭を下げた。

「しかしながら。(オゥルォ)にとって、室をお迎えになる事と双方の年齢は関係ないかと。また、お世継ぎの件も含めまして、早いに越した事はございません。もしお迎えになる予定でしたら、早急に準備を致しますが……もしや」

 相手の杯に酒を注ぐハクオロに、心を突くような鋭い視線が浴びせられる。

「聖上の中では、すでにお考えの方がいらっしゃるのではありませんか?」

 一瞬。ハクオロの脳裏に、『誰か』――明らかに女性の笑顔が焼き付く。

「っととと。すまん」

 無意識に徳利を持つ手が震え、ハクオロは酒を床へこぼした。

「それより他にもやる事が沢山あるだろう」

 仰る通りかと。と、どこからか持ち出してきた布で床を拭くベナウィの笑顔を見た瞬間、ハクオロの背中にぞくっとした悪寒が走る。

(……いかん。反射が)

 激しく首を振るハクオロに、ベナウィは確かに、と笑う。

「そちらも(オゥルォ)として、いずれはやって頂かなくてはならない事かと思われますが。現在の状況では、急く必要が無いかと、恐れながら進言致します」

「ああ。自分も同じ考えだから、その件は保留にしてくれ」

 御心のままに、と下げたベナウィの頭は、やや高い。その事に不安を覚えながらも、ハクオロは無視した――無視することにした。

「……ほら、飲め飲め」

「はっ」

 ベナウィは目を細め、酒を飲み。口元を緩ませ、ハクオロの杯に酒を注ぐ。眉間に皺は無く、穏やかな顔で相手の飲みっぷりを称賛する。

 ハクオロが知らぬ彼が、そこにいた。

(酔ってるだろう、()()は)

 何が嬉しいのかは推測し難いが。少なくとも機嫌は良い、はずだ。

 ベナウィの本音を聞ける良い機会なのかもしれない、と、ハクオロはあえて話題を戻す。

「お前はどうなんだベナウィ。容姿が良く、頭も良く腕も立つお前のことだ。多くの女性から言い寄られているのだろう」

「他の武官と比べ、女官と話す機会は多いかと思いますが。それは職務上の――私が侍大将の立場であるが故かと。言い寄られてはおりません」

「なっ――」

 そんな馬鹿な。とハクオロは徳利を握る手を強くする。

「じゃ、じゃあ。恋文の一つや二つ。他の者と比べても貰っているだろう?」

「文、にございますか? 女官達から私的な文を頂く事もございますが」

「だろう、だろう」

「内容のほとんどが、体調不良を訴える相談内容ですので。私と書簡の確認を行う際に、目を合わせることができない、仕事に支障をきたす、私の事を考えることで頭がいっぱいになる、等々。おそらくは彼女達に強いる仕事量が増大したことによる疲れが原因かと思われるのですが。以前からもそのような内容が私宛、必ず女性で、何故か私的な文として届けられておりまして。これまでできる限りの様々な政策を打って手を尽くしましたが……改善されないのか、届けられる文は減少する気配はありません。力及ばず、申し訳ありません。実を申しますと、現在進めている法整備が終わり次第、この件を聖上に御相談――」

 違う! とハクオロは叫んだ。確かにベナウィの言う通りなのかもしれない。だが全てがそうではないという妙な確信が、ハクオロの中にはあった。

「それは疲れなどではない。それは――」

「それは?」

 ベナウィは空の杯を床に置いた。カン、とした冷たい音が二人の間を駆ける。

「っ、それは――」

 自分の口から言えるわけなかろうが、とハクオロは視線を送るが、相手は全く気づかない。気づかないどころか、納得する回答に期待するかのように姿勢を正し、次の言葉を待つ態勢を作っている。

(不憫だ……彼女達が、あまりにも不憫すぎる)

 ベナウィが受け取った文をどう解釈し、何と書いて送っているのか、とハクオロは想像し。女性達の啜り泣く声が聞こえたような気がして、途中で考える事をやめた。

「――っ、言えん」

 酒の入った杯を持たずに頭を抱えるハクオロに、ベナウィは首を傾げた。

「聖上?」

「言えんったら言えん。というか、私が言える事ではない!」

 尚も訴える視線を遮られ、ベナウィは小さく溜め息を吐いた。

「以前。クロウにもこの件を相談し、聖上と同じ回答が返って参りましたが――」

 普段から豪快に笑っている副官が、ベナウィの一言で、激しい訓練を終えた直後のような顔で机に突っ伏す光景が、ハクオロの頭の中で浮かぶ。

(クロウも苦労して――いや。ベナウィの有り様からして、洒落だと笑い飛ばすのも辛い)

 苦々しく口を歪めるハクオロの横で、ベナウィは更に眉を寄せる。

「何ゆえにございますか?」

「っ。己の事だろう。自分で考えろ。クロウもそう言ってたんじゃないのか」

「は……」

 ベナウィは頭を抑え、無理に己を納得させるかのように目を瞑った。真剣に頭を悩ませる相手を余所に、ハクオロは酒を一気に呷る。

(まさか、いるのか?)

 注がれた酒を手元へ置き、酒を注ぐ光景がぼやける。

 こんな奴に。いや、こんな奴だからこそ意外にも――そう。許婚がいてもおかしくなさそうだ。許婚がいるのだから、自分には恋文など来るはずがない、という認識でいるのかもしれない。

 額が熱くなっていくことを自覚しながら考え込み。一つの事実とソレが結びついた。ハクオロの知りうる、唯一のベナウィの交友関係に。

「そうだ。コゥーハは、どうなんだ?」

「……。はぁ?」

 聞いたことのない、虚を突かれたような低い声音に、ハクオロは部屋の入口へ目を向ける。が、そこには誰もいない。首を傾げつつ視線を戻すと、口をあんぐりと開け、心底呆れたような表情をした相手と目が合う。

 ばつが悪そうに目を伏せ、赤い顔を隠すように咳払いをするベナウィに、ハクオロは再度疑問を投げかける。

「いや、だからコゥーハは」

 どう、とは? とベナウィは憮然とした顔で左手を動かす。不快そうに曲げられた指が発した高い音は、容赦なくハクオロの言葉を遮った。

「そもそも。何故ここでアレの名前が出てくるのですか」

「元々コゥーハの話をしていただろう。それに。礼儀正しいお前が、赤の他人をアレ呼ばわりはしないだろう。コゥーハは仮にも――」

 仮にも女性、と口を滑らせかけた刹那。昼過ぎに遭遇したエルルゥの形相が脳裏をよぎり、ハクオロは激痛の走った頭をさすった。

「――いや、コゥーハはれっきとした女性だし、な。うん」

「アレはただの知り合いです」

「ただの、か」

 納得できない溜め息がハクオロから漏れると、説明が難しいのです、とベナウィはこめかみを擦った。

「……強いて申しますと。腐れ縁、という言葉は正しいかもしれません」

「幼馴染ではないのか」

「両親の都合上、幼い頃――と申しましても、アレは成人になる直前ですが。何度か会ってはいましたが、それだけです。仲が良かった訳ではありませんので、幼馴染の定義からは外れるかと」

 ふむ、とハクオロは姿勢を正した。

「コゥーハとは。その後?」

「彼女はその後……始めて会ったあの日から数年後、家族との縁を絶ち性別を偽って軍に入隊、以降は午後に文官が読み上げた通りです。私とは、半期に一度の頻度で文のやり取りをしておりました」

 文を交わす仲なのではないか、という感想を保留し、ハクオロは話を進める。

「どんなやり取りをしていたんだ」

「私的なやりとり故、取るに足りない内容です」

 それが想像できんのだが、とハクオロは小さく呟く。

 (オゥルォ)と臣下の関係からか、ハクオロとベナウィとの会話の九割が政務について、休みたいと口にしたハクオロをベナウィが諌める内容が五分、エルルゥの淹れたお茶は美味いという意見に同意するが五分、と。非常に冷たくて味気ない、寂しい内容だと、振り返ったハクオロは改めて思う。故に、こうして酒を飲みながらベナウィの交友関係を聞いていることは奇跡であり。侍大将ではない、ベナウィという男の人物像――好きな物や苦手な物といった事柄から、どういった経緯で現在の地位へ登り詰めたのかといった、訊ねるのを躊躇う物まで――は現在も謎に包まれている。

(現在、最も知りたい謎は。自分の――(オゥルォ)への仕事をどうやって捻出しているか、だ。いくら國が荒廃していたからといって、各方面からの報告を統合すると、現在はもう戦前と同じ程度に回復したと断言しても良い状態。だというのに、だ。毎朝持ってくる木簡の量が減らない、むしろ厄介事を持ち込んでくるのは何故だ?!)

 苦虫を噛みしめたような表情で俯くハクオロの背中に、ベナウィの溜め息が吐かれる。

「実を申しますと。恥ずかしながら、彼女が入隊したことを初めて知ったのは数年前のことでした。以前から彼女は入隊するなどと言っていましたが、ただの戯言だと聞き流しておりましたこともございまして。また、彼女から届く木簡の材質が変化したことに気が付いたことがきっかけであり――」

 む、と口を開いたハクオロの首筋に汗が流れる。

「……気づけるものなのか?」

「一日中書簡と向き合っていれば」

 ベナウィ曰く。現在皇城や軍内部で使用されている木簡のほとんどは比較的安価な木材かつ廃材から作られた物で、これらを使用するようになったのは数年前であるという。理由は財源確保のためで、ベナウィが行った政策の一つであった。

 当時は安い木材を書簡として使用する事は、皇城内も勿論のこと、露店で売られている書簡に使用する事としてもあり得ないことであった――とはいえ、これといって反対の声が上がらなかったとの事から、インカラ(オゥ)を始め当時の側近達は、木簡の品質に関しては無関心だったようだ――故にコゥーハから届けられた木簡が、自分が使用している木簡と全く同じ材質だったことにひどく驚いた、とベナウィは説明した。

「オンカミヤムカイの使節団から受け取った書状と比べると、お判りになるかと」

「そ、そうか」

(一昨日、該当する二つを机に並べたが。全く判らん)

 判別できるようにはなりたくないと思いつつも、見た目や触り心地といった情報を引き出そうと唸ったハクオロの隣で。御安心ください、とベナウィは相手の杯に酒を注ぐ。

「各國にお送りした書状は全て、最上の物を使用しております」

「あ、ああ。すまない」

 満ちた酒を呷り、ハクオロは酒を注ぎながら相手の言葉を待つ。

「あらゆる手段を使い彼女を、正当な理由で叩きだす予定でしたが」

「……。追い出すつもりだったのか」

「当然です。履歴に不正があるのです。また、聖上が彼女の罪を全て不問に処してしまいましたが、彼女は度々酒の横領も行っていたのです」

 しかし、とベナウィはどこか悔しそうに揺れる目を瞑った。

「彼女が上手く隠していたのか、あるいは別の者が行っていたのか。結果的に彼女を特定するのに時間を費やしてしまい」

「丁度、叛乱が起こった時期と重なってしまい。追い出すどころではなくなったと」

 はい。とベナウィは口を固く結んだ。

「一兵士とはいえ、色々と手続きが面倒なこともありまして」

「身に染みて解るぞ、その気持ちは」

 右手にできた肉刺を擦りながら、ハクオロは同意した。

「しかし。文を交わしていたのであれば、コゥーハを呼び出せば済む話では」

「……」

 私的なやり取り、と言ったことを思い出し、ハクオロは慌てて修正した。 

「すまん。聞かなかったことにしてくれ」

 いえ。とベナウィは自嘲めいた笑みを浮かべる。

「たとえ彼女を文で呼びつけたとしても、応じなかったでしょう。アレが家を出た後は『旅をしているから』という――当然嘘の理由から、商人を介して行っていましたので、居場所を特定することはできませんでした」

「私的な用事で会ったりすることは無かったのか?」

「先程申し上げました通り、彼女が家を出る以前は、何度か。入隊後は、先の戦の折に一度だけ」

 薄情な奴だな、と呆れたハクオロに、ベナウィは憮然とした目を向けた。

「会う理由がありません。また、彼女自身も会うことを求めてこなかったことも理由にあります」

「……」

 淡々と答えるベナウィに、ハクオロは顎に手を添える。

 素っ気のない物言いは相変わらずだが、普段の数倍は喋り、饒舌。口調はかろやかで、本人は無自覚であろうが、時折表情が柔らかくなる相手は、一日に百もの書簡を押しつけ終わるまで(オゥルォ)に処理させる真面目な侍大将とは別人のような印象さえ受ける。彼をそこまでお喋りにしているのは、酒の影響なのか、あるいは話題か――

 しかし。コゥーハと仲が良いのだな、と口にするには、たとえ冗談でも躊躇われる違和感が、心の隅で引っ掛かる。

 仲が良い訳ではない、とベナウィは言った。その通りだ、と納得する……何か。ハクオロの知らない何かが。二人の間に引かれた深い溝、あるいは高い壁として聳え立ち、二人の距離を隔てている。

 訊くべきか――訊いても良いのか、否か。

 ふいに。頭が重くなり、視界が霞んだ。

(少し、酔いが回ってきたか)

 黙りこくったハクオロの隣で、ベナウィは話を続ける。

「それに男に扮する才能は持ち合わせているようで。入隊以降、一度も女だと知られたことはありませんでしたから。クロウも、最初はアレを男だと認識した程です」

「そうか……クロウも間違えたのか」

 そうかそうか。ハクオロは心の底から安堵のため息をついた。

「それも能力の一つなのか?」

「あり得ません。少なくとも私の目には、アレはどこから見ても女性にしか見えません――と申し上げたいところですが。アレを発見できることができなかった私が申すには、些か説得力に欠けるでしょうか」

 ベナウィ、とハクオロは相手の言葉を切った。ぐらり、と揺れたハクオロの頭は熱い。

「はい」

「話を聞いていて、ふっと思ったんだが」

 一旦は躊躇った疑問が頭をもたげ、好奇心という力で、口はこじ開けられる。

「もしかして。コゥーハのことがす――っ?!」

 冷たい風が黒い髪を掠め。ハクオロの酔いは一瞬で醒めた。

 パキンという音が、キリリとした感覚と共に周囲を包む。相対した戦場に満ちたものとは異なる、エルルゥが時折見せるものとも違うソレに、ハクオロは背を伸ばす。おそるおそる発信源へ目を向けると、自身の黒い瞳が見開かれる。

 ベナウィの左手から、赤く染まった杯の破片が縁に落ちていく。左手を動かしながら微笑む赤い顔は、雲から現れた月に照らされ白く輝いていた。

 普段に時折見せる微笑とは全く違う笑み。冷たく、鋭く、恐れを誘うソレは。あまりにも冷酷な速さで積み上がっていく仕事を放棄いや一時中断し書斎を抜け出したまでは良かったがあげく捕まり書斎に戻され無限に湧きあがる書簡の処理を数刻のあいだ強制的にやらされる自分の様子をじっと監視しているソレに……ソレ以上だ、とハクオロは直感した。

 低い、轟くような声が、ハクオロの耳を貫く。

「聖上。あまりにもご冗談が過ぎるかと」

「い、いや……」

「私が、アレのことを、何と?」

 まさか。とベナウィは更に冷たく笑う。

「私が、アレに、好意を持っている、などという戯言、では……ありませんよね?」

 わずかに紅潮する顔を近づけるベナウィに、ハクオロは躰を遠ざける。

「いや……アレ呼ばわりはさすがに良くない、かとですね」

「アレはアレです。アレ以外の何ものでもありません」

「だから」

 アレって、と呟く相手に、ベナウィはますます顔を近づける。眉間に皺を作る、その顔を。

 そ、そうだ。と、上擦った声でハクオロは話題転換を図った。 

「コ、コゥーハをどこに配属するべきかと考えていたんだが。本人の希望もあるだろうが、それを抜きにして、お前はどこに置くべきだと思う」

 ベナウィは顔を引っ込め、ゆっくりと席に座り直した。笑みのない、冷静な表情で考え込む普段のベナウィが――

「牢に入れておくことを、強く進言致します」

 いなかった。

「……冗談、だよな?」

「いいえ」

「頼むから、冗談だと言ってくれ」

 聖上がそう仰るのであれば、と片手で酒を注ぎ、ベナウィは空を仰いだ。

「アレは多少の教養もありますし、腕は立ちます。口も減らないので、何処へ飛ばしてもそれなりに上手くやるかと思います」

「だから。アレって……」

「アレはアレです」

 そ、そうか。とハクオロは息をつき、酒を一気に呷った。

(良く良く考えると。結局は、仕事の話ばかりではないか……)

 最後の一杯は、その日にハクオロが飲んだ酒の中で最も熱く、喉を焼いた。


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