ソードアート・オンライン リング・オブ・ハート   作:木野下ねっこ

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8:A

 俺は目的地である建物の看板の前に立ち、洒落(しゃれ)た筆記体の英文に唸りを上げていた。

 

「《Winking・Cheshire》……? なんて読むんだ?」

「えっとねー……《ウィンキング・チェシャ》かな。意訳すると、ウィンクする笑い猫……とか、そんな感じになるんじゃないかな」

「ハーラインさんから聞いた話の割には、とてもキュートな名前の宿屋ですね……」

「それに、名前に負けず劣らず素敵な宿じゃない」

「……少なくとも外見は、だけどな」

 

 俺達は口々に壮観の感想を述べ立てた。

 一歩離れて建物全体を見上げれば、確かに普段お世話になる一般的な宿よりも明らかに良質の木材をふんだんに使っているのが素人の目にもハッキリと分かる。建物の仕様も、この世界によくある古風な洋式の建物ではなく、純木製のログハウスのような作りだ。建物はやや高台になっているウッドバルコニーに囲まれ、ドアや窓の周辺にはささやかながらも雰囲気にマッチした装飾が見られる。

 プレイヤーが経営する宿屋は数こそ少ないが、このように建物の外観が購入したプレイヤーの趣向に強く影響されている事が多く、訪れた多くの客の目を楽しませていることで有名だ。しかしまさかこんな過疎地にこれほどに立派な宿があろうとは思ってもみなかった。

 俺はコツコツと小気味良い音を立てる木のバルコニーを進み、ベルの付いた店のドアノブを握る。

 

「……いいか、開けるぞ」

 

 コクリと誰かが喉を鳴らす音と共に、全員から頷きが返ってくる。

 そして、俺は意を決して樫の木の扉を開けた。頭上のベルが軽やかに鳴り響き、宿主に来客を知らせる。

 すると、まず飛び込んできたのは、顔面への衝撃……ではなく。

 奥にある蓄音機のラッパから鳴り響く、音量の抑えられた大人しいスムースジャズのBGMだった。それに続いて、なんとも香ばしい芳香――宿というよりカフェに近い、コーヒー豆やハーブ等を焙煎する芳香――が鼻をくすぐる。ドアを完全に開けば、眼前には木そのもののウッディな空間が広がり、大きな丸テーブルと丸太チェアにソファ等……全て木製の家具達。オレンジ色の火に包まれパチパチと薪が爆ぜる音を暖かさと共に届けてくれる暖炉や、オリエンタルな刺繍の絨毯(じゅうたん)やクロス類を始めとした、コーディネートセンスの良さが伺える様々な調度品の数々が、その木の温もりに包まれた空間をささやかに演出する。

 そこには、外見同様に洒落たウッドフロアが広がっていた。

 

「――あら、いらっしゃい。何名様?」

 

 すぐ横を見やればカウンターがあり、そこには落ち着いた音色の声で頬杖を付きながら柔らかい微笑で話しかけてくる女性が居た。

 

 その柔和な微笑の根源である目は切れ長で細く、糸目に近い。しかし、その長い睫毛がナチュラルにカールして縁取られており、細目特有の怖さは微塵も感じられない。絶妙な角度で笑みを保ち続ける瑞々しい唇は成人女性特有の色気を帯び、くすみ一つ無い健康的な肌は化粧っ気が皆無で、自然なままの魅力を前押ししている風体だ。

 頭には濃緑の三角巾を被り、肩甲骨まで伸びる艶のある黒髪を後ろで一つに結っていて、そのままウェーブの残したポニーテールを垂らしている。体付きはスリムで非常にメリハリがあり、現実世界のジーンズに近い藍に染められた足の引き締まったラインがハッキリと出るパンツが良く似合っている。また、その上に黒のシンプルなシャツに亜麻色のエプロンを重ねて羽織っている。

 歳は俺達より上の二十代半ばだろうか……若い外見の割りに大人びた雰囲気を持つ、妙齢の美人だ。

 

「……私の声、小さいのかしら」

 

 眉が八の字に(ひそ)められ、腕を組み、頬に人差し指を指し当てながら顔を傾げられる。

 まさしく年上なお姉さんのリアクション。

 

「あっ、いえ……よ、四人です! あと使い魔が一匹!」

「あらあら」

 

 たちまち最初の二割増のニッコリ顔になり、頬杖の姿勢に戻る。

 

「新しいお客さんなんて久しぶり。それに団体さんだし、もっと珍しいわ」

「そうなんですか?」

「ええ、こんな寂れた所だもの。しかも、あなた以外は女の子のハーレム御一行様なんて、創業以来初ね。……部屋は一つの方がいい?」

「んなっ!?」

 

「「「違いますっ!!」」」

 

 後ろの女性三人衆が、顔を真っ赤にして同時に声を荒げた。

 

「あらあらあら」

 

 再び頬に指先を当て、美貌の女店主はころころと上品に笑いこける。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「ごめんなさいね。こんな風にお話するの、本当に久しぶりで……。楽しくて、つい口が過ぎちゃったみたい」

「へ、部屋は別々でお願いします。……あの、突然失礼な事を聞くようで申し訳無いんですが……」

「――なにかしら」

 

 と、この人の笑顔が一瞬で切り替わり……目だけ笑っていないそれになったような気がするのは……気のせいだろうか。

 

「ええっと、少し前にここに背の高い男が来ませんでしたか? 俺達、その人の話を聞いてここへ来てみたんですが」

 

 言った途端、彼女はフッと肩の力を抜き、溜息をつきながら目の威圧感が元に戻った。

 

「ああ、その話ね。……よかったー、またナンパされるのかと思っちゃった」

「は? な、ナンパ?」

「うん、ナンパ」

 

 俺が聞き返すと、コクリと真顔の頷きが返ってくる。

 

「なんかその人がね、ここに入ってきた途端に私の手を握ってきて矢継ぎ早に求婚してきたのよ。プロポーズの結婚申請ウィンドウまで突き出されちゃって、それは驚いて……気付いたらブッ飛ばしちゃってた。悪いけど当店は、ああいうのはお断りよ。あなたも覚えておいてね」

『あぁー……』

 

 俺達は一斉に納得のコーラスを斉唱した。

 ハーライン……あのナンパ男の話を鵜呑みにした俺達が馬鹿だったようだ。

 まぁ、俺個人の意見を述べさせて頂くのなら……こんな美女が相手なら、その気持ちも少しは分からんでもないが――

 

「もしね、あなたもナンパしに来た……なーんて言ってたら――」

「ッ!?」

 

 突如、ブォン! という暴風が俺の横顔を殴り、それがさっきまでの脳内の考えを頭の外へと吹き飛ばした。

 

「なっ……!?」

 

 いつの間にか彼女の片手には荒削りの太い木の棒が握られ、それは俺の顔すぐ真横にまで伸びていて、その棒から伸びる蔦に絡まった一つの巨大な岩が、俺の耳にぶち当たる寸前でピタリと止まっていた。

 

「――あの人同様、これでブッ飛ばしちゃってた、かも」

「……………」

 

 俺は息を呑み、頬に冷や汗がひとつ流した。

 

 ――この人……出来る。

 

 あとメチャクチャ笑顔が怖い。アスナのそれとは比ではない静かな恐怖が俺の背筋を凍りつかせる。

 

「ず、随分と良い鈍器をお持ちで……」

 

 上擦りかけた声で褒め称えると、その笑顔が5割増しに。

 言っちゃなんだけど、本気で怖いので真剣にやめてもらいたい。

 

「でしょーっ? 意外ってよく言われてたけど、私もこのプリミティブさが大好きなの。両手戦槌の、その名も《ウォー・ロック》って名前。シンプルだけど、すっごく重くてとっても強いんだから」

 

 それを片手で軽々と構えるあなたの筋力値の方が強そう……とは口が裂けても言うまい。

 

「ち、違いますっ、キリト君はそんなんじゃなくて……えっと、わたし達、本当にお客として泊まりに来ただけなんです!」

「うふふ、分かってる分かってる」

 

 アスナの助け舟により、俺はなんとか、どっかの変態同様に外へと殴り飛ばされずに済んだようだ。すぐに彼女は笑みを元に戻して、己のスリムでグラマラスな体型に似合わぬ、石器時代から持って来たかのような原始的な風貌の鈍器を降ろし、ストレージに仕舞う。

 

「ただね、そこの男の子の目がジーッと私の顔や体を値踏みするように眺め回してたから……女の勘が働いて、丁度ペットにメッ! って叱る感じに、ちょっぴり牽制しちゃった♪」

 

 あんな目や武器で威嚇しておいて、よくちょっぴりなんて言えたものである。

 

「顔や体を値踏みするようにって……それって本当なのかなー。キリト君?」

「え!? いや、見てない、見てないって! だからアスナ、その目はやめてくれっ」

「それはともかくっ!」

 

 リズベットがまだ少し赤い顔で進み出た。

 

「あたし達は、コイツの呼び掛けに出てこなかった一人に話をしに来てもいるんです。あなたがそうですよね?」

「あー……さっき外で大声で叫んでたの、そこの子だったのね」

 

 すると女主人は、一度ペコリと先に頭を下げてから言葉を続けた。

 

「ごめんなさいね。呼び掛けは全部聞こえていたのだけれど、お店の事があるからどうしてもここを離れられなくって……」

 

 申し訳なさそうな女店主に、俺は首を横に振る。

 

「いえ、もう会えたからいいんです。この村でまだ調べていない最後の一人があなたで良かった。話が早く済みそうだ」

「…………ええ、そうね」

 

 それを聞いた彼女は、微笑をそのままに眉と目の表情を曇らせた。

 その表情の真意を、俺は(はか)りかねた。

 

「あなた達が私に何を問いたいのか、それは分かってるつもりよ。……だから、先に言っておこうと思うの。私は――……あら?」

 

 と、ここで彼女は言葉は途切れさせ、天井をじっと眺め始めた。

 コツ、コツ、と誰かが上から階段を下りて来る音が部屋に響き渡り始めたからだ。

 続いて……

 

 

「――マーブル、いる?」

 

 

 と、その姿を見せない内に、まるで風鈴が鳴るような……高く澄んだ声が二階から響き渡って来た。

 

 見上げればカウンターのすぐ傍に階段があり、二階へと続いていた。声の主が居る階段の先は死角となって見えなかったものの、一階の全ての空間はくつろいだり食事をするフロアのようだから、恐らく二階の先が宿泊部屋なのだろう。

 

「あれ、わたし達以外にもお客さんが?」

「ええ。一人、常連さんがね」

 

 アスナの問いに彼女は頷いた。その表情はいつもの笑みに戻っている。

 

「あっ、さっきのマーブルって言うのは、私の名前ね。……丁度いいわ! 遅れたけど、今から降りてくる子と一緒に自己紹介するわね」

 

 女店主はぽむ、と両手を合わせると笑顔でそう提案した。

 尚もゆっくりとした定期的なリズムで階段の木の床を叩く音が続き、俺達はその姿が降りてくるのと待った。

 そして……やがて現れたその姿に、俺達は息を呑み、驚いた。

 

「………あっ!」

 

 リズベットが指を差しながら声を上げたのも無理は無い。

 

 降りてきたのは……全身ボロ布の衣服で包んだ、素顔すら謎の、第三の容疑者だったのだ。

 

「…………!!」

 

 驚いたのはあちらも一緒だったようだ。すぐにターンして階段を駆け上がる。……が、その首根っこを女店主がひっ捕らえた。

 

「ッ!?」

「ちょっと待ちなさい」

「…………ッ!」

 

 フードをふるふる左右に振り、激しく否定の意を示す。

 

「一体どうしたの、なんで逃げるのよ。しかも突然黙って……あっ、あなたまさか!」

 

 もがき逃れようとする小さな体を、彼女は両手でヒョイと容易く宙に持ち上げた。

 

「ッ!?」

「まーたそんな不気味なカッコのまま黙りこけて、色んな人たちに迷惑かけたんじゃないでしょうね? いい加減やめなさい、それ」

「……~~ッ!!」

 

 両脇腹を掴まれて持ち上げられながらも、その手から逃れようとじたばたと虚しい抵抗を続けている。

 女店主はそのまま俺達の前へと持ち運び、ストンと降ろしてその両肩に手を置き、逃げないようにしっかりとホールドした。

 

「……~~ッ!? ……~~ッ!!」

「ごめんなさいね、あなた達。遅れたけれど、ここで私達の自己紹介をするわ」

 

 俺達はもう何が何だか分からない状態で、もうコクコクと頷く事しかできない。

 

「では、改めて私から。私は、この宿屋《ウィンキング・チェシャ》の女店主、マーブルよ。そして――」

 

 マーブルは言葉が終わらぬ内に……

 

 ――麻のフードをむんずと掴み、バサリと勢いよく剥ぎ取った。

 

 

「――あぁっ!?」

 

 

 それと同時に、先程二階から聞こえた同じトーンの、可愛らしくも儚い悲鳴が響き渡った。

 

「――この子の名前はユミル。この宿で唯一の、可愛い可愛い常連さん」

 

 俺達は揃って目を剥き、ついに全貌が露わになったその顔を凝視する。

 

 まず最初に目を奪われたのは、艶やかなプラチナブロンドの髪。肩まで伸びる滑らかなストレートのそれは一本一本が細く、ごく少しの挙動ですらサラサラと揺れ動くキューティクルで潤っている。髪型は毛先が僅かに内側にカールしている、長めのボブカット。

 頭の輪郭(りんかく)は人形の様に極めて小さくどこか幼さが残っていて、肌は肌理(キメ)細かいというフレーズがピッタリと来る程の柔らかさと繊細さを感じさせる。クリッと大きく愛らしい目を覆う睫毛は長く、瞳は見ていて吸い込まれそうな程に透き通ったエメラルドグリーン。

 顔全てを覆ったフードが取っ払われた今だからこそ分かるが、裾から覗く喉も首元も肩も……非常に華奢(きゃしゃ)な体つきだ。

 

 素顔を晒された名をユミルと言うらしいそのプレイヤーは、マーブルが手に掲げるボロキレ同然のフードを奪い返そうと届かぬ手を必死に伸ばし、さらには爪先だけで立って小柄な背を伸ばしてプルプル震えていたが……

 

「…………!」

 

 俺達の強烈な視線に遅れて気付き。

 そしてフードは諦めたとばかりに伸ばした手を力なく降ろしてから。

 愛らしい目をキッと不機嫌そうに鋭くさせ、フンと可愛らしく鼻を鳴らしてそっぽを向いた。

 

『……………。』

 

 その音を最後に、一時の完全な静寂が訪れる。

 

 ……………。

 

 そう。

 

 その通りなのだ。

 

 全身が粗末なボロ布の、不気味な姿の素顔とは。

 

 徹底して無口を貫き通し、残った三人の《死神》容疑者の中でも最も怪しまれていた、その者の正体とは。

 

 

 

 ――小さな、女の子だった。

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 その事実を頭で理解した、その次の瞬間。

 俺達こと総勢4名と一匹による、アルファベット最初の一文字での、驚きの絶叫が店内いっぱいに響き渡ることになった。

 


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