トニオにドナテラの治療の約束を取り付けてから一週間後、わたしは
既に特別なクロアワビの料理が、脳腫瘍の治療に効果があるというのはトニオの彼女で確認済みである。料理の効き目は凄まじく、リハビリの必要もなくトニオの店を手伝えるぐらいに回復している。
なお、わたしたちは正規の手段でイタリアに渡航していない。俗に言う密入国というやつだ。
下手に渡航歴を残してパッショーネの情報分析チームに察知されるのを防ぐため、ものを『紙』にできるスタンド使い──宮本輝之輔のスタンド能力を利用した。
輝之介のスタンド──エニグマは相手の『恐怖のサイン』を見極めなくても、相手が『紙』に封印されるのを同意するだけで能力を発動できたのだ。
輝之介は『本』にされて暗い本棚の中で半年以上放置されていたのがよほど堪えたのか、ヘブンズ・ドアーで保険をかけるまでもなく従順な態度で協力している。
そもそも他人の『恐怖のサイン』を見たいだけなら、映画館に行ってホラー映画を鑑賞している観客の様子を眺めていればいいのだ。
自分の手で恐怖させることに喜びを覚えるのなら、映画監督になって自分で作ったホラー映画を流せばいい。
終始わたしに対して怯えっぱなしでうっとおしかったので、誰にも迷惑をかけることなく『恐怖のサイン』を見る方法を世間話がてら教えると輝之介は呆気にとられていた。
結局、目を合わせようとしないのは変わらなかったが、心境に変化があったのか話しかけるだけでビビったりはしなくなった。
イタリアの医療制度は世界最高水準である。保険料さえ支払っておけば薬こそ有料だが専門的な治療以外は無料で受けられる。
それだけ聞くと日本より優れているように聞こえるが、その制度は公立病院にのみ適用されるため私立病院に行かなければ混雑で診察まで何時間も待たされるというデメリットもある。
私立病院はサービスや設備が公立病院より整っていて、すぐに診てくれるが非常に高額なので一般市民は気軽には行けない。
ドナテラが入院しているのはSPW財団が出資して運営しているピサの郊外にある私立病院だ。脳腫瘍手術の第一人者として知られる医者が在籍している有名な病院で、半年ほど前から個室で暮らしている。
事情を知るSPW財団から出向してきている医者や看護師の案内で、わたしはドナテラの病室の前まで来ていた。
人払いをしているので、この場にはわたししかいない。ドナテラが子供の言葉を信じないという可能性も十分に考えられる。そのときは医者や看護師に任せるが、最初はわたしから話をしたいと頼んだのだ。
いつまでも突っ立っているわけにもいかない。無意識に握りしめた拳を開き、覚悟を決めて扉を開ける。
「……あら、可愛いお客さんね。トリッシュのお友達……にしてはちょっと年が離れてるわね」
窓際に置かれたベッドの上で上半身を起こして雑誌を読んでいた茶髪の女性──ドナテラ・ウナがこちらを向きながら首を
ドナテラは三十代前半のはずだが、二十代前半と言われても納得できるぐらい若々しいままだった。化粧で若作りしているというわけでもないというのが驚きだ。
室内にこもりっきりなせいで肌は白いが顔色は悪くない。一見すると病人とは思えないが、トニオの彼女と同じく脳腫瘍の影響でドナテラは立って歩けない。病室の片隅に置かれている車椅子がその証拠だ。
「
「
壁に立てかけてあった折りたたみの椅子をベッドの脇まで運んで座り挨拶を交わす。ドナテラとオレはひと夏の付き合いだったが、日本について聞いたことはない。
サルディニア島で会ってから15年近くが経っているので、その間に詳しくなったのかもしれない。
「確かにわたしは日本人ですが……詳しいですね」
「昔、デビューする前イギリスのクリステラ・ソングスクールに通っていて、そこの校長先生が親日家だったのよね。その関係で、ちょっとだけ日本に詳しいの。
あなたぐらいの歳だと知らないかもしれないけど、あたしってこれでも
それなりどころの話ではない。ドナテラは『世紀の歌姫』と呼ばれていた伝説の歌手──ティオレ・クリステラから直接、教えを請うたイタリアでもトップクラスに有名な歌手である。
クリステラ・ソングスクールはティオレが校長をしているのだ。そして、わたしの家族とクリステラ一家は実は関係があったりする。
イギリスで上院議員をしているティオレの夫──アルバート・クリステラのボディーガードを父がしていたのだ。父と母の出会いもアルバートをボディーガードしていた際に巻き込まれた事件がきっかけだったそうだ。
世間は広いようで狭いと思い知らされた。アルバートと父は以降も個人的な付き合いを続けており、わたしもティオレやアルバート、娘のフィアッセ・クリステラとは父の関係で何度か顔を合わせたことがある。
わたしの家族とクリステラ一家の関係を掻い摘んで説明するも、ドナテラは余計に首を
「ティオレ先生と知り合いだったのね。だけど、あたしとあなたって初対面だし、お見舞いに来てくれたってわけでもなさそうね。ファンの子とも思えないし……」
「……落ち着いて聞いてください。わたしは、あなたの病気を治療できるかもしれない方法を伝えに来ました」
当然だが、わたしの言葉を聞いたドナテラは
「あんた……自分が言ってることを理解できてるの? まさか、あたしを騙して金をせしめようとしてるんじゃあないでしょうね!」
「ドナテラ・ウナ、おまえがわたしの言葉を信じられないのは当然だろう。だから証明しよう。この世には常識の枠を超えた力が存在するという事実を」
口調を
やはりトリッシュとは違ってドナテラにスタンド使いとしての才能はないようだ。スタンド使いの要素は遺伝する。子であるトリッシュならともかく、ドナテラにはスタンド使いとしての素養はない。
「──ッ!? な、なに……? 今の感覚は……風じゃあない。まさか……見えない何かに触れられたの……?」
「この力のことを我々は『スタンド』と呼んでいる。わたしのスタンドは、今おまえの側に立っている」
これは『試練』だ。わたしがドナテラに与える『試練』なのだ。スタンド能力を誤魔化してドナテラを日本へ連れて行くことはできるが、彼女には真実を知る権利がある。
ドナテラが恐れおののきスタンドの存在を認められないのなら、輝之介に『恐怖のサイン』を見極めさせてエニグマで無理やりにでも日本へ連れて行く。そしてヘブンズ・ドアーで記憶を書き換えて、病気だと勘違いさせたまま来年の2月まで過ごさせるつもりだ。
その後はアメリカにあるSPW財団の本部で、わたしたちがディアボロを始末するまで
……この計画を聞いた承太郎とジョセフは賛同も反対もしなかったが、いい顔もしなかった。強引すぎる計画だ。もっといいやり方があるのではないかと説得されたが、わたしにはこれぐらいしか方法が思い浮かばなかった。
他人の心を理解できていないと言われても反論できない。合理的なら他人の感情を無視してでも確実な手段を選んでいい、なんてわけはない。間違った考えだと理解できている。それでも長年培った経験が導き出す答えは、どうしてもそうなってしまうのだ。
「へえ、意外とガッシリした体つきなのね。ねえ、ナノハ。彼、でいいのかしら。彼の名前は何ていうの?」
「スタンドの名は『キング・クリムゾン』だ。……スタンドを恐ろしいと思ったりはしないのか?」
実体化させたまま立たせていたキング・クリムゾンをドナテラは両手でベタベタと触っている。スタンドによって個人差があるが、キング・クリムゾンは視界だけ本体と共有することができる。触覚は共有できないので触られてもくすぐったくはないが……恐ろしくはないのだろうか。
わたしの質問にドナテラは不思議そうな顔をしている。まるで、どこに怖がる必要があるのかといった態度である。オレが初めて出会ったときカエルが好きだと言っていたし、どこか感性がズレているのだろうか。
「詳しくは言えないけど、あたしの『知り合いの娘*1』が超能力者なの。その、スタンドだっけ? それとは違って、あたしも見えるんだけどね。
だから超能力の存在そのものは疑っていなかった。ただ……あたしが病気だと知って、金目当ての胡散臭い連中が山のように妙なものばかり勧めてきて、ちょっと参ってたのよね」
イタリアどころか世界各国でドナテラの曲は聞かれている。多くの人に歌を聞いてほしいという理由で、イタリア語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、英語で同じ曲を歌っているのだ。
病気の影響で音感が狂ってしまい5年ほど歌手として活動できていないが、それでも手元に入ってくる印税や貯蓄は凄まじい額だろう。
今はSPW財団やドナテラが所属してる事務所の協力で秘密裏に病院を移れたおかげでマスコミには嗅ぎつけられていないようだが、いつまで隠蔽工作が保つだろうか。
「納得できたのなら話は早い。わたしの協力者に、料理を食べた生き物の病気を治す能力を持ったスタンド使いがいる。ドナテラと同様の症状の女性も、つい先日回復させることに成功している」
「それが本当ならすごいことだけど……ちょっと考えさせてちょうだい。あと悪いけど、そこの冷蔵庫から飲み物を取ってくれないかしら」
「ああ、わかった。わたしも適当に飲ませてもらうぞ」
病室の冷蔵庫を開けるとワインや缶ジュース、それからペリエというフランス産の硬水の炭酸水が並んでいた。あの頃から、炭酸水に限らず色々なものに
迷わずペリエを取り出して手渡す。ドナテラは少しの間わたしの瞳をじっと見つめたあと、瓶の蓋を開けてゆっくりとペリエを飲み始めた。わたしも冷蔵庫から缶ジュースを取り出して、話し続けていて乾いてしまった喉を潤した。
「そういえば、あなた日本人なのよね。それにしてはイタリア語が上手いわ。まるでイタリア人みたい。でも、ちょっとサルディニア
「な……訛っている、か? そんなつもりはないんだがな」
いきなり確信に近い質問をされて思わずむせてしまった。さすがにわたしとディアボロを結びつけるのは不可能に近いだろうが、何か怪しい行動をしてしまっただろうか。無意識に何も聞かずにペリエを手渡したのは失敗だったか……?
訛りで出身地がバレないように、オレは意識して標準イタリア語で話していた。だから、わたしのイタリア語も訛ってはいない……はずだ。昔から相手の
「……動揺したわね。あたしとナノハに接点なんてほんの僅かにしか無いのに、一人でこうして現れた時点でおかしいとは思ってたのよ。ナノハ、あなたの正体は──」
どんどん真実へと迫っているようなドナテラの口ぶりに、わたしは思わず喉を鳴らしてしまった。それを見たドナテラは確信を得たのか、わたしの正体を告げようとしている。
オレには緊張しているとき喉を鳴らす癖があることをドナテラは知っている。まさか、本当にドナテラはわたしと
「──ソリッド・ナーゾの娘ね!」
「……は?」
──思っていなかった。ドナテラの予想外な発言に、わたしは間抜けな声を出してポカンとしてしまった。いや、普通に考えたら六歳の日本人少女と三十代前半のイタリア人男性を同一人物だと推理できるわけないのだが……あの流れでは真相に辿り着いたと思うだろう!
かつての恋人と似た癖を持っていて、個人的にドナテラを気にかけている人物、となるとソリッドを思い浮かべるのは言われてみれば当たり前だった。ドナテラにとっては死ぬ間際、トリッシュを託そうと周囲の人間に探させるぐらいには思い入れがあるのだから。
「……もしかして、ハズレてた?」
「わたしがソリッド・ナーゾに関係している、というのは間違いではないが……血縁関係はない」
さすがに、こうなってしまってはソリッドと無関係だと言い逃れるのは難しい。こういう展開は予想外だったので即興になるが、なんとか適当なバックストーリーをでっち上げるしかない。
かなり無理があるが、わたしが予知能力でドナテラの死を知って、ソリッドに頼まれて送り込まれたということにするか……? いや、それだとトリッシュの存在をディアボロが知る切っ掛けが無くなって、ブチャラティチームが組織を裏切る流れが変わってしまう。
どうやっても現在開示している情報だけで上手くドナテラを説得できる気がしない。芯が強い性格なので、一度疑念を抱いたら間違いなく追及してくるだろう。これは……危険は
「わたしのスタンドは
「ソリッドの秘密……? 彼は、今何をしているの?」
「教えてもいいが……知ってしまったら後戻りはできない。僅かにでも誰かに伝えたら、問答無用で殺されてもおかしくない危険な情報だ。それでも知る『覚悟』があるなら……教えてもいい」
「……きっと彼は変わってしまったのね。それでも……あたしは彼の本当の姿を知りたい。絶対に誰にも……トリッシュにも喋らないと約束する。だから本当のことを教えて」
ドナテラは決意に満ちた表情でわたしを見つめている。彼女の明るい空色の瞳とわたしの深い藍色の瞳が交差する。わたしは本来辿るであろう未来を、少しだけ嘘を織り交ぜながら彼女に語ることにした。
三時間ほどかけてソリッド・ナーゾ──ディアボロの正体や、これから起こるであろうトリッシュを取り巻く争いを伝え終えるとドナテラは目を閉じて考え込み始めてしまった。
さすがにかつての恋人が故郷を焼き払って過去と決別して、現在はイタリア全土に麻薬をばら撒いていると知ったのでショックを受けたのだろう。特にトリッシュを己の手で殺そうとした話は衝撃だったはずだ。
「ナノハはソリッドを……ディアボロを殺すつもりなのよね」
「ああ、そうだ。あの男は後戻りできないところまで足を踏み入れてしまった。
ディアボロを生かしておく利点は全く無い。ヘブンズ・ドアーで記憶を読んで、わたしとディアボロの記憶の差異を検証するぐらいしか役に立たないだろう。
パッショーネを再編するだけなら、わたしの知識と経験だけで事足りる。わたしがいなくてもSPW財団とブチャラティやジョルノが力を合わせたら、案外難なく統一できるかもしれない。
だからディアボロは殺す。これは決定事項だ。ドッピオも一緒に殺してしまうのは思うところがあるが、我ながら何をしでかすか分からない相手を生かしておく訳にはいかないのだ。
「……あたしがあなたにこんなことを頼むのはオカシイかもしれないけど……彼に一度だけ『変わる機会』をあげたいの」
「変わる機会、だと……? あの男は生まれながらの悪だ。今更、変わることなど──」
「でも、彼はあたしをあえて見逃しているんでしょう? 彼の中にも、きっとほんの少しだけ善の心があるはず。そう信じるのは悪いことかしら」
確かにオレもディアボロもドナテラを殺そうとはしないだろう。本名を知らないから。病気で長く生きられないから。そう言い訳して病死するまでドナテラの周囲を探ろうともしなかった。
本来なら未熟な過去の象徴でもあるドナテラは真っ先に始末していないといけないはずなのに。生かしておく意味など一切ないはずなのだ。
本当は彼女を殺したくなかったのだろう。愛していたからなのか、家族として認めていたからかは分からない。少なくとも今のわたしはドナテラを愛してはいない。目の前にいるドナテラは、オレのよく知るドナテラとは別人だ。
……オレはドナテラと、もう一度会っていたら変われただろうか。何も知らない娘を自分の都合だけで利用する男が、絶頂や栄光を捨てて平穏な暮らしに戻れただろうか。
分からない、解らない、判らない──わからないのは当たり前だ。わたしはディアボロではない。人は環境に影響されて常に変わり続ける生き物だ。既に、わたしはあの男と同じ記憶を持っているだけの別人だったのだ。
「希望的観測としか言えないが……できるかぎり善処しよう」
「
断りきれず安請け合いしてしまったが、ドナテラは思いの外喜んだ。そのまま感情に任せて足がうまく動かないのに、わたしに抱きつこうとしたドナテラがベッドから落ちそうになった。
慌ててキング・クリムゾンで抱き上げて事なきを得たが、
実はドナテラを移送する間、病室が空になるのを誤魔化すために杜王町から、もうひとりスタンド使いを連れてきていた。現在は大学に進学している
間田のスタンド──サーフィスは物質同化型のスタンドで、等身大の木製のデッサン人形を媒体に発動するスタンドだ。能力は単純で人形に触れた相手の姿形と性格をコピーするというものだ。
記憶は完全に再現できないし、真似るのは外見だけなので実際に触れられたらすぐにバレてしまうだろうが、担当の医者や看護師はSPW財団の者だから問題ない。間田に協力するかは、コピーした相手の性格に左右されるという使い所が難しいスタンドだが、影武者ぐらいには使える。
自分そっくりの姿になったサーフィスを見てドナテラが興味を惹かれてデュオで歌い始めたりして少々余計に時間を食ったが、無事に日本へと戻ってこられた。ちなみにサーフィスの射程距離の問題で間田はイタリアに置いてきた。
元々、間田は日当5万円のバイト扱いでわたしが雇っていて、暇つぶしのために『紙』に封印した娯楽品を山ほど持ち込んでいるので本人は納得している。
ドナテラの治療は、あっけないほどあっさりと終わった。数年ぶりに自分の足で歩けるようになったのが余程嬉しかったのか、通訳を兼ねて散歩に同行させられてしまったぐらいだ。
その後も、せっかく日本に来たのだからと杜王町や海鳴市の観光につきあわされて、速攻でイタリアに帰るはずが一週間ほど滞在期間が延びたのは余談である。
思えばオレも大概ドナテラには逆らえなかった。行動の主導権を握っているが無理やりではなく、相手が嫌がることは強要しないという絶妙なバランス感覚をドナテラは持っていた。
観光も終わり、ドナテラをイタリアの病院に送り返した後、別れ際に気になっていたことを聞いてみた。絶対反対されると思って、どう納得させるかずっと考えていたのに一切聞かれなかったのが不思議だったのだ。
「このまま計画を進めるとトリッシュが危険な目に遭うが、それは構わないのか?」
「心配してないわけじゃあないけど……あなたがあたしを救ってくれたように、トリッシュを守ってくれると信じているから」
ドナテラは体の後ろで手を組んで、わたしにヒマワリのような笑顔を向けながらそう答えた。日本でそれなりに話したからか、ドナテラは妙にわたしを信頼している。
客観的に見たら明らかに怪しい子供にしか見えないと思うのだが、どこに信頼できる要素があったのだろうか。微妙に引っかかりを覚えつつも、わたしはドナテラにしばしの別れを告げた。
次に会うのは来年の4月になるだろう。オレの記憶通り、来年の2月に偽の情報を流して表向きには死んだ扱いにするのは心苦しいが、パッショーネを掌握できればマスコミの発表はいくらでも捻じ曲げられる。
ドナテラとの約束を守るためにも、計画は確実に成功させなければならない。こうして20世紀最後の年はあっという間に過ぎていった。
誤字脱字、表記のぶれ、おかしな日本語、展開の矛盾を指摘していただける国語の先生をお待ちしております。