わたしはどちらかと言うと寝起きが悪いほうだ。
その割に夜の九時を過ぎると体が眠気を訴えてくるのだから手に負えない。
例外的にレクイエムの悪夢を見たときだけは、無駄に意識がハッキリしている。
どうせなら夢も見ないぐらいの深い眠りにつきたいものだ。
過去のサルディニア島でドッピオと話すなどという奇妙な夢を見たわたしの意識は、悪夢を見た後と同じぐらい冴え渡っていた。
眠ったというよりは気絶したというほうが正しいだろうが、意識を失ったことに変わりはない。
そんなことより、わたしはあの後どうなったんだ?
わずかに薬品の香りが漂っているということは、承太郎一行に病院へと連れて行かれたのだろうか。
ゆっくりと目を開けると、どこかで見たことのある白い天井が目に映った。
……どうやらここは海鳴大学病院の病室のようだ。頭を右に傾けると、窓際に置かれた長椅子に腰掛けている大柄な老人と、その隣に立ってこちらを見ている承太郎と目が合った。
ほかにも翠屋に最近よく顔を見せている億泰という高校生や見覚えのあるリーゼント頭の高校生が、承太郎の側から遠巻きにわたしの姿を眺めている。
すっかり失念していたが、あの二人に広瀬康一を加えた面々を翠屋で見たことがあった。
大声を出していた億泰しか印象に残っていなかったが、ヤツらも康一の仲間だったのか。
康一や見知らぬ男と何やら小声で密談しているようだが、話している内容を聞き取ることはできなかった。
……どうして康一の怪我が治っているんだ!?
「なのはっ!」
状況を確認するため、反対側に振り向こうとしたそのとき、いきなり死角から誰かに抱き上げられた。
聞き覚えのある声に思わず顔が強張ってしまう。
割れ物に触れるかのように、わたしの体を優しく抱きしめているのは、紛れも無くわたしの母だった。
嫌な汗が流れるのを感じながら母の胸元から抜け出しベッドに座り込む。
上半身を起こした体勢で母の背後に視線を向けると、そこにはわたしの家族が勢揃いしていた。
しかも大怪我をしていたはずの父が、何食わぬ顔で立っているではないか。
そんなバカな、と叫びたい衝動をすんでのところで抑えて自分の体を確認する。
すると驚くことに、承太郎に再起不能にされたはずの怪我が跡形もなく完治していた。
病室に置かれている電子時計の日付は、わたしが康一を誘拐した日から変わっていない。
時刻は夕暮れ時を過ぎているようだが、こんな短時間で怪我が自然に治るはずがない。
ありえない。そんな都合のいいことがあるはずがない。しかしそうでなければ理屈が合わない。
父が目を覚ましてここにいるという事実は、承太郎の仲間に怪我を治すことのできるスタンド使いがいたという現実を冷酷に伝えてきた。
これでは、わたしはただの道化ではないか。
あまりの衝撃に続く言葉も出せずに呆然としていると、黙りこくっていた承太郎が唐突に口を開いた。
「目が覚めたようだな、高町なのは。それともディアボロと呼んだほうがいいか?」
「……なんの、ことだ」
ヤツの言葉に息が詰まる。どうにかひねり出した声は、冷静さを欠いている自覚のある状態ですら分かるほどに震えていた。
どうにか落ち着こうと拳を握りしめるが、全身に広がる寒気は治まるどころか、時間が経つに連れて酷くなる一方だった。
ここは一旦逃げて時間を置くべきだ。逃げきれる気はしないが、まずは精神的に落ち着かなければどうしようもない。
今すぐ逃げなければ、どうにか時間を稼がなくては。焦る思いが空回りしてわたしの思考を埋め尽くしていく。
だが、わたしの意思に反してキング・クリムゾンは現れなかった。
「スタンドが、出せないだとッ!?」
「暴れられると困るんでね。君のスタンドには、すでに『
「バカなッ! どうやってわたしのキング・クリムゾンを──ッ!?」
すぐ側に家族が居ることも忘れて慌てているわたしに向かって、卵の殻のようなギザギザしたヘアバンドをしている若い男が、小柄な少年のような姿のスタンドを出しながら右腕を突き出してきた。
その動きに追随するようにスタンドが動き出し、わたしの手の甲に触れると表皮が『本』のページの様にペラペラとめくれ始める。
『本』にはわたしが先ほどまで考えていたことが日本語で記されていた。まさか──
「まさか、わたしの記憶を読んだのかッ!?」
「ああ、そうだ。おまえがパッショーネのボスだった男の記憶を持っているということは、ここにいる全員が知っている」
スタンド能力を実演したヘアバンドの男が後ろに下がり、ベッドに近寄ってきた承太郎がわたしの言葉に答えた。
承太郎を睨みつけながら現状を打開するための策を考えるが、何一つとしてマトモな案は思い浮かばない。
誤魔化そうとしたところで、わたしの出せる情報は全てあいつらが握っているのだ。
それ以前に家族に秘密がバレた時点で、どんなことをしても意味はない。
スタンド使いだったということぐらいなら受け入れてくれるかもしれないが、これだけは駄目だ。
こんな邪悪な存在を受け入れてくれるはずがない。きっとわたしの家族もオレの母や養父と同じように、わたしのことを拒絶するだろう。
……違う、この人たちはあの女とは違う。
もしかしたら、万が一にも、わたしのことを受け入れてくれるかもしれない。
だが、以前のような関係には戻れないだろう。
承太郎から視線をそらして、母たちが立っている方向に視線を向ける。
そこには心配そうにわたしを見つめている家族の姿があった。
「なのは」
普段と何一つ変わらない声色で父がわたしの名を呼ぶ。
返事をしようと口を開くが、わたしの喉から声が発せられることはなかった。
わたしは父を、母を、兄を、姉を、ずっと騙し続けていたのだ。
ディアボロという本性を隠して、なのはという偽りの姿を演じ続けていた。
父の呼びかけに答える資格など、あっていいはずがない。
なにも言えなくなってしまったわたしは、目を伏せて黙りこくってしまった。
そんなわたしの姿を見かねたのか、父が病室に備え付けてあった折りたたみ式の椅子をベッドの横に移動させて腰掛けた。
「俺は、なのはの父親だ。誰の記憶を持っていようが、そんなことは関係ない。だからこそ、なのはに謝らなくちゃならないことがある」
どうして、なんで、父がわたしに謝らなければならないんだ。
悪いことをしたのは、わたしのほうじゃあないか。
逸らしていた視線を戻すと、真剣な目つきでわたしの瞳を見つめている父と目が合う。
怨みや恐怖、敵意ばかり向けられてきたオレにとって、その眼差しはひどく久しぶりに見たものだった。
それはわたしがディアボロだったころ、観光のためにサルディニアまで来ていたドナテラの瞳とよく似ていた。
今になって気がついた。オレはドナテラに家族としての愛情を求めていたのだろう。
だから彼女と別れてからというもの、オレの心は一度たりとも満たされなかったのだ。
不完全な心を埋め合わすためにドッピオというもう一人の自分が生まれたが、信用はしていても信頼はしていなかった。
結局は便利な駒としか思っていなかったのだ。
どんなに組織の勢力を伸ばしても、どんなに金を集めても、イタリア全土を裏から牛耳るようになっても、オレは心から満足することはできなかった。
オレが本心から求めていたものは、そんなものではなかったのだから当たり前だ。
結局のところ、オレという人間は自分自身を信じることすらできなかったのだ。
「謝らないといけないのはわたしのほうだ。わたしは、あなたたちをずっと騙し続けてきた。だから──」
だから、わたしをあなたの子供だと思わないでくれ。
お願いだからわたしのことを嫌ってくれ。
わたしに愛情を与えないでくれ。
わたしを許そうとしないでくれ。
とうの昔に消えてなくなったはずの罪の意識が、わたしの心に重くのしかかる。
思っていることを口に出すことすらできない自分の弱さが苛立たしい。
「騙していたのは俺たちも同じだ。なのはが誰かの記憶を持っていることは、前々から知っていた」
「え……?」
わたしの頭を撫でながら、父がとんでもない事実を明かしてきた。
わたしは中身と外見が釣り合っていないという自覚があるが、ボロを出したことは一度たりともないはず……だと思う。
少なくとも言葉遣いは歳相応の子供のように振舞っていたはずだ。家族の前でイタリア語を使ったこともない。
いつ、どこで、どうやって気がついたのか。わたしには思い当たるフシはなかった。
「ある日、うなされているなのはが心配で添い寝をしていたときに見てしまったんだ。苦しそうな表情でぽつりぽつりとイタリア語をつぶやいているなのはの姿を」
父の答えに合点がいった。悪夢の内容までは詳しく語っていないものの、わたしは過去に何度か病院の世話になったことがある。
医者に相談したところで解決するような問題ではなかったが、それほどまでに過去のわたしは憔悴していたのだ。
わたしは生まれながらに見聞きしたものを理解できるような、常識はずれな赤子ではなかった。
三歳頃の記憶までは思い返すことができるが、それ以前の記憶となるとあまりハッキリとは覚えていない。
家族の話によれば、よく夜泣きをする赤ん坊だったらしく、常に何かかに怯えているような様子だったそうだ。
恐らく、脳がオレの記憶や人格を完璧に読み取れるまで成長するのに、三年の歳月を要したということだろう。
「他にも気になるところはいくつもあった。だが、あえて深く追求はしなかった。せめてなのはが悪夢を見なくなる日が来るまで待とうと、そう考えていた。なのはがここまで追い詰められていたとも知らずに。俺は父親失格だ」
「……お人好しにも程がある。オレの記憶を見たんだろう? こんな罪人に、どうして……どうしてそこまで情けをかける! 娘に取り憑いた悪魔を憎いとは思わないのかッ!」
わたしは頭に乗せられていた手を払いのけて父に食って掛かっていた。
日本語ではなくイタリア語で感情のままに吐き出された言葉の数々の意味が分からなかったのか、それとも急変したわたしの態度に驚いたのか、兄と姉は目を丸くしている。
一方、父はわたしのイタリア語を聞き取れたらしく、神妙な面持ちでこちらを見つめている。
口元は硬く閉ざされているが、澄んだ黒い瞳はわたしの心内を探ろうとしているように見える。
時間の流れが宮殿を発動させているときよりも遅く感じられた。
今の私の心情は、さながら刑が執行される直前の死刑囚といったところだろう。
「思うわけがない」
重々しく閉じられた口から発せられた一言に自分の耳を疑った。
父の隣で話を聞いていた母が兄と姉にわたしの喋っていた内容を伝えている。
出た答えは同じなのか、三人とも無言で首を縦に振っている。
「なん、で……」
「なのはが俺たちを家族だと思ってるように、俺たちはなのはを家族だと思ってる。ただそれだけのことだ」
父が言っているのは、理屈もヘッタクレもないただの感情論だ。
それなのに、わたしの心は意外なまでに父の回答をすんなりと受け入れていた。
形式上ではなく本当の意味で家族だと思える人物など、今の今まで一人足りとも存在しなかった。
家族だと思っている。信頼だってしている。だからこそ拒絶されるという結果を恐れて嘘を
「わたしは、
「いいに決まってるじゃない」
縋るような思いで喉の奥からひねり出した問いに答えたのは、父の隣で物静かに話に耳を傾けていた母だった。
いきなりのことで呆然としていると、少し息苦しいと感じるほど強い力で母に抱きしめられた。
しかし、今度は抜け出そうとは思えなかった。
嬉しそうに笑みを浮かべながら涙を流している母の姿を見てしまい、わたしは思わず固まってしまった。
母は悲しみを誤魔化すために無理をして笑っているのではない。
この人は、この人たちは、心の奥底からわたしのことを心配してくれていたのだ。
それを自覚した瞬間、二筋の涙がわたしの頬をつたって滴り落ちた。
スタンドを封じられ、過去を家族に暴かれたことでヒビの入っていた感情の堤防が、ついに崩れ去ってしまったのだ。
「……ごめん、なさい。今まで黙ってて、本当にごめんなさい」
もはや言葉を取り繕う余裕すら残っていない。
母の胸の中でみっともなく泣き腫らしながら、わたしはひたすら謝り続けた。