時刻は午後七時。
〈タカマガハラ〉施設内にある食堂は、食事をするスタッフ達で賑わいを見せていた。
メニューは割とバラエティに富んでおり、大手のレストラン並だ。ミズキは迷った結果、ハンバーグのセットを注文した。
対して、彼女の向かいの席に座っているカナコはホットコーヒーのみだ。それに備え付けの角砂糖を五個以上入れ、更にミルクを追加してかき混ぜている。
「……神宮寺さん、甘くない?」
どこかぼけっとしているミズキだが、さすがに気になって訊いてみた。
「甘いわ――だからなに?」
カナコは無表情に応えて、コーヒーを啜(すす)った。
「ううん、別に。甘いの好きなの?」
「ええ」
「でもご飯時だよ? それだけでいいの?」
「ええ」
ミズキの問いかけに対して、カナコの返答はそっけない。元より会話を弾ませる気など無いのだろう。
だが、それでもミズキはめげない。カナコは問えば応えてくれるのだ。無視されるよりはずっと良い。
もっともカナコにしてみれば、無視して付きまとわれるより、さっさと質問に応えて解放されたいだけだ。だから仕方なく、こうして食堂でミズキと相席している。
その光景は〈タカマガハラ〉のスタッフ達の目には、ある意味で異様に映った。
〈スサノオ〉の搭乗者であるカナコの顔を知らない者などこの施設には居ない。そして彼女は常に独りで、誰も近くに寄せ付けない事を知っている。
だから、『あのカナコが見知らぬ美少女と食事をしているらしい』――そんな情報が広まるのはあっという間だった。
「うわ、マジでカナコちゃんが女の子と居る」「誰、あの子。友達かしら?」「うちの〈戦姫(いくさひめ)〉は今日も見目麗しいねえ」「いや、見知らぬ少女の方もなかなか……」「ねえ、百合(ゆり)? 百合なの!?」「うるさいぞ。気付かれるだろう!」
自分達の席を遠巻きに見つめる一団――としか呼び様がない――に気付いていない振りをしながら、ミズキは「もう気付いてるけどね」とカナコに囁(ささや)く。
「……気にしなくていいわ」
いつもの事だとカナコは嘆息する。
「ねえねえ、〈戦姫〉って神宮寺さんの事でしょ? うわあ、かっこいいなあ」
「あなた、私の事、馬鹿にしてるでしょう?」
「違うよ! それにロボットに乗ってるなら二つ名はあってしかるべきだよ!」
ステータスだよ、とミズキは付けくわえた。
「もしかして、あの人達って神宮寺さんのファンクラブとかじゃないの?」
「……知らないわよ。馬鹿馬鹿しい」
カナコはそう言ってまたコーヒーを啜った。無表情に。
それが照れ隠しに見えたのは都合が良すぎるだろうか、とミズキは思案した。
カナコは無愛想だが、それはただ不器用なだけの様にも思える。きっと感情表現が苦手なだけだと。
改めてカナコの容姿に目を向ける――美人だ。
透徹(とうてつ)した人形の様な無表情も美しいが、笑えばまた違った魅力があるに違いない。
「…………なに? 急に黙って」
無言で自分を見つめるミズキに、カナコは不可解そうな表情を浮かべた。
「ううん。神宮寺さん、笑えばもっと可愛いのにな――って」
思ったままを言葉にすると、カナコはほんの一瞬だけ唖然とし、
「……何を言ってるの? 口説き文句のつもり?」
と、怪訝(けげん)な顔をした。
「あ――ち、違うよ!? そういうんじゃなくて、あの……」
ミズキはしどろもどろになって言葉を探す。
思った事をすぐ口にしてしまうのは自分の悪い処だ。
「あはは。何言ってるんだろうね、あたし」
「…………」
カナコはただ無言。
ミズキも乾いた笑いを浮かべるだけで、言葉が出ない。
その間にミズキが注文した料理が席に届く。
「うわあ――美味しそう」
思わず口にしてから、ミズキがハンバーグに手を付ける。ナイフとフォークで切り分けると、肉汁が溢れ、視覚的にも食欲が刺激される。
しばし、ミズキは食事に専念した。
会話が途切れ、場が沈黙する。
「――あなた、なんなの? どうして私に構うの?」
沈黙を破ったのは意外にもカナコだった。 ミズキが料理を平らげるタイミングを待ってくれていたのだろう。それに気付くとミズキは無性に、温かい気持ちになった。
しかしカナコは無感情な瞳を向け、無感情な声音でミズキに問うてくる。
初めて出逢った時と同じ、どこか寂しげな瞳で……。
† † †
カナコにはミズキの意図が判らなかった。今日初めて出逢った彼女が、何故、自分をこうも構ってくるのか。
カヤ達に頼まれたから?
それとも、他に何か目的があるのだろうか?
判らない。ミズキの考えている事が判らない。
それは怖いという感情に繋がる。
他人が自分をどう思っているのか判らないのが――怖い。
無関心ならいい。下心があったり、嫌われているのも構わない。もう慣れた。
だが、ミズキのカナコに対する態度や表情は、そういった類のものではない。
ならば彼女は自分に対して、何を思っている?
それが判らなくて怖い。
だから問うた。
「――あなた、なんなの? どうして私に構うの?」
自分でも驚くほど底冷えのする声が出た。
それは恐怖の裏返し――怖れを悟られまいと虚勢を張っているだけだ。
「…………」
問われたミズキは無言――いや、何を言われたのか理解出来なかったのかもしれない。それほどにカナコの問いは、異国の言語の様な、呪文めいた響きを伴っていた。
それは叫びだった。
(みっともないな、私――)
内心で呟き、カナコはうつむく。
(何を期待していたんだろう)
膝 (ひざ)の上で力無く握った手を見つめる。
(何を言って欲しかったんだろう)
判らない。
(私は……)
自分で自分の気持ちが判らない。
(……死にたい――)
意識が思考の闇に沈んでいく。
だが――
「――神宮寺さん!」
突然の声に、沈みかけていたカナコの意識が浮上した。
正面に視線を戻す。そこには今にも泣き出しそうなミズキの姿があった。
「あ、あたし――あたしは……」
あたふたと慌てふためきながら、ミズキは言葉を探している。
「あたしは及川ミズキ、十五歳、7月7日生まれの蟹(かに)座、血液型はO型、好きな食べ物は肉料理全般、スポーツは苦手で、趣味は……か――格好良いロボット!」
「…………」
一息でまくし立てるミズキに、今度はカナコが無言を返した。
そして気付いた。今のは、先ほどのカナコの問いに対する答えだ。
「あたしはね……神宮寺さんの事を知りたい! 友達になりたいから!」
「…………」
「だから……その、迷惑かな……?」
不安げにこちらを見上げるミズキに、カナコは戸惑った。
友達。
久しく縁が無かった言葉だ。
だからだろうか、ミズキの言葉に現実感が無かった。テレビ画面の向こう側の様な、舞台上の芝居の様な、遠い世界の出来事の様な感覚。
「……神宮寺さん?」
ミズキの窺(うかが)う様な声が、カナコを現実に引き戻す。
問うたのは自分だ。ミズキはそれに応えた。
だがカナコはどう返せばいいか判らなかった。
だから――
「……趣味はロボットって、何それ?」
そんな言葉しか出てこない。
しかしミズキは気を悪くした様子も見せず、
「へ、変だよね。男の子みたいってよく言われるんだ」
そう言って「あはは」と苦笑するだけだ。
ちくりと胸が痛んだ気がした。
違う。こんな事が言いたいのではない。
嬉しかったのだ、ミズキの言葉が。
だが素直にそう表現する事が出来ない。その方法を忘れてしまった。
それに怖かった、自分をさらけ出すことが。
なのに、ミズキはそれをやってのけた。
苦笑して見せているが、恥ずかしかったに違いない。まだ顔が上気している。
だからだろうか、カナコも少しだけ本音を言いたくなった。
「変じゃないわ……私も、好きだもの」
呟く様に言葉にする。
「――でもそれは、あなたの『好き』とは多分、違う」
そうだ――『好き』などというロマンチックな感情ではない。
「私には〈スサノオ〉しかない。だから〈スサノオ〉に乗るの。〈スサノオ〉に乗っている時だけが安息なの。〈スサノオ〉だけが希望なの。〈スサノオ〉だけが救いなの。〈スサノオ〉に乗っている時だけ、私は私で居られるの」
これは『依存』だ。自分は〈スサノオ〉に生かされている。
「〈スサノオ〉が……〈スサノオ〉だけが――」
うわ言のように繰り返す。
〈スサノオ〉――と。
そして気付いた。今、自分はどんな顔をしているのだろう?
(気持ち悪いな、私――)
ミズキの顔が見られなかった。彼女はどんな顔で自分を見ているだろう?
自己嫌悪で死にたくなった。
受け入れてもらえなかったらどうする?
いや、もう充分に引かれているだろう。
拒絶されてしまったらどうする?
そしたらきっと……。
(私はもう、生きていけない)
それきり思考が停止する。もう何も考えたくない。
だからミズキが何か言う前に立ち去ろうとした。それがお互いのためだと。
「待って!」
なのに、ミズキはカナコを引き止めた。
先ほどまで泣きそうなくらいに慌てていたのに、今、カナコを見つめるミズキの目は真剣だった。
ミズキの大きな黒い瞳に自分が映っている。それが確認出来るほどの至近距離で、カナコはミズキと見つめ合う。
言葉が出てこない。思考も働かない。
「……えっと」
引き止めたミズキも同じらしい。だからカナコも少しだけ冷静になれた。
少なくともミズキは嫌悪感の類を表情に出してはいない。引いた様子も無い。
それだけでまた少し安堵した。
「あ、あのね――神宮寺さんの『好き』が、あたしなんかとは比べられない事は判ったよ。それってすごい事だよね!」
と、ミズキが興奮気味に言った。
「神宮寺さんと〈スサノオ〉は一心同体で、そこには深い絆とか、熱い信頼関係があるって事でしょ?」
「……そんな上等なものじゃないわ。これは私の……ただの依存症よ」
「ううん。だとしても、きっと素敵な片想いだよ」
『片想い』――ずいぶんと詩的な解釈だ。
ミズキと話していると、おかしな気分になってくる。彼女は自分を偽らず、飾らず、本音でぶつかってくる。
それが嬉しかった。だから、カナコも少しだけ自分の事をさらけだしたくなった。
〈スサノオ〉に乗って戦う訳を。
それはタタリガミを倒すためではない。ましてや世界平和のためなどでは決してない。
カナコにそんな正義感や使命感など無い。正直なところ、この世界がどうなろうと、カナコの知った事ではない。
彼女が〈スサノオ〉に乗ってタタリガミと戦う理由――それは『戦いたい』からだ。
それだけが自分の存在価値だから。
それだけが自分の存在理由だから。
だから戦う。自分のために、ただそれだけに。
「幻滅したでしょ? 私は世界を護るヒーローなんかじゃない。ただ自分勝手に戦うだけなの」
「それでもいいじゃない。『世界のため』とか、『誰かのため』とか、そういうお題目は立派で綺麗だけど、そういうのって、なんか胡散臭(うさんくさ)い気がするし」
「…………」
「自分のために戦える神宮寺さんはすごいよ。あたしはそう思う」
ミズキの言葉は自信に満ちている。
だが、その根拠はどこにある?
「私の事、何も知らないくせに」
カナコが警戒する様に身構える。
しかしミズキは、
「うん、まだ何も知らない。だから教えて、神宮寺さんの事!」
「……つまらない女の、つまらない話よ」
「つまらないかどうかはあたしが判断するよ」
「……………」
カナコは観念した様に席に座り直した。
それからはミズキの質問攻めだった。たいしたことは訊かれなかった。カナコにしてみれば他愛も無い、どうでもいいような事ばかり。
しかし、ミズキは楽しそうに自分の話を聞いてくれる。それが嬉しかった。
ミズキとの会話を楽しいと感じた。
まだ自分にそんな感情が残っていたのが不思議に思えた。
同時にこうも思う。ミズキも楽しいと感じてくれているだろうか?
楽しいと感じているのは自分だけなのではないか?
途端に寒気がした。
――もしそうだったら?
ネガティブな感情がカナコの思考を侵食していく。
いつもこうだ。悪い方向にばかり気持ちが傾く。
傷付きたくないから。
傷付くのが怖いから。
心に予防線を張って、周囲に壁を作って生きてきた。
だが、もうそんなのは嫌だ。
だから――
† † †
カナコの様子が変わったと、ミズキは直感的に察した。
「神宮寺さん?」
急に黙り込んでしまったカナコに声を掛けると、彼女は小さく肩を震わせた。
何かを恐れる様に。
何かに怯える様に。
その『何か』の正体をミズキは知っている。
だから――
「…………ねえ、及川さん――」
「ミズキだよ」
カナコの言葉を制して、ミズキは言った。
「あたしの名前――ミズキ。及川さんじゃなくて、ミズキって呼んで」
「…………」
ミズキの発言にカナコは再び黙り込む。だがそれは先ほどまでの気まずい沈黙ではなく、どこか気恥かしさを感じる間だった。
「………………ミズキ」
ためらいながら自分の名前を呼ぶカナコの表情は、どこにでも居る十六歳の少女のそれだった。彼女の不安――それは自分との距離感だろう。どこまで踏み込んでいいのか判らない。目には見えない心の距離。
それを縮める方法をミズキは知っている。
お互いを名前で呼ぶ事。
最初はそれだけでいいと思う。
まず踏み込んでみて、それからお互いに安心出来る距離を知っていけばいい。
最初の一歩を――傷付くことを恐れていたら、多分、何も始められないし、始まらない
傷付いてもいい。
傷付けられてもいい。
きっとそこから、すべてが始まるから。
「うん! なに?」
ミズキは笑顔でうなずく。
カナコが踏み込んでくれたのが、ただ嬉しくて。
† † †
カナコは気恥かしさでいっぱいだった。
ただミズキの名前を呼ぶだけで、気力を使い果たしてしまった気がする。
この雰囲気で自虐的な発言など、無粋(ぶすい)なだけだろう。
だから、
「……なんでもないわ」
と、自分のネガティブな思考と共に、くだらない言葉を切り捨てた。
「えー、なんでも訊いていいんだよ?」
ミズキが不満げに言う。だが気を悪くした様子はない。
それに安心する。この空気を壊さずに済んだ。
(――ミズキ)
胸中で呟く。
不思議な響きだ。
名前そのものに意味があるのか、その名を冠する少女の存在によるものなのか。どちらにせよ、カナコにはその名が心地良く思えた。
自分の名前はどうだろう?
カナコ。
自分の存在を表す名前。
(私の名前――)
――呼んで欲しい。
(私も。ミズキに)
――名前を呼んで。
(そしたら、きっと)
きっと――
「――神宮寺さん」
ミズキの声に、はっとして視線を移す。
「……なに?」
努めて平静を装う。
しかしそれも徒労に終わる。
「あのね……あたしも神宮寺さんの事、名前で呼んでいい?」
心を読まれた気がした。
恥ずかしさで死にたくなった。
思考回路が働かない。
だから――
「…………好きに呼べばいいわ――」
それだけ言うのが精一杯だった。
空になったコーヒーカップに一度視線を落として、窺う様にミズキに戻す。
彼女の表情は喜色に染まっていた。
笑みを浮かべてカナコを見ている。
そして、その唇が言葉を紡(つむ)ぐ。
「うん! ありがとう――カナコ!」
ミズキの言葉がゆっくりとカナコの心に浸透していく。
胸がいっぱいになる。
思考回路が麻痺する。
顔が熱くなっていくのが止められない。
名前を呼ばれただけなのに。
ただそれだけの事なのに……。