その男は気が付いたら目の前にいた。俺が目を覚ました時、俺をずっと待ちかまえていたかのように、その男はそこに存在していた。
この男には何をしても敵わない、服従するしかないと感じた。それはまさに獣の弱肉強食の世界における生存の本能によるものだった。自分の生殺与奪はこの男が握っていると俺は悟っていた。
「お前は生きたいか?」
その男は俺に問う。俺にとってそれは予想外だった。てっきり俺の生死は全てこの男が決めるものだと思っていたからだ。男に問われて俺は考えた。
そして俺はうなずいた。生きて何かしたいわけではないが、死んでしまうのは本能が拒否したからだ。
「ならばついてこい」
そう言って男は歩きだしていく。俺も後を追いかける。この辺りの記憶は曖昧で、周りが騒がしかったような気がするが、その当時の俺の目にはあの男の姿しか写らなかった。
その後俺はその男にただ従い、その場を離れ、どこか知らない場所へ連れて来られた。しばらく俺はその男に与えられる命令をただ実行するだけの人間として生き続けた。その時の俺は十歳くらいだったと思う。
「お前は今日から『洲道裕一』と名乗れ」
「……分かった」
それは自分という存在について、とても重要なことだったが、俺はただその言葉に従った。反抗することに何の意味も見出せなかったからだ。
しばらくすると勉強道具を渡されて、初等教育を受けることになった。字を読むことはできたため、分からないことは自分で調べて解決した。それでも分からなければ男に聞いた。その行動も学びたいではなく、男に命令されたからしただけであった。
ある日、男は俺に言った。
「お前は今、ただ私の命令に従っているだけだ。それでは生きているとは言えない」
そんなことを言われても俺にどうしろというのか。
「お前には今、余裕がある。自身の危機というものに直面しないゆえに、ただ流されるままに私の命令に従おうとする。……つまりはこうだ」
その瞬間、俺は頭のこめかみのところを殴られ、今まで感じたことのない痛みを感じた。思わず自分に危害を加える男から離れようとする。しかし、すぐに回り込まれてしまった。
「お前は私に殴られて今は痛みを感じている。どんな人間でも、痛みを感じたら本能的にそれを回避しようとする。今おまえが私に従おうとしても、待っているのは痛みだけだ」
冗談ではない。痛いのはごめんだ。俺は逃げようとするが、男はそれを許してくれない。
「お前は逃げることはできない。ならばどうする?」
俺は逃げられない。しかしこのままだと痛い思いをし続ける。
ならばどうする? ――――痛みを感じないようにすればいいのではないか?
痛みをなくすにはどうすればいいのだろうか? 自分が痛みを感じてしまう感情というものを無くしてしまえばいいのだろうか? それこそ自分をただの機械のように空っぽな存在になればいいのではないか? 俺はこの男の命令に従ってきた。これからもそうすればいい。むしろ自分なんて存在は邪魔なんだ。俺は必死に自分という存在をなくそうとイメージしてみた。
「うぐっ!?」
その瞬間、俺の心臓は大きくはねた。その心臓の大きな鼓動は逆に自分の存在を確かなものにしていった。
(なんで邪魔をするんだよ……俺の心臓は俺自身を消すなって言いたいのかよ……?)
そう考えた瞬間、俺の中に今まで感じたことのない感情が芽生えるのが分かった。それは生きて幸せを掴みたいという想いだった。今まで知らなかった感情だが、唐突にそれを理解できた。その感情を得た俺は立ち上がり、目の前の男を睨みつける。この男は今俺に危害を及ぼそうとする。逃げられないし、自分を消すなんてことも、もはやできない。いや、したくない。
ならばどうする? ――――闘うしかないじゃないか……!!
俺は構える。型も何もないが、それでもあの男と闘う姿勢だけは崩さない。先ほどとは違い、俺は『希望』を持って男と対峙していた。
「そうだ。それでいい」
そう言って男は突然構えを解いた。いきなりの男の変化に俺は戸惑う。
「お前は今、自分の意志で闘うことを選択した。その想い、決意を忘れるな」
そう言って男は部屋を出ていった。とりあえず危機は去ったようだ。
「闘うしかない状況を作ったのは、あんただろうが……」
俺はそう愚痴をこぼした。
それからはあの男は俺を鍛え始めた。格闘技とは違う、純粋な闘いのやり方というものを徹底的にたたき込まれた。その時も俺は従っていたが、今までと違い、時には反抗もした。今思うと、あれが今の洲道裕一の始まりだったような気がする。
あの男に鍛えられ、勉強を続ける日がおよそ三年近く続いた。その間、俺にはまともな話し相手はあの男しかいなかった。あまり外出もさせてもらえなかったのだ。
「なあー、あんたはもう少し場を楽しくしようとする努力をする気はないのかよ?」
「…………」
無言で返された。寂しさで死んじゃいそうだよ。
「あんた、そんなんじゃ恋人どころか友達いないまま一生終わっちゃうよ? それって寂しくない?」
「…………」
また無言のままだ。無視され続けることにだんだん腹が立ってきた。俺は男に近づきおもむろにわきをくすぐってみた。
「こちょこちょこちょ~ほら、笑えよベジ……ぐばはぁっ!!!?」
その瞬間すさまじい勢いで拳が腹に減り込み、俺は気絶してしまった。
こんな感じで俺とあの男の日常は続いたのだった。
「――――そして俺が中学生くらいの年齢になったとき、あの男は唐突に言ったんだ。学校へ行けってな。学校は勉強するだけじゃなく、友達と楽しくやる場であることは知っていたから、その命令に従ったよ」
「…………」
「この見滝原を選んだのはただの勘。その後は学校の手続きや家の手配をしてくれたよ。……食費は自分で稼げって言われたけど」
あれは社会の厳しさを学べって意味だったのかな? 単なる育児放棄とも思えるけど。
「……だから、バイトを始めたってことか?」
「そうじゃなきゃ生きていけないからな。一年の頃はバイトばっかりで友達と遊ぶ暇がなくて孤立しかけたよ。そんな時に出会ったのが恭介達だった」
あの時の嬉しさは今も覚えている。だからこそ、自分の目に写る他人に手を差し伸べたいと思えるようになったんだ。
「杏子。俺は自分を犠牲にして人助けをしてるわけじゃない。マミさん達だって自分の思いを持って闘っているんだ。……きっと、そこにお前との違いはないんだよ」
「…………」
杏子はそれきり黙ってしまった。
(考えてみると……初めてあの男に危害を加えられた時からだったかな……アイツの夢を見始めたのは)
あの時、俺の中で新たな感情が芽生えた。それが今の洲道裕一の心の根幹の一つになっているように思う。そしてその時からアイツ、ワルプルギスの夜が夢に出てくるようになり、自分以外のなにかがアイツを求めるようになった。
(そして……あの男、桐竹宗厳は魔女のことを知っていた)
あの男は何を知っているのだろうか? 俺の持つ力や、夢のことも何もかもを知っているのだろうか? 分からないが、今分かっていることは、俺は逃げられないということだ。
逃げられないなら、どうする? ――――闘うしかないじゃないか……!
そう、俺は闘う。自分のために、自分自身と、目に写る他人を守る。今の俺の『日常』を守って行くのだ。その中にこそ、きっと……
『お前にはあるのか? 私に刃向ってまで貫き通したい願いがあるというのか?』
あの男の言葉を思い出す。無意識に拳を握りしめていた。
(俺は見つけてやるよ。たとえ何者であろうとも邪魔されたくない、俺だけの願いを必ず見つけてやる……!!)
というわけで、裕一の過去でした。分かりにくい描写がいくつかありましたが、裕一がそうなったのには理由があります。いずれそのことも明かしていきたいと思います