入室してきた職員の男性が、ざっと室内を見回す。その視線が、とある一席に目を留めた。柘榴がその視線を追うと、柘榴の席の正面にある『大瀬フューチャーコーポレーション』に与えられた席が空席となっている。チラリと柘榴が手元の腕時計に視線を落とせば、既に集合時刻は過ぎていた。
この場に現れなかったということは、依頼を受ける気がない、あるいは何らかのトラブルでこちらに来られなかったということだろう。
「本日集まってもらったのは他でもない。民警である諸君らに依頼があるためだ。なお、私は防衛省の人間ではあるが、これは防衛省からではなく政府からの依頼と考えてほしい」
予想はしていた。
この場に集められたのは、東京エリアの中でも高位序列者を所有する会社ばかりだ。零細企業である片桐民間警備会社を招集している辺りからも、ブランド力ではなく実力で選りすぐったことが窺える。
そこまでして実力者を呼び集めたからには、政府直々の依頼が飛び込んできてもおかしくはない。
問題は、政府が民警を動員する必要があると判断するレベルまで事態が進んでしまっていると捉えることができるということだ。
政府が裏で繋がっているとはいえ、彼らには自衛隊という国家的な戦力がある。面倒事が起きれば、彼らを使えばいいのだ。元々自衛隊と民警は仲が悪いということもあり、「民警に任せるくらいならば」と国家の有事には自衛隊が動く場合も多い。
そのセオリーを無視してまで民警という最終手段を取ったということは、つまり余程事態が切迫している可能性があるのだ。
それに加え――
「本件の依頼内容を説明する前に警告しておく。この依頼内容を聞いた場合、諸君らはもう依頼を断ることができない。これが政府からの依頼だということを踏まえ、事前に辞退しようという者はこの部屋を出て行ってほしい」
これである。
もはやこの依頼が凄まじく面倒なものであることは確定だ。チャチャっと解決できるような手頃な依頼ではないことは明らかである。そして政府からの強制力を持つ依頼ということは、即ちこの依頼が政府直々の“任務”であるということと同義だろう。
“これは厄介なことになったなぁ……帰りたい……”
沈黙が会議室を支配する中、柘榴は真剣にこの依頼を蹴るかどうか悩んだ。
現状、この仕事で動けるのは柘榴と心音だけだ。しかし心音はお世辞にもこの場の高位序列者たちと亘り合える戦闘能力は持っていない。言いたくはないが、彼女は元々在籍していた民間警備会社からドロップアウトしてきた身だ。例えそれがプロモーターの意向であろうとも、まだ半年程度しか仕事をしていない彼女を頼りにするのは現実的に厳しい。足並みが揃えにくいのだ。
つまり、この依頼は柘榴が一人で片付けることになる可能性が高い。
当然ながら柘榴一人でも仕事を回せる自信はあるが、柘榴には学校がある。学生生活を継続しつつ政府の依頼を一人で熟すと考えれば、想像以上に苦しい仕事となるだろう。そしてこれは断言できることだが、千崎は「頑張れ頑張れ超頑張れ」と言うばかりで絶対に仕事を手伝ってくれない。
“三姉妹は他のエリアに飛ばされているし、実験機組はまだ新装備の調整中で一ヶ月は仕事に出られない。心音は心許ないし、里津は……確かどこかの鉱山か。他はまともに“稼働”できる完成度ではない”
だが、ここで引けば周囲の民警たちに千崎技研が臆病風に吹かれたと捉えられかねない。リスクマネジメントや戦略的撤退と柘榴は言いたいが、こうも周囲の目があってはそれも苦しい言い訳と言われてしまうだろう。
あるいは、それを考慮してこのように一斉に顔を合わせる場を政府は作り出したのかもしれない。だとすれば相当に質の悪い依頼主だ。民警の性質を良くわかっている。
「最終確認である。この依頼を辞退する者は、速やかに退席してほしい」
退席者は――なかった。
柘榴を含め、誰一人として席を立つ者はいない。
「宜しい。では依頼内容の説明に入る。説明はこちらの方が行われるため、心して聞くように」
その言葉が終わるや否や、職員の背後のパネルの電源が入った。そしてそこに映し出されたのは、銀髪を靡かせた色白の少女。歳の頃は十代中盤だろうか。淡い色彩の服装を纏った彼女と、その背後に控える壮年の男性を目にした途端、柘榴は内心で悲鳴をあげながら立ち上がった。
ほぼ同時に、他の社長クラスの者たちも慌てて立ち上がる。
『ごきげんよう、皆さん』
その少女こそ、現東京エリアの統治者にして政府の代表者――三代目聖天子だ。
そして背後には、聖天子付補佐官として名を馳せる天童菊之丞の姿もある。世襲制である聖天子を政治的サポートする彼は、即ち東京エリアの政治を裏から牛耳る影の最高権力者だ。
東京エリアの二大トップが、映像越しとはいえ姿を現し直接依頼を説明する。これはもう、この依頼が国家レベルの重要度を持つと考えていいだろう。国家存亡の危機と言われてもおかしくはないほどだ。
“そのレベルの依頼を私一人で片付けるとか……いや、無理だと思う”
早くも柘榴は「やっぱり帰ります」と踵を返したくなっていた。しかし社名を背負った身としては、ここで退くわけにはいかない。
こうなればデスマーチを覚悟して、社長に直談判してでも特別手当と危険手当の割増を要求するしかないだろう。
柘榴はもはや半ば自棄になっていた。
『皆さん、楽にしてください。依頼の説明は私から行います』
当然ながら、誰も座ろうとしなかった。社交辞令ということを皆が理解しているということもあるが、聖天子の背後に佇む菊之丞の鋭い眼光がそれを許さなかったのだ。
『依頼の内容は、とてもシンプルなものです。民警の皆さんには、東京エリアに侵入し、昨日とうとう感染者を出した感染源ガストレアの排除。およびそのガストレアの体内に取り込まれていると思われるケースを無傷で回収していただきたいのです。くれぐれもケースに損傷を与えないよう、充分に注意してください。以上です』
聖天子の言葉が終わると、パネルの端に件のケースと同じ型だと思われるケースの映像が映し出される。それと同時に、達成報酬の金額が提示された。
その莫大な金額に一同がざわめく。どう考えても桁がおかしい。ガストレア一体の討伐に出す金額ではない。想定外の数字に、柘榴の後ろに控える心音は震える声で柘榴に問いかけた。
「ざ、柘榴ちゃん……ぜ、ゼロが九つあるよ……!? それってつまり……!」
「……十億円ということですね」
「じゅうおくえん!?」
「諭吉さんが十万人分です」
「じゅうまん!?」
素っ頓狂な声をあげる心音だが、この場にいる全員が彼女と同じ心境のはずだ。
この時期に東京エリアに侵入しているガストレアなど、彼らが知る限りでは一体しかいない。先日、感染者を一人出し、今でも民警たちが血眼になって探しているガストレアに違いないだろう。そんな放っておけば誰かが斃してしまうであろうガストレアに対し、政府が過剰なほどの報酬を出すなど前代未聞だ。
そしてその絡繰りの要は、間違いなくあの銀色に輝くケースだろう。
そんなざわめきの中、会議室の一人が静かに手を挙げる。伊熊将監の雇い主である三ヶ島影似だ
「聖天子様、質問をしてもよろしいでしょうか」
『あなたは……確か三ヶ島ロイヤルガーダーの三ヶ島社長でしたね。構いません、答えられる範囲ならば』
「では、取り込まれているとはどういう意味でしょうか? そのケースはガストレアが飲み込んだ、あるいは形象崩壊の際に巻き込まれてしまい体内に残っているという認識で良いのですか?」
『その通りです。我々の推測では、件のガストレアの体内にケースがあると睨んでいます』
「……なるほど」
三ヶ島の質問で、この場の人間の大半はその意味を正しく理解した。
通常、モノリスの結界の内側にいれば人間がガストレア化する機会は殆どない。だというのに政府が重要視するほどのものが形象崩壊に巻き込まれたということは、そのケースは
もちろん、普通にガストレアがケースを誤って飲み込んでしまっただけの可能性もある。だが、それでは結界内に偶然侵入してきたガストレアが、タイミング悪く政府関係者を襲ったということになってしまう。そのような犠牲者が出たという話は民警側に上がってきていないし、偶然としては出来すぎている。
恐らく、筋書きとしてはこうだ。とある政府の人間が、未踏査領域に存在する“何か”を結界内に運び込もうとした。しかし運悪くその運び人はガストレアウィルスに感染し、結界内に死にもの狂いで帰還した直後にガストレア化。そしてその人物が運んできたものを収めていたケースが、形象崩壊に巻き込まれてガストレアとともに行方知れずとなった。そんなところだろう。
恐らく、当たらずとも遠からずではないかと柘榴は予想していた。
“つまりケースを奪取するには、誰よりも先んじてガストレアを仕留めなければならないということ……”
この依頼で重要なのは、個々の戦闘能力ではなく組織としての索敵能力だ。
ガストレアの一匹や二匹、この場の高位序列者にとっては殺すことなど造作もない。それこそステージⅣでもなければ相手にならないだろうが、話を聞く限り件のガストレアは生まれたばかりのステージⅠ。雑魚中の雑魚だ。鎧袖一触と言っても過言ではない。
ならば必要なのは、そのガストレアに関する情報である。柘榴と同じ結論に至ったらしい三ヶ島も、政府に対して情報を求める。
「では、感染源ガストレアの形状と種類、潜伏先、特徴、何でも構いません。我々に情報を提供していただきたい」
『残念ながら、詳しい情報は殆どが不明です。しかし、我々はステージⅠガストレアではないかと、そう推測しています』
「……その根拠は?」
『ノーコメントです』
その言葉に、民警の一同が息を呑む。
直接的ではないが、聖天子は柘榴を初めとした民警たちの推測が当たっていることを肯定した。恐らくは、ケースの保護への一層の慎重さを促すための間接的な忠告だ。
一体、ケースの中には何が入っているのか。柘榴もそれが気にならないと言えば嘘になるが、しかし依頼に深くまで踏み込まない主義の柘榴はあえてそれを問う真似はしない。薮を突いて蛇を出せば、余計な仕事が増えるだけだ。
尤も、そうでもない人間もいたようだが。
「ケースの中身、お聞きしても宜しいでしょうか?」
モニター越しの聖天子や菊之丞を含め、一同の視線が一ヶ所に集まる。その質問を発したのは、先程将監に絡まれていた学生二人組の片割れの少女だった。
『あなたは?』
「天童民間警備会社社長、天童木更と申します」
『……“天童”?』
聖天子の視線が、一瞬だが背後の菊之丞へと向けられる。それに対し、当の菊之丞は平然と黙り込んだままだ。
それで何かを察したのか、聖天子は元の事務的な態度へと戻る。
『お噂は聞いております、天童社長。ですが、ケースの中身は依頼人のプライバシーの問題が関わりますので、お答えすることはできません』
「納得がいきませんね。感染者は感染源となったガストレアの遺伝子モデルとなるのが常識。つまり感染源ガストレアがモデル・スパイダーなのは確実です。そしてそのガストレアは、東京エリア中の民警が挙って狩ろうとしている恰好の獲物。放置しておけばすぐにでも討ち取られるガストレアを、なぜ政府が直々に、それも破格の報酬を出してまで高位序列者を保有するお歴々方に依頼するのでしょうか」
“おいやめろ”
柘榴は表情こそ動かさないものの、内心では悲鳴をあげていた。
常識的に考えて、それは知る必要のないことである。ケースの中身について危険性を感じるのは当然のことであるが、それを聞き出すのは柘榴にとって余計なことだった。
柘榴は静かに仕事を終わらせたいのだ。面倒事は政府に押し付けてしまえばいい。事後処理や対応策を練るのは聖天子や菊之丞たちの仕事だ。一民警である柘榴たちがそれを知っても、良いことなど殆どない。精々が政府の弱みを握れるということくらいだが、そんなことをしても政府から目を付けられるだけだ。柘榴の人生には必要ない。
「もしも政府が手札を伏せたままというのならば、弊社はこの件より手を引かせていただきます。不確定な危険要素を孕んだまま社員を戦場に送り出すなど、私の社長としての流儀に反しますので」
『……ここで席を立つとペナルティが課せられますよ?』
「承知の上です。社員を守るためならなば、私は甘んじてそれを受けましょう」
その堂々とした佇まいに、柘榴は今までとは一転して内心で拍手を送っていた。木更の背後に控える少年も、尊敬の眼差しで彼女を見ている。
千崎には彼女の爪の垢を煎じて飲ませてやりたいものだ。不確定な危険があろうと「成せば成るから大丈夫ケースバイケース」とだけ言って戦場に柘榴を投入する千崎とは月と鼈の差だ。同じ社長業を営む人間とは思えない。
名前を聞いたことがないためそこまでの大手ではないのだろうが、例え零細だろうと柘榴はそういう会社に入社したかった。
色々な意味で現実逃避をしていた柘榴は、自身の状況を顧みて小さく溜め息をついた。社長が碌でなしなのも、仕事が辛いのも、こんなものが絡んでくる依頼に関わってしまったのも、全ては柘榴の運が最悪だということの証明だろう。己の悪運に、ほとほと柘榴は嫌気が差す。
――そして、まさにその時だった。
木更の言葉を讃えるような拍手が響き渡り、会議室にけたたましい哄笑が木霊する。それは男の笑い声だった。
場にそぐわぬその行動に、モニターに映る聖天子が顔を顰める。
『誰です』
「私だ」
“お前だったのか”
意味のない言葉を内心で呟きながら、柘榴は再び現実逃避した。
その声に、場の視線が一瞬で集まる。そしてそれを見た者たちは、一様にぎょっとすることとなった。
その人物は、一言で言い表すのならば“怪人”という表現が当てはまるだろう。ワインレッドの燕尾服に身を包み、頭にはシルクハットを乗せた男性が、空席だったはずの大瀬フューチャーコーポレーションの席に足を投げ出して着席していた。深く被っていたシルクハットの鐔を白い手袋を付けた手で押し上げると、その下からは笑顔を模したシンプルかつ不気味なデザインの仮面が姿を現す。
その珍妙な出で立ちに、柘榴は思わず頭を抱えた。
もう駄目だ。今までは仕事の疲れによって生じた幻覚だと思って無視していたが、周りの人間にまで見えるということはどうやらこれは現実らしい。そして微かに漂う血の臭い。どう考えても、もうこの依頼は尋常なものではなくなってしまった。ただガストレアを駆除して「はい、お終い」では済まないだろう。
「あ、あの人、いつの間に……!」
戦慄する心音に、柘榴は改めて溜め息を一つ。
「扉から堂々と入ってきましたよ。足音も気配も消していたようですけど。っていうか、そこに気付かなかったとしても正面の席に座られたら普通に気付くでしょう」
そう、柘榴は仮面の男が入室してきた時からその存在に気付いていた。
最初こそ「遅れてきた大瀬の人だろうか」と首を傾げていたのだが、その格好に誰もツッコまないため自分にだけ見える妖精さんか何かなのではないかと心配していたのだ。途中からは聖天子たちのやり取りに忍び笑いさえしていたため、柘榴は「ちょっと疲れているのかな」と自分の精神状態を疑っていたほどである。絶対に目を合わせないようにモニターに視線を向けてこそいたが、ついに笑い出した時には思わず「仕事休もうかな」と休暇の申請を決意しかけた。
「いよっと」
軽快な掛け声とともに、男が卓の上に土足で立ち上がる。その背丈は190センチはあるだろう細身の長身で、ただでさえ卓の上に立たれては柘榴では首が痛くなるほど見上げなければ顔を視界に留めていられない。
『何者ですか。名乗りなさい』
「これは失礼、挨拶が遅れたね。お初にお目にかかる、無能な国家元首殿」
初っ端から飛ばした挨拶である。
しかし言葉とは裏腹に、丁寧に被っていた帽子を取ると彼は優雅な動作で恭しく頭を下げた。
「私は蛭子――蛭子影胤。立場を端的に言うとすれば、君たちの敵だ」
その宣言を聞き、柘榴は心底「帰って寝たい」と思った。
◆
“敵”――その言葉に、呆気に取られていた民警一同が殺気を纏い始める。敵を目前にした民警にとっては、既にこの場は戦場だ。いつ誰が銃弾を放っても不思議ではない。
一触即発となった状況に、心音は荷物をその場に捨てて油断なく身構えた。一方、柘榴は相変わらずの冷め切った表情で推移を見守っている。
「お、お前はッ……!」
影胤に向けて、一つの銃口が向けられる。天童民間警備会社の少年だった。拳銃――スプリングフィールドXDを両手で構えた彼は、震える手で影胤に狙いを定めていた。
「やぁやぁ、里見蓮太郎くん。元気だったかね、我が新しき友よ」
二人の言動から、どうやら顔見知りらしいということを心音は察した。しかし出会い頭に銃を向けたことから、どうも友好的な関係ではなさそうだが。
「どこから入ってきやがった!」
「正面から、堂々と。尤も、邪魔な小蠅は道すがら殺させてしまったがね。おおそうだ、丁度良いタイミング。君たちに私のイニシエーターを紹介しよう」
影胤がパチリと指を鳴らすと、民警たちの間を少女が歩き去っていく。
癖のある黒いショートヘアーの少女だった。黒いフリル付きの可愛らしいワンピースを纏う彼女は、床から卓上の影胤の下へと一足飛びで移動する。尋常な子供では持ち得ない、『呪われた子供たち』特有の身体能力だ。腰の後ろに抜き身のまま差された黒い刀は、バラニウム製の小太刀だろう。
スカートの端を摘んで聖天子にお辞儀をして見せた彼女は、簡潔な自己紹介をする。
「蛭子小比奈、十歳」
「私のイニシエーターにして、娘だ」
「イニシエーター、だと?」
イニシエーターとわざわざ名乗るからには、この男も民警の資格者なのだろうか。だとすれば、IISOに照会させればこの男が何者なのかわかるかもしれない。
そんなことを心音が考えていると、眠たげな目をした小比奈がグルリと周囲を見回す。その視線に一瞬晒されただけで、心音は背筋が粟立つ感覚を覚えた。
「パパ、皆こっちを見てるよ。恥ずかしい、斬っていい?」
「よしよし、まだ駄目だ」
「うぅ、パパぁ」
どうやらこの親にしてこの子あり、といったところのようだ。親子揃って掃討に頭の螺子が外れている。どうやら想像以上に危ないペアらしい。
「さて、今日はほんの挨拶に来たのさ。同じレースに挑むのだから、エントリーの申請くらいしなければならないと思ってね」
「レースだと? 何の話だ!」
「『七星の遺産』を巡るレースのことだ、里見くん。そこの無能で秘密主義な国家元首殿は言いたくなかったようだがね」
『七星の遺産』という謎の言葉が出た瞬間、聖天子の顔色が変わった。しかしすぐに観念したかのように瞳を閉じる。
愉快そうに語る影胤によれば、彼は感染者が出た現場にも姿を現していたらしい。蓮太郎と呼ばれる少年と邂逅したのも、どうやらそこでのようだ。どうやら影胤はこの依頼が来る前から、感染源ガストレア――正確には内部にあるケースに収められた『七星の遺産』とやらを探し求めていたのだとか。
「諸君ッ、ルールの確認だ! 私とキミたち、どちらが先にガストレアの体内にある『七星の遺産』を手に入れられるか。掛け金は……君たちの命でいかがかな?」
実に挑発的な言葉だった。
この多勢に無勢の状況で、向かってくる者は殺すと宣言したのだ。しかし影胤に臆する様子は微塵もない。彼は本気で、この人数差を自分と小比奈の二人だけで覆せると思っているのだ。
そうとなればそれは余程の馬鹿なのか、あるいは――
「……うるせぇんだよ」
轟音が会議室に響き渡る。それは漆黒のバスタードソードが床に叩き付けられた音だった。
荒々しい一歩を踏み出したのは先程蓮太郎に絡んできた高位序列者の一人、伊熊将監だ。殺気を纏ったその巨体が、卓上の影胤へと一気に間合いを詰める。
「テメェが死ねば全部解決だろうがァ!」
紫電一閃――陽光をギラリと反射した漆黒のバスタードソードが、影胤を両断せんと大気を斬り裂く。もはや逃れようのない必殺の一撃。腕で受け止めれば腕ごと胴体が千切れるであろう、速度と膂力を併せ持った驚異の必殺剣。
しかしその剣は、影胤に届くことなく高音を響かせながら将監の手元から弾き飛ばされた。
「なッ!?」と将監が驚愕を顕にする。影胤と将監の間には、依然として何もない。だが将監は感覚的に理解した。この数歩分の間合いの中に、見えない“何か”があるのだ。それによって、将監の一撃は防御された。
ならば――
「夏世ォ!」
「わかっています」
――力尽くでぶち破るのみ。
将監の思考を正確に読み取った相棒が、瞳を赤く輝かせる。その場で跳躍し、壁を足場に三角飛びをした夏世は、天井近くまで弾き飛ばされたバスタードソードの軌跡へと回り込んだ。
そして空中で一旦力を溜めた夏世が、全力の蹴りをバスタードソードの柄に叩き込む。これによって軌道を変えられた剣が、まるで杭のように影胤へとまっすぐに舞い戻る。『呪われた子供たち』の脚力は尋常なものではない。それを食らえば、人体など一瞬で引き千切れるだろう。
だが、影胤はそれさえも失笑するだけだった。自分にとってはこの一撃にも先程の将監の一撃にも大した差はない――そう高らかに宣言するかのように、影胤は視線をそちらに向けるだけだ。
ならば、それが合わさったならばどうか。
「死にやがれ」
「ほうッ!?」
空中でバスタードソードの柄を掴んだ将監が、その運動エネルギーに自身の膂力を加えた突きを叩き込む。イニシエーターとプロモーター、その二人の力を見事に合わせた、神業めいた連携技。
高位序列者の位階に相応しい、卓越した連携だ。自分と英彦のペアでは逆立ちしても再現できないその絶技に、心音は思わず目を奪われる。影胤さえも、その連携に感嘆の声を漏らした。
だが――
「やるね。でも残念」
やはり影胤には届かない。
何もない空間に突き立った大剣の切っ先が、影胤の目前で停止している。その光景に、将監だけでなく民警たちは声すら出ない。
「下がれ、将監!」
三ヶ島の指示に、反射的に将監は全力で後退した。舌打ちこそ漏れるものの、その判断は迅速だった。
そしてそれに合わせるように、周囲の民警たちが一斉に抜銃する。蓮太郎や木更、三ヶ島、そして太腿のホルスターから二挺の拳銃を抜いた心音、その場の銃を持つ者たちが、挙って影胤に発砲を開始する。
部屋の中央に陣取った影胤は、必然的に360度全てに敵が布陣している。常識的に考えれば、もはや影胤に逃げる隙間は存在しない。
そう、常識的に考えれば。
「ヒヒヒッ」
不気味な笑い声とともに、淡くもハッキリとした青白い光が影胤から溢れ出す。
そして影胤を中心にドーム状に展開されたその光が、まるでバリアのように銃弾を受け止め、それに留まらず弾く。四方八方から放たれた銃弾は、その勢いを殺さぬまま室内を跳ね回った。
跳弾だ。弾き飛ばされた銃弾は周囲に飛び散り、窓硝子や調度品、果てには室内の誰かに直撃してしまう。
そしてそれは、心音と言えども例外ではない。
「あ……」
瞳を赤く発光させた心音には、自身に迫る複数の銃弾がハッキリと視えていた。しかし予想外の反撃を受けたため、銃を構えた姿勢から上手く動くことができない。
“うそ……”
迫る銃弾は、対ガストレア用のバラニウム弾だ。特徴的な黒い弾頭に、心音は即座にその危険性を理解する。
そして複数迫るその軌道の内の一つは、心音の額にまっすぐと飛来していた。他の数発も胴体に命中するだろうが、頭部へのバラニウムによる一撃は『呪われた子供たち』にとって最も致命的だ。
“し、死ぬ……ッ!”
唐突に訪れた死。その覚悟もできないまま、心音の額に銃弾は吸い込まれて――
「しっかりしなさい」
その直前、横から割り込んだアタッシュケースが銃弾を全て叩き落とす。
あまりにも呆気なく間近に迫った死の気配を追い払われたため、心音の思考が回復するのに僅かに時間がかかった。
「えっ、うぁ……」
見れば、心音が持ってきていたアタッシュケースを片手に佇む、瞳を赤く変色させた柘榴の姿があった。その身体には傷一つなく、それどころか服の損傷すら見られない。自身と柘榴のその隔絶した実力差に愕然とする一方、心音はショックによってヘナヘナとその場に座り込んでいた。
それと同時に心音は思う。これほど余裕がありながら、なぜ柘榴はあの二人と戦ってくれないのか。心音同様、柘榴も拳銃くらいはこの場に持ち込んでいるはずだ。だというのに、彼女は自分の銃に手を伸ばすことすらしていなかった。一斉射撃が始まっても、安全な位置に下がるだけで一切攻撃していない。気配を殺し、息を潜めて様子を窺っているだけだ。
もしや、怖気づいたのでは。そう心音が不安に思ってしまうほど、柘榴は全く動く気配を見せない。
「怪我はありますか?」
心音からふいっと視線を逸らした柘榴は、影胤たちを見つめながら問いかける。その瞳は、終始影胤と小比奈をジッと観察していた。こちらを見ていないということがわかっていながらも、心音は何度も頷くことしかできなかった。
それに対して振り返ることもなく、柘榴はこの場の惨状にその赤い瞳を滑らせる。影胤が放った攻防一体の謎の現象に、民警たちは一瞬で半数以上が撃破されてしまった。
「……バリア、だとッ!?」
驚愕する蓮太郎に、影胤は愉快そうに身を捩った。
「ヒヒヒッ、正確には斥力フィールドだ。私は『イマジナリー・ギミック』と呼称している」
「貴様……本当に人間か……!?」
「もちろんだとも。ただしこの現象を発生させるため、内臓の殆どをバラニウムの機械に詰め替えているがね」
「……馬鹿な」
影胤のその信じられない発言に、「斥力だと!?」と周囲はどよめく。その威力を肌で体験した心音に至っては、その恐ろしさに薄っすらと涙を浮かべていた。
絶望が会議室を支配する中、影胤は高らかに宣言する。
「改めて名乗ろう。私は元陸上自衛隊東部方面隊第七八七機械化特殊部隊『新人類創造計画』蛭子影胤だ」
『新人類創造計画』――それはもはや、都市伝説で扱われるレベルの眉唾な計画だった。
曰く、自衛隊には身体を機械化することで、人間でありながらガストレアと戦える兵士を造り出そうという計画が存在していた。しかし『呪われた子供たち』が現れたことで計画はその必要性を失い、部隊は政府によって闇に葬られたという話である。
影胤の驚くべき名乗りに、三ヶ島は思わず頭を振った。
「機械化特殊部隊だと!? そんなもの、実在するわけが……!」
「信じるか信じないかは君たち次第さ。さて、挨拶も済んだ。本日はこれでお暇しよう。おおっと! そういえば今日は土産を持ってきていたのだった。楽しくてすっかり忘れていたよ。私から君へのプレゼントだ」
唐突に蓮太郎に向き直った影胤は、自分の右手に白いハンカチを被せてみせた。何事かと蓮太郎が息を呑むと同時に、影胤が左手でハンカチを取り払う。そこには、まるで手品のように一瞬前までなかったプレゼントボックスが乗っていた。
「絶望したまえ、諸君。滅亡の日は近い」
舞台上の役者のように謳い文句を述べた影胤は、包装されたその箱を卓上に置く。そして小比奈を伴ってゆっくりと踵を返すと、怪我で蹲る民警たちになど目もくれずに悠然と窓に歩み寄っていった。
そう、踵を返してしまったのだ。
「要は神羅天征ですね、把握」
すぐ近くにいる心音がようやく聞き取れるような小さな声で、柘榴が何事かを呟く。
次の瞬間、黒い暴風が吹き荒れた。
次回はバリバリ戦闘するぞッ!
本当は今回で戦闘に突入させたかったのですけどね。