ブラック・ブレット ――漆黒の民警――   作:てんびん座

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第十話

「なるほど、延珠さんの正体が学校に……」

 

 口元を手で覆った柘榴は、神妙な空気を纏いながら小さく呟いた。豪奢でありながら退廃的な衣装に身を包んだ彼女が鋭い雰囲気を纏うことでその神妙さは色濃くなり、その姿はさながら深窓の令嬢かと思われるほどに厳かだ。

 それもそのはず、事態はとても深刻だった。

 蓮太郎の必死の弁明によれば、どうやら延珠が『呪われた子供たち』であるという噂が――蓮太郎が言うには恐らく影胤の手によって――学校に広まってしまったらしい。延珠は意固地にでもなったのかそれを否定せず、そのまま学校を早退して姿を晦ましているのだとか。

 蓮太郎が延珠を心配するのも無理はない。その真剣な気持ちに対し、柘榴もそれに応えようと思考を巡らせていた。

 ともすれば自分が会話をすることすらも烏滸がましいと普段の蓮太郎ならば錯覚してもおかしくない荘厳な光景である。だが、生憎今の蓮太郎はそのような幻覚に囚われるほど平静な状態ではなかった。

 

「確かにこれは由々しき事態ですね、蓮太郎さん」

「ああ、全くだぜ。ついでに言うなら、お前のおかげで俺の顔も由々しきことになっているけどなッ!」

 

 顔面を痣だらけにした蓮太郎がそこにいた。

 この痣はつい今しがた柘榴の容赦ない拳の雨によって作り出されたものだ。両腕を脚で押さえ付けられマウントポジションを取られてしまえば、いかに天童流戦闘術に覚えのある蓮太郎であっても一方的な蹂躙を回避することは難しいと言わざるを得ない。

 そんな蓮太郎にできたのは、生ゴミを見るような目でこちらを見下ろす柘榴に対し弁解の言葉を並べることだけだった。ちなみにそれが柘榴に通じるまでに8発も殴られた。

 

「ったく、マジで痛ぇぞこの野郎。普通、居候先の家主を殴るかよ?」

「それに関しては自業自得です。あの時の蓮太郎さん、真剣に変態的でしたよ。不意討ちで気持ち悪い性癖を見せられた私の身にもなってください」

「ぐっ……!」

 

 非難の視線を向ける柘榴に蓮太郎は思わずたじろいだ。

 確かに思い返してみればあの時の自分は常軌を逸していた。延珠の持つ服を箪笥から引っ張り出している時点で変人の謗りを受けても仕方ないが、それらに包まっていたのは更にヤバい。認めたくはないが、これはハッキリと異常だ。もしも他人が同じことをしていれば間違いなく自分も引く。

 だが、やはり認めたくはなかった。それを認めてしまえば蓮太郎の中の大切な何かが崩壊してしまう気がした。

 

「あ、あれはだな……そう、誤解なんだ! た、確かにちょっと正気じゃなかったのは認めるぜ? でもよ、突然いなくなった相棒を心配するのは当然のことだろ!」

「その心配な相棒の服に包まってご就寝するのが当然なのですか。清々しいまでの変態ですね。本気でそう思っているのなら、常識と倫理を幼稚園から学び直すことをお勧めします」

「いや、だからそれは……」

「そもそも、異性の服に包まるという発想が変態ですね。しかも相手は小学生という点も実に変態的です。絶望的に陰湿な変態です。延珠さんの方がアプローチが直接的なだけまだ健全ですよ? 変態さん変態さんどうすればそのような変態さんになれるのですか教えてください変態さん」

「お、おい……やめろよ。そんな虚ろな目で俺を見るな……これは誤解なんだッ……!」

「全く、小学生は最高だぜ」

「ァァァぁぁあああああやめろぉぉぉッッッ俺は違うんだァァァッ!!」

 

 絶叫しながら頭を抱えて蹲る蓮太郎。まるで許しを請う罪人のようなその姿は哀れを通り越して惨めですらあった。

 そうして蓮太郎が光の絶えた目で呻くのを侮蔑の視線で一瞥すると、柘榴は変態から延珠の行方についてへと思考を切り替えた。達観した『呪われた子供たち』ならば「まぁ、こんなものか」と自嘲でもしながら割り切れるのだろうが、ここ数日の付き合いから鑑みるに延珠にもそうしろというのは酷な話だろう。

 仕事の関係で顔の広い柘榴だったが、意外なことに一般人に紛れて学校に行っている、あるいは行っていたイニシエーターには何人か心当たりがあった。かくいう柘榴もその一人だ。多くはプロモーターの善意やイニシエーターの意思によって就学しているが、当然ながらその中には正体を暴かれ退学に追い込まれてしまった者もいる。そんな少女たちの中には心に大きな傷を負ってしまい、人間不信を拗らせたりより内向的な性格へと変じてしまう者も少なくない。

 そんな中でも最悪なパターンが“自殺”である。学校から追い出された知り合いのイニシエーターがその三日後にプロモーターの下から姿を消し、次に見つかった時には蠅の餌となっていたという話を聞いたこともある。

 このように、学校関連の事件が原因で自殺してしまう少女の数は決して多くないが存在するのだ。延珠がその中の一人にならないとなぜ断言することができるのか。

 

“早まらないでよね”

 

 先程から延珠に電話やメールを試みているものの、電源が切られているのか全く反応がない。電源さえ入っていればGPSや基地局などから居場所を辿ることもできるが、通話のコール音すら鳴らないということは電源を落としているのだろう。

 あの溌剌とした少女に限って自ら命を絶つようなことはないと信じたいが……

 

「それで? これからどうするのですか」

 

 未だに呻いている蓮太郎に対し柘榴は行動を問う。それでようやく正気に戻ったらしい蓮太郎はハッと顔を上げた。

 

「……このまま待っていても、たぶん延珠は帰ってこない……と思う」

「はい」

「って言っても、あいつには行く当てなんてそうはないはず。……会社はないな。先生のところもたぶんない。となると……39区かッ」

 

 蓮太郎には延珠の行き先に心当たりがあるらしい。蓮太郎によれば、外周区に相当する39区は延珠が浮浪児をしていた頃に暮らしていた場所なのだとか。

 なるほど、そこならば確かに延珠がいる可能性も高いだろう。イニシエーターとしての生活などに耐えられなくなった『呪われた子供たち』が自分の故郷へと脱走してしまうことは、実はそう珍しいことではない。民警の間では俗に『出戻り』と呼ばれる程度には知られる傾向だ。

 見ず知らずの土地ではなく、良く見知った土地や同胞のいる故郷に戻ることで心の安寧を得ようとするのだろう。柘榴には経験のないことだが、千崎技研でもいないことはない。

 

「では探しに行くのですか?」

「決まってんだろ! 当てがないよりは千倍はマシだ!」

 

 そう叫ぶなり蓮太郎は立ち上がった。引き出しからガストレアウィルスの浸食抑制剤を掴み取ると、散乱した延珠の衣服もそのままに荒々しく玄関へと歩いていく。

 居ても立ってもいられないという言葉を全身で表現している蓮太郎は、しかし背後から素早く払われた柘榴の脚によって顔面を床に叩き付けられることとなったのだった。顔面へのまさかの追撃に、蓮太郎は堪えることもできず「ぐおぉぉ!?」と呻く。

 

「何しやがるッ!?」

「落ち着いてください。万が一、延珠さんが無事に帰ってきたらどうするつもりなのですか」

 

 呆れたような言葉を投げかける柘榴に、蓮太郎は本気で意味がわからないというように「あぁ?」と眉を寄せる。今度こそ本気で呆れた柘榴は盛大な溜め息をついた。

 

「まずは入れ違いにならないよう、室内の目立つところに伝言を残しましょう?」

「……それもそうだな。確かに。……クソッ」

 

 自分の気が回らなかったことに苛立ったらしい蓮太郎は、頭をガリガリと掻きながらメモにペンを走らせる。それを冷蔵庫に磁石で張り付けた頃には幾分か落ち着いたのか、財布の中身や携帯電話などを確認し始める。

 その間に柘榴も仕事用の携帯電話を開き、千崎と心音に手早くメールを送信――そして即座に二人から返信が来た。それを確認すると、柘榴は楽器のケースに収納された武器の一式と荷物を詰め込んだトランクケースを玄関の外に運び出す。

 その行動を怪訝に思ったのか、蓮太郎は「何してんだ?」と一言。

 

「会社の同僚に連絡したので、私の荷物はそちらが回収してくれます。余計な荷物を持ったまま延珠さんを探しに行くのは手間なので」

「……お前も来んのかよ」

「何か問題でも?」

 

 目を剥く蓮太郎に、逆に柘榴が驚いた。しかし声音には不機嫌そうな色が出ていたらしく、蓮太郎は慌てて訂正した。

 曰く、居候とはいえ赤の他人である柘榴がそこまでしてくれるとは思わなかったらしい。なるほど、確かに蓮太郎の言うことも尤もかもしれない。というよりも冷静になってみれば、なぜ自分は平然と延珠を探しに行こうとしていたのか。謎だ。知らぬ間に情でもわいたか。

 

「まぁ、乗りかかった船です。私が蛭子影胤をあそこで討てていれば今回の件は防ぐことができていたかもしれないことですしね。若干の責任のようなものは感じています」

「お前んトコのプロモーターは何も言わないのか? ここに居候すんのは蛭子影胤が目的だったからだろ。これ以上ここで油売っててもいいのかよ」

「『ガストレアの情報が来るまでは好きにしろ』という旨の返事は戴いています。良くも悪くも放任主義なのですよ、ウチの会社は。用がなければ連絡すらありません。逆に連絡が来れば出動を拒否することはできませんが、それまでは自由にするというだけです」

「……オーケー、わかった。なら好きにしろ」

「どうも」

 

 そうと決まった後の行動は速かった。

 家を出た足でまっすぐと駅へ向かった柘榴と蓮太郎は、そのまま39区方面へと向かう電車へと乗り込む。外周区の方向へ向かう電車ともなると流石に人影は疎らで、その人影も終点に近づくにつれて明らかにその数を減らしていった。最終的に終点でプラットホームに足を付けたのは柘榴と蓮太郎のみというほどだ。

 駅を出た二人の足は外周区へと向けられる。それにつれて、ただでさえ少なかった人の姿は更にその数を減らしていった。

 外周区とは即ち、ガストレアの領域と人間の領域の境界線だ。当然ながら結界の外部からガストレアが襲来した際、連中は外周区に足を踏み入れることとなる。そのような場所に住みたいというような物好きなどそうはいない。

 だというのに、外周区に足を踏み入れてからも柘榴と蓮太郎に向けられる視線は数を減らすことはなかった。恐らくはこの辺りに住む『呪われた子供たち』が見慣れぬ余所者である自分たちを警戒しているのだろう。

 

「……とりあえず来たのはいいのですが、これからどうします?」

 

 ポツリと柘榴が呟く。

 周囲に広がるのは荒廃した大地。倒壊した建物や住宅の残骸などが見渡す限り続いており、所々から雑草などの植物が顔を覗かせていた。中には得体の知れない色彩の草なども生えている。この土地の惨状は10年前のガストレアとの戦争によるものだ。外部から押し寄せるガストレアによって押し潰された戦場跡が、この外周区にはそのままの姿で残っている。

 それが一面に広がるこの土地の中から、何の手掛かりもなく延珠を探すのは流石に骨が折れるだろう。

 

「とりあえず、心当たりをいくつか回る。この辺にはマンホールチルドレンの根城がそこそこあってな。そこら辺の廃墟よりかは過ごしやすいってんで、『呪われた子供たち』が集まりやすい」

「なるほど」

「確か、この辺にも一つあったはずだ。まずは手始めにそこからだな」

 

 歩きながら視線を巡らせていた蓮太郎は、やがて一つのマンホールに視線を向けた。その傍にしゃがみ込みノックを三回。

 そしてしばらく待つと、マンホールの蓋の下で何かが動く気配がした。

 

「なぁにー?」

 

 蓋を内側から持ち上げて姿を現したのは、柘榴とそう歳の変わらないであろう少女だった。瞳を赤化させ、数十キロはするはずのマンホールの蓋を片手で持ち上げている時点で『呪われた子供たち』だということは一目瞭然だ。どうやら本当にマンホールチルドレンの『呪われた子供たち』らしい。

 

「民警だ。この子を探してるんだが……知らないか?」

 

 右手で民警のライセンスを見せながら、蓮太郎は空いた左手で延珠の姿が映る携帯電話の画面を少女に向ける。しばらくライセンスと携帯電話へと視線を行き来させた少女は「知りません」と一言。どうやら一件目はハズレらしい。

 

「一応、他の人にも聞いてみたいんだ。まだ中にいるだろ? 少し邪魔していいか?」

「じゃあ長老が居りますのでー。中でお待ちくださいのでー」

 

 それだけ言うと、少女は再びマンホールへと潜っていった。

 「長老?」と柘榴と蓮太郎は顔を見合わせたが、とりあえずと少女に続いて蓮太郎がマンホールへと降りていき、それに続いて柘榴がその後を追う。

 梯子を降りる途中、ふとここで蓮太郎が顔を上げたらスカートの中が丸見えだったと遅ればせながら気付いた柘榴。案の定蓮太郎が「足元に気を付けろよ」と顔を上げてきたため、スカートの中に目が行く前にブーツの裏を存分に見せてやったのは完全なる余談である。変態死すべし。慈悲はない。

 

「臭っせぇ……」

「…………」

 

 下水道に漂う噎せ返るような臭いに、地下に降り立った蓮太郎は思わずといった様子で鼻を押さえる。柘榴は鼻こそ押さえないものの、内心では蓮太郎の言葉に全面的に同意していた。夜中振りの下水道の臭いには流石にゲンナリとさせられる。せっかく服を着替えたというのにまた臭いが付いてしまいそうだ。次のマンホールに行く時は、外で待つだけにして中に入らないようにしようと密かに誓った。

 その時、暗がりの奥から一人の男性が姿を見せた。初老と思われるその男性は、杖を片手に柔和な笑みを浮かべて柘榴たちを出迎える。彼が長老なる人物だろうか。

 

「ようこそ、お若い民警さんとお嬢さん。長老の松崎です。ここで子供たちの面倒を見ています」

「民警の里見蓮太郎だ。こっちの黒いフリフリは金峰柘榴」

「…………」

 

 「適当すぎだろ」と思わなくはないが、ここはグッと我慢の子。柘榴もそのようなことで一々会話を途切れさせる気はない。

 

「見たところ、そちらの子も『呪われた子供たち』ですな。ということは、お二人は民警のペアということですか?」

「いや、こいつはただの付添だ。探してんのは俺のペアでな。こいつがここに来なかったか?」

 

 蓮太郎が画像を見せると、松崎は僅かに考え込むような動作をした後に「申し訳ない」と頭を下げた。どうやらここはハズレらしい。

 それがわかると同時に松崎への興味が失せた柘榴は、適当に周囲へと視線を巡らせた。まだ蓮太郎と松崎は何かを話しているが適当に聞き流す。

 観察して改めてわかったことだが、ここは下水道ではあるもののそれほど汚い印象はない。松崎が適度に手入れをしているのだろう、清潔とは口が裂けても言えないが不潔というほどでもないという程度には生活空間が整えられていた。この程度の衛生環境ならば『呪われた子供たち』にとってはないも同然。尤も、ハウスダストすらものともしない彼女たちにとって不潔さなど精神的な不快ささえ我慢すればどうということもないのだが。

 そしていかなる仕組みか気温も外より暖かいため、外の雨風を凌げるだけの廃墟よりかは数段勝る。人に見つかる心配も薄い。

 

“……まぁ、住めば都ってやつか”

 

 奥の暗がりに視線を向ければ、赤い瞳の少女たちがひそひそと小声で囁き合っていた。暗くてよく見えないため正確な人数はわからないが、かなりの人数がここで暮らしているらしい。10人程度では済まないだろう。恐らくは20人程度はいるはずだ。これほどの数の少女たちの生活を松崎はどのように養っているのだろうか。

 暇なので、何の気なしに人数を数えてみる。力を解放した柘榴の視界が一気に明るくなり、暗がりの先までも目が届くようになった。昼間のようというのは流石に過剰だが、夕暮れ時程度には明るさが修正される。

 

“1、2、3……21人。こんなにたくさんの『呪われた子供たち』を世話しているのか、この人も大変だな。…………おいちょっと待て”

 

 柘榴の目が見開かれる。下水道の奥を見通していた柘榴の赤い瞳が、少女たちの内の一人の姿を捉えたのだ。壁際に蹲るように座る彼女は、顔こそ膝に隠れて見えないがどこかで見たような髪型をしていて……

 

「延珠さ――」

「何も知らねぇくせに偉そうなこと言ってんじゃねぇよッ!!」

 

 柘榴の呟きは、唐突な蓮太郎の怒声によって掻き消された。

 

 

 ◆

 

 

 松崎と名乗る男性の話は蓮太郎にとって非常に感心させられるものだった。

 聞けば彼はこの下水道で多くの『呪われた子供たち』を育てているのだとか。いずれは社会に紛れて暮らすその時のために、一般常識や眼を赤化させないための感情制御の術を教えているらしい。

 

「『奪われた世代』にもアンタみたいな人がまだいたんだな。世間じゃ『呪われた子供たち』をガストレアと同一視するような輩が大多数だってのに」

「その気持ちもわからなくはありません。我々『奪われた世代』は文字通りガストレアに全てを奪い去られた。その恨みはそう簡単に消えるものではないでしょう。しかしガストレアウィルスによって命を侵された彼女たちは別の存在です。彼女たちもまたガストレアとの大戦を知らぬ『無垢の世代』――言うなれば最大の被害者でもあるのですよ」

「……アンタみたいな考えの人間が少しでも増えれば、世界はもっと『呪われた子供たち』にとって優しくなるんだろうけどな。実際の現実は非情だ」

「ええ、全く。ところで、私からも質問しても宜しいですかな?」

 

 柔和な笑みを浮かべていた松崎の声色が微かに冷たくなる。明らかに自分よりも小柄でひ弱そうなその老人の変化に、思わず蓮太郎は息を呑んだ。

 

「これは私の勝手な推測なので違うのならばそう仰ってくださって結構なのですが……もしや相棒に逃げられましたかな? それであなたは写真に写っていた彼女を連れ戻しに来たのでは?」

「いや、それは……」

 

 ピタリと自分の現状を言い当てた松崎に、蓮太郎は視線を泳がせた。確かにペアの行方を捜しに外周区を訪れるプロモーターとなれば、普通に考えればそのような結論に行き着くだろう。

 しかし会ってそう間もない人間からそれを言われるとなかなかに来るものがある。

 だが蓮太郎の動揺は続く。質問の答えを物語る蓮太郎の反応に、松崎は衝撃の言葉を言い放ったのだ。

 

「別に、その子である必要もないのでは?」

「……なに?」

 

 蓮太郎の脳内が俄かに熱くなる。剣呑な空気を纏う蓮太郎に、しかし松崎は臆することもなく淡々と語り続けた。

 

「ああいう子たちの面倒を見ていると自然に詳しくなってしまうのですがね。民警のあなたには釈迦に説法なのかもしれませんが、民警のペアが性格の不一致で解散することなど珍しくはないはずです。むしろ足並みの揃わないペアでは戦闘で死亡するリスクが高まります。ならばいっそのこと、これを機にIISOに連絡して新しいイニシエーターを選ぶのも選択肢の一つではないかと。規約によって序列は確かに下がりますが、あなたほどの若さならば挽回も難しくないはずだ」

 

 松崎の言葉は全て事実だった。現実問題、一度や二度の任務を共にした後、即座にペアを解消してしまうプロモーターは確かに存在する。自分に合った相棒を見つけようと、イニシエーターと契約しては解消しというサイクルを繰り返す者もいる。確かに仕事をする上で“使いやすい”イニシエーターを選ぶことは、プロモーターとしては何も間違っていない。

 だが、松崎のその言葉は蓮太郎にとって到底許容できるものではなかった。

 

「何も知らねぇくせに偉そうなこと言ってんじゃねぇよッ!!」

 

 意識が沸騰していた。理性の抑えが利かない。閉鎖された地下空間に、蓮太郎の怒声が木霊した。

 

「俺はッ、イニシエーターだから延珠を探しにきてんじゃねぇッ! 家族だから探しにきてんだ! それを物か何かみてぇに言われたかァねぇんだよ! 次に延珠を仕事の道具みてぇに言ってみろ! 俺はアンタをぶっ飛ばす!」

 

 そう言うなり、蓮太郎は柘榴の手を取り踵を返した。

 「あっ、ちょっと」と柘榴は何事かを言っているが、蓮太郎はもはや1秒たりともこの場に長居したくなかった。

 彼の言葉が民警として正解だということはわかっている。しかし、もはや延珠は蓮太郎にとって道具などではない。共に笑い、共に泣き、そして共に戦う家族なのだ。松崎はそんな蓮太郎と延珠の関係を穢した。赦せることではない。

 あのまま話を続けていれば、恐らく蓮太郎は子供たちの前で松崎を本当に殴り飛ばしていただろう。

 我に返ったのは、蓮太郎は既に地上に出た後だった。振り返れば蓮太郎が出入りしたマンホールはかなり小さくなっており、その小ささが蓮太郎の怒りの度合いを示している。これでは日頃から木更や延珠に短気だの向こう見ずだのと言われているのを否定できない。

 

「ようやく落ち着きましたか」

 

 普段は感情の色を含まない柘榴の声だったが、今回ばかりは過分に呆れを含んでいるのが蓮太郎にもわかった。

 右手を見れば、柘榴の白い手首を掴んだままだった。どうやら引き摺るようにしてあの場から連れ出してしまっていたらしい。何となくだが、蓮太郎はこの手を放したくなかった。延珠という半身のような存在がいなくなったことで、心細さでも感じているのかもしれない。

 

「悪ぃ、ついカッとしちまった。これじゃあ延珠の保護者として失格だよな」

「そうですね。あえて私から言うことがあるとすれば、もう少し感情の起伏を抑えた方が良いということです。敵を作りますよ、その浅はかな態度は。そしてあなたが保護者を自称するならば、あなたの敵は延珠さんの敵にもなるということをお忘れなく」

「わかってんよ」

 

 渋々頷く蓮太郎に柘榴はもはや何も言わない。恐らく、これ以上何を言っても蓮太郎が聞く耳を持たないと悟っているのだろう。どうでも良さそうにボケッと虚空を眺めている。

 と、その時だった。不意に柘榴が片手を持ち上げたかと思うと、胸の辺りで掌を水平に向けた。何をしているのかとその手に視線を向ければ、指先に水滴が浮かんでいる。

 

「……雨、降ってきましたね」

 

 空を見上げれば、まだ夕方だというのに西日が全く見えない。代わりに広がるのは重く厚い灰色をふんだんに含んだ雲だけだ。決壊寸前と言わんばかりに雲は低く、湿度が上がったことで周囲の臭いが濃くなる。

 雨の臭いが蓮太郎の鼻孔に侵入してくるのを感じながら、蓮太郎は脳内を巡る松崎の言葉に奥歯を噛み締めたのだった。

 

 

 ◆

 

 

 下水道に雨音が響き渡る。

 雨脚が強くなるにつれて下水道の内部も騒がしくなり、濁流が管を伝って地上の雨水を押し流していく音が大きくなっていった。他の子供たちはその音に負けじと声を張り上げて会話しているが、その大声は濁流の音と不協和音を奏で延珠の心を不快にさせた。

 いや、他の少女たちが気にしていないところを見ると、不快に感じているのは自分だけなのだろう。つい1年前は自分もその一員だったというのに。柘榴の言っていた一般社会に浸かりすぎたという言葉もあながち否定できない。

 

「……蓮太郎」

 

 なんだか無性に蓮太郎に会いたかった。ここはどうにも居心地が悪い。帰ってきたと感じたのは外周区に足を踏み入れてから少しの間だけで、今ではあのボロアパートに帰りたかった。今になり、延珠の“帰るべき場所”はあの家だったのだということを思い知らされる。

 先程、蓮太郎が柘榴を伴って自分を探しにこのマンホールまで来た。延珠が学校を早退してからまだ半日も経っていない。だというのに彼は、自分の居場所に当たりを付けて自ら探しに来てくれたのだ。そのことが延珠には嬉しくて堪らなかった。蓮太郎が松崎に怒声を張り上げた時など涙が止まらなかった。こんな自分のことを“家族”と呼んでくれる蓮太郎を、ここから飛び出して抱き締めたかった。

 だが同時に、そんな蓮太郎に合わせる顔がないというのも事実だった。衝動的に家を出て心配をかけてしまったというのにどの面を下げて彼の前に出て行けというのか。自分に彼の下へと帰る資格があるのだろうか。

 蓮太郎が立ち去った後も、延珠は堂々巡りのようにそのことばかり考えていた。本当ならば今すぐにでも蓮太郎を追いかけたかったが、負い目が延珠の足を重くしていた。

 

「蓮太郎、ごめんなさい……妾はお主に迷惑をかけてばかりだ……」

 

 反響する音の中に、延珠の小さな呟きが消えていった。他の少女たちが騒がしく走り回るのを、松崎が「こらー!」と楽しげに叱っている。どこか近くからポタポタと水滴が落ちる音もしていた。

 この音たちに紛れて消えた呟きのように、延珠の悩みも世界から見れば小さなものなのだろう。だが、その小さな悩みすらどうにもできないのが延珠の現状だった。いかにイニシエーターとして優れた力を持っていようと関係ない。自分は、自分の心に決着をつけることすらできない。

 こんな時、彼女だったら……

 

「柘榴だったら、どうしたかな……」

 

 あの少女ならば、延珠とは全く違う答えに行き着いていたのだろうか。延珠とは違う結果を導き出せたのだろうか。戦いも心も強いあの少女だったのならば、こんなことで悩むこともなかったのだろうか。

 

「私があなたの立場だったなら、そもそも学校になど行きませんね。天童民間警備会社ならば学校に行かずとも堂々と寝られるでしょうし」

 

 確かにそうだろう。

 柘榴に聞いた話だが、彼女は会社から押し付けられる昼の業務や長期任務を躱すために学校に通っていると言っていた。そんな彼女からすれば延珠の行動は自業自得と言えてしまうのかもしれない。

 そもそも『呪われた子供たち』が学校に通おうとすること自体がリスキーなのだ。勝手に学校に行き勝手に自滅した。延珠の行動はそれ以上でもそれ以下でもない愚かな行為のかもしれない。

 

「いえ、別にそこまでは思っていませんよ? ただ、窮屈な生き方をしているとは思いますが」

 

 窮屈と言われれば確かにその通りだ。今の時代、学校に行くことそのものの意義が問われている。力によって命を削る『呪われた子供たち』にとって、普通の人間のように当たり前に学校へ行き当たり前に社会に出ることが正しいと断言することはできない。

 だが、それでも延珠は人間としての当たり前を享受したかったのだ。それが延珠と蓮太郎が思う人間の姿だったから。だからこそ学校での差別の視線は自分が人間であることをこれ以上なく否定していた。所詮自分は人間社会に紛れ込む化け物であると、そう自覚させられてしまった。

 

「まぁ、世間などそんなものですよ。他者に自身のアイデンティティを委ねるからそのようなことになるのです。だから言ったでしょう? 大切なのは“己の意志”だと。今回は高い授業料で社会勉強をしたと考えるしかないですね」

「うん………………………………うん? んんんんッ!?」

 

 延珠は首を捻った。先程から自分は、一体誰と会話しているのだろう。あまりにも自然に独り言と思考の間に入ってくるものだから全く気付くことができなかった。

 耳を澄ませば、ポタポタという水が滴る音は自分のすぐ隣から発せられていないだろうか。

 錆びた機械のように首が動かない。身体が脳からの命令を拒否している。だがそれでも無理やり顔を右隣へと向けると、目に映ったのは暗がりの中にいてなお黒い一つの影――全身をずぶ濡れにさせた柘榴が体育座りで気配もなく隣にいた。

 

「ふぉぉぅッ!?」

 

 反射的に延珠は奇声を上げて飛び上がっていた。いや、正確には気配もなく……というには語弊があるだろう。何せ柘榴は全身から雨のように水を滴らせ、足元に水溜りを形成していたのだから。このような状態の柘榴が隣にいながら気付かなかった延珠にも問題はある。

 だが、それを抜きにすれば柘榴はあまりにも風景と同化しすぎていた。今でも気を抜けば柘榴の姿を見失ってしまいそうだ。

 

「ざ、柘榴!? お主いつからそこに!?」

「蓮太郎、ごめんなさい……の辺りではもう隣にいましたが」

「そんなに前から!?」

 

 まさに驚天動地だった。今なら柘榴が忍者だったと言われても信じられる。

 

「どうかしたのかね」

 

 延珠が柘榴の忍者っぷりに慄いていると、延珠の奇声を聞きつけてきたらしい松崎がひょっこりと顔を出した。そして延珠の隣に座り込む柘榴を見ると目を見開く。

 

「君は、確かさっきの。いつの間に戻ってきたんだい? 気付かなかったよ」

「忍び込むような真似をしてすみません。職業病のようなもので」

「別に悪さをしたわけでもない。気にする必要はないさ。ところで、君はずぶ濡れじゃないか。すぐにタオルを持ってくるから、それで身体を拭きなさい」

「お気遣いなく。用が済めばすぐに出て行くので。それに“私たち”が風邪と無縁なのはご存じでしょう?」

「……では、私たちのために身体を拭くというのはどうかね? 住んでいる場所が水浸しではこちらも困るのでね」

「ああ、なるほど。ならば仕方ないですね。失礼しました」

 

 松崎からタオルを受け取った柘榴は、極めて雑に頭や腕などを拭いていく。しかし大量の水を吸った服はどうしようもないため、そちらは無視して手近な壁に寄り掛かった。

 

「……よく妾がいることに気付いたな」

「服が周りと比べて綺麗な上に髪留めに見覚えがあったので。ああ、蓮太郎さんならいませんよ? 雨が降ってきたので無理やり帰らせました。傘もないのにあなたを探そうとしていたので半ば強引にですが」

「妾がここにいることを蓮太郎は……」

「知りません。言っていないので。まぁ、人間誰にでも偶には家出をしたい時くらいあるでしょう」

「……すまぬ」

 

 沈痛な面持ちを浮かべる延珠に対し、柘榴はいつも通りの無表情だ。ジッと延珠の目を見つめるばかりの彼女に、まるで心の底まで見通されているかのように延珠は感じた。

 

「それで、帰らないのですか?」

 

 早速とばかりに柘榴は本題に入ってきた。

 直球なその質問に、延珠は口をもごもごとするばかりで答えを出せない。

 

「今帰れば蓮太郎さんは怒るでしょうが、それはあなたを思ってのことです。負い目など早々に捨てて帰った方が良いのでは?」

 

 柘榴の言う通りだった。延珠の足を縫い止めているのは、延珠が勝手に感じる恐怖だ。実際に家に帰れば蓮太郎は怒りながらも延珠を出迎えてくれるだろうという確信もある。

 だが、万が一。もしも蓮太郎が自分に愛想を尽かしてしまったらというあり得ない妄想が脳裏を離れない。

 

「……大丈夫、だろうか。蓮太郎は妾を追い出したりしないだろうか。身勝手にも程がある妾を赦してくれるだろうか」

「さぁ? まぁ、意外と何とかなるのではないですか? 知りませんけど」

「適当すぎるッ!?」

 

 しかし柘榴の言葉も真理ではあった。ここでこうしていても答えは出ない。いや、先程蓮太郎が迎えに来てくれたことを鑑みればほぼ答えは出ていると言っても過言ではない。つまり答えを出すには、延珠がこの暗がりから出ることが必要なのだ。

 だが、それでも……

 

「む、無理だ……」

 

 立ち上がろうとした瞬間、延珠の足が震える。膝に力が入らない。立とうと思えば思うほど、延珠の頭の中には蓮太郎から拒絶される光景しか浮かび上がらない。

 

「やっぱり、怖い……! どうしよう柘榴……妾、心の底では蓮太郎に嫌われてるんじゃないかって……怖くて立てないよぉ……!」

「………………」

 

 立ったままこちらを見下ろす柘榴に、延珠は視線を合わせることができない。

 ここに来てなお尻込みする自分を、彼女はどのような目で見ているのだろうか。蓮太郎をヘタレなどと笑っていた過去が懐かしい。これでは自分も大差ないではないか。

 

「……私は精神論というものを用いるのが嫌いなのですが、あえてそれを使って私的な見解を述べさせて戴きます」

 

 延珠の腕を掴んだ柘榴は、同い年とは思えないほどの強い力で延珠を引き上げた。脱力した延珠の身体を片手で軽々と持ち上げ、その漆黒の瞳が延珠の弱々しい瞳と交錯する。額がぶつかり合いそうなほどの距離まで顔を近づけた柘榴の目には、普段は奥底へと押し込められた感情の色が宿っていた。

 

 

「しっかりしなよ。女は度胸でしょ」

 

 

 決して普段の柘榴のような淡々とした言葉ではなく、しかし確かに柘榴が心から発した延珠を叱咤する言葉だった。

 怒鳴るような荒々しさはなく、しかし決して軽くはない柘榴の説教だった。

 まるで胸に直接言葉を突き立てられるような不思議な感覚だった。蓮太郎や木更にも何度か叱られたことはあるが、このように胸へと言葉が響いたのは初めてだ。

 この時、延珠はようやく柘榴が心から自分を激励しているのだと知った。所詮は出会って数日程度の付き合い。しかしそれでも柘榴は延珠と真摯に向き合い、気を遣うばかりではなく尻を叩いて自分を立ち上がらせようとしているのだ。

 蓮太郎とも木更とも、菫とも学校の友達とも違う。今まで出会ってきたどの相手とも違う不思議な感覚だ。頭の中を言葉にならない感情と記号が駆け巡り、そして延珠は唐突に理解した。

 

“ああ、こういうのを親友っていうのかな”

 

 “親友”――なるほど、しっくり来る言葉だった。

 まだお互いに出会って数日の関係の人間を親友と呼ぶのは奇妙なのかもしれない。もしかすると、自分は親友という言葉を軽く使っているのかもしれない。しかし柘榴の存在を、ただの知り合いや同業者などと呼びたくはなかった。現金かもしれないが、学校で掌を返したように自分をバケモノ呼ばわりした友達たちと一緒にしたくもなかった。

 そう思った時、自然と親友という言葉が浮かんだ。

 確かに柘榴と延珠の考えは違う。主義も主張も環境も違う。だが柘榴は自分と同じ立場と目線で、嘘偽りのない延珠の姿を見てものを言う。その関係は蓮太郎でも築けない。学校の友達でも不可能だ。どこまで行っても延珠と重ならない、“人間”である蓮太郎たちでは無理なのだ。

 そんな柘榴との関係が、延珠には心地良かった。

 

「ほら、行きますよ。駄目だったらその時に対応策を考えればいいのです。こんな所で丸まっていても何も始まりません」

「…………うむ……うむっ、そうだな! よしっ、いざとなったら蓮太郎にジャンピング土下座でもローリング土下座でも何でもしてやろうではないか! 妾の華麗な謝罪テクで蓮太郎の度肝を抜いてやるのだ!」

「最悪、焼き土下座でもすれば赦してくださるのでは? それでも駄目ならばウチの会社で面倒を見てあげますから。自慢ではありませんが、給料だけは大手の民間警備会社に引けを取らぬと自負しております。社保も完備の至れり尽くせりです」

「だが断る。この藍原延珠、家なき子にはなっても社畜にはならぬ」

 

 柘榴が手を放す。だが延珠は瞳に覇気の炎を灯し、しっかりと両足で地面を踏み締めていた。先程までの弱々しさは見られない。

 一人だったならば、こうして立ち上がるまでにもっと時間がかかっていただろう。あるいはもう立ち上がれなかったかもしれない。だが、延珠は一人ではない。だが、蓮太郎に頼ってばかりでもない。自分には、こうして悩みを打ち明けられる親友がいる。

 だから――延珠はもう恐れない。

 

「では、帰るとするか」

 

 そうして特に意識することもなく、延珠は暗がりから一歩を踏み出した。

 

 

 

 




次回辺りで戦闘に入れるのが理想です。

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