ブラック・ブレット ――漆黒の民警――   作:てんびん座

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第九話

 一つ、東京エリアについて小学生が習うような常識的な知識を説明したいと思う。東京エリアの地下事情についての基礎的な知識だ。

 他のエリアがどうなのかは不明だが、東京エリアの下水道はその一つ一つが広い。少なくとも内部で人間がすれ違える程度には道の広さが確保されている。これは関東大戦などを経て、時の政府が下水道の大改造を行ったことが原因だ。

 ガストレアが地上を跋扈するより以前の一般的な下水道には、人間が内部を動き回れるような広さなどない。しかしガストレアという恐怖の生命体は、時には下水管を伝って人間の領域へと侵入してくることもある。そんな時に「スペースがないので下水道のガストレアを駆除できません」では話にならない。

 よって東京エリアの地下には、人間がガストレアと戦闘を行えるだけの最低限の空間が確保されていた。

 当然ながらこれによって今まで以上に大型のガストレアが侵入してくるリスクも東京エリアは背負うこととなったが、それは下水道全域に監視カメラを設置することで即座に対処できるように策を講じている。よって下水道をガストレアが移動している限り、人類から逃れることはできないのだ。

 

「ですが逆説的に、これは下水道の警戒や改造に政府が多額の資金をつぎ込んでいることに他なりません。ただでさえ全国のエリアは資源の調達や資金繰りに日々頭を悩ませており、この東京エリアもその例に洩れないということは当然ながらあなたも承知しているはずですよね?」

 

 底冷えするような声が、春の陽気に照らされた聖居に響き渡った。現在、柘榴は白亜と称されるほどに白く、洋風の建築様式によって構成されたその建造物の一室にいる。目の前のテーブルにはいかにも高そうなカップに香りの良い紅茶が注がれているが、柘榴は表情にこそ出さないものの居心地の悪さにその一滴すらも口に含むことができないでいた。

 しかしその反応にさらに苛立ったらしい目の前の女性――聖天子は、ゾッとするほどに美しい笑顔を浮かべる。

 

「柘榴さん。本日未明にあなたが破壊した下水道並びに道路、余波によって損壊した建造物の被害額がどれほどのものか。まだ理解が及んでいないようですね」

 

 聖天子が軽く片手を上げると、傍らに控えていた補佐官の菊之丞が数枚の紙をテーブルに差し出す。その視線は聖天子の声色とは正反対に、今にも柘榴を殺しにかかってくるのではないかというほど殺意に満ち満ちている。怒りは既に殺意へと昇華しているようだ。恐らくは聖天子も似たようなことを考えているのだろうが。

 

「下水道は11ヶ所が崩落や瓦礫によって塞き止められ、道路は5ヶ所が崩落、加えて民間人の住宅の敷地に2ヶ所の陥没。またその他にも住宅は43棟が硝子の破損や塀の損壊、家屋に直接的な損傷などの被害に遭い、あなたが投げ飛ばしたタンクローリーを除き17台の乗用車が廃車。さらに11名の民間人が戦闘の巻き添えに遭い軽傷を負いました。幸いにも……いいですか、ここが重要ですよ? 幸いにも(・・・・)死者こそ出ませんでしたが、これは看過できないレベルの二次被害です」

「……はい」

「蛭子影胤が地下に逃げ込むところは、こちらでも地下の監視映像から確認しています。その追撃がどれほど困難なことかということは、私たちも充分に考慮しましょう。しかしこれは酷い」

「…………はい」

 

 聖天子の言葉に、柘榴はか細い声で応えることしかできなかった。

 本来、民警がエリア内に侵入したガストレアなどを駆除する際などに二次被害を起してしまった場合、その大半の被害額は国家が代償する。これは周囲への被害を民警が気にするあまり、却ってガストレアの被害が広がってしまうという事例に政府が対処するために法律で定められたものだ。

 俗に民警保険と呼ばれるこれにはほぼ全ての民警が加入しているが、しかしそれにも限度額というものが存在している。ましてやこの度の被害はガストレアとの戦闘によって引き起こされたものではない。柘榴が影胤たちを追跡した際の戦闘で起こされた、つまるところ対人における戦闘の余波なのだ。

 

“どうしてこうなった……”

 

 内心で柘榴は嘆く。

 そもそもの事の発端は、柘榴がまんまと影胤たちに逃走を許してしまったことだった。影胤たちを追い地下に潜り込んだ柘榴は、その後影胤たちに追いついては逃がし、また追いついては逃がしという追撃戦を小一時間ほど繰り広げることとなる。光源のない地下のため視界は利かず、また嗅覚も劣悪な環境によって封じられたあの追撃戦は熾烈を極めた。しかし最後に勝利したのは影胤たちであり、柘榴はとうとう影胤たちの姿を見失ってしまったのだ。

 そして意気消沈しながら地上に顔を出した柘榴を待ち受けていたのが、「ちょっと面貸せ」という内容を非常に丁寧に誂え直した聖天子からの直通メールだった。

 身体にこびり付いた下水の臭いを落とすために一旦柘榴は里見家に戻ったのだが、その時の二人の清々しいほどの余所余所しい態度が今でも忘れられない。事情が事情のため薄情だとは言わないが、その反応は人としてどうなのだろうか。

 

「柘榴さん、過去の出来事にもしもがないことは私もわかっています。しかしそこを曲げてあえて言いますが、もう少し被害を抑えることはできなかったのですか?」

 

 笑顔を浮かべていた聖天子は表情を一転させ、頭痛を堪えるように頭を抑えた。実際、被害額は平均的なガストレアの襲撃時におけるものよりも高い。具体的な例を出すならば、二回ほど大型のガストレアが外周区を越えて居住区に侵入してくれば同じほどの被害を出せるだろう。

 だが、聖天子の言い分を完全に加味した上で柘榴は断言した。

 

「不可能です」

 

 キッパリと言い切る柘榴に菊之丞からの視線が厳しくなる。それを極力意識しないように努めながら、柘榴は乾いた喉を湿らせようと紅茶を口に運ぶ。正直なところ居心地の悪さに頭が痛いのは柘榴の方だったが、最低限の説明責任を果たす義務があるだろうと必死の思いで己を椅子に縛り付けているのが現状だった。

 通常ならばこのようなことはプロモーターの仕事なのだが、例によって千崎は会社から出てこない。純粋に死ねと思った。

 

「……不可能、とは大きく出ましたね。あなたほどの序列の民警をして不可能と仰いますか」

「はい、不可能ですね。有象無象の雑魚ならばともかく、序列134位の超高位序列者が相手ともなれば。ああ、失礼しました。“元”でしたか?」

 

 軽く首を傾げる柘榴に菊之丞は渋面を保ったままだったものの、聖天子は微かに表情を強張らせた。目を細めそれを眺めた柘榴は、今が好機とばかりに今日の対談のために用意した切り札を切る。出し惜しみはなしだ。

 

「蛭子影胤が防衛省に姿を現した際、娘を指してイニシエーターと言いました。このことから念の為と過去の民警のデータをIISOから取り寄せた結果、彼は元民警――我々の同業者だったことが判明しています。……聖天子様、あなた方は彼の存在について我々に黙っていましたね? あるいは後に判明しながらも民警たちに周知しなかった」

「……それは」

「防衛省で民警のお歴々が圧倒されたのも自然なことです。いえ、むしろあの斥力フィールドのスペックを前にして死者が出なかっただけでも重畳。それを――」

「――それがどうした? その件は一介の民警である貴様たちにとって知る必要などない」

 

 言い淀む聖天子に代わり、菊之丞が言葉を引き継いだ。柘榴と菊之丞の視線が交錯する。

 あまりのおっかなさに柘榴は腰が抜けるかと思った。人間とは思えないほどの恐ろしい眼光だ。ガストレアと対峙してもここまで恐ろしげではあるまい。鬼か何かだと言われても納得できてしまいそうだ。

 だが柘榴もここで退くわけにはいかない。このままでは千崎技研に被害の責任を全面的に擦り付けられてしまいかねないのだ。そうなれば柘榴の社内での地位は地に落ちるのを通り越してマントルまで埋め込まれることとなるだろう。もはや二度と社長に頭が上がらなくなる。

 

「これほど依頼に直結する重要な情報を伏せておきながら、閣下は必要ないと?」

「政府ともなれば、どこのエリアでも機密情報は無数に存在する。あれはその中の一つだったというだけの話だ」

「そのようなお為ごかしが通用するとでも? 確かに私の方が序列は上ですが、彼が超高位序列者の一角に名を連ねていたことに変わりはありません。こちらは命のやり取りをしているのです。依頼主が依頼の核心的な情報を伏せるというのは、民警に対してあまりにも誠意というものが欠けているのではないでしょうか?」

「だからこそあの莫大な報酬を用意したのだ。そして貴様という戦力を持つ千崎技研も呼んだ。いかに相手があの蛭子影胤であろうとも、千崎技研ならば格下に後れを取ることなどないと信頼していたからこそ貴様を招集したのだが……ふん、期待外れだったか」

「自身の失態をさも人のせいであるかのように語るのはやめて戴けますか。我々にはあなた方の尻拭いをする義理などありません。それに常識的に考えて、序列134位を相手に周りを気にしながら戦えるわけがないでしょう」

「ほう、流石は天下の千崎技研のイニシエーター。超高位序列者ともなれば口も達者になると見える。あれだけ街を破壊しておきながらも蛭子影胤を逃したのは貴様だろうに」

「逆に感謝して戴きたいくらいですが? “あの程度”の被害で済ませたこちらの苦労も察してほしいくらいです。まぁ、仕事の相手に報連相もできないどこかの誰かには難しい提案でしたね。配慮が足らず申し訳ありません」

 

 あくまで情報の秘匿が被害の根本的原因とする柘榴に、柘榴の実力不足を主張する菊之丞。柘榴が全く退く気がないように菊之丞もまた全く譲歩する姿勢を見せなかった。

 柘榴の挑発的な言葉によってさらに険悪な気配を放つ菊之丞だったが、一方で柘榴の方も緊張で途中から何を話しているのか段々とわからなくなっていた。菊之丞の言葉に対して気迫負けしないようにと意識し過ぎて、何やらとんでもないことを口走っている気がする。

 本音を言うのならば、柘榴は今にも嘔吐しそうなほど胃が縮み上がっていた。しかし一方的にやりこめられるわけにはいかない。このやり取りの結果は柘榴の社内での命運がかかっている。その覚悟によって柘榴も無意識の内に薄っすらと殺気を纏い始め、それに反応し菊之丞もさらに眦を吊り上げるという悪循環が発生していた。

 そしてピリピリとしたその気迫の応酬は空気を伝播し、まるで決闘の場のような緊迫した空気を作り出す。聖天子もそれを敏感に感じ取ったらしく、若干の迷惑そうな表情を浮かべていた。今までは菊之丞に成り行きで交渉を任せていたようだが、このままでは取り返しのつかないことになることを彼女も察したのだろう。

 彼の目にはもはや僅かながら憎悪の色すらも浮かんでいるようにすら柘榴は感じていた。彼が筋金入りの『呪われた子供たち』差別主義者であることは有名であり、そのため柘榴のようなイニシエーターを毛嫌いしていることはよく理解していたが、私怨などを仕事にまで持ち込まれるのは柘榴としてもハッキリと迷惑だ。

 そしてそれは聖天子も同じだったのだろう。冷め切った両者の間に割り込むように口を開く。

 

「お二人とも、どうか落ち着いてください。この場は話し合いの場。それともあなた方は神聖なこの聖居を血で汚すつもりですか?」

 

 懇願と警告を含んだ聖天子の言葉はまさに鶴の一声だった。

 菊之丞は「失礼しました」と即座に険を収め、柘榴も元の人形然とした感情の読めない状態に戻る。剣呑とした空気を何とか鎮めた聖天子は目に見えて安堵したが、それは柘榴も全く同じだった。

 

“ほ、本気で戦うことになるかと思った……! 流石は聖天子様!”

 

 下手に強がってこそ見せたが、天童流を修めた菊之丞と一対一で戦うなど冗談ではなかった。下手をすれば柘榴の知る人間の中で最も強いかもしれない。実際に戦うとなれば、聖居故に武装を全解除している柘榴では“手足の一本”くらいは捥がれてもおかしくないだろう。人間と『呪われた子供たち』の間には埋めがたい身体能力の差があるが、菊之丞が放つ殺気はその差すらも超越した何かを柘榴に感じさせていた。

 そのような怪物を好き好んで相手にするほど柘榴は物好きではない。

 

「柘榴さん、私たちも無闇にあなたを責め立てようという意図はありません。今回は事情が事情ですから、こちらが譲歩する形で事態を収めるつもりです。しかし今後はこのような周囲への配慮を欠く戦闘行為は可能な限り慎んでいただきたいのです」

「随分とあっさりと退きますね。こうもトントン拍子に進むとこちらとしても不安が残るのですが」

「この度はこちらの情報の疎通に不備があったことは認めましょう。よってこの譲歩はその分の補償です。しかし……二度目はありません」

「……なるほど、承知しました」

 

 これ以上の詮索や叱責をしない代わりに、今回の失態には目を瞑る――聖天子の言葉を柘榴は正しく理解した。

 政府としてはこの任務を何としてでも成功させなければならぬ深い事情があるのだろう。恐らくは例の『七星の遺産』とやらに関わる事情なのだろうが、これ以上首を突っ込んで補償を帳消しにされては柘榴としても面倒だ。

 加えて、これ以上の厄介事に巻き込まれるのは柘榴としても真剣に勘弁願いたかった。そうとなればこれ以上ここに長居する理由もない。

 そして何より、いい加減菊之丞が怖すぎる。聖天子が譲歩という言葉を口にした時の菊之丞は、今にも舌打ちをしそうなほどに忌々しいと言わんばかりの顔をしていた。菊之丞を背後に控えさせた聖天子からは死角となって見えていなかったが、柘榴はそれを正面から鑑賞してしまっている。このままだと本当に殺されるのではなかろうか。

 

「では、私はそろそろお暇させて戴きます。これ以上私がここにいては天童閣下も気が休まらぬでしょうし、いつ件のガストレアの情報が舞い込んでくるやもしれません」

「引き続きガストレアと蛭子影胤への警戒を宜しくお願いします。あなたのさらなる健闘を期待します」

「はい、お疲れ様です」

 

 疲れ切った様子の聖天子に心からの労いの言葉をかけ、柘榴は席を立ちあがった。視線が怖いので菊之丞とは目をなるべく合わせず、足早に部屋から退散する。

 そして背後で重厚な扉が閉まると同時に疲労と安堵が綯い交ぜになった溜め息をついた。

 

“菊之丞閣下、メッチャこっちを睨んでたんですけど。本気で殺されるかと思ったんですけど”

 

 今日だけで10歳ほど精神的に老けてしまった気がする。本気でまともなプロモーターが欲しい。そして自分の代わりにこのような場で胃を痛めてほしい。なぜ仮にも十歳児の自分が大の大人に対して張り合わなければならないのだ。

 イニシエーターには腕っぷしさえあればいい、そんな風に思っていた時期もありました。結論――ウチのブラック企業に常識は通用しねぇッ!

 

“こんな会社潰れてしまえばいいのに”

 

 柘榴は心底そう思ったが、残念ながら兵器開発の分野では司馬重工と肩を並べる巨大企業である。しばらく潰れる見込みはない。現実はどこまでも残酷だった。

 

 

 ◆

 

 

 人間とは思えない――それが聖天子が柘榴に抱いた第一印象だった。

 彼女と初めて顔を合わせたのは、確か自分が聖天子として先代から名前を継いですぐの頃だったはずだ。仕事の関係で彼女がこの聖居に一人でやってきた時はプロモーターの正気を疑った。いや、正確には今でも千崎の正気を疑っているが、その時と今では疑い方のベクトルが違う。

 最初は仕事に対する不真面目さから、そして今では柘榴のいる環境についてだ。

 今日の交渉の間、柘榴は一度として表情を動かさなかった。全く、1ミリすらも揺らがないその表情筋は金属か何かでできているのではないかと錯覚させる。瞳には感情の一つすらも映さず、ただ機械的にこちらの話を聞き流しているだけだ。自分の背後から菊之丞が過剰なほどに圧力をかけていたのは聖天子も気付いていたが、それも柳に風とばかりに平然としている。いや、正確には不動の山というところか。一体どのような環境にいればあのような子供に育つというのか。あのようになるまで、なぜ柘榴のプロモーターは彼女のことを放置していたのだ。

 

「……はぁ」

 

 柘榴が部屋を出た瞬間、聖天子は小さく溜め息をついた。偶然にもそれは扉越しの柘榴と同時の溜め息だったが、それを知る者はいない。

 聖天子は未だに響く頭痛を振り払うように冷めてしまった紅茶を呷り、あの人形めいた少女のことを思い返す。

 こちらが今回の被害について叱責をしているというのに、当事者たる彼女は「それがどうした」と言わんばかりの無関心さだった。下手をすれば人命を奪うような事態に発展していたかもしれぬというのに柘榴はあくまで平然とした態度を貫いていた。

 いくらガストレアを体内に保菌し超人的な身体能力を得ているとはいっても、『呪われた子供たち』はその名の通りまだ子供。精神的には未熟な存在。だというのに、彼女は他者の命を奪うことに対して何も感じていないというのか。だとすれば彼女は既に人間の精神を越えている。それは人間社会において歪んだ存在だ。

 

“いいえ、違いますね。そうさせたのは我々です”

 

 彼女のような存在を生み出してしまったのは今の社会だ。自分たち大人が彼女のような存在を育んでしまったのだ。

 普通ならば学校に通い無邪気に友達と遊ぶような子供を戦場に繰り出し、自身の正体を偽って社会に隠れ潜むしか選択肢のない残酷な世界を作ってしまった。

 だが、だからこそだ。そのような世界を変えるための一歩として、聖天子は変革のための一歩を踏み出そうとしていた。それこそが『ガストレア新法』だ。『呪われた子供たち』を人間として扱い、全ての『呪われた子供たち』を平等に社会の一員として迎えるための大きな一歩なのだ。

 無論、聖天子もこの法案を通すことがどれほど難しいのかは理解している。背後に控える菊之丞すらもこの法案には反対しているのだ。それほどまでに『奪われた世代』のガストレアへの恨み憎しみの根は深い。

 だがこの新法が聖天子の夢見る日本再建、延いては人類の復興が成された後の平和な世界への僅かながらの助力になればと考えればこの程度の非難などで立ち止まるわけにはいかない。

 柘榴のような子供をこれ以上生み出してはならない、それが聖天子の名を継いだ自分の目標であり使命であると自覚していた。

 

「儘ならぬものです」

「聖天子様、あまり根を詰めなさるな。あれは『呪われた子供たち』の中でも特に異質な存在。まともに理解できるのは、それこそ狂人の類でしょう」

 

 空になったティーカップに紅茶を注ぐ菊之丞は、疲労の色の濃い聖天子を労う。しかしこれは社交辞令などではなく、菊之丞の本心でもあった。

 あの金峰柘榴という少女は“化け物”だ。自分にも子供がいたからこそわかる。あの年齢の子供が、あのような精神性を得ることなどできはしない。自分が蓮太郎を引き取った当初など、彼は感情を剥き出しにし理屈も通じない生意気な小童だった。だがそれが正しいのだ。子供のあるべき姿だ。

 しかし柘榴という少女は、その全てが合理的すぎる。それこそまるで機械のように。感情によるロスが介在する余地すらない。

 菊之丞は『呪われた子供たち』を嫌悪している。彼女たちを人間などと認めていない。あれはガストレアの血を宿した人類とは全く異なる別種族だ。畜生だ。聖天子の掲げる『ガストレア新法』を一笑に付すほどにはその存在を人類と区別している。

 だが同時にベースが人類であることは学術的な観点からも理解している。だからこそその目には柘榴の存在が異質に映った。あんな子供は常識的に考えれば存在しない。

 菊之丞の脳裏にこびり付いた柘榴の目――あれはまさに死人の目だ。千崎技研が死体を遠隔操作する技術を確立していたと言われても菊之丞は信じられる。生気はまともに感じられず、意思はあっても意志はない。

 先程の殺気の応酬も、菊之丞の怒気に対して機械的にそれを返してきただけだ――ただ機械的に、菊之丞が息を呑むほどの殺気をだ。表情にこそ出さなかったが、一瞬とはいえ間違いなく菊之丞は柘榴に気圧された。対して柘榴は菊之丞の眼光に怯みどころか動揺の片鱗すらも見せなかった。聖天子の言葉に従い殺気を収めれば、もはや用はないとばかりに彼女はこちらを一瞥すらしない。

 まるで己の存在を視線に入れる価値すらない、いようといなかろうと関係ないと言わんばかりのその態度が菊之丞の癪に障った。それと同時に、無造作に放たれたその殺気に僅かながらでも畏れを抱いてしまった自分がこの上なく腹立たしかった。

 

“あのようなものが人間であるものか! いや、あって良いはずがないのだッ”

 

 認めるわけにはいかない。

 己の愛する者たちを貪り、喰らい、殺し尽くしたあの害獣どもの血を引く餓鬼どもの存在など認められるものか。そして柘榴はその餓鬼どもの象徴だ。強すぎるガストレアたちの血が生んだ人型の非人間たちの権化だ。

 菊之丞は、柘榴のような異質かつ非人間的な生物こそが『呪われた子供たち』の行きつく先だということを確信していた。

 あのような理解不能の生命体たちが何かの気紛れでその力を振るうことがないと断言できるのか。『呪われた子供たち』が人間として世に蔓延れば、社会は彼女たちの理性と良心のみによって秩序の保たれる不安定な世界となってしまう。彼女たちに人間の法は通用しない。弱者の定めた法を、強者は意にも介さない。

 なぜ目の前の偉大なる国家元首はそのことをわかってくれないのか。その世界では人間など家畜か愛玩動物も同然ではないか。それとも自分たちはあの餓鬼どもを目上と敬い、どうか社会の秩序を乱さないでくださいと頭を下げなければならないのか。それこそふざけるな。そのようなことをするくらいならば菊之丞は戦って死ぬ。『呪われた子供たち(ガストレア)』を崇めるくらいならば死んだ方がマシだ。

 

“薄汚いガストレアが。精々最期まで東京エリアのためにその身を削り逝くが良い”

 

 文字通り寿命を削りながら人間に利用されやがて果てる柘榴(バケモノ)を内心で嗤いながら、菊之丞は柘榴が去っていった扉を睨み続けたのだった。

 

 

 ◆

 

 

 柘榴が聖居から解放されたのは、正午を僅かに回ったほどの時間帯だった。この後の予定としては一旦里見家に荷物を取りに戻った後に会社に戻るというものだ。

 聖居には武器などの持ち込みは基本的に厳禁のため、入口で諸々の武装を取り外すのが面倒だった柘榴は最低限の武装を除き里見家に置いたまま聖居に足を運んでいた。よって里見家から撤収する際はそれらを回収しなければならない。特に愛用の半月斧やガントレットなどは特別製であるため製造費が尋常ではないので、間違っても置いていくことはできない。

 加えて言うのならば愛着もある。云わばあれらの装備は長年連れ添ってきた相棒。数々のガストレアを屠り任務を共にした自身の手足。それを置いていくのは、天地がひっくり返ってもあり得ないだろう。

 話を戻すが、蓮太郎に話を聞いた限りでは、彼は影胤から受けたという裏切りの勧誘を拒絶したらしい。影胤もそれを惜しみこそすれ執着するほどでもなかったと蓮太郎は語っていた。よって影胤がこれ以上蓮太郎への接触してくる可能性は非常に低い。

 そうとなれば柘榴が取り得る次の策は、件の蜘蛛型(モデル・スパイダー)のガストレアの下で影胤と接触する以外にないだろう。つまり柘榴がこれ以上里見家に居候する理由もなくなったということになる。蓮太郎に必要以上の迷惑をかけるのも心苦しかった柘榴は、菓子折りでも手土産にして早々に里見家から撤収しようと考えていた。

 考えていたのだが――

 

“おうふ”

 

 里見家に戻ってきた柘榴を出迎えたのは、荒らされたように延珠の衣服が散乱した八畳一間と石像のように床に座り込む蓮太郎だった。

 適当に外で昼食を摂ってきたため時刻は昼の三時を回る頃だが、蓮太郎はまだ学校にいる時間のはずだ。昼頃に戻る柘榴のために気前良く鍵を渡してくれた蓮太郎がここにいるのはおかしい。いや、これは現実逃避か。

 最大の問題は蓮太郎が延珠の衣服に包まるようにして部屋に座り込んでいることだろう。

 

“へ、変態だー!!!!”

 

 部屋に一歩足を踏み入れた状態で柘榴は固まる。

 ハッキリ言おう。柘榴は引いた。心の底から引いた。人間のことを心底気持ち悪いと思ったのは久々のことだった。こともあろうに蓮太郎は、学校をサボり延珠がいない間に彼女の服に包まるという変態的行為を働いていたのだ。柘榴は心が広いことを自称していたがこれは無理だ。年頃の少女として受け入れることができない。延珠は喜びそうだが。

 兎にも角にも、柘榴は一瞬の内にこの場から立ち去ることを決定していた。そこに迷いや蓮太郎への気遣いなど欠片もない。1秒でも長く変態と同じ空間で息をしていたくなかった。

 もはや部屋の隅に置いたままの荷物や昨日の攻防で下水臭くなった半月斧などどうでもいい。

 

”天地がひっくり返っても置いていかないと言ったな、あれは嘘だ”

 

 幸いにも財布と携帯電話は持ち歩いているため会社までは自力で戻れる。いや、仮に無一文だったとしても歩いてでも帰る所存だ。

 不幸中の幸いにも蓮太郎は延珠の衣服に包まったまま眠っているようだ。柘榴が玄関の扉を開けた音にも気付いていない。

 

“そうとなれば話は早い。このまま気付かれないようにそっと踵を返すのが吉”

 

 柘榴は全神経を集中させた忍び足で音もなく蓮太郎に背中を向けた。もう二度と彼に会うこともないだろう。延珠にはさり気なく蓮太郎に気を付けるよう電話で伝えておかなければ。もしも仕事などで次に会った時に過ちを犯していた、などとなった時には罪悪感で軽く死ねる自信がある。

 だがここで柘榴を不幸が襲った。いや、正確には柘榴はボロアパートを甘く見ていた。なんと衣擦れすらも消し去っていた柘榴の足元から、ギッと木材が軋む音が響いたのだ。その音が室内に響いた瞬間、確かに柘榴の中で時間が止まった。

 柘榴の顔が真っ青になると同時に蓮太郎が跳ね起きる。

 背後で衣服が舞い上がる気配を察知した柘榴は、瞬時に逃走と迎撃の二択に選択肢を絞った。玄関までの距離はほんの数歩。しかし扉を開けるため時間のロスが生じてしまう。そうなればいくら寝起きの蓮太郎と言えども、柘榴の衣服をその手で捕えることができてしまうかもしれない。

 そこまで思考を巡らせた柘榴は即座に迎撃へと思考回路を変更した。殺さない程度に蓮太郎を無力化し、その隙に荷物や武器を回収して部屋から逃げるしかない。蓮太郎は天童流戦闘術なる拳法を修めているというのがネックだが、もはや背に腹は代えられない。徹底的に戦ってやろうではないか。

 どの道、変態に慈悲などない。

 

“悪・即・斬ッ”

 

 瞳が赤化。菓子折りを収めた紙袋を放り投げる。

 腰を落とした柘榴は、左足を大きく床に滑らせ身体の向きを変えた。それと同時に蓮太郎の懐に潜り込み、腹部に強烈な掌打。

 流水のように滑らかなその動きは、渦を巻くように翻るゴシックロリータの姿も相まりさながら黒い旋風だった。

 

「えんぐぼぉァ!?」

 

 腹を貫き内臓を叩き潰すかというほどの威力を込めた柘榴の一撃に、蓮太郎は意味不明な呻き声をあげた。

 しかしその程度で柘榴は油断しない。そのまま左足で蓮太郎の脚を刈り取り地面に引き倒す。後頭部を畳に打ち付けた蓮太郎は苦悶の声を上げたが、柘榴が蓮太郎の胸元に跨り拳を振り上げたところで顔色を変えた。

 ようやく自分の状況が物理的にも社会的にも絶体絶命であると理解したらしい。

 しかしもう遅い。

 

「クズめ、死で償え」

 

 柘榴の容赦ない右拳が蓮太郎を襲った。

 

 

 




蓮太郎「変態じゃないよ。仮に変態だとしても変態という名の紳士だよ」

原作のこのシーンを読んでいて、蓮太郎を「レベルの高いロリコンだなぁ」と思ったのは私だけではないはず。

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