プロローグ
民間警備会社の社員とは、この世で最も素晴らしい職業である――この世の民間警備会社以外の全ての職業を除けば。
◆
宙高く、1トン弱の重量を誇る鋼鉄の箱が舞い上がる。
木の葉のようにクルクルと回転しながら上昇していくそれは、やがて大地が放つ重力に引かれて緩やかに地面へと下降していった。数秒後、金属が拉げる音とアスファルトが砕ける音が合奏する。
地面に激突したそれはそのまま玩具のように路面を転がり続ける。そしてようやくその動きを止めたのは、落下地点から10メートル以上離れた位置だった。屑鉄のように表面の剥げたその箱が、街灯に照らされてその姿を光の下に晒す。
照らし出されたのは白と黒の色彩の車体――パトカーだった。ルーフの上部には砕け散った赤いパトライトの残骸が取り付けられており、車体の側面に綴られた『POLICE』の文字は路面との摩擦によって殆どが剥げ落ちている。何とか自動車としての原型を留めてこそいるが、車体はボコボコに凹んで廃車も同然だった。このパトカーが現場に復帰することはもう二度とないだろう。
「■■■■■■■■ッッッ」
静寂に包まれた夜の住宅街に獣の雄叫びが響き渡る。
声の主は黒い体毛を逆立たせた巨大な牛だった。頭からは一対の巨大な角を生やし、黒々と輝く蹄がアスファルトを踏み砕く。太い胴に対して細い四本の足、荒い息を鳴らす鼻、毛むくじゃらの顔――だが、その規格外の大きさの身体で最も目を引く部位は“目”だった。爛々と輝く、血のように赤い瞳。それはガストレアの特徴に相違ない。
ガストレア――それは十年前に人類を絶滅の危機に追い込んだ、この地上の新たな支配者たちの総称である。ガストレアウィルスという未知のウィルスに感染した生物は体内浸食率が50%を超えることで、その身体を異形の存在に変える。そのウィルスはあらゆる生物を新たにデザインし、強化し、そしてガストレアという究極の生命体へと昇華させるのだ。そして現在、人類はそのウィルスによって食物連鎖の頂点から追い落とされていた。今でも人類が絶滅していないのは、偏にガストレアが極端に嫌うバラニウムという金属のおかげだ。
このバラニウムという金属を大量に生産し、加工し、縦1.6キロメートル、横1キロメートルの巨大なモノリスを複数建造し、並べられたそれらの内側に篭ることで人類は束の間の安寧を得ていた。このモノリスは特殊な磁場を形成し、ガストレアはこれに決して踏み入ろうとしない。科学者たちの実験によれば、この磁場の内部に閉じ込められたガストレアは間もなく衰弱死したらしい。これらの実験や実績から、人類の最後の砦がこのモノリスとなっていた。
だが、当然ながらそれには
稀にだが、モノリスの内側に迷い込んでくるガストレアが存在するのだ。ある者はモノリス同士の間の最も磁場の影響が弱い部分から、またあるものは磁場の届かない地下の底から、時には上昇気流に乗って遥か上空から。この巨牛もその一つだった。モノリスの間を縫うように侵入し、荒れ果てた
もちろん、ガストレアにとって毒であるこの磁場の中に居続ければほどなくしてこの巨牛も死に絶えるだろう。だが、そのようなことは関係ない。もはや死が遠くないことを本能で悟りながらも、このガストレアは破壊の意志と殺意を動力に人間を殺して回ろうと決めていた。その手始めとして、この市街地で一番最初に目に留めたあのパトカーを破壊したところだ。
「ひ、ひぃっ」
その時、パトカーから悲鳴が漏れた。ガストレアの赤い目が再びパトカーに向けられる。
そこに居たのは、潰れたパトカーの割れたフロントガラスから這い出ようとする一人の警官だった。車内にはもう一人分の人影があるが、そちらは血で真っ赤に染まったままピクリともしない。そう考えるとこの生き残った警官の生存は奇跡的だったと言えるだろう。どの道、この近距離でガストレアに発見された時点で無意味な奇跡ではあったが。
巨牛が唾液を垂らしながら歯を剥き出しにし、アスファルトをガリガリとひっかく。その巨牛の姿に、パトカーからなんとか這い出た警官は以前テレビで見た闘牛を思い出していた。確かあの時の牛も、突進の前にはああして地面をひっかいていた。あれがどういった意味を持つのかを彼は知らないが、間違いなく今の自分にとっては良い意味ではないだろうと察することはできる。
「もう駄目だ……」
彼の心中を支配するのは、圧倒的な絶望感と諦観の念だった。
決して死にたいなどとは思っていないが、この体高4メートルはあるだろう生命体を前にして生き延びられると思うほど彼は楽観的はなかった。逆に、この状況で助かることができれば自分は神を信じてもいいという現実逃避の思考が浮かんでくる。目の前に突き出された決定的な死に対して、人ができるのは現実逃避くらいしかない。
「■■■■■■■■ッッッ!!!」
雄叫びをあげながら巨牛が飛び出す。
路面のアスファルトをその蹄で削り飛ばしながら、まるで砲弾のような速度で突進してくる。あの巨体に撥ね飛ばされれば人間の身体など木端微塵だろう。その圧迫感に警官は思わず腰を抜かした。眼前に迫る巨牛に対し、もはや馬鹿みたいに口を開けてへたり込むことしかできない。
警官の頭に『殉職』の二文字が浮かぶ。唐突に記憶がフラッシュバック。視界にはこの場に居るはずのない妻と子供の顔が浮かんだ。次々と家族と過ごした記憶が蘇っていき、次に両親の顔が浮かび、職場の同僚たちが浮かび――
最後に横っ面を蹴り飛ばされて吹き飛ぶ巨牛の姿が浮かんだ。
肉が抉れる音と、骨が砕けるがする。
雄叫びを一転させ悲鳴をあげた巨牛は側面からの撃力と突進の慣性に従い、転がりながら警官の脇を通り抜けていった。一瞬の後、巨牛が一軒家に突っ込み盛大な破砕音が轟く。
「……えっ」
理解が追い付かない。
確かに自分は今、死の間際に居たはずだ。だというのに自分はこうして生きている。振り返れば、歯をへし折られ、肉を抉られ、顔面をグシャグシャに潰された巨牛の姿があった。辛うじて死んではいないようだが、足を滑らせるばかりでまるで立ち上がれそうにない。
パトカーを撥ね飛ばし、たった今自分を殺そうとしていたあの怪物に一体何が起こったというのか。
「大丈夫ですか?」
呆然とする警官は、背後からかけられた言葉に我に返った。
そうだ。ガストレアという怪物をあのような目に遭わせられる存在はこの世界でもそうは居ない。
振り返った先には一人の少女が居た。夜の闇に融けるような漆黒のゴシックロリータを纏った幼い少女が、感情の読めない“赤い瞳”でこちらを見下ろしている。服のあちらこちらには過剰とも言えるほどのフリルが飾り付けられており、可愛らしいというよりも豪奢というイメージを植え付けられる服装だった。
だが、その手に握られているものはお世辞にも服装に合ったものとは言えない。
右手にあるのは、全長180センチはある無骨な
左手にあるのは半月斧と同じく黒い六角形の盾だ。その大きさは140センチほどの少女の身長を優に超しており、その裏に隠れれば少女の姿は盾によって断たれて見えなくなるだろう。また、その盾は大きさも然ることながら厚みもおかしい。機動隊のライオットシールドなどを目にしたことは彼にもあったが、この盾の厚みに比べれば紙も同然だ。正確な厚みはわからないが、金属製でありながら20センチはある。となればその重量も尋常なものではないだろう。
小さな少女と巨大な武器――あまりにもチグハグで異様なその姿に、警官は口を開閉させるだけで言葉を発することができなかった。そんな彼に対し、少女はアスファルトの路面に半月斧と盾を地面に突き立てる。そのまま片足を後方に下げつつ、スカートの裾を摘んで軽く持ち上げてみせた。そして腰を折りながら頭を下げると、丁寧な口調で言葉を紡ぐ。
「夜分遅くにご苦労様です。千崎技研の民警部門所属、
「イニシ、エーターか……」
絞り出すように発した彼の言葉に、柘榴と名乗る長い黒髪の少女は頷いた。
民間警備会社――通称『民警』と呼称される彼らは、戦闘を中心としたあらゆる依頼を熟す便利屋だ。その依頼にはこのようなガストレアとの戦闘も含まれている。ガストレアが地上を掌握して早十年。その初期こそ警察や自衛隊が積極的にガストレアの駆除を行っていたが、ここ数年の間にその役目は民警たちが担うようになっている。あくまでガストレアの駆除は仕事の一つに過ぎないが、それでもガストレアとの戦闘のスペシャリストであることには変わりはない。
そして民警は二人一組のペアで行動する。その片割れである
「ぷ、プロモーターはどうしたんだッ」
そう、“二人一組”だ。
イニシエーターが居るならば、どこかに相棒が――
プロモーターとは、イニシエーターである少女たちを管理する存在だ。全体で見ても未だ十歳が最高年齢であるイニシエーターに指示を飛ばし、依頼をより効率良く熟す。そのために仕事上で必要不可欠なその相棒が、なぜかこの場に来ていない。その事実に、彼の心を再び絶望が支配する。そしてまるでその絶望を嗅ぎ取ったかのように、巨牛がのっそりとその身を起こした。
「嘘……だろ……」
立ち上がった巨牛に先程の傷は残っていない。超常的な再生力――これもガストレアが総じて保有する能力の一つだ。奴らが体内に持つガストレアウィルスは、宿主のあらゆる傷を即座に修復、治癒させてしまう。これが及ばないのが心臓と脳だという話だが、逆に言えばそれ以外に弱点となる部位が存在しないのだ。
だが、そんな光景を見ても柘榴はまるで動じない。地面に突き立った半月斧と盾を引き抜くと、彼をガストレアから庇うように前に進み出る。
「お巡りさん、すみません、少しそこを動かないで戴けますか? 危険なので」
少女の言葉が終わるか終わらないかというその時、再び巨牛が突進を繰り出した。前傾姿勢から放たれるその圧倒的な威圧感に、彼はもはや腰が抜けて動けない。少女の指示がなくとも、彼がその場を動くことはできなかっただろう。
そんな巨牛の突進に対し、少女は数歩だけ前に歩み出た。そして左手の盾を前に突き出すと、軽くその場に踏ん張る。まさかあの突進をその盾で受け止めようというのだろうか。どう考えても無謀な挑戦だった。だが少女は余裕な気配すら漂わせながら、というよりもむしろ気怠げな雰囲気で小さく呟く。
「モデルバイソン・ステージⅠ。これより交戦します」
そして巨牛の巨躯と少女の盾が激突した――かと思った瞬間、巨牛の身体が空中へと勢いよく跳ね上がった。まるで見えない力によって空中に持ち上げられたかのような異常な光景。唖然とする彼の遥か頭上を錐揉みしながら飛んでいった巨牛は、そのまま無様に地面へと墜落する。何が起こったのか、彼にはまるで理解が及ばない。
正確には――柘榴は巨牛が盾に接触した瞬間、盾の表面を滑らせるようにして最小限の力で巨牛を投げ飛ばしたのだ。これによって、柘榴は打撃の衝撃を殆ど受けることなく巨牛の突進を防いでいた。力任せではない、恐ろしいほどの冴えを見せるその技量。身体能力を前面に押し出して敵と戦うイニシエーターには珍しい、高度な技術を用いた戦いだ。
「や、やったのか?」
「それはやってないフラグです。というより、駆除の本番はここからですよ」
柘榴の言葉の通りだった。落下の衝撃でおかしな方向に曲がっていた手足が、メキメキという異音とともに回復する。皮膚の怪我はみるみる間に塞がり、殺意を纏った赤い視線が柘榴たちを射抜く。
その恐ろしい光景に、彼は思わず悲鳴を漏らした。その悲鳴すらも不快だと言わんばかりに、巨牛は荒い鼻息を唸らせる。
だが、それにすらも柘榴は平静を貫いていた。今度は半月斧を前方に突き出し、盾を脇に構える。今度は彼女が攻勢に入るつもりなのだろうか。
その時、咄嗟に彼は叫んでいた。
「待ってくれ! 俺たちは逃げ遅れがいないかどうかの巡回中だったんだ! もしかしたら、まだ人が残っているかもしれない! 街を壊さないようにしてくれ!」
そう、彼はその巡回中、運悪くガストレアに遭遇してしまったのだ。
既にこの一帯は封鎖されてこそいるが、まだ中には逃げ遅れた住民が居るかもしれない。そんな中でガストレアとイニシエーターが暴れまわれば、その住民が巻き込まれてしまう可能性がある。彼が危惧しているのはそれだった。
それを聞いた柘榴は、彼を一瞥だけするとすぐに巨牛に視線を戻した。「本当は刻んでいく方が得意なんですけど」と呟くが、一応は納得してくれたらしい。
「わかりました。では一撃必殺ですね」
クルリと半月斧を回した柘榴は、盾を構えながらその場に斧頭を突き刺す。それと同時に、少女の身体から尋常ではない圧力が噴き出した。まるで見えない何かによって物理的に押し潰されるようなそれによって、一瞬彼の呼吸が止まる。そして、それを感じ取ったのは彼だけではなかった。相対する巨牛もそれに反応し、再び路面をひっかく。
束の間の静寂。
そして次の瞬間、柘榴と巨牛が同時に飛び出す。暴力的な強さで踏み締められたアスファルトが、まるで杭でも打ち込まれたかのように沈み込んだ。尋常な生物を超越したロケットスタートに、大気の壁が絶叫しながら破られる。少女と巨牛の間に広がっていた20メートル近くの空間が、瞬く間に0となった。
轟音――それはまるで、二つの城壁が衝突したかのようだった。
そして、一方の“黒”が空高くへと撥ね上げられる。
月明かりに照らされたそのシルエットは、もはや原型を留めないほど無残に破壊されていた。手足はバラバラに吹き飛び、胴体はおかしな方向に曲がっている。破裂した身体からは大量の血が爆発するように飛び出し、その惨状が衝突の威力の凄まじさを物語っていた。
勝者は、小さな方の“黒”だった。巨牛を撥ね殺した柘榴は、その細い二本の足で路面を削りながら制動をかける。まるで重戦車を引き摺るような重い音を響かせ、10メートル以上進むことでようやく柘榴は慣性を殺し切った。それと同時に、彼の周囲へと肉片となった巨牛の死体が降り注いだ。その悍ましい光景に、彼は自分が気絶しなかったことを褒めたい気持ちになる。
「怪我はありませんか?」
資料として見たことはあった。だがこれは、彼が初めて直に目にしたイニシエーターとガストレアの殺し合いだった。自分たちの平和は、このような常識を超えたやり取りの末に保たれているものだというのか。そのことに今更ながら恐怖を覚えた彼は、近寄ってきた少女を恐る恐る見上げる。
ゴシックロリータを返り血で赤く染めた少女は、盾を片手に相変らずの無表情だった。漆黒の盾には黒い毛の付いた肉片や眼球のようなものがこびり付いている。彼の視線でそれに気付いたらしい柘榴は、盾を一閃させてそれらを払い落とした。
「立てますか?」
空いた手が差し出されるが、血塗れのそれを握ることは到底できない。そんなものを握るくらいならばと、彼は死力を振り絞って立ち上がる。
その時、彼は気付いた。夥しい量の血の下から姿を晒しているその手は、血の通った人間の肌ではなく黒々と輝く鋼鉄の手だった。不気味に指が蠢く度に関節部分がキシキシと金属の擦れる音を発する。ガントレットという籠手の一種だ。ますます服装に似合わないその装備に、彼の古い記憶が強制的に引き摺りだされた。
バラニウム製の半月斧に黒いガントレット――間違いない。こんな目立つ装備と圧倒的な強さを持つイニシエーターを彼は二人と聞いたことがない。名前こそ知らなかったが、その特徴と“二つ名”は警察内部でも知られるほどだ。
飛び散ったガストレアの血で柄まで赤くなった半月斧を引き抜いた柘榴は、「今日は使ってないのに汚してしまいました」と半月斧を見つめている。心なしか、その姿は落ち込んでいるように見えた。
「侵入したガストレアはこの一体だけですよね? ならば、報告や事後処理はあなたにお願いしたいのですが」
「もうこんな時間ですし」と彼の腕時計を指す柘榴に釣られて見てみれば、時刻は既に午前四時を過ぎたところだった。よく見てみれば目の前の少女は非常に眠そうで、欠伸を噛み殺している様子が見られる。如何に常識外の力を持つイニシエーターでも所詮は子供。この時間帯での民警活動は辛いものがあるのだろう。
これが民警嫌いの警察官ならば現場に嫌がらせで残したりすることもあるのだろうが、今の自分は彼女に命を救われた身だ。人としてそれくらいの気遣いはするべきだろう。
「……ああ、ご苦労様。後のことはこちらに任せてくれ」
「承知しました。そちらの方は……」
柘榴の視線の先にはボコボコに凹んだ廃車も同然のパトカーがある。
全てのガラスが粉々になったそれの中で、一つの影がシートに座っていた。ただ、彼がその身体を動かすことは二度とない。そのことを意識すると、途端に胸の奥が熱くなった気がした。子供の手前で情けないところは見せられないと奥歯を食い縛り、溢れ出そうな感情を抑え込む。
それを悟ったのか、柘榴は深々と頭を下げた。
「到着が遅れて申し訳ありません」
「……いや、君のせいじゃない。運が悪かったんだ……運が……」
「そうですか」
それだけ言うと、柘榴は漆黒の衣装を靡かせながらその場を立ち去っていった。
その姿が徐々に遠ざかっていき、そして完全に夜の闇に消えたところで彼は大きく息を吐いた。辺りには息苦しいほど濃い血の臭いと吐き気を催すほどの臓物臭で溢れ返っている。これを作り出したのがあの小さな少女だとは、実際に目にした今でも信じられない。
「あれが『呪われた子供たち』の力、なのか」
『呪われた子供たち』――十年前、ガストレアが出現し始めたのと同時期に誕生するようになったガストレアウィルスの抑制因子を持つ少女たち。妊婦の口から入ったガストレアウィルスが胎児に蓄積されることで誕生する彼女たちは、そのウィルスの影響で必ず女性として生まれてくるという。彼女たちはガストレアと同じ赤い瞳を持ち、超人的な再生力、運動能力、時には基となったガストレアの動物因子によって特殊な能力を授かることもある。
この少女たちを利用してガストレアに対抗しようというのが民間警備会社という組織である。だが『呪われた子供たち』といっても無敵ではない。体内のウィルスの浸食率が常人よりも遥かに緩やかというだけで、それが50%を超えればガストレアに変じてしまうという点は変わらないのだ。よっていつガストレアとなるかわからない彼女たちは社会から廃絶され、民警として生きる以外には外周区や施設で孤児として生きるしかないのだという。
確かに哀れな子供たちだ。しかし直に目にしてみればその恐ろしさも理解できる。もしも彼女たちが大挙して社会に反逆すれば、恐らく自分たちはただでは済まないだろう。そしてもしもそうでなくとも、彼女たちはいつかガストレアになる存在だ。それが明日なのか、それとも一年後なのかは自分たちにはわからない。体内浸食率を医学的に計測する方法も確立してはいるが、例え申告されてもそれが真実である保障はないのだ。
「…………ッ」
気が付くと彼の手は震えていた。
なんということだ。自分は命の恩人であるあの少女に、あろうことか恐怖を感じている。
そのことに吐き気すら感じながら、彼は「チクショウ」と毒づいたのだった。
◆
唐突であるが、柘榴の学校での渾名は小学四年生なのに『三年寝太郎』である。
季節は春。何かと人の出入りが激しいこの時期は、柘榴の通う小学校も例外ではない。つい先月には六年生が中学校へと上がっていき、そして今月には一年生が盛大な入学式とともにこの学校の生徒に仲間入りしている。ここに転校生も加えておきたいところだが、全世界がエリアごとに隔離されている現在は十年前と比べれば転校生の数はめっきり減ったらしいため除外しておこう。
生徒たちはクラス替えによって新たなクラス編成となり、教室にはまだ僅かに緊張の色が窺える。しかし既に新たなグループができ始めているのを見る限り、そう遠くないうちにこの緊張も解れていくだろう。
そんな教室の中てただ一人、周囲の緊張とは全く無縁の生徒がいた。
「………………」
その生徒はあからさまに周囲から浮いていた。
机に突っ伏した彼女は、腕を枕にして「くぅくぅ」と可愛らしいイビキを立てている。クラスメイトたちが緊張の面持ちを浮かべている中、あまりにも堂々としたその眠りっぷりに誰も注意を呼びかけようとしない。この堂に入った眠りが彼女が三年寝太郎と呼ばれる所以の一端を担っていると言えるだろう。
また、その服装も遠巻きにされる原因だった。彼女の服装は小学生としてはあまりにも退廃的なゴシックロリータだった。周囲の少年少女が一般的な服を着ているというのに、柘榴の服装は大人びているという段階を超越してもはや奇怪である。服装はその人物の人と為りを表すというが、学校にこのような服装で登校する人間がまともとは思えないだろう。事実、クラスの小学生たちに柘榴に近寄ろうという勇者は存在しなかった。
たった一人の少女を除いては。
「柘榴」
名前を呼ぶ。その声が呼び水になったのか、柘榴がゆっくりと目を開いた。その瞳は黒曜石のように黒い。
寝惚け眼のまま上体を起こした柘榴は口を半開きにして声の主へと視線を向けた。そこにいたのは柘榴もよく知る人物、というかクラスメイトである。
「ああ、弓月。おはようございます」
片桐弓月――柘榴のクラスメイトであり、数少ない三年寝太郎に話しかけることができる少女である。
周囲には隠しているが、二人は民間警備会社の同業者という関係で学校の外でも知り合いであり、学校でも話す機会は多い。というよりも二人とも友達がいないせいで話し相手がいないというのが実情だったが。
「おはよう。っていうか、今日は一段と眠そうなんだけど」
「…………」
「柘榴?」
目を半開きにしたまま、柘榴は再び夢の世界へと旅立っていた。やがてガクッと首が傾き、即座に「ハッ!?」と柘榴が目を覚ます。
「寝てません」
「本当に大丈夫?」
眠気を必死に堪える柘榴に、弓月は心配そうに顔を覗き込んだ。
しかし今の柘榴には返事すらも辛い。本当のことを言うのならば、全く大丈夫ではなかった。今、こうして意識を保っていることすら苦痛に感じる。端的に死ぬほど眠い。
「どうしたの? いつも眠そうにしてるけど、今日は本当にヤバイよ?」
「……深夜に自衛隊から緊急の依頼が来たんです。モノリスの間からステージⅠが抜けていったから何とかしてくれって。避難誘導をしていた警察の方にも犠牲者が出てしまうほどの騒ぎだったんですけど」
小声で囁く柘榴に、弓月は眉根を寄せた。
そのような事件のことなど、自分は全く聞いていない。仮にも高位序列者である自分の耳に入っていないということは、プロモーターである兄が意図的にその仕事を受けなかったということだろう。
「……兄貴の奴、あたしに気を遣って……」
「というか、お兄さんがちゃんと仕事を管理している証拠ですよ。ウチはプロモーターが『24時間365日対応なのですっ』とか宣伝して回っているせいですっかり睡眠不足ですからね。なんか自衛隊や他の民警でも『困ったら千崎技研に頼めばいいや』とかいう風潮ができているらしいですし」
「……だ、大人気で良かったじゃん?」
「ブッコロがしますよ。……というか勘違いしないでほしいのは、千崎技研はあくまで技術研究が目的ということなんです。民警部門は開発した兵器の試運転のために設立されたんです。決して民警活動を主眼に置いた部門じゃなかったはずなのに……なのに……」
柘榴の所属する『千崎技研』という会社は、主に民警活動に使用される兵器や武器類の開発を目的としている。その技術力は相当なもので、会社こそ小さいものの技術力だけならば大手の会社に引けを取らない。というよりも半ばオーバーテクノロジーの域に達している分野もある。実際、他の企業に技術供与をしたにはあまりにも使用された技術が先進的すぎて供与を断られたという逸話がある。早い話、向こうの技術者にはこちらの技術が理解できなかったのだ。それから千崎技研は、マッドサイエンティストの巣窟と呼ばれるようになった。
しかし、そんなことは柘榴にはどうでも良かった。柘榴が最悪だと思っているのは、その諸悪の根源である柘榴のプロモーター兼社長こそがこの民警部門の設立者ということである。自分で設立しておきながら本来の使い方から自分で踏み外すとは何事か。
そしてさらに悪いことに、柘榴のプロモーターは仕事を受けるだけ受けて自分は出動しない。なんと柘榴のプロモーターは柘榴を現場に送り出すだけで自分は部屋に篭りきりなのだ。柘榴が何かを連絡すれば通信機越しに簡単な指示などは行うが、現場での判断はほぼ柘榴任せである。柘榴の装備の開発などを一手に引き受けているため全くの役立たずというわけではないが、ここまで後方支援に特化しているプロモーターもそうはいないだろう。
「はぁ……あのブラック企業辞めたいです」
「うわぁ……」
再び机に突っ伏した柘榴は、重い溜め息とともに泣き言を漏らした。それを見守る弓月は、思わず同情の眼差しを向ける。
弓月も民間警備会社に所属する身であるが、稼ぎが少ないとはいえ自分の労働環境が最底辺から見れば恵まれているのだと今更ながらに思う。
一方、柘榴は弓月が非常に羨ましかった。兄と妹の二人だけで活躍している零細な会社ではあるが、労働条件はこちらとは比較にならない。
柘榴の所属する千崎技研では社長兼技術者である柘榴のプロモーターの意向によって全てが決まる。社長が命令すれば自分は深夜だろうと祝日だろうと仕事に駆り出されるのだ。そして何よりも問題なのは、社長は仕事の難易度と報酬が高ければ高い案件ほど燃える性質だということだ。しかも実際に仕事をするのは柘榴というイニシエーターである。社長本人は部屋から出てこない。
完全なブラック企業だった。唯一の美点として給料こそ高いものの、そんなものを使っている暇すらないのだからないも同然だ。
「……弓月、お兄さんと一緒にウチの会社に来ませんか? 仕事を分担しましょう? 住居も装備も無料で提供しますから」
「お断りだッ! ウチの兄貴を過労死させる気か!」
「声が大きいですよ」
ハッと我に返った弓月は咄嗟に周囲を見回した。しかし、幸いなことにこちらに聞き耳を立てている者は居なさそうだ。
もしも自分たちが『呪われた子供たち』だということが知れ渡ってしまえばこの学校に居場所はなくなる。そうなればもう転校するしかない。それを避けるためにも学校で民警を話題にすることはなるべく避けているのだが、今回は二人とも軽率だったと言えるだろう。
「あ~、仕事辞めたいです。でも無計画に仕事辞めたらIISOの施設で飼い殺しですからね。脱走すればホームレスですし。本当、世知辛い世の中です」
「柘榴……」
大半の『呪われた子供たち』には家族というものが存在しない。彼女たちは両親に捨てられた者が殆どだ。
その果てに民警という職業に流れ着いたのであって、やりがいを持ってこの仕事に就いている『呪われた子供たち』が果たして存在しているのかどうかも疑問である。
弓月のようにハッキリとした血縁の者がわかっているだけでも珍しい。ましてや、兄妹で民警を営んでいる者など極少数だろう。少なくとも、弓月は自分たち以外に血縁関係で民警のペアを組んでいる者を聞いたことがない。
「はぁ、どこかにないものですかね。零細でもボロでもいいですからアットホームな職場。むしろ滅多に仕事が来ないくらいの場所に行きたいです」
「ウチの会社を馬鹿にしてんのか」
「いいじゃないですか、零細企業。ギリギリでも生活さえできれば文句は言いません」
「認めたな! ウチの会社が零細だって認めたな! ホントのことだけどさ!」
眦を怒りで吊り上げる弓月だったが、柘榴はどこ吹く風といった様子だった。
というよりも、先程から瞼は半開きになっており焦点が合っていない。しかも呂律は回っておらず、心なしか身体もフラフラしていた。
「大体、社長には言いたいことが山ほどあるんですよ。案件選びは慎重にやれとか、プロモーターの仕事しろとか、せめて現場に来いとか、一々報告するの面倒なんですよとか。あと寝てる時に叩き起こされると殺意が沸くんですけど。明日も学校だって言ってるのに無視するし、仕事着から普段着までゴスロリを強要するし、夏休みは長期の依頼を勝手に組むし……!」
「ちょ、ちょっと柘榴」
愚痴を言っていた柘榴の様子が段々とおかしくなり始める。
もはや双眸は虚空を見つめ、手足には殆ど力が入っていなかった。上体は何度も傾いては元に戻りを繰り返し、顔は真っ青という段階を超えてもはや白い。
「ね、ねぇ柘榴! アンタ本当に大丈夫!?」
「『ステージⅠもステージⅣも似たようなものでしょ?』だと? 大違いですからあいつらメッチャ強くなりますからあと勝手に装備を点検に出すのやめろ仕事の時になくて死ぬほどビックリするんですよそれと定時退社の何に文句があるんですか開発部門の皆さんは死んだ目で私に嫌味言わないでください『君はいいよね~、ガストレア殺すだけだもん』とか言う社員さんはお願いですから死んでくださいこっちだって命懸けなんです前は指が吹っ飛びましたし意外と死亡率高いですしそれに――」
「ちょっと、しっかりしなって! やばっ、これホントにヤバい! 誰か! 誰かぁ!」
ブツブツと呟く柘榴は、既に半分意識がない。
譫言のようにプロモーターと会社への文句を繰り返しながらグラグラと船を漕いでいる。どうやら相当にキテいるようだ。その不気味な光景に、周囲の生徒たちも軽く引いている。たった今教室に入ってきた担任教師など、柘榴の姿を見て何事かと目を瞠っている。
だが、もはや強烈な眠気に支配されかけている柘榴はそのことに気付かない。そしてどんどんと集まっていくクラスメイトたち視線の前では、友達を殆ど持たないコミュニケーション能力の低い弓月ではどうすることもできなかった。
そして遂に柘榴に限界が訪れる。まるで電源が切れたように動きを止めた柘榴は、そのまま糸が切れた人形のように机へと倒れ込んだのだった。
その日、柘榴は午前中を保健室のベッドで過ごした。
◆
民間警備会社の社員とは、この世で最も素晴らしい職業である――この世の民間警備会社以外の全ての職業を除けば。
この物語は、そう豪語して憚らない金峰柘榴というイニシエーターの、
弓月ちゃん可愛い。
あんな派手な格好なのに学校では友達がいないというのがチャームポイント。
何故アニメは弓月のランドセル姿を削ったのか。