第七十話を投稿いたします。
第六章の終話となります。
ダータルネスへ向かうアルビオン空軍の総旗艦『ヴェンジェンス』号。
その貴賓室に婚姻の儀を終えたばかりの男女がいた。アンリエッタとウェールズ。従兄妹同士である二人は様々な困難を乗り越え、晴れて夫婦となった。二人が平民であったならば、相思相愛の二人が結ばれて末永く幸せに暮らしました、と物語は終わりを告げた事だろう。だが、アンリエッタはトリステイン王国の第一王女であり、ウェールズはアルビオン王国の立太子なのである。その去就は二王国、ひいては大陸の命運にも直結するのだ。ましてや今現在、聖オーガスティン修道院では教皇とトリステイン特務官、そして『長身異形の亜人』が邂逅しているのだ。その結果次第では、未曽有の大戦乱が引き起こされるか、あるいは何の前触れもなく世界が滅亡するやも知れないのだ。ところがウェールズは、第二次王権会談にて知るに至った『四体の長身異形の亜人』についてアンリエッタには一切話さなかった。アンリエッタが婚礼にすっかりのぼせ上り、まるで聞く耳を持たなかったという側面もあるが。
愛する人には夢を見ていて欲しい。それが逃避に過ぎない事はウェールズも理解していた。
(ぼくの可愛いアンリエッタ。いずれ君も全てを知る事になるだろう。だが、せめて今だけは幸福を甘受していてほしい)
「まだ実感が湧きませんわ。ウェールズ様と、その、夫婦になったなんて……」
「ぼくのアンリエッタ、ぼく達はもう夫婦なんだ。様づけは要らないよ」
「は、はい、ウェールズ……いえ、あ、あなた」
頬を染め、はにかみながら返事をした最愛の女性をウェールズは抱き寄せた。例え、何を引き換えにしても彼女だけは守ってみせる。そう決意を新たにする王国立太子。
「……今頃、ルイズとあの使い魔は教皇聖下と丁々発止のやり取りを繰り広げているのでしょうか?」
「……え?」
ウェールズは自身の腕の中に居る従妹であり、妻でもあるトリステイン王国の次期王位継承者の言葉を理解できなかった。
「な、ななんのことかなぼぼくのあああんりえったたた?」
「フフフ、妻の名前は正確に発音してくださいね、あなた?」
良人が未だかつて見た事が無い、稀代の毒婦の如き妖艶な微笑を浮かべたアンリエッタが、ウェールズの困惑を余所に言葉を重ねる。
「ルイズとマザリーニ卿からちゃんと聞いておりますわ。教皇聖下の蠢動も、エルフの脅威も、モチロン『四体の長身異形の亜人』についても」
「そ、それは」
「私も夢見るだけの少女ではありませんわ。ルイズの使い魔の亜人が世界を滅ぼせるほどの力を持っていて、しかも同じ力を持つ亜人が後三体もいる。さらにその亜人は我が国の特務官ルイズをはじめ、ガリアのイザベラ女王、ゲルマニアのアルブレヒト皇帝といった各国の中枢も中枢に入り込んでいると」
「いや、その」
「それを聞いた時に私は理解しましたわ。このハルケギニアという大陸は大きく変わってしまうのだ、と。始祖の系譜を受け継ぐ四王国? 東方から迫る異種族の脅威? ましてや四王国の一に過ぎない宗教国家の策動? フフフ、ちゃんちゃら可笑しいですわ。これからの世界は今までの常識が通用しなくなる。漠然とですが、私はそう考えています」
でも、とアンリエッタは悪女めいた微笑を引っ込め、満面の笑みで最愛の男性を抱き締めた。
「私にはウェールズ、あなたがいます。それだけで私はどんなに混沌とした世界であろうとも生き延びてみせますわ!」
(どうやら私はとんでもない女性を妻にしてしまったようだ……まあ、それも良いか)
溌剌とした生命力を発散する妻に圧倒されたウェールズだったが、すぐに思い直した様にアンリエッタを強く抱き締め返した。
アンリエッタとウェールズ。従兄妹同士でもあった、この夫婦は終生仲睦まじく過ごしたと、あらゆる歴史書に記されている。が、夫は妻に常に頭が上がらなかったとも追記されている。
『ヴェンジェンス』号を筆頭とするアルビオン艦隊にやや遅れて、王室座乗艦『コンスタンティン』号が率いるトリステイン艦隊もダータルネスを目指して航行していた。
マザリーニは『コンスタンティン』号内に与えられた自室で『始祖ブリミル』に祈りを捧げていた。ロマリア分王家の当主であり、宗教庁において教皇に次ぐ司教枢機卿の位階を戴くマザリーニであるが、大降臨祭前後の彼の言動は自らの出自と地位に明らかに反するものであった。教皇の真意を探る為と称して近衛特務官ルイズとその使い魔が余人を交えずに教皇ヴィットーリオと邂逅出来るように計らい、さらにはロマリアを除く始祖直系の三王国と大陸の新興国ゲルマニアの首脳陣が共有するに至った『セル相互抑止』について宗教庁に一切の報告を行わなかったのである。
(ヴィックよ……私は、また、お前を見捨てた。今度はお前も、私を憎んでくれるだろうか?)
聖オーガスティン修道院における祭祀が全て終了した後の特務官と使い魔との会話をマザリーニは思い返した。
ルイズとセルはマザリーニからの誘導を受け、修道院最奥の間に通じる控え室の一つで待機していた。
「……聖下は祭祀後の禊の儀を行っている。付き添いはチェーザレ助祭だけだ」
「承知しました。聖下は謁見についてはどのように?」
「こちらから会談を要請するつもりだった、との事だ」
「会談、ですか」
「ご丁寧に亜人の使い魔を帯同させてほしいとの仰せだ」
マザリーニの苦々しい表情を見たルイズは以前から気になっていた事を口にした。
「聖下への謁見の手筈を整えていただきながら、このような事を伺うのは非常に心苦しいのですが、猊下は、その、教皇聖下に……」
ルイズの意図を察した司教枢機卿は自嘲めいた笑みと共に言った。
「特務官が生まれるよりも前の事だ。当時の私は、聖下の、いやヴィックの後見人のような立場にあった」
現教皇を愛称で呼ぶマザリーニは惜別の想いを感じさせる声色で続けた。
「彼は聡明だった。いや、天才と言ってもいい。僅か六歳で『聖福音書』を諳んじ、並の神学者など及びもつかぬほどブリミル教の教義を深く理解していた。故に始祖は彼に恩寵を授けられたのだろう。ヴィックは七歳で『虚無』に覚醒したのだ」
「な、七歳で!?」
「だが、ヴィットーリア。ヴィックの母にとって、それは『福音』などではなく『恐怖』でしかなかったのだ。幼い息子を一人、宗教庁という名の檻に残し、失踪するほどのな」
「では、聖下は」
「そう、『虚無』に目覚めたが故に親に疎まれ捨てられたのだ」
自身も『虚無』に覚醒した事でそれまでの人生が一変したルイズは言葉を失う。だが、長身異形の亜人は一切躊躇する事なく核心を追求する。
「後見人を自称していたお前は、どこで何をしていたのだ?」
「セル!」
「よいのだ、特務官」
いつもの様に場の空気を読まない使い魔の言動に悲鳴のような声を上げるルイズ。当のマザリーニはやんわりをそれと制し、セルに応えた。
「長身異形の亜人よ。私は、何もしなかった。全てを知りながらロマリアから遠く離れたトリステインで国王陛下亡き後の国政の混乱を収める事にのみ腐心していたのだ。ヴィックから助けを求められなかった事を自身の免罪符代わりにしてな」
「では、その罪滅ぼしにルイズと私を教皇への貢物にするという事か」
「……セル」
ルイズ自身もその可能性に思い至った為か、使い魔を叱責する言葉はなかった。
「ふふ、そんな程度では、そも罪滅ぼしになどなりはすまい。私は、今の私はトリステイン王国に仕える臣下なのだ。今日、姫様の婚姻の儀に参列して、ようやく想い定める事が出来た……我が王国と王家に仇なさんとする者は何人たりとも我が敵である。トリステイン王国宰相マザリーニ・ド・リュクサンブールが命じる。ヴァリエール特務官、教皇ヴィットーリオの真意を探れ。もしも、教皇に我が国を脅かす意図あらば、貴官が必要と判断したあらゆる手段の行使を許可する!」
姿勢を正したマザリーニが威厳の籠った声色で命じた。
「し、承知いたしました」
やや気後れしたルイズが承諾の言葉を返す。
このやり取りから幾ばくかの時間が過ぎた。特務官と使い魔はまだ戻らない。
(始祖よ、願わくばこの身が滅した暁には必ずや我が魂を地獄へと導かれますよう……)
司教枢機卿は、心底から始祖『ブリミル』に懇願した。
アルビオン大陸の北方ハイランド地方には、身長五メイルに及ぶ凶暴な亜人トロール鬼が棲息している。一部の貴族は『巨人使い』と呼ばれる特殊なメイジによってトロール鬼を戦力として使役していた。その為、他国に比べてトロール鬼やオグル鬼などの大型の亜人を身近な存在と感じており、種々の祭りには彼らを模した仮装行列が大挙して大通りを練り歩くのが通例であった。
「フフ、よく似合っているわ、セル」
「ふん、仮装しようがしまいが化け物には違いないさね」
「同感だな」
長身異形の亜人セルの分身体は、ウエストウッド村に隠れ住む孤児達お手製のトロール鬼の仮装衣装に身を包んでいた。
「ところで、あいつらは大丈夫なんだろうな?」
「問題ない。特に女の方は祭りを嬉々として楽しんでいるようだ」
「それもどうなんだい?」
「姉さんも楽しもう! せっかくの大降臨祭なんだから」
「ああ、わかってるよ、テファ」
(トリステインとアルビオンのロイヤルウェディングとなれば、あのちんちくりんの貴族の小娘、ルイズだかももう一体の亜人野郎と一緒に来ているはずだ。なんとか接触したいところだが、こいつとテファを残していく訳にも……)
まるでフーケの心の内を読んでいるかのように長身異形の亜人が声をかける。
「問題はない、我が主よ。その機会はもう間もなくやってくるだろう」
「……な、なんだって?」
自称使い魔の言葉の意味をフーケことマチルダは、数分後にやってきた地鳴りと共に思い知る事になる。
聖オーガスティン修道院『禊の間』。
教皇ヴィットーリオは、『大降臨祭』の主要祭祀を恙なく終えた事を始祖ブリミルに感謝し、これから行われる一人の少女と一体の亜人との邂逅における始祖の加護を祈った。彼の隣には、助祭枢機卿の正装を纏ったジュリオ・チェーザレが控えていた。
(とうとう、あの化け物とやり合う時が来たか。今俺が使役できる最強の竜共を揃えたが、聖下の詠唱の時間稼ぎが出来れば御の字ってところかな)
切り立った崖の突端に位置する禊の間は、修道院の本院建物とは渡り廊下によって繋がれていた。崖下には鬱蒼とした森と湖が禊の間を囲う様に広がっている。その周囲には、実に四十頭に及ぶ高位竜種が息を潜め待機していた。『神の左手・ヴィンダールブ』であるジュリオは多くの魔獣を『コモン・サーヴァント』を用いる事無く強制的にその支配下に置くことができる。高位竜種は韻竜を除けば、ハルケギニア最強の幻獣である。四十頭もの高位竜種が組織的に行動すればその戦力は一国の主力艦隊に匹敵する。
(それほどの力を誇るジュリオの竜軍団を以てしても、ミス・ヴァリエールの使い魔を短時間抑えるのが精一杯とは……やはり可能な限り、ミス・ヴァリエールは対話で懐柔したいものですね)
ヴィットーリオは、自らの使い魔であり右腕でもあるジュリオからトリステイン王国の『虚無の担い手と使い魔』についての報告を受けた際に王家の傍流に属する年若い女学生が虚無に覚醒した事よりも、その使い魔である亜人の容姿が『正伝』に記されている『月の悪魔』に酷似している事に衝撃を受けた。ジュリオは亜人を酷く警戒していたがヴィットーリオ自身は長身異形の使い魔を『月の悪魔』そのものではなく、末裔のような存在だと考えていた。だが、『大災厄』を引き起こしたともいわれる悍ましい存在を使い魔として使役している事を弾劾すれば、さほど苦も無くトリステインの担い手を取り込み、王国の首脳陣への牽制も果たせると目論んでいたのだ。その為、マザリーニを介してヴァリエール特務官が内密に自分に会いたいとの意思を伝えてきた時、彼はその場で快諾し、合わせて使い魔の同行を求めたのだ。
(万が一の際は、やはりあの『虚無』を使用する他ありませんね)
前例主義の宗教庁が慣例を破り、浮遊大陸にて『大降臨祭』を開催する。それはアルビオン王国に対してロマリア宗教庁が非常に大きな貸しを作る事を意味する。さらにトリステイン王国の後継者とアルビオン王家の後継者の婚姻の儀の同時開催。結果としてアルビオンのみならずトリステインもまた、ロマリアに頭を垂れるだろう。そして、トリステイン王国の『虚無の担い手』の懐柔。ヴィットーリオは今回の一連の行幸によって大陸四王国の内、三国を自らの影響下に置く事を意図していたのだ。
「聖下!」
切り札たる最大の虚無を詠唱し、精神を疲弊させた教皇をジュリオは背後から支えた。
「……大丈夫です、ジュリオ」
使い魔に頷きかけたヴィットーリオは視線を正面に戻す。『世界扉』によって断裂され、消滅間際のゲートによって首より下の肉体を異界に放逐された長身異形の亜人。その頭部は両の眼を開いたまま、禊の間の床面に転がっていた。その傷口からは見たこともない紫色の体液が溢れ、石床を染めていた。後方には膝を突いたヴァリエール特務官が茫然自失の状態にあった。今が、長身異形の亜人の悪しき影響を取り除く好機。そう考えた教皇は特務官の元へ歩を進める。
「ミス・ルイズ、私の話を聞いてください」
「……え、聖下、な、なにを……」
鈍いながらも反応が返ってきた事を確認したヴィットーリオは、自身の目的について語り始めた。その要点は単純であった。ブリミル教が示す理想と現状のハルケギニア大陸の落差を解消し、等しく万人に幸福をもたらす。その為に四王国に発現する『虚無の担い手』と『虚無の使い魔』を参集し、忌まわしいエルフから『聖地』を奪還。そして、聖地の最奥に眠る『真の虚無』を開放し、その絶大なる力とブリミル教の正しき教義を以って世界を統一する。
「力と理性。この二つを柱として、私達はこの世界を統一します。勿論、一朝一夕に事が成るなどとは思っておりません。多くの困難が立ち塞がる事でしょう。ルイズ・フランソワーズ・ルブラン・ド・ラ・ヴァリエール嬢。どうか、この世界に住まう全ての人々の為に私達に力をお貸しください」
教皇ヴィットーリオは心底からの言葉を尽くした。それに対するルイズの反応は。
「……うふ、うふふ、ねぇ、きいた? わたしのせる。せいかはちからでぜーんぶかいけつできちゃうんだって」
床に転がる使い魔の生首を、まるで愛しい我が子の様に自身の胸に掻き抱いたルイズは童女如く無垢な笑みを浮かべ囁いた。
「すごいわねぇ」
その瞳からは光が失われている様に視えた。
「ちっ」
嫌悪感を示すようにジュリオは僅かに顔を背け、舌打ちした。対照的にヴィットーリオは哀れみを込めた声色で言った。
「年端もいかぬ少女の魂には、些か過酷であったのかも知れませんね」
心が壊れてしまっては『虚無の担い手』として使い物にならないかもしれない。教皇は瞑目し『始祖の聖印』を切ろうと腕を振った。
「始祖の慈悲があらん事を……っ!?」
腕が動かない。いや、腕だけではない。首から下が消失してしまったかの如く、全く身動きが取れないのだ。
「聖下! これはまさか!?」
それはジュリオも同様であった。しかも自身だけでなく、開放されたはずの竜種軍団も再び拘束を受けていた。使い魔を確認する為、後方を振り返った教皇の耳に、渋みを含んだ美声ながら平坦な声色が届いた。
「……確かに聞いた。どうやら、教皇聖下は大した夢想家であるようだな」
視線を前方に戻した教皇の瞳に映ったのは、ルイズの腕の内から独りでに浮かび上がる長身異形の亜人の生首だった。
「なっ……」
「うそ、だろ……」
絶句する二人を尻目に、セルが咆哮する。
「ぶるあぁぁぁぁぁぁ!!」
ギュバッ!
セルは、瞬時に首から下の肉体を再生させた。全身に纏わりつく透明な体液を腕の一振りで払った長身異形の使い魔は、背後の主の前に跪いた。
「見事な演技だったぞ、ルイズ。勝利を確信した時こそ人の口は緩むものだが、教皇の真意をこうも容易く引き出せるとはな」
「あ、あ、あたりえまでしゅ、せりゅ」
実は演技どころか精神崩壊一歩手前まで陥っていたルイズであったが、使い魔の手前、必死に取り繕うのだった。
(それにしても、聞いてもいない事をああもベラベラ喋るとはな……ふん、『ヤツ』の目にもこうまで滑稽に映っていたということか)
かつて、神と融合した異形異星の戦士との初戦において、巧みな誘導にかかり自身の情報のほとんどを漏らしてしまったセルは自嘲気味に思考した。そして、瞬時に思考を切り替え本来の目的を果たす為に言葉を発した。
「だが、なんという事だ、ルイズ、我が主よ。一等礼装の外套が私の体液に塗れ、見るも無残に汚されてしまったとは」
「え、い、いや別にそこまでは……」
「この代償は高く付く、実に高く付くぞ。理解しているのだろうな、教皇?」
困惑するご主人様を余所に使い魔たる長身異形の亜人はゆっくりと教皇へと近づいた。二.五メイルを超える亜人がヴィットーリオを見下ろし、数瞬。
パァンッ! ゴロゴロゴロッ
鋭い破裂音と共に教皇の身体が宙に浮かび、次の瞬間、石床を転がった。長身異形の亜人が、宗教庁の頂点にして始祖の代理人たる教皇聖エイジス三十二世の横っ面にビンタをお見舞いしたのだ。無論、究極の人造人間であるセルが本気でビンタを放てば、教皇の首から上が消失してしまう為、手加減していた。であったとしても、セルの膂力である。ヴィットーリオの意識はインパクトの瞬間に消え失せ、頬骨は砕け、歯列はその大半を失い、頚椎にも重大な損傷を受けてしまった。
「ちょ、ちょ、ちょっと! セル、あんた何しでかしてんのよッ! 聖下にいきなりビンタをかますなんて! し、しかもかなりヤバい音がしたわよっ!?」
「無茶はしない、と言ったはずだぞ、ルイズ。なあに、夢想に囚われた教皇聖下にほんの少し痛みというモノをお教えするだけだ」
「ほ、ほんの少しって、あんた」
「ルイズ、君はそこで喚く事しか出来ない哀れな使い魔の相手をしてやるといい」
「あんたは、本当に、もう……任せて大丈夫なのね?」
「無論だ、我が主よ」
無駄にいい声で、無駄にいい返事を返した使い魔をジト目で見送ったルイズは、改めて、念動力によって首から下の自由を奪われた『ヴィンダールブ』ことジュリオ・チェーザレに向き直った。
「一応、セルもああ言っているから、聖下は、その、多分、大丈夫……よね?」
「ふざけんなよっ! なんで疑問形なんだよっ! さっさとあの化け物野郎を止めやがれ、この胸なしのへちゃむくれがっ!」
ピクピクッ
主である教皇の危機を前に、聖職者らしさを取り繕う事も忘れたジュリオの物言いにさすがのルイズの表情筋も震える。
「それが貴方の素なのかしら? ジュリオ・チェーザレ助祭枢機卿猊下」
「うるせぇ! 気取ったおしゃべりごっこなんざクソ喰らえだっ!」
「あ、そう」
聞くに堪えない罵詈雑言を喚きだしたジュリオに辟易したルイズは、懐から総レース仕立てのハンカチを取り出し、宙に放った。
シュルシュル
「むぐっ!?」
ハンカチはまるで意思を持っているかのようにジュリオの口に巻き付き、猿轡となった。
「セルのそれとは比べ物にならないけど、私にも念力は使えるわ」
ルイズはさらにもう一枚のハンカチを取り出し、酷薄な声色でジュリオに告げた。
「このハンカチで貴方のその形のいい鼻を塞げば、貴方は死ぬ。手も足も口すらも出せないままに、ね」
特務官の瞳が鋭さを増す。
「貴方は、いえ貴方達は私にとって何よりも大切なセルを傷付けてくれたわ……どうしたものかしらね、この湧き上がるような憎悪を。どうしたものかしらね、この突き上げるような憤怒を」
(こ、この女……)
宗教庁の諜報機関『教皇の手』を束ねる者として、様々な国家の暗部を間近に視てきたはずのジュリオをして、戦慄させ得るほどの凄みをルイズは発していた。
「力と理性を以って世界を統べる。聖下はそうおっしゃったわ。なら、たった今、私とセルの力の前に為す術の無い貴方達には世界を統べる資格なんかないわ」
自分と同年代の少女の痛烈な言葉にハンカチ越しに歯噛みする事しか、助祭枢機卿に出来る事は無かった。
ズンッ! ズギュンッ! ズギュンッ! ズギュンッ!
長身異形の亜人はピクリともしないまま倒れ伏している教皇の背に自身の尾を突き立て、生体エキスを注入する。
「はっ!?」
全ての傷が癒え、意識を取り戻したヴィットーリオに言った。
「立て」
「くっ」
パァンッ! ゴロゴロゴロッ
ヴィットーリオが立ち上がった瞬間、再びの一閃。先程とは反対の頬を叩かれた教皇は人形の如く、地面を転がった。
ズンッ! ズギュンッ! ズギュンッ! ズギュンッ!
もう一度、生体エキスによる治療を行ったセルは教皇に平坦な声色で告げた。
「お前は始祖『ブリミル』の力と遺志を継ぎ、この世界を力と理性で統一すると言ったな。始祖がお前にそのような神託でも下したというのか?」
「し、始祖のご遺志は『正伝』に記されているのです。『大災厄』を葬る為、自らが属する世界を守る為、世界の全ての人々を救う為、始祖はあえてどのような汚名をも甘んじて受けると、気高き覚悟と意志をお示しに……」
「だが、『ブリミル』は私に言ったぞ。世界などどうでいいい。俺は俺が一目惚れした女の子の為に命を懸けるんだ。『思春期なめんなファンタジー』とな」
「なっ!」
ヴィットーリオは絶句した。彼はセルが『大災厄』を引き起こした『月の悪魔』だと本気で考えていたわけではなかった。それは担い手や各国の首脳陣を揺さぶる為の方便に過ぎなかったのだ。しかし、目の前の長身異形の亜人は始祖本人の言葉を語ったのだ。通常であれば、口から出まかせに過ぎないと一笑に付す事が出来ただろう。
「な、なぜ、その神言を……」
『思春期なめんなファンタジー』。それは『正伝ゼロ・ファミリア』の最終節に脈絡なく記された一文であり、宗教庁においては歴代の教皇以外は決して知る事が出来ないはずの神の言葉であった。
「私は『月の悪魔』ではない。フフ、今の私に言える事はそれだけだ」
「そんなはずは。始祖は卑しき我欲を捨て去り、全ての人々の為に……」
「ブリミルが、おまえにそう言ったのか?」
「……」
宗教庁に受け継がれた教え。始祖の足跡を余す事無く記した、とされる『正伝』。そして、母に捨てられたヴィック少年が、そうであれと願った偉大なる始祖。ヴィットーリオの中に存在する始祖ブリミルは、人としての弱さを克服し、超然とした魂を以って、世界を救った真の英雄。そうでなければならなかった。そう思い込まねば少年の心は、母から捨てられた絶望に耐えられなかったのだ。
「私は……どうすれば……」
打ちひしがれた様子の教皇に長身異形の亜人の囁きが忍び寄る。
「最後に一つだけ、助言してやろう」
セルの耳打ちを受けた教皇は崩れ落ちる様に膝を突いた。
「よくよく考える事だ、教皇聖下」
すでに用は無いとばかりに跪くヴィットーリオに一瞥もくれる事なく、長身異形の亜人は主の元に戻った。
「大丈夫なの、セル? その、教皇聖下は……」
「問題ない。生体エキスによる治療は完璧だ」
「いや、そうじゃなくて」
「無論、肉体だけではなく精神にも問題はない。最も、知り得た情報を自身の内で整理するには時間を要するだろう」
「まあ、そうでしょうね。なら、今回の目的はひとまず達成、という事でいいのね?」
「勿論だ、我が主よ」
「……ほんとに?」
「本当だとも。教皇聖下が自称される通り理性を備えておられるならば、な」
「じゃあ、戻りましょう。一応、衛士隊のフネが残っているけど姫様と陛下、それにマザリーニ卿に速くご報告しなくちゃいけないから、瞬間移動で」
「承知した」
「では、これにて失礼いたしますわ、ジュリオ・チェーザレ助祭枢機卿猊下。もし、この後の拝謁が叶いますれば、今一度『聖茶』と『聖菓』をご相伴にあずかりたく存じます。教皇聖下にも何卒良しなにお伝えくださいませ」
優雅に一礼するルイズの周囲をセルの尾が取り囲む。
ヴンッ!
次の瞬間、少女と亜人は禊の間から消えた。
「くっ!?」
同時にジュリオを戒めていた念動力が消え、猿轡となっていたルイズのハンカチが床に落ちる。たたらを踏んだジュリオはすぐさま体勢を整え、ヴィットーリオの元へ向かう。
「聖下!? ご無事ですかっ!」
主たる教皇に駆け寄り、跪くその顔を覗き込んだジュリオは閃く輝きを見た。そして。
「ジュリオ、私は……」
ザシュッ
「……え? せ、聖下、なんで」
信じられないモノを見た、そんな表情のまま、ジュリオ・チェーザレは石床に倒れ伏した。その身体から流れ出た血液が湖面の様に床面を拡がる。
「……」
誰よりも信じ、頼みとしていた使い魔の少年の返り血を浴びた教皇が立ち上がる。その右手には少年が護身用にと手渡した美麗な飾りを施された短剣が、握られていた。
(フフフ、それでいい、ヴィットーリオ・セレヴァレ。お前の覚悟の程、確かに見せてもらった)
天蓋が開放された小楼閣、禊の間の上空数百メイルに一体の異形の存在があった。長身異形の亜人セルの分身体の一体。本来であれば帝政ゲルマニア皇帝アルブレヒト三世にその力を貸し与えているはずであった。
(使い魔が生きている限り、主たるメイジは次の使い魔を召喚できない)
それは、ハルケギニア大陸におけるメイジと使い魔との間の不文律であった。つまり、現在の使い魔が死ねばメイジは次の使い魔を『サモン・サーヴァント』によって召喚する事が出来る。最強と呼ばれる虚無の使い魔といえども例外ではない。
ルイズの使い魔である本体セルは、教皇ヴィットーリオに囁いた。四体の長身異形の亜人と、ロマリアを除く主要各国の首脳陣が共有するに至った『セル相互抑止』について。
そして、さらに。
(もし、お前が何もかもを捨て去ってでも理想を実現させ得る力を望むならば、ジュリオを殺せ。そして、『サモン・サーヴァント』を唱えるのだ。そうすれば最後の長身異形の
亜人がおまえの使い魔となる)
ヴィットーリオはセルの言葉に屈した。
(最後の狼煙もやってきたか)
上空のセルが東方を向く。亜人の超視力は数リーグ先のフネから発射された砲弾、すなわち『第三世代型結晶石多弾頭砲弾』が超音速で飛来する様を捉えていた。
後に、ハルケギニア大陸において『第二次王権守護戦争』と称され、もう一方の当事者であるエルフ族においては『精霊救済戦争』、あるいは『鏖殺戦争』と渾名される戦乱の始まりであった。
ゼロの人造人間使い魔 第六章 大降臨祭 完
第七十話を投稿いたしました。
ご感想、ご批評のほど、よろしくお願いいたします。