イザベラの住居であるプチ・トロワは、広大なヴェルサルテイル宮殿の中でも、多くの敷地を割いて建造された国王専用の小宮殿グラン・トロワの、さらに内側に存在していた。宮殿の中の小宮殿の、さらに小宮殿でイザベラは平時を過ごしていた。曲がりなりにも、大陸最大の王国の継承者たる第一王女の住まいとして、贅と趣向を凝らしたその外観、内装、家具類などは、「ヴェルサルテイルの中の小宇宙」とまで謳われていた。
当然、それらを維持管理するためには、多くの人員を必要とした。執事、侍女、召使、警護など、プチ・トロワには、同規模の貴族の屋敷の数倍の人間が働いていた。
そんな、大勢の使用人の内の一人が、プチ・トロワの内庭を巡る回廊を歩いていた。年のころは、二十前半。輝く金髪を飾り気のない白い帽子に押し込み、女官のお仕着せを一分の隙もなく着こなしている。
「ふう、姫さまもセルさんも、お戻りになったばかりだというのに、一体どちらに往かれたのかしら?」
彼女の名は、クララ・ド・モンフォール。ガリア王国の中流貴族モンフォール男爵家の三女である。
「やっぱり、シャルロット様についての通達かしら?あんなにお怒りになられた姫さま、セルさんがいらしてからは初めてだったし……」
クララは、イザベラに仕える多くの女官の中でも、数少ない「お気に入り」だった。セルを召喚する前のイザベラは、第一王女という重責と、王族でありながら、魔法の才に乏しいという劣等感から、その性格は、陰湿と酷薄が同居し、プチ・トロワのほぼ全ての使用人から、「傲慢で癇癪持ちの無能姫」と陰口を叩かれていた。
だが、クララだけは、イザベラに対して強い共感の念を感じていた。三女であるクララは、常に上二人の姉と比べられて幼年期を過ごした。そんなクララが、ある時、内庭の隅で一人泣くイザベラを見かけた。その日は、彼女が苦手としていた魔法の鍛錬の日だった。いつもと同じで、芳しい成果は上がらなかったものの、おべっか使いの教育係が適当な世辞を言い立てると、イザベラはいつもの高慢そうな表情のまま自室に戻った。しかし、イザベラは、教育係の賞賛が心無い嘘であることを正しく理解していたのだ。誰も知らない場所で一人、悔し涙を流すイザベラを見たクララは、孤独な王女に自分自身を重ねた。
それ以来、献身的に尽くすようになったクララに対して、イザベラもまんざらでもない様子だったが、彼女自身を大きく変えるほどの影響はなかった。
状況が変わったのは、二ヶ月ほど前だった。新しく王女の護衛となった花壇騎士の案内で、珍しく狩りに出かけたイザベラは、予定の時間を過ぎても、プチ・トロワに戻らなかった。クララたち使用人も、いよいよ大事だと騒ぎ出した。しばらくすると首都リュティスでは、これまた珍しい大規模な地震が発生した。クララたちも後で知ったことだが、リュティス近郊のアルハレンドラ公爵領が、謎の大爆発によって消滅した余波であった。
さらに混乱が増すプチ・トロワに、イザベラは突如、空からの帰還を果たす。二メイルを大きく超える長身と筋骨隆々の体躯を誇る、今だかつて誰も見たことのない亜人の腕に抱かれながら。
イザベラが、使い魔として長身異形の亜人セルを召喚してから、すべてが変わった。
劣等感と暗殺の恐怖に押し潰されていたイザベラは、それらから解放されたかのように明るく年相応の笑顔を見せ始め、反比例するようにヒステリーを起こさなくなった。彼女が最も、コンプレックスを抱いていた従妹シャルロット姫に対する感情さえも目に見えて変化していった。
クララは、そんなイザベラを見て、これですべてがうまくいくのではないだろうか?という希望的観測を抱いた。その後、イザベラはプチ・トロワにおいて、永く語り継がれる「北花壇騎士団壊滅事件」を引き起こし、諸国漫遊と称して、一ヶ月近く小宮殿を留守にしてしまったのだが。
「どうも、セルさんといると、姫さまはご自身の欲望に正直になられすぎると言うか、はっちゃけすぎるというか……」
ヴンッ!
クララは、心底から、主たる王女を心配して言っているのだが、常に悪い間、というものは存在するのである。
「いつまでも、あんな放蕩なご様子じゃ、王配をお迎えになられるどころか、お好きな殿方が現れるのさえ、いつになられるのやら……」
「……ほほう、クララ。おまえ、今なんと、お言いだい?」
「!!?」
ドッドッドッ
クララは、自身の心臓が早鐘のように鳴り響き、全身に冷や汗が浮かぶのを自覚した。背後から聞こえるのは、そこにいないはずの主の声。それは、まるで、かつての酷薄極まる「無能姫」を思い起こさせるような凍てつく声色だった。
「あっ、あの! ひ、姫さまっ! その、い、今のは!……」
「……セル、やれ」
イザベラから発せられたのは、無慈悲な制裁宣告だった。
「承知した」
ブワッ!
「あ~~れ~~~~!!」
ズバシャンッ!!!
哀れ、忠実なる女官クララは、余計なお節介を呟いたばかりにセルの念動力によって、空高く放り投げられ、中庭に新設された噴水に叩き込まれたのだった。
「まったく、わたしがいないと思って、好き放題にいいやがって、クララのやつ……」
同僚の侍女たちによって、噴水から救出されるずぶ濡れのクララを見ながら呟くイザベラ。その表情からは、そこまで悪い感情は読み取れなかった。
「自分だって、未婚のくせに。なあ、セル?」
「わたしには、理解できない領域だな。さて、イザベラよ。制裁も済んだ。父王ジョゼフへの謁見、覚悟はできているのかな?」
イザベラは、使い魔からの試すような問いに、ややためらいがちに答えを返す。
「……覚悟なんて、ないよ。でも、会わなきゃ駄目なんだ。お父さまと会って、ちゃんと……」
「会う、そう決めているならば、問題はない。ジョゼフ王の「気」は、わたしも、まだ知らない。瞬間移動は使えんぞ」
「別にいらないさ。お父さまは、すぐそばのグラン・トロワか、ヴェルサルテイル宮殿の謁見の間にいるはずだ。歩いてすぐに……」
ドゴォォォン!!
イザベラの言い終える前に、宮殿内に轟音が響き渡った。
「な、なんだ!? 今の音は!?」
イザベラが周囲を見渡すと、プチ・トロワの建物の奥、ヴェルサルテイル宮殿の中心部付近から煙が立ち上っているのが見えた。
「あ、あっちは、宮殿の中枢区画がある方角だ……ま、まさか!?」
使い魔を従えたイザベラは、父王がいるはずのヴェルサルテイル宮殿、謁見の間に向かった。
大陸で最も、隆盛を極める大国ガリアの中枢たるヴェルサルテイル宮殿内の謁見の間は、見るも無残な有様だった。式典などを執り行う際には、数百人の人間が余裕を持って参加できるメインホールが、瓦礫によって埋め尽くされており、至るところから悲鳴や怒号が発せられていた。瓦礫の下には、かなりの数の人間が生き埋めとなっているようだった。
「ど、どうなってるんだ? い、一体、何が……」
「……」
見慣れたはずの光景のあまりの変貌ぶりに、呆然と呟くイザベラ。だが、主の背後に控えるセルは、阿鼻叫喚のるつぼと化した謁見の間を冷静極まる視線で睥睨しながら、状況を推察していた。
(この場に残る力の余韻、本体の主が行使した「虚無」の魔法と同種のものだな。「神の頭脳ミョズニトニルン」の主、ガリア王ジョゼフ一世か。「ミョズニトニルン」の女の「気」は、首都から西方に向けて移動中のようだな。おそらく、行き先は軍港都市サン・マロン……)
セルは、イザベラに召喚される前に行った事前調査によって、サン・マロンが、ガリア両用艦隊の根拠地であり、「実験農場」と呼ばれるガリアの極秘兵器工場を擁する重要都市であることを知っていた。誰にも気付かれずにほくそ笑むセル。
(フフフ、わたしが予想していたよりも、早く「アレ」が完成したというわけか。どうやら、第三の目撃者は必要なかったようだな)
「おお! 殿下、ご無事でございましたか!?」
僧服を纏った小太りの男が、イザベラに近付いてきた。
「バリベリニ卿! い、一体何が起こったんだ!? お父さまはご無事なの!?」
ロマリア出身のバリベリニ助祭枢機卿は、宮廷の祭事を取り仕切る儀典長を務め、アルハレンドラ公爵亡き後は、王宮内の調整役を自認している人物だった。儀典長としての能力は高いものの、背後にロマリアの意向が見え隠れすることが多い為、調整役としては、本人が考えているほどの影響力を持ってはいなかった。
「お、王弟派の花壇騎士どもが、よりにもよって御前会議の最中に、反乱に及んだのでございます!! そ、それをジョゼフ陛下が……」
バリベリニは、直前の御前会議の様子を語り始めた。
ガリア王国の政事を実際に差配するための御前会議は、本来であれば、その名の通り国王の臨席を以って開催されるのが通例となっていた。
だが、当代のジョゼフ一世の治世にあっては、「無能王」たる彼が政治に興味を持つことは稀であり、いつも通りならば、開会の宣言を行った後は、自身の住居であるグラン・トロワに引っ込むというのが常であった。
だが、今日に限っては、ジョゼフは、彼曰く退屈極まりない御前会議を傍聴するどころか、種々の懸案事項に対して、まるで名君ロベスピエール三世ばりの弁舌をふるい、鮮やかに捌いてさえ見せたのだった。バリベリニをはじめとする会議に参加していた重臣たちの困惑を余所に、会議はつつがなく進行し、閉会の宣言を残すばかりとなった、その時。
バガンッ!!
謁見の間に通じる大扉が、轟音とともに弾け飛び、複数の騎士が杖を構えながら、姿を現した。彼らは、皆一様に花壇騎士の正装に身を包んでいた。
「な、何たる無礼を! 神聖なる御前会議に乱入するとは!! 親衛隊は何をしている!? この狼藉者共を捕らえよ!!」
会議の進行役を務めていたバリベリニが、大声を張り上げるが、謁見の間周辺を警護しているはずのガリア親衛騎士団の精鋭が姿をみせることはなかった。
「親衛騎士団の半数は、すでにわれらガリア解放義勇軍に合流しているのです、枢機卿猊下。抵抗は無意味です」
先頭に立つ若い騎士が、バリベリニに告げる。
「な、なんだと!?……」
「おお、だれかと思えば、カステルモールではないか? なに? ガリア解放義勇軍とな。ははは、カステルモールよ! 余はおまえを見くびっていたようだ。ここまでユーモアに溢れた男だと知っていたなら、娘の守役などにせず、余の直属にするべきであったな!」
驚愕するバリベリニを押し退けたジョゼフが、高笑いとともに言い放った。
「愚かな「無能王」よ。おまえは、シャルル殿下をその手に掛けただけでは、飽き足らず、シャルロット殿下の御命さえも奪おうとした! もはや、これまでだ! これ以上の簒奪者の専横を、われら真なるガリア騎士は、決して許しはしない!!」
今は亡きオルレアン公シャルルに忠誠を誓うカステルモールら、王弟派は地方のみならず中央でも、少しずつ同志を増やしていた。そんな折に、彼らの元へ、最も恐れていた報せが齎される。
シャルロット殿下、幽閉さる。
カステルモールら、急進派は蜂起を決断した。御前会議を急襲し、ジョゼフと現王派を拘禁する。親衛騎士団も大半が、蜂起後の地位保全を条件にこちら側についた。守りを引き剥がされた「無能王」を捕らえるなど容易だ。
だが、カステルモールは知らなかった。標的である「無能王」もまた、彼らと同じ事を考えていたのだった。御前会議を進めながら、少しずつ呪文を詠唱していたガリア王。
「まあ、ここらで一区切りとするも悪くは無いな。物は試しと御前会議を真面目にやってみたが、やはりつまらんしな」
軽やかな動作で杖を振り下ろすジョゼフ。勝利を確信していたカステルモールの反応が遅れる。
(ふん、無能王の魔法など取るに足ら……)
「エクスプロージョン!!」
ズゴォォォォ!!
バガガガッ!!
謁見の間の天井面の境に光の線が奔ったかと思うと、天井を構成していた巨大な石群が、突如支えを失ったかのように落下した。
カステルモールら、ガリア解放義勇軍と御前会議に出席していた名門貴族の当主たちは、等しく巨石の下敷きとなった。
ジョゼフの近くに居たバリベリニだけは、巨石の直撃を免れていた。
「な、な、なんという……」
「さ~て、余はもう行くぞ、バリベリニ。もうここには何一つ余の心を動かすモノは無いからなぁ」
「へ、陛下、あなたは、な、なにを……」
謁見の間を一瞬で半壊させながら、まるで散歩にでも出掛けるかのような気安い言葉を吐く王に、言い知れない恐怖を感じるバリベリニ。その後、天井を失った謁見の間に巨大な怪鳥型ガーゴイルが飛来する。身軽な動作で、ガーゴイルに乗り込んだガリア王ジョゼフ一世は、もはや自身の宮殿を省みることなく、西方へと飛び去ったのだった。
第四十四話をお送りしました。
次話で、第四章は一区切りとなります。
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