長くて眠くなるかもしれないのでコーヒー片手にお願いします。
それではALO編最終話です! どうぞ!
日が落ち、点々と規則正しく伸びる街灯が真冬の闇夜を僅かに照らしていた。
突き刺さるような冷たい空気があたりを包むのは、季節に従って降り始めた雪のせいだけではない。
暗く厚い雲に隠れた月が少しずつ顔を覗かせることにより、その冷気の正体が露わになっていく。
「何でだよ……」
キーの高い、粘り気のある声が震えて口にする言葉は疑問。
だがそれは俺に向けられたものではなかった。カチカチと歯を鳴らしながら男は虚空にぶつぶつ呪詛を吐き続ける。
「いい加減あきらめろ須郷。盗み出した世界でさえ、お前は王になれなかった」
俺の言葉がトリガーとなったのか、現実逃避に走り始めていた呪詛がピタリと止む。
焦点が外れた瞳がかろうじてこちらに向いたことを確認した俺はさらに言葉を重ねた。
「それにあの男、茅場はどんなときでも逃げなかったぞ?」
「……その眼だよ」
月明かりに照らされた須郷の姿が小刻みに震える。
「その眼が気に食わねぇんだよ! 何でも悟ったようなその眼がッ!!」
脱色した髪の毛を掻き毟りながら、須郷は右手に握ったナイフを振り回す。
そしてその切っ先をこちらに向けて咆哮を飛ばしてきた。
「茅場も、あの小僧もだッ! あいつらさえいなければ俺は……神にだってなれていたんだ!!」
「盗んだ世界でふんぞり返ることに意味なんてねえよ。お前は痩せこけた安い自尊心で自滅した―――偽りの王だ」
「殺すッ!!」
細い目を限界まで見開き、狂ったように奇声を上げて須郷は俺を睨み付けてくる。
「お前を殺したら次はあの小僧だッ! その次はお前と一緒にいたあの女を殺してやる!お前の死体の前でたっぷり痛めつけてから――――」
狂人の言葉が終わる前に、俺は駆けだしていた。
あの世界で繰り出す目にもとまらぬ速さ、とまでいかなくとも長年培った重心移動と足運びで瞬時に須郷の懐に入り込み、そのままの勢いで掌底を叩きこむ。
「ぐゥ!!」
ひしゃげた声が上がるのを聞き流して、今度はサバイバルナイフを持つ須郷の右腕伸ばして肘の部分に膝蹴り。
「ギャアアアアァァァ!?」
ゴキッ!と鈍い音とともに反対に曲がった狂人の右腕を一瞥して回し蹴りを腹部にぶつける。遠心力を得た回転運動は移動を妨げる男を巻き込むと、その身体をふき飛ばした。
「あぁぁ……腕がァァ!! い、痛いィィ!?」
全身を襲う痛みに耐えきれず須郷は体をよじらせていた。回し蹴りの勢いで駐車されたバンに叩きつけられてなお意識を保っているのは、強靭な精神力ではなく臨界点を超えた痛みに脳が気絶さえ指示できないせいだろう。
そんなもがく姿は今の俺に不快感しか生まない。
SAO未帰還者はこんな屑に時間を奪われたのだ。その事実が俺の内面にどうしようもないほどの怒りを湧きあがらせる。
俺は須郷が落としたナイフを拾い上げて柄を握った。
「お前だけは絶対に許さない」
不意に数秒前の須郷の言葉が甦る。
俺を殺した後はキリト、ユウキを殺す―――。
こんな脆弱な刃を振り回してこの男は、俺の大切な人たちを殺すと吐き捨てたのだ。
あの世界で握った剣は重かった。そして命を預けるに値する強さで俺を生かしてくれた。
だがこのナイフは軽すぎる。持ち主の穢れた欲望と醜い殺意しか乗せない凶刃に、世界を生きる重さなど宿るものか。
「ァァァ……うぅあァァ……」
メガネの奥で血走った瞳が俺を見つめていた。
恐怖を顔面に浮かばせた罪人は関節の外れた右腕をかばいながら這いずる。ナイフを持った死神の断罪から逃れようと必死に身体を揺らす。
「逃げるな」
「ィィィ! うヒィ!? ヒィィィ!!」
甲高い悲鳴を上げる須郷との距離を徐々に縮めていき、俺は呟く。
「これで終わりだ」
そして月の光を受けて鈍く輝いたナイフを振り上げて―――
「ヒィィィィィ……」
須郷の眼球が裏返ったことを確認してから俺はナイフを握る手を開いた。
「お前なんか百回殺しても足りないくらいだ」
意識を失ってだらりと伸びた須郷に怒りを込めた言葉をぶつける。
この男のやったことはあの世界に生きた全ての人を冒涜する許されざる行いだ。
この場で殺してすべてを終わらせた方が後腐れもない。
「だけどお前を殺してそれで決着なんて絶対に彼らが許さない」
あらかじめ用意していた拘束具で両腕を縛るとその体を駐車場に転がす。
「一生、あの世界の重さに魘されてろ」
俺は須郷に背を向けて駐車場から離れるために歩き始めた。
「終わったか?」
「少し時間がかかったけどなんとかね」
ゆっくりと深呼吸をして精神を落ち着かせる。肺に取り込まれる冬の空気が熱を持った身体を冷ましていくことに心地よさを感じながら、俺は待機していた車に乗り込んだ。
事態の決着を確認した樹は安堵の表情を見せるとすぐに無線を繋いだ。
「私だ。駐車場内で倒れている男の確保を頼む」
そして無線を切って改めて俺のほうを見ると途端に顔を青くした。
「ケガをしてるじゃないか! 早く応急処置を」
「大丈夫だよ父さん。見た目ほどひどくないし」
ぱっくりと切れた袖からのぞく腕が、赤く染まっているのを見て俺は苦笑した。
過剰防衛を考慮してわざと一撃もらったが軽く皮膚が裂けた程度だ。内臓損傷と肘の脱臼まで負った須郷と比べるまでもない。
「それにこれだけは誰にも任せたくなかった。俺の手でけじめをつけるべきだって……そう思ったから」
ぼんやりと照らされる駐車場と降り続ける雪。その景色の中に、自転車に跨った黒ずくめの少年が加わるのを見て、俺は小さく笑みを浮かべた。
「安心してお姫様に会って来い」
「楓、何か言ったか?!」
「ううん、何でもないよ」
とにかく治療を! と慌てる樹に大丈夫だと言い聞かせながら、やってくる疲労感を紛らわせるために、窓の外へ視線を向けた。
「……もう少しだけ、俺は力を借りるぞ?」
窓の向こうに見えた短剣使い。それはきっと疲労と願望が混ざった幻なのだろう。
だが剣士は苦笑しながらも頷いてくれた。
細見の黒剣を腰に差した少女の元へ歩き出す赤髪の少年。
その姿が遠ざかり、見えなくなるまで、俺はずっと背中を見送り続けた。
―☆―☆―☆―
午前の講義から解放された生徒たちによって賑わうカフェテリア。
その奥まった丸テーブルに陣取った少女が紙パックに入ったジュースをストローで男らしく吸い上げる。
同じくテーブルに据えられた椅子に腰を掛ける俺はその様子に呆れて口を開いた。
「……もう少し静かに飲めよ」
「だってさぁ……キリトのやつ、あんなにくっついて……」
「そうですよリズ……里香さん、一応女の子なんですし」
「一応ってなによ。普通に女の子してるっての」
シリカこと綾野圭子の言葉に仏頂面で反応を返したリズ――篠崎 里香は深いため息を吐いた。
「けしからんなあもう、学校であんな……」
「まああれくらい目をつぶってやれって」
視線の先には階下に広がる中庭。
そして備え付けられたベンチに肩を触れ合わせて座る男子生徒と女子生徒がいる。
「あとシリカ、お前も人のこと言えないくらいにはキリトを見てたよな」
「ちょ、ちょっとカエデさん!」
突如会話の矛先が自分に向いたことに動揺するシリカ。それを今度は面白がった顔をしたリズが攻めはじめる。
「ほほう……? それはそれは」
「うぐぐ……。だって仕方ないじゃないですか。<一か月休戦協定>で二人には不干渉ってことになってるんですし」
「そのことについては私も心底後悔してるんだけどね」
「言い出したのリズさんですよね!?」
がたんと音がたつ勢いでシリカは椅子から立ち上がる。だが一斉にこちらのほうを向いた生徒たちの視線に気が付くと、顔を真っ赤にしていそいそと椅子に座りなおした。
「まったくリズさんは甘いんですよ」
ぼそりと呟いて恥ずかしさから俯いて缶ジュースを口に運ぶ。
「あはは、悪かったってば。でもキリトはともかく、アスナはようやくこっちの世界で落ち着いてきたんだしこのくらいはいいかなって」
「それはそうですけど……」
同じことを思っていたのかしぶしぶとシリカもリズの言葉に同意する。そんな女同士の友情に感心したままでいると、今度はにやりと意地の悪い笑みを浮かべたリズと目が合った。
「で、あんたはどうなのよ」
「ん?」
「あんたがこの時間あの子といないなんて珍しいじゃない」
喧嘩でもしたの?と言いながらリズがこちらを見てくる。あとシリカも若干興味ありげに耳を立てているみたいだが別にそんなことないからな。
「すぐに来るって連絡があった。……と噂をすれば―――」
入口の方に視線をやると、キョロキョロあたりを見回す黒髪の少女がいた。頭に巻いたリボンを揺らして必死にこちらを捜す少女に愛らしさを感じながら、俺は手を振って場所を伝える。
「おーい、こっちだユウキ」
途端に顔をぱっと明るくさせて、ユウキがぱたぱたと近寄ってくる。
「ごめんカエデ、待たせちゃったかな……?」
「俺も今来たところだから平気だよ」
嘘つけ!という二つの視線が飛んでくるが華麗にスルーして、俺は隣にちょこんと座ったユウキの頭をわしゃわしゃとなでる。
「もう、くすぐったいよカエデ」
「でもこれやらないと午後の講義で調子出ないから」
「なら仕方ないね……えへへ」
じゃあボクも、とユウキはそのまま頭をぽふっと俺の肩に預けてくる。右腕にぎゅっと抱きついて気持ちよさそうに目を細めるユウキ。そんな彼女に得も言われぬ幸福を感じていると、顔をしかめるリズとシリカが視界に入った。
「どうした二人とも」
「はぁ……あんたたち毎回それやって飽きないの?」
「あ、あはは……」
なんだそんなことか。
「ユウキが俺に愛想をつかさない限りは」
「カエデがボクに愛想をつかさない限りは」
同時に発せられた言葉にリズとシリカはなぜか頭を抱えていた。そしてシリカに軽く耳打ちするとリズは立ち上がる。
「まあいいわ。なら私たちはこれで」
「え、なんで?」
「せっかくなんだからリズとシリカもお昼いっしょに食べようよ」
「えっとそうしたいのは山々なんですけど……」
言いづらそうにシリカが口をもごもごさせる。その様子に首を傾げていると深いため息とともにリズがシリカに助け舟を出した。
「あんたらここのカフェテリアで一番売れてる飲み物知ってる?」
「いきなりなんだよ。……オレンジとかりんごのジュースか?」
「カエデ、炭酸系のジュースかもしれないよ?」
「……それを素で言ってるあんたら二人が恐ろしいんだけど」
まあ周りを見てみなさい、とだけ言い残してリズはそのまま去って行った。シリカもこちらにぺこりと一礼するとその後を追いかける。
「一体どうしたんだろうあの二人」
「まあ後で聞いてみればいいんじゃないか?」
「それもそうだね。とりあえずご飯にしよっか」
俺の言葉に頷くとユウキはテーブルに置いた鞄から大小二つの容器を取り出す。
そして大きいほうを俺の前に置くと蓋を開けた。
「おお、これってあのときの……」
色とりどりのおかずが並ぶ弁当箱、そのどれもが一目見ただけで丁寧に作られているのがわかる。視覚と嗅覚に食欲を刺激されて、待ちきれずにそのうちの一つをつまむと口に運んだ。
「間違いない。向こうで作ってくれた弁当だ」
「もう、お行儀悪いってば」
言いつつ、ユウキは笑顔だった。
続いて卵焼きを自分の箸で挟んで、それをこちらに伸ばしてくる。
「はい、あーん」
誘われるがままに口を開いて、卵焼きを受け取るとそのまま咀嚼。ほんのりとした甘さが口の中に広がっていく。
「甘いのとしょっぱいので悩んだけど今日は甘めにしてみたんだ。……どうかな?」
「すごく美味しい。ずっと食べていたいくらいだ」
確実な上達を見せる料理の腕に素直な言葉を伝えると、ユウキははにかんだ。
「俺もお返しで……はい、どうぞ」
同じく卵焼きをつまむとユウキの口に近づけていく。
俺の行動に一瞬だけきょとんとした表情を見せたユウキだが、すぐに察したのか照れ顔で小さく口をあける。
「んっ、はむっ……。えへへ、なんだかいつもよりずっと美味しいよ」
「俺もそう感じてる。ユウキのおかげだな」
「もう、カエデったら……。それじゃあもう一度確かめてみる?」
片目をつむってにっこり笑うユウキ。
春の柔らかい光に輝くその魅力的な提案に即答した俺は、昼休みがもっと長ければなあという今年何度目かわからない願望をこのときも抱くのだった。
―☆―☆―☆―
現実と仮想世界の両方で完全に決着がついた雪夜。
あの日を境に俺たちSAOサバイバーとそれを取り巻く環境は急激に変わり始めた。まずは須郷のことだが、親父の指示により駆けつけた警備員が病院の駐車場で身柄を確保。現状証拠も立証され、殺人未遂、傷害罪の疑いで逮捕された。その後も取り調べで足掻きに足掻いたらしいが、次々に明らかになる仮想世界での非人道的実験が決め手となり、今では判決から逃れるための精神鑑定を申請しているらしい。
そして事件が終わってから聞かされたフルダイブ技術による洗脳。妖精の世界で須郷が行った研究は初代ナーヴギア以外で実現不可能な技術と言う結論が出され、すぐに対策も講じられた。さらに不幸中の幸いというべきか、未帰還者に人体実験中の記憶が残っていなかったみたいで全員が快方に向かっているとのこと。
しかしすべてが丸く収まったわけではない。
ALOをはじめとしたVR技術は世間に大きく批判され衰退、その廃絶も検討されることとなったのだ。VR分野に手を出していた企業の多くは倒産や縮小を余儀なくされ、ALOの総元締めでありアスナの父親がCEOを務めるレクトも壊滅的な被害を被った。
だがそんな風前の灯のVR分野に再び息吹を与えるきっかけを作ったのが、あの茅場晶彦ということに世界は気付いていない。糾弾も劣勢も力技で跳ね返す天才の切り札―――
「―――カエデ。到着だって……」
肩を揺すられて、深い思考から浮かび上がった俺は、呆けたままの顔をユウキに向けた。
「悪い悪い。ぼーっとしてた」
「もしかして疲れてる?」
「いや授業中に適度に寝てたから身体の方はばっちり」
「……授業中に寝るのはよくないよ?」
向けられるジト目を躱して小さく言い返す。
「だって今日は放課後からが本番っていうか……」
「まあボクもすごく楽しみにしてるから気持ちは分かるけどね」
めっ!と人差し指で額を軽く突いてくるユウキに俺は苦笑を浮かべた。
それと送迎してくれた親父の秘書さんから早く降りろというオーラを感じ取ったので慌てて車から降りる。
「相変わらず無骨というか無愛想というか」
「男らしい字だよね」
目の前のドアに掛けられたプレート。
ひと筆で力強く書かれた文字は〈本日貸切〉という簡素なもの。その豪快さは現実でも健在といったところか。
「キリトにアスナ、あとリーファは遅れて到着させるように調整したみたいだから存分に驚かせてやろうぜ」
「ボク、クラッカー持ってきたんだ」
「じゃあ開幕先制攻撃だな」
にやっと笑い合って、俺は木組みの黒いドアを押し開けた。
<アインクラッド攻略記念パーティー>と題されたオフ会を企画したのはリズとエギルとキリトだったのだが、気が付けば俺とユウキが主催者の仲間入りを果たしていた。
会場準備と参加者への招待状の送付など仕事は多く、数日前から悟られないように動き出すのは骨が折れたがキリトたちの驚いた顔を見ることができたので良しとする。
そして主役であるキリトのスピーチや全員の簡単な自己紹介が終わって料理が運び込まれると、最初のしみじみとした雰囲気から一転して底ぬけた明るさが弾ける宴となった。
「なかなかいいスピーチだったぞキリト」
「大きなお世話だ。マスター、バーボンをロックで」
手荒い祝福と親密すぎる祝福の両方を浴びてへろへろになったキリトに軽口を叩く。
アルコールのオーダーを店主に告げるとキリトは俺の隣に座った。
「それとくどいかもしれないけど、改めてありがとう」
「仲間のピンチだ、助けるのは当たり前……と、このやり取りも何回目か分からんな」
拳の代わりに飲み物が入ったグラスを互いにカチンとぶつける。すると直後に琥珀色の液体を満たしたグラスがテーブルを滑り出てきてキリトは目を丸くした。恐る恐るグラスに顔を近づけて……
「……烏龍茶だな」
「当たり前だろ」
してやったりと笑うエギルにキリトが悔しそうに唇を曲げていると、スーツ姿の男が座ってくる。
「よお、お前らも楽しんでるか? エギル、俺には本物を」
「おいおい、いいのかよ。この後会社に戻るんだろう」
「残業なんて飲まずにやってられるかっての。それにしても……いいねぇ……」
女性陣を目で追って、だらしなく鼻の下を伸ばす男――クラインに俺たちはかぶりを振ってため息をついた。どうやら悪趣味なバンダナと女好きという欠点は変わらずのようだ。
「まあ女好きのおっさんは放っておくとして……。エギル、キリト。茅場から受け取ったと言ってた<世界の種子>とやらはどうなった?」
「ああそれなんだけど――」
「すげえもんさ。今じゃ世界中で種が芽吹いている」
キリトの言葉を遮ってエギルは愉快そうに笑った。この巨漢が笑みを浮かべるとやはり下手なボスモンスターよりも迫力がある気が……。そんな言葉を何とか飲み込んで、俺はその<世界の種子>の盛況ぶりに改めて驚嘆した。
ちなみにVR分野を騒がせた茅場晶彦についてだが……。
アインクラッド七十五層での決戦後、自らその命を絶っていたということが明らかになった。だがその死因が異常で自らの脳に大規模のスキャニングをかけて死んだらしい。あいつは今も電脳世界を旅しているはずだ―――と苦笑しながら話すキリトは、妖精の世界で茅場の意識と会話したことを俺に教えてくれた。
そんな天才ゲームデザイナーがキリトに託したものが<世界の種子>だった。
<ザ・シード>と名付けられた完全フリーを謳うこのソフトは言ってしまえば仮想世界を自由に創造することができるプログラムパッケージだ。莫大なライセンス料とVR技術への批判を許容できる企業だけが進出する分野を、あの男は誰でも手軽に使うことができるように整えたのである。
こうして世界に放たれた種子は衰退と廃絶の危機にさらされたVR技術をいとも簡単に生き返らせてしまったのだ。
「今じゃ仮想世界を一つのデータだけで歩くことができるシステムも開発されているらしいな」
「ああ、新生ALOもそのシステムの対象に入ったそうだ」
「これでプレイヤーも資金もがっぽり手に入るって、運営の連中興奮してたぞ」
「上手くいけばいいけどな」
そんな二人との会話を経て、俺は周りに聞こえぬように声を潜めた。
「そういえば二次会に<あの城>は間に合うのか?」
「ギリギリだけど何とかな」
エギルの言葉に、俺とキリトは顔を見合わせて頷いた。
新生ALOを運営する企業に引き渡された旧SAOサーバー。初期化されたカーディナル・システムの奥底にはあるものが眠って―――
「こらぁ~、カエデ~」
不意に暗くなる視界。
その柔らかい感触が手だと気付くのに時間はかからなかった。
「えへへぇ~。だぁれだ?」
「……ユウキ、まさか酔ってるのか?」
「酔ってないよぉ、これはジュースですから~。それと正解したのでぇ……」
えいっ、と言いながらこちらに飛びついて頬ずりをしてくる。いつもと違う間延びした声とほんのり火照った顔。そしてわずかに漂わせるアルコールの香りがユウキを酔わせていることを証明していた。
「……おい、エギル」
「1パーセント未満だから大丈夫だと思ったが……。こりゃ相当弱いな」
これほどアルコールに弱いことを想定していなかったのか、エギルはバツが悪そうに顔をそむけた。突然発覚した驚愕―――俺にとって―――の事実に、俺は顔を引き攣らせてしまう。
「むぅ~カエデぇ、もっと構ってよぉ」
「はいはい、とりあえず水を飲もうな」
頬ずりからの上目づかいにかなり意志がぐらつきかけたが辛うじて自制。
水を用意するようにエギルに目配せすると、ほどなくしてグラスに注がれたミネラルウォーターが運ばれてきた。
「ほらこれでも飲んで酔いを醒ませ」
「え~。カエデが入れてくれなきゃやだ~」
うん、この子酒癖相当悪いな。ノンアルコールを謳った飲み物でも今後は要注意せねばと脳内会議で満場一致させて、苦笑したエギルから水差しを受け取る。
「ほら、ちゃんと俺が入れたぞ」
改めて水を注いだグラスをユウキの前に置く。しかし何に納得がいかなかったのか、あからさまにため息を吐くとユウキは首を振った。
「ちがうよカエデぇ~」
そうして急に立ち上がり、困惑する俺を見てにんまり笑うと。
「お酌はこうやってぇ~」
グラスに入った水を口に含ませて―――
「ちょ、ちょっとユウ――――んむっ……!?」
俺の唇に押し当ててきた。
とっさのことで反応することができなかった俺は抵抗する間もなく、水を蓄えたその柔らかさを無防備に受け止めることになる。
「んちゅ……っ、んっ……ちゅっ、ちゅぷ……っ」
「ユウ――ん……くっ、は……ちゅぷっ」
情けない声が漏れながらも目の前の唇から口内に冷たい液体が送られてくる。ただの水がこれほどに甘美な味に変化しているのはなぜだろう。そんなどうでもいい疑問が浮かんでくるくらいに、目の前の光景は俺の思考力を低下させていた。
「んっ、ちゅう……ぴちゃ…ちゅっ」
水のことなんてすっかり忘れ、口内に含ませた水分が無くなってもユウキはキスをやめようとしない。それどころか身体を密着させて後ろに腕を回そうとして―――
「ふぁあ……」
突然俺のほうに倒れこんだ。
「ユ、ユウキ!?」
慌ててその身体を受け止めると俺は声をかけた。
「すぅ……」
顔を赤くさせて目を回すユウキ。
そしてその反応が寝息となって返ってくることで、俺はこの酔っ払いを何とか落ち着かせることができたのだと遅くなって気付いた。だがこれで事態が解決したとは言えない。
「……とりあえず心当たりのあるやつ。俺とお話しようか」
俺の渾身の笑顔とぶつかった女性陣が急に静まり返る。ユウキが俺のところに来た時もこっそり様子を窺っていたし、やはり犯人はあなたたちだったか。
「大丈夫、まだ二次会まで時間があるから……平気ですよね?」
ユウキを近くのソファまで運ぶと音もなく振り返る。身をすくませる女性陣に再び微笑みかけると俺はゆっくり歩を進めた。
それと口笛を吹いて煽ってたそこのバンダナサラリーマンと巨漢、てめえらもだ。
―☆―☆―☆―
白く長い髪をなびかせて、赤の妖精が漆黒に染まる夜空を翔ける。
現実世界で行われているであろうオフ会を天海舞琴――ハープは適当な理由をつけて辞退していた。
空を切って伝わってくる冷たい風が心地いい。
ALOを運営していた企業が変わり、名実ともに生まれ変わった新しい世界はハープに一抹の不安を与えていたのだが、それもすぐに消え去り、昂揚感と期待を次々に与えてくる。
「……っ!」
だがそれと同じくらい後悔が押し寄せてきたことを感じて、ハープはさらに高度をあげた。
モーティマーやユージーンの前で言いかけたように自分はカエデに特別な感情を抱いている。オフ会の誘いが来たときは飛び上がるくらい嬉しかった。だけどカエデの隣に立つ少女が眩しく映り、彼らは自分の想像がつかないほど深い絆で結ばれているのだと理解した瞬間、笑顔を顔に張り付けて断ってしまった。
自分には剣の世界で生きていたという記憶がない。
そんな超えることができない壁がそびえ立ち、あの大決戦以来、無意識のうちに一歩引いてしまうようになった。
我ながら損な性格だ、そんな風に自らを嘲笑する。
すると聞きたかったあの声が耳に入ってきて、驚いたハープは声のほうに身体を向けた。
「オフ会に来ないと思えば……こんなところで何してたんだ?」
「……一人で、空を漫喫……してた」
「…………そうか」
何かを察したように、カエデはそれ以上聞いてこない。その優しさが胸にじんわりと染み込むと同時に毒のように浸透していく。
このままではこの気持ちが溢れ出てしまう。そしてそれは心優しい彼を困らせることになるだろう。だから…………
「じゃあ、私……帰る、ね」
表情から心の内を悟られぬよう、ハープは背を向けると呟いた。
夜の世界に光る翅に指示を出しこの場から逃げるように加速に入って―――
「―――!?」
突然、自分の加速を上回る運動に身体を引っ張られた。
その正体がカエデだと気付くのと同時に、彼が自分をどこかへ連れて行きたいのだと悟る。
有無を言わせない強烈なスピードで、横切る雲の中を突き進んでいくと大きなシルエットがハープの目に映った。
「え……?」
しかしその形は、ハープがこの世界で見てきたどんなものとも一致しない。月のように大きく、確かな重量を感じさせる雲の向こうにあるなにか。雲中からでもぼんやり分かる形状は円ではない。それどころか三角形などの尖った部分をもっているではないか。影はどんどんその面積を増やしていくと―――。
「っ!」
雲を抜けたハープの前に現れたのは巨大な円錐。
アルンとは比べ物にならない積層構造をもったそれが目に入った途端、ハープの脳裏に電撃的な啓示が降りてきた。
「…………城」
「ご名答」
カエデの顔を見ると彼は不敵な笑みを浮かべていた。
「浮遊城アインクラッド。かつて俺たちが命をかけて戦い抜いた伝説の城だ」
ゆっくりこちらへ向かってくる天空の城は、ハープが辿り着けないと決めつけていた場所。あの世界で生きた人たちの隣に立つには絶対に避けて通れない場所。それが今、ハープの目の前に現れたのだ。
「―――なあハープ」
ハープの隣を飛んでいた赤髪の短剣使いは一歩前に出ると声をかけてくる。
「以前言ってくれたよな? 俺たちのことが好きだって」
そして手を差し出してくるとカエデはハープに笑いかけた。
「俺たちも君のことが好きだ。だからこれからも一緒にいてくれ。一緒にクエストに挑んで、一緒に―――あの城も冒険しよう」
「……あ……」
その言葉はハープの抑えていた気持ちを決壊させるのに十分だった。
思わず声をつまらせて、泣きそうになりながらもカエデの顔を見つめる。胸の中に存在していたモヤモヤが消え去った今、ハープを押さえつけるものは何もない。
離れたところで様々な輝きを放つ翅が一斉に城へ飛翔していくのが目に入る。サラマンダーにシルフ、ケットシーはもちろん、すべての種族が我先にと翅を震わせる光景はハープの心を躍らせた。
「もう、カエデもハープも遅いってば!」
視線を向けるとチュニックとロングスカートに黒剣を吊るした少女が、こちらに飛んできていた。
「ほら二人とも、早く早く!」
「よーし、それじゃあ少し飛ばしますか」
この二人の隣に立つにはまだまだ時間がかかる。そしてその道なりは遠く険しい。だが彼らと共に冒険を続ければ必ずたどり着けるはずだ。赤髪の剣士と紫髪の剣士、その両方から差し出された手を握るとハープは力強く頷いた。
「うん……!」
天空を漂う巨大な城に飛び立つ小さな妖精たち。
雲に薄く覆われた月よりも美しい光の群れは、生まれ変わった世界を祝福する輝きとなって夜空を彩った。
おしり
おわり
ALO編 これにて完結です。
3年に渡る連載でしたが、最後までついて来てくださった読者様に感謝を申し上げます。
本当にありがとうございました!
最後にスポットを当てたハープは今後もちょくちょく出てくる予定です。
元々ユージーン戦の際に手持無沙汰になるカエデの相手役としてその場限りの登場のつもりだったんですが、気が付くとALO編でそこそこ重要なキャラになっていたという(笑)
今後はこれまで投稿してきた話を修正しながら新章を考えていきます。
相変わらずの遅筆ですが今後もお付き合いいただければと思います。
改めてありがとうございました!
※ハープの現実での名前は天海琴音(あまみ ことね)でしたが、これだとゲーム作品のほうに出てくるプレイヤー<フィリア>とリアルネームが重複するとのご指摘をいただきました。(読みは たけみや ことね)
これでは読者様を困惑させる可能性があるので名前を天海舞琴(あまみ まこと)
へ勝手ながら変更させていただきます。
お騒がせして申し訳ありませんでした。