朝の騒動は結局、絵里が自分の暗所恐怖症を全員に告白したことでなんとか事態の収拾を見た。最初は面白がって茶化していた彼女達だが、本心では俺と絵里との間で何かがあった……などとは毛ほども考えていなかったらしく『そんなことだろうと思いました』などと普通に納得している。
てなわけで、朝からひと悶着あったものの現在午前九時。
朝食を食べ終えたμ’sメンバーは練習着に着替えて玄関先に集合していた。
俺も準備を整えて集合場所で念入りにストレッチをしてる真っ最中である。
「では、今日はみっちり練習しますからね!」
『ハーイ!』
海未の一声に全員が良い返事を返した。
さすがに昨日一日遊びほうけていたせいか、今日はやる気十分らしい。まぁなんだかんだいいつつこの子達は歌って踊ること自体が好きなのだろう。昨日と同じくらい目を輝かせていた。
「この合宿では海菜さんがいて下さるので、普段あまり出来ていない練習をしようと思います!」
「四露死苦ぅ!」
「その巨大なハリセンは一体何に使うつもりなのよ……」
紹介に預かったため手に持った片腕くらいはありそうなハリセンをビシッとメンバーたちの方に向け、ポーズをとった。西木野家の有能な執事、御辻さんが用意してくださった特注品だ。しかし、一体何が不満なのか、にこが心から嫌そうな顔でツッコミを入れてくる。
「海菜さん、後は任せていいんですよね?」
「はい。てことで、今日一日君らのコーチを務めることになった古雪海菜です。よろしくお願いします!」
『?よろしくおねがいしま~す』
ハキハキとした俺の挨拶に対して帰ってきたのは彼女たちの気の抜けた声。
またこの変な先輩が何か言ってるよ、などという失礼な感情が浮き彫りになっていた。
「は?なにその返事。……君たち、まだ自分の置かれている状況が分かってないらしいな。よし。全員今から腕立て二〇回三〇秒以内に、はいっ」
そう言い放って手を叩く。
するとここまできて尚状況が読み込めないメンバーが文句を言い始めた。……が。
手に持ったハリセンをまっすぐに彼女たちの方へ向け、満点の笑顔を作った。
「う・で・た・て」
途端、全員の顔が引きつった。
そしておびえたような表情で直立。
『は、ハイッ!』
「うんうん、良い返事。これ以降何か文句言ったらハリセンでけつぶっ叩いて海に容赦なく投げ込むからそのつもりで!」
「め、目が本気にゃー……」
俺の放つオーラから何かを悟ったのか全員大人しく、そして必死に腕立て伏せを開始した。うんうん!その調子その調子。
海未の依頼によると、午前中は『体力、瞬発力向上のトレーニング』をお願いします。との事だ。てなわけで、俺が今までのバスケ人生での経験を生かしてしっかりこいつらを教育する予定である。
「手加減なしでよろしくお願いします!」という彼女たってのお願いなのでご希望に沿えるよう頑張らなければ!
「よし、全員ストレッチは済んでるよな?とりあえずビーチに降りようか」
「う~、絵里ちゃん」
「穂乃果……。私に言ったってどうしようもないわ……」
「な・に・あ・る・い・て・ん・だ?」
『はいぃっ』
なんで怯えてるのかなぁ。
優しく話しかけてるだけなのに。
***
「はい、お疲れさん。お昼にしようか!」
『……』
元気よく全員に呼びかけてみるがあいにくと返事が返ってくることはない。
返事がない屍のようだ。
昔ハマっていたRPGに出てくるメッセージが、現実世界でこれほどまでに状況を正確に形容できる事に軽い驚きを覚えつつあたりを見回す。目の前にはμ’sメンバー全員が荒い息を吐きながらぐったりと砂浜にへたり込んでいた。
「しんどすぎるにゃ……」
「こ、これくらいのことでにこは……」
「にこ。……大人しく倒れておいた方が身の為よ」
なにやらこそこそと俺に聞こえないように会話をする絵里とにこ。どうやらまだまだ余裕があるらしい。
「元気そうだな、にこ。それと絵里」
『ひぃっ』
「……その表情を見れただけでこの合宿に来てよかった」
至福。その一言に尽きる。
「海未ちゃんのせいだよ!なんで海菜さんにコーチなんて頼んだの!?実力はつくかもしれないけど大変すぎるよ!」
「私もまさかここまでとは……」
悪いな、穂乃果に海未。存分にコーチ業を楽しませて貰った。
……と言っても、自分で言うのもなんだが割と理にかなったトレーニング方法を実践したつもりだ。持久力を高めるものや瞬発力を生み出す練習、その他もろもろを効率よく時間内に詰め込んでやらせたんだよ。
ちょぉーっとだけ人より多めの分量で。
「ぜぇっぜぇっ……」
「ちょっと、花陽。大丈夫?」
「真姫ちゃん……だ、大丈夫ぅ」
「へぇ、花陽、大丈夫なのか?」
「うっ、嘘です!だ、大丈夫じゃないです!」
花陽は虫の息で、希は喋る元気もないのか端っこでふぅ~っと長い息を吐いている。ことりは立つ気力すら残っていない様だ。
んー、流石に昼の準備くらいは俺がしてやるか。
「じゃ、各自休むなりシャワーを浴びるなり好きにしてくれてていいよ。適当にやきそばでも作っておくから」
確か、昨日の買い出しで麺やらキャベツやらは揃っていた気がする。にこみたいに本格的な料理は到底作れはしないけれど、野菜を切って麺と混ぜて炒めるだけで完成する焼きそば位なら一人で出来るはずだ。
メンバーは全員ふらふらとした足取りで浴場に向かっていった。
「……それにしても、まさかこんなに体力ついてるとはなぁ」
正直予想外だった。
ダンスや歌に関してはただの素人でしかないが、基礎体力や筋肉の動きなどに関しては人の何倍も知識を持っている自負はある。だからこそ、俺は素直に感心していた。
最初やらせようとしていたメニューは全員あっさりとこなしてしまったため、俺が現役の時やっていたものに近い練習をさせる羽目になったのだ。その事実だけで彼女たちがどれだけ一生懸命毎日訓練に励んでいるのかが良く分かる。
それに部活に所属する海未や、ダンスの基礎知識を有する絵里のお陰で効率が良く尚且つ有益な練習が普段から出来ているみたいだ。
俺は一人満足しながら頷いてキッチンへと向かう。
そして、でっかい冷蔵庫に入っていた野菜を取り出して適当な大きさにカットし始めた。
トンットンッ
包丁がまな板を叩く音がリズミカルに響く。
料理はというと最近で言うと希の家にお邪魔して以来だったが、昨日のにこの手伝いと多少の経験から少しだけ慣れてきていた。そもそもどちらかと言えば器用な方ではあるので、我ながら上手なんじゃないかと……。
そんなことを考えながら十人分の大量の野菜をさばいていた。
浴場の方からは楽しそうな笑い声が聞こえてくる。どうやらある程度回復してきたらしい。
キャベツを丸々一玉取り出し洗って包丁を入れる。
余裕も出来ていた分、少しだけ気を抜いていた。
「ねぇ、古雪」
「っ!?……いってぇ!」
「なっ!どうしたのよ?」
唐突に掛けられた一言に驚いて軽く指を切ってしまった。
幸い傷は深くなく、少し血が滲んできているだけだったけど……。
「う……」
「もしかして、指切っちゃったの?」
「……」
とりあえず包丁を良く洗って、ついでに指も流水にあて地味な痛みに耐えながらこくりと頷いた。焦ったように駆け寄ってきたにこは傷がたいして大きくない事を確認してほっと息をつく。
「もう、しょうがないわねー。ついてきなさい、絆創膏持ってきたから」
「さ、さんきゅ……」
まさかコイツの世話になってしまう日が来るとは……。
にこに借りを一つ作ってしまうことを思い少しナーバスになるものの、ありがたく厚意を受け取ることにした。それにしても用意がいいな。メンバーの誰かが怪我をしたら大変だと思って準備してきたのだろう。
なんだかんだでコイツ、良い奴だな。
「ホラ、手だしなさい」
「にこがびっくりさせるから……」
「人のせいにするんじゃないわよ。まだまだ下手なだけでしょ」
「上手くいってたんだって!結構慣れて来てたし!」
「そういう時が一番危ないの!まったく、もう」
あきれた様子でため息をつきながらも、にこは手際よく消毒を済ませて絆創膏を巻いてくれた。
「ところでなんで君だけ早く上がってきたの?他の連中はまだなのに」
「アンタだけに昼食の準備任せてたら、いつ食べられるか分かったもんじゃないでしょ。にこはお腹がすいてるの!誰かさんのせいでね」
「ぐっ……」
座る俺の鼻先に偉そうに人差し指をピトッと当てて容赦ない言葉をかけてくる彼女。そりゃ、たしかに君に比べたら効率は良くないけどさー!ふふん、と鼻を鳴らして得意げに無い胸を反らすにこの手をぺちりと払いのけて俺も立ち上がった。
「なら、さっさと準備するぞ!」
「アンタには言われたくないけど!あと何が残ってる?」
「キャベツが少しと、玉ねぎかな」
問題なく調理の方は再開できそうなので、今度は二人でキッチンに戻った。そして再び野菜たちと格闘する。しかし、今回はにこが居てくれるおかげで効率は二倍……いや、悔しいことに三倍ほどに跳ね上がった。
鼻歌交じりに野菜を綺麗にカットしていくにこと、必死の形相で不揃いな作品を作り上げていく俺。さすがにまだ勝てないみたいだ。
「そういえば……」
突然にこが顔をせわしなく動く手の方に向けたまま口を開く。
「なに?」
「朝の事なんだけど」
朝?いろいろあり過ぎて特に思い当たる節が特定できない。
俺は大人しく続く言葉を待つ事にした。
「……絵里とはホントになにもなかったのよね?」
「あー」
なるほど、その事か。
俺は納得してこくこくと頷いた。たしかに、一応一通りの説明はしたものの、俺がやってしまった落書きなどのせいで結構うやむやになってたからな。下級生は精神的にも幼いのか、それとも分かってて聞いて来ないのかは分からないけど今のにこみたいな質問はしてこなかったから。
「あー、って何よ!」
一瞬だけこちらに顔を向けてキッとこちらを睨むにこ。
「何もないって。そう言ったじゃん」
「ホント?」
「ほんと。もう、かれこれ十年以上の付き合いだしそんな関係じゃないから」
「なら、いいけど……」
すんっ鼻をならして再びにこは調理に戻る。
ま、普通気になるよな。友達が男の部屋でうんぬんかんぬんっていったら誰だって。にこの場合は『アイドルたるもの、恋愛は御法度よ!』などと言いそうだけど。厳密に言えばアイドルではなくスクールアイドルなのでエレナ曰く別に恋愛は不可ではないらしいのだが……これをにこに言うと怒られそうだ。
「よし、こっちは切れたぞ」
「にこの方もバッチリ……って、なんで後から来た私のさばいた量とアンタのそれが同じなのよ?」
「うっさい!」
にやりと勝ち誇った笑いを浮かべるにこに悔し紛れの一言を吐き出して切った野菜をまとめた。後は炒めるだけだけど……。
「鉄板をださないと」
「あ、確かに」
にこはそう呟いて、床下の収納スペースを開ける。すると、いかにも重そうな鈍く光る大きな鉄板が顔を覗かせた。んー、流石に女の子が持ち上げるには重いかな、珍しく俺は紳士的な考えを発揮してにこより先にそれの取っ手を掴んで持ち上げる。
う、重い。……知らんぷりしてにこに持たせておけばよかったかも。
「あ、ありがと……」
にこは、これまた珍しく少し頬を染めながらお礼の言葉を言ってきた。
「お前、ありがとうなんて言えるんだ……」
「それくらい言えるわよっ!!!」
一転、鬼の形相でこちらを睨んでくる。
相変わらず情緒不安定な奴だなぁ……別に俺は悪くないけど。
「ま、でも、にこみたいな可愛い女の子の為に働くのは当り前よね!」
「……女の子?」
「そこ引っかかっちゃったの!?いや、可愛いの方に文句言われても怒ってたけどっ!」
「そんなことで怒るなって、ちっちゃい奴だなぁ。ほんと、ちっちゃい」
「しみじみ言うんじゃないわよ!ほんと毎度のことだけど、少し見直した途端余計な事ばっかり……」
「まぁ、身長アンド貧乳ネタも鉄板ネタだからね……鉄板だけに」
「絵里!希!はやくあがってきなさい!」
うんうん。
やっぱりにこは面白い。