ラブライブ! ~黒一点~   作:フチタカ

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第六十一話 三人で紡ぐ物語

 冷え切った空気が鼻梁を通り、何の前触れもなく意識が覚醒していく。就寝直前まではしっかり俺の身体を覆ってくれていたはずの掛布団が半分ほど剥がれ、ベッドの端――壁と接した位置まで押し込まれていた。道理で少し冷えてる訳だ……。寝ころんだまま薄目を開ける。窓から零れる光は淡く、弱い。俺は小さく息を吐くと、枕元に置かれたスマホを手に取った。

 

「…………ん」

 

 寝起きのスマホ画面は眩しくてかなわない。何度か瞬きをして、時刻を確認。

 時刻は九時。

 受験が終わって、合格も決まって。数日間しか経ってはいないが、生活習慣は劇的に変わっていた。ここ一週間ほど、自力でこんな時間に起きたことは無い。俺は妙にハッキリした頭を二・三度振って体を起こした。

 

「…………」

 

 立ち上がり、鏡を見る。

 お馴染みだったクマは薄れ、幾分か健康そうな顔立ち。

 すぅ、と短く息を吸い。

 

「……ふ!」

 

 気合を入れた。

 

 

――今日、決着を付ける。

 

 

 十分に考えた。

 俺の気持ち。

 

 十分に考えた。

 絵里の気持ち。

 

 十分に考えた。

 希の気持ち。

 

 

 だからこそ、今日が最後。

 全てを終わらせて――新たに始める。

 

「時間かかっちゃったな……」

 

 自嘲気味に笑った。

 絵里への想いに気が付いて。

 希への想いに気が付いて。

 

 それでもなお数日間、たった一人で考え抜いて考え抜いて、やっと想いを形にすることが出来ると確信できた。後悔しない道を選ぶことが出来そうだ。ツバサに気付かせてもらい、幼馴染と親友の想いを知り、ことりの決意に胸を打たれ、にこに背中を押されて――。

 

 やっと。

 やっと。

 

 

 

――あとは、この心のままに。

 

 

 

 

***

 

 

 コン、コン。ノックを二つ。

 

「はーい、入って良いわよ」

 

 部屋の中、木製のドア越しに届く聞き慣れた声。それはどこまでも美しいソプラノで、いつもは意識していなかったその清廉さに息を呑む。

 俺は、そっと扉を開いた。

 

「……海菜?」

 

 振り返った彼女は、一瞬驚いたような表情を浮かべて。

 

「………ふふっ」

 

 小さく笑った。

 可憐な微笑み。艶やかなブロンドがさらりと揺れて星の様に煌めき、踊る。無防備に覗く首元の白雪のような肌も、すらりと伸びた肢体も、宝石の様に美しいサファイア色の瞳も。全部、全部。幼い頃から見慣れていたはずだった。

 でも、今はただただ、目を奪われる。

 俺はこれから、この大切な幼馴染に。

 

「初めてね?」

「……何が?」

 

 唐突な問いかけに首を傾げる。

 

「海菜が、私の部屋にノックして入って来るのは」

 

――あぁ、確かに。

 

 改まっていたせいか、慣れない礼儀作法に手を出してしまっていたようだ。いや、まぁ、冷静に考えて今までが良くなかったんだろうけど……。習慣と言うのは恐ろしいもので、確かに一度もノックをした覚えはない。毎回、絵里は注意してきてたけど。

 

「いやー、まぁ……」

「殊勝な心掛けじゃない」

「うん、たまにはな」

「そう」

 

 絵里は小さく頷いて、座るよう促してきた。

 

「お茶は、出した方が良い?」

「いや、いらない」

 

 向かい合って座る。

 机を挟んで見つめ合う。

 俺はまだ何も言っていない。

 言っていないけど――。

 

 

「どうぞ? 全部、聞かせて――海菜の気持ち」

 

 

 全て、伝わっていた。

 

「う……。いきなり本題かー」

「何よ、そのつもりだったんでしょ?」

「そりゃそうだけど……別に前もって何も言ってなかったし、こんなスムーズに事が進むなんて」

「ふふ。全・部! お見通しなのよ」

 

 いたずらっぽく、彼女は笑った。

 そこに含まれる感情は特になく、ただただ俺の決断を心待ちにしているかのような表情。緊張は伺えず、期待や悲しみも見えない。絵里はいつもの様に、俺の考えを聞く準備だけをしてくれていた。

 遠慮せずに話していいよ、そう言ってくれてるような気がして。

 

「そろそろかなって思ってたし」

「勘が凄いな」

「経験則よ」

「うへぇ」

 

――うん。そうだよな。

 

 僅かに緩んだ頬を正す。

 ここから先はこれからの二人の未来を変える話だ。

 だからこそ、心を込めて。

 

 

「絵里、俺は」

 

 

 碧い瞳が一瞬だけ――儚げに揺れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「君とは――付き合えない」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 正々堂々と差し出した俺の言の葉は、通い慣れた部屋に溶けていった。

 色んな、ありとあらゆる、数え切れない――何事にも代えがたい思い出が詰まった空間が。まるで急速に色彩を変えていくかのような錯覚に陥る。輝いていた光が、少し光量を落とし、重く鈍い色へと変化する。

 

――変わってく。

 

 そんな確信。

 

 二人で、二人だけで大事にしまっておいた想い出たちが辺り一面に舞い踊り、そして静かに隠れていくような気がして――。俺はどうしようもなく切ない思いに駆られる。でも、同時に、それを仕方ないことだと受け止めても居た。

 きっともう、この想い出達に甘え、浸る事は許されなくなるのだろう。

 例え絵里が許しても、例え俺が望んでも。

 

 誰かを選び、誰かを諦めるとはきっとそれほどまでに重い行為だ。

 

 

「……そう」

 

 

 一言零して、絵里は辺りをゆっくりと見渡した。

 あぁ、同じ光景が見えてるんだろうな。

 そう感じた。

 彼女は、いつでも手が届く場所にあった想い出たちをゆっくり……隠し始めているはずだ。

 大切に、一つ一つ。

 別れを告げる訳では無い。

 でも、少しだけ遠い所に。

 でも、少しだけ見にくい場所に。

 

「海菜」

「なに?」

「実はね」

「あぁ……」

 

 俺の方へと視線を戻した絵里は

 

「全部、分かってた」

 

 いつもの様に笑ってくれた。

 そして、俺も。

 

「あぁ。俺も絵里が分かってること、知ってた」

 

 幼馴染って、不思議なもので。

 

 本当に、不思議なもので――。

 

「そうなの? 結構鈍感なクセに」

「君も大概だと思うけどなぁ。俺のこと好きになったのいつだよ?」

「それを言われると返す言葉がないわ……去年の夏前だし」

「これだけ一緒に居て!」

「これだけ一緒に居たからよ!」

「はぁ、まったく……俺も君も……」

「ふふっ、ほんとに溜息が出ちゃうわ」

 

 

――全部、伝わってきた。

 

 

 絵里が考えている事。

 俺が考えている事。

 

――もう少し早く好きになっていたら。

 

 きっと、俺は絵里と付き合っていただろう。一生この娘の隣に居続けたに違いない。誰よりも大切に、誰よりも好きに。例え東條希と言う女の子が現れたとしても、その想いは決して揺らがなかったと思う。

 

――もう少し早く好きになっていたら。

 

 お互いが今よりちょっぴり大人で。お互いがいまよりちょっぴり恋に興味があったら。きっと運命は変わっていただろう。手を繋いで通学路を通って、唇を寄せ合い、二人の距離は零となり。

 

――もう少し早く好きになっていたら。

 

 絵里を。

 海菜を。

 

 

「なぁ、絵里」

「どうしたの?」

「もう少し早く――」

 

 彼女はふわりと微笑んで。

 

「好きになっていたら――なーんて」

 

 そんなこと。

 

「そんな後悔、してないわ。私も……海菜もね?」

 

 

 同じ事を、考えていた。

 

 

「私ね、一度だけ考えたことがあるの。もし、もっと早く貴方を好きな気持ちに気付いていたらどうなってたんだろうって。でも実際は気付くチャンスはいくらでもあって、だけどことごとく、二人とも見逃しちゃってて、多分ラブライブの事が無ければ今の今まで気づいてなかったんじゃないかってくらい、私たちは鈍感だったでしょう?」

「ホントにそうかもしれないよな」

「えぇ。それでね、多分、海菜と結論は同じだと思うけど」

「…………」

「二人は一緒になれたと思うわ」

「そうだろーなぁ」

「だって、海菜、今でも私のこと大好きだろうし」

「うっ……」

「それを希が上回っちゃっただけで……ね?」

 

 希――そう口にする絵里の表情はとても柔らかく、優しかった。

 

「普通なら、後悔するんでしょうね」

 

 小さく零し。

 

「確かに、何もかもが遅すぎたと思うわ。私が海菜に恋したのも、海菜が自分の気持ちと向き合うのも。だから、貴方の気持ちが希に傾くのも当然なのよ。与えられたチャンスを全部ふいにしておきながら、なにもかも都合よく行くなんてありえない」

 

――遅すぎた。

 

 確かにその通りかもしれない。

 絶対的なものなんかきっとこの世には無くて。

 俺や絵里も考え方、価値観を変えながら成長し生きていく。

 その過程で二人繋がるタイミングは間違いなくあったけど。

 俺達はその瞬間を全て――。

 

「だから、仕方のない事だと思う。諦めなきゃいけないことで。普通なら後悔して泣いて、喚いて、貴方に縋りつく――そんな気がするわ。でもね、海菜、私は……」

 

 もし、これが、俺達の物語が小説やドラマになって、色んな人に見られたとしたら……きっと嘆く人も現れるだろう。傍にあった幸せを、気付かず放置し続けていた馬鹿な俺達を詰るだろう。もう少しだけ、俺と絵里が恋に積極的だったら、誰かが喜ぶ代わりに誰かが悲しむ結末が訪れることは無かったかもしれないのに。二人だけの幸せな物語が続いていたかもしれないのに。

 

 だけど――。

 

「これは負け惜しみでも、強がりでも無くて……」

「…………」

 

 紡ぎ出した彼女の言葉は。

 俺が思い描いていたそれと全く同じものだった。

 

 

 

 

 

 

「海菜と過ごした時間は、恋なんてする暇が無いくらい楽しかったのよ」

 

 

 

 

 

 

 もっとはやく恋していたら――なんて。

 欠片も後悔しちゃいない。

 

 少なくとも、俺達だけは。

 

 恋していなかったからこそ、二人で笑い合えた。

 恋していなかったからこそ、二人ぶつかり合って。

 恋していなかったからこそ、俺は絵里と助け合えた。

 恋していなかったからこそ、絵里は俺を支えてくれた。

 恋していなかったからこそ、数々の思い出が生まれ。

 恋していなかったからこそ――ラブライブがあった。

 

 今まで俺達が歩んできた道は、後悔が入り込む隙間が無い程に――どうしようもなく魅力的だったんだ。綺麗な思い出も、褪せた記憶も、忘れたい過去も、かけがえのない今も――紡いでいく未来も。絵里が居てくれたから――居てくれるから輝いていく。そこに、恋が無かったとしても。

 

「む……過去形?」

「ふふふ、これからもよ」

 

 俺達は笑い合った。

 

 いままでのようには居られない。

 絵里は、もう俺の帰る場所じゃ無くなった。

 思い出に甘えることも許されないし。

 それを許すこともしてはならない。

 

――だけど。

 

 これからも、幼馴染だ。

 

 うまく言えないけれど。

 説明なんてもっての他だけど。

 でも、だけど。

 俺と絵里はこれからもずっと――。

 

 支え合えると思う。

 手は繋げなくても。

 抱き合えなくとも。

 背中と背中で。

 

「それじゃ、また明日ね? 海菜」

「ん…………!」

「嬉しい報告を、期待しているわ」

 

 

 頷いて、俺は立ち上がり、歩き出す――。

 

 

 

 

 

***

 

 

 結論から先に言うなら。

 

 

――俺が、あまりに未熟過ぎた。

 

 

 そう表現する他無いだろう。

 

 絵里との関係は今までも、そしてこれからも障害なく続いていく。その確信はあった。それはきっと、俺たち二人がお互いを『他人』と形容できない程に想い合っていたからだろう。血の繋がった親子ですら、理解し合うなんて困難なはずなのに。

 

 言ってしまえば、告白しておいて。告白されておいて。

 にもかかわらず笑顔で背中を押してくれる、頷いて前へ進める。

 それはある種――異常なことなのだ。

 

 普通ならば縁が切れても仕方ない。

 これから先二度と口をきいてくれなくなっても。

 視線すら交わせなくなっても。

 絵里がどんな態度を取ろうと。

 俺には文句ひとつ言えない。

 それが――女の子の想いを断ち切ると言う行為で。

 

 絵里が最後まで笑ってくれたことがどれほど幸せなことか。

 それほどまでに簡単な事実を、俺は理解していなかった。

 

 だからこそ――俺は取り返しのつかないミスを犯す。

 

 

「希」

 

 

 寒空の下、向かい合う。

 

――恋とは、厄介な感情だ。

 

 知識としては知っていたのだ。

 痴情のもつれが人間関係を破綻させる事なんていくらでもある。人類の歴史でさえ、男女の感情のもつれから予想もしない結末へ導かれたことなど珍しくもない。きっと、恋なんて感情はどこまでも激しく、御しきれず、得体のしれない――予想もできない感情で。

 

 だからこそ、振り回される。

 でも、本人は――振り回されていることに気付かない。

 それは、俺も例外ではなく。

 

「…………」

「俺は、希のことが――」

 

 アメジスト色の瞳が大きく開かれる。

 その美しさに俺の心はどうしようもなく掻き乱されて。

 

 

――俺は、舞い上がっていたのだろう。

 

 

 間違いない。

 俺は恋に流されていた。

 生まれて初めての感情に浮ついていた。

 狂おしい程に心を乱す女の子を前にして。

 希に触れることが出来るほど近づけて。

 絵里に背中を押して貰えて。

 

 心のどこかで。

 心のどこかで。

 

 

「好きです。付き合ってください」

 

 

 告白すれば、東條希と付き合えると。

 あとは気持ちを告げるだけで良いと。

 

 

 

「古雪くん……ちょっと、いいかな?」

 

 

 

――勘違いしていた。

 

 

 

「嬉しいよ……嬉しい、凄く」

 

 あぁ、そう思ってくれると信じてた。

 

「夢みたいで、涙が出そうなくらい」

 

 君なら泣いてしまうだろうと。

 

「すっと、ずっと、その言葉が欲しくって」

 

 なら、なんで。

 

「でも、どうして……ウチを選んでくれたん?」

 

 そんな悲しそうな顔をするんだろう。

 

 

 

 

 

 

 

「エリチじゃなくて、ウチを選んでくれた理由は――何?」

 

 

 

 

 

 

 恋は、一人でするものではない。そんなの常識で、疑いようもないことだ。

 だけど、その意味を本当に理解して、恋をしてる人は――きっと少ない。

 

 俺は今まで、希の想いを深く深く――幼馴染のあの娘に対するよりも深く、考えた事があるだろうか。一体どうして欲しいのか、どうなりたいのか。俺から告白されて何を思うか。そして、希がどんな決断をするのか。

 俺はほとんど、考えていなかった。

 舞い上がっていたから。

 自分の決断にばかり意識が行っていたから。

 

――希は俺のことが好き。

――だから、告白すれば幸せなはずだ。

――あとは、絵里との関係をきちんとして。

――希との関係を大切に出来れば全て上手く行く。

 

 なんて、無様な勘違い。

 そんなはずはなかった。

 

 いや、流石に語弊があるかもしれない。もし仮に俺が普通の恋多き女の子に想いを抱いていたとしたら何も問題は無いと思う。彼女の友達から『あの子も君の事好きなんだって』と聞いておきながら、一体何を深く考えると言うのだろう。『そうだったんだ! いつ、どうやって告白しよう』。この思考だけで全てが上手くいく。何がどう転んでも、二人の結末は幸せなものになるだろう。だから、俺が自分の立ち振る舞いだけに集中してしまったのは、一般的な観点から見たら普通なのかもしれない。

 

 だけど、俺が好きになったのは――東條希だ。

 そして、俺の置かれた状況も普通ではない。

 

 恋は、一人でするものではない。

 

 俺が『希に想いを伝える』という段階に来るまでにどれほどの苦悩を経ただろう。寝れない夜も、答えが出ない苦しい期間も、罪悪感と焦燥感で逃げてしまいたくなった時もある。必死に自分と向かい合い、懸命に答えを探して、やっと俺は今日、絵里と話をして希と向かい合った。

 なら、希は――?

 

 彼女は。

 

――自分の恋が叶いさえすればいい。

 

 そんなこと、言える娘だったろうか?

 もっと、なにか大切な事を気にして、悩み続ける……そんな娘じゃなかっただろうか?

 俺と同じか、それ以上に考えてしまうような。

 

 そんな優しさに――俺は恋をしたのでは無かったか……。

 

「絵里じゃなくて、君を選んだ理由? なんでそんな……」

「気に、なるやんか……」

「…………」

 

 

 希は語りだした。

 眉に皺を寄せながら。

 

 

 

「ウチも、ウチも……古雪くんのことが好きやっ!」

 

 

 

 それは、叩きつけるような言葉で。

 俺が想像していた――幸せな愛の告白とはかけ離れていた。

 

「誰よりも見てたから。ツバサさんにも負けへん、μ'sの他の娘にも負けへん、古雪くんのどんな知り合いにだって負けへんぐらい……古雪くんを想ってる! でも……」

 

 希は小さく零した。

 

「エリチだけは、別なんよ」

 

 そして、少しだけ笑った。

 

「エリチだけには、敵わへんって思った。古雪くんを見てきた時間も、想いも、ウチなんかとは比べ物になれへんし。何より、古雪くん自身が、エリチのことを誰よりも大切にしてたから。そんな、初めてできた親友を大切にする姿に――惹かれちゃったんやから」

「…………希」

「だから、夢みたいに嬉しい。今すぐにでも、古雪くんに抱き着いて、よろしくお願いしますって言いたいよ?」

 

 

 でも!

 

 叫ぶように希は言う。

 

 

 

「どうして、エリチじゃなくてウチなん!?」

 

 

 

 きっと、それは。

 希がずっと抱えてきた――呪いのような問いかけなのだろう。

 彼女の表情と目を見たら全てが伝わってきた。

 

 

「ウチは、古雪くんの今の言葉を信じられへん……信じたいのに、喜びたいのに」

 

 

 俺と絵里の一番近くに居たからこそ。

 希は自信が持てずにいる。

 俺が絵里じゃなく彼女を選ぶなんて、おかしいと感じてる。

 

 きっとそれは俺が知らぬ間に、希でさえ知らぬ間に育ち切っていた高い壁。コンプレックスと表現するのが適切なのだろうか? 幼い頃から希を叶えられずにいた女の子。いつの間にか人より大人になって、表情を、気持ちを伺い知ることに長けた彼女は、俺たちを見続けたからこそ自分の想いを押し殺して殻に閉じこもろうとしている。

 希は優しく、儚い。

 幸せを目の前にしてなお……手を伸ばす事を躊躇う女の子なのだ。

 

 分かっていた――はずなのに。

 

 

 俺は。何も考えず、俺の気持ちだけを伝えようとしていた。

 

 本当なら、彼女を想いやってあげなければならないのに。

 

 それが、俺の責任なのに。

 

 それが、俺が目指すべき恋の形なのに。

 

 俺が恋した女の子は――どこまでも不器用な子だって、知っていたのに。

 

 

 

「古雪くん……どうして、ウチなん?」

 

 

 

 その問いかけに俺は。

 

 

「…………」

 

 

 答えられなかった。

 うまく、言葉を紡ぐことが出来なかった。

 

――絵里ではなく、希を選んだ理由。

 

 希は哀しげに語り始める。

 

「うん、知ってたよ。答えられないこと。……これが意地悪な質問だってことも」

 

 小さく唇を噛んだ。

 己の馬鹿さ加減に、気が遠くなりそうだ。

 

「絵里よりも、希が好きだ! なんて言える人じゃないよね。古雪くんはエリチのことも大好きで、でも、きっとこうやって告白してくれたってことは、ウチのことも……大切に想ってくれてるんやと思う」

「希……俺は」

「そこに優劣をつけることが出来ない人だってことも分かってるよ?」

「…………」

「口先だけで愛を語って、丸め込んで、ウチを安心させるような器用なことも出来ないって分かってる。そうしてくれたら楽だけど、希が一番だって言ってくれたら、ウチは迷わず古雪くんのものになるけど! でも、そうしてくれない所が――大好きで……」

 

 だけど……!

 泣きそうな顔で希は訴えた。

 

 

「それでも、答えてほしい! 本当に……私を選んでくれるなら!」

 

 

 いつの間にか口調から歪な方言が消え。

 真っすぐな想いだけが届いた。

 

「…………」

 

 俺は、一言も発することが出来なかった。

 恋をした理由ならいくらでも挙げられる。

 いろんな希を見てきたから。

 何が素敵で、どこが魅力的で。どうして心を奪われたのか。

 それらを言葉にするのは容易い。 

 だって、俺が希に恋をしていることは事実なのだから。

 

――でも。

 

 それらは全て……絵里でなく希を選んだ理由にはならない。

 同じくらい、絵里を大切にする訳を挙げられるのだから。

 

「違ったら……ごめんね」

 

 希は囁くようにこぼす。

 

「古雪くんが、ウチを選んでくれたのは」

 

 静寂――そして。

 希は、大粒の涙を零しながら言い切った。

 

 

 

 

 

 

 

「同情から、やない……?」

 

 

 

 

 

 

 

 そんなこと……! 

 

 抗議の声は出てこない。

 違う、絶対に違うのに。

 

「大切な人が二人、エリチとウチ……。でも、どちらかを選ぶ時になって、こう考えたんやない?」

 

 違う、違う。

 

 

 

 

「希を振ったら、可哀そうじゃないかって」

 

 

 

 

 頭が真っ白になった。

 

「ち、ちがっ……!」

「だって、エリチとは、たとえ恋人になれなくても今まで通り大切な幼馴染同士でいられる……から。ウチは……振られたらきっと悲惨で、立ち直れないから。ウチには古雪くんとエリチしかいないから!」

「そんなこと!」

「今日だって、エリチとは、話して来たんでしょ……?」

「……それは、一つのケジメとして」

「ぐす……どうして! どうして、エリチと話した後で……ウチに告白するの?」

 

 希は泣きじゃくりながらも話すことをやめない。

 

「ホントにウチが好きなら一番に来てくれるはずやん!」

「…………」

「やっぱり、まずはエリチから。エリチが一番大切やから! そうやろ!?」

「……希」

「ウチを振ったら可哀そうやから! だから古雪くんはウチを選ぶんよ! 優しいから! どこまでも、どこまでも優しいから、ウチを放ってはおけないから!! だから、だからぁ! でも、ウチはそんなの嫌やっ!!!」

 

 

――絶対に違う。

 

 

 それだけは確かだ。

 でも、反論が出来ない。

 本質を突かれているような、そんな気がして。

 

 

――俺は、二人を天秤にかけてきたのではないだろうか?

 

 

 振り返れば思い当たる節がある。

 俺にとって、恋愛対象になる女の子は二人しかいなかった。

 二人の想いを知って――ずっと二人のことを考えていたけれど。

 

 絵里だけのことを。

 希だけのことを。

 

 それぞれを別々に、考えることが出来ていただろうか。 

 どちらを選ぶのが、より幸せな結果を導くのか。

 どちらを選ぶのが、傷つく人が少ないのか。

 そんな基準で考えたことはなかっただろうか。

 

「古雪くん」

 

 希は悲しげに笑った。

 

 

「ごめんね……ズルいよね、こんなこと言って」

 

 

 それは、何に対する謝罪だったのか。

 想いを拒絶するものではなく、もっと何か大切な何かが込められていたような気がする。

 

 

 

 希は一言そう呟いて、俺の元から走り去った。

 俺は呆然としながらも、彼女を追う事が出来ずに踵を返す。

 

 

 

 結論を言うとしたら。

 

 

 

 

 

――俺があまりに未熟すぎた。

 

 

 

 

 

 この言葉に尽きるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




良いお年を。

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