「それじゃ、行こっか!!」
穂乃果の――リーダーの一声が凛と響き渡る。
彼女たちは足取りを揃え、一歩踏み出した。
振り返るとそこには慣れ親しんだ校舎が堂々と構えている。辛かった記憶も楽しかった思い出も、涙や汗さえもそこに詰まっていた。頬を撫でる冷たい風にとは逆に、次第に火照ってゆく身体。彼女たちは湧き上がる感情に戸惑っていた。
学校の命運を背負って戦っていた少女たちはいつの間にか逆に、自分たちの支えていたはずの校舎に後押しされているような……そんな不思議な感覚を抱く。
この場所で経験した全ての事が彼女たちの自信へと繋がっていた。
講堂で行った初めてのライブ。
同じ学校の友達からの声援。
血の滲むような練習。
メンバー同士の大切なコミュニケーション。
枚挙に暇は無く、数々の思い出がちりばめられていた。
ひゅう、と九人の背中を追うように風が吹く。
追い風。
世界は今、彼女たちの味方をしている。
コツ……コツ……。
歩き出したμ'sが放つ光。
それは天才――綺羅ツバサでさえ予想しえなかった眩さで。
「ぜぇっ……ぜぇっ……」
咳き込むように荒れた吐息と、慌ただしく石床を叩くスニーカー。無造作に伸びた黒髪を揺らしながら海菜は走る。寒空には似合わない大粒の汗を額に浮かべていた。
「はっ……はっ……」
彼にとって、自分が穂乃果たちの元へ走る理由は不明瞭。年齢にしては少し頭で考え過ぎてしまう傾向にある彼が、意味を明らかにせず自分の時間を使う事などまずありえない。しかし、海菜は走っている。自分でも説明できない。ただただ、思い出と懸けてきた想いが背中を強く押していた。
――今日で、全て決まるんだ。
見守ってきたμ'sへの思い入れのせいなのか。それとも、たった一度の本番にかける……という受験とラブライブの共通点に感化されているのか。あるいはその両方か。たった一年とはいえ彼女達との関りが彼へもたらした影響は計り知れない。
騒めく心を抑えることが出来ず、信頼という言葉に逃げることもせず。ただ、本番を前にした仲間の顔が見たい――その一心で彼は寒さと鈍りで思うように動かない足を酷使した。
何度か見た音ノ木の通学路。
幼馴染が通う、自分とは全く縁の無かった女子高。
しかし、いつの日か。彼にとって、そこは思い出深い場所になっていて。
彼にとってもそこは守りたい場所になっていて。
その場所には彼が守ろうとした女の子たちの大事なものが詰まっていて。
「みんな……!」
息を切らし、駆け付けた青年は呆けた表情で彼女たちを見る。
音ノ木坂学院を背負った九人は凛と胸を張り、歩き出していた。
『海菜さん?』
「かいな先輩?」
「何してんのよアンタ」
「海菜」
「古雪くん?」
口々に驚きの声をあげる。
来るはずのない彼が姿を現したことの驚きと。
――喜びが入り混じっていた。
青年は小さく微笑んだ。
あまりにも自信と魅力に満ちたメンバーの表情を見て、ざわついていた心がすぅと安らいでいくのが分かる。
白く濁った息を爆発しそうになる心臓のリズムに合わせて吐き出しながらも口元をほころばせ、細かに体を揺らした。何故か心が落ち着かず、感情のままこの場所まで来てしまった事への気恥ずかしさと、自分ばかりが急いていたことへのむずがゆさから視線を下に落とす。
言いたいことは、たくさんあったはずだ。
――頑張れ。
――緊張するなよ。
――気負い過ぎるな。
――皆なら大丈夫。
――ちゃんと見に行くから。
彼は知った。
何一つ必要無い――と。
だからこそ
「会場まで、付いてっていいか?」
彼は、はにかみながら笑った。
瞬間――
μ'sが纏う輝きが僅かに――でも、確かに増したこと。
彼は気付いただろうか。
一歩。
一歩。
運命を決めるステージに近づいていく。全国から集まるスクールアイドルの中で頂点を決める戦い。その本番が目の前まで迫っているのだ。参加者と思われる女子高生もちらほらと見受けられ、熱心な観客は既にチケットを握りしめて参列している。
寒空の下、徐々に増していく熱気が次第に夢の会場の雰囲気を高めてゆく。
そんな中。
高坂穂乃果は――曇りなき笑顔を浮かべていた。
緊張、重圧、不安……何も見えない。ただただ、自分がステージに立てることを楽しみに思うまるで子供のような表情。
海菜は知っていた。
あれが穂乃果なのだと。
綺羅ツバサが認めた天才。彼女が特別なのは決して『真っ直ぐに夢を目指せる』からではない。『皆で……まっすぐに夢を目指し、そして楽しめる』部分にある。彼女の瞳にはいつだって目標のステージと共に、仲間の顔、そして支えてくれる全ての人たちの姿があった。今だってそう。彼女の瞳には映さなきゃいけない人たちの顔が必ず居てくれる。
穂乃果は唐突に振り返り、笑った。
「皆、ラブライブだよ!!!」
海菜は感謝を小さく零した。絵里を救ってくれて、希を受け入れてくれて。
……そして、俺にとっても大切な経験をさせてくれて。
――ありがとう。頑張れ、穂乃果。
園田海未は凛とした表情で歩いていた。
強い意思と、決意のこもった目。
最初は人前でチラシを配ることも出来ず、海菜や男の前では歌えない。スカートをはいて踊る事さえ躊躇っていた彼女は、いつの間にか成長し胸を張ってこの場所に立っていた。スクールアイドルとは最も縁のない性格や育ちをしていながらも、親友と学校の為いつの間にかその道に深く踏み込んだ女の子。
きっと、今までと変わりない美しい姿を見せてくれるだろう。
――ご苦労様、海未。楽しんで来いよ。
彼女の創った歌詞は観客の心を必ず震わせる。
その確信が海菜にはあった。
「楽しみだね~」
そう言ってふわりと微笑んだのは、南ことりだった。
一度は自分の夢の為、μ'sを抜ける事さえ考えた彼女。
しかし、彼女にとって親友たちと居られるこの場所は生涯通じてかけがえのない時間と思い出のつまった場所になっていた。ことりがもつ服飾の才能も紛れもなく、μ'sがこの場所まで這い上がる事が出来た要因の一つだろう。親友が作り出したグループをずっと支え続けてきたのは紛れもなく彼女だ。
――ことり、お疲れ。今日の衣装も可愛いぞ。
「海菜さん! 頑張ってきますね」
「おう! 頑張ってこい!」
まるで心の声が通じたかのようにことりは振り返り、頬を僅かに染めながら海菜へと語り掛けた。対する彼の反応は満面の笑顔と当たり障りのない言葉で……。届かぬ思いを胸に秘め、彼女は夢を叶える為ステージへと登る。
「こんな所で踊れるんだ……!」
凛は豪華なステージを前にして驚きの声をあげた。
「当たり前よ。トップアイドル並みに注目されてるんだからね!」
「そっかぁ!」
にこが何故か得意げに胸を逸らしたかと思えば、素直に頷いてからっと笑う。
誰かの背中を押すのは得意でも、自分に自信を持つことが出来なかった凛はメンバーと共に色んな経験をしていつの間にか大きく成長していた。昔からの悩みであった女の子らしさを身に着けて、他の誰でもない凛らしい魅力を大切に育ててきた。それは、もちろん凛だけの努力では無く、彼女を大切に想うメンバー全員の思いやりが今の彼女を作り上げている。
――可愛いぞ、凛。
海菜は人懐っこい後輩に聞こえないくらいのボリュームで呟く。
彼女のダンスはきっと見る者全てを魅了するはずだ。
「私達……」
凛とにこの会話を聞いて小さく零したのは次期部長で。
「私達、注目されてるんだ……!」
印象的なのはその表情だった。
仮に一年前の花陽が今と同じ状況に置かれていたとしたらどうだろう。おそらく、手は震え足は上手く体を支えられず。顔は青ざめて頬は強張り……目も当てられないような状態になっていたに違いない。
――しかし、花陽は笑っていた。
海菜は胸にこみ上げる何かに目頭が熱くなる。
花陽とはメンバーの中で一番深い話をした間柄かも知れない。勉強を選びバスケを捨てた彼にとって、やりたいことに挑戦しないまま諦めようとする彼女の姿は到底看過出来るものでは無くて。意図せず話してしまった自分の過去と二歳上だからこそ伝えられた進むべき道。あのときオドオドと自信なさげに自分の隣を歩いていた女の子は、今日この日、大きな会場を前にして臆することなく笑顔を浮かべているのだ。
海菜にとって、それは本当に嬉しい事だった。
ずっと見守ってきた大切な後輩の成長した姿がそこにある。
――花陽。君ならもう大丈夫だよ。
次世代を支える程に大きくなったその背中にエールを送った。
「そうね」
淡白に相槌を打ったのは真姫。
いつものように人差し指で髪の毛を弄びながら冷静な目で会場を見つめていた。小さい頃からピアノ然り試験然り。本番という物の場数をこなしてきた彼女は人一倍緊張とは無縁な存在だ。しかし、海菜はその静かな瞳の奥に燃える炎に気が付いていた。
勉強に懸ける想いというのはμ'sの中ではきっと真姫しか海菜と価値観を共有出来ないだろう。もちろん成績優秀なメンバーは居るが、校内での立ち位置と医学部や最難関国立のレベルは比べ物にならない。だからこそ、海菜は真姫の葛藤や努力が身に沁みて分かって居る。彼女は自分のした決断の答え合わせに来ているのだ。
――勉強も、部活もきっと上手くいく。真姫なら。
生まれて初めて。個人技だけが評価につながるピアノや勉強ではない、全員で一つの結果を目指すアイドルに心血を注いだ彼女の願いが叶う事を祈った。
一方、最上級生である現部長は。
「…………」
時折後輩の緊張を紛らす為に軽口を叩きながらも真っ直ぐにステージを睨み付けていた。彼女にとってこの場所に懸けてきた想いというのは三年どころではない。物心ついた時からアイドルに憧れ、その気持ちを萎ませることなく大きく膨らませてきた女の子。
誰よりも努力家で、誰よりも一生懸命だからこそ他人との温度差に苦しんできた。
でも、ついに見つけた同じくらい熱くなってくれるメンバー。隣を走るだけじゃなく追い越そうとしてくれる仲間たち。一人で歩き続けるよりずっと大変で、でも大きく成長できた一年間。にこにとっては本当に奇跡のような出来事だった。
――安心して全部ぶつけてこい!
海菜は心の中で語り掛ける。
その小さな背中に乗っけてきた大切な物。並大抵の人なら背負い続けるのは大変で、躊躇わず捨ててしまうような子供の頃拾った夢。それは今輝きを増して、今か今かとその時を待ちわびている。どこまでも真っ直ぐな尊敬できる同級生に敬意を抱いた。
くいくいっ。
海菜は袖を引っ張られていることに気が付いて振り返る。
「希?」
「…………」
数秒間、無言で見つめ合う。
希は何か言おうと僅かに口を開いたまま、言葉を発することなく一瞬停止した。そして、笑顔を浮かべるとそのまま先陣切って会場に乗り込もうとしていた穂乃果の背中を追って走り出す。まるで海菜の前から逃げ出すように。
――一言、言いたかっただけなのにな。
希は想う。
たった一言伝えたかったのだ。
――ありがとう、古雪くん。
今のμ'sがあるのは彼のお陰。他の人からすれば、もちろん海菜の努力も大きかったが、希の貢献は他と比べ物にならない程素晴らしいものだった。穂乃果たちを最初から今までずっと支え続けてきたのが彼女で。海菜もそんな希の姿を見ていなければ力を貸しては居なかっただろう。
でも、自身の功績には目もくれず彼女は感謝の言葉を胸に抱く。
「この言葉は……全部終わった後で」
泣いてしまいそうだったのだ。
嬉しくて、嬉しくて。
本番直前に来る予定だった、下手をすれば一言も話せなかったはずの海菜が必死な様子で自分たちに会いに来てくれた。勿論、彼の都合も考えて無理強いはしなかったが、来て欲しかったのも事実。会って顔を見るだけで頑張れるような気がするのは決して、彼女が彼に恋をしているからという理由だけでは無い。もっと複雑な想いがそこにはある。
袖を引き、振り返った彼の表情に希は胸を奪われていた。
――なんて優しい顔をするのだろう。
メンバーの背中を見守る海菜の表情を表現しきるのはあまりにも難しい。しかし、一目見るだけで彼がどれほど真摯にμ'sの仲間たちの事を想っているのは伝わってくる。穂乃果たちよりも付き合いの長い、そして彼を深く理解しようと努力し続けてきた希にとって胸が詰まるほどその微笑みは魅力的だった。
「希!!」
背中にかかる声。
「頑張れよ!!」
頑張るよ、古雪くん。最後まで見ていてね。
そんな気持ちを込めて――笑顔を返した。
「海菜」
「…………」
「海菜?」
絵里は幼馴染の名前を呼びながら隣に立つ。汗がひき、落ち着いた様子の海菜の顔を外覗き込むと、彼女は盛大なため息を吐いた。真冬らしい大きな白霧が吐息に合わせて形作られる。
「何泣きそうになってるのよ」
「泣いてない!!」
「はいはい」
途端、ムキになった様子で言い返して来た。
絵里は意外に涙脆い幼馴染の変わらない様子に苦笑しながら慰めるように背中に手を当てた。彼女にはなんとなく海菜がこの場所に来た理由が分かっていた。きっと彼にすらしっかりと分かっていないその訳が絵里には分かる。
――心配だったのね。
絵里はふふ、と微笑んだ。
小難しい話は抜きにして、きっと海菜は私たちの事が心配で心配で気が気じゃなかったのだろう――と、絵里は予想していた。そして、それは正しい。自分の受験勉強の為、心を鬼にして練習に参加せずμ'sを信頼して不干渉を試験直前期間だけは貫いた一番の協力者。しかし、彼を良く知る絵里は想う。
――海菜が、黙って見守るなんて出来ないわよね。
下級生や、関係の浅い人は海菜を『大人びた青年』と評してきた。その評価はあながち間違いではない。同年代に比べると思考は早く、論理的。他人の想いも汲み取ろうとする思いやりも持ち合わせている。おどけた態度も見るべき人が見れば評価すべき点に変わる。
しかし、皆が持ち上げる程完璧な高校生でもないのだ。
答えの出ない問いかけを自分に押し付け続け、苦しむこともあれば。他人の事以上に自分を理解できてない部分もある。頭で色々考えて最善と思われる答えを導き出しても、抑えきれない感情からその選択肢とは別の何かを選び取ってしまう事もある。
「……安心した?」
「……あぁ。安心した」
海菜はへらっと、気の抜けた笑顔を浮かべた。
――だからこそ、みんな海菜が大好きなのよね。
「それじゃ、俺は帰って勉強してくるから」
「えぇ、気をつけてね」
吹っ切れたように彼は踵を返す。
絵里はその姿を見送って、反対方向――穂乃果たちの元へと歩き出した。
二人の間に言葉は必要ない。
二人の間に応援も労いも必要ない。
心の奥深く、どこまでも奥底の部分で繋がった彼らは今の互いの気持ちを理解し合っていた。海菜なら、絵里なら大丈夫。次第に離れてく距離とは反比例して心と心はより深く触れ合ってゆく。
『海菜さん!』
響く声。
背中に届く。
『行ってきます!!!!』
海菜は笑顔で手を振り返した。
その表情に焦燥感は既に跡形もなく、安堵と――勝利の確信だけが宿っている。