ラブライブ! ~黒一点~   作:フチタカ

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第三十三話 私の恋の本質

「……ふぅ」

 

 場所は神田神宮――私のバイト先。少し油の足りていない引き戸を開けて小さく息を吐いた。もう早いもので十二月。バイト終わりの夜中となれば、気温はめっきりと下がって吐息が凍り、視界を白く染める。

 寒いなぁ。私は室内で巻いたせいか僅かに緩むマフラーをそっと結び直した。

 

 夜空には僅かな光が瞬いている。東京の空にも明るい星は映えるんやなぁ……、前おった所はもっと綺麗に見えたんやけど。内心零す。そうやってふと、前の転校先を思い出して――小さく微笑んだ。

 

 私も変わったなぁ。

 素直に思う。

 

 いままで、その思い出達を大切に感じたことは無かったから。私にとって転校は苦痛の方が大きい経験で。大切な記憶はついぞ出来た記憶はない。いつか必ず訪れる別れがあると知って、新しい関係を作り続けられるほど私は器用では無かった。

 でも、今は――。

 

「…………」

 

 一体何度私は今ある幸せを噛みしめて笑えるのだろう?

 

 誰にも見られていないことを知って尚、緩む頬をマフラーで隠した。どうやら、もうしばらく笑顔でいられそうだ。エリチ、μ’sの皆とキツイながらも楽しい練習をして、本番はもう一週間後に迫ってる。それは私にとって本当に幸せな――夢みたいな日常で。

 

「不思議だね、今の気持ちー♪」

 

 練習中の、歓声が見えてきた新曲を小さな声で歌ってみる。

 軽くステップ。もう身体は慣れきっていた。

 

 無人の境内に私の声はすぐに飲まれていく。

 

 一週間後はこの声を見てくれる人達全員に届けなくちゃいけないんだね。そんな事を考えながらリズミカルに身体を揺らし……

 

「初めて、出会った時からー♪」

 

 もう無意識に歌えるようになった歌詞の意味を自覚して、私は頬を染めて立ち止まった。そう、この曲は恋の歌――ラブソング。恋する女の子が大切な誰かへの想いを綴った詩、想いをのせる音符達。

 私の頭に浮かんだのは一人の男の子だった。

 その人は、きっとこの階段の下で今日も待っていてくれている。

 

 神田明神名物の長い階段の手前で立ち止まり、きゅっと両手を握りしめた。

 

「古雪くん……」

 

 初恋の人。

 初めて出来た好きな人。

 

 私がこの曲の主人公だとしたら、きっと相手は彼。

 

――だけど。

 

「歌のようにはいかへんよなぁ」

 

 自嘲気味に囁いた。

 

 私達が作った歌は、大切な誰かに対する抑えきれない想いを詰め込んだものだった。そして、自分を奮い立たせてその気持ちをその人にぶつける曲でもある。μ'sらしい、切なくて儚くて……同時に力強いその本質。

 だけど、やっぱり私には歌のような事出来そうに無かった。

 

 誰よりも好き。

 でも、いざ彼を目の前にするとそんなこと伝えられない。

 

 もし、この想いを伝えちゃったらどうなるのか。

 今のこの関係さえ無くなるんじゃないか。

 そもそも、彼の勉強の邪魔をしたくない。

 エリチの事も大切で、彼女の気持ちだって無視できない。

 そもそも、古雪くん自身どう思ってるのか。

 

 悩み事は沢山で、それらはがんじがらめに私を縛る。ARISEの綺羅さんみたく素直に自分の気持ちをぶつけるなんてこと、私には出来そうになかった。

 

 

――でも、今はまだそれで良いよね?

 

 

 私は小さく首を振って雑念を追い払った。

 それがどこまで甘い見通しかとも理解らずに。

 

 タッタッタ。

 

 硬い足音。

 足取りは素直で、少しずつ小走りに変わっていくのが分かる。

 

 でも、だって……この先には。

 

「……古雪くん」

 

 僅かに弾む声で呼びかけた。

 

 振り返った彼はやっぱり笑顔で。

 

 

 

 ――今はまだ。

 

 

 

***

 

 

「お疲れ様」

「ありがと、待たせちゃった?」

「いや、今日はちょっと授業が長引いたからさ」

「そっか。じゃ、古雪くんもお疲れ様……やね」

 

 ごめんね、という単語を飲み込みながらお互いの労をねぎらう。謝ったらまた怒られちゃうからね。彼は言葉の一つ一つにまるで高精度のセンサーみたいに引っかかる、繊細でちょっとだけ厄介な同級生だ。

 

「なんで息、切れてんの?」

 

 隣を歩き始めた私を見て、彼は首を傾げる。

 

「あはは、ちょっと急いで降りてきたから」

 

 流石に一人で軽く踊っていたとは言えず、私は曖昧に笑った。

 

「そっか。でも、暖まるしその方が良いかもな」

「うん。ホント最近寒いやんねー」

「あぁ、マジで。汗かかずに済む分、夏よりは冬のが好きなんだけどこの時期はなぁ。これとかも荷物になるし」

 

 ブルブルっと、わざとらしく身震いしながらコートの襟を寄せてみせる。

 そっか、塾では防寒具脱がなきゃだし狭い教室では結構邪魔になるんだね。

 

「せやね。でも、ウチは寒いのそんなに嫌いや無いかも」

「へぇ、なんで?」

「ウチ、どっちかというと暑がりやから」

 

 ふぅん。

 彼は生返事しながらジロリ、と私を見つめてきた。

 視線はつま先から頭の上まで余すところ無く走っていく。

 

 そして数秒の間を置いて一言。

 

「なるほど……」

 

 ん? もしかして、とかじゃなく確実に……

 

「古雪くん。今、ちょっと失礼なこと考えたやんな?」

「えっ!? いやいや、そんな事無いって」

「むー」

 

 怒ったふりをして彼を見つめる。

 と、何故か古雪くんは頬を僅かに染めて首を振った。

 

「ウチ、古雪くんが思ってるより痩せてるんよー!」

「んなこと分かってるって!」

「じゃあ何で『なるほど……』なん?」

「いや、セクハラになるからやめとく」

「……その発言が既にセクハラなんやけど」

 

 そっと身体を抱くジャスチャーで彼から遠ざかって見せた。もちろん本気で嫌がってる訳では無いよ? でも、一応リアクションは取ってあげなきゃだから!

 

「……胸、大きい方が好きなんやろ?」

「なっ! なぜバレたし」

「いつも自分で言ってるやん」

 

 わざとらしく両手を口元に当て、しまった! とでも言いたげな表情を作る彼。相変わらずデリカシーが少し欠けてる人だけど、こういうセクハラ寄りの発言にいやらしさが混じらない辺りが古雪くんらしい。

 それに、私はどちらかというとスタイルは良い方やと思うから……。

 彼好みな女の娘だとしたら、それはちょっと嬉しいかも。

 

「ま、でも運動するし寒いほうが途中は楽だよな」

「うん。それに、曲の雰囲気にもあってるやろ?」

「あぁ。雪の眩しさ……だもんな。丁度いい」

 

 少し彼は考えこむ素振りを見せて、すぐに微笑み返してくれた。

 

 そんな何気ない仕草にも視線が奪われ、体温が上がる。暗闇に溶けそうな黒曜石色の深い瞳、少し厳しい印象を与える吊り目がちな目尻に細かく残った笑い皺。柔和な表情をずっと浮かべてきた男の子だからこそ出来るその表情が、どうしようもなく愛おしくて。

 

 自分ではその想いを自制できず、慌てて目線を前へと向けて俯いた。

 今が夜で本当に良かった。きっと、私は真っ赤になっちゃってるから。

 

「…………」

「…………」

 

 ちょっとの間、沈黙に身を委ねる私達。

 最近少しだけこの時間が多くなった気がする。

 

 どうしてだろう? でも、これだけ迎えに来て貰ってると話題も尽きてくるよね?

 きっとそのせいだと思う。

 

 

――この時の私は、彼が私に似た表情を浮かべていたことに気が付かなかった。

 

 

 少なくとも、私は隣を歩けるだけで幸せだったから。

 

 もし、古雪くんも同じ気持ちなら……嬉しいな。

 淡い期待、ちっぽけな願望。

 

「……期末試験、始まるね?」

 

 見上げるように彼を見て、私は話しかけた。

 

「ん? あぁ。まず試験があって、予選本番だったよな」

「うん。だからちょっと大変なんよー」

「ま、でもこの時期の成績は大学には行かないし、それなりで良いんじゃないの?」

「出た。合理主義者やー。学生最後の定期試験だよ? 頑張りたいやん」

「出た、真面目やー。赤点とらなきゃそれでいーの」

 

 冗談とかではなく本気でそう思っているらしい古雪くん。相変わらず志望校に合格する為に必要なこと以外は躊躇いなく捨てていける性格みたい。もう、エリチがまた『海菜のやつ、先生に目つけられたりしてないのかしら……』って心配するやん。

 

「それに、ウチもセンター試験は受ける予定やし。頑張って勉強もせな」

「ま、君と絵里の志望校なら……君らなら大丈夫だろ」

「うーん。一応自信はあるんやけどね? それなりに頑張ってきたつもりやし」

 

 実は、私とエリチは同じ大学を受験する予定なん。

 古雪くんみたいに超一流の大学じゃないけど、それなりには優秀な家から通える国公立。別に示し合わせたわけじゃなく、お互いの学力が同じくらいだったから本当に偶然。

 ……正直、凄く嬉しかったんやけどねっ。

 

 その大学は、挑戦! って言えるほど高い目標ではないものの、やっぱり受験は何があるか分からない。だから不安なのも事実で。

 

「もうちょっとセンター安定して取りたいんよ。特に数学を……」

 

 私が文系だからっていうのもあるけど、やっぱり数学は苦手。センター試験くらいなら頑張れば解けるんだけど、あの短時間で解ききる自信がまだ無い。

 この間、本番の三分の二の時間で満点出しながらケロッとしていた古雪くんを思い出して溜息を吐いた。本人は理系なら普通、って言ってたけどやっぱり基準がおかしいと思う。

 

「あー、過去問やるだけじゃ詰め切れないことってあるもんな」

「うん。でも、どうしていいかも分からなくて……」

 

 そして、私は何の気なしに口にする。

 本当に他意は無かったの。

 

「古雪くん、何か良い参考書知らへん?」

「センターの参考書かぁ。俺は持ってないけど……」

 

 顎に手を当てて僅かに逡巡した後、彼はさらりと言った。

 

 

「明日にでも二人で練習前、参考書見に行くか? 休みだし」

 

 

――え?

 

 思わず足を止め、きょとんと彼を見つめてしまった。

 バッチリと目が合ってしまい、私は照れのせいで慌てて……と、そこでむしろ古雪くんの方がわたわたと焦っている様子なのに気がついた。

 

「いや、そんな見られても困るんだけど!?」

「へ? あ……、うん」

 

 どうしたんだろう?

 一抹の疑問は過ぎったものの、私自身にそれを考える余裕は残されて無くて。

 

「でも、良いの? 貴重な勉強時間を……」

 

 条件反射的に思い浮かんだ彼の心配だけを口にする。

 古雪くんは一瞬ぽかんとこちらを伺った後、困ったように笑った。

 

「ったく、俺から誘ったのになんで君が遠慮するんだよ」

「で、でも……」

「練習前の一・二時間やそこらなんの問題もないよ。それに、俺も丁度欲しい参考書あったし」

「…………」

 

 どうしよう。これってデート、だよね?

 夏祭りの時みたいに、古雪くんから誘ってくれた。

 あ、でも勉強に関することだから他意は無いだろうし……。

 それに、古雪くんがこの時期に女の子とどうこうみたいな事はしないだろうし。

 そういえば綺羅さんの事はどうなってるんだろう?

 エリチもなんだか様子がおかしい気もするし。

 

 色んな事が頭の中を駆け巡る。

 でも、そこには彼の申し出を断る理由なんかない。

 

「じゃあ……。お願いします」

 

 ニコリと笑ってくれる彼に、おずおずと頭を下げた。

 

 

 後から知ることになる。

 この時の古雪くんは一生懸命、私の事を知ろうとしてくれてたんだって。

 

 

 

***

 

 

 

 普段よりも少しだけ念入りにお化粧をして、私は待ち合わせの場所に向かった。我ながら少しは可愛いんじゃないかって……そう思う。冬服は夏服よりも工夫のしがいがあって楽しいから。なけなしのバイト代で買ったお気に入りのコートを羽織って歩く。

 十五分前に着いてしまい、一人白い息を漂わせて人混みを見つめていた。

 季節のせいか少しだけカップルが多い気もする。ちょっとだけ嫉妬。もちろん、一時の寂しいなんて理由で恋人を作るような人間にはなりたくないけど、やっぱり人肌は恋しい。両親が居ない分、余計……。

 

「よ、遅いぞ」

 

 その腹いせに、雑踏を縫うようにして抜けてきた古雪くんに後で暖かいコーヒーでもごちそうして貰おう。そう思った。

 

「もう、それはこっちの台詞やん」

「むしろ早く来過ぎだろ」

「とかなんとか言いつつ、古雪くんも十五分前だよ?」

「ふん」

 

 少し早めに来てしまった事が自分のキャラじゃ無いとでも考えているのだろう。彼は軽く鼻をならして顔を背けた。

 

 私はそっと彼の姿を伺った。

 

 学生服じゃない古雪くんはちょっとだけ珍しい。スラリとした長身には黒がよく映える。デニムに黒のコートを羽織ったシンプルなコーデをきちんと着こなせる辺り……ちょっとだけズルい。

 だって、カッコいいやん?

 普段は、適当に整えられているイメージの黒髪も今日は少ししっかり目に固定されている気もする。もし、私とのデートに合わせてくれたのだとしたら嬉しいかな。そんな妄想をしながら歩き出した。

 

「で、どこ行くんだっけ? ゲーセン?」

「本来の目的忘れすぎやろ! 本屋さんだよ、だからここで待ち合わせしたんやんか」

「そうだったなー。ホント、受験生はつらい」

 

 ふわぁ、と欠伸をしながら不服そうに彼は目の前の書店を見上げた。

 彼オススメの場所なのできっと品ぞろえが良いのだろう。でもオススメだからといって古雪くんがこのお店の事が好きだと言うわけでは無いらしい。まぁ、そうだよね……私なんかと比べ物にならないくらい勉強してる彼からするとある意味全ての元凶と言うか……。

 

「やっぱり参考書選びはナーバスなるん?」

「ん? そうだなー」

 

 私はどちらかと言えば書店を彷徨くのが好きな方なんだけど。

 

「選ぶのは結構楽しいよ。……その後が大変なだけで」

 

 一瞬ぱぁっと顔を輝かせたものの、すぐに影が差した。

 

「でも、人の選ぶ時が一番楽しいかも。凄い客観的にその本の良さを見つけられるし」

「そっか。じゃあ、お願いするね?」

「ふふん、任せろ」

 

 先導してくれる古雪くんの背中を追って入店した。

 彼は特に店内案内を見ること無くエレベーターに乗り、目的の場所に向かい始めた。余程通い慣れてるのだろう、迷いが全く無かった。雑誌や文庫本が置いてある階を抜けて最上階へ。学術書、参考書と大きく書かれたフロアに揃って降りた。

 

「うわぁ、目、チカチカしちゃうね?」

「な。数学……センターだけでも無茶苦茶本あるし」

 

 赤本や分厚い物理の辞書みたいなものが置いてある棚を通りすぎて、センター試験対策用の棚に向かう。時期も時期なせいか、ちらほらと同い年くらいの学生さんの姿が目に入った。

 

「何か、ポイントとかあるん?」

「んー、俺は割と書式や文字の色とか気にするよ」

「え? 内容じゃ無くて?」

「内容も見るけど、読みやすくなきゃ苦痛に感じちゃうからさ。買わなきゃいけない必須のモノ以外は出来るだけ自分の目に合った奴の方が良いでしょ? 実際、センター試験なんて対策され尽くしてるから、割とどの参考書も同じこと書いてると思う」

 

 そう言って、彼は手際よく問題集を漁り始めた。

 心なしか楽しそうに目を輝かせている。多分、根本的に勉強が嫌いでは無いのだろう。辛い辛いという話はよく聞くけど、きっとなんだかんだ楽しんでるに違いない。

 

「ダメな参考書と、良い参考書ってどう違うん?」

「んー。難しいなぁ。ダメな参考書でも、例えばその内容を丸暗記出来るなら成績は上がるよ。現実問題難しいけど。……良い悪いよりも、自分のレベルに合ってるかどうかが重要だと思う。受ける大学によって必要な知識が全く変わってくるしな。例えば、平面図形を見た時に俺たちは『ベクトル、三角比の利用、座標用いた計算処理、初等幾何』の四つを思い浮かべてから解いてく手段を決定するけど、君らはセンター試験の問題の誘導に従って解きこなしていけば良い訳で」

 

 彼は割と真剣に答えてくれる。途中からあんまり意味はよく分かっていないんだけど、言わんとしていることは伝わってきた。

 ある意味本職のせいか、かなり饒舌だ。

 

「だから、読みやすくて、合格に必要な知識をきっちり網羅してるものならそれが最適。俺にとって凄く大切な参考書も、君にとってはただの分厚いお荷物になるし」

「そうなんや。合格に必要な知識、かぁ」

「まぁ、個人的には『◯◯日で完成!』みたいなお手軽な奴、個人的には好きじゃないかも」

「あぁ、よくあるよね。どうして?」

 

 手にとった薄い問題集を渋面で見つめながら一言。

 

「勉強って反復しなきゃ意味が無いからさ。一週間でやり終えたとしても、それは完成とは言わないし完成させたからといって問題解けるようになるとは限らないし」

 

 彼は溜息をつきながらそれを棚に戻した。

 

「良い参考書は、繰り返し使っても苦にならないヤツって事かな」

「ふふ。さすがやね? 勉強になります」

「おう、尊敬しろ尊敬」

 

 

 そんな軽口を叩きながら、二人して参考書コーナーであーでおないこーでもないと物色を初めて十分ほど。

 

「あ、これなんかどうやろ? ウチは結構気に入ったんやけど」

「……ん」

 

 古雪くんは自分が持っていた本を一旦棚に戻し、左手を差し出した。少し分厚めで、両手で抱えていたそれをひょいと片手で受け取るとぱらぱらと真剣な表情で中に目を通し始めた。

 やっぱり、男の子なんやなぁ。

 そんな当たり前な事を考えて私はその横顔を見守る。

 

 こうして、二人きりで出かけるなんて……出会ったばかりの頃には考えられなかったなぁ。

 

 人一倍警戒心が強い私と、その警戒心を正確に読み取った古雪くん。

 いつの間にか遠ざけてた彼の姿をもっと近くで見たくなって。

 古雪くんも……本当に私を大切にしてくれて。

 

 

――幸せや。

 

 

 素直にそう思った。

 恋人同士じゃなくても。

 古雪くんが私を好きになってくれなくても。

 今のままでも。

 

 今のままでも……。

 

「……み」

 

 

 

 それで、良いのかな。

 本当は。

 

 本音は――。

 

 

 

「希?」

 

 彼の声に呼ばれて、私は慌てて意識の渦から自分自身を引っ張りだした。

 

「えっと、なんやっけ?」

「気ー抜いてたな!? こら、集中しろ集中」

「えへへ。ごめんやん」

 

 ダメダメ。

 あんまり考えすぎても辛いだけだよ。そう、言い聞かせる。

 

 今はまだ、答えを出さなくたって。

 古雪くんはそれどころや無いんやから。

 だから……。

 

「俺もいいと思うよ。ちゃんと単元余さず説明してあるっぽいし。苦手な所だけでも丁寧になぞったら大分変わると思う」

「うん、ありがと! ウチも頑張るな~」

 

 今はただ、古雪くんと二人で過ごせる二時間を楽しもうって決めたの。

 

 

 

 そんな矢先。

 

 神様は本当に残酷だ。

 今になって、現実を突きつける。

 

 

 

 

 

 

「あれ? 古雪? おーい!」

 

 

 

 

 

 

 聞き慣れない男の人の声がした。

 釣られて振り向くと、同い年くらいの角刈り頭の学生が少し離れた位置から手を振っていた。その横には彼女らしい女の人も居て、同じく古雪くんに向かって片手を上げている。

 

――誰だろう? 知り合いかな?

 

 そんな私の疑問に彼は軽く答えてくれた。

 

「あぁ、中学の友達。……ってか、あいつらまだ付き合ってたのかよ」

 

 どうやら正解だったらしい。古雪くんは私が居る手前、どうしたものかと迷っていたみたいだがすぐに向こうの方からこちらにやってきてくれた。特に緊張感無くにへらっとした笑顔を受かべた古雪くんのお友達。彼自身も楽しげで、どうやら仲の良い間柄だろうことは察することが出来た。

 女性の方も快活な笑顔を浮かべている。

 

「よー! 久しぶりじゃん」

「声でか! 書店で大声でのおしゃべりは控えなさい」

「相変わらず勉強ばっかしてるのね」

「デートばっかしてるお前らには言われたくないわ。神聖な参考書コーナーが汚れる、今すぐ帰れ。そして人に迷惑がかからない所で爆発しろ」

『口悪っ!』

 

 容赦無い返し。気心知れない仲なのは間違いないみたい。

 敬語も無い辺り同い年らしく、カップルで参考書選びに来ていたようだ。

 

 私はというと、ちょっとだけ緊張して三人を見守っていた。

 もちろんバイトを始めたお陰で人見知りは隠せるレベルにまで成長していたし、男の人相手でも普通にお話は出来る。でも、この状況を彼のお友達二人にどう思われてるのかなと想像するとやっぱり気が気じゃなかった。

 

「で、古雪は一人?」

 

 軽く雑談を挟んだ後、男の人がそう聞いた。と、連れの女性がすぐにそれを訂正する。

 

「いや、あの子と来てたんでしょ?」

 

 そう言って、彼女は興味深そうに私を見つめてきた。もちろん、その視線に敵意なんかは含まれていない。どうやら、純粋に私がここにいることに興味があるらしくへぇ~、と意味深に零した後、一転。笑顔を浮かべて会釈してくれた。

 

「はじめましてっ」

「あ……はじめまして」

「マジか、その子連れだったのかよ」

「ほら、アンタもちゃんと挨拶」

「お、おう。はじめまして」

「はじめまして……」

「尻に敷かれてんな~」

「古雪うるせーぞ!」

 

 丁寧に頭を下げてくれた二人に慌てて挨拶を返す。

 人当たりの良い笑顔を二人揃って浮かべてくれていた。

 

「珍しいわね、古雪が女の子連れてるの」

「まぁ、そうかもなー」

「って事はもしかして」

 

 男の人の方がニヤリ、と笑ってその言葉を零した。

 

 

 

「さては、彼女だな?」

 

 

 

 我ながら、素直に染まる頬が恥ずかしい。私は身体をよじって彼の視線を避けた。

 

 古雪くんは少し焦った様子。

 

「いや、そういう訳じゃ……」

 

 そして、弁明のような台詞を紡いだ。

 ちょっとだけ胸のときめくシュチエーション。

 

 でも、予想とは少しだけ違っていた。

 

 

 

「ま、だろーな」

「彼女じゃないことくらい分かるでしょ、余計なこと聞くなバカ」

「あはは、わりーわりー」

 

 

 

 

――え?

 

 

 

 

 彼等は少し同情の混じった視線を私に送りつつ、その言葉を紡いだ。

 

 

 

 

 

 

「絢瀬が居るもんなぁ」

「絵里は元気してる? どうせ今も付き合ってるんでしょ。認めないだろうけど」

 

 

 

 

 

 

 その台詞はあまりシンプルで。

 あまりに残酷で……。

 

 

 

「あ、いや……そういうわけでも無いってか……希?」

 

 

 

 

 

 

――そうだよね。

 

 

 不思議と、心は穏やかだった。

 ちょっとだけ寂しかったけど。

 

 

――そうだよね。

 

 

 エリチが今までずっと側に居たんだもん。

 私はただその横から、勝手に古雪くんに憧れて。

 

 

――そうだよね。

 

 

 二人は優しいから私を受け入れてくれた。

 でも、二人には二人だけの過去と……周りの共通認識があって。

 

 

 なんだろう。

 当たり前なことを突き付けられた気がした。今までそれを認めるのが怖くて、向かい合うことから逃げ続けていた事実を目の当たりにした感覚。でも、知ってたことだから。ずっと胸に秘めてた事だから……。

 

 

――平気。平気だよ。

 

――だから、今のままでも充分幸せだって何度も。

 

 

 私は手に持っていた参考書を置いて、ふらっと歩き始めた。

 古雪くんが呼び止めてくれていた……気がする。

 

 そして、私に同情混じりの視線をくれていた彼女の隣を通り過ぎる時、小さな声で囁かれた。

 

 

「ごめんなさい。……でも、古雪には深入りしないほうが良いわ」

 

 

 きっと、何度も同じような女の子を見て来たのだろう。

 古雪くんの親友の彼女として、同級生の友達を。

 私と同じ。エリチと彼の間に割り込もうとした無謀な女の子を。

 

 

 私は小さく頷こうとして――

 

 

 

 

 だけど、その首は頑として動かなかった。

 

 

 

 

「古雪くん、ごめんね」

「ちょっと待ってくれ、希! 俺は……」

「体調悪くなっちゃったから、また今度買いに来るから。……バイバイ」

 

 

 

 

 古雪くん……。

 私は……。

 

 

 

 

 

***

 

 

 その日、私は初めてμ'sの練習を休んだ。

 一日くらいなら大丈夫。今日は、今日だけはエリチの顔が見れないよ。

 

 

 私はベッドに身体を埋め、湿った枕に顔を押し付ける。

 枕元には大切に写真立てに飾られた――二人の写真があった。

 

 

 

 ピーンポーン。

 

 

 

 空気を読めないインターホンの音。

 重たい躰を持ち上げて、私は玄関へと向かう。

 

 時刻は夜七時過ぎ。

 開いた扉の先で目にしたのは……。

 

 

 

 

「希……ちょっとだけ、話があるの」

 

 

 

 

 

 私の大好きな親友の姿だった。

 

 

 

 

 

 

 


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