いつかは本物の龍に   作:大空の天音

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 プロローグらしいプロローグもないままに投稿させていただきます。
 処女作ですので、まずは書き上げることを目標にしつつ、この場を借りさせていただきます。
 私、大空の天音(おおぞらのあまね)と申します。
 今後とも宜しくお願いいたします。




稲葉山城の戦い
稲葉山城の戦い① 【竹中半兵衛、調略】


「近江の浅井長政……尾張の相良良晴……半兵衛の屋敷を訪ねているのはこの二人なのですね?」

「はい、姫様。半兵衛は前鬼をもって対応しているようですが……如何なさいましょうか?」

 

 稲葉山城の一室では、桃色の着物に身を包んだ少女に対して忍び衣装に身を包んだ少女が片膝を立てて応対していた。姫衣装の少女は、忍びの少女に目を向けることもなく、言葉を紡ぎながらも鉢で何らかの白い粉を磨り潰しているだけだ。

 父から与えられた桜柄の着物によく似合っている桃色の髪をサイドテールにした少女は、一度お茶へと手を伸ばし、再びすり鉢へと向かい直る。

 

「姫様? 竹中半兵衛は斎藤家の要です。仮に半兵衛が調略でもされるようなことがあれば……」

 

 姫と呼ばれている少女は軽くため息を吐くと、磨り潰した白色の粉を薄手の紙の上に乗せ、丁寧に茶巾のようにして縛り上げた。まるで忍び姿の少女の言葉の先を拒絶しているかのような反応に、忍びの少女は言葉を噤んでしまう。その先は言わないでも分かっている、そう少女は態度で示していたのだ。

 

「半兵衛には、斎藤家と命運を共にして欲しくはないの。十兵衛やお祖父様の様に……大海へと飛び出して欲しい。……それが仮に、お父様や私に背くことになろうとも」

 

 斎藤道三をお祖父様と呼ぶこの少女こそ、現在斎藤家の家督を持っている斎藤義龍の第一子。斎藤龍興、齢まだ十五にも達していないにも関わらず、本来であれば家督を継いでしまっているはずの少女である。家臣団を纏め上げることが出来ず、斎藤家滅亡の決定打を作ってしまった人物だが、斎藤義龍健在の今、政務や軍事とは切り離されて生活していた。

 その龍興の大親友にして、斎藤家きっての名軍師とも言われている少女が竹中半兵衛。今現在、浅井家と織田家から調略の対象になっている人物であったりもする。しかし、半兵衛調略を知る斎藤家の数少ない家臣の一人が半兵衛の調略を防ごうと考えているのに対し、龍興は策を講じることもしなかった。それどころか、いつかばれるとは思っているものの、父である義龍にはその事実を伝えていなかったりもする。

 竹中半兵衛が少女である、ということは伝えてしまっているが、それが故に義龍は、今まで無理に半兵衛の出仕を強いることはなかった。

 

「光治、私はあなたにも斎藤家の外の世界を知ってもらいたいの。……相良良晴について行ってもいいのですよ?」

「お言葉なれど、私にとっての主君は斎藤道三様でも、義龍様でも、相良良晴でもありません。……例え半兵衛が斎藤を出ていったとしても、私だけは常に姫様のお傍に」

 

 龍興に対している忍びの少女の名前は不破光治。稲葉良通、安藤守就、氏家直元の三人に加え、西美濃四人衆とも呼ばれている人物で、忍びにしては珍しく政務一般にも通じている万能な人材である。それに加え、龍興のお付きとして常に隣に侍っているため、隠れて剣の特訓をしている龍興の師でもあったりする。

 忠義の人であり、決して龍興を裏切らないという誓いをこっそりと立てていたりする。

 

「……半兵衛の屋敷に参りますよ。そろそろ、お薬の時間ですので」

「はっ! お供致します!」

 

 優雅な振る舞いのまま龍興が稲葉山城の自室を後にすると、光治はその姿を闇と同化させた。忍者だからこそ使えるとでも言おうか、まるで瞬間移動のようにも見えるものの、これが彼女の現れ方であり消え方である。

 さて、どこかどたばたとしている城内を通って城外へと出ようとしていた龍興であったが、異様なほどに忙しそうに走り回る家臣を見て、何か嫌な予感を感じた。

 

「……お父様の信頼も篤い光治にのみこれは頼めることですね。……お父様の本日の薬に、此方を混ぜてきて下さい。遅効性の睡眠薬ですので……」

「し、しかし……! そのようなことをすれば……」

「睡眠薬は病気を悪化させるようなものではありません。光治、私は先に屋敷へと向かっていますから、必ず混入してくるように」

 

 咎めるように小声で忠告してくる光治の声も聞かず、龍興は先に城の外へと出てしまった。聞く耳を持たなくなった主の後ろ姿を見つつ、こうなった龍興は頑固なものだったと思い直すと、再びどろりと闇に溶けて城主の部屋へと入っていく。

 睡眠薬の混じった薬を、彼女は躊躇をすることもなく斎藤義龍に手渡したのだ。

 

「光治か……。龍興も誰に似たのか……薬に商業と政だけ上手くなりおって……」

 

 どこか妬みの混じった口調で、薬を受け取った義龍は一気にそれを飲み干した。娘の作った薬と、それを持ってきた光治を信じきっているかのような動作の中に、疑いの入る隙間はなかった。

 

「……龍興に罪はない、な。儂は龍興から武を学ぶ機会を奪ってしまった。親父殿……道三との対談だけが、龍興にとっての楽しみになってしまっておったのだから」

「ですが、義龍様は龍興様の為を思って……」

「よいのだ、光治。道三を怨嗟と嫉妬で見ているのは確かだが……、龍興には儂と同じような思いはさせたくはない……。龍興が道三に懐いてしまったのは、儂の責任なのだろうよ」

 

 どこか遠い目をしながら、義龍は悲しそうに目を伏せた。長良川で斎藤道三を襲ってしまった以上、昔のような生活を龍興に送らせることが出来ないということだけが、義龍にとっての後悔であった。

 それとともに龍興にだけは、下克上をさせたくはないという気持ちがあった。親を放逐し、必要とあらばその生命を奪うようなことだけは、させたくはないと思っていた。

 それでも、既に義龍は来る所まで来てしまっていた。織田と浅井が竹中半兵衛を調略しようとしていることは既に美濃三人衆からの報告で掴んでいる。

 竹中半兵衛の叔父、安藤守就を餌にして竹中半兵衛を釣り、その竹中半兵衛を餌にして浅井と織田の将を釣り上げる。その策を講じてしまった以上、半兵衛の親友でもある娘との不和は避けることの出来ないものだ。

 だがそれでも義龍は後戻りができなかった。道三を追放してまで奪った美濃を、愛娘に継がせたいという一心だったのだ。病でこの先長くはない自分であれば、娘にいくら恨まれてもいいと、覚悟の上だった。

 

「……あまり思いつめないでくださいね、義龍様」

 

 その気持ちもわからなくもない光治は、娘を思っての行動を起こそうとする義龍と、諸将の未来と美濃の未来のために動こうとする龍興の気持ちの間に板挟みになっていた。

 だが、最終的には自分は龍興の味方をすると決めた。歩み寄りの道は考えてはみるものの、結論が出ない問いに、結局光治はその問いを後回しにしてしまうのであった。

 

 

 いつにも増して騒がしい。竹中半兵衛の屋敷を訪れた龍興は、素直にそう称すしかなかった。織田のサルこと相良良晴と近江浅井家の当主の浅井長政が屋敷を訪れているという現状を考えると、初対面の二人を見た半兵衛が混乱して色々しでかしているのだろうと結論はすぐに導き出すことが出来る。家主、竹中半兵衛は人見知りなのだ。

 

「入りますよ、半兵衛。そろそろ薬を飲む時間になりますから」

 

 念のため屋敷の入口で扉をたたき、声を上げる龍興。返事はなかったが、半兵衛の叔父である安藤守就は現在稲葉山城へと呼び出されていると光治に聞かされていた龍興は、遠慮なく屋敷の中へと入っていった。

 さて応接間へと上がってきた龍興が扉を開けると、その瞬間に一本の日本刀が龍興の直ぐ真横をかすめていった。危うく腰を抜かしそうになったものの、直ぐに半兵衛を落ち着かせなくてはまずいと部屋の中へと入っていく。

 突然現れた少女に、相良良晴も浅井長政も言葉を出すことが出来ず、場は龍興によって支配されたも同然だった。

 

「落ち着きなさい、半兵衛。お薬の時間でしょう……ね?」

 

 周りの見えていない半兵衛にすたすたと近づいていく龍興。こうしたことは日常茶飯事だとでも言うように、物怖じすらせずに平然と近づき、半兵衛を抱きしめた。

 

「前鬼さんも前鬼さんですよ。あなた、このお二人で遊んでいたでしょう?」

 

 それと同時に、ふわりと背後に現れた白色の巨大な狐に咎めるような視線を向ける龍興。半兵衛の式神でもある前鬼は、妙なところで人をおちょくることがある。今回もどうせその類だろうと、半兵衛を落ち着かせながら前鬼にも注意を促したのである。

 

「織田家の家臣相良良晴様に、近江は浅井家の当主浅井長政様。もしも彼らの身に何かがあれば、半兵衛だけでなく、斎藤の家にも傷がついてしまうのですから……ね?」

 

 半兵衛の頭を撫でながら、龍興は棒立ちになっている二人へと目を向けた。半兵衛の屋敷に突然乱入してきた女性に行動と思考を止めていた二人だったが、やがて再起動を果たすと現状がとても危ういということに気がついてしまったのだ。

 良晴も長政も、半兵衛の調略へとやって来た身。仮に斎藤家の人間に見つかってしまったとあれば、失敗もいいところなのだ。

 

「お、俺は尾張の浪人の一人に過ぎない身でして……!」

「わ、私は近江の商人の子でして、名を猿夜叉丸と……」

「用件は後で伺いますわ。薬を服用させる時間になりましたので、少々半兵衛と私は席を外させて頂きます。前鬼さん、お二方は客人ですからね?」

 

 調略が斎藤家にバレたくらいで逃げ帰るような肝の小さい男に、親友の身は預けられないとばかりに、龍興はしっかりと前鬼に言伝を残していった。その実、逃げ帰るようなら追うこともしなくて良いとしっかりと小声で伝えた上で、である。

 未だに落ち着かない半兵衛を連れて奥の部屋へと消えていった龍興の後ろ姿を、全身に脂汗を流し続ける二人の人間が見つめ続けているだけだった。

 どちらともなく目線を合わせ、これはまずいことになったと目で互いに訴えかけていた。

 

「……半兵衛は外には出たくないの?」

「外はみんながいぢめるので嫌です。くすん」

 

 一方で、件の半兵衛はこの調子だった。かつての稲葉山城城主、斎藤道三は怖いから嫌だといった。現在の稲葉山城城主、斎藤義龍にも怖いといって会わなかった。尾張の姫大名である織田信奈も怖い人だから絶対に会いたくないといい、道三の側近であった明智光秀に会うのも怖いといって聞かなかった。

 極度の人見知りである竹中半兵衛には、外に出ることは何よりも怖いことだったのだ。

 

「……斎藤はもうもたない。半兵衛は斎藤と運命を共にする必要なんて……」

「でも、龍興様は……! 皆によってたかっていぢめられちゃいます……」

 

 龍興の言葉を途中でさえぎって、龍興へとすがる半兵衛。一家臣にすぎない半兵衛はともかく、義龍の子供である龍興は、仮に斎藤家が滅びる運命にあったとしても、その呪縛から逃げることは出来ない。

 やがては織田、浅井、六角、姉小路という諸大名に攻められ、袋叩きに合うことだろう。

 その未来を容易に描くことが出来た半兵衛は、だからこそ自分が斎藤を裏切ることを認めたくなかったのだ。

 

「……大丈夫。半兵衛はどこに行っても、私の親友だから……ね? お願い、自分の好きに生きて欲しいの。私には出来ない生き方だから……せめて半兵衛には……」

 

 龍興の言葉を全て聞き終える前に、半兵衛は薬を一気に口の中に入れて飲み干していった。それ以上聞いてしまったら、自分の決心が鈍ってしまうから。龍興とともに斎藤が滅びるそのときまで、影で支え続けると思っていたその決心が。

 泣きそうな顔で伝えてくる龍興本人を前にして、その言葉は伝えることも出来ず中を彷徨った。私は織田にも浅井にも行きません、という言葉は。

 

「……戻りましょうか。いつまでもお客様をお待たせする訳にはいかないわ」

 

 龍興は龍興で、最初から半兵衛の答えが得られるとは思っていなかった。ここで何を言っても堂々巡りになると分かっていたからだ。外に行って欲しい龍興と、外に出て行きたくない半兵衛。互いが互いのことを思っているからこそ譲れない一線がそこにあった。

 半兵衛が素直に力を貸したいと思えるような相手が調略の相手なら、これほどうれしいことはないと龍興は考えた。嫌々ながらに力を貸す半兵衛の姿など、見たくはなかった。

 

「くすんくすん……。斎藤家の当主が、道三様でも義龍様でもなくて、龍興様だったらよかったのに……」

 

 どこかくすぐったいような評価を背中に受けながら、それだけは絶対にごめんだと一人龍興は首をふった。自由に生きたいからというわけではないが、父と祖父がいない世界を思い描きたくはなかった。

 無言で部屋の扉を開けて応接間へと戻ってみると、客人の姿が一人消えていた。近江は浅井長政。流石に大名でも、彼が調略に来ているなどと知られれば、斎藤家の手の者に討たれてしまうと考えたのだろう。その状況判断能力は確かなものだと龍興は舌を巻いたが、これで逃げ帰る程度の男に半兵衛を預けるわけにはいかなかった。

 逃げずに部屋へと留まっていた良晴へと向き直った龍興は、自分の背後に半兵衛を控えさせ、優雅に一礼してから名乗りを上げることとした。良晴の後ろに槍を携帯している少女がいることは気になるものの、調略相手を手に掛けようとすることは考えられない。

 織田の将ということだが、もしかすれば、相良良晴が別途陪臣として雇っているのかもしれないと龍興は考えを巡らせる。だが、全身を駆け巡る嫌な予感に急かされるように、彼女は思考を脳の片隅へと移していった。

 

「斎藤義龍の第一子、斎藤龍興と申します。尾張の……相良良晴様、でお間違えありませんか?」

 

 良晴はといえば、自分の正体がすっかりと見破られていることに動揺するのとともに、自分と相対する少女が大名の娘だということにも、またペースを乱されていた。

 そして、何よりも、自分の相手をしているこのしっかりしている少女が、無能とまで称されていたうつけ当主、斎藤龍興であることがその混乱に拍車をかけている。良晴の知っている知識では、到底ありえてはいけない状況だった。

 何よりも、龍興と半兵衛が懇意であるとなれば、その調略は絶望的でもあった。半兵衛が龍興に対して恨みを持っているはずがないからだ。

 混乱して次の言葉を発することの出来ない良晴に、龍興は微笑みながら次の質問を投げかけてみせた。

 

「良晴様……。尾張へと行かれた、お祖父様と十兵衛は元気でしょうか? ……お祖父様は持病まであるので、私は心配なのですが……」

 

 かこん、と庭のししおどしが音を立てる。良晴の迷いが取り払われたことを意味するかのように、明朗と響き渡る音だ。織田と斎藤は一触即発であり、自分が半兵衛を調略しに来たことは確かだが、身内や家臣を心配するこの少女の問いかけくらいは、答えてもいいのではないかと。良晴はそう結論づけたのである。

 

「二人とも元気も元気だぜ! 蝮のおっさんも、信奈が本当の娘になったみたいで、好々爺としてるさ」

「そう、ですか……。ふふ、お祖父様は信奈様を選んで正解でした」

 

 道三が元気そうに笑う姿を幻視して、龍興は自分のことのように嬉しそうに笑ってみせた。自分のことを梟雄と蔑んでいたあの祖父が、憑き物の落ちたような笑顔で笑っている。その世界をつくりだしたのは、他でもない。

織田信奈。尾張を治める、かの姫大名なのだ。

 

「……良晴様。もう一つばかり私の質問に、答えてはくださりませんか?」

「おう、なんでも聞いてくれ!」

 

 そんな織田信奈に信頼されているのだろう。竹中半兵衛の調略という大仕事を任されたばかりでなく、彼女のことを呼び捨てにできるということは、それなりの地位にいるということだ。彼にはどこか特別なものを感じると、龍興は良晴を試したくなった。

 

「大名の家に産まれた人間は、望む望まないに拘わらず天下を争う戦に巻き込まれます。誰も彼もが、天下を狙うと言わねばなりません。……もし、戦が何よりも嫌いな大名にあなたが仕えていたとしたら。……その人があなたにとって一番大事な人だとしたら……あなたはどうしますか?」

 

 かこん、と庭のししおどしが再び音を立てた。良晴は勿論、半兵衛も言葉を発することが出来なかった。思いつめているわけでは無さそうだった。だが、龍興の両の瞳からは、小さな雫が滴り落ちていた。それがいっぱいになるとともに、三度かこん、とししおどしが鳴り響いた。

 良晴が何かを言う前に言葉を発したのは半兵衛だった。普段はあまり自己主張をしなかったが、この質問には思うところがあったようだ。龍興の境遇を知れば、当然のことであったのかもしれない。

 

「龍興様……そのときには私が矢面に立ってでも……」

「それは違うぜ、半兵衛ちゃん」

 

 そんな半兵衛の答えを遮るように、良晴は言葉を挟んだ。半兵衛が考えている人間と良晴が考えている人間は違うものではあったが、答えに変わりはない。

 興味深そうに良晴を覗きこむ龍興に視線をあわせて、その横で困惑している半兵衛へと視線を移してから、良晴は続きを言葉にする。

 

「俺なら隠すようなことはしない。俺の答えは、『一生をかけて支え続ける』だ」

「ですが、戦を嫌がる人に無理をさせてまで……」

「そこが思い違いなんだよ、半兵衛ちゃん。だって、戦が嫌でも天下を狙うことを決心したんだぜ? 誰よりも平和な世の中を作りたいと思っているからだろ? だから俺は、決してその手を離さないで支え続ける。誰よりもいい方法で、平和な世を作ってくれると……って、どうしたんだ龍興ちゃん!?」

 

 半兵衛へと講釈を垂れるように得意気になっていた良晴は、再び視線を龍興へと移したところで異変を感じた。すすり泣くような声が聞こえたと思えば、龍興は確かに泣いていた。声を押し殺して、うつむきながら涙と戦っていた。

 

「良晴様が……」

「……ん?」

 

 織田家ではなく、斎藤家に仕えてくれればよかったのに、とは言えなかった。自分の我儘で彼を困らせるわけにはいかなかった。

 誰よりも織田信奈という人物を信じている目の前の人物を、自分の甘言で惑わすなど、あってはいけないことだ。誰よりも素晴らしい天下泰平を成し遂げてくれることだろう。

 涙は引っ込むことはなかったが、龍興は視線を上へと向けた。雲ひとつない青空が、ひたすら広がっているだけだ。その青空に元気を分けてもらったかのように、龍興は再び良晴へと視線を向けた。

 

「……良晴様。半兵衛を、お願いいたします」

「龍興様! そんなことをすれば、龍興様がいぢめられて……」

「私の夢とともに、半兵衛をあなたに託すのです。あなたなら、信じられます」

 

 こうなった龍興は頑固だった。良晴が何と言おうと、半兵衛が何と言おうと食い下がることはないだろう。

 

「私の夢は天下泰平を成し遂げること! ですが……凡庸な私には出来ないことです。天下泰平は、半兵衛と良晴様……織田信奈様にお預けいたします」

 

 遂に言った。言ってしまった。今まで誰にも言ったことのない、本当の夢を。

 愛する祖父にも、父にも言ったことのない一言を、見ず知らずの、それも織田の間諜に。

 軍師を調略しに来た、敵方の人間に。

 だが、龍興の目に迷いはなかった。自分の夢を託すことが出来る相手がいた。きっと祖父である道三も、同じような気持ちになったからこそ素直に笑えるようになったのだろう。龍興は、この日、初めて大きな決定を下したのだ。それは、凡庸であり凡愚であると自分を蔑み続けてきた彼女が、真の凡愚から離れた瞬間だった。

 

「美濃を、織田に渡すために私は動きます。美濃は、お父様は……私にお任せを」

 

 自分の夢を託すために、いつまでも権力と地位と、父親の幻影に囚われてしまっている父を解放してあげなければならない。それが父のためでもあり、天下のためでもあり、そして……彼女自身の為でもあったのだから。

 

「龍興様、待って、待って下さい! くすんくすん……」

「は、半兵衛ちゃん……! 追うぞ、犬千代、五右衛門!」

 

 だからといって、彼女を誰が責められようか。判断を誤るということは誰にでもあるということ。何よりも精神が高揚していた彼女には、冷静な判断は下せなかった。

 彼女は聡明であり、祖父譲りの軍略の知識と政の知識を持ってはいるものの、冷静でいられないところがあった。昂った感情を抑えることが出来ず、思い込んだら直情的なのだ。

 雲ひとつない晴天だったはずの青空は、いまや黒い雷雲に覆われてしまっていた。

 




 如何だったでしょうか?
 一応、プロローグに位置する『稲葉山城の戦い』は、何部かに分けて投稿させていただく予定です。
 展開が早いな……とか、龍興ちゃんちょろい!とか、色々あるかとは思いますが、その点はご了承を。頑張って話に深みを持たせて参りますので。

 尚、拙作の主人公である斎藤龍興ですが、史実の側面をもたせつつも、史実のように凡愚であるだけの存在にはしないように心がけています。
 個人的には、斎藤龍興という人物は、父である斎藤義龍が早くに没し、なおかつ祖父である斎藤道三も長良川で戦死していることから、若くして当主につかなくてはならなかった、ある意味では悲劇の人なのではないかと考えています。
 その反面、織田信奈の野望においてはその境遇が一変しています。斎藤道三は長良川で戦死せず、斎藤義龍は健在のまま。祖父と父からは愛情をもって育てられたがために、多くのことを学んでいるということに。
 政を習っているのは将来的に斎藤の家を背負って立つ人間として育てられているからですが、医学を学んでいる理由は……。これに関しては、プロローグ『稲葉山城の戦い』の最後辺りで明かす予定ですので、ご了承下さい。

 ……それと、犬千代、台詞がなくてごめんよ。
 どうしてか、影が薄くなってしまうのです。最後の良晴の台詞を書くまで、犬千代がいることをすっかり忘れていただなんて、口が裂けても……。

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