「どうすれば良いのでしょうか?」
「私も動物は飼った事が無いから詳しい事は分からないよ」
ラウンジには何時もの様な穏やかな空気が流れているが、その一角で少しだけ不穏な空気が立ち込めていた。
傍から見ればそれ程大げさになる様な事は何も感じない。平時の中での限定が故に不穏だと感じる程だった。その大元には二人の少女。黒い腕輪が特徴的だった。
シエルとナナの目の前には以前サテライトの建設予定地付近で捕獲されたカピバラのカルビが少し震えながら鼻水を出していた。
ラウンジは本来であれば寒暖の差は少なく、住環境的には何の問題も無かった。だが、幾ら寒暖の差が少ないとは言え、常に一定の環境を保っている訳では無い。特に、ここ数日の寒暖差から予想以上に室内の温度が変わり、その結果としてカルビの様子が少しおかしくなっていた。
「やっぱり何かの病気なんでしょうか?一度誰かに相談した方が良いのでしょうか?」
シエルは思いの外、カルビの事を大事にしていた。確かに世話の際には手を噛まれる事が多く、少しだけ痛い思いはするものの、自身の今までの中で生き物を飼った経験が無かった事から、過保護とも取れる程に大事に世話をしていた。栄養のバランスと適度な運動。少なくともそんな生活を送る事によって体の大きさだけでなく、最近は毛並みも格段に良くなっていた。当然の結果にシエル自身も満足している。万全を期して飼っていたが故に、突然のカルビの不調にシエルはショックを受けていた。
「でも、動物だし……やっぱりここは榊博士に聞くのが一番じゃないかな?」
「しかし、榊博士も忙しいのではないでしょうか?」
「支部長だもんね……」
ナナの発言に対して、シエルも一瞬そう考えていた。しかし、榊はここの支部長でもあり科学者でもある。恐らくは事務方の中ではかなり多忙を極めるはずの人物。普段は何かと適当な事もしているが、立場を考えればこんな事を相談する訳には行かなかった。本来であればこの時点でコウタにでも相談すれば一笑に付したかもしれない。だが、ブラッドはまだ極東に来て日が浅かったからなのか、榊に対しておいそれと話す事が出来ないと考えていた。
これがブラッドもまた完全にここに馴染んでいれば誰も気にする事もなかったのかもしれない。ある意味では仕方ない部分がそこにあった。二人の事などまるで無関係だと言わんばかりにおだやかな空気が流れている。だからなのか、二人もまた周囲の事を完全に忘れていた。
「あれ?二人ともどうしたの?」
そんな2人に声をかけたのはリッカだった。今は休憩中なのか、グラスを片手にクッキーを食べていた。
本来であれば一息入れた後、再度戻る予定。しかし、二人を視界に入れた事によって少しだけ興味が湧いていた。
実際に神機の整備をするに当たって、ブラッドの事はデータ上では理解している。だが、当人の事に関してはそれ程では無かった。一番の理由はブラッドがゲスト扱いされている点。もう一つは、直接的ではないが長期に亘ってここに所属しないのであれば、神機の整備こそするも大幅なアップデートをするには足りない物が多々あった。ブラッドの管轄は本部。当然ながら許可を取るにしても、その稟議はかなり面倒だった。
幾つもの部署へと書類を回し、変更点があればその都度申請が要求される。メンテナンス程度であれば作業内の為に不要だが、アップデートとなればその限りでは無かった。登園ながら僅かなそれだけの為に面倒な申請をしたいと思う人間は誰も居ない。その結果として整備班もまたブラッドの神機だけでなく、チームそのものを掌握していなかった。
そんな中での突発的な出来事。リッカもまた、これを機に少しでも距離を縮めようと考えた結果だった。休憩中でも話ならそれ程長くはかからないはず。そんな打算もそこにあった。
「実はカルビが鼻水を出しているので、何か病気にでもあったのではと思ったんですが、原因が分からないんです」
何気に格子の中にいるカルビを見れば、確かに若干震えているのと同時に鼻から何かが出ているのが見える。これが人間であれば風邪なんだと思うも、まさかそうだとは誰も思いつかなかった。
「だったら榊博士に聞いてみたら?」
「ですが、忙しくしているのでは無いのでしょうか?」
「そうかな?今朝見たときは暇そうに見えたんだけど。取敢えず行ってみたらどうかな?」
「……そうですか」
シエルの考えとは裏腹に、リッカお返答は実にあっけらかんとしていた。支部長でもある榊がまさかそんな状態だとは考えてもいなかったからなのか、シエルは一先ず弥生に確認する。リッカが言う様に、今は特に何もしていない事が判明していた。
「そうだね……元々は温かい所に居るはずの動物だから、恐らくは寒さに弱いのかもしれないね。詳しい事は分からないが、鼻水を出しているのは身体に菌が入らない様に守っているからだと考える事が出来る。恐らくは多少なりとも温かい所に連れて行くのが一番だろうね。ここ数日は特に寒暖の差も激しかったから、多分そうじゃないかな」
カルビの様子を見た榊は自分の所見を口にしていた。これが人間であれば風邪だと言えば納得できる。だが、相手は動物。故に榊もまた遠回しの似た様な事を口にしていた。実際に榊も偶然何もしていないだけで、普段から暇をしている訳では無い。今回の件に関しても、気分転換のついでの様な部分が多分にあった。
「温かい所ですか?」
「元々それはエイジ君が保護したのであれば、近隣に巣があった事になる。基本的には温かい所を好むのであれば、その近隣に何かがあるのかもしれないね」
榊はエイジからカピバラの事を聞いた際に、一つの可能性を考えていた。しかし、それを行使しようとすれば確実に建設の計画が遅れてしまう。何かどさくさ紛れに出来ないものかと常々考えていた。そんな中でのシエルからの問い合わせ。榊にとってはある意味天啓と言える物だった。表面上は何時もとは変わらないが、糸目の様に細い目は普段よりも広がっている。ここに極東支部の誰かが居れば、確実に何かを企んでいる事だけは察知する程だった。
「確かサテライト002号だったよね?」
「はい。そうです」
この時点で、榊は決めかねていた事をやはり一度実行しても良いのではなのだろうかと思案する。仮にあればあったで困る物では無い。無ければ基礎を強固にしたと言い張る事が出来る。
それだけではない。現時点ではサテライトの拠点に関してはそれなりに関心はあるが、それが完全に軌道に乗せる為にはそこに居住する人間の協力が必要不可欠になる。幾ら食や安全面が確保されているとは言え、あと一つ位は魅力的な何かがあった方が良いだろうと考えていた。完全に調査していないが、何かがあるのは間違い無い。無駄に高性能な頭脳は目的からすぐに逆算を開始していた。
「あの……支部長?」
今後の考えがいくつも浮かんでは消えていく。この場にいるシエルとナナの存在をすっかりと忘れながら、一人笑みを浮かべていた。
「やっぱりエイジさんに当時の状況を確認した方が良いのでしょうか?」
「でもクレイドルの事で居ないんだよね」
「何か用かな?」
シエルとナナが色々と頭を悩ませていた所で何気に出た名前。まさか返事が返ってくるとは思ってなかったのか、振り向くとそこには任務から帰ってきたエイジは2人に対して声をかけていた。
「あの、実はカルビの様子が少しおかしくて先ほど榊博士の所で確認したんですが、その際に恐らくカルビが居た近くに何か温かくなる物があったのではないかとの話が出たんですが」
「ああ。その件ね……」
そんなシエルの言葉に当時の事を思い出す。あの時は確か猪を仕留める際に見つけた物ではあったが、実際にそこに住んでいたのかと聞かれると、エイジにも分からなかった。
シエルがカルビを溺愛しているのは、ここの人間であれば皆が知っている。ましてやエイジはラウンジの調理も担当している。その様子を幾度となく見ている為に、何となくその心情を察していた。体調不良であれば、恐らくは何かしたいと考えていた事だけは想像出来ていた。
「建設予定地は今まで何度も調査してるから知ってるつもりだけど、あそこはそんな物が無かった気がするんだよね。実際にはアリサの方が知っているとは思うんだけど」
「そうでしたか…気を使わせてしまいすみません」
「いや。こっちでも一度確認してみるよ」
力になれない事に申し訳ないと思いながらも、この時点で何となくだが、職人達から聞いている事が突如として思い出されていた。しかし、可能性は低く、仮にそれがそうだと分かっていてもおいそれと計画の変更が出来ない。突発的に怒れば対処するしかないが、未確定のままでは何も出来ない。ただでさえサテライト計画は綿密な計画と厳しい予算の元に物事が進んでいる。確定要素にまで口を突っ込む事はエイジであっても出来なかった。
奇しくもエイジも榊と同様の考えがそこにあったが、今の二人にはエイジが考えている事など知る由も無かった。
「あれ?今日は一緒じゃないのか?珍しいな。さては逃げられたのか?」
「違いますよ。アリサは今日は違う場所でミッションが入ってますから、居ないんですよ。そんなに何時も一緒に見えます?」
「そりゃ、誰だっていつも仲睦まじい光景みせられてるのに、いきなり一人なら邪推もするだろ。で、今日はどうしたんだ?」
先だってのラウンジの出来事に一つ確認したい事があると、エイジは予定にはなかったサテライトの巡回と称して現場に来ていた。つい2日前にもここに来ていたが、あの時はアリサも一緒だったが、そんなにくっついていた様な記憶がエイジには無かった。
「ちょっと確認したい事があったんですけど、この近隣で地下水が出てるんじゃないかと思ったんですけど、心当たりはありませんか?」
「地下水ね……そんな話は聞いてないな。ただ、一部に地盤が緩い所があるからそこなら何かあるかもしれんな」
建設予定地にそんな物が出れば確実に計画に大きな支障が出てくる。クレイドルとしては予想さえる物は随分と厄介な物である事を推測していた。事前の調査の段階では確認されていない。今回の件に関しても完全に偶然が積み上がった結果だった。場当たり的と言われればそれまでだが、出たら出たで対処するしかない。希望すべき事なのか、忌むべき物なのか。それ程までに判断が難しい物だった。
「棟梁。ちょっと拙い事が起きた。来てくれないか?」
「拙い事?」
「ああ。実は………」
そんな中で現場の人間らしき人物が慌てて走って来ていた。その様子から恐らく事故でも起きたのかとそれに合わせてエイジも駆けつけていた。現場には予想していたのか、大きな水たまりと同時に湯気も出ている。ここは防壁の内部ではあるが、割と外部には近い。このまま埋める事も困難である事から、これをどうするかが懸念されていた。
「どうやらエイジが考えていた通りだな」
「やっぱりですか。以前に捕獲したカピバラがこんな所に居るのは変だとは思ってたんですが、まさかこんな所からとは」
「で、どうする?このままには出来ないし、工事も変更が必要だぞ」
「工期もありますから……まずはこれをどうにかするのが先決です」
「お前ら、土嚢持って来い!まずはこれを何とかするぞ!」
赤い雨の対策としての建物は確かに出来ているが、それはあくまでも簡易的な物。幸運にも基礎まで深く作ってはいなかった。ある程度の工程にまで進めば本格着工する予定だったが、深く掘った際に源泉にぶち当たったのか、その場には湯気と同時に大きな水たまりが出来ていた。湯量が多いからなのか、それなりに掘ったはずの場所が徐々に広がりを見せる。棟梁の言葉に、付近に居た職人は土嚢を運んでいた。
「そうかい。やっぱりだとは思ったんだが、実際に出るとなると多少の計画の変更が出てくるね」
サテライトdの一報は榊の元にも届いていた。マグマ地帯があり、温暖な環境を好む動物が居れば可能性は高いとは考えていたが、まさかサテライト建設地から出るとは思っても無かった。旧時代であれば癒しとしての効果を持つが、今のご時世では癒しを求める事は難しい。当然ながら計画の変更も余儀なくされる為に頭が痛くなる内容だった。
しかし、可能性が頭の片隅にあった為に、突発的な事案ではあるが、驚く事は無かった。それどころか、持って生き様によってはそれなりに付加価値を付ける事が出来る。榊の中での既に計画が成り立っていた。凍結された内容が次々と解放されていく。机の上に肘をつきながらも、頭脳は常に未来へと向けていた。
「まさかとは思ったんですが……」
「確かに計画に大幅な変更は余儀なくされる。でも、これはある意味では良かったのかもしれないね」
「確かにそうですね」
「この件に関しては直ぐに決済しよう。その方が色々と良さそうだからね」
単純に温泉が出たのは驚くも、問題なのが今後の予定。当初は建設の拠点の為にと考えていたが、温泉が出るならばこれを活かさない手は無かった。
基本的にサテライト拠点は外部居住区よりも住環境が良くない事は既に周知されていた。これまでアラガミに怯えながら生活した者であれば、住環境の多少の悪さは目を瞑る。しかし、従来から外部居住区で過ごした者はその限りでは無かった。一度でも知った環境からの転落は思いの外嫌がるケースは多い。事実、外部居住区に関しても一時は住人が増えすぎた問題をどうやって回避するかを真剣に考えた事もあった。口にはしないが、外部居住区から外へ行きたいと思う人間は居ない。それ所か、場合によっては重犯罪を犯した場合には追放する事で何とか凌いだ時代もあった。榊もまた当時の事は知っている。だからこそ、何らかの付加価値と同時に、ここと同じレベルでの住居を用意する事を優先していた。仮住まいは仕方ない。その一方で、人の感情を上手く利用しながら入植させる事によって、外部居住区の手狭感も解消しようと考えていた。その一翼を担う温泉。目くらましとも思えるが、ある意味では僥倖だった。
「アリサ。例のサテライトの件だけど、計画が少し変わる事になった」
「え?どうかしたんですか?」
「実は建設中に源泉を当てたらしくて、隔壁の近くが……ちょっとね」
「やっぱり、そうですか…」
源泉の言葉にアリサも少し頭を痛めていた。当初の予定と大幅に変更が出るとなれば、今後の入植者の数が大きく変わる。そうなれば立地の計画案も大幅な変更を余儀なくされるのは間違いなかった。
何よりも一番の気がかりなのは、報告した際に榊がかなり乗り気で今回の件に介入する事を決めた点。これまでの事を思い出すとそれ程良い記憶が無かった。
一刻も早い対処は必要だが、それは現実的であり常識の範囲での事。少なくとも今後の事を考えると頭が痛くなりそうだった。自然とその考えが表情に出る。今のアリサは何とも言い難い表情をしていた。
「って事はこれから実地調査と泉質の調査なんですよね?」
「そうなるね。でも、今回の件はクレイドルじゃなくて、変更計画は極東預かりだから、暫くサテライトの件は一時停止になるって。で、暫くは僕らも開店休業って状態は確定だよ」
エイジの言葉にアリサもまた今後の予定を考えていた。本当であればサテライトの計画の遅れは色々と後に問題を孕む。だが、今回に限ってだけ言えばそれは杞憂だった。開店休業と言う事は本当の意味で何も出来ないのではなく、クレイドルの活動が少しだけ止まる事。当然ながら、それ以外の事に関しては何時もと同じだった。クレイドルと第一部隊の頃では決定的に違う事。それは自由時間に関する事だった。だからなのか、それ以降の予定がアリサの中で即座に構築される。何となく笑みを浮かべたのは、その結果だった。
「って事は、時間に余裕が出来るんですか?じゃあ、これからはデートの時間が取れるって事ですよね?」
自分達が主導でやるには今回の内容はイレギュラーすぎた。只でさえパンク寸前の所に膨大な変更では今後の計画が分からなくなる。しかし、極東預かりであれば、当然ながらその道の専門家が段取りをする。イレギュラーによる対応だからなのか、それとも興味に走る結果なのか。少なくともこの時点で002号は一度手を離れるのは決定事項だった。
本来であれば寂しさが勝るが、何よりもエイジが居る状況での休暇は滅多にない。アリサも一旦はこの状況を棚上げすると同時に、現実逃避をしながらも少しだけ喜んでいた。
「そうだね。でも、これからは無理だから明日以降のスケジュール次第って所だけどね」
「それでも良いんです!」
何時もの厳しい表情はそこには無い。自然な笑顔のアリサを久しぶりに見た者は暫し見とれていた。滅多にない光景。ある意味では眼福だった。
そんなやり取りを他所に、実地調査は直ぐに行われていた。只でさえアラガミの脅威がある以上、のんびりと時間をかける訳には行かない。今後、こんなケースがあれば少しはサテライトの件を前向きに考える事も出来ると計算した結果がそこにはあった。
「なあ、サテライトに温泉が出たって本当なのか?」
「まだ調査段階だけどね。恐らくとは思ってたんだけど、まさか源泉だったとは思わなかったけど」
「って事は、温泉の施設を作るのか?」
「確定はしてないけど、榊博士の事だからそうかもね。実際にはクレイドルの手から離れてるから、詳しい事は不明だよ」
「そっか……」
「何にせよ、外部居住区も手狭だし、対策は必要だろうしね」
「確かにそうだな」
サテライトの話は直ぐにアナグラにも広がっていたのか、エイジとアリサを見たコウタが開口一番に確認していた。詳しい結果はともかく、今の所はまだどうなるのか確定出来ない事が多い。実際にコウタがエイジに聞いたのもそんな部分があったからだった。
コウタが聞くという事は、外部居住区でも何らかの話が出ている可能性が高い事を示す。ある意味では榊の描いた絵図の通りだった。どんな結果が出るのかは、少しだけ時間がかかる。
コウタもまたそれを聞いたからこそ、どうやって説明をしたら良いのかと悩んでいた。そんな中での話だからこそ今後の可能性を考えながらにエイジはラウンジの一角を見ていた。
温泉が出たのは結果論ではあるも、やはり温暖な環境の動物がいるのであればと考えた結果がそこにはあった。
既に泉質調査の名目で運び込まれたのか、大きなタライの傍にはポリタンクが置かれている。その中でカルビがお湯に浸かっているのを見ていたシエルとナナの姿が見えていた。