「コウタ、気のせいかアナグラの中の雰囲気が何となく落ち着かないんだけど、何かあった?」
「いや、特に何もなか…無くはないな」
ミッションから帰投し、いつもであれば報告後には直ぐに自室かラウンジに行く事が多かったので気が付く事はあまり無かったが、ここ数日アナグラの雰囲気が何となくソワソワしている様にも感じる。
理由は分からないが何かを期待しているのだろうか、普段よりも落ち着きが無かった。
「ほら、もうすぐバレンタインデーじゃん。みんなチョコも貰いたいんじゃないの?」
「チョコレートね。だったら、これから何か作ろうか?」
バレンタインデーの存在はともかく、チョコレートが欲しいのであれば、溶かして何か作るだけなので、労力はそんなにかからない。あとは在庫があれば数はいくらでも作れる。そんな事を考えていると、コウタの表情は先ほどとはどこか違っていた。
「料理の話じゃなくて、その日にチョコレートを貰えるかどうかの話だよ。旧時代にはこんな風習はあったんだけど、カノンさんが最近そのイベントを復活させたから、皆その日に貰える様に努力してるんだよ」
「確か、チョコレートと愛の告白だったっけ?何かで見た記憶があるよ」
「まぁ、間違ってないけど。ただ、最近は感謝の意味合いと人気のバロメーターを兼ねてるから、多く貰えると嬉しいだろ?それを皆狙ってるんだよ」
「なるほどね」
コウタの言葉にエイジはなんとなく返事をしただけに留まっていた。以前、何か新作のヒントになればとアーカイブで色んな情報を見ていた際に、不意に目に留まった記憶はあったが、それ以上の事は自分には関係ないとばかりに記憶の彼方へと押しやっていた。
確かにそんな日に好きな人から貰えれば嬉しいのは間違いないだろう。だが、ここの所属している人数を比率で割れば男女差は大きく異なる。となれば、貰える人間は限られてくるのでは無いのだろうかと身も蓋も無い考えを思いながらも、コウタの話を聞いてた。
「いつもならエイジのお菓子は好評だけど、流石にそんな日に野郎から貰うには抵抗があるから、エイジはその日はなるべく作らない様にした方がいいぞ。って言うか、お前は貰う側じゃないのか?」
「くれる人なんていないよ」
エイジは気が付いていないかもしれないが、世間のエイジに対する評価は高い。当然、こんなイベントになれば誰もがそう考えるのは当然なのかもしれない。しかし、普段から色々なお菓子や食事類を提供している事もあり、またその味がどれ程のレベルなのかを理解しているのは女性陣の方だった。女子力の塊の様な料理を常時提供しているとなれば、必然的に自分の作ったものと比べる事になる。
となれば、自分で作って持って行くのは違った意味で抵抗を感じる事が多く、決して言われる事は無いだろうが、万が一冷静に感想なんか言われた日にはどんなコメントが待っているのか。考えただけでも恐ろしいとまで思った結果がそこにはあった。
「そうかな?」
「そうだよ。とりあえず、覚えておくよ」
そんな些細な話が既に過去の話となっていた。
「ねぇ、アリサ。アリサもやっぱりチョコレート作るの?」
「えっ?今それを言うんですか?」
任務が終わると何時もの様に2人で食事をしながら、帰投直後のコウタの話が思い出されていた。アリサとしても本来はコッソリと作ってエイジを驚かせたい気持ちはあったが、まさかこんな所で言われるとは思ってもなかったからなのか、口に運んでいた箸が停止している。唐突に言われた事実によりサプライズで驚かす事は不可能となっていた。
「コウタが、そんな事言ってたから、当日はその系統のお菓子は止めた方が良いって言ってたからね」
「細かい事は分かりませんが、コウタが言うならそうなんでしょうね。でも、それをエイジの口からは聞きたくありませんでした」
「ひょっとして作ってくれるの?」
「ひょっとしなくても作りますよ」
心外だとも取れるが、実の所アリサも完全に作る自信は無かった。そもそも、自分の腕前とエイジの腕前を最初から比較しようなんて考えはない。物が物なだけに本人に直接教えて貰う訳にも行かない。
だからこそ、休日にはカノンを先生に皆で作るつもりだったので密かに準備をしていた。まさかここで言われるとは思ってもなかった為に、エイジの言葉に驚いていた。
「そっか。ありがとう嬉しいよ」
「まだあげてないんですから、その言葉は当日までしまっておいてください」
「じゃあ、楽しみにしてるよ。そうだ、お返しに僕も何か作るよ」
エイジの腕前からすれば、いとも簡単に凝った物が作られるのであろう事は容易に想像が出来る。この時点で対抗するつもりは無いが、エイジの恋人が料理が出来ないでは何となく申し訳が立たない様な、そんな居た堪れない気持ちになりだす。
これ以上考えるのは止め、あとは当日何とかしようかとそのまま準備を進めていた。
「アリサさん。大丈夫ですか?」
「これをこのまま湯せんすれば良いんですよね?」
「あんまり温度が高いと分離するので、気をつけて下さいね」
「ここはこれを入れた方が…」
「そんなに入れる必要無いです。って言うよりも、それ以上入れると固まらないですから!」
13日はなぜかラウンジは貸し切り状態となり、僅かにカノンの声が聞こえてくる。今回の参加者はアリサだけではなく、ヒバリとリッカもいた。外から聞く分には何やら大事になっている様な気がするが、それもすべては明日の準備だろうと男性陣は誰一人文句を言う者はいなかった。
「そう言えばアリサってさ、あれから腕前は上がったの?」
外から聞こえる声の大半はアリサに対する物が多く、果たして本当に出来るのだろうか?などと心配になり始めていた。新人はともかく、アリサに近い人間はアリサの腕前は良く知っている。普段の食事はエイジが作っているので果たしてまともな物が作られるのだろうか?ある意味羨ましいを通り越して、心配になる様な空気が漂っていた。
「当初に比べれば…だよ。今回の食材はカノンさんには言ってあるんだけど、なるべく簡単に作れる製菓用を用意してるから、余程の事が無い限り大丈夫なはずだけどね」
「そうか…エイジ、胃薬要るか?」
「そこまではいらないよ」
明らかに羨望ではなく同情の空気が漂っているが、それは流石に失礼だからと断りはしたが、自分の目の届かない範囲での料理はやはり心配な事に変わりなかった。火傷をせず無事に作れればそれで十分とばかりに既に心配の目的が変わっている。そんな空気をコウタは感じ取っていたが、それ以上の事は何も言わないままだった。
「エイジ。これどうぞ」
「ありがとう。早速開けても良い?」
「どうぞ。今回のはカノンさんにも手伝ってもらったので、味には自信がありますから」
バレンタイン当日はアナグラの甘い雰囲気はピークに達していた。既にヒバリからチョコレートを貰ったのか、タツミはご機嫌なまま任務へと挑み、他の人間も義理とばかりに受け取っていた。
アリサが自信があると箱を開ければ、形こそは不恰好だが、何となく丸くなったチョコレートの塊が4個入っていた。あの後の奮闘ぶりはヒバリから聞いていたが、まさかここまでまともな物が出来ているとは想像していなかった。
当初は予想外の出来に驚きこそしたが、よく見ると何か不思議な雰囲気がある。見た目は確かにチョコレートなのかもしれないが、よく見ると何かが違う。だからこそ確かめてみたいと言う好奇心が警戒を上回っていた。
「今、食べても大丈夫?」
「勿論です。どうぞ食べてください」
口ではそう言うものの、やはりエイジの表情が気になるのか、咀嚼している最中もずっとアリサの視線が外れる事はない。本来であればそこまで真剣は表情で見る必要性は無いが、やはりどんな感想が出てくるのか、不安を隠す事は出来なかった。
「あの…どうでしょうか?」
「…普通に美味しいよ」
「あの…他には何もありませんか?」
この一言に表情には出さないものの、エイジも焦りが出ていた。製菓用とは言え、恐らく作ったのはトリュフと思われる代物ではあるが、問題なのはその食感だった。通常であれば、湯せんした物にミルクなり生クリームを配合した物をそのまま冷やして固めるだけなので、失敗の要素は低い代物。
口の中に入れた当初は確かにチョコレートの味はしたが、徐々に不思議な食感と味が既に別物である様にも感じていた。恐らくは完全に分離したのか、口に入れた食感は粘土の様な歯ごたえと同時に、口の中にまとわりつく。
一体何をどうやったらこうなるのかは甚だ疑問ではあったが、それ以外の関しては及第点とも取れていた。
「ちゃんと、チョコレートだったよ。参考に聞くけど、ブランデーか何かを混ぜたの?」
恐らくそれが知りたかったのだろうか?心配気な顔から徐々に笑顔へと変貌していく。その表情を見て、この問いかけが正解だと理解出来た。
「ちょっと食感が足りないと思って、ブランデーとゼラチンを入れたんですけど、どうでした?」
恐らくはチョコボンボンを意識したのだろうか?何か閃いた結果がそうだったのかもしれない。不思議な食感と味がそこで漸く理解できていた。この時点でカノンの奮闘ぶりは見ていないが、恐らく現場は大混乱だったの事だけは創造出来ていた。心の中で合掌しつつも、今はこのチョコレートを食べる事にに全力を注いでいた。
「そう言えば、他の人には配らないの?」
「それなんですけど…たくさん作ったはずだったんですが、思ったよりも数が出来なかったのと、成功したのがこれだったのでそこまで出来なかったんです」
しゅんとしたアリサの表情からは、恐らくロビーの様子からヒバリやリッカも他の人に作る為に数は作っていたはず。カノンにしても沢山作っているから、アリサがそこまでする必要が無いとでも言われたのかもしれない。
腕前はともかく、他の人からアリサの事を悪く言われる様な事はしたなくないとの考えから、エイジは冷蔵庫から素早く材料を取り出し一気に作り出した。
「アリサはそのチョコレートソースをスプーンですくってかけて」
「こう…ですか?」
「そうそう。その調子だよ。こっちももうすぐ終わるから、後で手伝うよ」
一気に作ったのはチョコブラウニー。簡単に出来るのと同時に、本来であれば一つ一つを切り分ければいいのだが、いかんせん時間が無い。であれば、当事者が自分達で切り分ければ良いとばかりに土台を作り、ワインで伸ばしたチョコクリームをかける事で、仕上げる事にした。
本来であればアリサが作るのが一番だが、そんな時間と材料は生憎と無いために、仕上げはアリサがやって、それを作った事にすれば問題無いと判断していた。
「後はこれで軽く模様を作れば完成だよ」
短時間で出来たとは思えないほどに、見た目は既製品の様な具合で作られたのはザッハトルテだった。表面はアリサが仕上げたが、模様だけはホワイトチョコでエイジが仕上げ、それをそのまま箱に入れてラウンジへと運び出した。
「それ、アリサが作ったのか?」
「エイジには手伝ってもらいましたが、そうですよ」
ラウンジにはヒバリから貰った物だと思われるチョコレートをそれぞれが食べていた。そんな中でアリサが持ってきた大きな白い箱は十分すぎる程に目に入る。アリサの腕前を良く知っている人間は顔をひきつらせ、知らない人間は興味が強いのか、視線を外そうとはしない。万が一の被害状況を抑えんとばかりにコウタが確認していた。
「あのさ、疑う訳じゃないけど本当にアリサが作ったのか?」
「ちょっと失礼じゃないですか。そんなに言うなら一度見てみなさいよ」
コウタの発言にムッとするも、今さっきまで作っていた物は確かに仕上がりは良かった。だからこそ、アリサにしても自信があるとの発言がそこにあった。
カウンターに置かれた箱を開けると、今さっき出来たばかりなのか、カカオの匂いと共に見た目は上品なチョコレートケーキが鎮座している。茶色いチョコレートソースをベースに、その上にはホワイトチョコレートで花が描かれ、明らかに既製品レベルか、ひょっとしたら高級店で買ってきたのではないのかとの憶測すら出始めていた。
「参考までに聞くが、アリサは何をどうしたんだ?」
誰にも聞こえない様にソーマがアリサに確認をしていた。他の人間は未だにチョコレートケーキに目を奪われるが、一番最初に手を出したいとは思ってもいない。恐らくは人身御供が無ければおいそれと手出しは出来ない事は、この場にいた全員の意思だった。
「私は表面のチョコレートを仕上げたんです」
「って事は、中身の大半はエイジが作ったのか?」
「土台とチョコレートソースはエイジですよ」
その一言がソーマの行動を決めていた。アリサの話が正しければ、間違いなく中身は100%エイジが作ったとも判断出来る。そうなれば、態々警戒をする必要は無い。そう考え、自分でナイフを入れて一切れを皿にのせて口に運んでいた。
「なぁソーマ。大丈夫なのか?」
「見ての通りだ。中々の具合は流石だな」
想定外のソーマの言葉にコウタも何かを悟ったのか、恐る恐る一切れを更に乗せそのままフォークを口に運んでいた。ほろ苦さと甘さのバランスが絶妙な一品は明らかにエイジの作りである事が確認されると、残りを一気に口へと運んでいた。
コウタの動きが呼び水となったのか、次から次へと人が来出す。大きかったはずのケーキはあっと言う間に無くなっていた。まさかここまで一気に無くなるとは思っても無かったが、感想は全員に聞くまでもなく、その表情は全てを物語っていた。
「わっ!どうしたのこれ?」
「アリサのケーキが大好評だったから皆で食べたんだよ」
「本当にアリサが作ったの?」
何気にリッカが放った言葉はアリサの口から出るであろう言葉を遮っていた。
「…まぁ、そんな所です」
「ふ~ん。ま、良いけどね。そう言えば、エイジも何か簡単な物作ったからって聞いたから、ここに来たんだけど、アリサは聞いてない?」
追い打ちとばかりに放たれた言葉は今のアリサには十分なダメージを与えていた。確かに、これを作ったのは実質はエイジだが、それ以外の事は何も知らない。だからこそ、これがそうだったのだろうか?そんな考えが脳内に湧き出始めていた。
「遅くなった。リッカ来てたんだね。言ってたのはこれだよ。技術班で食べてもらって」
アリサを助けるかの様に、エイジが持ってきたのはオレンジピールを使ったお菓子だった。オレンジの鮮やかな色合いにチョコレートがかかっているそれは、ある意味どこで購入した物だろうか?そんな様にも捉える事が出来る代物だった。
「これ、オランジェなんだけど、みんなで食べてくれればいいよ。普段の慰労も兼ねてだけど」
「これ、作ったんだよね?」
「そんなに手間はかからないから気にしなくても大丈夫だよ。あと、アリサの分もあるから」
自分にまで気にかけてくれるのは有りがたいが、短時間で作ったブラウニーだけではなく、オレンジピールまで作っていたとは想像もしていなかった。周りを見ても、誰も言葉を発せようとはしていない。
「こんなのまで作られると、女子としての立場が無いんだけど…まぁ、美味しいから有りがたく受け取るよ。じゃあね」
一言そう言われ整備室へと戻って行った。
最後の最後を持って行った感はあるものの、穏やかなバレンタインの一日が過ぎて行った。