「全!」
膝を着き俯く全。その姿を捉えた緋桜は急いで主の下に走り寄る。
「……緋桜」
今まで聞いたことない擦れた声。酷く弱ったように聞こえるそれとは裏腹に、自らの主の瞳には、隠しきれない憤怒と憎悪の光が宿っていた。
「この子、頼む。後で、迎えに来るから」
それだけ言って、抱きしめていた少女を緋桜に預けると全は森の中へと歩いて行く。向かう先など、決まっている。
■■■
サーシャが自室を出た時、そこにはもうかつての面影などありはしなかった。血潮が廊下をくまなく染め、四肢や頭部、臓物が廊下を装飾している。悲鳴が曲となり、そこは正しく地獄と化していた。
誰が何故こんなことを、疑問は次の瞬間には解けた。
サーシャの目の前を通り過ぎる肉塊。それは廊下の壁へと激突し、やがて動かなくなる。肉塊の飛んできた方向を見れば、そこにはまるで何時もの様な足取りで歩いて行く全の後姿。しかし、その右手には鈍く光る刀を持ち、左手には切り落とされた妖怪の頭が握られていた。
この城を出ていく前に見た時とは明らかに違うその雰囲気は、別人なのではないかと錯覚するほどであった。
「サーシャか…」
歩を止め、振り返る全。その瞳は冷酷で、何所までも冷めていた。
「…ウィリアムの部屋に誰も通すな」
全から放たれる圧で動くことの出来ないサーシャ。それを気にすることもなく、彼は知れだけ言って再び歩き出していった。
やがてその姿が見えなくなり、サーシャはぺたりと床に座り込む。
止めなくてはいけない。そう思いはすれど、身体は動きはしない。本能的に、サーシャは彼に屈したのだ。
恐らく全はウィリアムへと戦いを挑む気でいるのだろう。何万、いや、それ以上かもしれない月日を生きてきた大妖怪と、それに並ぶだけの月日を生きた人間を越えた超人。加減などしない両者の戦いで一体どれだけの仲間が巻き込まれるだろうか。恐るべきは、二人とも誰が巻き込まれようともその顔色を変えることなどありはしないだろうということだ。
せめてシルヴィだけでも助けなくては。
動こうとサーシャが立ち上がった瞬間、建物全体が大きく揺れる。その揺れで既に二人が戦い始めたのだということをサーシャは悟った。
■■■
昨日までは何も感じなかった扉が、今は威圧感を放っている様に思える。無論のこと、それは俺の気の性だろう。門はいつも通り、そこにあるだけだ。ただ、俺の心がそんな幻覚を生んでいるだけ。この扉から先に踏み込めば、もう昨日までの日々には戻ることはできないと確信している為だ。
だが、もう戻る気などありはしない。
ただ静かに、いつも通りに扉を開ける。扉の先、そこにはいつも通りのウィリアムがいる。
「何の用だ?」
「………」
ウィリアムに言葉を返さず、全は左手で掴む妖怪の頭を投げつける。宙を舞ったそれは、血で斑点模様を作りながら地面へと落下する。苦悶の表情で固まったそれは、何をされたのかは分からないが、どれ程の者であったのかは想像できるだろう。
投げつけられたそれを一瞥し、ウィリアムは本を閉じる。
「それがどうした?お前の口で言わなければ伝わらんぞ?」
「…そいつらが全部吐いた。ウィリアム、さらに言わないと分からないか?」
全の視線を受け、ウィリアムは俯き、その肩を震わせる。
「く、くく…はははは…!」
部屋の中に響き渡る笑い声。短く笑うと、ウィリアムはその顔を上げて口を開いた。
「中々良い出来であったろう?貴様にも見せてやりたかったぞ。己が力の及ばない者を前にした者達の顔を…」
その時の光景を思い出したのか、愉快気に笑うウィリアムを前に、全は己が拳に力が入る。
元々、妖怪など、悪魔などそんなものだ。人間の恐怖が源である以上、残虐さを持っているものだ。ウィリアムもそうであることを忘れていたわけではない。だが―――
「彼女は、まだ子供だった。まだ、未来があったんだ…」
「それがどうした?言っただろう、不愉快だと」
「………っ」
「お前は子供に甘すぎるな。畜生の糞にも及ばぬ感情など捨ててしまえ。お前は、私と同じ場所に立てる力を持っている」
「……分かったよ。てめえとは―――分かりあえねえってことが!!」
明鏡止水
自身の身体を極限にまで高め、一歩で彼我の距離を埋める。
殺す。ただその殺意を糧に、刃をその首へと振るう
「遅い」
だが、その刃はあまりに非力で、あまりにも脆い。突き出された刀は一瞬にして崩れ、その半ばから折れる。
戦う上でウィリアムの能力は何よりも恐ろしいものだろう。枯らす程度の能力。ウィリアムが認識できる範囲全ての物を、例外なく枯らす。それは体力であろうと、肉体だろうと、霊力だろうと関係ない。全て等しく、塵と化すのだ。
厄介な能力だ。だが、対抗できる手段がない訳ではない。
刀が役に立たなくなると同時、その場から大きく飛び退き、左手をウィリアムに向ける。
「座標固定、対象認識…発動」
渡る程度の能力。その力を全は初めて全力で行使する。
能力は保有する存在に大きく関わる。それは、その存在を表す物であり、その魂に深く結びついている。それは、魂を変質させれば、その能力も変わる、あるいは失うことが出来るということだ。
「てめえは、もう、吸血鬼の祖なんかじゃねぇ」
発動と共に、全を酷い倦怠感が襲う。霊力の半分以上が失われ、突然の霊力の低下に、思わず膝を着く。
魂を変質させる。それは神の如き所業だ。全が今まで出会った神たちでさえ、こんなことが出来る者などいなかった。これは、たかが人間如きが行っていいことではない。当然、全はウィリアムの全てを変えられたわけではない。能力を消し、再生能力と身体能力を多少低下させた程度だ。だが、それでも十分過ぎるほどの結果であり、そう考えれば、この代償は安すぎるだろう。
「―――む」
能力の喪失を感じ、ウィリアムは眉をぴくりと動かす。だが、その程度だ。むしろ、ウィリアムは己の中で何かが昂り出していることに気付く。
「…良い、良いぞ!」
先程までの余裕の笑みではない。獣の様な獰猛な笑み、戦いを好む者の笑みを浮かべてウィリアムは大地を蹴る。確かに、ウィリアムは能力を失い。不死に近い程の再生能力も低下している。
だが、それがどうした。その程度で退く程、ウィリアムは弱くはない。己が能力に胡坐をかき、惰性の日々を送ってきた愚者ではない。
瞬間移動に思えるほどの速度で全の左側面に回り、全の腕に右拳を減り込ませる。一撃で全の腕がへし折れ、骨が肉を破って突き出す。
「ぐっ、がぁ!!?」
衝撃で吹き飛ばされながらも、残る霊力の大半を明鏡止水に回し、高速でその傷を治す。だが、その一瞬の時間さえ、ウィリアムには欠伸が出るほどの時間であった。
「ふん」
距離を詰めようと動こうとした全の米神に鋭い蹴りが放たれる。その一撃に全の身体は地面へと叩き落され、視界が大きく揺らぐ。
そんな中で、どうにか頭を働かせてその場から転移することでウィリアムの追撃を回避する。
「…はっ…はっ…」
「どうした?随分と疲れているようだが」
ウィリアムと大きく距離を取り、全は息を整える。簡単に勝てる相手でないことは分かっていた。自らが死ぬ可能性があることも理解していた。しかし…
強すぎる。
何の構えも取らない、隙だらだらけの状態で此方を見るウィリアムに全はまだ彼が本気でないことを悟る。いや、全が飛び込むのを待っているのだろうか。
その答えは分からない。だが、全が勝つためには、そこに飛び込まなくてはならないことだけは分かり切っていることだ。
大地を踏みしめ、加速する。それに合わせて突き出される拳を、転移によって回避。その背後に回る。
「っらぁ!!」
触れれば良い。それだけで、全はウィリアムの肉体を爆ぜ飛ばせる。
「…ほう。だが、温い!」
全の右手がウィリアムの右肩に触れ、根元から腕を爆ぜ飛ばす。しかし、襲い掛かる激痛にまるで怯む様子もなく、ウィリアムの左手が全の顔を握りつぶそうとする。
「なら、これでっ!」
ウィリアムの手が触れた瞬間、ウィリアムの指は転移によって消え、綺麗に切断されたかのようにその断面を晒す。
「おおおおおぉぉぉぉぉ!!!」
その力を大きく半減させたウィリアムに対して、全は彼が再生するより早く、その胴に触れて胸元を内側から破裂させる。
鮮血を迸らせ、大きくその身体を揺らし、ウィリアムは倒れる。さしもの大妖怪と言えど、今のウィリアムではそう簡単には治らないだろう。
奴が再生する前に!
倒れるウィリアムへと拳を振り上げる。
だが、その拳が振り下ろされることはない。グチュリ、と嫌な音が全の肉体から発せられる。視線を下に向ければ、ウィリアムの左脚が全の腹を突き破っていた。
「……っ、ぁ…かっ、は!!」
ここで動きを止めれば殺される。全は腹を突き破るウィリアムの脚を、肉体を再生させることで強引に拘束する。
「死にやがれぇ!!」
眼帯に隠された虚空が一瞬輝き、眼帯を突き破って新たな剣が出現する。
それを右手で掴み、ウィリアムの肩へと突き刺した。吹き出す血が二人を染める。だが、最早全の方が先に限界を迎え始めていた。
「ま、だ…まだまだぁ!!」
殺す、なにが起ころうと、今この場で確実に殺す。その執念のみで、全は残りの霊力全てを左手に掻き集める。
「くたばれぇぇぇぇ!!」
極大の光。左手に掻き集められた霊力が放たれる。
「それはお前だ」
だが、それより早く、全の身体が縦に裂けた。
「な…?」
それは脚だ。全が封じていた左脚に妖力を回し、それによって強化して全の肉体を一瞬にして裂いたのだ。
一瞬の出来事だった。自らを縛る拘束が消えると同時、ウィリアムは立ち上がると、瞬きの間すらなく全の肉体を細切れにする。
「所詮、お前などその程度か…」
失望の意を含んで放たれる言葉。降り注ぐ鮮血と肉塊を浴びながら、ウィリアムは立ち尽くす。
だが、それも一瞬だ。
「誰がこの程度だって…?」
神気が流れ込む。それらは一転に集中し、やがて巨大な神力が感じられる。周囲に漂う禍が集まり人の形を取る。
「私があの程度でやられる訳ないでしょ」
そこに立つのは女だった。長い、腰にも届くほどの黒髪を靡かせ、何所までも深い黒の瞳の女だ。その面影と立ち振る舞いは、どことなく全を連想させる。
「…ほう、貴様は誰だ?」
尋ねるウィリアムに女はその瞳を細め、その場から消え失せる。
「正真正銘本物の渡良瀬全だよ」
声は背後から、ウィリアムの真後ろに転移した全は、そう告げると左手でウィリアムの肉体を貫き、手に取った心臓を握りつぶす。
「絶対に、お前は殺してやる」
逃がしはしない。放射状に神力を放ち、上半身を消し飛ばす。だが、それでもウィルの肉体は再生する。これで再生能力が低下したというのだ。本来の力は一体どれ程だというのか。
放たれた妖力弾が全の右腕を抉る。だが、全もまたその痛みも、傷も気にしない。両者は防御を捨て、ただ只管に目の前の敵を殴り合う。肉が弾け、血が床を、天井を、壁を染めていく。
その光景はまるで知性のない獣同士の戦いだ。互いが肉を食らいあい、一歩も譲らない。退けば、己が敗けであると言わんばかりに。
だが、二人にとってはそれでいいのだ。ただ醜く、あるがままに。自らの闘争本能に従って、目の前の邪魔者を排除する。綺麗だとか、美しいなどと言う物を持ちこむ必要はない。ただどこまで野蛮に、下劣であればいいのだ。戦いなど、そんなものでしかないのだから。
舞い散る赤が広がる中、ウィリアムは唇を歪める。
ああ、自分は餓えていたのだ。敵のいない頂に立ち、それを崩す者さえもいなくなるほどに、自分は強くなりすぎた。小指をぶつけるだけで人間など容易く壊れる。玩具にも成りはしない。そんな中で、今自分は対等足る者と戦っている。枯れ果てた自らを癒すように、全身の血が滾っている。
今までこんなことはなかった。そうだ、これだ、これこそが求めてきたもの。枯れ果てた自らを再び立ち上げる為に必要であったものだ。今、私は、いや、俺はこんなにも―――
「満たされている!!」
妖力を纏って放たれた一撃が全の足を捥ぐ。だが、それが何になる?向こうからすれば身体が軽くなって動きやすいという程度だろう。
まだだ、まだ足りない。目の前の得物を喰うためにはこの程度の力では足りない。
ウィリアムの意思に従い、纏う妖力が数倍に膨れ上がる。しかし、全にしてみればそれがどうしたという思いだ。そんな程度で、自分が壊れると思っているのか。
敵討ちなどと綺麗な言葉で誤魔化す気はない。ただ何時までもちんたらしていた自分が愚かで、周囲の動きに気づけなかった自分が間抜けなだけだった話だ。だが、そんな自分以上に、彼女を殺したウィリアムが憎くて仕方ない。それだけだ、だから殺す。
子供だと、滅茶苦茶だと言われればそれが何だと返そう。自分は何所までも我儘に、自分勝手に生きているだけだ。お前たちの考えなどしったことではない。
こいつが一番憎いから殺すのだ。友だからなんだ、こいつは敵だ。
ウィリアムの頭を掴み、握りつぶす。しかし、それでウィリアムの動きは留まることはなく、頭を再生させながら神力を辿って全へと攻撃を当ててくる。
互いに傷は直ぐ様回復していき、どこまで行こうと終わりなき闘争だ。疲弊などもありはしない。
「もっとだ、もっと俺を楽しませろぉ!」
今までに見せたことのない程に笑い、ウィリアムは両の手に妖力を集中させる。わざと妖力を長く溜め、全を誘う。この一撃に背を向けるかと。
そんなこと、許容できるものではない。ウィリアムの一撃に、全もまた、神力を集中させる。
「「消し飛べ!!」」
ほぼ同時に放たれた極大の一撃。黒と赤の奔流は交ざり、ぶつかりあい、周囲全てを破壊しつくす。最早二人にとっては目の前の存在だけが世界を構築していた。他は何も見えない、聞こえない。加減を知らない両者の全力でのぶつかり合いは、やがてその城を瓦礫の山に変えていく。
「もっとだ、まだまだ足りん!!」
閃光と衝撃、そして轟音が占める中を、ウィリアムは正確に全の位置を捉え、その首を刎ね飛ばす。
だが、首が刎ね飛ばされると同時に、首のない身体の形が崩れ、その肉体を構成していた禍がウィリアムを襲う。それはウィリアムの肉体を紙きれの様に切り裂く。やがて禍はウィリアムの周囲を渦巻、ウィリアムを閉じ込める檻となる
荒れ狂う渦の中に閉じ込められたウィリアムは、しかしその笑みを崩しはしない。
「こんなもので…!!」
右腕に妖力を集中させ、自らを閉じ込める檻を切り裂く。所詮は時間稼ぎの為に展開されたもの。大妖怪たるウィリアムの前には大した効力もない。
視界を埋め尽くしていた禍が消え去り、視界が晴れる。その視界の先には、ウィリアム目掛けて、無数の札を放つ全の姿。
既に次の準備は出来ていた。後は徐々に追い詰めていくだけだ。
「破れるものなら…」
破ってみろ!!
札が妖しく輝き。一筋の光が放たれる。それは反対に、あるいは隣にある札へと向かい、まるで紐の様に互いを繋ぐ。その全てが繋がれば、そこにはまるで敵を切り刻む強靭な刃が出来上がる。そして札は全てが滅茶苦茶な軌道を描き、元々複雑であった光の紐の刃を、より複雑にしていく。それらは飛翔し、獲物であるウィリアムに迫る。
「―――っ」
喋る余裕はない。一つでも直撃すれば最早後はない。再生するより早く身体を切り刻まれ、為すすべないまま封印されてしまう。
しかし、ウィリアムを囲う札は正しく無限。空でも覆えるのではないかと思えるほどの数だ。その全てを躱しきることは難しい。迫る光の紐を前に一瞬で判断していく。迫る一つを避け、直後の一つを右腕と引き換えに躱す。右腕が再生するより早く迫る二つを、一つは札を燃やして回避し、もう一つは左手の手首を犠牲にしてやり過ごす。だが、背後から迫った一つが右脚を太腿から切り落とし、その機動力を低下させる。
しかし、それが何だ。バランスを崩して地に片膝を着くウィリアムに迫る凶刃。それを再生しかけている左手で無理矢理身体を宙に飛ばすことで回避する。そのまま飛翔すれば、紙一重ながらも回避し続けていく。
一体どれ程の時間が経っているのだろうか。一時間か、二時間か…はたまた十分にも満たない時間だろうか。極限までに高まった集中力で躱し、更に全との距離を縮めていく。
「沈め」
呟き、全は地に神力を流し込む。それは土に隠れた札を起動させ、勢いよく水を噴出させる。刀の刃をも凌駕する鋭さは、ウィリアムの身体を容易く打ち抜いた。
「…ぐっ!?」
そもそも吸血鬼ではないため、水流による痛みはないが、それでも身体を貫かれたのだ。その飛行に僅かな揺らぎが生じる。
それが致命的な隙を生む。
ウィリアムの背後、今まで回避してきた光の紐による刃が壁となってウィリアムの背に手を掛ける。そこからは一瞬であった。無数の札によってできた壁は崩れ、まるで波の様にウィリアムを飲み込む。その中で何が起きているかなど考える必要はないだろう。
札の幾つかが赤い染みを作る。
「………」
その様子を眺めながら、全は小さく息を整える。
「これ―――「終りだ」」
全が口を開いた瞬間、目の前に全身を切り刻まれ、赤い肉塊となったウィリアムがいた。全が警戒を一瞬でも解く瞬間、それをウィリアムは待ったのだ。ギリギリで人の形だけは保ったウィリアムは引いた右手を突き出す。
「――――!」
即座の判断。突き出される右手に合わせて、全も右拳を突き出す。
しかし、それは遅かった。全の拳はウィリアムの頬を裂くに留まり、ウィリアムの右手は全の胸を貫いた。
「がっ…はぁ…っ!!」
この程度が致命傷にならず即座に再生することは承知している。ウィリアムはその口を大きく開き、全の肩に噛み付いた。
例え能力を奪われようと、吸血までもが奪われたわけではない。そも、自身の再生能力も完全に消えたわけではないのだ。ウィリアムからすれば、能力を失った程度(・・)という認識でしかない。
枯れ果てる、木乃伊と化していく全の肉体。しかし、その瞳まで枯れてはいない。
「終り…なのは―――」
全の肉体に噛み付いていたウィリアムの様子が激変する。その瞳が胡乱な物に変わり、フラフラと身体を揺らしながら後退すると、そのまま仰向けに倒れる。
「な…た……?」
何かを言ってはいるが、それが意味を持つことはない。
黄泉送り
全が作りだした対蓬莱人の技。対象の魂そのものに三途の川を渡らせる一撃必殺の技。対象が一定時間触れていなければ出来ないが、今回はウィリアムが噛み付いていた。今まで溜めていた神力の多くを失い、ながらもなけなしの神力で損傷した渡良瀬全を直し、その身に着る(・・)。その姿に戻ると、全はよろよろと頼りない足取りでウィリアムの傍に立つ。
「俺の勝ちだ」
倒れるウィリアムの瞳は最早どこを捉えているのかは分からない。だが、その口だけは満足そうに歪んだ。
「お前の力は、俺が使う」
呟き、倒れるウィリアムの瞳に手を伸ばす。
ビクリとその身体が跳ねるが、気にすることはなく全は抉り取ったその眼球を自身の虚空に収める。黄泉送りによって送った魂は九割、残り一割の魂を虚空に収めた眼球に宿し、全は眼帯で蓋をする。
「もうこれで、さよならだ。お前とは…もう会わないことを願うよ」
じゃあな、ウィル。
胸を打つ痛みにその顔を歪ませながら、全は瓦礫の中を歩く。霊力はほぼゼロ位等しい。今までに溜めてきた神力も今回でその大半を消費してしまった。最早戦える力は残ってはいないと言っても過言ではない。
フラフラと、しかししっかりと地に足を付けて歩いて行く。
「全!」
その背にかけられる声。全は振り向くことなく、その人物へ口を開く。
「…何の用だシルヴィ」
「全、お兄様は…」
「俺が殺した。もう、あいつはいない。俺も此処を去る」
「―――待って!」
歩き出す全へ手を伸ばし、シルヴィはその背を追いかけようとする。
「こっちへ来るな!」
張り上げられた声に、シルヴィはその身をビクリと震わせ、伸ばした手を引いてしまう。
「お前を見ると…ウィルを思い出す。これ以上、俺にアイツを見せないでくれ」
「全!」
それだけ言って再び歩き出す全に、シルヴィは声を張り上げる。
「待って!お願い、待って!」
「悪い、またお前を一人にさせちまう。サーシャにもすまないと言っておいてくれた。……その子には、父親は自分たちを捨てたと言ってくれ。変な希望を持たせるよりマシだ」
「全!!」
「もう、さよならだ」
言いたいことだけを言って、全は歩き出す。もうこれ以上、この場には立っていたくはなかった。申し訳ないと思う、罪悪感はある。だが、それ以上に、憎しみが強かった。
■■■
少女の住んでいた村。最早その影はなくなった地獄の中を全は歩く。
村の中心。そこにいる緋桜へと歩いて行くと、座り込む緋桜の隣に見知った者が立っていた。
「何の用だ、八雲」
「――っ!……渡良瀬、全」
その声に振り向いた紫の顔には少なくない驚きが含まれていた。紫は、全に向けていた視線を逸らし、浮かない顔をするのみだ。
この女が俺に気づかない程何かに夢中になっていた?いや、あるいは俺のしたことに…。
考えはすれど、全にとってはどうでも良いことであった。少なくとも、今八雲が襲ってくる気配はないのだから。それは無事な緋桜を見れば一目瞭然だ。
「緋桜」
「…全」
こちらを振り向く緋桜の胸元、そこには死んだ少女が抱かれていた。
「何を…したんですか?」
胸元に抱く少女は確かに死んだ。しかし、その少女の肩はゆっくりと動いていた。まるで生きているように、まるで呼吸をする様に…。
「どうにかしようとしたんだ」
眠る少女の頭に手を伸ばし、静かに撫でる。
「死んでも、どうにか戻ってこれるんじゃないかと思った」
けれど―――
「彼女の魂がもう一度こっちに戻って来ることはなかった。俺の手は彼女には届かなかった」
ならば今ここに眠る少女は何だ?そこに眠る少女は確かに死んだ筈の少女の姿をしている。肉体も声も、髪の色も、確かに少女と同じなのだ。
「この子は、俺が作った子だ」
自身の記憶に残る少女の影を全て集めて、それをもとにして作られた人口の魂を持った者。それは生物を冒涜し、死んだ少女を自らの手で穢しているに他ならない。
だが、それでも全は、もう一度彼女と会いたかった。一言だけでもいい、再び、話したかった。
だが、結果は違う。神はそれを許しはしなかった。今ここにいる子は、誰にも望まれずに生み出された者だ。
「ごめん、ごめんよ…」
それは果たしてどちらに言っているのだろうか。眠る少女の頬を撫で、全は嗚咽を漏らす。
零れた涙が、少女の頬を濡らした。