「最近、あの村に頻繁に出入りをしているらしいな」
「ああ」
ペラリと頁を捲りながら、ウィルは全を一瞥さえすることなく口を開く。その言葉に、同じく本の頁を捲りながら全も答える。
この城に置かれている本は、かつて月人達がまだ地上にいた頃の物だ。その種類は多岐に渡り、幼児向けから専門的な物まで、あらゆる分野の本が置かれていた。最早月人のいないこの地上において、これらの本は非常に貴重な物であり、保存できるようウィルが魔法を使っているのだ。
少々話が脱線してしまったが、全が手に取っている本は児童向けの簡単な物語であった。
その表紙にちらりと目をやり、直ぐに視線を手元の本に移すとウィルはもう一度全へと問いを放つ。
「何故だ?」
「………」
「私は不愉快だと言ったのだが?」
「あいつにはあそこから遠ざかる様に言ってある。もう少ししたらいなくなるさ」
そう言いながら頁を捲っていた全の手が止まる。先程までは綺麗に保存してあった本は恐るべき速度で崩れていき、やがて細かな粉へと変わる。
「不愉快だ、私はそう言ったのだが?」
「………」
「犬は主人に忠実に動け、それが出来ないなら死ぬだけだ。飼い主の手を噛む駄犬などいるだけで不愉快だからな」
「………相手は子供だぞ」
「それがどうした。お前はやがて牙を剥くと分かっているハイエナを放っておくのか?」
「………」
その言葉に答えることは出来ない。全は立ち上がると、静かにその場を後にした。
■■■
流石にウィルにこれ以上の言い訳は通用しないか。
閉まる扉を背に、全は溜息を吐く。そもそも、この数週間に目を瞑ってくれただけでも御の字なのだ。これ以上、どう言おうとウィルの考えが変わることはないだろう。
早く彼女にはここから遠く離れてもらわなければ。そうは思いながらも、全は頭を悩ませる。ここ数週間、全は毎日の様にあの少女の下に訪れていた。あれほど胸糞悪いとあの少女から放たれる力に感じていたのに、だ。彼女の下を訪れる彼は、まるで恋の病にかかっているかのようだ、とは呆れて何も言わなくなった緋桜の言葉だ。
≪魔を払う程度の能力≫
それがあの少女の持つ能力。魔が悪魔、悪意、不幸などであるのは当然だが、その中には、穢れも含まれ、彼女の領域は一種の聖域とかしていた。
この能力はその効果も面倒だが、何より面倒なのは、この能力が常時発動型であることだ。本人の意思に関係なく常にその効果を発揮し続ける。もし、これが本人の意思で抑えられるのなら、まだウィルをどうにか説得したかもしれない。
しかし、もし本人の意思で抑えつけられても、恐らくウィルは考え方を変えなかっただろうと言う確信が全にはあった。
まず、人間は嘘を吐く、仮に抑えても、その影響で魔は少女を襲い、少女の心に影響してその約束を平気で破らせるかもしれない。しかし、これは契約を用いてその行動を禁止させればどうにかなるかもしれない。
しかし、もう一つの問題はそう上手くいかない。
それは、まだあの幼さであれだけの力を持っているということだ。それはつまり、彼女が成長すればあれ以上の力を身に着けることが考えられるということだ。獅子の子が獅子となることを恐れない者がいるものか。悪い芽は早く摘むに限る。
「………」
一先ず、彼女にもう一度言い聞かせよう。そうして、彼は少女の下へと歩き出す。
「また女の子の所?」
城を出ようとし、背後からの声に全は足を止める。振り向けば、そこには呆れ顔のサーシャと膨れ面をするシルヴィが立っていた。
「何で女の所だと?」
「だっていっつも女の臭いがするもの。気づかないと思ってたの?」
そこまで言われて、全は今更ながら、何故ウィリアムがあの少女の所に通っていることに気付いたのかと気付く。彼らは妖怪、悪魔なのだ。人間と同程度の能力しか持っていないわけがないのは当たり前だが、それは嗅覚も同様だ。
どうやら、自分は今まで人間同様の基準で彼らを考えてしまっていたらしい。そのことに自身が日和っていると気づき、嫌になる。
「………」
無言の責めるようなシルヴィの視線に全は顔を背けたくなる。
「ふーん、まぁ気を付けてね」
無言のままでいると、シルヴィはその身を翻して廊下の奥へと去っていく。それを横目に深い溜息を吐きながら、サーシャは全へと視線をやる。
「貴方が最近相手をしないからご立腹よ。彼女が触れても壊れないのなんて貴方ぐらいなんだから気にかけてあげて、何より貴方は―――」
「分かってる。悪いな迷惑かけて」
その言葉に本当に迷惑だと言いながら、サーシャは立ち去ろうとする全に口を開く。
「あと一つ」
まだあるのか、そう思いながら振り返る全に、真剣な表情でサーシャは言葉を放つ。
「変な気は起こさない方が良いわ。ウィリアム様は常に本気よ」
「分かってる。…俺は言われた通りにやれば良いんだろ」
あの少女を…殺す。
■■■
「あ、渡良瀬さん!」
何時もの様にその扉を開ければ、祈りを捧げていた少女はこちらへ走り寄って来る。
「こんにちは」
「ああ、こんにちは」
少女の挨拶にそう返して、全は最近供えられた長椅子の一つに座る。
「今日はどんな話をしてくれるんですか?」
全はここ数週間、此処へ毎日訪れては少女に物語を聞かせていた。
「まぁ、後のお楽しみってことで…。それより、例のことで話があるんだ」
そう言って隣に座る少女を見る。全の言いたいことは分かっているのだろう。少女は手を組みながらその顔を俯かせる。
「もう、俺の友人も待ってはくれない。場所も好条件な所を見つけている」
「どうしてもですか?」
「ああ、でないと、君たちは殺される」
その言葉に少女は肩を震わせる。だが、こうでも言わないと少女はまたごねるだろう。もう、僅かな猶予も許されない。
「明日の夜、この村ごと君たちを別の場所に転移させる。だから、君と会えるのも今日で最後だ」
俯く少女の頭を撫でながら、全は寂しげに笑う。妖怪の都合で居場所を奪うことに申し訳なさを感じながらも、結局はこうするしかないのだという諦観した感情もある。
「だから、今日は何時もより少しだけ遅くここにいるよ」
「ほんと!?」
全の言葉に少女は花開くような笑顔を見せる。その笑顔を見るのも最後なのだと思い知らされ、全はこの笑顔を忘れない様その記憶に刻み込んだ。
■■■
陽が沈みかける夕暮れ時、地平線に僅かに顔を出す太陽に照らされながら全は宙を歩いていた。眼下に広がる森を眺めながら、今日で別れる少女の顔を思い出していた。どれ程意識を思い出に向けていたのだろうか、その結果、以前なら直ぐに気づけた違和感に対して、全は僅かに反応が遅れてしまった。
パクリと空が小さく二つに別れ、無数の目玉が見つめてくる。そこから音もなく落ちてくる影。それはそのまま地上に落下することもなく、宙に浮かんだ。
「御機嫌よう、お久しぶりね」
綺麗に整えられた金髪と僅かに金がかった琥珀色の瞳。手に握る扇子は口元を隠してはいるが、どうせいやらしい笑みを浮かべているのだろう。目の前に降りた女の姿を、そうそう忘れる筈もない。なんせ命を狙われたのだから。
「八雲…紫」
女の名を呟き。懐から数枚の札を取り出す。ここ暫くはウィリアムの庇護下で匿われていたためか姿を現さなかったが、何故ここで姿を現したのか。
疑問を浮かべる全に、紫はにこりと笑い、その口から悪魔の様な言葉を吐き出した。
「貴方の大切な物。もう戻らないわよ?」
「―――どういうことだ」
「さぁ、ただ私から言えるのはそれ以上進まない方が良いということだけ。言っておくけれど、私は貴方の為に言ってるのよ?折角の式神候補を失いたくないもの」
最早紫の言葉に耳を傾けるつもりはなかった。全は能力を使いその場から消える。
「……これも、一つの友情なのかしらね」
視線の先、そこから見下ろす影に一礼し紫もまたスキマによってその場から消えていった。
■■■
「ハッ…ハッ…ハッ…」
何時もならば息切れなど絶対にしない距離、縺れそうになる足をどうにか前へと動かしながら全は駆けていた。心臓がバクバクと鳴り叫び、行くな向かうなと頭の片隅で誰かが囁いている。
『私は不愉快だと言ったのだが?』
『ウィリアム様は常に本気よ』
昨日の言葉が脳裏にこびりついて離れない。
何故こんな時にそんな言葉を思い出す。それじゃあまるで、あの子が――
流れる汗を拭うことも忘れ走り続けた全はやがて森を抜け、少女たちの住む村へと辿り付いた。
「――――」
目の前の光景に口が塞がらない。伝う汗は地面へと落ち大地に染み込む。信じられなかった、いや、信じたくなかった。
もうそこには、村と呼べるものなどなかったということを。
「…ぁ……」
一歩、また一歩と足を前へと動かす。その度に、全の瞳に映るそれは大きくなる。
村のあった場所、最早残骸しか残らないその中心に彼女はいた。一体何を思ってだろうか、宙に人の骨によって作られた巨大な逆十字が作られ、その中心に彼女は逆さで張りつけられていた。胸には杭を突き立てられ、それが彼女の死因であることは一目瞭然だ。地面には血液で何らかの魔術的文様が描かれている。
最早、姿の見えない村人たちがどうなったかなど考えるまでもないことだろう。
此処は、悪魔を呼ぶ祭壇と化していた。
「…っ、ぁ…ひ……」
声にならない。口から漏れるのは意味にならない言葉ばかりであり、全は自分が何を考えているのか分からなかった。
そうだ、助けなきゃ。
ただそれだけを思い出し、全は少女へと近づく。
少女の顔はまるで痛みを感じていないかのように穏やかで、ただそうであるが故に、赤く染まるその身体が見る者に痛みを感じさせる。
張りつけられる少女の頬に触れる。そこで漸く、全は自分の頬を涙が伝っているのだと理解した。
張りつけられた少女を降ろし、その身体を抱く。
すまない、すまない…。ただそればかりが溢れてくる。
陽が沈み、もうすぐ夜となる。嗤う吸血鬼の世界に、男の嘆きが木霊した。