風の聖痕――電子の従者   作:陰陽師

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第二十六話

 

時間はさかのぼる。

神凪の屋敷では重悟が、病院と警視庁の留置場から姿を消した術者の事で霧香から連絡を受けていた。

 

「なるほど。忽然と全員が姿を消したと」

『はい。こちらも調査中ですが、全員が何の痕跡もなく姿を消しました』

 

深夜遅くの電話ではあったが、重悟は不快感を顕にする事もなく霧香の話に耳を傾ける。

当然であろう。ことは神凪に深く関わる内容だ。この時点で、神凪の術者の失踪の原因はつかめていなかった。

資料室が最近傘下においた風牙衆を総動員して調査に当たっているが、原因究明には今しばらくの時間がかかる。

 

『ただ微量ながらいずれの現場にも妖気の反応があったそうです』

「妖気。すると何者かに襲われたと?」

『それはまだわかりません。しかしその場合、神凪を狙った恨みによるものと考えられますが、推測の域を出ません』

 

神凪には敵が多い。神凪が失態を起こし、先に風牙衆の反乱で戦力を低下させていると言う事で実力行使に出たとも考えられるが、それにしても警視庁に収監されている神凪の者に手を出すのは正気の沙汰とは思えない。

いくら戦闘系の術者がいないとは言え、国家権力に手を出すだろうか。それとも舐められているのだろうかと霧香は苛立つ。

 

『こちらも全力で捜査には当たっていますので、しばらくの時間を頂きたいと……』

「こちらこそよろしく頼む。風牙衆を失った我等ではどうしようも出来ない事ゆえ、橘警視を頼る以外に方法が無い」

『そういっていただけると幸いです。こちらも警視庁の地下の留置場から姿を消したとあっては大問題ですので。ですがお気をつけください。これが神凪を狙った怨恨がらみの犯行なら、次に狙われるのは……』

「無論、こちらも十分気をつけますゆえ。では……」

 

電話を切り、ふぅっとため息をつく。厄介な事件が頻繁に起こる。重悟はどうしたものかと思わず天井を見上げてしまう。

風牙衆の反乱から始まり、次は神凪の術者の突然の失踪。全員、無事であればいいが下手をすれば全員がすでに生きていないかもしれない。

 

このような集団失踪事件と言うのはこの業界では珍しくは無い。だがその場合、高い確率で失踪した者は生きて帰っては来ない。

神凪の術者と言う事で、万が一の場合はある程度は対処できるとは思うが不安の種は残る。

いや、警視庁の地下は術者の力が使えない特殊な結界が張られている。むろん、完璧に能力を制限するなどと言う強力な結界ではないが、神凪の一般的な分家レベルなら、無効化されてしまうと言う優れものだ。

 

これが綾乃クラス以上だとさすがに完全に無効化は仕切れないのだが。

 

ちなみにこう言った術者の能力を制限する結界などを張ろうとすれば、莫大な時間と労力、費用が掛かると付け加ええておこう。

その性能が高ければ高いほど、それは格段に跳ね上がる。

 

ちなみに和麻や厳馬の力を無効化しようものなら、世界有数の力の持ち主が膨大な時間と労力、費用を用いなければ無理である。

かのアーウィンでさえも、自らの居城にそれだけの大仕掛けを作ることはできなかった。

もし設置できていれば和麻に敗れることはなかっただろうに。

 

「……全員無事であればいいが」

 

しかし重悟の願いは叶えられない。すでに全員、透と言う彼らにとっては身内である、否、身内であった人間に殺されているのだから。

 

「もしこれが神凪を狙った者であれば、次に狙われるのはこの屋敷の者か。全員に注意を促さなければならんな」

 

不意に襲われたのでは、いかに優れた術者といえども危険が伴う。まさかこの神凪の屋敷にまで襲い掛かってくるとは思えないが、万一と言うことがある。

万が一、何者かによる犯行ならば、警視庁と言う場所にまで侵入する大胆不敵な相手なのだ。ここにこないとは言い切れないのだ。

それに屋敷の外にいる者もいるのだ。警戒してしすぎるということは無い。

 

「厳馬は今の所無事ではあるが、やはり護衛をつけるべきだな」

 

厳馬もずいぶんと回復して後数日で退院できるようだが、それでも一人や二人、警護をつけておいたほうがいいだろう。

資料室にはそう言った事に向く術者がほとんどいない。その役目は神凪の担当なのだから仕方が無い。

 

「一度、私の口から伝える必要があるな。あとは分家の当主達。この時間だが緊急事態だ。すぐに呼び出さなければ……」

 

重悟はそのまま綾乃や燎を始め、分家の当主達を呼ぶ事に決めた。

 

 

 

 

深雪が襲われたのは、重悟が分家の当主や綾乃達を集め始めた直後だった。

深夜、煉は何か嫌な胸騒ぎがして目を覚ました。神凪の大きな敷地内の一画。厳馬が所有する建物。重悟や綾乃が住まう本邸よりも少しだけ離れたところにあるこの場所が、煉が住んでいる場所で、和麻も四年前まではここにいた。

 

布団から起き上がり、煉はとぼとぼと屋敷を歩く。時刻は深夜の三時。かすかな違和感が彼を包み込む。

もし彼が炎術師でなく、風術師ならばそれが妖気であると即座に気がついただろう。もし未だに神凪の屋敷に風牙衆がいれば、それの侵入に気がついただろう。

 

だが残念な事に、この屋敷に残っていたのは索敵能力の乏しい炎術師のみ。もちろん、侵入者用の結界も張られているのだが、この場合は二重の意味でそれは効果を発揮しなかった。

 

一つは侵入者が結界をすり抜ける道具を有していた事。一つは結界の弱い分と抜け穴を知っていた事だった。

侵入者の名前は久我透。ミハイルの入れ知恵と彼に与えられた道具、さらに彼の神凪にいたころの知識で、彼はまんまと神凪内部に侵入する事が出来た。

彼の狙いは神凪宗家の人間だった。

ミハイルには神凪の本家への突入を禁止されていた。だが彼はその禁を破った。

理由は幾つかある。

 

一つは分家よりも宗家の方がより多くの力を吸収できるから。警視庁の地下で神凪の人間を吸収した際、頼通から吸い出した力があまりにも大きかった。

最弱の宗主として言われてきた頼通だったが、なんと現役の分家数人以上の生気を有していたのだ。

理由は定かではない。腐っても神凪の直系の血の力なのか。はたまた精霊の加護の差なのか。まさかあの老人からこれだけの力が得られるとはミハイルも透も思っていなかった。

 

一つは自分を追放した神凪への恨み。何故和麻に対して何もせず、自分だけを捨てたのか。この時の透の思考は短絡的どころか破綻していたといってもいい。

当然だろう。すでに彼の思考回路は麻痺していたのだ。理由はミハイルの洗脳と分不相応に取り込んだ力による弊害だ。

ミハイルは万が一を考えて透が裏切らないように暗示をかけた。さらには彼の心も多少いじくった。ミハイルにとってありがたかったのは、透の心が欲望に忠実であったことだろう。

 

人としての良心や自制心が極端に薄く、自尊心が高く、和麻に対する恨みつらみが激しかった事。本来なら時間をかけて行う暗示や精神操作が驚くほどあっさりと終わった。

これならば、暗示や精神操作などいらなかったのではないかと思うくらいに。

さらに透は力に酔っていた。取り込んだ力が大きすぎ、すでに彼のキャパシティは限界を超えていた。それを押さえ込んでいるのは偏に神凪の血の成せるものだろう。

 

しかし大きすぎる力は透の精神を蝕み、単調な、それこそ感情でしか行動できないように彼を壊していた。

これらの起因となり、彼は増長していた。力を得た事による高揚感。今までに感じた事が無い程の強大な力を体中から感じる。

人は力を手に入れれば思い上がる。

 

それはいたし方が無いことだ。あの和麻でさえ、風の力に目覚め、ある程度の修行の段階でその力に溺れ、驕れてしまったのだ。

尤も、和麻の場合兄弟子に完膚なきまでに叩きのめされ、若干のトラウマになっていたりもするのだが。

 

とにかく、透はミハイルの言いつけを破った。無論、未だに自分が神凪厳馬や神凪重悟、炎雷覇を持った綾乃に勝てるとは思っていないが、あのいけ好かない神凪燎や和麻の弟である煉程度ならば倒せると自負していた。

彼が燎や煉を嫌う理由は幾つかある。

 

まずは燎。彼は風牙衆とも仲がよかった。これは流也や美琴がいたからなのだが、幾度か透が風牙衆に対して何かしらの気概を加えようとした時、彼に止められた。

その時は大人しく退いたが透は彼への不満を募らせた。本来なら敬意を払わなければならない宗家の嫡男。

だが透の中には和麻と言う前例があり、四年前の継承の儀には重い病を発症させ参加すらできなかった軟弱者。宗家だというだけででかい面をする奴と言う認識を透は持ってしまった。

 

宗家だからなんだ。宗家でも弱い奴に価値など無い。

和麻を虐げてきた事で、透の中で宗家と言う物への敬意は知らず知らずに薄れ、力無い者を見下す神凪の風潮が、さらに彼を悪い方向へと進ませた。

 

そして煉。言うまでもなく和麻の弟だからと言う理由だ。

透は煉の無邪気な笑みを好ましいものではなく、軟弱で脆弱なものだと思っていた。

宗家の嫡男であり、炎術師としては確かに優秀ではあったが、煉の姿が、態度が、あまりにも力を持つ者にしてみればふさわしくなかった。

もしその笑みが自分を称えるものであったならば、透は何も思わなかっただろう。

 

しかし今は、そんな煉の笑顔は透にとって鬱陶しいものでしかなかった。和麻の弟と言う理由がさらに拍車をかける。

潰す。潰してやる。絶対に俺が……。

和麻から全て奪ってやる。俺から全てを奪ったのは和麻だ。だから奪う。

 

短絡的どころか、逆恨み、見当はずれな思考を彼は正当化していた。妖気を取り込んだことも影響しているだろうが、彼の本質である自己中心的で自尊心が高すぎる事が問題だった。

妖気は人を狂わす。人の負の感情を増幅する。快楽に身を任せ、欲望のままに突き動かさせる。

 

透はもう戻れないところまで堕ちた。否、自ら進んで堕ちて行ったのだ。

神凪の敷地に足を踏み入れる。風牙衆がいたならば、あるいは警戒中であったならば、彼も見つかっただろうが、索敵能力の低い炎術師がミハイルの術や道具により、隠行の術を施し隠密性を上げた透を見つけることは出来なかった。

 

彼はゆっくりと神凪の敷地を歩く。一応、見つかっては不味いと理解しているのか、隠れるように進む。

神凪にとって不幸なことに―――透にとって幸いな事は―――大半のものが寝静まっていたのと、月が出ない新月の夜であった事であろう。

 

すでに霧香が緊急に重悟に連絡を入れたので、彼は起きていたし、分家の当主も集められていたが、まだ非常事態を宣言されておらず警戒されていなかったことだろう。

彼は自分を裏切った久我に名を連ねた人間と、その使用人たちをことごとく食い荒らした。彼らは神凪の屋敷の外で暮らす事になったので、襲いやすかった。四条も同じだ。あそこの当主である明もすでに食ってやった。

 

強襲であったのと、透にミハイルが力を貸していたのが大きかった。さらには今の透は分家程度では話になら無いほどに力をつけていた。実のところ、すでに単純な出力ならば煉にも及ぶほどだったのだ。

 

彼の気性が炎を扱うのには適していた。才能では劣っていても、その心が適合していたのだ。例え歪んでいても、彼の気性と本性、そして神凪の血が彼に力を与えてしまった。

 

神凪の分家である四条、久我はここに殲滅された。それも同じ神凪の分家、久我の者によって。

これを見た先祖が、あるいは第三者が、そして神凪に恨みを持ちながらも死んでいった兵衛はどう思うだろうか。

もし兵衛が生きていたならば、彼は高笑いを繰り返し、神凪の末路を祝っただろう。

 

透が目を付けたのは最初は神凪煉と深雪だった。侵入した場所が彼らの寝屋に近いところもあり、彼はそのまま屋敷に足を踏み入れた。炎術師でも同じ炎術師ならば接近をすれば気がつきそうなものだが、生憎と煉は未熟であり、深雪も戦う者ではなかった。

 

さらにこの近くには優れた感知能力を持つ者はおらず、重悟や雅人と言った手だれも、今は本邸の方に集まっている。誰もこの場に目を向ける人間はいなかったのだ。

透はスライムが感知した生気の強い人間の下へと移動する。先に足を運んだのは深雪の方だった。

 

「!?」

 

途中、一人の侍女に見つかった。鬱陶しく思いつつも、透はスライムをけしかける。声を上げられても困るのだ。

 

「あっ!」

 

声を上げる前に、彼女はスライムに取り込まれ、もがき抵抗するが何もできないままスライムに吸収されてしまう。

 

「たりねぇ、たりねぇな……」

 

飢えた獣のように透は次の獲物を探す。目的の場所にはすぐに着いた。透はゆっくり襖を開ける。そこでようやく深雪も気がつく。

 

「っ! 何者ですか!」

 

凜とした声が響くが、透は意に返さない。薄暗い中、月明かりもなく、透の顔は見えない。深雪もぼんやりと透の姿は見えているが、暗闇の中、彼の顔をはっきりと見ることなど出来ない。

 

「うるせぇよ」

 

ぶわっと透の足元からスライムが湧き上がり、深雪へと殺到する。距離は僅か数メートル。いきなりの事に深雪は反応できず、逃げる事も炎を召喚する事も出来なかった。

飲み込まれる深雪。今までに襲われた者達と同じように、彼女は生気を奪われていく。

 

「か、母様!」

 

そんなおり、不意に別の襖が開かれ、煉が深雪の寝室に足を踏み入れた。

そこで見たのはスライムに襲われる母の姿。思わず声を上げてしまった。彼は咄嗟に炎を召喚する。黄金に輝く炎。分家では到底抗えない力。

 

煉は炎をスライムに向けて打ち出す。母を燃やす可能性があるかもしれないが、深雪も神凪の宗家。煉程度の炎では死ぬ事は無いだろう。

しかしそんな炎に別の方向から黒い炎が襲い掛かる。

 

「っ!」

「てめぇも餌になれよ!」

 

炎が防がれると、同時にスライムが煉へと襲い掛かる。黄金の炎を用いて何とか焼き尽くそうとするが、未だに実戦経験の乏しい煉では荷が重すぎた。

炎に焼かれ消滅するスライムよりも、煉に殺到するスライムの方が多い。付け加えると母が襲われていると言う状況下で、煉は平常心を失っていた。

 

例え東京ドーム一杯分のスライムを集めようとも煉を倒す事が出来ないスライムでも、実戦経験が少なく平常心を失い、また透と言う敵がいる状態ではあまりにも意味が無い過程であった。

 

「あっ……」

 

スライムに取り込まれる煉。チラリと横を見れば深雪はすでにミイラになっていた。もう、あの母の面影はどこにも無い。

 

(かあ、さま……)

 

力が抜けていく。下級妖魔に吸われる精気はたかが知れている。煉程の力があれば、しばらくの間はミイラになる事は無い。

だがとても炎を召喚してスライムを焼き尽くす事は出来そうになかった。

 

(とお、さま……ねえ、さま……にい、さま)

 

薄れいく意識の中、煉は近しい人の名前を心の中で呼ぶ。

その時、黄金の炎が周囲を包み込んだ。

 

「はぁっ!」

「なに!?」

 

気合と共に透に目掛けて振り下ろされる刃。見ればそれは日本刀のような物だった。透は黒い炎を召喚しつつも、刀による攻撃を避けるために飛び退く。

同時にその人影は炎をさらにスライムに向けて解き放った。

 

「大丈夫か、煉君!」

「けほっ、燎…兄様」

 

スライムから解き放たれた煉はその人物の名前を呟く。彼の前に立っていたのは、眼鏡をかけた細身の少年。神凪燎であった。両手に刀を構え、彼は煉を守るように透と煉との間に立つ。

 

「重悟様に言われて、煉君を呼びに来たんだけどまさかこんな事になってるなんて」

 

チラリと視線を移す。そこには干からび、ほとんどミイラになった煉の母である深雪の姿があった。もう少し早く自分がここに着ていれば、あるいは助けられたのではないか。

悔しさに唇をかみ締め、刀を握る手に力が篭る。

 

燎は自分の弱さを悔いていた。病を発症させ、継承の儀に参加できなかった事も、先日の風牙衆の反乱の際、美琴があんな目に会ったのに、自分は何も出来ずにただ無様に倒れていた。今回も同じだ。自分は何故、誰も守れず、弱いのだろうと。

しかしそれよりも今は怒りがこみ上げてきていた。目の前の男に対して。

 

「久我、透。何でこんな事を!?」

 

燎よりもずいぶんと年上であったが、こんな事をしでかす男に対してはそれで十分だ。

 

「あっ? 決まってるだろ。和麻を殺すためだよ」

「なっ!?」

 

あまりにもあっさりと自供したのにも驚いたが、その理由があまりにも馬鹿馬鹿しい。和麻を殺すと、この男は言ったのだ。

 

「な、何故!? それにどうして八神さんを殺す理由で深雪様を襲ったんだ!?」

「決まってるだろ。ムカつくが今の俺じゃああいつには勝てない。だから勝てるように神凪の連中の力を貰ってんだよ」

 

彼の足元に、周囲に蠢くスライムに嫌悪感を抱きつつも、燎は心の中で激しく憤慨した。

燎も力が欲しいと望んでいた。病気を患った自分へのコンプレックス。弱い自分が許せなく事件を経験し、彼も心の底から強くなりたいと願った。

 

重悟や厳馬の強さに憧れた。先日見た、和麻の強さと姿にもまた心を奪われた。

だが誰かを犠牲にして強くなりたいとは思わない。そんなことは間違っていると、燎ははっきりと断言できる。

 

「そんな、そんな理由で深雪様を殺し、煉君まで殺そうとしたのか!?」

「ああっ!? そうだって言ってんだろが! てめえもムカつくんだよ! てめえも俺の力になれよ!」

 

スライムが一斉に蠢き、同時に透の周囲に黒い炎がいくつも召喚される。一流と呼ばれる神凪の分家でも、例え現役の術者が十人近く集まっても決して抗えないほどの力が解放される。

だが燎は怯えない。怯まない。逃げない。

まだこの程度、自分でも対処できる。

 

「久我透!」

 

怒りが彼を突き動かし、心が荒ぶる。烈火。それこそ炎術師に必要な心のあり方。無論、それを制御しなければ宝の持ち腐れだが、燎の心はあの一件以来成長していた。

成長と言っても呪力や知識、技術や経験がすぐさま身につくはずも無い。肉体が一週間程度で完成するはずが無い。術が完成されるはずも無い。

 

しかし精霊魔術の場合、それらも必要となるが最も必要なのは意思である。

意思の強さこそが力を決める。

燎があの一件で感じた己への不甲斐なさと今回を含めて抱いた怒り。それは確かに彼の炎の力を高めていた。

 

黄金と黒の炎が激突する。だが優勢なのは燎だった。黄金の炎は浄化の炎。いかに黒い炎でも魔性である限り、神凪の炎の前では分が悪い。

さらに言えば単純な力としても燎の方が上だったこともある。

 

「てめえ!」

「お前は俺がここで討つ!」

 

両手に持つ刀に炎を纏わせ、彼はそのまま透に切りかかる。周囲のスライムも炎で焼き尽くし、自身に近づけないようにする。

 

「これでぇっ!」

 

振り下ろす刃。しかし燎の刀は空を切る。

 

「なっ!」

 

一瞬の出来事だった。透の影が広がり、彼を飲み込んだ。おそらくは空間転移。知識と燎はそれを知っている。見るのは初めてだったが、高位の魔術師がよく使う術だ。

だが炎術師の透が使うにはあまりにも不釣合い。それともあれは妖魔の能力なのだろうか。

しかしはっきりしている事はある。それは……。

 

「逃げられた」

 

周囲を見渡し、気配を探る。炎術師である燎では限界があるが、それでも多少は探れる。騒ぎであちこちから声が聞こえる。炎の気配も強くなった事から、すでに屋敷は大騒ぎだった。

 

「また、守れなかった……」

 

ポツリと呟くと燎は顔を俯かせる。悔しさに叫びそうになる。でも叫ぶことは許されない。一番悲しいのは、辛いのは燎ではない。

もう一度、視線を深雪に向ける。傍には煉がいる。干からびた母の手を握り締めながら、涙を流している。

この日、神凪は妖魔に襲われると言う大事件を経験する事になった。

 

 

 

 

煉から和麻は連絡を受けたのは、それから一時間ほど経った後だった。事情の説明もあったが、煉自身が落ち着いていなかったのもあるだろう。

説明は主に燎がする事になった。深雪を助けるには間に合わなかったが、犯人の顔を見ているし、実際に戦いもしたのだ。

 

煉がまず和麻に妖魔に襲われたと言ったのは、スライムに襲われたためである。煉も犯人が透であるという事は知っている。

泣く煉の話を和麻は静かに聞く。途中、煉を落ち着かせるために何度か優しく声をかけるが、やはり動揺から立ち直っていないのだろう。彼の声は未だに震えている。

 

無理も無い。話を聞く限りでは目の前で母を殺されたのだ。

いくら神凪に属していても、十二歳の子供が耐えられる衝撃ではない。深雪は確かに数多くの問題もあったが、煉にとっては優しい母親だったのだ。目の前で大切な人間を理不尽に失う辛さ。和麻はそれを誰よりも知っている。

 

しかし深雪が死んだと聞かされても、和麻の心には何の感情も浮かんでこない。

「あっ、そう」と、近しい人が聞けば怒り狂うような台詞しか出ないし、本心でもあった。

 

怒りも悲しみも何も無い。どうでもいい。そう、どうでもいいのだ。

実の母親が死んでも、和麻の心は一切の動揺を見せない。感情が揺さぶられない。まるで世界の裏側で、知らない人間が事故で亡くなった程度の話を聞かされたような感じだった。

ここまで自分はあの女に関して無感情になっていたのかと、和麻は逆に驚いたほどだ。

 

「煉。少し出てこれるか? ああ、無理ならいいぞ。今出歩くのは、色々と不味いだろうからな」

 

和麻としてはすぐにでも煉の元へと向かってやりたかったが、煉のいるところは神凪の屋敷。和麻は出来る事なら、あそこを二度とくぐる事はしたくなかった。

 

『兄様、兄様……』

 

電話の向こうで自分を呼ぶ声。さすがに和麻の心も揺れ動く。この状況では日本を離れる事も出来そうに無い。

ああ、どうしたものかと思うが、さてどうしたものか。

 

「いつものマスターなら捨て置くのに」

「……俺に煉に対して極悪人になれというのか?」

「いや、元々極悪人ではないですか」

 

ウィル子の言葉に和麻は小声で返す。

昔から煉に泣かれると勝てなかった。四年経った今でも、どうにもこの涙に勝てそうに無い。どれだけ無理で理不尽な願いでも、煉に頼まれては断れなかった。

 

「……わかった。今すぐにそっちに行ってやる」

「!?」

 

その言葉に一番驚いたのはウィル子だった。あれほど神凪に顔を出すのを嫌がっていた和麻が、煉のためとは言え敷居をまたぐ事を嫌がっていた家に行くというのだ。

 

『兄様……』

「お前は何も心配しなくていい。お兄様が行ってやるから。だから、少しだけ待ってろ」

『……はい』

「じゃあまた後で」

 

それだけいうと、和麻は電話を切り、深いため息をついた。横ではウィル子がじと目で彼を見ている。

 

「……言いたい事はわかってる。軽率だってんだろ?」

「そうなのですよ。マスターは理解していると思いますが、あえて言わせて貰います。今神凪に行けば、間違いなくいざこざに巻き込まれる上に、神凪の大半から後ろ指を差され、恨み言を言われ、最悪は襲われますよ」

「別に襲われても正当防衛でやり返せばいいじゃねぇか。お前、まさか俺が連中にやられるなんて思ってんのか?」

「思ってないのですが、何でわざわざマスターがあんな連中のところに行かないといけないのですか! どうせ協力しろだとか言われますよ。それに分家の馬鹿はお前のせいだって言いますよ!」

 

ぷんすかとウィル子は怒りを見せる。ウィル子はマスターが有象無象共に侮辱されるのが我慢なら無い。神凪時代、和麻が連中にどんな扱いをされていたのか、ウィル子は大まかにだが知っている。

 

そんな連中の巣窟に向かって、何の得にもならない。むしろ害にしかならない。

和麻自身、どれだけ罵詈雑言を放たれようが気にもならないし、気にしないのだがウィル子は違う。マスターである和麻の侮辱を彼女は甘んじて許すつもりなど無いのだ。

 

「別に門から堂々と侵入するつもりは無いぞ。風術師の俺を神凪の連中が見つけられると思うのか?」

「いえ、絶対に見つけられないでしょうが、絶対に見つかります。そんな気がするのですよ」

「なんだそりゃ? とにかく今は煉が心配だ。宗主も忙しくて構えないし、厳馬もいない。つうかあいつが煉に優しくするところなんて想像もできないからな。綾乃も役に立ちそうに無い」

 

今の神凪で煉を任しておける人間などいない。大切な人を目の前で失った経験がある人間が、神凪にどれだけいるのだろうか。

今の煉の気持ちをおそらく一番理解できるのは和麻であろう。だからこそ、放っておけない。

 

「……透はどうするのですか?」

「あっ? 決まってんだろ。……消滅させるんだよ」

 

アルマゲストに向けるのと同じ狂気を発しながら、和麻は静かにはっきりと言い放つ。

ミハイルを殺した今、もはや後ろ盾はいない。今からどれだけ力を得ようとも、和麻には決して届かない。すでにスライムも大半が消えうせ、新しく力を得る事も難しい。

 

出来ても一般人を日に一人か二人襲うくらいか。東京は人が多いが、炎術師の透では見つからずにやるのは不可能に近い。

ミハイルの記憶を読んだ限り、すでに透の身を隠す術の効果は消えているし、転移に使う術も道具も一回限りのもの。身を守るものは、もはや己だけ。

 

「別に神凪の仇とかじゃないけどな。宗主の手前もあって神凪に譲ろうかと思ったが、俺が消滅させる。ああ、そんなに労力は要らない。虚空閃で一発で済む」

 

透は人間を取り込んで力を得た。生贄と変わらないやり方である。と言うか、生贄だろう。

ミハイルを殺した直後、そのまま放置を決め込んだのは、神凪の不始末であり、宗主に対して少しでも神凪に有利に運ぶようにさせるためだった。

 

透の一件が明るみに出れば、がけっぷちに近い神凪は間違いなく終わる。終わらなくても首の皮一枚残るか残らないかの状態になるだろう。

少しでも神凪の威信などを保つために、内々に処理しなければならない。それも自分達の手で。だからこそ、和麻は透を捨て置いたのだ。

だがもうそんな気を回すつもりはない。この手で殺す。

 

「南の島でのバカンスを潰してくれた上に、煉まで泣かせたんだからな」

 

狩人となる和麻。透程度では決して抗えない、圧倒的強者が牙を向く。

 

「神凪に来たくなきゃ、お前は適当にそのあたりをぶらついてていいぞ。透探しはある程度してもらいたいが」

「ウィル子も神凪に行くのですよ。透程度を探すのは別に片手までもできます。スパイ衛星とか、街のカメラなどを使えばすぐですし」

「そうか。じゃあ行くか」

 

和麻とウィル子はそのまま風に乗り空へと舞い上がり、神凪の屋敷を目指す。

四年ぶりになる生家への帰還。その胸中に複雑な感情を抱きながら。

 

 

 


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