駿河湾から吹き寄せる海風が螢の長い髪を躍らせている。海は西日に照らされてキラキラと輝いていた。防波堤の向こうでテトラポットに波が砕かれてしぶきをあげている。
国道150号線沿いの駐車場に停めたレンタカーの前で僕は美しい螢と美しい光景をじっと眺めていた。
僕と螢は春休みを利用して、彼女の地元の静岡を訪れていた。ここは昔からイチゴ狩りの名所だそうだ。そして、近くには徳川家康がまつられた東照宮がある。
僕は電車で行く事を主張したのだが、螢に田舎な土地柄の静岡では車で行かないと結構不便だと押し切られたのだ。
自動車免許取り立ての螢の運転は時々ひやりとさせられる事もあったが、おおむね安全運転だった。
僕たちは東京から高速道路でここまでやって来て、螢の両親と共に東照宮のお参りとイチゴ狩りを楽しんだのだ。
東照宮から日本平の頂上までロープウェイが通っており、その絶景に僕は子供の様に胸を躍らせた。山頂のドライブインのような建物の中で螢の両親を目の前にして緊張しながら昼食をとり(本当に生きた心地がしなかった)、再び山を下ってからイチゴ狩りという一日を過ごした。
「螢。私たちはこれで帰るから。気を付けて東京に帰るのよ」
そう螢に声をかけたのは彼女の母親だ。キリッとした顔立ちはとても螢に似ている。螢が年を重ねればきっと、こんな風にかっこいい女性になるだろうなと僕は思った。螢によると地元の大手企業の役員を務めているとの事だった。
「じゃあ、弘人君。また、静岡に遊びに来てくれよ」
坊主頭にサングラスという強面に必死に作った笑顔という感じなのは螢の父親だ。見かけによらずとても優しい人だった。螢によるとトラック運転手らしい。
「はい」
僕は笑顔で螢の父親と握手を交わし、彼女の母親に頭を下げた。
「じゃ、いきましょ」
螢の母親はバシンと父親の肩を叩くと助手席に乗り込んだ。
「へーい」
軽い声で螢の父親は運転席に乗り込むとジェットコースターばりの急加速で国道150号の車の流れに乗って行った。
(あの、強引な運転……螢に似ているような……。いや、螢が父親に似たのか)
今日一日の短い時間のやり取りを見ただけだが、螢はどちらかというとお父さん子だと感じた。
会社役員の女性とトラック運転手の男性。全然、接点がなさそうな二人には相当なラブストーリーがあるらしい。いずれ機会があれば、螢から詳しい物語が聞けるだろう。
螢の両親を見送った後、彼女は微笑みながら僕に振り向いた。
「海。近くで見たくない?」
「いいね!」
僕は螢の左手を取って、国道を横切って防波堤を登った。
遠くにはタンカーだろうか、かなり大きな船が西日に照らされながらゆっくりと海を泳いでいた。
「もっと近くで見てくる!」
僕は波打ち際まで行ってみたくなって、柵を乗り越え、防波堤の角に掴まってぶら下がると、砂浜に飛び降りた。
結構な高さがあって僕は着地と同時に砂浜に転がって膝への衝撃を和らげた。多分探せば砂浜に降りる場所があるだろうが、僕は何も考えずに行動に移していた。
「ちょっと! 弘人!」
驚きと咎めるような口調で螢が上から声をかけてきた。
「螢も飛び降りてみる?」
僕は砂と砂利で汚れたデニムパンツをはたきながら見上げた。
「もう。今、何も考えずに飛び降りたでしょ? すぐ近くに階段あるよ」
微笑を浮かべながらため息をつくと、螢は少し離れた防波堤の階段を指差した。
「あれは近くないかな」
「近いよー」
「見解の相違ってやつかな」
「もう……。そこで、いい子にしてるのよ」
螢は大きく息を吐くと階段の方へ向かって歩き出した。
「僕は子供か?」
「子供みたいなことして、そういうこと言わないでよ」
口元に笑みを浮かべて螢は僕に手を振りながら階段へ歩いて行った。
僕はその間に波打ち際まで走った。
波は不思議だ。同じように打ち寄せているのに、微妙にスピードやこちらに向かってくる面積が異なっている。ぶつかり合って思ったより打ち寄せてこない時もあるし、タイミングよく波が重なって予想以上にこちらへ襲ってくる時もある。本当に不思議だ。見ていて全然飽きない。
「弘人って、あまり海を見たことないの?」
いつの間にか螢が僕の隣から顔を覗き込んで尋ねてきた。
「そうだね。そう言えば、家族旅行でも山ばっかだったなあ。なぜか分からないけど」
「そうなんだ。私は海の近くに住んでたから、見慣れててあんまりおもしろくないんだけどね」
「あ、ごめん。僕に気をつかってくれたの?」
「気をつかったわけじゃないよ。弘人がじーーーっと海を見てたから、もっと見せてあげたいなって思っただけ」
螢はにっこりと笑った。「私はそんな弘人を見てるから気にしないで、思う存分景色を楽しんで」
「螢……」
僕はその言葉に螢の吸い込まれそうな瞳をじっと見つめた。
「ほらほら。ちゃんと、海を見て!」
螢は照れくさそうに僕の頭の上下を掴むと強引に海に向けさせた。
「痛い、痛い」
僕は螢の腕を掴みながら抵抗し、お互いじゃれあって笑いあった。
ソードアート・オンラインから解放され、螢と学校で再会して正式にお付き合いを始めてから、来月でもうすぐ1年になる。
あっという間の1年だった。学校行事も楽しかったし、螢と一緒に立ち上げたストリートバスケ同好会の活動もとても楽しい。
どれだけ一緒にいても螢との時間は飽きることがない。この1年で僕は確信した。彼女こそ僕の半身なんだと。
僕はこの旅行中に螢に伝えたいことがあった。今がそのチャンスかもしれない。
「螢。ちょっと真面目な話をしてもいい?」
じゃれあいの攻防をしていた手を落ち着かせるように握ってゆっくりと自分の胸に持って行った。
「え?」
「うかうかしてると、螢がどんどん先に進んで行っちゃうからさ……」
僕がこれから言おうとしている事は螢を縛り付けてしまうかも知れない。単純に僕のエゴなのかも知れない。だけど、僕は螢を失いたくない。ずっと近くにいたい。だから――。
僕はジャケットの左ポケットから小さな指輪ケースを取り出して、螢の両手に包ませるようにして手渡した。
「え? え?」
螢は目を丸くして戸惑っていた。
「螢の方が年上だから先に卒業しちゃうだろうし……。そしたら、離れ離れになっちゃうし」
つい、ぐちぐちと言い訳がましい事を言い連ねてしまった。僕は息を整えてつばを飲み込んでからまくしたてるように言った。「螢。待ってて。必ず、追いつくから。そうしたら、またこの世界でも結婚しよう」
「これ……指輪?」
螢は自分の両手に納められた小さな指輪ケースを見つめた。かなり戸惑っている。「プロポーズ?」
「ちゃ、ちゃんと稼げるようになったら、もっとしっかりした指輪にするし。ちゃんとしっかりプロポーズする」
螢の表情を見て、僕は自分がした事が間違っていたのかも知れないと思いはじめていた。声が急に小さくなってしどろもどろになって行く。「えっと、それまでの仮指輪と仮プロポーズというか……なんというか」
「……」
螢が指輪ケースから僕に目を移し、じっと見つめてきた。驚きのせいか彼女の眼は大きく見開かれている。
「SAOの時はジークからプロポーズだったから、今度は僕の方から……」
僕は螢の表情を伺うと、彼女の瞳にあふれた涙が頬に流れた。
失望してしまっただろうか? その螢の涙が僕の心に霜を降らせた。
「なんか、感動した……」
螢の表情が呆然としたものから満面の笑みに変わり、彼女は静かに涙の雫をはらった。「お父さんに聞いたわけじゃないよね? そんなわけないか。指輪も用意してくれたんだもんね」
「え?」
螢は僕を置き去りにして色々と話し始めた。
「ここ、私のお父さんがお母さんにプロポーズした場所なんだよ。学生時代に」
クスリと笑って螢が僕を優しく抱きしめた。「もう、運命を感じちゃうよ」
「ええっ!」
僕は驚いて声を上げてしまった。
「弘人。こんなことしなくても、私はずっと一緒。一生離れないよ」
螢は僕の頭の後ろに手を回すと、やや強引に唇を重ねてきた。
あれ? いつの間にかまた螢主導になってるぞ。
今年の目標は『男らしく』だが、少し無理っぽい。まあ、いいか。幸せな気持ちになって僕は螢のなすがままに身体を委ねた。
「ねー。ママ。ちゅーしてるよ!」
突然の子供の声に僕たちは飛び上がるように驚いて、ぱっと離れた。声がした方を見ると、防波堤の上から幼い女の子がこちらを指差している。
「あ、すみません」
母親らしい女性が小さく頭を下げると、そそくさとその子を抱き上げて申し訳なさそうに連れて行った。
そんな母親の事などお構いなしに、抱きかかえられた女の子は悪びれずに明るい笑顔でこちらに手を振っていた。
僕と螢は苦笑しながら手を振りかえした。
その女の子を見送った後、僕たちは目を合わせて笑いあった。
「もうちょっと、海を見てく?」
小首を傾げて螢が尋ねてきた。
「いいや」
僕は首を振った後、足元の小石を拾い上げて、海に向かって思いっきり投げた。「帰ろ!」
「おー。なんか、ソードスキルが見えそうな感じ」
螢はクスクスと笑った。
海に落ちた石がわずかな波紋を作ったがたちまち波に打ち消された。
僕はそれを見届けると螢の左手を取って防波堤の階段に向かって歩き出した。
再び、国道を横切り僕たちは車に乗り込んだ。
「ソードスキルと言えば、アミュスフィアの許可が出てよかったね」
僕は助手席に座ると運転席の螢に話しかけた。
イチゴのビニールハウスの中で螢は熱心に両親を説得していたのだ。なんだか「授業にも使う」などという嘘も聞こえたような気がするが、そこはツッコミを入れるべきではないだろう。
「うん。待たせてごめんね。けど、先に買ってインしてもよかったのに」
螢はそう言いながら国道の車に合流するタイミングを計っていた。
「それは嫌。絶対、一緒に始めたいよ」
一方、僕の両親の方は年末にアミュスフィア購入を許してくれた。もう、いつでもアミュスフィアを買ってアルヴヘイム・オンラインに入る事は出来たけれど、僕は螢と一緒にそして同時にあの世界で生まれたかったのだ。
「で、どうするか決めた?」
螢がいきなりアクセルを目いっぱい踏んで国道に入った。僕は座席シートに見えない力で押さえつけられた。
螢の言葉の≪どうするか≫とはキャラクターの事だ。ソードアート・オンラインで使用していたキャラクターデータがアルヴヘイム・オンラインに移行されているのだ。つまり、僕が望むなら再びあの≪コートニー≫としてアルヴヘイム・オンラインに生まれ変わる事が出来るのだ。最初は新しく作り直す気でいたのだけれど……。
「うーん。まだ。……でも、コートニーでもいいような気がしてきた。なんだか、アスナにバレてるっぽいし」
アスナとは同学年なので、リズと共に話し合う事がたまにあった。その時のアスナの態度や時折、織り込まれる言葉の端々に僕がコートニーであった事を探り出そうという意図を感じるのだ。
危うく何度引っ掛かりそうになった事か……。
でも、もう隠す必要はないかも知れないと僕は思い始めている。アスナの表情を見ていると僕がコートニーであった事を咎める様子はない。むしろ、昔の親友として早く打ち明けて欲しいと願っていると思えた。
「そうだね。私もそう思う。あれは見抜いてるよ。絶対」
そう言う螢の言葉に頷くと、サイドミラーから差し込む西日が僕の顔を照らした。
「アスナ、今頃京都だね」
僕はその西日を左手でさえぎりながら呟いた。あの太陽の方角にアスナがいるのだ。
アスナはこの春休みを利用して、リズとシリカそしてキリトの妹――直葉との4人で3泊4日の京都旅行に出かけているのだ。いや、「5人で」と表現すべきかも知れない。アスナの肩には≪双方向通信プローブ≫という形ではあるが、絶剣――ユウキが乗っているのだから。
「うん。ALOに入ったら、コーとしては絶剣と戦いたいんじゃないの?」
くすっと螢は笑って僕に視線をチラリと投げかけた。
「うー。あれは無理だよ。レベルが違いすぎる」
先月中旬に行われた統一デュエルトーナメントの決勝『ユウキvsキリト』を僕は≪MMOストリーム≫で観戦したが、もはやあれは人間業とは思えなかった。
ソードアート・オンラインの時のデュエルと違って技がとても派手に、そしてギャンブル性が高くなっている。当然だ……。あの時のデュエルは本当の命を賭けて戦っていたのだから。
でも、時代は変わったのだ。命を賭けない戦いなら僕も思いっきりぶつかってみたい。キリトとユウキと。そして――アスナと!
「そんな事、言っても戦っちゃうのがコーだよねー」
「心読まれた!」
僕はおどけながら叫んだ。
「わかるよ。コーの事……弘人の事だもん」
螢は赤信号になったのでブレーキを優しく踏んで止まった。そして、カチカチとサイドブレーキを引いた。
「あの世界に戻ったらジーク……ってまた呼べるかな?」
僕は螢の横顔を見つめながら彼女の膝に手を置いた。
「弘人……」
螢はそっと手を重ねながら僕を見つめ返してきた。
「螢。信号変わったよ。運転の時は前を見て」
「ごめん」
螢はあわててサイドブレーキを下ろして、アクセルを踏んだ。「誘惑しないでよ」
「僕のせいなの?」
螢の急加速に再びシートに押さえつけられた。
「そうだよ。運転に集中させて」
螢は口元に笑みを浮かべて僕をからかった。
「そうだね。気を付けてよ。帰るまでが遠足だからね!」
「そのセリフ、久しぶり」
螢はクスクスと笑いながらインターチェンジに入るためウィンカーを出した。
「頼むよ。運転手さん!」
「へーい」
その答え方が螢の父親にあまりにもそっくりで僕は笑ってしまった。
東名高速道路に乗れば2時間半あれば家に到着するだろう。
東京に戻ったら螢と一緒にアミュスフィアを買いに行こう。そして、コートニーとジークリードとしてあの世界に再び生まれよう。
そして、ずっと先の未来は……。
僕は再び螢の膝に手を乗せた。螢は優しく手を重ねそっと撫でてくれた。
(なにがあっても、螢のそばにいよう。そして、螢をちゃんと守ってあげられる男になろう)
僕は螢の運転の邪魔をしないように想いを言葉にせずに心の中で誓った。そして、真剣な表情で運転する彼女を見つめた。
真エンドの冒頭部分がけっこういい感じだったので、少し書き直してこちらにアップしました。
時系列で言うと原作の7巻『マザーズ・ロザリオ』の終わり近くになります。
ユウキとコーがデュエルしたかどうかは定かではありませんが、もしやったとしてもユウキの圧勝で間違いないでしょう。
コーとジーク。弘人と螢の旅はこれで終わりです。
連載(完結)にマークも移します。
長い間(短い間かも知れませんが)、ご愛読ありがとうございました。
キャラクターを愛してくださった皆さん。感想を寄せてくださった皆さん。評価をくださった皆さん。そして、読んでくださった皆さん。
本当にありがとう、ただただ、ありがとう。