見上げる夜空は、戦場から立ち上る煙に覆われてどこか白っぽい。
もしかしたら、自分の目がもう見えなくなる寸前まできているのかもしれない。
俺は今、立ち尽くしている。
またひとつ、十の内の一を切り捨てた。
またひとつ、アイツに近付いてしまった。
違うと思いたい。違うと、信じたい。
だからまだ、俺は諦めない。
『正義の味方』は、いつだって諦めない。
全てを救う『正義の味方』になると誓ったんだ。
だったらまだ、ここは通過点。
今まで切り捨ててきた十の内の一の人の分も『正義の味方』になって救ってやる。
「そうだろ、セイバー」
俺のために剣となり、盾となって戦ってくれたあの少女。
もうきっと、会えない。
だけど、あいつの中に見た、決意と悲しみ。
それはまだ、俺の中に鮮明に息衝く。
だから、そのセイバーに恥ずかしいところなんて見せられるもんじゃない。
「……行こう、立ち止まってなんかいられない」
第5次聖杯戦争……あの地獄から、10年が経っていた。
* * * * *
『前略――――
こちらはお仕事にも慣れ始めて、やっと一息ついた感じです。
今朝はとっても摩訶不思議な夢を見ました。
どう言う風に? と聞かれると困りますけど……。
目の前に広がるのは夕暮れの空と、知らない丘。
茜色の空に負けないくらい赤い人影が、たくさんのお墓に囲まれていたんです。
覚えているのはそれくらい。景色がぼやけて、そこで起きちゃったんです。
でも、ぼんやりと覚えている夢の内容を思い出していると、なんだか悲しくて。
気付いたら泣いていて、アリア社長とアリシアさんにまで迷惑をかけちゃいました。
あの夢は何だったんでしょう
今日は大変なことが起きちゃいそうな気がします。
それでは、また。
水無 灯里』
「おーい、あーかーりー! 先にいくわよー?」
朝日が海面をキラキラと照らしている。上からだけじゃなく、下からも太陽の光が降り注いでいるようだ。
窓から見える水平線を彼方に、手前には一隻の黒いゴンドラが浮かんでいた。
「はひっ!? ちょっと待ってよ藍華ちゃ―ん!」
そのゴンドラを漕ぐ藍華ちゃんは意地悪く笑って、すいすいと先へ行ってしまう。
PCを急いで閉じて、私も自分のゴンドラへ飛び乗る。
目の前に広がるのはネオ・ヴェネツィアの紺碧の海原。
「水無灯里、今日も頑張ります !! 」
* * * * *
整えられた山道は使えない。獣道を切り開きつつ、俺は山中を進んでいた。
もちろん、こんな場所にまともな人間がいるはずもない。
若干緩めていた緊張を張り直し、魔術回路に火を入れる。
「誰だ」
両手には干将・莫耶を投影。
相手は姿を隠す気がないのか、無防備な足音でこちらに近づいてくる。
その姿を確認した途端、緊張の糸がプツリと音を立てて切れてしまった。
「誰だとは、ご挨拶だな衛宮」
「橙子、さん?」
「ああ」
咥えたタバコから紫煙をくゆらせ、夜の闇からスルリと現れた女性。
臙脂色のロングコートを着込み、その下には山中だというのにパンツスーツ。
右手には旅行用の中型のトランクが握られている。折りたためば人も入りそうだ。あながち、それはない、と言い切れないのが怖いが。
蒼崎橙子。
稀代の人形師にして、天才と称される魔術師。
魔術に関して言えば、第5魔法に最も近い家系のアオザキの中でも抜きん出て凄まじいらしい。
その才覚故か、魔術協会からは封印指定され、日本にある『伽藍の堂』で隠居中のはず。
「なぜ、ここに?」
「なぜも何もない。遠坂嬢に頼まれて、協会に見つかることを承知でここまで来た、としか。いや、さすが遠坂嬢だよ、私の言い値をポンと払ってくれた」
こんなに楽な仕事は久しぶりだ、と言いつつ、その表情には呆れが浮かんでいた。
いや、それよりもだ。
「遠坂が……?」
「そうだ。まあ、とにかくついて来い。遠坂嬢と合流する」
遠坂凛。
聖杯戦争時共闘し、その後ロンドン『時計塔』に共に留学。
最後に会ってから、もう4年になるか。
ある情報筋からは最近になって“宝石剣”を仮で受け継いだと聞いている。
その遠坂が、どうして今更俺なんかを……?
しばらく橙子さんに着いて歩いていくと、どうしてこんな山中――しかも内戦地域の――にあるのかが理解できないほど立派な洋館が、俺たちを出迎えてくれた。
カムフラージュのつもりか、館の壁には蔓が巻きつけられ、屋根に至っては所々剥げ落ち、窓は割れ放題……なのだが、それらは魔術によって視覚的に操作された外観だ。それに意識介入の結界まで張ってある。もし仮に、どこかの誰かがこの館を発見したとしても、よくある景色だと意識を改変されて気付いても気付いてない、という誠に意味のわからない状態に陥るだろう。
たぶん、一時的な工房代わりにもしているのだろう。若干頼りないが、拠点としては十分強力なものに仕上がっている。さすが、遠坂と橙子さん、と言ったところか。
「来たわね」
館の扉をくぐると、正面の闇から声がかかった。
4年振りに聞く、盟友の声だ。
「久しぶりだな、遠坂」
「ええ、本当に」
腰にまで届く長く艶やかな黒髪と朱色のロングコートを翻し、彼女が振り返る。
三十路近い年齢になったとはいえ、その美貌は昔から変わらない。
ここ数年は心が廃れる光景ばかりを目にしていたからか、俺の心がふっと軽くなったような気がした。
「なによ?」
「いや、なんでもないよ」
ムスッとする遠坂。
別に相変わらず胸がどうとか、三十路近くになっても童顔っぽいとか、そんな邪なことは考えてないのだからご寛恕願いたい。
「再会を喜ぶのも良いが……早く本題に移った方が賢明だと思うのだが、どうかね?」
肺に溜まった紫煙をふぅっと吐きながら、呆れ気味に橙子さんがぼやく。
「そうね。じゃあ士郎、単刀直入に言うからよく聞いて。あなたを並行世界に飛ばすわ」
「意味がわからない」
少々なりとも怒気を込めて言い放つ。
それは遠回しに、けれどはっきりと、俺のこの10年の歩みを消すということか。
そんなもの、ちゃんとした理由がなければ飲み込めない。
「どうしてそうなる」
「どうしてもこうしてもないわよ」
遠坂の顔が一変、凛々しいそれから、今にも泣きそうな顔になる。
「ふむ? 理由については私から説明しよう。単刀直入に、君を封印指定することが正式に決まった。遅すぎる判断だとは思うが、そこはまあ、遠坂嬢あたりが裏でコソコソしてたんだろう」
「だからどうしたって言うんだ。やることは変わらない」
封印指定が何だと言うのだ。
もし邪魔をするというのなら、その先に救える人がいるのなら、俺は差し向けられた魔術師を殺すことも厭わない。
それは今までと、何ら変わりない。
「並行世界なんかに飛ばされる理由にはならない」
「士郎、聞いて。覚えてるでしょう、私が聖杯戦争で誰のマスターだったかぐらい」
覚えているさ。そう、アーチャーのサーヴァント。
真名を“エミヤ”といい、そう遠くない未来の衛宮士郎の可能性のひとつだという話だ。
だからこそ、俺が変えてみせたい運命のひとつでもある。
「私は見てるの……。彼の過去、つまりアナタの未来を」
「曰く、そこに辿り着く可能性が、辿り着かない可能性を上回ったとかでな」
思い出す。
この道を歩むと決めたとき、遠坂が言っていた事を。
『アイツ……アーチャーは命を救った人に殺されたのよ。だから、アンタはそういうことがないように人を救いなさい』
俺の未来が、そうなると?
確かに、今までも救った人々に憎まれることもあって、ときには刃を向けられたこともある。
だけど、その刃を許すことはなかった。俺が出来るのは、せめてその想いを背負うこと。
彼等が向ける刃はこの身ではなく、心を抉っていった。
そんな、危なっかしい想いを背負って生きる、覚悟はある。
「保険よ」
遠坂がまた泣きそうな声を振り絞り、細々と言う
「私は、貴方が世界の守護者になるのが許せない。でも、そんな
「遠坂……」
らしくない語り口だった。どうしたんだ。俺のこと、そんなに応援してくれてたのか。
会うたびに「諦めろ」だの「もうやめろ」だの、耳にタコができるくらい言われたのに。
いや、でも、俺だって解っていたんだ。
もう時間がないのも、俺が限りなくアイツに近づいているってことも。
目の前で感情を吐露する女性が口を酸っぱくしてまで俺を否定していたのは、俺を否定したくなかったからだということも、まあ、付き合いが長くなればわかってしまうものだ。
遠坂凛はそういう人柄をしている。
「俺は何人も人を殺してきた。直接的にも間接的にも。だけど、そこは問題じゃないんだろ? 俺は『正義の味方』を諦めたわけじゃないし、殺すことを仕方ないなんて思ってもいない。……無意識だったんだ。十の人間のうち、より多くを救うために一を切り捨てる。切り捨ててしまう。きっと、これは動かせない悪夢で、俺だけの苦悩じゃなかったはずだ。平等に降りかかる覆せない運命でしかなかったのかもしれない。きっとそれはどこに行っても一緒だ。だから――」
「……運命が未来を差す言葉と勘違いしていないか?」
並行世界には行かない、と言いかけたところで唐突に会話に割り込んだのは橙子さんだった。俺と遠坂は突然の横やりに言葉を失ったまま、何本目かになるタバコに火を点けた橙子さんの言葉を待った。
「いやね、私も最近思ったことなんだ。運命って辞書で調べれば人生やら社会やらを見えざる神の手で支配して、人間が及びつかない力のことらしいよ。なるほど、衛宮の言うそれは運命だろうさ。けどね、私はこう思う」
暗闇の中、橙子さんの瞳とタバコの炎がゆらりと輝いた。
「運命ってのは過去だよ。そりゃ覆せないさ。……では問おう、衛宮士郎」
さっきまで吸っていたタバコを一気に吸い出し、灰だけになったそれを床へ落として靴底で火を消した。吐き出した白い息は霧散し、夜の闇へと消えていく。顔を上げた彼女の顔には、まるで「お前の答えなぞ知っているよ」と言わんばかりの笑みが浮かんでいた。
「お前は、どうした?」
究極に単純な質問を投げかけられた。
「お前は、どうしたんだ?」
「……俺、は」
息を飲む。運命が橙子さんの言う通り過去を差す言葉なら、それはつまり、諦念に直結してしまう。違う。俺はそんなものに苛まれて、理想を追い続けてきたわけじゃない。だから、そう、ここにいる誰もが、俺の答えを知っていて……。
そこで思考を中断。俺を含む三人ともが一斉に戦闘態勢を取った。
「囲まれてる……」
「動きが早い……のか?」
「早い方だな。まあ、魔術を秘匿する気が微塵もないうえに、場合によっちゃ魔術師的視点から見たときの一般人をバカスカ殺す奴を放っておく理由もない」
今は私もいるしな、と橙子さんは変わらない調子で話す。
彼女はそのまま軋む床を無遠慮に踏破して、扉へと近づいていく。
「時間は私が稼いでやろう。言い値分の仕事はせねばなるまい。あと、早く帰りたいからな。……ああ、そうだ」
なにかを思い出したのか、橙子さんはこちらに向き直り、コートのポケットから何かを取り出して俺に投げ渡してきた。
「これは……」
「餞別だよ。君は無茶が目立つ。いざという時に飲み込めばいい」
昔の自分の髪の色のような、赤銅色の宝石。
それが彼女の投げたものだった。
「……? 何してるんだ、遠坂?」
自分の着ている衣服のポケット、否、穴という穴をパタパタと叩いて回っている。そして、それを見てニヤつく橙子さん。
「橙子さん!」
「はははっ! 衛宮、達者でな」
「な、俺も手つ……ッ!!」
じとりと責めるような視線でこちらを制し、橙子さんはゆっくりと外へと出ていった。
いくらあの人が規格外の魔術を操ろうと、多勢に無勢は変わりない。どうせなら敵を排除してからでも遅くはない。そう思って一歩を踏み出したところ、二歩目を遮ったのは傍らの遠坂だった。
「遠坂!!」
「アンタまで戦い始めたら、意味がなくなるでしょうが!」
「だけど……」
「信じなさい!!」
「え……?」
「私たちはきっと無事に帰る! あと、言うまでもないでしょうけど、アンタが今までしてきたことだってアンタ自身が信じないとそれこそ無意味になっちゃうわ。だから、これからも信じ続けなさい。そのための時間を、私が作るから。アンタは黙って受け取りなさい。その時間の中で、アンタはずっと、答えを追っかけなさい!」
彼女は一歩退いて、懐から輝かしい七色の短剣を手に取る。
――宝石剣“ゼルレッチ”。
第2魔法を行使するための魔術、否、魔法礼装というべきか。
「遠坂……」
「幾つか、約束しなさい」
「……あぁ、なんだ?」
一生懸命にいつもの彼女であろうとする努力が伺える。
……でもな、遠坂。目、涙がたまってるぞ。
「絶対に向こうで答えを見つけなさい。絶対にこっちへ帰ろうなんて思わないで、絶対に向こうで幸せになりなさい」
ひとつひとつの約束を交わすたび、涙は頬を伝い顎、中空、床へと零れていく。
一粒、また一粒。
「忘れてなんていわないわ。時々、思い出して」
すぅ、と宝石剣が弧を描いて振られる。
現れるのは輝く光の切断面。
その光が俺を包む。
「了解」
光は俺を飲み込んでいく。
あぁ、そうだ。言うことは、まだある。
「俺は、俺のしたことを間違いだと思っちゃいない。それでも
体の半分以上は飲まれた頃、彼女は最後にもう一度、そう。
遠坂凛の、遠坂凛らしい笑顔を見せて。
「さよなら、士郎。来世でね」
「あぁ、さよなら凛。来世でな」
未来、しかも来世というわけのわからない未来への約束。
どうだろう、これが叶うならば、そう。
正に奇跡だ。
瞬間、視界は白光で覆われ、突然の浮遊感が身体を襲う。
息つく暇もなく、嵐の海を彷徨うような、暴力的なベクトルの渦へと呑み込まれていく。
『さよなら、士郎。私の愛した人……』
そして俺は辿り着き、歩み始めることとなる。
その、優しい星で……。
08/07/20 ブログにて連載開始
14/05/22 本サイトにてBU版連載開始