大丈夫だ、問題しかないから。-Blue trajectory- <1st Season> 作:白鷺 葵
2308年、ソレスタルビーイングは国連軍との決戦に敗れ崩壊。
世界は、統一に向かって動き始めている。
「ああ。それじゃあ、また今度」
その声を引き金に、どやどやと客が去っていく。
病室は、沢山の見舞い品で溢れていた。見舞客たちが帰って、ようやく静けさを取り戻したのである。茶髪の長髪をポニーテールに結い眼鏡をかけた男性は、それを待ち構えていたようにして病室に足を踏み入れた。
金髪の男は、無言のまま項垂れている。来客に対応していたときとは違い、男は影を背負いながら俯いていた。唇は真一文字に結ばれ、固く閉じられていた。1人でいると、湧き上がってくるものがあったのだろう。
ソレスタルビーイングと国連軍の最終決戦が終わってから、金髪の男はずっとこんな調子である。その戦いで何があったのか、眼鏡の男性はわからない。わかることは、金髪の男が、最終決戦で大切なものを一挙に失ってしまったことであった。
来客中は平静を装っているが、1人になると、彼はひどく不安定になる。生来の彼を知る人間がこんな光景を見たら、あまりのギャップに度肝を抜かれることだろう。
眼鏡の男性でさえそうなのだ。今は亡き親友が金髪の男を見たら、深々とため息をついて、男へ喝を入れていたに違いない。温かくておいしいご飯を抱えて、だ。
「カタギリ」
金髪の男は眼鏡の男性――ビリー・カタギリに気づいたようで、のろのろと顔を上げる。顔の左半分は包帯で覆われており、荒んだ翠緑の瞳も相まって、痛々しい。
「ソレスタルビーイングとガンダムを倒した英雄が、浮かない顔をしているね」
もう少し胸を張ったらいいんじゃないかな、と、ビリーは笑った。笑ったつもりだったが、多分、うまく笑えていないと思う。金髪の男が失った親友は、ビリーにとっても大切な親友だったからだ。
でも、親友が生きていたら、きっと、自分たちが落ち込む姿など見たくないのではないだろうか。半分は憶測であり、もう半分は経験談からの推測である。数字に関して厳しい職業――MS開発研究に携わる技術者が口に出すにしては頼りない。
「違う」
ビリーの言葉を、男は否定した。
「私は、英雄などではない」
見舞客の前では決して口に出さない、強い否定。男の眼差しは、自分の握りこぶしへと向けられている。
あの戦場で何があったのか、彼は、頑なに言葉にしようとしなかった。だから誰も、あの場で何があったのかは知らない。
でも、男は嘘を平然と語るような性格ではなかったから、彼の言葉は本当のことなのだろう。抽象的なことしか語らないけれど。
「私は何もできなかった。……すべてが踏みにじられる光景を、見ていることしかできなかったんだ」
男は血反吐を吐くような声でそう紡ぎ、右目を覆う。
どんな顔で何を言えば、男の悲しみを癒してやれるのか。ビリーには何も思いつかなくて、その事実が何よりも苦しい。多分、亡き親友だったら、うまくやれるに違いない。だが、残念ながら、ビリーは亡き親友と同じ行動をとることはできなかった。
自分にできることは、男の隣に座って、黙って彼の話を聞いてやることだけだ。空色の扇を握り締め、誰かに思いを馳せるように歯を食いしばる男の姿。ああ、どうしてこんなときに親友はいないのだろう。心の底から、そう思う。
「……お腹減ったね」
ぽつり、と、ビリーは呟いた。
「そうだな」
男も同意した。ビリーは言葉を続ける。
「クーゴの作ったご飯が食べたいね」
「そうだな」
「ドーナツ、作ってもらう約束だったのに。彼はひどいなぁ」
ビリーは笑っていた。笑っていたつもり、だった。だのに、視界が滲んでよく見えない。
男も静かに、ビリーの言葉に頷いた。大きく息を吐いて、窓辺へと視線を向ける。ビリーは言葉を続けた。
「他の皆も、クーゴの料理、楽しみにしていたんだよ」
「ジョシュアの料理が大変なことになっていたからな」
ははは、と、2人は笑った。笑い声がかすれてきたのは、きっと気のせいではない。
自分たちは沢山の人の死に直面してきた。何人もの人々を見送ってきた。けれど、やはり、何度見送っても、身近な人を失う痛みには慣れない。亡くなった友人も、いつも人の死を悼んでいた。
どうして、いい人ばかりが死んでいくのだろう。誰かを見送る度に、そんなことを考える。いい人だから死ぬのだと言われても、それが運命だと言われても、納得できなかった。足を止めて悩むことは何度もある。
今この場に彼がいたら、何を言うのか。長らく親友をやってきたのに、それが全く分からない。考えても考えても、思い浮かんだ言葉は「
思えば、彼はいつも、自分たちが欲した言葉を、望んだタイミングでくれるような人だった。自分たちは相当、彼に甘えてきたらしい。
ビリーは俯く。戦死報告なんて嘘で、そのうちひょっこり帰って来そうな気配がする。でも、それを口に出すことはできなかった。
目の前の男が、親友が戦死した現場に居合わせている。死体は未だに見つかっていないが、記録や証言を照らし合わせれば、生きているとは到底思えなかった。
「寂しくなったな」
男はぽつりと呟いた。そうだね、と、ビリーも同意する。ビリーの師も亡くなり、親友までいなくなって、ユニオンは寂しくなったような気がした。それでも、時間が経てば、否応なしに賑やかさは戻ってくるだろう。亡くしてしまったものはかえってこないけれど、それに浸る時間を確保するには、自分たちは多忙すぎた。
世界は変わり始めている。ソレスタルビーイングの崩壊とともに、世界の軍備を1つに集約すべきだという話題が上がっているためだ。国家の枠組みを超えた共同体の設立が進んでいる。いうなれば、さしずめ、地球連邦軍――あるいは人類軍と呼べるような存在である。後者の単語を聞くと嫌な予感を覚えるのは何故だろうか。
自己の利益のために人類を裏切り、対話と共存の道を模索し始めた異星人に核兵器を落として関係を悪化させたり、本人の意思と関係なしに制御し操る特攻兵器を開発したりした“あん畜生”が立ち上げた組織の名前もまた、人類軍だった。
人類軍の役割は、以前問題を起こした独立治安維持部隊と同じようなものだ。反乱分子と断じた人々を、容赦なく虐殺/破壊し、粛清していく。そうして、自分たちこそが絶対正義であると情報統制し、民衆を管理する。それが原因で起きた争いを、ビリーは『知っていた』。
そういえば、近々独立治安部隊が結成されるという話を聞いた。叔父のホーマーが独立治安部隊の司令に任命されたそうで、彼は自分や金髪の男に「独立治安部隊へ参加しないか」と声をかけてきている。ビリーも男もまだ返答はしていなかった。自分は興味がなかったし、男はまだ心身ともに回復していない。
金髪の男の部下たちは、色々思うところがあったようだが、最終的には全員が独立治安部隊に所属することになったそうだ。
『今度新設されるアロウズは……』
テレビ/ラジオから聞こえてきた話に、ビリーはふと顔を上げた。聞き覚えのある単語が聞こえてきたためだ。
独立治安部隊、アロウズ。叔父が司令に任命された組織だ。数か月前に発生したテロを受け発足したばかりだと聞いている。
だから、以前からその言葉に聞き覚えがあったのだ――と思い、しかし、ビリーは首を振った。
違う。自分はもっと以前から、この組織のことを『知っていた』。その詳細を思い出そうと目を閉じる。
『これでは、■■■■の再来だ……!』
脳裏に『視えた』のは、紛糾する議会の様子だった。生中継の映像を食い入るように見つめていたのは、ビリーと同じ格好の男性である。隣にいたのは、恩師とよく似た老紳士だ。親友の1人が身を寄せる遊撃部隊の扱いについての話だったため、議会の行方が気になっていた。
画面の真ん中では、色黒で小柄の禿げ頭が演説している。遊撃部隊を宇宙の侵略者呼ばわりし、彼らを討つための算段を整えていた。政治家の連中は皆バカばかりで、誰一人として遊撃部隊が世界のために戦っていることをわかろうとしない。男性と老紳士もぎりぎりと歯を食いしばりながら、議会を見守っていた。
(……
その“忌まわしきもの”の名前は、一体なんだったのか。
今のビリーには、思い出すことはできなかった。
***
女性と顔を合わせたのは、本当に偶然だった。
しかし、正直なところ、ビリーは女性のことが苦手であった。
女性とは顔を合わせたことがある。彼女は相変わらず絢爛豪華な着物を着ていた。以前見た花が描かれた桃色の着物とは違い、今日は、黄金の蝶が描かれた赤と黒基調の着物である。親友が亡くなってから、彼女は意気揚々とした表情をするようになったとビリーは思う。
彼女が近くにいるということを感じ取っていた親友は、そのどす黒い悪意にあてられて体調を崩していた。寒気が止まらないと言っていたことを思い出す。今ならば、ビリーも彼の気持ちがよくわかった。今この瞬間も、寒気が止まらない。女性は笑っていたけれど、腹の底からどす黒いものを感じるためだ。
どうして女性がここにいるのか、ビリーにはまったくわからなかった。女性はMS研究は専門外だったし、MSパイロットとしての訓練も積んでいないし、軍人の遺族であるだけで、彼女本人は軍とは全く無関係な民間人である。なのに、どうして彼女はビリーの研究室に入ってこれたのだろうか。
普通、一般人が研究施設に入るためには、それなりの手続きが必要なはずだ。手続きをしてきたなら、その旨が職員全員に連絡される。だが、今日は来客があるなんて話は一切聞いていない。端末で確認しても、そんなものはなかった。
無断で入ってきたなら問題になる。警報システムは大音量で鳴り響いているだろうし、警備員が血相変えて走り回っているはずだ。しかし、研究所は平穏そのもの。平時よりも静かすぎるような気がしたが、主な異常は発生していなかった。
「何故、貴女がここに?」
痛いくらい静かな研究室に、ビリーの声はやけに響いた。緊張しているためか、自分の声はやや硬い。女性は相変わらず、優雅な笑みを浮かべていた。
「貴方に見てもらいたいものがあって」
女性はそう言って、ビリーに包みを手渡した。おずおずと受け取り、封を開ける。中身は、何かのシステムを組み立てるためのプログラムが入ったチップだった。
彼女の意図が分からない。眼差しでそう訴えれば、彼女はますます笑みを深くした。悪寒が背中を駆け抜け、冷や汗がこめかみを伝い落ちる。意味もなく、ぞっとした。
「ゼロシステムというの。未完成で欠陥品のプログラムだけど、これを解析してほしいのよ」
いつだろう。かつて、自分は似たような状況におかれた経験が『あった』はずだ。ビリーは頭を回し、思い出そうとする。
実験。解析。勝利を演算するシステム――断片的に浮かんできた単語は、しかし、女性の言葉によって遮られた。
「ユニオンの技術的権威は失墜の一途を辿っている。……このまま埋もれてしまったら、フラッグの後継機開発も消えてしまうわね」
「!!」
ビリーは思わず息を飲んだ。
恩師や親友が亡くなって、高嶺の花が転がり込んで酒浸りの日々を送っている中、進めることができなかった後継機開発。亡き親友や生き残った親友たちが楽しみにしていた、大切な約束だった。
ユニオンが誇るMS開発の権威を失い、恩師の後釜に収まった自分がこんな状態だったのもあって、地球連邦および独立治安部隊アロウズの主戦力開発の座を人革連に奪われてしまったのである。
それが、ユニオンの技術的権威の失墜を象徴していたことは知っていた。どこかで自覚もしていた。でも、ビリーは何もしなかった。何かを成せるような状態ではなかったのだ。そんなこと、言い訳にもなりはしないのに。
フラッグの系譜を託された自分にしかできないことがある。ユニオンの精鋭――フラッグファイターの誇りを、ビリーは間近で見てきたのだ。恩師が、親友たちがフラッグに情熱を傾けていた姿を。
このまま、フラッグの系譜を絶やしたいとは思わない。このまま、何もせずにだらだらとした日々を送るべきではないとは分かっている。踏み出すきっかけがないのだと、自身に言い訳していたことも認めよう。
『楽しみだな、新型機』
亡き親友の声が木霊する。
おそらくは、きっと、彼の未練。
(……僕は……)
ビリーはまっすぐ顔を上げた。
「――その件、引き受けさせてください」
ビリーの言葉を聞いた女性は、満足げに微笑んだ。包みをビリーの手に握らせて、女性は踵を返して去っていく。
その背中を見送った後で、ビリーはチップをまじまじと眺める。見た目は何の変哲もない。問題は中身である。
どんなものだろう、と思ったそのとき、ビリーの脳裏に何かが『浮かんだ』。自分と同じ背格好の男の、後ろ姿。
『はは、ははは、あはははははははははははっ!!』
男は笑う。狂ったように笑い続ける。そこはかとなく滲み出た狂気に、ビリーは思わず気圧された。
『このガンダムは素晴らしい。この“システム”によって、僕の思考は無限に広がった! 僕はすべてを理解したよ!!』
『ああ……! だが、もっとデータが必要だ、実戦のデータが!』
『喜んでくれ、□□□□! これで君の機体も完成する! □□□や他の皆との約束を――フラッグの後継機開発を果たすことができるんだ!』
『きっと、□□□□□教授や□□□だって、喜んでくれるに違いない……!!』
ぞっとした。目の前にいる男は、明らかに“何か”に取りつかれている。もう正気ではない。
白衣を着た男を愕然とした表情で眺めていたのは、仮面で顔を隠した金髪碧眼の男だった。
目の前にいる男2人は、誰かに似ている。ビリーがそれを考えようとしたとき、不意に肩を叩かれた。振り返れば、怪訝な顔をした警備員。何かあったのかと訊けば、彼は苦笑した。
「いや、先程女性とすれ違ったような気がしたんです。おかしいですよね、今日は来客なんて誰も来ないのに」
警備員は笑いながら、廊下の向うへ消えて行った。それを見送り、ビリーは再びチップへ視線を向ける。女性が言うようなシステムのプログラムが入っているとは到底思えない。
もし、女性の言葉が本当だとしたら――そのシステムを、自分は解析および制御することは可能だろうか。いや、そこまでできなければ、ユニオンの技術的権威を引き上げることは不可能である。
そんなことを考えていたら、不意に、また、脳裏に光景が『浮かんだ』。笑い続ける男と、それを愕然とした表情で眺める仮面をした金髪碧眼の男。誰かによく似た男たちの後ろ姿は、薄闇のベールがかかっていてよく見えない。
『□□□□……』
仮面の男が、茫然と男の名前を呼んだ。
笑い続ける男は、親友に名前を呼ばれたことに気づかない。
『キミも、魔道に堕ちたのか……』
狂ったように笑い続ける男に、仮面の男の言葉は届かなかった。
その光景が消え去る直前、白衣を着た男が不気味な笑みを浮かべながら振り返る。
眼鏡をかけたその男は、ビリーと瓜二つの顔をしていたような気がした。
◆
静かな風が吹いていた。
共同墓地には、真新しいものが沢山並んでいる。国連軍とソレスタルビーイングの最終決戦で亡くなった兵士たちのものだ。その中に、『Kugo Hagane』と刻まれた墓石があった。
ユニオンの精鋭/フラッグファイターに所属していた空軍MSパイロット。二つ名は“空の護り手”。グラハム・エーカーの親友であり、彼の副官を務めていた東洋人男性である。
墓前にはたくさんの花が供えられている。そのすべては、彼の死を悼む人々のものだった。その量からして、一目見れば、その人物がどれ程慕われていたかは明白だ。
その墓前に、2人の男女が立っていた。
女性は黒髪黒目の東洋――日本人であり、花が描かれた豪奢な桃色の着物を身に纏っている。『死者に花を手向けに来た格好』としては、あまりにも場違いな格好だった。死者を悼む気持ちなど一切感じない。むしろ、その人物が亡くなったことを喜んでいるかのようだ。
男性は金髪碧眼の白人で、端正な顔立ちだった。だが、顔の左半分には痛々しい傷跡が刻まれている。先に行われた国連軍とソレスタルビーイングの最終決戦で、男性は心身ともに深い傷を負ったのである。終戦から時間が経過したとはいえ、傷はまだまだ癒えていない。
「カタギリに、
男は藪から棒に問いかけた。女性はきょとんとした表情で首を傾げる。
だが、男は引かない。屹然とした眼差しで、再び問いかける。
「彼と彼女を手にかけたのも、貴女なのか」
問いかけの形を取ってはいるが、もはやそれは確信だった。女性の漆黒の瞳と、男性の翠緑の瞳がかち合う。バチバチと火花が爆ぜていた。
女性はくすくすと笑うだけ。男は黙って女を睨むだけ。そんな時間がどれくらい続いたのか、わからない。静かな風が吹き抜ける。
「だから、何?」
「――!!!」
女性は悪びれる様子もなく肯定した。男は反射的に拳を振り上げる。
「アタシに何か起きれば、貴方のお友達は精神崩壊する手はずになっているわ。アロウズに所属する貴方の元・部下たちも、安全じゃないかも」
女性の言葉が意味している内容を無視できるほど、男は非情な性格ではなかった。むしろ男は、「気さくで面倒見がいい」と言われる部類に入る。
だが、予想もしていない人間からの脅迫には驚きを隠せない。男は大きく目を見開き、口元を戦慄かせる。この場で男が動けば、そのしわ寄せが仲間たちに及ぶのだ。
親友が命を賭けて守った者たち。自分に託された者たち。部下や親友の顔が浮かんでは消えていく。いつの間にか、男は振り上げかけていた拳を下していた。
それを見た女性は、笑みを深くする。
対照的に、男は唇を噛みしめる。
「ところで貴方、刹那・F・セイエイに会いたい?」
刹那・F・セイエイ。男にとって、大切な女性の名前だった。自分が見殺しにしてしまった、運命の人。
しかし何故、女性がそんなことを訊いてくるのだろう。先程女性は、男の問いかけに肯定で返した。彼女――刹那・F・セイエイを殺したと、認めた。
女性の口ぶりはまるで、刹那が生きていると言わんばかりである。どういうことだと問いかけようとした男に、女は不気味な笑みを浮かべて迫る。
「彼女に会わせてあげるわ。だから――」
「断る。私は彼女と約束した。……生きてくれと、言われたんだ」
男は女の言葉を遮った。彼女の元へは逝けない――その想いをこめて、男は女を睨む。何がおかしかったのか、女は思い切り吹き出して嗤った。
「貴方、自分に選択権があると思ってるの? 馬鹿みたい」
女は笑っている。しかし、その目は一切笑っていない。
黒曜石のような瞳の奥に、絶対零度が揺らめいている。
「アタシの意に従わないなら、彼女も死んじゃうわね。せっかく生き残ったのに、貴方のせいで」
「――生きている? 刹那が?」
女の言葉に、男は思わず息を飲んだ。女はますます笑みを深める。気のせいか、顔を覆う影が多くなった。
「彼女に会いたいでしょう? 仲間たちにも死んでほしくないでしょう? 返答次第では、あの子が守り抜いた人たちを、あの子の親友である貴方が危機に晒すのよ。耐えられるの?」
試すように女が問う。男は大きく目を見開き、口元を戦慄かせる。この場で男が動けば、そのしわ寄せが仲間たちに及ぶのだ。
親友が命を賭けて守った者たち。自分に託された者たち。部下や親友の顔が浮かんでは消えていく。そして、愛する人の穏やかな表情も。
それを見た女性は、笑みを深くする。対照的に、男は唇を噛みしめる。
「何が望みだ」
呻くように、男性は言った。女性は満足げに笑い、男の胸倉をつかんで引き寄せる。
女性は、まるで内緒話をするかのように、呟き程度の声量で、男の耳元に囁いた。
「――アタシの
***
例えるならば、それは、鳥籠に閉じ込められた鳥。あるいは、磔にされた人間。自分の体中に鎖が巻かれているような状態だろうか。そんなイメージを抱いていたせいか、どこかから鎖の音が聞こえてきそうだった。
顔の左半分に傷を持つ金髪碧眼の男――グラハム・エーカーは、ベッドからのろのろと体を起こした。自身にまとわりつく不快感は消えてくれないし、頭を浸食するような頭痛にも慣れない。吐き出した吐息は、情けない響きを宿していた。
体中、冷や汗でべたついている。倒れてしまいそうな己を叱咤し、グラハムはシャワー室へ直行した。やや乱暴な手つきで、汗と不快感を洗い流していく。鏡に映った自分の顔は、自身でもため息をつきたくなるくらい荒んでいる。
歪なくらい研ぎ澄まされた翠緑の瞳は、フラッグファイターとして戦っていた頃の名残は見当たらない。心なしか、濁っているようにも感じた。
部下や同僚、友人たちから「顔つきが変わった」と言われる理由も、今なら分かる。そこにいたのは、形相だけが修羅そのものの、空っぽな人形だ。
「――……」
グラハムは口を動かす。だが、掠れた声が漏れるだけだ。
ずきりと頭が痛む。今までの出来事が走馬灯のように点滅し――しかし、その大半が穴だらけだった――流れていく。よろめいた体を支えるように、グラハムは壁に手をついた。
荒い呼吸が部屋に反響した。これは、肉体的な苦痛からだけではない。奪われたもの/人質にされてしまったものが増えていくことに対する焦燥も入っている。
情けない、と、グラハムは思った。何て無力なのだろう、と、歯を食いしばる。このまま生き続けたとしても、果たしてそれは「生きている」と言えるかどうか。
ふらつきながら脱衣所に戻れば、籠の中に置かれた私物――親友の遺品である守り刀が目に入る。守り刀と銘打たれているが、その切れ味は、ホーマー司令も唸るほどのものだった。実際、試しに振るってみたこともある。
グラハムはじっとその守り刀を見つめた。「誇りを汚され、生き恥を晒すくらいなら死を選ぶ」というのが武士の生き方だと聞いたことがある。女の人形と化してしまった自分は、ヒトとして大切なものを次々と奪われ、人質にされてきた。
それがエスカレートしていけば、自分は、ヒトですらいられなくなる。ただ、女の命令に対し、忠実に動くだけの傀儡と成り果てるだろう。「傀儡にならなければすべてを失ってしまう」という事実を植え付けられてしまっている自分は、逆らうことなど不可能に等しい。
だから、だろう。
時折、自分が生きているのか死んでいるのか、わからなくなる。
(……ならばもう、いっそのこと……。私が私でいられるうちに――)
守り刀を鞘から引き抜く。白く輝く刃が目に眩しい。これで腹を突けば、グラハムはヒトとして死ぬことができるかもしれない。
武士が自害を選ぶのは、自分が自分であったと示すための意味もあったのではないだろうか。最後の最後まで、気高く力強い存在のままでいたかったのでは、と。
今のグラハムも、自刃を選んだ武士の気持ちがわかりそうな気がする。引き寄せられるようにして、その刃を自分に向け――手を、止めた。
『生きることをやめてしまったら、明日を掴むことなんてできないだろう』
声がした。懐かしく、愛おしい相手の声だった。
『お前も、生きろ。――生きてくれ、グラハム・エーカー』
そうして、少女は微笑んだ。
戦いを始める直前に見せた、柔らかな微笑を浮かべて。
グラハムは大きく目を見開く。溢れる感情そのままに、記憶の中の少女に微笑み返した。
この少女こそ、死を選ぼうとする自分を押しとどめ、繋ぎ止めてくれる存在。
道下と化し、人形になってでも、グラハムが生きようとする理由そのものだ。
彼女の名前を呼ぼうと口を開き――グラハムは、絶望へと突き落とされた。
(思い、出せない……!!)
文字通り、すべてを賭して愛した少女の名前だった。彼女は、その名前を告げるのに、途方もない勇気を必要としていた。告げられたそれは、彼女の信頼と祈りの証だった。
『永遠よりも長い時間の中で切り取られた、一瞬よりも短い時間』――意味は、きちんと覚えていたのに。そこまで考えて、己の状況を思い至り、グラハムは愕然とした。
少女の名前すら、奪われた/人質にされてしまった。その事実が重くのしかかってくる。女の魔の手は、もうそこまで伸びてきたとでもいうのか。
(いつかは、この想いすらも――)
考えるだけでぞっとする。グラハムを支え、突き動かす約束や感情すら、あの女に奪われて/人質にされてしまうのだろうか。奴だったらやりかねないという予感があった。
守り刀が手から離れ、乾いた音を立てて床に落ちる。グラハムはそのまま床にへたり込んだ。体中に寒気が走り、手足が小刻みに震える。立たねばならぬと言うのに、体が動かない。落ち着こうと試みるが、呼吸はどんどん荒くなっていく。
脳裏に浮かんだのは少女の後ろ姿。グラハムが愛した運命の人。グラハムが助けることができなかった、大切な人だ。「少じ――」そこまで口に出して、けれどグラハムは、その先の言葉を飲み込んだ。伸ばしかけた手を戻し、首を振る。
振り返った少女は、汚いものを見るような眼差しでグラハムを見下ろしている。拒絶するような、蔑みを宿した赤銅の瞳。彼女の口が動き、言葉を紡ぐ。その意味を、グラハムは痛いほどに『わかっていた』。
否定はしない。否定できるような状態ではないし、言い訳もできない。今のグラハム・エーカーは、件の少女に対する不貞行為を働いたも同義だ。そうしてこれからも、この裏切りを続けねばならない。
大義名分なんて関係なかった。悲鳴を上げて縋りつく資格など、自分にはなかった。己の女々しさと情けなさに反吐が出そうになる。あの日、自分が望んだ明日は、今の自分ではもう届かないものになってしまった。
(…………それでも)
あの日夢見た明日に手が届かないと言うのならば、せめて。
生きているというのなら――もう一度、少女に会いたい。
「少女」
囁くようにして、グラハムは零す。
「はやく、キミに会いたい。……私が我慢弱いことは、知っているだろう?」
もう時間がないんだ、と、呟いたグラハムの声は、あまりにも頼りない。
自分が自分ではなくなる前に、どうか。はやく、はやく――。
「……私を、見つけてくれ」
そう呟いて、グラハムは深々と息を吐いた。深呼吸を繰り返し、どうにか体に力が入るようになる。立ち上がったグラハムは、着替えに手を伸ばした。
独立治安維持部隊アロウズに所属する者が身に纏う深緑の軍服を着て、その上から陣羽織を羽織った。いつぞやの京都旅行で、少女が「似合う」と言ってくれたものだ。
どうやら、京都旅行の記憶はまだ奪われていなかったらしい。奪われていないものを見つけられると、泣きたくなるくらい安心する。
『誕生日おめでとう、グラハム』
『おめでとうございます、グラハムさん』
『……誕生日、おめでとう』
親友たちからのサプライズ。誕生日のお祝いとして手渡されたものの数々を、グラハムはまだ覚えていた。覚えていられた。それらすべてを、今も大切に使っている。
親友からは箸を、親友にとっての運命の人からは日本の伝統技術で作られたカップを、グラハムが愛してやまない少女からは空色の扇子とつがいのお守りを。特に少女からの贈り物は、肌身離さず持ち歩いている。ソレスタルビーイングと国連軍の最終決戦のときもだった。
GNフラッグが大破するほどだったというのに、扇子にもお守りにも、傷や焦げ跡はついていない。あの日彼女から贈られた、当時の姿のままだ。まるで、少女への想いの強さがそのまま表れたかのようだった。グラハムは慈しむようにしてそれらを撫でる。
先程自分を蝕んでいた負の感情が、あっという間に消えていくのを感じた。自分の現金さと弱さに苦笑する。
『でも、不思議だ。……あんたが言うと、希望が見える』
『俺のような人間でも、あんたの言う“明日”を手にすることができるのではないか、と』
そう言った少女の気持ちが、今なら分かるような気がした。
もっとも、自分と彼女の立場が、完全に逆転したためであるが。
「出番よ、私のお人形」
「ああ」
背後から聞こえてきた声に、グラハムは苦々しく歯噛みした。女にばれないようにため息をつき、仮面へと手を伸ばす。京都旅行で購入した、顔を覆うタイプのものだ。
これでもう、己の意志と願いを持ったグラハム・エーカーという男は存在しなくなる。ここにいるのは、女の傀儡として戦場へ赴く、修羅の顔をした空っぽの人形でしかない。
アロウズの中でも独立行動権を与えられた、ライセンサーの1人。周囲からは独断行動ばかりする問題児だと称されているが、男からしてみればアロウズの行動原理がおかしいのだ。
もっとも、アロウズに所属する一般兵や士官たちの言い分はわからなくもない。虐殺に異を唱えながらも、仕方なく従っている者も少なくないのだ。断れば、自分が戦犯として裁かれる立場になる。虐殺に参加せずとも咎められない自分が異端なのだ。
彼らが自分に向ける嫌悪は、自分たちがそれを成せないという憤りも含まれているのだろう。世の中とは世知辛いものだ。第三者は男が自由に行動しているように見えるらしいが、男の真実を知ったら、彼らはどう思うのだろうか。
夜明けの空。遠くに残る藍色の部分には、まだ星々が瞬いている。
「……む?」
一瞬、何かが星の間を飛んでいった。いつか見た、緑色の光。ガンダムから溢れる、緑色の粒子だ。思わず、男は目を見開いてその奇跡を追いかける。
あの光は、太陽炉搭載機以外のMS――即ちガンダム以外が出すことはない。地球連邦が使うMSに搭載された疑似太陽炉は、赤い色をばらまく。
もう一度目を凝らす。白と青の機影が『視えた』。思わず、男の表情が綻ぶ。
次の瞬間、男の脳裏に何かが『浮かんだ』。
自分たちが愛し、育てた機体。ユニオン最強のMS。ユニオンの精鋭であることを示す名前。
その面影を宿した機体は、
「――フラッグ?」
男の問いかけを肯定するかのように、MSは
男の意識が現実に戻ってきたとき、遠くの空に、青く瞬く美しい光が見えたような気がした。
◇
吹きすさぶ風は砂埃を舞い上げる。砂漠生まれで砂嵐には慣れていたが、だからといって、何ともないわけではない。
佇んでいた人影は、ボロボロの機体を見上げていた。黒髪が風に揺れる。中東生まれであることを示す、浅黒い肌が露わになった。
赤銅の瞳はしばらく機体へ注がれていたが、ふと、その女性は胸元へ視線を落とした。飛翔する天使が描かれたシェルカメオが、淡い光を放っている。
青い光。女性を愛し、女性が愛した男が思いを馳せた、美しい空色。懐かしさと愛おしさが込み上げて来て、女性は慈しむような手つきでそれに触れた。
「グラハム」
愛した男の名を口に出す。それだけで、どうしようもなく心が震えた。
自分がいなくなった世界で、彼は今、どんな風に生きているのだろう。
あのとき――最終決戦で彼を庇った後、女性は、大破した愛機と一緒に暫く宇宙を漂っていた。思い直せば、生きていることが奇跡に等しい状態だったと思う。愛機は修理すれば充分動いたし、自分の傷もほぼ軽傷だった。
砲撃を喰らったはずなのに、損傷度合いがはるかに低い。その理由が分からなくて首を傾げれば、青く輝くシェルカメオが目に入った。命の光。自分の仲間だった歌姫が言っていた色と同じ、透き通った
彼を守ったつもりだったのに、最後まで自分は彼に守られていた。彼を幸せにしたかった筈なのに、いつの間にか自分が幸せになっていた。女性は深々と息を吐く。
「俺は、生きている。この世界の行方を、見届けるために」
あんたはどうなんだ、と、本人に代わってシェルカメオに問いかけてみた。勿論、返事なんて聞こえるはずがない。
何をバカなことをやっているのだろう。女性が苦笑したとき、シェルカメオが淡く光を放ったような気がした。
命の光は消えていない。女性を慈しむかのように瞬くそれに、胸がじんわりと温かくなる。
もう動かない端末を引っ張り出す。互いが互いに贈ったつがいの片割れが揺れて、鈴の音が鳴り響いた。離れていても互いを想いあう恋人たちが持つお守り、と、自分たちに巻き込まれていたフラッグファイターが言っていたか。
ソレスタルビーイングにやって来た頃は、自分にとって、こんなにも大切な相手ができるだなんて思わなかった。想いあえる相手と出逢えるとは思わなかった。そうして、その事実をためらいなく受け入れることになるとも。
この世界に神はいない。でも、彼がいた。だから、自分は今、ここで生きている。生きて、明日を追いかけているのだ。女性は眦を吊り上げ、まっすぐ前を向いた。そうして、ボロボロの機体へと飛び乗る。
「行くぞ、エクシア」
間もなく、機体は空へと飛び立つ。夜明けの空は、どこまでも美しい。
気のせいか、薄闇の向うに青い光が流れたような気がして、女性は顔を上げる。予想は的中していたようで、青い流星が空を横切っていたところだった。
流れ星に願えば願い事が叶う――なんて、昔聞いた話を思い出す。自分にも無邪気な頃があったのだ。女性はふっと口元を緩めると、静かに、旅の続きへと戻っていった。