大丈夫だ、問題しかないから。-Blue trajectory- <1st Season> 作:白鷺 葵
斜陽の光が差し込む、赤茶けた大地。そこが、刹那・F・セイエイの故郷――クルジス、あるいは現在のアザディスタンの風景であった。
刹那が知っている空は、血のような赤が目に刺さるような、煤けたものだ。空と言われれば、刹那は真っ先にこの光景を頭に思い浮かべる。それ以外の空を、あるいは世界を知ったのは、『神』と出逢ったときのことだった。
美しく澄んだ青い空を知った。鉛色の雲で淀んだ空を知った。深く飲み込まれるような群青の海を知った。天高く聳える灰色の摩天楼を知った。果てしなく広い草原があることを知った。『神』のコックピットから見た光景は、今も色褪せない。
砂塵の舞う赤茶けた大地に、刹那は立っていた。どこへ行く当てもなく、刹那は歩みを進める。一歩踏み出すたびに、砂と靴底が擦れる音が響いた。ざく、ざく、ざく、と、足音と足跡が刻まれていく。どこまで行っても、赤い大地と煤けた空は変わらない。
永遠に続くかと思われた光景に、唐突な変化が現れた。赤茶けた大地に、一輪の花が咲いている。淡いピンクの花を鈴なりに咲かせた花だ。
母が「近所から貰ってきた」と言って育てていた花と、よく似ている。花の名前も教わったような気がしたが、思い出すことはできなかった。
(これは……)
ふと顔を上げて向うを見れば、まるで刹那を導くかのように、花の道が出来上がっていた。赤茶けた大地の向う側に、点在する様々な色を包み込む緑と澄み渡る青空が見える。綿雲が悠々と流れて行った。
自分が馴染んだ光景と違う世界に惹かれたのか、刹那の足はそちらに向かって動き出す。緑の中に見えた色とりどりのものは、美しく咲いた花だった。その中には、先程見かけたピンクの花もある。
花が咲き乱れる草原を、刹那は行く当てなく歩き続けていた。自分の知る風景とは違って、どこまでも長閑な風景が広がっている。ふと、刹那は足を止めた。向うに一本の大樹が聳え立っていた。
大樹の向う側は、なだらかな下り傾斜の丘になっているようだ。長く伸びた緑の中に、花の色よりも鮮烈な金色が見えた。見覚えのある、眩しい色。
思わず刹那は息を飲んだ。この場所に“彼”がいるなんて、思ってもみなかったためだ。
“彼”は刹那の気配を読んだのだろう。寝っ転がっていた姿勢から上体を起こし、振り返った。
「やあ、少女」
「グラハム・エーカー……」
太陽を彷彿とさせるような、眩しい笑み。普段と変わらない、どこか自信に満ち溢れた表情を浮かべたグラハム・エーカーがそこにいた。彼は目を細めた後、空へ向き直る。
「こうしていると、とても気持ちがいいぞ。刹那もどうだ?」
「あ、ああ」
グラハムは微笑みながら、己の隣に位置する場所を示した。断る理由がない刹那は、彼の勧めに従い、グラハムの隣に腰かけた。
刹那が座ったのを確認した彼は、再び芝生に寝転がる。眼差しは、果て無く広がる空へと向けられいた。翠緑の瞳は静かに細められた。
刹那はまじまじとグラハムの横顔を見つめた。透き通った白い肌に、眩い金髪。宝玉を思わせるような緑の瞳は、揺るがぬ意志を宿しているかのようだ。こうして見ると改めて気づくのだが、端正な顔立ちをしている。彼の言動を顧みると、それが、かえって“顔立ちの良さを帳消しにしてしまう”ところが残念であった。
視線に気づいたのか、グラハムは刹那のほうに向きなおった。真摯な眼差しがこちらを射抜く。すべてを見通すような宝玉に、刹那は思わずたじろぐ。まじまじと見つめられると、どう反応していいのかわからなくなってしまうのだ。グラハムは何が面白いのか、ふっと表情を緩めた。愛おしそうに、緑の瞳は刹那を映している。
「初々しいな、キミは。そこも魅力的だが」などとグラハムは笑う。余裕綽々という言葉が似合うような表情であった。何とも言えぬ感情に振り回されているのは刹那だけのような気がして悔しい。それを言葉に出したら負けてしまいそうな予感がして、刹那は沈黙することを選んだ。きっと、自分の顔や耳は真っ赤になっているだろう。
常に全力投球しすぎて落ち着きのない人間のように見えるクセして、そつのない奴だ。刹那は心の中で悪態をついた。本気半分、照れ隠し半分であるが。
グラハムはのんびりと空を眺めている。刹那もそれに倣い、空を見上げた。
どこまでも澄み渡った青が広がっていた。永遠、という、ありもしない言葉が頭によぎる。
芝生に寝っ転がり、空を見上げ、体を起こしては沈黙を楽しむ。そんなことを繰り返して、どれほどの時間が過ぎたのだろうか。
いつの間にか、空は茜色に染まっていた。斜陽。何かの終わりを示すかのように、沈みゆく太陽の光が突き刺さってくる。
なぜだろう。この光景を見ていると、言いようのない焦燥感が去来する。刹那は思わず、服の襟元を握り締めた。
「刹那」
隣で空を見ていたグラハムが、上体を起こした。夕焼けの光を遮るように、彼は刹那を見つめる。どこまでも真剣な眼差しに、刹那は一瞬、息をすることを忘れてしまった。
「――このまま2人で、逃げてしまおうか」
グラハムはそう言って、微笑む。彼の言葉を理解できなくて、刹那はぽかんと彼を見返した。
目の前にいる男は、冗談や嘘を言って楽しむような性格ではないはずだ。こいつは一体、何を言っているのか。
「逃げてしまおう。このまま2人、誰も知らないような遠い所へ。……刹那は、どこへ行きたい? 私は、キミと一緒ならば、どこだっていい。キミがいる場所は、私にとって天国と同義だ」
甘美な誘惑。抗い難い響きを持って、その言葉は刹那の耳や心へ沁みていく。しかし、刹那は首を振った。
あんたは、そんなことを言うような男ではないだろう。そんな嘘を、冗談を言うような男ではないはずだろう。
非難を込め、刹那は眦を吊り上げグラハムを睨む。それを見たグラハムは大きく目を見開き、何度か瞬きした。
彼は微笑む。申し訳なさ半分と、寂しさと哀しさが半分混ざったような笑い方だ。今にも消えてしまいそうな儚さに、刹那は、自分が「間違ってしまった」ことを悟る。
しかし、どうしようもないことだ。逃げられない現実を、刹那はきちんと見据えている。だからこそ、グラハムの言葉には答えられない。馬鹿な夢だと断じること以外、何も。
「あんたはひどい男だな、グラハム」
彼の言葉は、刹那が刹那たる理由を踏みにじるような嘘だ。真綿で首を締めるような、心地よくも悲しい嘘。そんな夢物語に浸れるような頭でいたら、刹那はソレスタルビーイングのガンダムマイスターでいられなかっただろう。
グラハムは眦を下げる。口元には静かな微笑。翠緑の瞳はどこまでも澄み渡っていた。
嘘ではないよ、と、彼は言う。その表情は悲しみに満ちているが、嘘偽りは一切ない。
本気の眼差しである。すべてを理解したうえで、グラハムは言うのだ。そんな夢物語を。
「俺は、あんたに応えられない。それは、あんたが一番知っていたことじゃないのか?」
「……そうだな。すまない、今の戯言は忘れてくれ」
グラハムを断じるように刹那が言えば、彼は静かに目を閉じた。もう二度と言わない、と、彼は大仰に頷く。
自分勝手なように見えて、他者に対して誠実な男だ。意味不明に見えて、何を考えているのかわかりやすい男でもある。
「…………でも、そんな夢を見るくらいなら、許されるような気がする。――たとえ、残酷な
刹那は微笑んだ。グラハムは酷く驚いたように目を瞬かせたが、安堵したように穏やかな笑みを浮かべた。楽園や天国なんて、刹那は信じていない。
そんなものが現実にあるとしたら、そこはきっと、彼がいる場所のような気がする。漠然とした確証があった。
いつの間に、自分たちはこんなにも惹かれあってしまったのだろう。今となってはもう、わからない。けれど、この選択に後悔はしていなかった。
日差しが沈む。空に広がったのは、満天の星。
グラハムは慈しむような眼差しを向けてきた。こそばゆさを感じながらも、刹那も彼を真正面から見返す。
自分たちが対峙するであろう
***
気づいたら、そこは公園のベンチだった。草原もなければ、先程まで隣にいたはずのグラハムがいない。
しばし目を瞬かせた後、ようやく刹那は、先程の光景が夢だったことに気づいた。
(夢は、人の心を表す……)
よく聞く話を思い出す。もしそれが真実であるならば、刹那は。
(……重傷だ)
真っ赤になった顔を抑えて、深々とため息をついた。首元のシェルカメオを握り締める。
本当に、どうして、自分はこうなってしまったのだろう。
変わっていく世界の中で、ソレスタルビーイングに属する者たちも変わってきている。刹那もまた、その1人だ。恋だ愛だ幸福だとかいう単語とは、縁がないとばかり思っていたのに。
変わりゆく世界の中で生きる者ならば、尚更変わらざるを得なかっただろう。グラハムもまた、その1人だ。彼自身に大きな変化は見られないように思うけれど、彼を取り巻くものは着実に姿を変えている。
大半の人間が流されていくのに、グラハムは流されていない。踏みとどまり、世界の流れの奥に潜む悪意を見極めようとしている。アンノウンと対峙しボロボロになったフラッグを、ユニオン基地に送り届けたときのことを回想した。
『……すまない。私では、一矢報いるので手一杯だった』
『
『だが、今回の一件で、私はますますキミに惚れ直したよ。それでこそ我が好敵手だ。……尤も、私の方が、キミの好敵手を名乗るに値しないのかもしれないが』
命を削るかのように、アンノウンと鍔迫り合いを繰り広げたグラハム。血反吐を吐いた彼が真っ先に告げたのは、刹那の誇りを汚した相手を仕留めそこなったことに対する謝罪だった。こんな自分は好敵手に相応しくないかもしれない、なんて、珍しく弱音まで吐いていた。痛々しいまでもの笑みが脳裏によぎる。
刹那は無意識のうちに、服の襟元を握り締めていた。その手は、小刻みに震えている。
深く深く息を吐いて、どうにかそれは止まってくれた。丁度いいタイミングで、待ち人の気配を感じ取る。
人ごみの向う側に、彼はいた。高級なスーツを身に纏った、金髪碧眼の白人男性――グラハム・エーカー。
「やあ、少女」
待ち合わせ時刻丁度。彼は迷うことなく刹那を見つけて、小さく手で合図した。
この男は、海のようにざわめく人ごみだろうと、真っ暗闇であろうと、必ず刹那を『見つけ』られる。視力がいいのはパイロットの条件であるが、グラハム曰く、「キミへの愛の強さだよ」ということらしい。
彼の言うことが「分からないわけではな」くなりつつある自分自身が、刹那にとっては何とも言えなかったりする。刹那がそんなことを考えていることなど露知らず、グラハムは刹那の座るベンチへとやって来た。
グラハムは許可を取ることなく、当たり前のように、刹那の隣に腰かけた。以前だったら文句の1つもぶつけてやったのだが、今はそれを受け入れている自分がいる。
むしろ、彼が隣に来ないで突っ立っていることが珍しいと認識するレベルだった。刹那もまた、グラハムに絆されてしまったらしい。後悔はしていないが、複雑な気分だ。
次に会うときは戦場。互いの正義を掲げて激突することは目に見えているのに、それが苦しいことは明らかなのに、どうしてそれを手放せないのだろう――そう、昔の自分が問うていた。
昔の自分の問いかけに、刹那は答えられない。答える術を、まだ知らない。
何の気なしに、刹那は周囲を見渡してみた。夢で見た光景とよく似ている。透き通った青空には、ちぎれた綿雲が悠々と泳いでいる。眼下に広がる芝生には、色とりどりの花が顔をのぞかせていた。混迷する世界など知らぬかのような、穏やかで平和な風景が広がっている。
箱庭か、あるいは砂上の楼閣か。この状況を形容できそうな言葉が、浮かんでは消え去っていく。それを口に出すことは憚られた。おそらく、その単語を口に出してしまえば最後、文字通り崩れ去ってしまいそうな予感がしたためであろう。刹那は、縋りつくような心地でいたことに気づいた。
「今日は、どうする?」
久々の逢瀬だ、と、グラハムは笑った。
いつもと変わらない、眩い笑みだった。
自然と刹那の頬も緩む。
「特には、考えていなかった」
刹那の言葉に、グラハムは目を見開いて瞬かせた。ややあって、彼は提案するかのように問いかけてきた。
「行きたい場所の希望がないのなら、私に付き合ってもらえないだろうか?」
「ああ、構わない。呼び出したのは俺だからな」
グラハムの申し出に、刹那は静かに答えた。その答えを聞いて安堵したのか、グラハムは静かに目を細める。今日の彼は、いつにも増して大人しい印象を受けた。
普段はこれよりも数倍テンションが高い。愛の言葉を絶叫するはずなのだが、今日は鳴りを潜めている。こいつは本当にグラハム・エーカーなのかとたじろぎかけてしまう程、今日の彼は静かだった。静かすぎた。
もしかしたら、グラハムも覚悟を固めているのかもしれない。今日が、『最後の休日』になる可能性が高いということを視野に入れているのだろう。
「では、行こうか」
清々しい笑みを浮かべたグラハムは、微笑みながら手を差し伸べた。刹那はほんの一瞬たじろぎ躊躇ったが、意を決してそれに答えた。
握り返したらその手が失われてしまうのではないか――なんて、馬鹿なことを危惧していたことに気づく。どう考えても、あり得ないことだ。
案の定、刹那の危惧していたようなことは起きなかった。当たり前のことだというのに、その事実に酷く安堵している自分がいる。
刹那はほんの少しだけ、グラハムの手を強く握る。それを察したのか、グラハムは刹那の手を静かに握り返した。まるで、「大丈夫だ」と告げるかのように。
不思議だ。どうしてだかわからないが、グラハムと一緒にいると、希望が見えるような心地になる。具体的なものも、その根拠もないはずなのに。刹那はひっそり首を傾げた。
自分の変化に驚いているのは刹那自身だ。けれど、その変化を「悪くない」と認識する自分自身には、もっと驚いている。これもまた、変化の1つだった。
◆
「彼女に似合うものを探しているんだ」
グラハムにエスコートされて、着いた場所は煌びやかな服屋であった。
ショーウィンドウに飾られていたのは、絢爛豪華なドレスやスーツが中心である。上流階級の男女が夜会で着るような服ばかりだ。到底、刹那には縁のないと思わしき洋服だった。どうしてこんな場所に連れてこられてしまったのだろう。
刹那が悩む間もなく、グラハムの言葉に頷いた店員によって、半ば拉致されるように引っ立てられてしまった。様々な服と飾りを持ってこられたが、刹那には煌びやかな服に関する知識など皆無だ。胸元のシェルカメオを外されない限り、何をされても、「はあ」と困り果てることしかできない。
あまりにも反応がなさすぎる刹那では埒が明かぬと踏んだのか、店員はグラハムにお伺いを立てていた。グラハムもまた、真剣な面持ちで店員と話をしている。刹那はただ、彼らの着せ替え人形に徹すること以外、何もやることがなかった。
それから時計の針はどれ程進んだのだろうか。
何着の服を着ては脱いでを繰り返したのかわからなくなった後で。
「――ああ、これは美しい。まるで女神のようだ」
ドレスを着せられた刹那を見たグラハムは、満足げに目を細めた。どうにか、彼が満足するような風貌に至れたらしい。
試しに、刹那は鏡に映った自分を確認してみた。女神かどうかは知らないが、そこには1人のうら若き淑女が映し出されている。
ビスチェ形態の上着にスカートを付けたイブニングドレス。蒼穹を思わせるような鮮やかな青が目を引く。スカート部分には、チャペルトレーンと呼ばれる長い引き裾が付けられていた。そのため、スカートの長さ自体はショートドレスと同じであるが、引き裾の長さが床につくため、ロングドレスに分類されるらしい。
上着代わりに羽織っているのは白いショールだ。ラメの煌めき具合のせいか、純白というよりもホワイトシルバーと呼んだ方がいいのかもしれない。頭には、花を模した青いコサージュに純白の羽があしらわれたヘッドドレスが留められていた。胸元には、刹那の誕生日にグラハムが贈ったシェルカメオが輝く。
気を抜くと、天使のシェルカメオを外されて別なネックレスおよびペンダントを付けられそうになるから大変だった。これだけは頑として譲りたくないと(態度で)主張した結果である。店員とのささやかな攻防を知ってか知らずか、グラハムは嬉しそうに目を細め、そのシェルカメオを眺めていた。
半ば呆然とする刹那を横目に、グラハムはさっさと会計を済ませる。空軍エースの財力を垣間見たような気がした。使い方は果てしなく間違っていたが。
「あんた、一体何がしたいんだ」
店を出て、今度は美容院に足を踏み入れたグラハムに、刹那は咎めるような眼差しを送った。刹那の問いかけに、グラハムは笑みを崩さぬまま振り返る。
「これから向かう場所にはドレスコードがあるんだ。それも込みで、『つき合ってもらえないか』と質問したつもりだったんだが……」
「なら、最初からそう言えばいいだろう」
ぶすくれた刹那を見て、グラハムは鳩が豆鉄砲を喰らったかのような表情を浮かべた。「ああすまない」と、ちょっと困ったように苦笑して、彼は謝罪した。
「一種の賭けだよ」
「賭け?」
「ああ。この逢瀬もまた、一夜の夢のようなものだろうからな。キミが私に『付き合ってもいい』と頷いてくれたなら、それに賭けてみたかったんだ」
彼の言葉に、刹那はふと、数時間前に見た夢を思い出した。青い空に広い草原、「逃げようか」と笑ったグラハム・エーカー。夢を見ることを否定しなかった刹那の言葉に、酷く安堵した男の微笑みが脳裏をよぎる。
今の彼は、聞き入れられるはずがないと思っていた我儘が聞き入れられたことに、驚きと喜びと罪悪感をごちゃまぜにした感情を抱いているように見えた。グラハムは苦笑いを浮かべた後、促すようにして美容院の扉を開けた。
髪とメイクも整え終わった頃には、空は夕闇に覆われていた。殆ど準備で時間が潰れたような印象がある。
煌びやかなドレスを身に纏った刹那を、グラハムは上から下まで眺めていた。そうして、満足げに頷く。
言葉にできぬ気恥ずかしさを持て余しつつ、刹那はグラハムのエスコートを甘んじて受けていた。
「ときに少女よ。キミは、好意を寄せる異性に服を贈ることが何を意味しているか、考えたことはあるかね?」
「知らない」
グラハムの問いかけに、刹那はこてんと首を傾げた。その反応に、彼はひどく面食らったように眉をひそめる。
「何か、意味があるのか?」
「い、いや、その……」
「わからないならいいんだ」と、グラハムは煮え切らぬ様子で話題を打ち切った。そのまま、彼は深々とため息をつく。
どこか自嘲するような横顔だ。何があったのだろうか。刹那の視線に気づいたグラハムは、申し訳なさそうに首を振った。
自分が汚い存在になってしまった――嘆くグラハムの声が聞こえてきたような気がして、刹那は首を傾げる。彼は何を言っているのだろう。
そうこうしているうちに見えてきたのは、上流階級ご用達の店や施設が集まる、超高層ビルだった。エレベーターに乗り込み、レストランのあるフロアの階が書かれた数字のボタンを押す。程なくして、エレベーターは目的の階へと到達した。
***
夕闇の向うに一番星が見えた。けれど、ささやかな明りなど気にしないと言わんばかりに、眼下には地上の星々が瞬いている。人の営みが生み出す輝きだ。
その輝きの中で、どれ程の悪意や歪みが蠢いているのだろう。今こうして、刹那が夢に浸っている間にも、世界の歪みはどんどん加速していく。
「キミはいつも、遠くを見ているな」
寂しそうな声がした。「憂いに満ちたキミもまた愛らしい」なんて、グラハムは微笑む。普段の自信に満ちた笑みからは想像できないほど、儚い笑い方だ。彼もこんな表情をするのか、と、刹那は改めて考えた。
グラハムは椅子を引いて、刹那を促す。上流階級の人間を思わせるような、徹底したエスコートだ。空を飛ぶことや刹那への愛で色々なものをぶっちぎってしまっていると思っていたが、何事もソツなくこなせる人間らしい。
失礼なことを考えているという自覚はあった。それを察されぬように気を付けながら、刹那はグラハムのエスコートに従った。おずおずと腰かければ、グラハムは表情を緩ませた。初々しい、なんて言いながら笑みをこぼす。
「あんたは、何をやっても喜ぶんだな」
「好意を寄せる相手と共にいると、一挙一動から目が離せなくなるのだよ。そのすべてが愛おしくてたまらない」
答えを期待していなかったのに、刹那の言葉にグラハムはさらりと返答した。こっ恥ずかしく気障な台詞も、彼は何の躊躇いもなく言ってのける。その言葉に目を細めてしまう刹那も重傷だ。
椅子に腰かけたグラハムは、蕩けてしまいそうな微笑を浮かべて刹那を見つめている。それが、刹那にとってはどうもむず痒くてたまらなかった。「照れくさい」と、刹那は目を逸らした。
慣れぬ空気に戸惑う自分を気遣うように、グラハムは余裕を持って刹那をリードする。そのおかげで、会話を楽しめるようになってきた。
雑談に花を咲かせながら、料理を食べ進めていく。気づけば食後の飲み物が配膳されてきた。それを見て、夢のような時間に終わりが来たことを察する。
最後の
刹那がこてんと首を傾げれば、何か覚悟を決めたようにグラハムは前を向いた。
「夢は、いずれ覚めるものだ。けれど、まだ、それに浸ることが許されるならば――……」
テーブルの上に置かれたのは、どこかの宿泊施設にある部屋の鍵だった。鍵に刻まれていた施設名を見て、エレベーター内の施設案内に同じ名前が載っていたことを思い至る。確か、このレストランより上の階に入っていたのではなかろうか。
賭け。その言葉が刹那の脳裏によぎった。祈るような眼差しで、グラハムはじっと刹那を見つめていた。翠緑の瞳。数時間前に見た夢で、グラハム・エーカーが「逃げよう」と言ったときに見せた表情と同じだった。刹那は思わず息を飲む。手は反射的に握り拳を作っていた。
それを見たグラハムは大きく目を見開く。
刹那が彼の変化に気づいたとき、グラハムは弱々しく微笑んだ。
何かを諦めてしまったかのような、傷ついた横顔。
「すまない。キミに失礼だったな。もう二度と口に出さないよ」
「現実を受け止めて前に進もうとするキミだからこそ、私は惹かれたんだ」――グラハムはそう言って、宿泊施設の鍵へと手を伸ばした。その腕を、刹那は反射的に掴む。
何事かとグラハムが目を瞬かせる。
刹那はじっと、グラハムを見上げた。
「夜明けまで、まだ時間はある」
絞り出すように/自分に言い聞かせるように、刹那は言った。グラハムの翠緑の瞳が大きく見開かれる。
今はまだ、夢から覚める時間ではない――その意味を込めて彼を見据えれば、グラハムの口元が戦慄いた。
安堵したように穏やかな笑みを浮かべたグラハムを見て、刹那も頬を緩ませる。
この先に待ち受ける運命は、きっと、悲しみに満ちている。それを知っていて、自分たちは手を取ることを選んだ。その選択に後悔はない。
刹那は迷うことなく、グラハムから差し出された手を取った。グラハムもゆるりと目を細める。翠緑から注がれるのは、惜しみない愛情。
(ああ、なんて愛おしいのだろう)
刹那は静かに目を細めた。
彼を幸せにしたいと思っていたのに、気づけば刹那の側だけが幸福になっているような気がする。人を幸せにするというのは難しい。
グラハムが微笑む姿を見る度に、彼も幸せであってくれるのではないかと思うのだ。そんなこと、あるはずがないのに。
そうあってほしい、と、刹那はひっそりと祈る。意気揚々と部屋へエスコートするグラハムの背中と横顔を眺めながら。
◇
「夢から醒めるなら、今のうちだぞ? 少女」
酷く切羽詰った表情を浮かべ、グラハムは己の襟元からネクタイを引き抜いた。2人分の重さを受けたベッドのスプリングが軋む。普段は眩い宝玉のように輝く翠緑の瞳が、獣のような凶暴さを宿していた。
刹那を求めてやまぬのだと、その眼差しは訴えている。男女交際に疎い刹那であるが、このまま「仲良くお泊り」だけで済むとは思っていなかった。それを期待してなかったのかと問われると、どう反応していいのかはわからないが。
逃げてもいいとグラハムは言う。部屋に入って早々に刹那の唇を奪った程我慢弱い男ではあるが、彼はきちんと逃げ道を作ってくれていた。刹那が拒否すれば、彼は即座に自分を解放するだろう。そうやって、自分たちの夢に終止符を打つ。
けれども。
「言ったはずだ。……『夜明けまで、まだ時間はある』」
刹那はまっすぐにグラハムを見返した。何をどうすればいいのかなんて全然わからないが、それが刹那の本心である。
伸ばした手がグラハムの顔に触れる。いつかのときと同じように彼の頬を撫でれば、グラハムは泣き出しそうな笑みを浮かべた。
また、口を塞がれた。ん、と、鼻にかかったような呼吸が漏れる。貪るような口づけを何度か交わした後、彼は掠れた声で問いかけてきた。
「ときに少女よ。キミは、好意を寄せる異性に服を贈ることが何を意味しているか、考えたことはあるかね?」
「知らない。……あんた、さっきも同じこと訊かなかったか?」
「そうだな」
グラハムはくつりと笑った。刹那は怪訝そうな表情を浮かべ、問い返す。
「それが、どうしたんだ?」
「……『その服を脱がせたい』ということだそうだ。丁度、こういうことだよ」
グラハムの腕が刹那の背中に回される。ホワイトシルバーのストールが肩から外れ、ベッドを伝うようにして床に落ちた。外の外気にさらされ、肌寒さに身を震わせる。次の瞬間、グラハムの手が肩に触れた。
酷く熱を持った手に、先程とは別の意味で体が震えた。は、と、弱々しく刹那は息を吐く。次の瞬間、ファスナーが下がる音が聞こえた。ビスチェ形態のイブニングドレスは、ファスナーで着替えるタイプのものだ。
脱がせたいというのはそういうことか。意識しただけで、頭が沸騰してしまったかのような気分になる。いっぱいいっぱいの刹那を見て、グラハムは手を止めた。不安そうに表情が曇る。余裕なんてないくせに、それでも奴は刹那を気遣っていた。
刹那は口元を緩めた。その気遣いが、その優しさが、温かさが染み渡っていく。
言葉の代わり/グラハムが行動で示したように、こちらも行動で示す。
急に動いたせいか、刹那からの口づけは、半ばぶつかるような形になってしまった。驚いたように固まったグラハムは、ややあって、嬉しそうに目を細めた。
「……あえて言おう、刹那。――私はもう、止まらないぞ」
獣の目に戻ったグラハムは、再び刹那に口づけた。こういうときも、刹那はグラハムに振り回されっぱなしである。
それがやや癪であることは確かだが、嫌ではないのも本心であった。もう、自分たちは止まらない。止まれないし、止めれない。
夢に溺れていく中で、刹那はぼんやりとそう考えていた。じきに、考えている余裕もなくなったが。
そうして、自分たちは。
長い、長い間、一緒に過ごしたのだった。
◆
夢を見た。
あたりは薄暗くて、けれど、長らく慣れ親しんできた気配に顔を上げる。薄闇の中でも映える金髪と翠緑は、紛れもないグラハム・エーカーのものだ。
彼の眼差しは、言葉にしない代わりとでも言わんばかりに、刹那への慈しみに満ちていた。蕩けてしまいそうな微笑を浮かべ、グラハムは刹那の髪を梳く。
理由は分からないが、体がだるい。けれどどうしてだか、温かいもので満たされているような心地になる。母親の腕の中にいるかのように、刹那は安心していた。
「まだ、夢から醒める時間ではないよ、刹那」
こちらを労わるような響きに、刹那はぼんやりと瞬きする。ああ、こいつも気遣いができたんだな、と、馬鹿なことを考えた。
グラハムは刹那の髪を梳いていた。心なしか、何かを楽しんでいるように見える。何が楽しいのかと問う気力は、刹那にはなかった。
相手が上機嫌ならば、それで充分だ。刹那はゆるりと目を細めた。それと同じタイミングで、眠気が差してくる。
意識を落とすにはまだ早い。どうしてだかはわからないが、刹那には予感があった。まどろみに沈みながらも、懸命に意識を留まらせる。
グラハムが何かを言っていた。刹那に語りかけているかのようでもあるし、独白のようにも聞こえる。聞き逃してしまうのは惜しい気がした。
「いつだったか、キミは言ったな。『結局この手は、何かを壊すことしかできない』、『
グラハムが微笑む気配がした。
彼の表情は、うすぼんやりとしか伺えない。
「それは杞憂というものだ。……心配無用、私は既に幸せだよ。このまま、永遠にまどろんでいたいくらいに」
けれども夢は醒めるものだ。グラハムだって、それを承知でここにいたのではないのか。声に出せない代わりに、刹那は眼差しで訴える。
刹那の感情が伝わったかのように、「失礼」と、申し訳なさそうな声がする。眉をハの字に曲げて苦笑するグラハムの顔が見えたような気がした。
彼はしばらく刹那の髪を梳いたり、額や頬をかすめるようなキスを落としたり、頬に触れたりと好き放題やっていた。刹那も黙って好きにさせていた。
ややあって、グラハムは口を開く。
「『永遠よりも長い時間の中で切り取られた、一瞬よりも短い時間』。
一言一言、噛みしめるかのような響きを宿して。
「その名前の通りだったよ。私は、永遠を見たんだ。キミという存在……そして、キミと過ごした
もう少し。もう少しだけ。
あと1秒でも長く、彼の声を聞いていたい。
「たとえこの夢が終わって、目醒めた先にある現実に過酷な運命が待ち受けていようとも。積み重ねてきた
刹那の願いも空しく、意識は泥沼に引きずり込まれるようにして闇へと落ちていく。
低く心地よい声が言葉を奏でる様は、まるで子守唄のようだった。
***
そうして、夢から醒めた後で。
刹那とグラハムは、互いに背中を向けて歩きだす。
運命の歯車は、もう止まらない。
夜明けの鐘は鳴らされる。天使の落日は、目前に迫っていた。
【参考および参照】
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『【楽天市場】Shopping is Entertainment! : インターネット最大級の通信販売、通販オンラインショッピングコミュニティ』より、『ふんわりラメショール』、『フェザーサテンヘッドドレス コサージュ ヘアアクセ 』(デザインのみ)