大丈夫だ、問題しかないから。-Blue trajectory- <1st Season> 作:白鷺 葵
決戦の日が来た。端末の日付を見て、クーゴは重々しく息を吐いた。答えは決まっているが、移動中だとそれを考えては不安になってしまう。
時間というものはやっかいで、無ければ無いで大変なのだが、あればあったで困りものだ。人間というものは本当に厄介な生き物である。
答えを出したにも関わらず、時間が経過するとまたウジウジ悩んでしまう。それでも、クーゴは答えを変えるつもりはない。
クーゴが本当の意味で恐れているのは、『今まで』を失うことだ。『エトワール』や少女、およびグラハムと過ごす日々が終わってしまうことだ。
自分やグラハムの出す答えと、『エトワール』や少女が出すであろう答えによっては、その日々は永遠に失われることになるだろう。
日本へ向かう飛行機の中は、空席が見当たらない。日本旅行客や日本へ戻る人々で埋め尽くされている。日本に思いを馳せる者、ビジネス関連のことで端末を操作する者等、様々であった。
「しかし、お前もお前で、決着をつけようとしてたとは思わなかったよ」
「おまけに、同じ日に同じ国の同じ街が待ち合わせ場所に指定されているともな」
クーゴの隣の席に座っていたのは、礼服用の黒いスーツに身を包んだグラハム・エーカーその人であった。AEUイナクトのお披露目会で着ていたスーツとは根本的なもの――主に素材やブランド名――が違う。彼もまた、クーゴと同じ意味の『最終決戦』を迎えようとしている。
そのはずなのだが、クーゴの経験則と色眼鏡のせいか、どこからどう見ても『恋人にプロポーズをしに行く男』にしか見えない。そもそも彼は、彼女と恋人関係だったのだろうか? つがいのお守りを贈りあったり、誕生日プレゼントを贈りあったりしていた点からすれば『事実上』と言えそうではあるが。
今までのやり取りを思い返すが、グラハムが少女にちょっかいをかけるのはいつものことであった。熱烈なラブコールを贈っていたのは事実であった。最初のうちは嫌がっていた少女が、顔を真っ赤にして震えながらも、彼の告白に応え始めたのはいつからだったか。
そこまで考えてクーゴは気づいた。恋人同士という関係性が、グラハムと少女の間に成立してしまっていたことに。
明確な話を聞いたわけでもないし見たわけでもないけれど、でも、成立はしている。2人の間には、確かな絆が存在していた。
おかしなところなんて何もない。ただ、そのプロセスが色々とアレだっただけで、世間一般的に見れば何もおかしくなかった。
おかしいのは一体何だろう。クーゴは真面目に考えてみたが、答えは出ない。
考えれば考えるほど頭が痛くなってきた。そのうちクーゴは考えるのを止めて、目を覆う。
「……待機時間や移動時間って、こんなに苦痛だったんだな」
「違いない」
クーゴの零した言葉に従うように、グラハムが頷いた。翠緑の瞳は、どこか遠くに向けられている。
青い空の下に広がる雲海をかき分けるようにして、飛行機が着陸態勢を取った。機内のアナウンスが鳴り響く。
覚悟はできた。前を向いて、かけがえのない人々と向き合いに行く。クーゴはシートベルトを確認しながら、大きく息を吐いた。
*
グラハムと別れて、クーゴは待ち合わせ場所にたどり着いた。日本の繁華街にある、小さな喫茶店。店の前で佇む女性を見つけ、クーゴは足を速める。
ペールグリーンの長い髪を簪でハーフトップに束ねた『エトワール』。彼女は白いレースが編み込まれたハイネックノースリーブの上着を着て、水色から空色グラデーションのマキシスカートを穿いていた。
彼女はクーゴが来たことに気づいたようで、少しだけ固い笑みを浮かべた。何かを覚悟したような横顔。『エトワール』もクーゴと同じように、今回の顔合わせは“決着”をつけることになると気づいていたようだった。
「それじゃあ、店内に行きましょうか」
「そうだな。立ち話も何だし」
『エトワール』に促され、クーゴは喫茶店へと足を踏み入れた。店内は木材を多く使っているためか、とても暖かい印象を受ける。
お昼より早い時間帯ではあるが、少し早いランチタイムや休憩等で利用している客が多いのだろう。特に今日は休日だ、賑わうのも当然だと言えた。
「よく来たな、俗物め。迎撃する!」
「その言葉使いはダメだって言ってるじゃないですか! 銃をしまってください!」
次の瞬間、赤い髪の女性店員からいきなり銃を突き付けられた。反射的にクーゴは無手で構えるが、彼女の攻撃は水色の髪の女性店員によって阻まれる。
店員が客に攻撃を仕掛けようとしていたのに、客の反応は薄かった。反応があったとしても、そこに驚きや困惑はない。皆、いつものことだと流している。
むしろ名物として楽しんでいる節もあった。客の大半が常連のようで、客同士や店員同士も顔見知りらしい。BGMと相まって、和やかな雰囲気が店内に漂っている。
「ハルノは相変わらずだな……」
「大丈夫だハルノ。そういう路線だって人気がある」
「ありがとうございます、悠さん。この調子で頑張ります」
カウンター席に座っていた緑の髪の少年が遠い目をし、茶髪の青年が赤い髪の女性をフォローしていたのが見えた。
水色の髪の女性が案内してくれた席は、店内でも奥まった場所にあった。壁際の席であることも相まって、一種の個室みたいになっている。
ここなら、話をするのにうってつけだろう。人に知られたくないことなら、尚更だ。
クーゴと『エトワール』は向かい合うようにして席に座った。お互いがお互いから顔を逸らさない。周囲の明るい話し声やBGMが遠く響く。2人の間には沈黙が広がっていた。
何を言えばいいだろうか。話題の切り出し方が分からない。気づいたら、クーゴの手の平が汗まみれになっていた。もう、本当にどうすればいいだろうか。
ちらりと彼女を伺えば、『エトワール』もクーゴを伺い見ていた。互いの身長差は9cmであるが、酷く威圧感と言うか、何と言うか、異様な空気が漂っている。
「…………」
「…………」
沈黙。
覚悟は決めたが、やはり、怖いものは怖い。喉がカラカラになってきたので、振り払うようにしてお冷に手を伸ばした。一気に飲み干す。それでも、焦燥と渇きをやり過ごすことはできなかった。
クーゴは深呼吸した。いつぞやの出来事で『エトワール』の心に触れたことを思い出す。あのとき触れた温かな光は、クーゴが信じ、救われてきた『人の心の光』そのものだ。あの輝きには、一切の嘘偽りはない。
それでも、逃げたいと心が叫んでいる。逃げて、逃げて、逃げて、そのまま逃げ延びてしまいたいと。弱い自分が悲鳴を上げていた。
クーゴはもう一度深呼吸する。『エトワール』が持っている心の輝きを信じたい。それを信じると、確かに選んだのだ。
運命に向き合う。運命を受け入れる。だけど決して諦めない――それが、クーゴの出した『答え』であり、『決着』なのだから。
「……俺は、キミを信じるよ」
絞り出すようにして、クーゴは言葉を紡いだ。言ってしまえば、何てことはない言葉だった。言えなくて悩んでいた自分が馬鹿らしくなる程に。
『エトワール』は大きく目を見開く。祈るように組まれていた彼女の手が、かすかに震える。紫苑の瞳は、まっすぐクーゴに向けられていた。
「いいんですか?」
『エトワール』の問いに、クーゴは頷いた。
「キミがたとえ何であっても変わらない。すべてを知った上で、俺はキミを信じる」
『エトワール』は、震える声でクーゴに問うた。
「私を捕まえないんですか?」
「ここにいるのは、ただの一般人だよ。ユニオン軍所属の中尉でもなく、ソレスタルビーイングに属するガンダムのパイロットでもない。……だから、その話は無意味だ」
己の答えを静かに告げて、クーゴは『エトワール』の手に自分の手を重ねた。
彼女の肌は雪のように白いけれど、その手には温もりが通っている。いつぞや手を重ねたときと同じだ。
「キミも、そのつもりでここに来たんだろう?」
「……そうですね。そのつもりで、ここに来ました」
『エトワール』は柔らかく微笑んだ。いつもと変わらない、春を思わせるような笑みだった。彼女の笑顔につられて、クーゴも微笑む。
甘いと言われても、馬鹿にされても、クーゴはこの選択を後悔しないと決めたのだ。『エトワール』と出会ったことも、『エトワール』と笑いあったことも。
いずれ、自分たちは空/
そのとき、自分は。
「貴方のままでいてください。私を信じ、私が信じた、貴方のままで」
『エトワール』は静かに語った。紫の瞳は、まっすぐクーゴを映し出している。その言葉に込められた意味は、『エトワール』から『夜鷹』へ/女性からクーゴへ向けられた想い。
彼女は言っている。歌い手仲間で友人である『夜鷹』として、ユニオン軍に所属するフラッグファイターであるクーゴ・ハガネとして、『エトワール』および女性の前に立っていて欲しい、と。
それが女性の願い。そうして、彼女自身も“そう”あること――それが『エトワール』の決意なのだ。クーゴも、彼女の決意に応える。
約束する、と宣言すれば、『エトワール』は嬉しそうに微笑んだ。花が満開になったような笑みに、心が温かくなった。
自分たちは決着をつけた。その事実を噛みしめた途端、クーゴの胃が大音量で悲鳴を上げた。『エトワール』がゆるりと目を細める。
バツが悪くなり、クーゴは懐から懐中時計を取り出して時間を確認する。丁度お昼だ、腹が減るのは当然だと言えよう。
何か食べるかと『エトワール』に問えば、彼女は嬉しそうに頷いてメニューを確認する。クーゴもそれに続いて自分の食べ物を選んだ。
店員に注文する。お冷のお代わりを継ぎ足して、青い髪の女店員はカウンターへと去っていった。心なしか、彼女も嬉しそうにしていたように思う。
「……なあ。キミは、既に知ってるとは思うんだが」
料理が来るまでの間、手持無沙汰だ。
クーゴは『エトワール』に対して、囁くように言葉を紡ぐ。
「クーゴ。クーゴ・ハガネっていうんだ、俺の名前」
『エトワール』が目を瞬かせる。
「どうしたんですか? 急に」
「キミに、覚えていて欲しいと思ったんだ」
クーゴの言葉を聞いた『エトワール』は、紫の瞳を大きく見開く。そして、嬉しそうに微笑んでくれた。
彼女は何度もクーゴの名前を復唱する。とても嬉しそうなので、手帳を引っ張り出し、紙に名前を書いて手渡す。
昔、グラハムに名前を教えたとき、漢字でクーゴの名前を書いて意味を説明したら目を輝かせていたことを思い出したからだろう。
『エトワール』はきらきら目を輝かせ、愛おしいものを見るようにメモを抱える。彼女の頬が薔薇色に染まっていた。
丁度いいタイミングで料理が運ばれてきた。出来立てのためか、湯気が漂う。
2人で料理を食べ進めていたときだった。
不意に、『エトワール』が口を開く。
「……イデアです。イデア・クピディターズ」
ぽつり、と。『エトワール』――イデア・クピディターズは、囁くようにそう言った。
「それが、キミの名前か」
「ええ。貴方に呼んでほしい……いいえ、覚えていて欲しい名前です」
意味深なイデアの言葉に、名乗った名前が本名でないことを悟る。しかし、それでも充分だとクーゴは思った。
名前を名乗ろうとせず、ハンドルネームで呼び合っていたことから比べると、相当大躍進した方だろう。
イデアが自らの名を名乗ったことこそ、クーゴを信じている証なのだ。それが嬉しくて、照れくさくて、クーゴはソフトドリンクを呷った。
カウンター席の方が騒がしい。茶髪の少女店員が、店の裏側から飛び出してきた。服装は乱れていて、焦っていたことは目に見えて明らかである。少女は他の店員たちや常連たちに対して、しきりに何かを尋ねた後、安心したように微笑んだ。そこへ黒髪の青年が来店し、面々の様子を見回しては首を傾げる。何を言っているかはわからないが、とても楽しそうだった。
今頃、グラハムはどうなっているだろうか。
彼なら大丈夫だとは思うのだが、だからこそ、気になった。
◆
赤い瞳に揺れるのは、絶望。
歪んだ瞳から零れ落ちた涙が何を意味するのか、グラハムは本能的に気づいてしまった。
女性は俯いたまま、何も言わない。口を真一文字に結んだまま、胸に渦巻く想いを口に出そうとはしなかった。
「キミは……知っているのか?」
グラハムの問いに、女性は肩を震わせた。普段は冷静沈着、年齢以上に大人びていて、凛々しい横顔を見せる『彼女』からは全然連想できない。年半ばも行かぬ少女のような脆さがあった。自分が愛した少女と酷似している。
時空も年代も所属も違う連合集団。グラハムと『彼女』が所属する部隊のことを考えると、“そういうこと”が起こってしかるべきだろう。実際、グラハムたちが所属している部隊の戦艦はシャ□・アズナ□ルを艦長にして、副官にナ□イ・ミゲ□、操舵にララ□・スン、通信に□マーン・カーン、整備にク□ス・パラヤ、ゲストとしてクワ□ロ・バ□ーナというそうそうたる布陣である。
友人に「こんなにも
閑話休題。
『彼女』の様子を見て、グラハムは確信した。自分はいつか、少し先の未来で、愛してやまない少女にそんな顔をさせるのだ、と。
グラハムは、ゆっくりと『彼女』の頬へと手を伸ばした。涙をすくい取る度に、『彼女』は悲しそうに目を伏せる。傷つきボロボロになった心に触れたような気がした。
「止めてくれ」
『彼女』は慌てた様子で――けれどもやんわりとした手つきで、グラハムの手を押しのけた。
「俺はあんたに、そうされる資格はない」
悲痛に満ちた赤い瞳は、『彼女』が過去に起こした/少女が未来で起こすであろう出来事を思い出しているかのようだった。『彼女』は瞼と口を閉ざす。閉じた貝のような頑丈さに、語らないことを選んだ『彼女』の強さを感じ取る。
そこに『彼女』と少女の共通点を見つけて、グラハムは苦笑した。感慨深さと、諦めにも似た境地と、湧き上がってくる愛おしさからだった。その強さも、脆さも、優しさも、頑固さも――『彼女』/少女にまつわるすべてを愛したことを、改めて思い出す。
振り払われても尚、グラハムは『彼女』へ手を伸ばした。自分に対する優先順位が低いところは、大人になっても変わらなかったらしい。『彼女』が世界を想ったように、グラハムが『彼女』を想っていることを気づいてほしかった。未来の『自分』は、その努力を怠ったのだろうか。
そんなことを考えていたら、『彼女』はふるふる首を振った。そうじゃない、と、はっきり否定する。
お前のせいではないんだ、と、『彼女』は言いきった。お前は悪くない、と、語り掛けるような調子で主張する。
「あんたは最後まで、俺を助けてくれた。人類のために、対話のために、『未来への水先案内人』になってくれた。……愛していると、言ってくれた」
だからグラハムは悪くないのだ、と『彼女』は言う。大人になっても尚、『彼女』は優しい。
自分の思いの丈をぶつけることより、グラハムを傷つけないことを優先しているようだった。
もう少し、グラハムに八つ当たりしてくれてもいいのに。そういう意味での信頼は低いようだ。
友人から「落ち着きがないから子どもっぽく見られる」とよく言われる。「だから、頼っちゃいけない大人の代表格に堂々殿堂入りしてしまう」のだと。
頼れない相手だと思われるのは心外である。遠慮されてしまうのも悲しいし、『彼女』に対して何もしてやれないという無力感に苛まれる。けれどもタチが悪いことに、『彼女』が他ならぬグラハムのために心を砕いているという光景に、暗い喜びを覚えてしまうのだ。己は変な趣味を持ってしまったらしい。
システムで再現された仮面の男が、少女と対峙して早々「貴様は歪んでいる」と言われたことを思い出した。少女の言葉通りである。それを見ていた『彼女』もまた、遠い目をしながら敵MSを倒していた。グラハムもいつかはああなるのか、とでも言いたげな眼差しであった。正直、ちょっと悩んでいる。
その話題は棚に上げつつ、グラハムは女性を抱き寄せた。かすかな抵抗を感じたが、そのすべてを封じ込めるように力を込める。『彼女』がひゅっと息をのむ音が聞こえた。
驚くことなど何もない。『彼女』がグラハムを気遣い慮ってくれているのと同じように、グラハムも『彼女』に寄り添いたいと考えている。これはひとえに、『愛』なのだ。
「ふふ」
不謹慎だとは百も承知。しかし、どうしても笑みを堪えることができなかった。
『彼女』が咎めるような眼差しでグラハムを見上げる。失礼、とグラハムは苦笑した。
相手を不快にさせるつもりは微塵もなかった。ただ純粋に、幸せだと思ったから笑っただけである。
「……幸せだと、思ったんだ」
嬉しくて仕方ないはずなのに、グラハムの声は情けないくらい震えていた。27歳とは思えない程、頼りない響きである。
「私は後悔していない。おそらく、キミの知る『グラハム』も、後悔なんてしていなかったと思う」
それでも。
それでも、『彼女』に伝えたいことがあった。
「キミと出逢ったことにも、キミを好きになったことも、キミと戦うことになった運命も、宿命も、すべてを受け入れる。前にも言っただろう? 『キミと私は、運命の赤い糸で繋がっている』と」
「覚えている。あんたの言うことは一々派手だったからな。忘れるはずがない」
「光栄の極みだと言わせてもらおう!」
グラハムは努めて明るい声を出しながら、『彼女』を抱きしめる手に力を込める。
「どれだけのガンダムが現れようと、私の心を射止めたのはキミ……。美しき光と共に、我が眼前に降り立ったキミだ」
グラハムは『彼女』に告げた。
「誰が何を言おうとも、キミは確かに私の“運命の相手”だよ。……過去も、今も、そしてきっと――
どこまでも真摯な眼差しで/痛々しいほどの笑顔で/歯に浮くような台詞で/一切の冗談などない響きで、グラハムは『彼女』への愛を紡ぐ。
女性はそれを否定しなかった。照れ隠しの暴力も飛んでこない。ただ、グラハムの言葉に応えるように、『彼女』は背中に手を回し、顔を埋めてくれた。
ようやく観念してくれたらしい。『彼女』は声を殺しながら泣いていた。それでいい、とグラハムは笑う。自分もまた、涙で視界が滲んでいることは言えそうになかった。
この祈りが、届けばいいのに。『彼女』をあやすように背中を撫でながら、グラハムは息を吐く。
『彼女』はこんなにも世界を想っているというのに。
世界はどうしても、『彼女』に優しくしてはくれなかった。
◇
「この世界に、神なんていない」
少女はそう言って、ワンピースの裾を握り締めた。少女の華奢な体からは、拒絶と抑圧の感情が漂っている。
かすかに体を戦慄かせ、少女はぽつぽつと言葉を続ける。体の奥底から絞り出すような声だった。
「俺は、知っていたんだ。最初から。……こうなることも、わかっていた」
赤い瞳に揺れるのは、絶望。
歪んだ瞳から零れ落ちた涙が何を意味するのか、グラハムは本能的に気づいてしまった。
少女の頬へと手を伸ばしす。涙をすくい取る度に、少女は悲しそうに目を伏せる。
傷つきボロボロになった心に触れたような気がして、情けないことに言葉が詰まってしまう。
こんなとき、何と言えばいいのだろう。何と言葉をかければ、少女の痛みを楽にしてやれるだろうか。大人のくせに、何も浮かんでこなかった。
グラハムにできることは、ただ、彼女の愛称で呼びかけることだけ。この少女の名前を知っていたら、少しは違ったかもしれない。
「少女」
「止めてくれ」
少女は慌てた様子で――けれどもやんわりとした手つきで、グラハムの手を押しのけた。
「俺は、あんたにそうされる資格はない」
自身に罰を科すように、少女はきつく目を閉じる。ただひたすら己の咎を責め続ける少女の姿は、あまりにも痛々しかった。自分に対する優先順位が低い傾向があるとは思っていたけれど、それがこの少女のあり方に強く関係しているように思えた。
グラハムは彼女を運命の相手だと信じて疑わないし、彼女のことを心から愛している。だけれども、グラハムは、この少女のことを殆ど知らなかった。名前も、過去も、生い立ちも、知らないことが多すぎる。罰が下されるのを待つかのような少女の佇まいに、胸が苦しくなった。
少女は相変わらず、悲鳴を上げる心を抑え込めて、ただ静かに泣いている。自分の思いの丈をぶつけることよりも、グラハムを傷つけないことを優先しているかのようだった。もう少し、グラハムに八つ当たりしてくれてもいいのに。それくらいの甲斐性は持っているつもりなのだが――そこまで考えて、グラハムは否定する。
現に、今だって。
グラハムはすべてを知っている。にも関わらず、心が「理解してはいけない、したくない」と駄々をこねていた。
いつぞや固めた決意の安っぽさに――あるいは己の女々しさに反吐が出る。目の前の少女は、その痛みと向き合おうとしているのに。
もはや手遅れだ、と、赤銅の瞳が嘆いていた。
破滅なんて見えていたのに、と、赤銅の瞳が叫んでいた。
こんなにも愛してしまった、と、赤銅の瞳が悲鳴を上げていた。
嘘偽りない心が見える。ボロボロになりながらも尚、手放したくないと願い続けて、ひっそりと抱ええこんでいた想いが。己を破滅に導くと知っても尚、失いたくないと祈り続けていた想いが。
(キミは……)
信じる
それは、少女に対して惜しみなく好意を手渡す男の心だった。愛していると、好きだと、真正面からぶつかってきた男の心だった。
幸せになる資格がないと悩みながらも、それでも、自分に惜しみなく愛を手渡す相手を幸せにしたいと願った少女の心に触れる。
どうしようもなく、泣きたくなった。
「やはり俺には、赦されるはずがなかったんだ。ありきたりの幸せなんて」
ひどく震えた声だった。
けれど、その言葉は確かに、グラハムの耳/心を強く打つ。
「結局この手は、何かを壊すことしかできない。……あんたを幸せにすることなんて、できるはずがなかった」
少女は口を真一文字に結ぶ。それ以上、胸に渦巻く想いを口に出そうとはしなかった。
(強いな、キミは)
痛々しいくらいの強さが眩くて、哀しくて、グラハムは目を伏せる。自分はどこかで、今の彼女と同じ強さを持っていた
感慨深さと、諦めにも似た境地と、湧き上がってくる愛おしさで心が満ちる。その強さも、脆さも、優しさも、頑固さも――少女にまつわるすべてを愛したことを、思い出す。
この少女は、決して
グラハムは少女を抱き寄せた。かすかな抵抗を感じたが、そのすべてを封じ込めるように力を込める。少女がひゅっと息をのむ音が聞こえた。
「ふふ」
不謹慎だとは百も承知。しかし、どうしても笑みを堪えることができなかった。
少女が咎めるような眼差しでグラハムを見上げる。失礼、とグラハムは苦笑した。
「……幸せだと、思ったんだ。キミに、こんなにも想ってもらえているとは」
嬉しくて仕方ないはずなのに、グラハムの声は情けないくらい震えていた。27歳とは思えない程、頼りない響きである。
「私は後悔していないよ。キミと出逢ったことにも、キミを好きになったことも、キミと戦うであろう運命も、すべてを受け入れる」
先程、いたいけな少女が、真実の痛みと苦しみに真正面から対峙していたのと同じように。
躊躇い続けていた覚悟はようやく、本当の意味で固まった。そうなってしまえば清々しいものである。
グラハムは少女の頭を撫でながら、ゆっくりと言葉を続けた。
「前にも言っただろう? 『キミと私は、運命の赤い糸で繋がっている』と」
「覚えている。あんたの言うことは一々派手だったからな。忘れるはずがない」
「光栄の極みだと言わせてもらおう!」
グラハムは努めて明るい声を出しながら、少女を抱きしめる手に力を込める。
「誰が何を言おうとも、キミは確かに私の“運命の相手”だよ。……過去も、今も、そしてきっと――
どこまでも真摯な眼差しで/痛々しいほどの笑顔で/歯に浮くような台詞で/一切の冗談などない響きで、グラハムは彼女への愛を紡ぐ。
少女はそれを否定しなかった。照れ隠しの暴力も飛んでこない。ただ、グラハムの言葉に応えるように、少女は背中に手を回し、顔を埋めてくれた。
ようやく観念してくれたらしい。少女は声を殺しながら泣いていた。それでいい、とグラハムは笑う。自分もまた、涙で視界が滲んでいることは言えそうになかった。
この祈りが、届けばいいのに。
少女をあやすように背中を撫でながら、グラハムは息を吐く。
キミが好きだ、と。
告げた声は、情けない程震えてしまっていた。
*
空の色が目に染みる。
遠くから、人々の笑い声が響いた。公園の向かい側にある大きな広場で、大規模な催し物が行われている。
普段は人で賑わう公園だが、広場の方へ人が流れてしまったためか、あまり人を見かけなかった。
「落ち着いたか?」
「ああ。すまない」
グラハムは少女にハンカチを差し出す。少女はそれを受け取り、そっと目に当てた。泣き腫らしたせいか、目元がほんのり赤くなっている。先程の痛々しい表情と比べれば、幾分か柔らかくなったように思う。
いつか、この少女が穏やかに笑える日が来ればいい。願わくば、その笑みを浮かべる相手の中に、グラハムがいてくれたら嬉しいのだが。高望みはしないと決めていたのに、人間とは変わる生き物のようだ。
昔のグラハムだったら、そんな自分を弱いと非難しただろう。自分の弱さを振り払い、忘れようとした結果が今までの無茶だったのかもしれない。そう考えると、友人や他の面々にはかなり苦労を掛けたと言えよう。
しかし、おそらく、その無茶は今後も続くことは確定事項だ。
運命を受け入れた上で、それと対峙することを選んだのだから。
グラハムと少女は、近くのベンチに腰掛けた。穏やかな時間が過ぎていく。ふと時計を見れば、ランチタイムに突入しかけていた。
「そろそろランチの時間だな。今日は私が奢ろう。どうする?」
何を食べるのかを少女に尋ねる。
少女は赤い瞳を瞬かせた後、広場の出店に視線を向けた。
ホットドックやクレープ、カルメ焼きやじゃがいもにバターを載せたもの、スティック状になったワッフルやたこ焼き、タピオカジュースやチョコバナナ、ベビーカステラや肉巻きおにぎりなど、沢山の種類が並んでいた。催し物の熱気も相まって、どれも美味しそうに見えてくる。
「お祭りの屋台の料理が美味しいのは、祭りの空気の中で食べるからだ」と、クーゴが強い口調で言っていたことを思い出す。事実、数年前に日本の夏祭りに参加して食べた屋台の料理は本当に美味しかった。少女の赤い瞳は、物珍しそうに出店を見つめていた。
レストランで食べようかと思っていたが、たまにはこういう趣向も悪くない。グラハムは頷き、少女をエスコートするため手を差し伸べた。少女は躊躇うように身を縮ませたが、グラハムの様子を見て、安堵したように表情を緩める。おずおずと手を取ってくれた。
グラハムが少女の手を引いて、一歩踏み出そうとしたときだった。
「刹那・F・セイエイ」
囁くような声色で、少女ははっきりとそう言った。
「刹那……それが、キミの名前なのか?」
「ああ」
グラハムの問いかけに少女――刹那・F・セイエイは頷く。おそらく、その名前も偽名なのだろう。グラハムは直感していた。
しかし、先程のことを鑑みるに、その名を告げることでさえ勇気が要ったはずだ。グラハムはふっと表情を緩め、微笑む。
刹那、と、少女の名を呼んだ。刹那も表情を緩める。「どんな綴りと字なのか、教えてほしい」と頼んで手帳とペンを差し出せば、刹那はさらさらと字を書く。
「『永遠よりも長い時間の中で切り取られた、一瞬よりも短い時間』」
「え」
「そういう意味、なのだそうだ。俺の名前は」
『刹那・F・セイエイ』と書かれた紙を差し出して、刹那は言った。そうか、と、グラハムも相槌を打つ。それきり会話は途切れてしまったけれど、その沈黙もまた心地よかった。
グラハムは刹那と一緒に、広場へ向かって歩き出した。近づけば近づく程、催し物の熱気が伝わってくる。祭り囃子を思わせるようなメロディが聞こえてきた。
そのときだった。刹那がびくりと肩をすくませる。彼女の視線を辿れば、茶髪の少年と金髪の少女がこちらにやって来たところだった。どうやら、刹那の知り合いらしい。
2人組は、少年の方が沙慈・クロスロードで、少女の方がルイス・ハレヴィという名前だった。刹那とは、所謂お隣さん同士および顔見知りだという。
「この前のムハラビーヤとバスブーサが美味しかった」だの、「お礼に、今度はスペインのお菓子をふるまう」だの、近所づきあいは良好らしい。
照れたように俯く刹那の横顔は、年相応の少女らしさが伺える。知らず知らずのうちに、グラハムは頬を緩ませていた。
しばし談笑した後、沙慈とルイスはグラハムの存在に気づいたらしい。特にルイスは勘ぐったらしく、「ははーん」と値踏みするような笑みを浮かべた。
そんなガールフレンドの変化に気づいていないのか、沙慈は能天気に刹那へ問いかける。「あの人は誰?」という質問に、刹那は更に顔を赤らめて視線を泳がせ始めた。
質問に答えない刹那に業を煮やしたのか、沙慈はグラハムの方に向き直った。「失礼ですが」と謙虚に前置きをしてから、グラハムに問いかけてきた。
「どちらさまですか? 刹那のお知り合いみたいですが……」
彼の問いかけを聞いたグラハムは、待ってましたと言わんばかりに満面の笑みを浮かべた。
「私はグラハム・エーカー。彼女を愛してやまない男だ!」
次の瞬間、グラハムの腹に重たい一撃がクリーンヒットした。思わず呻いて身を屈める。何事かと思って見上げれば、顔を真っ赤にした刹那が拳を突き出していた。
照れ隠しの行動だろう。やっと彼女も本調子になったということか。毛を逆立てた猫みたいだ。そんな顔すら愛おしいと思う時点で、もう重傷であることは明らかだった。
沙慈が慌てて刹那を羽交い絞めにし、ルイスが目を輝かせて刹那に問いかける。刹那は羽交い絞めにされながらも、じたばた暴れていた。彼女はルイスの質問はすべて切り捨て、沙慈の拘束を振り切って、グラハムを黙らせようとする。やっぱり愛おしかったので、グラハムは頬を緩めたのだった。
◆
刹那・F・セイエイが女であること。
ソレスタルビーイングに、5人目のガンダムマイスターがいること。
5人目のマイスターの名前はイデア・クピディターズであること。
5機目ガンダムの機体名はスターゲイザーであること。
ソレスタルビーイングの仲が比較的和やかであること。
刹那・F・セイエイとグラハム・エーカーが事実上の恋人関係であること。
刹那・F・セイエイのご近所関係が比較的良好であること。
絹江・クロスロードにセキ・レイ・シロエやジョナ・マツカという調査仲間がいること。
沙慈・クロスロードとルイス・ハレヴィが結婚を前提とした恋人関係であること。
『悪の組織』という名前の技術提供会社が存在していること。
ソレスタルビーイングと対を成す組織、スターダスト・トレイマーが存在していること。
テオ・マイヤーという名の売れっ子歌手が存在していること。
アレハンドロ・コーナーの部下の人数が、1人多いこと。
チーム・トリニティに教官がいること。
リボンズ・アルマークとイノベイドたちの仲が良好であること。
青年はノブレス・アムという名前であること。
グラハム・エーカーに、年上の友人であり副官がいること。
そのフラッグファイターの名前は、クーゴ・ハガネであること。
「私の知っているものと、違う」
女は、ぽつりと呟いた。
鋭い眼差しの先には、刹那に愛を叫ぶグラハムと、彼を黙らせようと奮闘する刹那の姿があった。沙慈が刹那を止めようとし、ルイスが茶化している。
女は忌まわしいものを見るような目つきで、その景色を睨む。舌打ちし、視線を逸らした。鞄から端末を取り出し、カーソルを合わせる。数コール後、相手が出た。
「こんにちわ、
『ええ。そちらは?』
「最悪よ。最悪の極みだわ。だって――」
女は毒づきながら、電話の相手と世間話に興じたのであった。
クーゴ・ハガネの災難は続く。
【参考および参照】
『お祭りの屋台|種類・人気メニュー・珍しい…屋台マニアが厳選』より、『ホットドック』、『クレープ』、『カルメ焼き』、『じゃがバター』、『スティックワッフル』、『たこ焼き』、『タピオカジュース』、『チョコバナナ』、『ベビーカステラ』、『肉巻きおにぎり』
『COOKPAD』より、『ムハラビーヤ☆アラビアのぷるるんおやつ☆/(サイーダさま)』、『エジプトのお菓子*バスブーサ*/(maryam@LONDONさま)』
『スーパーロボット大戦Wiki』より、『刹那・F・セイエイ』