織田信奈と銀の鈴(完結)   作:ファルメール

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第07話 尾張の内乱(前編)

 

 朝靄の立ち込める尾張の林道を、三頭の馬が駆けていく。それらの馬にはそれぞれ信奈、犬千代、深鈴が乗っていた。

 

 信奈は毎朝三里(12キロメートル)程度を馬で駆けるのが日課であり、これまでは護衛として犬千代が随伴するのが常だったが、ここ最近ではそこに深鈴も加わるようになった。

 

 やや裕福ながら日本の平均的な家庭に生まれ育った深鈴に乗馬の経験などは小学生の頃、北海道に家族で旅行に行った時に牧場で一度乗った事があるぐらいだった。しかしこの時代にタイムスリップして織田家中でそれなりの地位を持つようになった以上は、馬ぐらい乗れなくては格好が付かないしいざという時に不便と考えて勝家や犬千代に指導を頼み、今では馬に乗らせては尾張一ともされる信奈にも何とかではあるが追いすがる事が出来るぐらいには上達していた。

 

 そうして手頃な広場に辿り着くと、信奈は馬を止めた。

 

「犬千代、銀鈴、ここで一休みするわよ」

 

 ひらり、と愛馬から下りる信奈。犬千代もそれに続く。二人に比べて乗馬の経験が薄い深鈴だけは、少し息を整えてから転げ落ちるようにして下馬した。

 

 どっかりと切り株に腰を下ろし、腰の瓢箪の中身をぐいっと飲み干す信奈。そして「ふう」と溜息を一つ。

 

「姫様、最近元気ない……」

 

 傍に控える犬千代はそう呟くと「何か心当たり無い?」と、深鈴に尋ねてくる。

 

 そう聞かれて深鈴は少しだけ思案顔になると、

 

「五右衛門!! 段蔵!!」

 

 直属の忍び二人を呼び出す。一秒ほどの間も開けず彼女のすぐ傍にあった影が質量を持ったように盛り上がって、二人の忍者へと変化する。

 

「ここに」

 

<只今推参>

 

 流石にこんな短い台詞では五右衛門も噛まない。一方で段蔵は、相変わらず咳一つ発さずに紙面を寄越して会話する。

 

「二人とも、しばらく私達のぐるり一丁(100メートル)に誰も近付かないように見張っていて」

 

「承知」

 

<了解した>

 

 そうして忍者達は姿を消す。二人の忍びとしての技量は、この場に居る3人の誰もが認める所。これで余人に会話を聞かれる心配は無くなった。それを確認すると、深鈴は会話を始める。

 

「ずばりお聞きしますが……信奈様は最近色々とお悩みのご様子……その原因は……信勝様……ですね?」

 

 それを聞いていた信奈の片眉が、ぴくりと動く。そして未だ無言のまま。沈黙を「続けろ」という合図と受け取った深鈴は、話を進めていく。

 

「ご存じの通り……信勝様派の家臣は、先日の美濃における入道どの救出戦での信奈様の手際の鮮やかさに仲間が次々鞍替えするのに焦り、蜂起の準備を進めています」

 

 これは信奈以下彼女の側近達の間では周知の事実であった。

 

 鞍替えした家臣の中でも特に信勝付き家老の一人である佐久間大学は未だ表面上では信勝派に属していて面従腹背の姿勢を取っており、彼を通じて情報は信奈に筒抜けとなっている。

 

 信勝派に属する家臣の詳細、人数。

 

 蜂起の日時。

 

 信奈を討ち果たす為の作戦。

 

 全てが信奈の知る所であった。

 

 これで彼等の目論見が成功する目は無くなった。故に現在信奈の心を占めているのは、蜂起を鎮圧した後の事であった。

 

 まず、如何にして織田家中最強の武将である勝家を失わずに済ませるか。彼女も信勝付きの家老という立場上、反乱が起これば共に起つ事になるだろうが、彼女を失っては今川や義龍に対抗する事は不可能となる。

 

 そしてこれが最大の懸念事項だが……信勝への処断をどうするか。

 

「信勝様は、謀反の常習犯と聞いていますが……」

 

「その度に姫様にやりこめられて、許されてる」

 

「ええ……母上が悲しむからね……だから私は許したわ」

 

 まだ先代信秀が生きていた時、自分に家督を譲れと末森の城に攻め寄せて、その結果父親を病死させる引き金を引いた時も。

 

 守山(もりやま)の城下町を焼き払った時も。

 

「でもね……今度、信勝が私に謀反したら……殺すわ」

 

 そう信奈に言われて、しかし反論の術を深鈴は持たない。犬千代も同じだ。家臣として、主君の決定には逆らえない。

 

 家中がいつまでも二つに割れたままでは外敵に向かえないという事など、自明の理として分かり切っている。となればいっそ信勝を斬って……そう考えるのは自然だ。恐らくだが信勝の方も、本人は「何も殺さなくても」と、それぐらいには弱気かも知れないが周りの家臣達が「お家の為です、泣いて斬りましょうぞ」ぐらいは言っているだろう。

 

 殺さなければ殺される。これは信奈が悪いのではなく、信勝が悪いのでもない。この人倫の乱れは乱世の宿命なのだ。と、深鈴は頭の中でそういう理屈を組み立てている。

 

 だが……全てを理屈で割り切るのも良くない。人は情無くしては生きられない。

 

『理解者であったお父上を失い、お母上には愛されず、そして今また弟まで亡くして……いや、自分の手で殺してしまったら……』

 

 恐ろしい想像が頭の中に浮かんで、深鈴は思わず唾を呑んだ。

 

 そんな事には、絶対にさせたくない。それでは如何に戦国の武門に生まれた者の宿命としても、信奈が不憫過ぎるというものだ。

 

『……かと言って、いくら弟とは言え謀反人を何度も許すのも良くない』

 

 そうなれば家中の者に示しが付かず、信勝も取り巻きの家臣も、偉そうな事を言ってはいても結局信奈は咎を犯した者を罰する事はしない。いや、出来はしないのだと付け上がり、めいめいが勝手に己の野心の命ずるままに行動するようになって、尾張は現在の信奈派・信勝派に二分されている状態が天国に思えるような百鬼夜行の世界に突入してしまう。

 

 詰まる所、深鈴の考える最善の展開は……

 

『信奈様に信勝様を殺させて、尚かつ信奈様に信勝様を殺させない……』

 

 あちらを立てればこちらが立たず。まさに無理難題。

 

『そんな事が、出来る訳が……』

 

 思い直し、一度全ての条件を整理してみる。

 

 この問題をより厳密に考えると、信奈がどんなに近しい人間であったとしても織田家の法に触れたのなら法に従って厳正に裁く所を見せる。これが肝。そうする事で織田家はぴしりと引き締まり、外敵に迎える態勢が整う。

 

 より突き詰めれば……

 

『実際に裁きが行われずとも、そうした状況になれば信奈様がその者を斬るだろうと、家臣団全員にアピールできれば良い訳よね……』

 

 この線で進めてみれば、上手く行く可能性は……

 

 その、ギリギリの妥協点を達成しうる手段はあるか? 深鈴は自分の持つ全ての札を頭の中でグチャグチャにシャッフルして組み合わせを試し、最善の役を探していく。

 

 そして「はっ」と気付いた。同時に頭の中で何か空気が循環せずに淀んでいた感覚が無くなって、スッキリとした爽やかさが取って代わる。

 

『そうだ……!!』

 

 ある、一つだけある。その針の穴のような隙間を通す術が。勿論、確実とは言えないが少なくとも可能性は見えた。現状、他に手段が無いのだからならば成功する事を信じて賭けるのみ。

 

 と、そんな思考が深鈴の中でぐるぐる回っているとは目の前の信奈も隣に座る犬千代も露知らず。「それより」と、信奈がもうこれ以上弟の事を考えるのを嫌ったのか、話題を切り替えた。

 

「問題は、どうやって被害を最小限にして謀反を鎮圧するかよ」

 

 それもまた重要である。謀反を鎮圧する事は出来てもその時信奈派の軍と信勝派の軍が共に壊滅状態となっていては、待ってましたとばかり外敵の餌食とされてしまう。両者の兵は共に尾張の兵。彼我の損害を抑えるのは絶対の条件だった。

 

「恐れながら信奈様、私に策があります……」

 

「聞いてあげるわ。言ってみなさい」

 

 主君からの許可も出た事で、深鈴は懐から地図を取り出すと地面に広げた。その地図にはいくつかの地点に赤丸で印が付けられている。これは佐久間大学から流出した情報で、信勝派が蜂起する際の作戦が行われる場所を示している。

 

 信勝派の策としては、以下のようなものだ。

 

 まず兵を本隊と別働隊の二隊に分け、信奈の所領である篠木三郷の田園地帯を信勝や勝家が率いる本隊が制圧する。

 

 すると当然ながら信奈は怒って詰問の為に城を出てくる。

 

 そこで別働隊が清洲城を制圧して、帰る城を無くした信奈を後は煮るなり焼くなり好きに料理する。

 

「彼等は信奈様を於多井川の川向こうに誘い出すつもりです。よって、私が於多井川を越えた名塚に砦を築きます」

 

「その砦には、銀鈴が立て籠もるの?」

 

 犬千代の質問に、深鈴は頷く。そしてここまで聞けば信奈にも策の輪郭が見えてきていた。

 

「砦を築くのはいつ?」

 

「彼等が挙兵する、前日に取り掛かります」

 

「っ、一日で砦を築く気!?」

 

「いくら銀鈴でも無理……!!」

 

 二人して一気に詰め寄られ、流石の深鈴も少し体を仰け反らせた。まぁ、城と言わず砦だろうが一日で築き上げるなどこの時代の人間からすれば常識の外の出来事なのだ。この反応は至って当然と言える。

 

 しかし、一方で「だが」「もしかして」と期待する心も二人の中には確かにあった。

 

 先の道三を救出する為に美濃へ出兵した時だって、義龍軍を退けたのは信奈の用兵だったがそもそも織田軍が出陣出来る状況を作ったのは五右衛門・段蔵以下乱波を多く用いた深鈴の諜報作戦によるものだった。

 

 信奈は確かに将として極めて優秀だが彼女の兵法はあくまで王道の武士の兵法。邪道である野武士・乱波の戦法には通じていない。

 

 いわば道三の救出が成ったのは信奈の手の届かない部分を深鈴が補ったからだと言えるだろう。どちらが欠けてもあの作戦は成功しなかった。

 

 ならば今回も、自分達には思いも寄らない奇策を使ってそれを為すのではないか、という期待はあった。

 

 そしてもし名塚に砦を築く事が出来たとしたら……

 

「奴等、驚いてその砦に攻撃してくるでしょうね」

 

 そうなったら、しめたものだ。

 

「分かったわ、銀鈴。全て貴女に任せる。必ず蜂起の日に砦を建てなさい」

 

「はっ!! お任せ下さい!!」

 

 そうして深鈴は深々と一礼すると、繋いであった馬に乗って信奈や犬千代に先駆け、清洲へと引き返していく。

 

 と、不意に背後にどすんと馬の尻の辺りに何かが落ちてくるような感覚が走った。この重みが何かなどは考えるまでもない。五右衛門が、自分のすぐ後ろに飛び乗ってきたのだ。

 

「銀鏡氏、密談は終わりでござるか?」

 

「ええ、これから忙しくなるわよ。その為に色々と動かないと……」

 

「承知。それで、まずは何処へ向かうでござる?」

 

「勝家どのの屋敷よ」

 

 

 

 

 

 

 

 そうして、いよいよ蜂起の日の前日。

 

 手筈通り、深鈴は用意してあった材木を名塚に運び込んで砦を築き始める。当然、この情報は放たれていた斥候から信勝派にも伝わっていたが、

 

「恐れる事はありませぬ、我等が出陣するは明日」

 

「左様、一日で砦が出来る訳がありませぬ」

 

「銀鏡の手勢は配下の食客を合わせてもおよそ五百。一息に揉み潰せば良いだけの事」

 

 と、家臣達の意見もあって日取りがずらされたり作戦が変更されたりする事もなかった。

 

 だが、殆どの者がそう考える事こそが深鈴の狙いであった。

 

 もっと早くに砦の建設に取り掛かっていれば信勝派は情報が漏れて対策を立てられている事に警戒心を強くして作戦を変更しただろうし、あるいは佐久間大学の裏切りにも気付いたかも知れない。それをさせない為の前日施行であった。

 

 ところが、この日は未明より暴風雨となった。当然、

 

「銀鏡の成り上がり者め、これでは砦も築けまい」

 

 そう、誰もが考えていた。

 

 だが実際には、既に砦は半ばまで出来上がっていた。

 

「源内!! 注文通りに仕上げてくれたわね!! 流石よ!!」

 

 雨避けに蓑(みの)を着込んだ深鈴は笠が飛ばされないように押さえつつ風の音に負けないよう大声を張り上げ、建設作業を指揮する食客の一人へと呼び掛けた。

 

「この程度は!! 大した事はありませんよ!!」

 

 と、この雨の中でも白衣を思わせる白の羽織で頑張っている源内も大声で返してくる。

 

 彼女は、先に深鈴が行った人材募集によって集まってきた食客の一人であり、軽く百年、あるいは三百年は先を行く発想・技術を買われて食客達の中でも最高の待遇を受けている者だった。

 

 源内は以前から潤沢な研究資金と恵まれた環境に物を言わせ、深鈴より注文を受けた様々な新技術の開発に取り掛かっていた。

 

 今回、一日足らずで半ばまで砦を組み上げた技術もその一つ。

 

 これは深鈴の生まれた未来ではツーバイフォー工法と呼ばれる技術であり、つまりは現地に資材を運んで一から組み立てるのではなく、あらかじめいくつかの部品の段階にまでは作っておき、現地で一気に組み立てるというものだ。もっとざっくり言うならあらかじめ材木に切り込みを入れておくプラモデル式の組み立て術だ。

 

 しかも食客達の中には城大工も居て、彼等の助力もあってより短時間で堅固な砦の建造が可能となっていた。

 

「ははっ!! まさか一日で砦が建つとは!! 流石だな、大将!!」

 

 山高帽を風に持って行かれぬように押さえながら資材を運ぶ食客の一人、森宗意軒は能面のような笑みを崩さずに褒めちぎり、

 

「…………」

 

 加藤段蔵は相変わらず無言のまま木材を運んでいく。筆談をしようにもこの強風では紙が飛ばされてしまうので、まともに行えない。彼あるいは彼女は些か不満げであった。

 

「こんな奇策があったとは……流石は銀鏡氏、木下氏が見込まれただけのこちょふぁ……」

 

「親分が噛んだ!!」

 

「たまらねぇやぁ!!」

 

「こんな雨でも、俺達の心はカラッとした晴天だぜ!!」

 

 感心しつつも、五右衛門は川並衆の作業指揮を続けている。

 

「それにしても……銀鏡様、何故他のカラクリを使わせてくれなかったのですか?」

 

 それらを使えばもっと早くに作業が完了したのに、と源内はやや不満顔だ。彼女謹製のカラクリの中には滑車を組み合わせて未来に於けるクレーンのように僅かな力で重量物を持ち上げる機械や、多くの資材を一度に運べる一輪車がある。だが、深鈴は今回の作業でこれを使う事は禁止していた。

 

「もう少しテスト……あ、実験ね。それを重ねてから実用に移りたかったのよ。次に似たような機会があれば、その時は使わせてもらうわ」

 

 と、もっともらしい言葉で説明されて源内は「ふう、ん……?」と一応は納得した様子だったが……

 

 しかし、その裏には五右衛門にすら明かさない深鈴の本音があった。

 

『墨俣城の予行演習としては、十分な成果ね……』

 

 濃尾平野で、自分を庇って死んだ木下藤吉郎。藤吉郎の代わりに自分に仕える事になった五右衛門。そして給料払いが良いという理由もあって織田家に仕官した自分。

 

 これらの要素から、深鈴は未来からタイムスリップしてきた自分が本来の歴史で木下藤吉郎、つまり後の豊臣秀吉の居た位置に居るのではないかという仮説を立てている。

 

 そして信奈のこれまでの行動も、概ね自分の知っている織田信長のそれと一致している。

 

 となればこの後、美濃を攻略する際には、秀吉の手柄として有名な墨俣一夜城を築く役目を担うのは自分かも知れないという考えに行き着くのは自然。

 

 今回はそのデモンストレーションだった。カラクリ無しならどれほどの時間でどれほどの砦を築けるかの検証でもある。実際に墨俣に築城を行う段になれば彼女はカラクリの使用を解禁するつもりだった。つまり、その時は今回より短い時間での築城が可能と考える事が出来るのだ。また、こうしてカラクリ無しでの築城を体験しておけば何かのトラブルでカラクリが使えなくなった時にも慌てる事はなくなるだろう。

 

 逆に今回の作業でカラクリを使ってその使い方を実地で覚えさせるという手もあったが、まだ皆がカラクリを使い慣れていないという点を考慮し、確実性を重視する意味でそちらの案は却下していた。ある程度手は打っているが、それでもこの先に起こるのは実戦なのだ。カラクリの扱いは、今後に訓練して実戦で使えるレベルまでに習得してもらえば良い。

 

『尤も……既に私の知る歴史とは、大きく変わっているからこの未来の知識が、どれだけ役に立つかは……未知数だけどね』

 

 まぁ、今回の築城のノウハウは墨俣に城を築く機会が訪れなくとも、織田家の誰かが役立てるだろう。無駄にはなるまい。

 

 深鈴は歴史好きで、生まれた時代では日本史・世界史問わず様々な伝記を読んだり歴史ゲームも色々とプレイした。そうして得た様々な歴史の知識は強力な武器だと言える。

 

 だが、その武器が役立たずになる日は遠くないだろう。少なくともそのままでは。

 

 大量の鉄砲や鉄砲鍛冶・絵図面を手土産としての仕官。戦国四君のような人材募集。今川への流言。斎藤道三の救出。

 

 少なくとも自分の存在でこれだけ歴史が変わっている。木下藤吉郎はこのどれ一つとてしなかった筈なのだ(最後のは信奈の助力あってこそだったが)。

 

 特に人材募集。これは一番大きいかも知れない。集まってきた人材達。

 

 森宗意軒は本来の歴史では、島原・天草の乱を指導した一人だった。

 

 源内は(恐らくだが)彼女の技術は誰にも理解されないまま歴史の闇に埋もれて彼女自身も無名のまま生涯を閉じる筈だった。

 

 加藤段蔵は、武田信玄(あるいは信玄の命を受けた山本勘助)に殺される筈だった(尤も、その原因が織田家に内通していたからだという説もあるが)。

 

 他にも多くの一芸の士が、自分の元に集まっている。

 

 ここまで派手に歴史が変わっているのだ。都合の良い所だけ自分の知っている通りに未来が動くなど、どうして言える?

 

 故に、出来る事は全てやる。今回の予行演習のように、転ばぬ先の杖は付いておくに越した事はない。

 

 最初の百両を元手として今や尾張の経済を動かす程になっている膨大な資金や掻き集めた一芸の士達も、同じように杖の一つ。自分が存在する事で歴史が変わるのならば、変わっても関係無いほどの力を手に入れておくだけの話。

 

『……まぁ、そうした”保険”を用意しようと動くからこそ余計に色々変わるのだろうけど……』

 

 ジレンマである。とは言え、自分はこの時代で生きていく為に織田に仕官して成り上がる事を選んだのだ。その為にも力は不可欠となる。そこは妥協する他無かった。

 

『最早、私の中にある歴史の知識は指針としては使えても、頼りには出来ない。そう考えておくべきね……』

 

 例えば「こうした状況になればこんな事が起こる可能性が高い」という目安としては使えるだろう。だが、こちらは何も動かないのにそんな状況が都合良く整ったりはしないと考えておくべきだ。

 

「私は趙括の二の舞を演じたくはないからね……」

 

 春秋戦国の時代、趙国の将軍として任ぜられた趙括は兵法の天才と呼ばれていた。だが、彼はその実兵法書を丸暗記していただけで応用を知らず、秦国の白起将軍に悉く裏をかかれて大敗・戦死、捕虜になった四十万の兵は僅かな少年兵を除いて全て生き埋めという悲惨な最期を辿ったという。

 

 そうした故事から学べる事もある。未来の知識は兵法と同じだ。様々な状況に応じて、臨機応変に活用してこそ価値がある。

 

『これからはそう心して、事に臨まねばならないわね……』

 

 深鈴はそんな思考を行いつつも手を動かし、同じように五百人が不眠不休で動いて砦は夜半に完成する。

 

 そして夜が明け、日が昇った。

 

 稲生の戦いが、始まる。

 


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