織田信奈と銀の鈴(完結)   作:ファルメール

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第05話 尾張の運、信奈の運

 

「失礼いたします。ご機嫌伺いに参りました」

 

「入って良いと言った覚えは無いわよ」

 

 自室の上座にあぐらをかいて腰掛けた信奈は、入室してきた深鈴を見ようともせず、ぶっきらぼうにそう言って捨てた。

 

「では、入ってよろしいですか?」

 

「……まぁ、良いわよ」

 

 事後承諾ながら入室の了承を得られた事で深鈴は一礼して、そして信奈の対面に正座する。

 

 そのまま互いに一言も発しないまま、10分ばかりの時が過ぎる。その間、信奈は傍らの地球儀をぐるぐると弄んでいて、深鈴は瞑目したまま背筋をぴんと立てた良い姿勢を崩さなかった。

 

 果たして、先に焦れたのは信奈の方であった。

 

「……銀鈴、あなたはどうすれば良いと思う?」

 

「……それは美濃への援軍の事でしょうか? それとも、浅井長政どのとの婚姻の一件?」

 

 問いを受けた信奈は、無言。この沈黙の意味を深鈴は正確に察する事が出来た。つまりは「両方よ」という事だ。

 

「それは……」

 

 深鈴は答えない。場合によっては彼女の一言で信奈の命運も尾張の命運も左右されかねない。信奈もこれは即答を控えて然るべき重大な問いであると理解しているが故に、彼女の態度を優柔不断であるとなじる事はしなかった。

 

 そうして再び気まずい沈黙が両者の間に落ちて、信奈はまた地球儀を回し始める。

 

 今度、場の重苦しい空気に耐えかねたのは深鈴の方だった。きょろきょろと視線を外して話をはぐらかすように、

 

「……随分と、色々な物がありますね」

 

 そう言った。

 

 成る程信奈の部屋には地球儀の他にもチェンバロ、良く分からないがアフリカのどこかの部族が祭事の時に使う仮面、ワインの入った瓶。明らかに国産の品ではない物が、単純に片付けられないのかそれとも信奈の都合の良い場所に配置しているのかあちこちに散らかされている。

 

「あぁ、この品々はね、子供の頃に父上が津島の港から連れてきた南蛮の宣教師から手に入れたの」

 

 「これとは違って、他はお金を払って買った物だけど」と、信奈は手元の地球儀をぽんぽんと叩く。

 

「知ってる? 世界は平らじゃなくて、この地球儀みたいに丸く閉じているって事。そして今川、上杉、武田、浅井……私も含めた大名達が統一をめざしてあくせくしているこの天下は、世界全体から見ればちっぽけな島国に過ぎないって事」

 

「はい……」

 

「南蛮では科学が盛んに開発されていて、いずれ強大な武力と経済力で日本を呑み込んでしまうでしょうね。あいつらの国の王様達の中には、日本の事を「黄金の国じぱんぐ」って呼んで欲しがっていて、植民地にしたいと思っている奴もいるらしいわ」

 

「確かに、上杉が持つ日本最大の佐渡金山、武田が所有する黒川金山。今川の安倍金山など、この国には多くの金山があります故……」

 

 だからこそ深鈴の食客達の中に居る金山衆という職業も成り立つ訳だし。

 

「私はね、宣教師から色んな事を教わっている内に、いつか天下を一つに治めたら、日本を飛び出して世界中を巡ってみたいと思うようになったの。鉄鋼で完全防備した大きな船を作って、その船に乗って七つの海を渡りたいの。日本人の誰もまだ見た事のない景色を、最初に見る女になりたいのよ」

 

 今日の信奈は酒が入っている訳でもないのに随分と饒舌である。それが何故かなど、考えるまでもない。何もしないよりも何か話している方が、ずっと楽であろう。

 

「では……その宣教師の方が信奈様の夢の原点と言えるのですね……今度、紹介していただけませんか?」

 

「もう、死んじゃったわよ」

 

 ぶっきらぼうに信奈にそう言われて、これは失言であったと深鈴はずきんと胸に痛みが走るのを感じた。

 

「彼だけじゃないわ。父上も、蝮も。私が好きになった男の人は、みんな死んでしまうわ。私は、人を好きになっちゃいけない女なのかもね……」

 

 自嘲するように言う信奈の言葉を受けて、少しだけ深鈴の目付きが鋭くなった。これは彼女が心中の怒りを堪える時の癖であった。

 

「……入道どのは、まだ生きておられますよ?」

 

 穏やかな口調で訂正するが、信奈はふるふると首を振る。

 

「今の蝮の状況では、もう首を討たれたと同じ事よ」

 

 これは事実である。平地の戦は兵数で勝敗が決まる。そして道三軍と義龍軍は兵力差では話にならない。信奈が援軍を送ればまだ話も違うだろうが……信奈としてはそれは出来ない。それは道三の気持ちを裏切る事になるからだ。

 

 何故、戦上手の道三が圧倒的兵力差がありながら籠城戦ではなく野戦を選択したのか。

 

 鷺山城に籠城すれば信奈は援軍を送るだろう。そうなれば上洛を目論む今川軍が、手薄になった尾張を襲う事は必定。それでなくとも美濃でまごまごと戦っていれば、義龍と繋がっている信勝派の家臣達が空の清洲を攻め落とす。だが、それだけではない。

 

 野戦を選択したのは娘の帰蝶を妹として迎える信奈へ、引き出物を送る為なのだ。

 

 信奈が援軍を送れば、当然ながら義龍軍と信奈の軍は激突し、双方に被害が生じるだろう。信奈の軍兵は彼女だけの兵ではなく、尾張だけの兵でもなく、日本の為の大切な兵。それを死なせる事をあの老獪な大名は良しとしなかった。それこそが彼の引き出物。

 

 信奈も深鈴も、当然ながらそれに気付いていた。

 

「私はこれからも私の夢の為に、大勢の人間を死なせるでしょうね……みんな……こんな、うつけ姫の為に……」

 

「信奈様!!」

 

 窓から見える黄昏を眺めていた信奈であったが、咎めるように強い声を出した深鈴の声を受けて弾かれたように彼女を見る。姫大名は少しだけ、目をぱちくりと大きくしていた。

 

「どうかご自分の事を、卑下なさらないで下さい。あなたが自らを貶める事は、あなただけではなく家中の誰もがあなたを廃嫡するように言っても頑と聞かずにあなたに期待されていた、先代信秀様をも貶める事です」

 

「仏前に抹香を叩き付けた親不孝者に、今更それを言うの?」

 

 信奈は「はっ」と笑ってそう言うが、深鈴に怯んだ様子は無い。

 

「……私は、信奈様がお父上を憎んでいてそのような行いをしたのではないと……信じております」

 

「……へぇ?」

 

 そう言われた信奈は立ち上がると佩刀を抜き、ぴたりと深鈴の首筋に当てた。つまりは「答え如何では斬り捨てるぞ」いう事だ。どうやら父の話題は、彼女の心の中で相当に敏感な部分であったらしい。当然と言えば当然か。

 

 とは言え、事ここに至っては深鈴とてもう後には退けない。こうなったら思う事を、全て口にしてやる。

 

「じゃああんたは、私が何で父上の葬儀であんな振る舞いをしたと思っているの? 聞かせてみなさい?」

 

「……されば、第一に信秀様は享年四十二歳と聞いております。そのご壮齢。やらなければならない事がまだまだ山ほどあった筈です。その道半ばで亡くなられた事に怒っておられたのだと……」

 

 首筋に当てられた刃先が、ぴくりと揺れた。

 

「……他には?」

 

「次に、織田家の重臣達へのお怒りもあったかと」

 

 これは図星である。信奈はあの時、澄まし顔で居並びながら自分達の身の振り方ばかり相談している、自分への謀反を考えている目付きの重臣達への怒りは確かに感じていたが……だが、それだけではない。

 

 目の前の新参者のこの家臣は、”そこ”へも思い至っているというのか?

 

「信秀様の死因は、卒中であったと聞いております。確か、先年にご愛妾を迎えてから、すっかり酒浸りになってしまったとか……」

 

「!!」

 

 信奈と信勝の父・織田信秀は、尾張の虎、神出鬼没と呼ばれるほどの卓越した武将であったが、肥満に分類される体型の持ち主だった。

 

 昔から、四十才を越えた肥満型の武将にとって酒と女は何にも勝る毒薬とされている。ちょうど長年の戦場暮らしの無理がたたり、疲れの出てくる年頃なのだ。そこに若い女を近付けると、自然に酒に浸る機会が多くなり、健康を害していく。

 

 現在信勝の下に付いている重臣達は早く織田家を代替わりさせ、彼を傀儡としてこの尾張を自分達の思い通りに動かす為に、信奈の幼馴染みで美女の岩室(いわむろ)を信秀に側室として娶らせたのだ。結果、その策は見事に当たり、信秀は強酒強淫で命を削り取られてしまった。

 

 信奈はそうなる事を案じたからこそ乱暴放題を演じて、父にあれこれ嫌がらせをしていた。うつけ姫と呼ばれる彼女の行状は有事に備えて精鋭を育てたり領内の地形を調べるという意味もあったが、近年では自分なりのやり方で父を諫めるという目的の方が強くなっていた。だがそれが理解されず、この大事な時に酒と女に溺れて早世した父と、それを手引きした重臣達への怒りは、間違いなく葬儀の日の蛮行の一因だった。

 

 それほどに、父を愛していたのだと。

 

 信奈は、深鈴の言い分に納得したように刀を納める。

 

「……でも、私を評価していたのは父上だけ。他の者は母上でさえ、私をうつけと呼んでいるわよ? それについては、どう思うの?」

 

「……それは、単純にあなたが優秀すぎると言うだけでしょう。世間の小さな枡では、あなたの器は計れますまい」

 

 と、深鈴。彼女の食客の中にも同じような境遇の者が一人いる。

 

 褒められた信奈だったが、彼女は喜ぶでもなく力無く首を横に振った。深鈴の言葉を追従と取っている訳でもない。

 

「……私は、そんな無類の大器なんかじゃないわ。もし、私が本当にそんな器なら、蝮を助ける事だって出来る筈だと思わない?」

 

 無論これは長政と結婚せずに、という事を前提にしての話だ。

 

 彼女は尾張を治める大名。如何に道三が義父だとしても、一個人の感情だけで動いて自国を危険に晒す事は絶対に出来ない。

 

『……ならば……大名としての彼女ならば……』

 

 そう考えて、深鈴は話題を変えて切り出した。

 

「信奈様。仮にあなたが美濃へ援軍を送るのなら二つの利があり、送らないのであれば二つの害があります」

 

「……何? 聞いてあげるわ。言ってみなさい」

 

「……まずは援軍を出す事の利の方ですが……第一に、織田信奈は鉄壁の信義を持った女だという事になります。今の尾張の危険な状況にも関わらず、義父を助ける為に兵を出すのですから。織田信奈は日本中に、ぐんと女を上げる事になります」

 

「二つ目は?」

 

「援軍を送れば必ずどこかで義龍軍と戦闘になるでしょうが、その勝負には信奈様が勝ちます。それにより……信奈様の実力を尾張衆も美濃衆も、はっきりと思い知る事になります。そして援軍を出さない事による害ですが……」

 

「言う必要は無いわ」

 

 と、信奈。彼女は利発な少女である。そこまで聞けば深鈴の言わんとしている事は全て分かった。

 

 援軍を出さない事による害は出す事による利の逆だ。第一に同盟相手を平気で見捨てる女として、今後の外交に支障をきたす可能性がある事。第二に放置しておけば、このままでは義龍が美濃を制圧して盤石の体制を築き上げてしまうという事。

 

 同時に、深鈴の意図についても気付いていた。

 

 彼女の説く利害は、信勝派の反乱や今川の侵攻で尾張が奪われない事、また義龍との戦いで信奈が勝つ事を前提としている、こじつけに近いものだ。彼女ほどの切れ者が、こんな不確定要素を見逃す訳がない。つまり……

 

『たとえこじつけに近かろうと、大名としての私が援軍を送る大義名分を与えて……私の心を、汲もうとしているね……』

 

 これは深鈴の優しさであろう。この思いやりは、素直に嬉しく思う。だが信奈は、それに甘える訳には行かなかった。

 

「……ありがとね。もう下がって良いわよ」

 

「はい……」

 

 深鈴は食い下がる様子も見せず、一礼すると部屋の出口まで歩いていく。二人とも余計な言葉は必要としていない。それだけのやり取りで全てが分かっていた。

 

 だが深鈴は襖を閉める前に足を止めると、信奈を振り返った。

 

「……先程、信奈様は自分が好きになった殿方は全て死んでしまうと仰いましたが……」

 

「ええ、言ったわ。私はそういう星の下に生まれているのね、きっと……」

 

「そうでしょうか? 私の故郷の偉い人は言っていました。不運な巡り合わせだからと言って、その不運にしがみついている事それ自体が不運なのだと。運は、力尽くで自分の方に向かせるものだと」

 

「……デアルカ」

 

 それを最後として襖のすぐ外で膝を折って一礼すると、深鈴は襖を閉じようとする。だがそこに「待ちなさい」と信奈の声が掛かって、襖を動かしていた手が止まった。

 

「銀鈴、もし……その運に負けた時はどうするの?」

 

「……」

 

 その時は。

 

「笑って誤魔化すのですよ」

 

 

 

 

 

 

 

「……では、信奈様。お返事をお聞かせ願えますか?」

 

 夜が明けて、日が昇り、そしてその日が傾きかけて、あっという間に長政が刻限として指定した時刻となった。清洲城の大広間に、全員が集合している。

 

 君主を初め織田家臣団の表情は一様に暗い。

 

 一方で、長政は晴れ晴れとした表情である。彼にとって美濃のこの動乱は、まさしく好機だった。信奈の弱みに付け込み、尾張は浅井の物となる。

 

「これで何もかも、上手く運ぶのです」

 

「わ、私は……長政と……」

 

 拙い。拙い拙い拙い。絶対に拙い。

 

 ぎりりと、深鈴の噛み締めた奥歯が軋む。

 

『五右衛門……!! 段蔵……!! 間に合わなかったの……!?』

 

 ほんの数秒がこんなに長く感じたのは、生まれて初めてだ。後数秒で、取り返しの付かない言葉が信奈の口から出てしまう。

 

「私は長政と……け……けっこ……」

 

 言う。言ってしまう。

 

 長政の口端がきゅっと釣り上がり、家臣団の表情が歪む。

 

 その時だった。小姓が駆け込んでくる。

 

「申し上げます!! 只今、美濃より明智光秀殿が!!」

 

 

 

 

 

 

 

 門をくぐってすぐの広場では十数名の道三の兵と、それを率いる少女侍が傅いて信奈達を待っていた。長い黒髪を後ろで一つに束ね、金柑付きの髪留めをしている。彼女が道三の小姓、明智光秀である。

 

「あんた達……蝮は……? 蝮も一緒なんでしょう?」

 

 震える声で尋ねる信奈に、光秀は顔を上げた。沈痛な表情が露わになる。

 

 背後の籠から、一人の少女が出てくる。道三の娘の、帰蝶だ。

 

「約束の妹をお送りする。重ねて援軍は無用、と……道三様より言伝を預かって……いる……です」

 

 双眸より涙を滂沱として流しつつ、光秀が報告する。きっとその言伝を受ける時、彼女はそれを主君の遺言として聞いていたのだろう。

 

 この時、信奈ははっきりと動揺を見せた。今までで深鈴が見た中で一番、感情の波が大きく表に出ている。

 

「ぜ……ぜんぐん……」

 

 全軍で、美濃へ、援軍に。

 

 体の芯から湧き上がってくるような嗚咽と慟哭を抑えつつ、その一つの命令を下そうとする。

 

 そんな彼女の震える背中を見て、長政はくすりと笑う。光秀達がやって来て話が中断されたのは気に入らなかったが、しかしどうやら天は自分に味方してくれているらしい。

 

 これで決まりだ。援軍を出すか否か。その二つの天秤の間で揺れていた信奈の心は、今や完全に出兵する方へと傾いた。

 

 今川や弟を抑えつつ道三を救う為には、浅井の協力が不可欠となる。その為には自分と夫婦の契りを結ぶ他は無い。

 

『五右衛門っ……!! 段蔵っ……!!』

 

 深鈴は焦っていた。

 

 正直、ここまで早く事態が動くとは思っていなかった。だから二人を責める事は出来ないが……それでも、思ってしまう。

 

 間に合わないのか? もっと早くやれなかったのか!?

 

「ぜんぐん……ぜんぐん……でっ……み……」

 

「御免っ!!」

 

 その下知を下させまいと勝家が走り出し、もう半秒でその拳が信奈の鳩尾に叩き込まれようという瞬間、

 

「申し上げます!!」

 

 光秀達を迎えたまま開けっ放しの門をくぐり、人馬共に汗びっしょりの伝令が駆け込んできた。「姫様の前で、無礼ですよ」と長秀が咎めるが、その伝令は「火急の場合なればご容赦」と一声詫びると下馬して、報告に移る。

 

「国境の今川軍に、動きがありました!!」

 

「「「「!!」」」」

 

 場の全員の表情が引き攣る。こんな時に、今川まで。まさかもう上洛の準備を整え、尾張への侵攻を始めたのか!?

 

「武田と上杉が同盟し、背後から上洛の隙を衝こうという動きに対応する為、陣払いを始めております!!」

 

「何ぃっ!?」

 

「本当ですか、それは!!」

 

「ま、間違いじゃないわよね!!」

 

 信奈を含め、報告を聞いた全員が矢継ぎ早にその伝令へと詰め寄っていく。

 

 今川が上洛の為に駿府を空にした所を見計らって、武田と上杉が背後を衝く為に同盟する。これは確かに考えられない事態ではなかった。

 

 現時点で最も天下に近いのは余人に非ず、やはり今川義元である。動かせる兵力から言っても、今川は駿府・浜松・吉田・岡崎といった各地の城に守備隊を残して尚、上洛の為に二万五千の軍勢を動員出来る。これは今の日本で最大の数だ。

 

 全軍でも信奈が精々五千。

 

 上杉が八千。

 

 武田で一万二千。

 

 北条で一万。

 

 その戦国最大の勢力を倒す為の同盟。十分に有り得る話である。また、義元にしてもどちらか一方であれば兎も角、甲斐の虎と越後の軍神が手を組んだとあっては全力を以て応戦せねば危ないと見て、信奈のようないつでも倒せる小冠者は二の次としたのだろう。

 

 屈辱だが……しかしこれは今の信奈達にとっては、まさに天佑であった。これで少なくとも今川軍は気にせずに動ける。

 

「ば……馬鹿な……!! 何もこんな時に……!!」

 

 誰にも気付かれぬよう、長政は歯噛みする。

 

 何もかも、全てが上手く運んでいたのに。何故こんな時に、こんな知らせが入ってくる!?

 

「銀鏡氏」

 

 声がして深鈴のすぐ傍に、五右衛門と段蔵。彼女直属の二人の忍者が膝を付いた格好で姿を現した。段蔵の袖口から、紙が飛び出す。

 

<任務を達成し、只今帰還した>

 

「……ご苦労様、二人とも」

 

 他の者には見えないように、深鈴はぐっと指を立てて応じる。彼女の生まれ育った時代ではサムズアップと呼ばれる仕草だ。

 

『凄まじくギリギリのタイミングだったけど……何とか、間に合ったわね』

 

 先日、深鈴は「元康が義元の姪を妹にした」という段蔵の報告を聞いた時から、未だ織田家中が二つに割れてしまっているこの時期に今川に攻め込まれてはひとたまりもないと見て、返す刀で二人に忍び組を率いさせて駿府に「武田・上杉が同盟して攻め込んでくる」という流言を広げさせたのだ。

 

 現代人の常識としてホウ・レン・ソウ、つまり報告・連絡・相談を心掛けている彼女だったが、あの時は信奈に許可を求めていて手遅れになってはそれこそ一大事と考え、独断専行に走った。出来ればやりたくはなかったが……しかし、結果としてそれが幸いした。

 

 浅井長政が求婚してくる事だけは彼女にとっても全くの予想外であった。そして今、伝令が駆け込んできたのはまさしくタッチの差だったのだ。少しでも何かが遅れていれば、美濃への出兵か信奈の結婚のどちらか、あるいは両方が決まってしまっていたに違いない。

 

『これで少なくとも……時間は稼げる』

 

 後は、信奈がどんな判断を下すかだが……

 

 果たして彼女は、まずは長政に向き直った。

 

「申し訳ないけど、私はこれから蝮の援軍に美濃へ行かなければならないわ。結婚の事については追って返事させてもらう。今回はお引き取り願うわ」

 

「は……はい」

 

 これには浅井家の当主も「ぐう」と黙る他は無かった。

 

「姫様っ!!」

 

 先程と同じく勝家が腕尽くで止め立てしようとするが、しかし振り返って自分を見据える主君の鋭い眼光を受けて「うっ」と怯んだように言葉を詰まらせてしまう。

 

 今の信奈は先程までの感情に任せて全軍を美濃へ向けようとしていた彼女とは、明らかに違っている。その瞳は感情を超越した強い意思の光を宿し、爛々と燃えていた。

 

「援軍は鉄砲隊八百、槍隊、弓隊、合わせて二千!! 清洲の守備は勝家、あなたに任せるわ!!」

 

「!! 承知!!」

 

 下知を受け、織田家最強の女武者は一度膝を付いて礼の姿勢を取ると、守備隊の指揮を執るべく慌ただしく走っていく。

 

「信奈様!! 道三様は援軍は無用と……」

 

 主の遺言を無為にするのかと光秀が詰め寄るが、先程の勝家と同じく信奈の眼光に射竦められてしまう。

 

「それは援軍を出せば尾張が今川に攻められる、義龍の軍と私の軍がぶつかればこちらに多大な被害が出る。その二つが前提の話でしょう? 安心なさい。私にそんな気遣いは無用だと、証明してあげるわ!!」

 

 光秀にも援軍に同行するよう告げると、犬千代を引き連れた信奈は戦支度をする為に一度城内へと入っていこうとする。そうして深鈴とすれ違う時、

 

「銀鈴」

 

「……はい」

 

「貴女の言う通りだったわね。運を力尽くで自分の方へ向ける所、見せてもらったわ」

 

 そう言われて、深鈴は自分の心臓がいきなり凄い音で鳴った気になった。

 

「深鈴どの、五十点です」

 

 いつの間にか背後に立っていた長秀も、そう採点した。

 

 ごくり。

 

 深鈴は唾を呑んだ。この二人にだけは、バレている。

 

 長秀の点数はそのまま信奈の心情であると考えて良いだろう。信奈に許可を得るどころか一言も告げずの独断専行は許し難いが、結果オーライになったので今回だけは見逃す、という所か。

 

「は……」

 

 悪いのは自分であるという自覚も手伝い、深鈴は目を伏せて「肝に銘じておきます」という意思を示す。彼女達のやり取りを見て、事情を知らぬ犬千代だけが「?」と首を傾げていた。

 

「銀鈴、あなたの乱波二人、貸してもらうわよ」

 

 未だ深鈴の背後に跪いている五右衛門と段蔵を見て、信奈が言う。

 

「拙者達でごじゃるか?」

 

「…………」

 

「今度は私の番……!! 私が私の運を力尽くで変える所を、見せてあげるわ!!」

 


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