織田信奈と銀の鈴(完結)   作:ファルメール

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第30話 未来のために

 

「ひ、ひぃぃぃっっ!! ば、化け物だああっ!!」

 

「た、た、た、助けてくれぇぇぇっ!!」

 

「く、来るな!! 来るな!! 来るなあああああっ!!」

 

 冬の叡山はまさに狂乱の渦中、地獄絵図と化していた。攻撃が始まった訳ではない。姫武将ばかりの織田軍は女人禁制の掟を盾に取った朝倉義景の策によって、麓に立ち往生している。

 

 代わりに叡山へ攻め寄せてきたのはこの世ならざる者共。白濁した瞳、あるいは白骨化しがらんどうになって落ち窪んだ眼窩に何の光も宿さぬ意思無き兵隊。刀で上半身と下半身を泣き別れにされても、槍で胸を貫かれても何事も無かったように前進を止めない不死の兵団。墓場から蘇ったとしか思えぬ亡者の群れが、どこから現れて集まったのか数千という数で以て押し寄せてきたのだ。

 

 訳も分からず応戦する浅井・朝倉の連合軍と僧兵達に向けて屍兵共は手にした武器を振るい、あるいは本能のままに食らい付いて、誰彼構わず命を奪っていく。そうして殺された者は、ほんの少しの間だけ死の沈黙に落ちたかと思うと無造作に立ち上がって新しい亡者となって動き出し、そうして増えた亡者は更に周りの生者へと襲い掛かり、指数関数的な早さで数を増やしていく。

 

 この有様はまるで、否、まさに地獄であった。この比叡山は、かつて極楽浄土を説いた大勢の名僧智識が居た聖地であった。数百年もの間、治外法権の夢を貪り続けて栄耀栄華を極めた場所が今、地獄に堕ちたのだ。

 

 群れて迫る無数の亡者。想像出来るどんな悪夢をも超えた現実を前に、浅井と朝倉の兵、そして叡山の僧兵達から正常な思考力・判断力などはとうの昔に失われ、めいめい勝手に様々な行動を取り始める。闇雲に亡者達へ打ちかかる者、逃げ惑う者、訳も分からず仲間へと斬り掛かる者、自分だけは助けてくれと御仏に祈りを捧げる者、数珠を鳴らして悪霊退散と唱える者、死者がこの仏法の聖地を侵す事の罪深さを声高に説く者。

 

 そんな彼等には、平等に一つの末路が用意されていた。亡者に殺されて亡者になるという結末が。

 

 断末魔の悲鳴、怒号、絶叫がひっきりなしに鳴り響く中で、一つだけ浮いた声があった。高笑いだ。

 

「ははははははははは!! 壊せ殺せ!! 俺の可愛い亡者共よ!! 目に付いた物は片端から壊せ!! 目に付いた者は片端から殺せ!! この現世に、お前達の手で地獄を顕現させるのだ!!」

 

 人骨によって組み上げた輿の上にどっかりと座し、それを亡者達に担がせて山を登ってきた森宗意軒は、大笑いしつつこの光景を見下ろしていた。

 

 彼にしてみれば如何に戦場となる事を想定していないとは言え、叡山がこうまで容易く自らが従える魔界の屍兵によって侵攻されるに任せた事は、拍子抜けを通り越して意外とさえ言えるものだった。この山は八百年の歴史を誇る日ノ本仏教界最高の聖地であるだけでなく、大陸から仏教が伝わるより遥か以前より古の神々の加護を受けた霊山である。本来ならば、その聖域を魔界の屍兵が侵す事など、出来よう筈が無い。しかも仮にも一宗教の信仰の中心であり、対して宗意軒は只の一個人。相手にさえなろう筈がない。そう、本来ならば。

 

 だが実際には亡者達は殆ど何の影響も受けてはいないように動き回り、自分達に仮初めの命を与えてくれた宗意軒以外の生きとし生ける者悉くに死を与えようと、動く者全てを目標としてただひたすらに襲い掛かる。

 

「とうの昔に……この山からはそうした神々の加護は失せていたのか」

 

 笑いを止め、どこか悲しんでさえいるかのような口調で、宗意軒が呟く。さもありなん、叡山が今も仏の教えを体現している真の聖地であるのなら、立ち込めた聖なる霊気は、外法の術によって操られる死者の兵団など一歩たりとて進ませる事はなかったであろう。

 

 だが今の叡山は学問は怠り酒を飲み、魚肉を食らって貴族の如く暮らし、掟を破って女を山に引き上げる腐敗の殿堂、山賊の住処と変わらない。違う所と言えば、鎧の代わりに袈裟を纏っている事ぐらいか。京の大龍脈から流れ込む”気”こそ充ち満ちているが、最早聖なる力などは、その僅かな残滓すらも感じ取れなかった。

 

「さて……いつまでも亡者の数を増やしているだけでも芸が無い。祭りは、これからなのだからな」

 

 顔に再び笑みを取り戻した宗意軒はそう言うと、ぱちんと指を鳴らす。すると唐突に、最前列で浅井・朝倉兵、そして僧兵達を殺戮していた亡者数十体が全身を蒼い炎に包まれて、松明の如く燃え上がった。

 

 生ける屍とは言え体を燃やされては流石にたまらないのか、全身火の玉と化した亡者は凄い速さで敵兵の中に突っ込み、その火は兵士達に燃え移っては焼き殺し、殺された兵は燃えながらにして亡者となり、生者目掛けて駆け出しては襲い掛かり……と、この連鎖によって先程までとは比べ物にならない勢いで破壊は拡散していった。

 

 全身を炎に包まれ、狂奔する亡者達はさながら火牛計に使われて暴走する牛のようだった。とすればそれを指揮する宗意軒はさしずめ木曾義仲の役か。

 

 死者が撒き散らす蒼炎は人だけではなく伽藍や堂にも次々燃え移り、焼け落ちさせていく。

 

「こうでなくてはな!! 燃えろ!! 血も肉も!! 灰すら残さず、全て燃え尽きろ!! ここからが地獄祭りの本番だ!!」

 

 宗意軒が死者達へ着火している蒼い炎は、ただの炎ではない。これは現世に存在しない炎。中国では積尸気(せきしき)と呼ばれるもので、屍体の山より立ち上る燐気であり魂を糧に燃える鬼火。生きとし生ける全ての者が最期に行く事になる冥界の炎だった。死霊術の使い手たる彼はこれを現世に喚び出し、操る事が出来る。その性質上、召喚された亡者達は絶好の燃料だと言えた。

 

「さあ次だ!! その次も!! どんどん行け!!」

 

 葬列から繰り出された燃える亡者が兵士達へと次々突っ込み、死者を、鬼火にくべられる薪を増やしては炎を大きくしていく。大きくなった炎はそれ自体が渦を巻いて堂塔を焼き人を飲み込み、魂という油を注がれて更に勢いを強めていった。流石にこのような特攻を繰り返していては率いる亡者の数も減り始めているが、宗意軒は全く気にした素振りも見せなかった。

 

 煉獄のような炎に追われ、兵も、僧も、遊女も。若者も年寄りも女子供も。一切の区別無く逃げ惑う阿鼻叫喚の中に、哄笑が響いていく。

 

「あははははははは!! どいつもこいつも皆殺しだ!! 燃えろ、燃えろ、燃えろーーー!! 殺せ、殺せ、殺せーーー!! もっとだ!! もっと生者共を殺しまくれーーー!!」

 

 

 

 

 

 

 

 坂本の町からも、炎に包まれる叡山ははっきりと見えた。山全体が不気味な蒼い炎に包まれて、燃え上がっている。

 

「な、何だ? あの青い火は……」

 

「あんな火は今まで見た事がないぞ……」

 

「何か良くない事の、前触れでは……」

 

 人々は口々に、胸中の不安を呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 琵琶湖に浮かぶ孤島、竹生島。

 

 夜の闇も手伝って、叡山それ自体を一個の巨大な松明としたかのような鬼火は、遠く離れたこの地に幽閉されている「お市」こと浅井長政と、元「お市」の津田勘十郎信澄の目からも見る事が出来た。

 

「勘十郎、あれは……」

 

「僕にも分からないよ。あんな気味の悪い炎は、初めて見る」

 

「……義姉上は、大丈夫でしょうか……」

 

 久政が浅井の家督を奪い取ったと同時に始まった幽閉生活の牢屋暮らしはそれなりの長期間に渡っており、徐々に気が滅入ってきているのは、伴侶を不安にさせないよう口には出さねど二人とも自覚している事だった。そこへ来て、何かの凶兆としか思えぬ蒼炎が京の方角に上がったのである。長政ならずとも、悪い想像ばかりが浮かんでくる。

 

 それは信澄も同じだったが……しかし彼の中には説明出来ない”何か”が、しかし信じられる予感があった。

 

「姉上は簡単に死ぬ人じゃない。それに……姉上には銀鈴が付いてる。彼女なら、きっと上手くやる」

 

 

 

 

 

 

 

 坂本の町民や長政、信澄が見ているのと同じものが、信奈達の本陣からも見えていた。それも遥かに近距離で。冬闇を妖しく照らす蒼い鬼火を目の当たりにして、信奈も深鈴もしばしの間圧倒されたかのように呆然と立ち尽くしていたが、しかしそれも一時の事。すぐに正気に立ち返ると、信奈が指示を出した。

 

「銀鈴!! すぐにみんなを集めて!!」

 

「は、はい!! 直ちに!!」

 

 そうして走り去っていく深鈴だったが、諸将も叡山から聞こえてきた爆発音と鬼火を見て、ただならぬ危機感を抱いていたのだろう。勝家、長秀、犬千代、光秀、半兵衛、久秀といった主だった者達が五分と経たぬ間に駆け付けてきた。

 

「姫様、これは……」

 

 流石の長秀も、予想もしなかったこの状況にあっては声が震えていた。

 

「見ての通りよ、万千代。叡山が、燃えているわ」

 

 上に立つ者として可能な限り動揺を抑えた声で、信奈が言う。それを聞いて慌てたのは、勝家だった。

 

「た、大変だ!! じゃあすぐに火を消しにいかなくちゃ……」

 

「ちょ、ちょっと待って下さい!!」

 

 泡食って駆け出そうとする彼女であったが、半兵衛に止められた。

 

「この状況で迂闊に叡山に立ち入っては、後で火を放ったのが織田軍であると言い掛かりを付けられても、釈明出来なくなってしまいます!!」

 

「ですが半兵衛殿、このまま放っておく訳にも……」

 

「放っておけば良いではないですか」

 

 「うふ」と笑いながら、久秀が言う。

 

「消火・救助活動を行おうにも、彼の地は女人禁制の霊山。姫武将ばかりの我等では山に立ち入る事もままならず。哀しい事ですが見殺しにする以外の選択肢はありませんわ」

 

 口ではそう言っているが、しかしこの妖艶なる魔女がほんの僅かな心痛さえ感じていないのは、浮かべている冷笑からも明らかであった。だが「放っておけ」という彼女の意見にも一理はある。これまでは聖地である事を盾にとって織田軍の侵攻を阻んでいたのに、原因は分からないが出火して困った時だけ助けてもらおうなど虫が良すぎるというものだ。

 

「しかし、何もしないという訳にも……!! 何の救助活動も行わなければ、それこそこれを行ったのが我々であるから動かないのだと、世間は見るです!!」

 

 光秀の意見もまた正論である。詰まる所現状、織田軍はかなり厳しい立場にあると言える。救助活動を行う為に叡山へと侵入すれば女人禁制の掟を無視するだけでなく、火を放ったのが織田軍であるという疑惑を掛けられる。動かなくても同じ結果になる。

 

 ならば、どうするか。思案に行き詰まり、僅かな時間だけ沈黙が場を支配する。

 

「皆、落ち着いてください!!」

 

 それを破るようにしてずいと進み出た深鈴に、全員の視線が集まった。

 

「まずは我が軍全ての部将に連絡を取って、我々の中で勝手に動いた者が居ないか、居たとすればそれが誰なのかをはっきりさせるべきです!! 混乱のままに慌ただしく動いて誰が誰やら分からないような状態になってしまえば、それこそ秘密裏に叡山へ火を放った部隊が居たのではないかという疑惑を晴らす事が、不可能となってしまいます!!」

 

「拙者達も銀鏡氏の意見に賛成でござる」

 

「…………」

 

 その言葉と共に姿を見せたのは五右衛門と段蔵、深鈴付きの二人の忍者だった。と、今度は段蔵の袖口から紙が飛び出す。皮肉な事に山を包む炎のおかげで、夜中でもそこに記された文字の判読に不自由はなかった。

 

<現在、比叡山には浅井・朝倉・僧兵全て合わせれば一万数千もの兵が駐留している。どんなに優れた乱波であろうと、それほどの数を相手に数十名までの人員ではあれほど広範囲・大規模に火を放つ事は不可能。最低でも数百名規模の部隊の動きが、絶対にある筈>

 

 当代最高の忍者の一人であり、乱波について知り尽くしている加藤段蔵の言葉とあれば間違いはない。すぐ隣に立つ五右衛門も、彼あるいは彼女の意見に異存は無いようだ。

 

 つまり雲母坂・坂本に布陣している織田軍の中に数百名以上の欠員がなければ、この叡山への出火について織田陣営は無関係であると証明されるのだ。少なくとも記録の上では。

 

「兎に角、我が軍の中に欠員が生じていないのを明らかとし、その記録を残しておく事が重要です。そしてそれを確認するのは、織田家の者でない第三者が望ましいかと」

 

 幸い、と言うべきであろうか。この場には、その役目に適任な人物が二人も居る。今井宗久と、ルイズ・フロイスが。とは言っても宗久は織田家とは先代信秀の時代から親交があり、フロイスは宣教師という立場上、ドミヌス会の布教に対して寛容な態度を取る信奈よりの立場であるが……それでも、二人の言葉は織田家中の者よりは遥かに信憑性の高いものとして受け取られるだろう。

 

「……銀鏡殿の意見は現状、我々が採るべき手段としては、第一かと。まずはこの叡山からの出火に織田軍が無関係であると記録し、証拠を作っておく事……五十点です」

 

 と、長秀。彼女の分析を受けて信奈や半兵衛、光秀に久秀もそれぞれ頷く。

 

 無論、如何に宗久やフロイスの言葉があろうと、反織田の立場に在る者はそんな証拠は捏造だ、宗久もフロイスも織田家とグルだと、そう叫ぶであろうが……それでも、たとえお題目であろうが建前であろうが、証拠を作る事には意味がある。少なくとも、二人が証言してくれると宣言するだけでも自信のほどを示す事ぐらいは出来るだろう。この出火に関して、織田家そして信奈に何ら恥じる所は無いとアピールするのだ。

 

「……確かに、銀鈴の言う通りだ。あたし達が火を付けた訳じゃないんだからビクビクする必要は無いな!!」

 

「……賛成」

 

 勝家と犬千代からの意見も受け、信奈はにっと笑みを見せた。確かにここで慌てて動けば、それこそ「織田家が犯人です」と言っているようなもの。自分にも軍全体にも、こうした時にこそ落ち着いた対応が求められるのだ。

 

「分かったわ。では皆、それぞれの部隊に確認を取って欠員が出ていないか、勝手に動いた部将は居ないかを確かめて!! いい? しっかりとした確認を取りなさい。「思います」とか「ようです」とか曖昧な報告は受け付けないわよ!! 坂本の陣に居る竹千代にも伝えて!!」

 

「「「承知!!」」」

 

 信奈よりの指示を受け、各将がそれぞれ散っていく。そうして全員が戻ってくるまでに四半時(30分)程の時間を要した。その間にも叡山に上がった鬼火はますます大きくなって、その勢いを強くしていた。

 

「あたしの部下で、勝手に動いた者は居ません!!」

 

「……犬千代の部下も」

 

「丹羽隊もです」

 

「明智隊も同じです!!」

 

「私の部下もですわ」

 

「私の配下、及び従軍している食客・諜報部隊もです、間違いありません。元康殿からも、同じ報告が来ています。待機命令を、遵守していると」

 

 各将から次々入る報告は、まずは信奈を満足させるものだった。もしこれで欠員が確認されていた場合には、どうしようかと思っていた所だ。彼女が視線を送られて、宗久とフロイスは頷く。これで二人はいざという時には、織田軍が動いていない事を証言する役目を請け負った事になる。

 

 第一にやるべき事は終了した。問題は次にどうするかである。救助活動を行うか、傍観者に徹するか、それ以外か……

 

 と、信奈が思案しているそこに美濃三人衆の一人、安藤守就がやって来た。縄でグルグル巻きにされた正覚院豪盛も一緒だ。

 

「そいつは……どうしたの?」

 

「山から逃げ出してきた所を捕らえました」

 

 しかし、引き立てられた豪盛の様子はただごとではない。

 

 衣服はあちこちがボロボロに破れ、体中傷だらけ、熱病に掛かったように全身をぶるぶると震わせている。表情は恐怖に歪んでくしゃくしゃになっており、武蔵坊弁慶を思わせるような巨体は、今は二回りも小さくなったように見える。何かは分からないが、兎に角尋常ならざる事態が叡山で起こったのだと、言葉にして語らずとも場の一同に教えるには十分だった。

 

「話しなさい。何があったの?」

 

「亡者だ……!!」

 

 信奈に尋ねられて、僧兵は震える声で絞り出すようにそう言った。

 

「叡山に、亡者の群れが押し寄せた。殺される……浅井も、朝倉も、僧も……皆、殺される……!!」

 

 豪盛の言葉は要領を得ないが、しかし一つだけ、はっきりとした事がある。叡山に攻め寄せ、火を放ったのはその亡者達だ。

 

「これは……仏罰じゃ……叡山は、乱世に荷担せよと言われても頑と首を横に振り続けるべきであった。仏の道を外れた我等に、仏罰が下ったのじゃ……」

 

 ぶつぶつとそう繰り返す破戒僧の前で信奈はさっと立ち上がると、勢揃いした諸将を見渡す。

 

「はん、仏罰? 確かに叡山は堕落していたかも知れない。けど、私達が生きるこの世界は人が治める人の世!! 人を裁くのも人を救うのも、全ては人の手で行われなくてはならないわ!! この先の日ノ本の未来を創っていくのは神仏でもなければ歴史の必然でもない、唯一人の意思よ!! 私が、私達が!! それを証明する!!」

 

 信奈のその手が、ばっと振られる。

 

「全軍に指示を出しなさい!! これより織田軍は叡山へと突入、浅井・朝倉・僧・遊女、未だ山中に取り残されている全て者の救助及び消火活動に入る!! 私も、陣頭で指揮を執るわ!!」

 

「……よろしいのですか? 姫巫女様の許可も得ずに叡山に立ち入る事は、女人禁制の掟を破る事になりますが」

 

 久秀が尋ねる。しかし今の彼女は普段の楽しんでいるような笑みは影を潜めて真剣な表情となっており、口調も信奈を試しているようでもあった。

 

「今は非常時よ。山に火が付いて生きるか死ぬかの瀬戸際なのに、掟どころじゃないでしょ!! それに、許可なら義元が取るわ!!」

 

「……あの、お飾り公方が、ですか?」

 

 「そう」と頷く信奈。浅井・朝倉との和睦の儀式を執り行う場所は叡山の根本中堂にするよう義元に言い渡してある。つまり、和睦の話が決まる事と姫巫女様より叡山に立ち入る許可が出る事はイコールなのである。許可が出るのは全てが終わった後になるが、それでも非難の声を抑える事は出来るだろう。以前、浅井久政相手にお市(信澄)の縁談話を取り纏めた交渉能力を、信奈は信じる事にしたのだ。

 

「これは戦ではないわ。和睦相手を助ける為の緊急措置よ!! 六、犬千代、万千代、十兵衛、弾正は私と共に叡山へ突入!! 銀鈴は半兵衛と共にここに残って、後方の指揮に当たりなさい!!」

 

「「「承知!!」」」

 

 信奈の命を受けた武将達はそれぞれ慌ただしく動き始め、一方で本陣の留守を任された深鈴は腕組みすると、難しい顔で一息吐く。

 

「……これではまるで、ローマ大火ね。厄介な事になってきたわ……」

 

 誰にも気付かれないように、そう呟いた。

 

 西暦64年7月19日。ローマのチルコ・マッシモから起こった火災は市内の殆どを焼き尽くし、多くの被災者・死傷者を出した。これに対し当時のローマ帝国を治めていた5代皇帝ネロ・クラウディウスは陣頭指揮を執って消火活動に当たり、その際の対処は後世に於いて彼に批判的な歴史家をして「人知の限りを尽くした有効な施策である」と高く評価される程のものであった。

 

 しかしその一方でこういう説がある。そもそもローマに火を放ったのは他ならぬネロ皇帝で、その後の消火作業はいわば自作自演だったのではないかと。

 

 その根拠となるのはネロ皇帝が火災後に行ったローマ再建に於いて市中心部に黄金劇場(ドムス・アウレア)を建設した事であり、彼の暴君はこの劇場建設を初めとしてローマを自分の好きなように造り直す為に、町に火を放ったのでは……と言われている。

 

 また、放火の犯人として処刑されたのはキリスト教徒達だったのだが、そもそも当時のローマ帝国内では伝統的な多神教を否定するキリスト教に否定的な感情を抱いている者が大多数であり、ネロ自身も弾圧を行った事で有名だ。そうした事情から、処刑されたキリスト教徒達は冤罪であったのでは……? という説が存在するのだ。

 

 今回の信奈も、似たような立場に在るが……だが、違う所もある。

 

「私が、ここに居る」

 

 こうなった以上は肝っ玉というヤツを据えて事に臨まねばなるまい。

 

「私が居る限り……決して信奈様を放火犯にはしないわよ……!!」

 

 深鈴は腹を括った。

 

 一方で突入準備を進めている信奈の前には、前鬼が進み出ていた。

 

「今回、最前線には俺が立とう。大龍脈からの”気”が満ちた叡山では、俺の力は普段の一千倍にもなる故な。主からも許可は頂いておる」

 

「そう……じゃあ、頼むわ」

 

 紅マントを翻して去っていく信奈の背中を見送った式神は鬼火に包まれる叡山を見て、小さく口を動かした。

 

「ここまで全て……お前の望み通りか。森宗意軒」

 

 

 

 

 

 

 

「……で? 俺に何の用かね、半兵衛の犬」

 

 若狭の山中、自らが率いる死者の葬列に陰陽師・土御門久脩を加えた森宗意軒は、現れた上級式神・前鬼をいつもの悪態で迎えた。

 

 無数の亡者達は今は宗意軒の指示によって動きを止めているが、しかし彼の指示一つで再び動き出し、腐臭を放つ死の濁流と化して式神を呑み込むであろう事は明らかだった。

 

 前鬼としては返答一つを間違える事が即刻消滅に繋がる綱渡りの状況に立たされている訳だが……しかし、式神である彼は倒されても一時消えるだけで完全に死ぬ訳ではない。その気安さかあるいは生前からの肝の太さか、式神は堂々とした態度を崩さずに死者を統べる邪教の祭祀と相対していた。

 

「聞いておかねばならぬ事があってな」

 

「ほう?」

 

 挑発的に応じる宗意軒。

 

「もし気に入らぬ答えなら……この俺の首でも取ろうという剣幕だな?」

 

「場合によっては、な……」

 

「!! ふむ……?」

 

 どこかおどけた口調を通していた宗意軒だったが、しかし前鬼の表情に並々ならぬ真剣さがある事を確かめると、彼もまた真剣になった。亡者に担がせた輿からひらりと飛び降りると、前鬼と同じ目線の高さに立つ。

 

「なあ、半兵衛の……いや、前鬼だったな……お前には全てを教えても良い」

 

 表情からはいつも浮かべていた仮面のような笑みが消えていて、視線や顔全体から尖った鋭い印象を受ける。あるいはこれが森宗意軒の本来の表情なのかも知れぬと、上級式神は思った。

 

 死霊術師はそうした上で「ただし」と付け加える。

 

「聞くからには覚悟を決めてもらうぞ。これから俺がする話は、聞かなかった方が良かったと後悔するかも知れん。それでも……聞きたいか?」

 

 脅すようなその文句を受けて、だが前鬼の答えは決まっていた。宗意軒は頷くと、両手を大きく広げるように動かした。「いいだろう、何でも聞け」という意思表示だ。それを受け取っての前鬼の問いは、

 

「単刀直入に聞こう。お前の目的は、何だ?」

 

 いきなり核心を突かれて、言い辛い事なのか宗意軒は沈黙したままだった。この態度に前鬼は少しだけ苛立ったように語気を強める。

 

「陰陽道も真言密教も修験道も超えた魔界転生の秘術。それを以てお前は為すものは何なのか、と聞いているのだ」

 

 上級式神はそう言うと、ずらりと居並ぶ死者達を見渡す。今は死者達の仲間入りした土御門久脩も言っていたが、この秘術はやりようによってはこの国を容易く手中に収める事すら可能とする恐るべき力だ。それを行使する森宗意軒の真の目的が何なのか、前鬼は確かめておかねばならなかった。

 

 もし、邪な目的の為にその力が振るわれるのなら、刺し違えてでも止めなければならない。宗意軒が言ったものとは違うかも知れないが、前鬼はそういう意味で覚悟を決めて、ここに来ていた。

 

 果たして、宗意軒の答えは。

 

「未来の為だ。正確には、未来を変える為だな」

 

「未来を……だと?」

 

 意外そうに、しかし警戒を解かずに鸚鵡返しする前鬼。宗意軒は普段の彼からは想像も付かないような厳しい表情のままで頷き、話を続けていく。

 

「喜べよ、式神。この先の未来に、お前や半兵衛の目的は、達成される。そういう未来を、俺は見たからな」

 

 前鬼は表情は変えなかったが、少なからず衝撃を受けたようだった。

 

 彼とその主の目的とは、陰陽師の時代を終わらせる事。永い間この国を覆っていた闇を払い、光の時代を迎える事。以前、半兵衛は言っていた。

 

 

 

「これ以上、私達は薄暗い闇の秘術を利用してこの国を乱してはならないんです。もう、民を守れる力など残ってはいないのですから。あやかしの者は眩い日輪の光の中に静かに消えるべき時が来ているのですよ」

 

 

 

 そんな未来が、訪れると言うのか?

 

「……まだ話は途中だが、一つだけ教えてくれぬか?」

 

「……何だね?」

 

「未来を見たと言ったが、それはどうやったのだ?」

 

「珍しいものではないさ。そういう術を使ったに過ぎん」

 

「術、だと……?」

 

 訝しむように前鬼が呟く。未来を知る為の術、それ自体は彼もいくつか知っている。陰陽道にも近い未来を占う術は伝わっているし、星々の運行から人の天命を読み取る宿曜道という術も、この国には存在する。

 

「だが……如何なる術も万能ではない。占う事の出来る未来には、限度がある」

 

 その証拠に半兵衛は以前に未来を占った事があるが、結局彼女の目指すような未来が訪れるのかどうかは、分からぬままだった。如何に優れた術者であろうと、それが”術”の限界なのだ。

 

「そうだな」

 

 宗意軒は認めた。

 

「それらの術、単体ではな」

 

 思わせぶりな口調だが、前鬼も愚かではない。すぐに、宗意軒の言わんとする事が理解出来た。

 

「そうか、お前は……」

 

 頷く宗意軒。

 

「ああ、俺は東洋と西洋の様々な術を習得しているからな。それらの術を組み合わせ、単一の術の限界を超えた効果を生み出す事が出来るのさ」

 

 魔界転生が良い例だ。西洋の死霊術(ネクロマンシー)も大陸の道術も日本の修験道にも、この術のようにムチャクチャな真似は出来ない。それらを組み合わせて編み出した独自の術であるからこそ、ここまでの効果を得られるのだ。

 

 未来を見る手段として、西洋にも占星術がある。宗意軒は易や宿曜道とそれらの術を組み合わせて、そして、

 

「俺は見たのだ。この国の、未来の姿を」

 

 荒唐無稽な作り話にも聞こえるが……しかし、前鬼はそう一言で片付ける事をしなかった。出来なかったと言っても良い。一笑に付してしまうには、それを語る宗意軒の表情はあまりにも真剣だったから。

 

「では問おう。その未来とは、どんなものだったのだ?」

 

「……歴史の転機となるのは、今から十数年の後だ。日ノ本を東と西に二分した天下分け目の大戦が起こり、それが終わった後には三百年続く戦無き太平の時代が来る。そしてその時代に、陰陽師が現れる事はない」

 

 「尤も、陰陽道など使えないのに使える振りをして、馬鹿なヤツから金を巻き上げようとする大馬鹿野郎はいつの時代も絶えないがね」と、茶化すように宗意軒は笑う。前鬼はその説明を受けて、しかし腑に落ちないという顔だ。太平の時代が訪れるのなら、それで結構ではないか。この男は、何が不満だと言うのだ?

 

 その疑問を読み取ったのだろう。宗意軒はぱちんと、指を鳴らす。

 

 すると二人の周囲の空間が陽炎のように揺らぎ、別の景色へと移り変わっていく。思わぬ出来事に身構える前鬼であったが、「危険は無い」と宗意軒が告げる。

 

 そうして完全に世界が姿を変えて現れたその景色は、まさしく地獄であった。

 

「これは……」

 

 式神が、思わず息を呑む。

 

 そこは、合戦跡のようだった。戦に勝った側の軍がそうしたのだろうか、無数の首が晒されている。その数は千や二千ではきかない。視界の果てまで続き、万にも届くであろう。しかも異様なのは、晒された首は殆どが脳天から唐竹割りにされたように二つに割られている事だった。

 

「これは俺が見た未来……今から数十年後の未来、肥前の国、島原の情景だ」

 

「これが……未来の光景だと?」

 

 信じられないという風に、前鬼が呟く。第一、これでは話が違うではないか。この先三百年には、太平の世が訪れるのだと、宗意軒は今し方言ったばかりではないか。

 

 先程と同じく前鬼の表情からその疑問を読み取って、宗意軒はこう言う。

 

「これも……いつの世も絶えた事の無い問題だ」

 

 やはりはぐらかすような物言いだったが、それだけでも前鬼にはピンと来るものがあった。

 

「……一揆か」

 

「ああ」

 

 宗意軒は頷いた。

 

「続く飢饉、容赦の無い重税。そんな苦しみの中で神に縋る事すら禁ぜられ、家畜同然に虐げられる日々……一揆が起こらなかったら不思議なぐらいだ」

 

「だが、所詮彼等は農民……侍に敵う筈が無い」

 

 表情を押し殺した前鬼の厳しい指摘に、同じように無表情の宗意軒は首肯した。

 

「時の幕府は十二万の軍を出動させ、百日にも渡る無惨な戦いの末に一揆勢三万七千を全て殺し、しかもその戦果を誇大に伝える為に一つの首を二つに断ち割り、四万五千の首を得たと称して、勝利の酒に酔うのだ」

 

「……惨い話だな」

 

「見せしめの為の殺戮。支配の鎖から逃れようとした者の末路。人は飼い犬となる為に生まれるのでは断じてない……!! 分かるか、式神」

 

 語る宗意軒の口調は、いつになく熱を帯びていた。

 

「太平の時代と呼ばれようと、その陰では常に血が流され続けるのだ」

 

「むう……」

 

 死霊術師の言葉は、前鬼もまた常々感じていた事だった。思い出すのは数百年も昔、自分がまだ人間であった頃。

 

 世は「平安」という名とは似ても似つかぬ鬼哭啾々の時代であった。民は飢え、貴族達は権力闘争にのみ明け暮れ、京の都では鴨川に処理出来ぬ屍体が打ち捨てられ、糞尿は垂れ流し、それによって疫病が蔓延して町中にまで屍体が溢れ、病人は家から追い出されて野垂れ死ぬ。しかもそれが当然となってしまってまさに世も末という有様だった。

 

 その末世を生きた者として前鬼は、あの暗黒の時代の再来だけは是が非でもさせる訳には行かなかった。その為にはこの国を覆う古き闇を払い、陰陽師の時代を終わらせなければならない。彼はそう思って、半兵衛と共に戦ってきた。

 

 そして、宗意軒は。

 

「お前は……」

 

 式神が何事か言い掛けた、その時だった。

 

『おおっ、四郎様!! 何というお姿に!!』

 

 不意に、声が上がった。反射的に二人が視線を向けた記憶の映像の中では一人の老人が、晒されていた中で生きていた時はさぞや眉目秀麗な青年だったであろう首を抱え、泣き叫んでいた。

 

「あれは……」

 

 思わず、前鬼は言葉に詰まる。宗意軒は無言のままだ。

 

 青年の首を抱えて泣き続ける老人は、髪は真っ白になって、顔は年輪のように無数の皺が刻まれ、これまでに彼が忍んできた数々の苦労が垣間見え得るかのようにやつれている。前鬼は、初めて見る筈の彼に見覚えがあった。

 

 思わず、宗意軒を振り返る。あれは……

 

「ああ、数十年後の俺だ」

 

 ネクロマンサーはあっさりと認めた。そうこうしていると、未来の記憶の中でひとしきり泣き終えた老人は大きく天を仰ぎ、しわがれた声で叫んだ。

 

『神よ!! 全能にして万物の創造主よ!! 見よ!! あなたのしもべ達の屍を!! 何故あなたは応えなかったのです!? 彼等の血みどろの祈り、彼等の惨たる戦いの中で、何故あなたは沈黙を守ったのですか!?』

 

 年老いた宗意軒のその言葉は、嘆きのようでもあり呪詛のようでもあった。

 

『思えばこの九十余日、我等は神の国と神の義を求めて戦い、ひたすらあなたの御名を称えてきた!! 老若男女、幼子の端々に至るまで、骨を噛む苦しみに耐えながら、絶え絶えの声で祈りを唱え続けてきた!! 何故、我等を見捨てたもうたのです!! これが、あなたを信じ縋った者への仕打ちだと言うのですか!!』

 

 老人の目からは、既に涙は涸れていた。代わりに血が、両目の涙腺を破り裂いて止め処なく流れ続けていた。

 

「……お前の望みは、この未来を変える事か」

 

 前鬼の問いに神妙な顔の宗意軒は無言のまま、深く頷いた。

 

 成る程、と前鬼は頷いて返す。確かにこのような未来を見たのなら、それを変えようと動いたとしても不思議ではない。一つの疑問に対して示された答えには、納得が行った。だがまだ、問わねばならない事が残っている。

 

「未来を変えると言ったが……どのようにして変えると言うのだ?」

 

 その問いを受け、宗意軒はすっと二本の指を立てた。

 

「鍵を握るのは二人……織田信奈と、銀鏡深鈴だ」

 

「あの二人が……? どういう事だ、詳しく話せ」

 

 式神の求めに頷き、死霊術師は話を続けていく。

 

「先程俺が言った未来に、織田信奈は居ないのだ」

 

「……死んだのか?」

 

「そうだ。正確には、殺された。京は本能寺で、明智光秀に叛かれて、な」

 

「バカな、何かの間違いであろう」

 

 宗意軒の話自体は真剣に聞いていた前鬼であったが、しかし今の話は一笑に付してしまった。あの生真面目で一途な明智十兵衛光秀が、織田信奈を弑逆するだと? 明日の日の出が西から出ると言う方が、まだ信じられるというものだ。

 

 これは予想出来た反応であり、宗意軒は怒らなかった。代わりに苦笑する。

 

「だが間違いはないのだ、俺の見た未来ではな」

 

「ふむ……まぁ、良かろう」

 

 そんな事で自分を騙しても意味は無かろうと結論付けて、前鬼は話の続きを促す。

 

「織田信奈は、希代の革命児だった。彼女が生き続けて天下人となれば、未来は姿を変えた筈なのだ。だが、その為には条件がある」

 

「条件だと?」

 

「そうだ。これは俺の予想だが……恐らくは俺が見た未来で、仮に明智光秀が暗殺に動かなかったとしても、織田信奈が天下人になる事はなかったと思うのだ」

 

 何故だと、当然ながら前鬼が尋ねる。その問いに対する宗意軒の答えは、簡潔だった。

 

「彼女が、第六天魔王であったからさ」

 

「何だと……!?」

 

「俺が見た未来での織田信奈とは母親に憎まれ、弟を斬り、斎藤家を奪い取り、叡山を焼いて空前絶後の殺戮を行い、破壊の限りを尽くした魔王であったのだ」

 

 前鬼は首を傾げる。そのような魔王は、到底自分や半兵衛が知る織田信奈像とは結び付かない。しかし仮に信奈が宗意軒の言うような第六天魔王の化身のような女であったとするなら、確かに天下人にはなれぬというのも道理に思える。

 

 産み落とされた母の御前に命を狙われ、血肉を分けた舎弟を斬らねばならぬとあれば、人間が信じられず人柄が強く冷たくなり過ぎてしまうのは容易に想像出来る。人間、母から命を狙われるようではこれ即ち天地の憎まれっ子。仮に明智光秀が背かずとも、運命的に必ず誰かの叛乱で命を落とす事になる。この世は人間が集まり住む衆生界なのだ。人間不信の者に治められる訳がない。必ず中途で挫折したであろう。

 

 しかしだとするなら、現実の織田信奈をたった今宗意軒が語った魔王とは似ても似付かない女の子で居させている要素とは、一体何だ?

 

 そこまで考えた所で、前鬼は一つの結論に思い至った。

 

「まさかそれが……!!」

 

「そう、銀鏡深鈴だ。俺の見た未来に居なかった彼女が天命を動かして、織田信奈を魔王にはさせずにいる」

 

「銀鈴が……」

 

「ああ。だが、それで良いのだ。人の上に立つ者は清廉潔白で良い。いや、そうでなくてはならない」

 

 この意見には前鬼も同意だった。英雄と魔王、人々にこの二者の内どちらに上に立って欲しいかと問えば、返ってくる答えなど自明の理だ。

 

「だが……英雄であるからこそ出来ない事もあるだろう。逆に言うと、魔王であるからこそ出来る事がある」

 

「……それは……」

 

「……確かに、俺の見た未来で織田信奈は魔王だったが、しかし彼女の為した事には意味があった。彼女が起こした戦はあまりにも惨く、苦しく、故に二度と起こしてはならぬと人々の骨身に刻まれ……また、叡山への焼き討ちは確かに限度を超えた暴挙ではあったが、いずれ誰かがやらねばならぬ事でもあったのだ。たとえ、魔王と呼ばれようともな」

 

 神仏や寺社それ自体には何の罪も無い。だが宗教がそもそも人の弱さを救う為のものであるならば、断じて武力に手を染めてはならない。それは単純に敵も味方も多くの命を失わせるという事だけではなく、信仰すべきものの為に彼等に血を流させる、神仏を悪魔に変えてしまう最大の背教なのだと、宗意軒は考えていた。彼が見た未来で、だから叡山は滅びたのだ。

 

「そして織田信奈が魔王にならぬのなら……誰か他の者がその役目を担い、魔王とならねばならないだろう? この天下が次の段階に進み、真に太平の時代を迎える為には”誰か”の手によって何万斗という血が流される事が、必要不可欠なのだ」

 

 その血を流させる者が、織田信奈であってはならない。”誰か”、他の者の手によって為されねばならぬのだ。

 

 平和の為に人を殺す。矛盾と皮肉に満ちた結論だと言える。それを実行した者は未曾有の大罪人となるであろうが、しかし、もしその犠牲が後世の平和に繋がったならば、一転して必要悪であったと評価される事だろう。流された血は、大いなる成果の為の致し方のない犠牲だったのだと。絵巻物のように未来を見る事が出来る宗意軒がこの答えに至ったのは、そうした理由からだった。彼は落ちていた山高帽を拾うと、ぽいと前鬼に投げ渡す。

 

「それを、深鈴様に渡してくれ。俺の形見だ」

 

「宗意軒、お前は……」

 

「この国に溜まった”膿”は、全て俺が吸い出して持って行く。もう……あの人達の所には、戻らない」

 

 前鬼は、まだこの時ならば宗意軒を腕ずくで止める事も出来た。だがしなかった。歴史の変わり目には必ず血が流れる事。新しい時代を迎える為には誰かが泥を被り、業を背負わねばならない事。これは歴史が証明している。そして織田信奈が魔王となってはならぬ事もまた、同じように彼が感じていた事でもあったからだ。

 

 式神はもうそれ以上は何も言わずに背を向けると、現れた時と同じ「コーン」という独特の声と共に姿を消してしまった。後には宗意軒だけが、彼の記憶の情景の中に残される。

 

「伝えるべき事は、伝えた」

 

 誰にともなく、そう呟く。

 

 宗意軒が前鬼に語った言葉、それらは全て嘘偽りの無い真実だが……語っていない事が、二つだけある。

 

 一つには、深鈴が未来から来た者であるという事。彼は以前に一度、彼女の天命を読み取ろうと試みて、そして驚いたのを覚えている。深鈴の宿星は、本来ならばその光が自分達の元へ届くには、後数百年の歳月を要する筈の星であったからだ。驚きはしたが……しかしだからこそ、納得もした。何故に彼女に天命を、未来を変える力を持っているのか。

 

 それは、彼女がこの時代の人間ではない故ではなかろうか。本来、運命とはどう足掻こうとそうなるように定められて、変える事の叶わぬものだが……この時代の者ではない深鈴だけは、その因果に縛られないのだとしたら……?

 

 未来予知以上に突拍子も無い話で、確たる事ではない故に前鬼には話さなかった。

 

 そして、もう一つ。自分の目的について。

 

 これは前鬼に話した通り、未来を変えてこの国を真の太平に導く事で偽りは無いが……他に一つ、取るに足りない小さなものだが、動機となるものがある。

 

 不意に、空間に投影された記憶の中で、老人になった宗意軒が叫んだ。

 

『主よ!! お答え下さい!! あいつが……ルイズが!! 恐怖と恥辱に塗れながら、それでも最期まで説き続けたあなたの教えは、こんな結末を迎える為のものだったのですか!?』

 


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