織田信奈と銀の鈴(完結)   作:ファルメール

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第28話 戻らなかった男

 

「銀姉さま!! ねねは、ねねはずっと、お帰りを待っていたのですぞ!!」

 

 京、妙覚寺。

 

 六百名の足軽達と共に帰還を果たした深鈴は目を涙で一杯にした信奈を初め、感極まったという風な織田家臣団に出迎えを受けた後(何人かには幽霊ではないかと本気で疑われたが)、本来の役目であった京の留守番役に戻されていた。

 

 この寺を発つ前はのんびりとした仕事と思われたこの役目も、六角承禎や三好三人衆らが隙あらば京に攻め入ろうとしている今では、責任重大な要職である。

 

 とは言え、信奈は浅井・朝倉連合軍を坂本の地にて迎撃する為に出陣する際、深鈴の麾下にあったものとは別の守備隊を新たに編成して配置しており(勿論、現在彼等への指揮権は守備隊長である深鈴にあるが)、これは差し当たっての第一線から深鈴達を遠ざけ、休養して疲れを癒せという配慮である事は明らかだった。

 

 深鈴としては未だ織田家への危機が去っていない現状で自分達だけ休む事には抵抗があったが、しかし金ヶ崎から京まで不眠不休の逃走劇を演じてきて、体力的にも限界が来ているのも自覚していた。撤退戦の最中は極限の緊張状態故、脳内でアドレナリンやらドーパミンやらがドピュドピュ分泌されていたせいか感じなかったが、生きて逃げ延びた事で気が緩んで、急にその疲れが噴き出てきている。

 

 この疲労困憊では頭の回転も鈍くなって役には立てないだろう。京をしっかり固めるにせよ、改めて信奈の元に馳せ参じるにせよ、まずは体力を回復させるのが急務であると見た深鈴は宿として部屋を借りているこの寺へと戻っていた。

 

 そうして寺の門をくぐり、草鞋を脱ぐ頃にはいよいよ気が緩んで、鉛製の外套を羽織っているように体が重くなっているのを自覚するようになった。

 

『疲れた……早く布団の中に入りたい……泥のように眠りたい……』

 

 と、寺の襖を開けた深鈴は、飛び出してきたねねにむぎゅ~っ、と抱き付かれていた。

 

 疲労困憊の深鈴の中には早く解放されたい、わずらわしいと思う気持ちも確かにあったが、しかしそれよりも泣き腫らして真っ赤になった目で、嬉し涙を流しながら抱き付いてくるねねを見て、ここまで自分を想ってくれる事を嬉しく思う気持ちの方が遥かに強かった。

 

 怖い夢を見て寝所に飛び込んできた時にそうするように、そっと背中を撫でてやる。十分もそうしていただろうか。漸く落ち着いたねねが満面の笑みを向けてくるのを見て、疲れは隠せないが、それでも今の自分に出来る精一杯の笑みを返す深鈴。

 

『……この笑顔を見れただけでも、帰ってきて良かった……』

 

「よくぞ、ご無事で……」

 

 二人の間に在る素晴らしい空気を乱してはと思ったのか、それまで無言でいた半兵衛が進み出てきた。

 

「半兵衛、もう体調は良いの?」

 

「はい、先生のお薬とねねさんの看病のお陰で熱も下がって、もうすっかり良くなりました」

 

 後もう一つ付け加えるとしたら、栃餅であろうか。究極的に病を治すのは医者でも薬でもなく、肉体そのものである。十分な休息と滋養のある食事こそ何よりの薬だ。

 

 奥飛騨出身の食客によってもたらされた江馬の栃餅は、最初は病人食として半兵衛や道三に出されたものだが、今や深鈴に近しい者達の間では静かな栃餅ブームが到来していた。

 

 しかし、その効果たるや絶大。曲直瀬ベルショールは半兵衛の体調が戻って起き上がれるようになるまで後一週間はかかるであろうと見立てていたらしい。こうまでめきめきとした回復を見せた裏には、三食に合わせて食べていた栃餅の蜂蜜煮の効果があった事は想像に難くない。栃餅パワー恐るべし。

 

「……申し訳ないけど半兵衛、私はそろそろ体力の限界なので……一眠りするわ。その間、京守備隊の指揮権をあなたに一時委譲したいのだけど。お願い出来る?」

 

「お任せ下さい。銀鈴さんは何も心配せず、ゆっくり休んで疲れを癒してください」

 

 軍師という立場にありながら金ヶ崎の撤退戦に同道出来なかった事を負い目としている半兵衛は、今こそが汚名返上の時であると自信の笑みを見せる。今孔明と呼ばれる天才軍師の指揮とあれば、京の守りはまず大丈夫だろう。深鈴も安心した笑みで頷く。唯一の懸念は代理として遣わした前鬼が未だ帰還しない事だが……半兵衛によると前鬼はまだ無事でいるらしい。それに、京を流れる龍脈がある限り、彼は実体を保てなくなる事はあっても半兵衛が再度護符に念を込めればまた喚び出されてくる。今しばらくは様子見の構え、消えてもいないのにいつまでも帰還しない場合には、別途で強制的に呼び戻す術を使う、との事だった。

 

 取り敢えずはこれで、良し。一通りの状況確認と指示を出して安心した事で、深鈴は自分を襲う眠気がより強くなったように思えた。だが……何もかも忘れて眠りに落ちるには、まだ一つ問題が残っている。

 

「銀姉さま~。銀姉さま~」

 

 ねねが、ぴったりとくっついて離れない。半兵衛は「ねねさん、銀鈴さんは疲れてるんですから……」と、言いそうになって思い留まった。幼子の屈託の無い笑みを無為に曇らせるのは、憚られた。同じ理由で深鈴も、何と言って良いやら迷う。ここで無理に引き剥がすのは、あまりにも無情というもの。

 

 とは言え、眠気も限界。眠い眠い眠い。流石の織田家随一の知恵者も、今は一秒でも早く寝る事しか頭になくなっている。かくなる上は……

 

「ねね……私と一緒に、お昼寝する?」

 

「!! おう、ですぞ!! 銀姉さま!!」

 

 普段の深鈴なら起きた時に寝小便で服を濡らされるのではと懸念する所であるが、今の彼女からはそんな思考力すらも失せていた。眠い眠い眠い眠い眠い眠い眠い。脳梁はもうその二文字で埋め尽くされている。

 

 抱き付くねねを引き摺ったまま、深鈴は寝所の襖を閉じてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 一方、坂本の地では勝家率いる第一陣一万五千と、信奈自らが指揮する第二陣一万、合わせて二万五千の織田軍と、浅井朝倉勢一万八千とが相対していた。

 

 浅井朝倉連合の内訳は、浅井勢一万三千、朝倉勢五千である。これを受けて、

 

「義景殿、これはどういう事か!!」

 

 と、不満げな声を上げるのは、実子である長政を幽閉して浅井家当主の座に返り咲いた浅井久政である。

 

 久政にしてみればこの戦は、様々な思惑が絡み合って参戦を決めたものだった。

 

 まず、我が子長政を天下人にしたいという親心が一つ。もう一つには、恐れ多くも姫巫女様の御前で「この国から身分を無くす」と放言し、やまと御所を滅ぼさんとする信奈の叛心を見抜いた関白・近衛前久よりの密書を受け、謀反人を成敗して朝廷への忠義心を見せんと一念発起した事。この二つはいずれも彼個人の感情によるものなので、誰に文句を言われたり、また言ったりするものではないと彼自身良く理解している。

 

 だがもう一つ。そもそも婚姻による同盟関係を反故にする(尤も、織田から嫁いできたお市の方は男だったが)という非常手段を以て兵を動かした切っ掛けは、大恩ある朝倉家が攻められたが故である。今日の浅井家が在るのは朝倉家あったればこそ。ならばその恩に報いてこそ武人と、良くも悪くも旧い人物である久政は朝倉を助けようと出陣したのだ。

 

 つまりこの戦の主体となっているのは攻めた織田と、攻められた朝倉。浅井はあくまで朝倉方への援軍という立ち位置である。

 

 なのに主軍たる朝倉勢が浅井の三分の一の兵しか出さないのは、一体どういう了見か。よもや義景殿は、武人の義に従って馳せ参じた我等と織田軍とをぶつけ合い、互いが消耗した所を漁夫の利を得る気なのではあるまいな。と、いくら戦下手と言われる久政でも、そう疑いたくもなるのは道理であった。

 

「今の余には、これだけの兵を出すのが精一杯だわ」

 

 答えるのは年の頃三十ほどに見える、公家衣装を着た美形の男。名門朝倉家十一代目当主・朝倉義景である。

 

「まず久政、先の金ヶ崎の戦いの折、我が軍が後背より、織田勢の奇襲を受けた事は聞いているな?」

 

「う、うむ……しかし、相手は結局千ほどの兵だったのであろう? そやつらを逃がしたにせよ、義景殿の兵は二万。大きな被害が生じるとは思えぬが……」

 

 そう返されて、義景は少し失望したようだった。

 

「それが、そうでもないのだ」

 

 今度は軍略の才に乏しい久政にも分かるように、一からこの状況の説明を始める。

 

「真柄姉妹の報告によれば、我が軍二万の内、金ヶ崎城攻めに残した二千を除く一万八千の軍は、織田信奈本隊を追撃する事のみに専心して後方からの攻撃など全く考えていない所に、背後から追い討ちを受けた。当然、攻撃に気付いた直隆・直澄以下部将達は兵を反転させて迎撃しようとするが、踏み留まろうとする者、先に進もうとする者、最後尾で真っ先に奇襲に気付いて逃げようとする者らが折り重なって将棋倒しのようになった所に突っ込まれ、しかも追撃の為に長蛇陣を取っていた事が仇になり、兵のほぼ全てが戦闘に巻き込まれた。更には織田軍が中央突破した後では同士討ちが起こり、最終的な死者は五千に上ろうかという有様だった」

 

「し、しかし……それでもまだ一万以上の兵が義景殿には……」

 

「話は最後まで聞け。兵の損害も重大だが、合戦の最中で侍大将・足軽大将は勿論、部将が討たれ、采配を取る者が居なくなって戦闘力を失った部隊が少なくなかったのだ。そして更に重要なのが、兵の士気だ」

 

「士気……と?」

 

 「そう」と義景は頷く。

 

「まず五千もの兵が行軍中に、たった一度の戦で、しかも一方的に、夜闇に紛れて敵の姿も見えずに討ち取られたのだ。それだけでも士気は底辺にまで落ちるが、それ以上に問題なのが、攻撃を受けた方向だ」

 

「方向……と言うと?」

 

 鸚鵡返しされて、流石に義景もやれやれという表情になった。戦下手とは聞いていたが、ここまでとは。これは余程、しっかりと噛み含めて説明してやらねばなるまい。

 

「我が軍は後方からの攻撃を受けた。後方とはつまり、我が領地である越前の方向だな。これは、織田軍に自国への侵入を許したのと同義なのだ」

 

 ここまで言えば、流石の久政にも分かったらしい。「あっ」と声を上げる。

 

 戦の最中に、敵が自領へ侵入するほど拙い事は無い。領地が焼き討ちに遭ったり、最悪の場合居城を占拠させるという事態すら有り得る。

 

「同じ懸念を、我が軍の諸将も抱いてな。真柄姉妹が「後方に残っていた織田勢は、あくまで本隊の撤退を支援する為の少数部隊だ」と説いても、焼け石に水であったわ。残った一万三千全体に、万一の場合に備えて引き返すべきだと、厭戦気分が蔓延したのだ」

 

 こうした事情から義景は兵を二つに分け、負傷者を含む部隊を本国の守備に帰還させ、残り五千の兵を浅井勢に合流させたのである。

 

「しかも、斥候として放っていた者の中には山中に怪物が出たと叫ぶ者もおり……これは何かの祟りではないかと兵が不安がって、その点でも士気が落ちている」

 

 それを聞いて久政は内心「ぎくり」とする。彼もまた、若狭の山中に先陣を広く展開して尾張勢の捜索を行わせていたが、戻ってきた者達は恐怖のあまり顔をぐしゃぐしゃにして、涙ながらにこう訴えたのだ。

 

「山中で化け物を見た」

 

「死人が生き返って歩いていた」

 

「地獄の亡者が現世に彷徨い出てきた」

 

 中には余程怖い目に遭ったのか髪を真っ白にして涙ながらに訴える者も居たが、久政は「何を戯れ言を」と取り合わず、数名を手打ちにして残った者は「こんな腰抜けにある事ない事吹き込まれては、兵全体の士気が鈍るわ」と、隔離してしまったのだ。そうして流言の蔓延を防いだは良いが、昔から人の口に戸は立てられずと言う。一人二人ならいざ知らず何十人もが口を揃えて言っているのだ。如何に荒唐無稽な話とは言え迷信深いこの時代である。浅井勢は不安がって、何となく士気が振るわなかった。

 

「更に言うなら久政、そなたも織田勢の奇襲によって、いくらかの兵を失っておろう?」

 

 指摘されて、久政はぐっと言葉に詰まる。その通り、浅井勢の先鋒は進路に待ち伏せしていた織田殿軍の奇襲を受け、思わぬ被害を受けて後退。二百名ほどの尾張兵を討ち取ったものの、信奈追撃の速度が大幅に鈍る結果となってしまった。

 

「殿軍となれば、逃げながら戦うものと決めてかかっておった故に、意表を衝かれた……まさか向こうから何倍もの敵に突っ込んでくるとは……」

 

「そう、それよ」

 

 味方に多大な被害が出た話なのに、それを語る義景の口調はどこか楽しそうですらあった。

 

「誰もが、そんな事をする筈がない。そう思い込んでいるからこそ、敢えてそれを実行してくる。仮に頭でそうする事が最善と考えたにせよ、実際に僅かな兵で二万近い大軍の中に突入し、数倍の兵に向かって行ける者などどれほど居るか……恐るべきは織田の今信陵君、と言うべきか」

 

「銀の、鈴……!!」

 

 「おのれっ……」という言葉と共に、久政の口元から噛み締めた奥歯がぎりりと軋む音が鳴った。

 

「本来、朝倉と浅井が合体すればその兵力は三万五千にもなる計算であった。しかし今、実際にここに在るのは一万八千。およそ半数だな。どこまでが奴の計算であったかは余にも分からぬが、結果的に銀の鈴はたった千の兵で、一万七千の軍勢を無力化した事になる……」

 

 義景の声には畏敬の念すらもが宿っているようだった。

 

「春秋戦国の昔、唐国の信陵君は魏王の弟であった。当時、魏の国は強国・秦の宰相である范雎(はんしょ)から恨みを買っており、いつ攻められてもおかしくないような状況であったが、政治家としても兵法家としても優れた信陵君が居るからこそ、迂闊に手を出せなかったという……銀の鈴の才知。成る程、戦国四公子が一角に喩えられるに相応しい。織田信奈共々、余の物としたいものだ」

 

「義景殿……今は我が軍がどう動くかを決める時で……」

 

 気弱な声と共に縋るような目を向けられ、義景は哀れむような目を向けた。この男はその程度の覚悟も無く、身内を裏切るという一か八かの賭けに踏み切ったのか?

 

「あれほどの裏切りをやってのけた以上、今更和睦など、受け入れる訳があるまい?」

 

 久政は「その裏切りはそもそもあなたを助ける為で……」と言いたかったが、思い留まった。愚痴よりも、今は次にどう動くかを決める事が先決である。

 

「かと言って退けば、追い討ちを受けるは必定。加えて朝倉勢・浅井勢共に銀の鈴には完全にしてやられて、兵の間には不満が蓄積している。初手で決戦を避けて消極的な策に出ては、鬱憤の捌け口を失って略奪や乱暴狼藉に走る者が出てきて統制が取れなくなる危険もある。最終的に攻め切るにせよ退くにせよ、どのみち一度は矛を交えねばなるまい」

 

「勝てるでしょうか?」

 

「数の上では我等が不利なれど、尾張兵は日ノ本最弱。対して我が軍には真柄姉妹もおり、浅井勢も名のある戦巧者が揃っていると聞く。後はそなたが前線に近い場所で指揮を執れば、兵の士気も戻るであろう。なれば勝算は、十分にある」

 

「……それでも、万一負けた場合は?」

 

「その時は、叡山に逃げ込めば良い。叡山は女人禁制の霊山、姫武将ばかりの織田勢では攻めあぐねるだろうよ。僧兵を統率する正覚院豪盛とは、既に話も付いている」

 

 負けた時の保険も打たれている。それを聞いて、やっと一安心したように久政の顔色は明るくなったが、すぐに先程までの不安げなものに戻ってしまう。義景はそれを見て溜息を一つ吐くと、「まだ何か?」と尋ねた。

 

「織田軍は南蛮の新兵器を備えているという。ワシも実際に見た訳ではないが、難攻不落を誇った南近江の観音寺城が、一時(二時間)と保たずに瓦礫の山に変えられたとか。もしそんな恐ろしい兵器を持ち出されたら、なんとしたものだろう?」

 

 この懸念は尤もなものであり、義景も真剣な表情になった。「余も見た訳ではないが……」と前置きする。

 

「乱波などからの報告を総合すれば恐らくそれは大筒を何倍にも大きくしたような攻城兵器であろう。破壊力がある分、一発撃てば弾込めに要する時間は種子島などとは比較にならぬであろうし、城や砦のように大きく動かぬ物を狙い撃つ事を前提として造られている筈。肉迫すれば逆に近すぎて狙い撃つ事も出来ず、また敵味方が入り乱れればそこに撃ち込む訳にも行くまい。被害を受けるとしても最初の一射のみ。大きな脅威とは、なり得ぬだろう」

 

 彼の分析は実物を見た訳でもないのに、恐ろしく的確であった。久政は感心する他無いという表情である。

 

「それより問題は、この地での敗北した場合に叡山に籠城する際の策だが……これは、籠城戦の定石として織田軍が崩れるのを待つ事になるな」

 

「しかし義景殿、十二月になればあなたの領国・越前への道は雪で閉ざされまするぞ?」

 

「その前に、勝利は我等の手に転がり込んで来よう」

 

 浅井・朝倉勢が叡山に籠城となれば、当然の事ながら織田勢は山を囲むようにして包囲網を敷くだろう。つまり、京が手薄になる。その隙を見計らって、四国の三好一党が畿内へ再上陸し、空き家同然の京を衝くまでの時間は……

 

「二週間。二週間も籠城戦を続ければ、勝利は我等のものとなろう」

 

 そこまで言った所で義景は何かを思い出したような顔になって「そうそう、空き家を衝くと言えば」と口にする。

 

「そなたの居城である小谷の守りはどうなっているかな? 浅井の主力は殆どここにある筈。美濃の斎藤道三は甲賀の六角承禎と東の武田信玄に挟まれて迂闊には動けぬだろうが、銀の鈴の例もある。この状況で打って出てくる訳が無いと我等も、六角も、武田信玄ですらもが決めてかかっているからこそ、敢えて打って出て手薄な小谷を攻めるという事態も考えられるが?」

 

 試されるようにそう言われて、しかしこれには戦下手と呼ばれる事に慣れている久政でも、自尊心を傷付けられたらしい。顔が紅くなってむっとした表情になる。

 

「如何にワシが戦は不得手と言っても、本拠地をがら空きにする程、愚かではない。小谷には、留守の守りとして十分な数の兵は残しておるよ。仮に斎藤道三が攻め寄せたとしても、城が落ちるよりも義景殿の策の通りに織田軍が瓦解する方が、余程早いだろう」

 

 

 

 

 

 

 

 同じ頃、織田軍の本陣でも軍議は行われていた。

 

「我が軍は二万五千、浅井・朝倉連合は一万八千。兵力的にはこちらが有利ですが……朝倉勢は真柄姉妹が率いられる精鋭。浅井勢も強兵揃いであり、楽観して良い相手ではありません。まともにぶつかり合えば良くて互角、下手をすれば我々が敗北を喫する可能性も決して少なくはないかと……」

 

 中央の大机に広げられた周辺地図に描かれた両軍の陣立てを扇子で叩き、長秀が状況を説明していく。

 

「更に甲賀の六角承禎、四国の三好三人衆など、隙あらば京に攻め入ろうと我等の隙を虎視眈々と狙っており、時間を掛ければ掛ける程、我々は不利となります」

 

「つまりは突撃して、一気にやっつければ良いんだな!!」

 

 ばしっと、拳で掌を打つ勝家。普段なら皆が苦笑いして、辞書には「突撃」の二文字しかない彼女は照れたように返す所だが……しかし、この度は場の全員が「うんうん」と頷いていた。予想と違っていた反応に、鬼柴田は戸惑ってしまう。

 

「その通り、今回は可能な限り短期決戦で決めるのが上策。勝家殿、九十点です」

 

「長秀がそんな高得点をくれるなら、間違いないな!! よしっ、ならばあたしが一番槍を……」

 

「まぁ、六、待ちなさいよ。軍議はまだ途中よ」

 

 今すぐ飛び出して行きそうだった勝家を、信奈が窘める。確かに長秀の採点通り、短期決戦を狙うのは戦闘方針として悪くない。ならば次は、どのようにして短期決戦に持ち込むかを考える段だ。今回の敵は強い。数的優位にあるとは言え、油断は禁物である。

 

「つまり……何か策を使って戦うべきという事ですね」

 

 これは光秀の発言である。だが、一言に「策」と言っても色々ある。どのような策を以て決戦に望むのが良いだろうか。

 

「それならば……向こうが持たずにこちらだけが持っている武器を、最大限に活用するのがよろしいかと」

 

 と、久秀。確かにこれは正論だ。自軍独自の優位性を最大限に活かすのは、戦術の基本。この発言を受け、場の視線が一人へと集中する。源内へと。織田家中での身分は持たずあくまで深鈴個人が囲っている食客である彼女だが、火砲部隊の責任者としての立場からこの軍議の席に呼ばれていた。

 

「ご期待に背くようで申し訳ありませんが……」

 

 天才カラクリ技士は、困ったように自慢の赤毛を撫でる。

 

「轟天雷・母子砲といった大砲は、あくまで攻城兵器。兵士や騎馬のように小さくて素早く動くものに命中させる事は出来ませんし、火砲部隊は目立って敵の標的になりやすい上、近付かれたら抵抗出来ずに撫で切りにされます。かと言って護衛の為に部隊を割けばその分、白兵戦を戦う兵の数が減りますし……乱戦になって敵味方が入り交じれば、そこに撃ち込む訳にも行きません」

 

「つまり、どういう事なんだ?」

 

「城攻めの戦以外では最初の一発を敵軍に撃ち込むぐらいしか使い様が無い、という事です。一発撃ったら次弾の発射準備を整える間に、自軍も敵軍も動くでしょうから。重量があって動きも鈍い大砲は、その動きに対応する事は出来ません」

 

 勝家の質問に、源内はざっくりと答える。その後、「これは戦は素人の私でも気付く事なので、恐らくは敵方も同じ結論に辿り着いていると思います」と、付け加えた。観音寺城での戦いでは凄まじい破壊力を見せ付け、無敵にも思えた火砲部隊であったが、以前に深鈴が指摘した通り弱点も多かった。すると今度は、光秀が挙手する。

 

「墨俣防衛戦の時に子市さんがしていたように、発射する砲を何組かに分けて、連射する事は出来ないですか?」

 

「……結論から言うと、難しいです。大砲は一発撃ったら弾込めには種子島よりずっと長い時間が必要となりますし、何より轟天雷・母子砲は合わせて十一基しかありません。もし軍団相手に使う場合は種子島と同じで数を揃えて一斉に撃たねば効果は薄いので、そのような運用は現実的ではありません」

 

 技術屋らしく、源内は曖昧な事は言わなかった。

 

「要するに、大砲は軍団相手には実質的に最初の一発しか撃てないんでしょ? だったら、その一発を如何に効果的に使うかを考えるべきね!!」

 

 落胆の空気が漂い始めた軍議の空気は、信奈がその鶴の一声にて切り裂いた。この辺りの切り替えの早さは、やはり非凡なものがある。

 

「聞くけど源内、あんたの大砲って、城みたいな大きな目標じゃなくても、例えば特定の地点を狙って正確に当てる事って、出来る?」

 

「可能です。轟天雷の射程距離はおよそ二里(約8キロメートル)。その範囲内であり、尚かつ目標地点までの正確な距離や風向き・気温などといった情報が揃っていれば、弾着を五間(約9メートル)四方に集める事は、私なら出来ます」

 

 明瞭な返答を聞き、信奈はにんまりと笑う。

 

「それだけの精度があれば、十分よ。あんたの大砲、この戦の趨勢を左右するものになるわ!!」

 

 そう言い放つと、信奈は自ら立案した作戦を述べていく。そして十分程が過ぎて説明が終わった後には、

 

「凄いです、姫様!! それなら勝てます!!」

 

「……面白い」

 

「その策が図に当たれば、いくら浅井・朝倉兵が強くても関係無いです!!」

 

「その発想はありませんでした。源内殿の射撃が言葉通りの正確さを持っている事が前提条件となりますが……九十七点です」

 

 大絶賛。久秀だけは、

 

「一歩間違えれば味方を吹き飛ばす事になる危険な賭けですが……しかしだからこそ、得る物も大きい。そういった大博打は私、好きですわ」

 

 と、どこか皮肉げにくすくす笑っていた。

 

 ともあれ作戦が決まった事で、武将達は慌ただしく動き始める。

 

「みんな!! 銀鈴はたった千人の部隊で生き延びるだけでも至難の所を、浅井・朝倉連合軍の半数を削ったわ!! ここまでしてくれたアイツの為にもこの戦、絶対に勝つわよ!!」

 

「「「承知!!!!」」」

 

 

 

 

 

 

 

 決戦が始まったのは、翌日の未明であった。昨夜は織田軍も浅井・朝倉連合軍も、敵軍が夜を徹して動き回って物々しい気配を発していたので「明日は決戦か」と予感していたのだが、見事に的中した。

 

「一の手!! 進め!!」

 

 まず動いたのは、織田軍だった。最前列に鉄砲隊を揃えた浅井・朝倉勢に対して、先鋒隊数千を前進させる。

 

 連続しては撃てないという種子島の性質上、一般的な運用法としては最初に一斉射を加えて敵軍の足を止め、その後は騎馬隊なり槍隊なりが出鼻を挫いた敵軍へと突入するというものだ。今回の浅井・朝倉勢もその定石に則り、織田軍先陣へと銃撃を加える。

 

 しかし次の瞬間、思いも寄らぬ事が起きた。

 

 迫り来る織田の第一陣は銃弾の雨を受けても、全く進軍速度を緩めなかったのだ。

 

「……流石、源内。腕は確か」

 

 先鋒隊を率いているのは犬千代だった。彼女と彼女の兵は、大盾の陰にその身を隠してただ真っ直ぐに進んでいく。

 

 その盾は、鉄砲の弾避けの為によく使われる竹束のようだった。しかし、形状は随分と変わっている。通常の竹束はその名の通り何本かの竹を円形に束ねただけの物だが、その竹束は青竹をV字形に並べて作られていた。

 

 しかも竹の表面には分厚い布を何重にも巻いて膠(にかわ)で固め、その上から蝋を分厚く塗って補強し、更に要所要所に鉄を使う事で補強してある。

 

 これも源内の発明品だった。

 

 西洋から伝来した火縄銃は、戦に革命をもたらした。道三や信奈のように先見の明を持った大名達は「天気でさえあれば鉄砲に勝る武器は無い」と、あの手この手で数を揃えようとしたし、並行して手探りながらも効率的な運用法を確立しようとしている。深鈴が採用している三段撃ちなどは、その一つの完成形と言えるだろう。

 

 同時に、鉄砲を封じる為の技術も研究が進んでいる。が、現在使われている通常の竹束程度では十分な防御力とはならない。源内はそこに改良を加えたのだ。

 

 V字に並べられた竹束は鎧を撃ち抜く程の威力を持った銃弾を受け止める為の物ではなく、進行方向にVの字の先端を向け、角度を付けて受ける事で、軌道を”逸らす”為の物であった。更に布や膠、蝋に鉄といった各種素材を組み込む事で強度を高め、防弾性能を向上させていた。

 

 この盾が鉄砲相手にどれほど有効なのかはたった今、犬千代率いる先鋒隊が弾雨に怯まず前進を続けられている事から、明らかである。

 

 そして三段撃ち等の戦法を持たない浅井・朝倉勢は、一発撃ったその後にはもう撃つ事は出来ない。

 

「……開け!!」

 

 朱槍を振って犬千代が合図し、それを受けた先鋒隊は左右に分かれた。すると当然、中央に”道”が生まれる。

 

「二の手!! 六!!」

 

「承知!! みんな、あたしに付いて来い!! 突撃だ!!」

 

 もう撃たれる心配は無いと、織田家中最強を誇る勝家の部隊がその”道”を、彼女を先頭に突入していく。

 

 無論、浅井・朝倉連合軍もこの間にぼんやりしていた訳ではない。弾を撃ち尽くした鉄砲隊は後方へ下がり、代わりに槍を持った部隊が前面に出る。

 

 柴田隊の速度は、速い。みるみる内に両軍の距離が縮まっていき、このままでは数十秒後にはぶつかり合う事となるだろう。その瞬間こそが分水嶺。この戦の勝者がどちらになるかが、決定付けられる。そうして先頭を切る勝家がとある一線を越えた瞬間、それを見て取った信奈が動いた。

 

「今よ三の手!! 火矢、放て!!」

 

 彼女の手がさっと振り下ろされ、同時に傍らに待機していた射手が、天空に向けて一本の火矢を放つ。

 

「源内様!! 信奈様よりの合図です!!」

 

「良し、撃てぇっ!!」

 

 主戦場の遥か後方に待機していた源内率いる火砲部隊がそのサインを認めると、間髪入れず十一基の大砲が一斉に火を噴いた。

 

 天地を揺るがすような大轟音の後、数秒間のタイムラグを置いて異様な風切り音が響き、恐ろしい速度で飛来した鉄球は今まさに勝家の部隊が突入しようとしていた浅井・朝倉勢が敷く陣の、前列の一角へと連続で着弾し、大地を抉って数百の兵を吹き飛ばす。

 

「今だ!! 突っ込め!!」

 

 未だ晴れぬ爆煙を切り裂くようにして、勝家率いる突撃部隊はたった今の砲撃によって浅井・朝倉勢に生じた隙間、兵士が吹っ飛んだ事によって生じた陣立ての綻びへと、突入した。彼女等が飛び込んだそこは、言わば千里の堤に生じた蟻の一穴。そこめがけて鉄砲水の如く突っ込んだ事で堤、つまり陣立て全体にまで亀裂が走る。当たるを幸い敵を薙ぎ倒す鬼柴田の槍働きに圧倒され、動揺は人から人へと広く、瞬く間に伝播して一万八千の兵の動きが、乱れる。

 

 ほんの僅かでも信奈が発射を指示するタイミングがズレていれば、あるいは源内の狙いがちょっぴりでも狂っていれば、吹っ飛んでいたのは浅井・朝倉連合軍ではなく勝家達の方だったろう。また、柴田隊への被弾を恐れてあまり早い内に発射を指示すれば、浅井・朝倉勢とて馬鹿ではない。すぐに狙いに気付いて、兵を動かして陣形に空いた”穴”を塞いだだろう。

 

 早すぎても遅すぎてもいけない、刹那の見極めを要する、久秀の言葉通りまさに一か八かの博打の如き戦法。しかし、ハイリスクにはハイリターンが付いてくる。信奈の見極めと勝家の勇気と源内の技量は、織田を賭けに勝たせたのだ。

 

「四の手!! 犬千代!!」

 

「承知!! 我等も突っ込む!!」

 

 たった今勝家達に道を空けた犬千代達も盾の陰から飛び出すと、柴田隊に後れを取るなとばかり浅井・朝倉勢へと斬り込んだ。

 

 兵に動揺が走って陣形が乱れていた所へ続け様に第二波攻撃を受け、浅井・朝倉勢の動揺と混乱はますます大きくなった。犬千代もまた、槍を振るえば織田家中随一の使い手との評判に違わず一振りで数人を吹き飛ばし、勝家に勝るとも劣らぬ働きを見せていた。

 

 だがこれで終わりではない。とどめとばかり、信奈は決め手を打つ。

 

「五の手!! 全軍突撃!! 者共、かかれ!!」

 

 総大将を先頭とした織田の全軍が、浅井・朝倉勢へと襲い掛かった。この時点で、大方勝負は決したと言える。

 

 混乱の極致と言える所に、数で勝る相手の一斉攻撃。こうなると如何に浅井勢が強くてもその能力を十分の一も発揮出来ず、手の施し様が無かった。連合軍は押しに押しまくられ、数千の死者を出して敗走。這々の体で叡山へと逃げ込んだ。

 

 すると織田軍は、当然の流れながら叡山を包囲する事となる。だがこれこそ朝倉義景の狙い通りであった。

 

 彼の地は女人禁制の霊山。姫武将ばかりの織田軍は攻め入るどころか踏み入る事すら許されない。そうしてこのまま睨み合いが続いていれば、手薄の京を三好勢が攻める。かと言って山の包囲を解けば、待ってましたとばかり背後から浅井朝倉勢に襲われる。

 

 圧倒的勝利を収めた筈の織田軍であったが今ここに退くもならず進むもならず、一転して進退窮まれりの状況へと陥ったのである。

 

 とは言え、総兵力の三分の一近い打撃を受けた浅井・朝倉連合とて打って出てくる事は出来ない。互いに身動きが取れず、戦局は膠着状態となってしまった。

 

 どうしたものかと軍議を開く織田軍だったが、今回は誰も妙案が浮かばない。唯一久秀だけが「山門そっくり焼き払えば良いのですわ」と提言したが、総反対を受けて却下された。

 

 この状況を受け、信奈は京へと馬を飛ばす。

 

「銀鈴と半兵衛を呼んできなさい!! あの二人なら、何か良い手を思い付くわ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 再び妙覚寺。

 

 その一室で深鈴がもぞもぞと布団から這い出た時には、既に日が傾いていた。眠ったのは昨日の昼頃だったから、丸一日以上眠っていた事になる。

 

 やはり心身共に相当疲れていたのだな、と、深鈴は自嘲するように笑う。

 

 しかしたっぷり三十時間近くも睡眠を取った事でひっきりなしに走っていた頭痛は吹っ飛び、今までに無い程の爽快感が取って代わっている。これほど体調が良いのも、久し振りだ。

 

 ……と、彼女は何やら布団の中に温かい湿り気がある事に気付いた。

 

『……こ、これは……!!』

 

 まさか、と思い、恐る恐る視線を下げていくと……

 

「ああっ!! ねね!! あなた、またおねしょしたわね!? 冬場は汗が出なくなるから気を付けてって、あれほど言っているのに!!」

 

「ふ、え……?」

 

 この時、ようやくねねは寝ぼけ眼をこすりながら体を起こした。

 

「ふ、え、じゃない!! 全く、あなたもうすぐ八歳でしょ!! いつまでもおねしょ癖が治らないと、お嫁に行けなくなるわよ!! 今日という今日は、みっちりとお説教を……!!」

 

「……う゛……」

 

 ねねの言葉にならない声が耳に入り、深鈴は「はっ」と言葉を切る。この流れは、イヤな予感が……

 

「……う゛……う゛う゛……」

 

「……ちょっ、ねね、待って……!!」

 

 慌てて態度を急変させ、何とかねねをなだめようとする深鈴であるが、時既に遅し、であった。

 

「う゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛~~~!!!!」

 

 一瞬の沈黙の後、大・号・泣!!

 

 鼓膜を破り、頭の芯に響くような甲高い声の直撃を受けて深鈴はたまらず、転げ出すように寝所から脱出した。

 

「……これではおちおち眠れないでござる、銀鏡氏」

 

 隣の部屋の天井で眠っていた五右衛門が、紅い目で睨み付けてくる。一旦休眠モードに入った忍者は枕元で大砲が轟こうが法螺貝が鳴り響こうが、事前に設定した刻限までは容易には目を覚まさぬものと言われているが、その忍者が叩き起こされる程の大音響であった。まさに音波兵器。

 

 二人が超音波の発生源であるねねから少しでも遠ざかろうと寺の廊下にまで逃げ出すと、ちょうど泣き声を聞き付けてやってきた半兵衛と出くわした。

 

「銀鈴さん、お目覚めでしたか」

 

 何があったのかとは聞かない。深鈴と一緒に寝所に入ったねねと、妙覚寺全体がビリビリと震えているかのようなこの泣き声。答えは一つだ。

 

「あの、それで……よろしいですか?」

 

 躊躇いがちに尋ねられ、深鈴は「ええ、大丈夫」と返す。ねねは……ああなったらしばらくは手が付けられない。今は落ち着くのを待つのが最善手であろう。

 

「で、何かあったの?」

 

「信奈様からの書状が届いています」

 

 そうして半兵衛の差し出した手紙に目を通していた深鈴だったが……読み終える頃には「やれやれ」と大きく溜息を吐いた。

 

「『泣く子と地頭には勝てぬ』の次は『加茂川の水と山法師と双六の賽は意のままにならぬ』か」

 

「……それで、どうなさいますか?」

 

 半兵衛が尋ねてくるが、返事は決まっている。

 

「是非も無し。信奈様の要請とあらば、応えない訳には行かないでしょう」

 

 先程まではまだ寝起きでぼんやりとしていた部分もあったが、ねねの大泣きで脳細胞をシェイクされ、今また信奈が窮地にあるという知らせを受けて、すぐに頭脳の回転速度はフルスロットルにまで引き上げられる。

 

「半兵衛、あなたは私達が留守でもしばらくは持ち堪えられるよう作戦を考えて、京に残していく守備隊のみんなに伝えて。私はすぐに、出発の準備に取り掛かるわ」

 

「分かりました。では早速……」

 

「五右衛門、あなたは私の供をして」

 

「承知!!」

 

 こうして深鈴と五右衛門はねねを落ち着かせるのと着替えの為に一度部屋に戻ろうとして、半兵衛は守備隊への指示の為にこの場を離れようとした所に、

 

「主よ、待たせたな。今戻ったぞ」

 

「前鬼さん!!」

 

 青年の姿をした上級式神が、空間から湧き出るように姿を現した。

 

「前鬼さん……あなたと一緒に行った百名は……?」

 

 尋ねる深鈴だが、何の答えも返さないその沈黙が、何よりも雄弁な返事だった。「……そうですか」と、諦めたように肩を落とす。

 

「それと、これを。山中で拾った物だ」

 

「これは……」

 

 前鬼が懐から取り出したのは、この時代には珍しい形状の帽子。見覚えのある山高帽だ。これを前鬼が持ってくるという事は、若狭で土御門久脩の足止めに残った宗意軒は、もう……だが、お陰で殿軍は後方から式神の追撃を受ける事はなかった。彼は自らの命を賭して、自分達を逃がしてくれたのだ。

 

 宗意軒だけではない。金ヶ崎の退き口では撤退した信奈の本隊と、殿軍で生還を果たした六百名を生かす為に、四百名が犠牲になった。それを悲しく思わないと言えば、嘘になる。だが。

 

 悲しむのも良い。胸を痛めるのも良い。だが今を生きる者には、まだやるべき事がある。ここで足を止める訳には、行かない。

 

 深鈴は受け取った山高帽を、目許を隠すように深く被ると、出立の準備に戻った。彼女のその姿を見ては、半兵衛も何も言葉を掛ける事が出来ず、自分もまた守備隊に指示を出すべく、前鬼と共に寺を出て行った。

 

 

 

 

 

 

 

 同刻、叡山麓。

 

 今は周囲を織田軍に包囲され、山中には浅井と朝倉の軍勢が立て籠もり、数千の僧兵達も殺気立って剣呑とした空気となっている山道を、一人の男が歩いていた。

 

 宣教師の服の上からボロボロの外套を羽織った線目の男。若狭山中で土御門久脩と壮絶な術比べを演じた南蛮帰りの屍人使い、森宗意軒である。トレードマークの山高帽は無くしてしまって、今は長い黒髪が風に薙いでいた。

 

「エロイムエッサイム、エロイムエッサイム……我は求め訴えたり……闇の静寂に棲む者よ、灰の中より立ち出でよ。汝の住処を捨て、新たな肉体を持って姿を現せ。ここへと来たりて、我が望みの器を満たし給え」

 

 彼が印を結び、そして呪文を唱えると足下の土が盛り上がり、無数の白骨化した死体、魔界転生の秘術によって仮初めの命を与えられ、宗意軒の意のままに操られる尖兵と化した亡者達が次々に立ち上がってきて、葬列を組んでいく。ものの数分の間に、喚び出された亡者の数は数千にまで達した。

 

 死者の中の唯一人の生者、宗意軒は死者達の骨で組み上げられた輿の上に座し、それを亡者達に担がせると、高らかに命令を下す。謳うように。

 

「我が亡者共よ、叡山へと攻め上れ!! 聖地の名を借りた腐敗の殿堂を焼き払い、乱世に荷担した生臭坊主共一人残らず、お前達と同じ”死”に引き摺り込んでやるが良い!!」

 

 道を示され、死臭を放つ魔界の兵団はゆっくりと、山頂目指して動き出した。

 


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