「……どうして、おじさんはこんな事したの?」
胸元を紅く染めてぐったりと横たわる足軽姿の男を、傍らにしゃがみ込んだ少女、銀鏡(しろみ)深鈴(みれい)は悲哀も動揺も浮かべていない、全くの無表情で見下ろしていた。
彼女が冷酷な人間という訳ではない。ただ彼女の周囲を取り巻く状況があまりにも常軌を逸して、ちっぽけな彼女の想像力を通り越していて、泣き叫べばいいのか取り乱せばいいのか、あるいは気を失えばいいのか。分からなかった。
このどことも知れぬ戦場に迷い込むまでで最も新しい記憶は、好物の果肉入りのイチゴアイスでも買い食いして帰ろうかと思いながら歩いていた学校からの帰り道だ。
気が付けば轟く馬蹄、響く銃声、天地を揺るがす鬨の声。時折テレビドラマなどで見る戦国時代の戦場としか思えない場所に彼女は立ち尽くしていた。
最初は映画かドラマの撮影現場にでも紛れ込んだのかと思ったが、周りの足軽達の必死の形相や、鬼気迫る表情で馬を奔らせる武将を見ればそんな考えも吹っ飛んだ。アカデミー賞にノミネートされるような役者でも、あそこまで真に迫った演技が出来るとは思えない。
その時だった。ふと遠くに目を向けると、一人の足軽の姿が見えた。だが得物は剣ではなく槍でもなく、弓でもない。
鉄砲。火縄銃。この時代では種子島と呼ばれるそれ。その黒い穴が、真っ直ぐに深鈴の胸元に向いていた。
「あ……」
撃たれる。死ぬ。引き金が引かれる。今。すぐに。
一瞬で様々なイメージが脳内を駆け巡り、走馬燈が見えた気がした。
事故にあった人間はアドレナリンだかドーパミンだかが過剰分泌されて、ほんの一秒が十秒にも一分にも思えると言うが、それが本当なのだと理解出来た気がした。
死ぬ。死んじまう。死にたくない。
だがそんな彼女の思考など関係無くその足軽は引き金に掛けた指に力を込めて……
「危にゃあ!! 娘っ子!! 伏せるみゃあ!!」
ぐいっと左腕を引き寄せられて、引き倒される感覚。反射的にそちらへと視線を向けると、別の足軽が彼女の腕を引いていた。
そしてたった今深鈴が居た位置に、入れ替わるようにその足軽の体が入り……
ばぁん。
深鈴の度の強い眼鏡のレンズに、紅い滴が付いた。
「……おじさんは、どうして私を助けてくれたの?」
見ず知らずの私を。
足軽が撃たれた後、彼を引き摺るようにして街道まで連れてきた深鈴は取り敢えず周囲に危険が無さそうなのを確かめると、そのすぐ近くにしゃがみ込む。
深鈴は鎧を脱がせて、撃たれたとおぼしき胸の辺りを強く押さえて止血しようとするが、紅い流れは止まらない。
掌を通して伝わってくる脈動が、少しずつ弱々しくなっていくのが分かる。
この人はもうすぐ死ぬんだ。
ただの事実として、深鈴にはそれが分かった。一分後か、あるいは五分後かは分からないが、もうすぐこの人とは言葉を交わし合う事も、笑い合う事も、罵る事すら出来なくなる。
だから、聞いておかねばならなかった。
「どうして、私を?」
「お主みたいな別嬪が死んだりしたら、もったいないみゃあ」
「……は?」
想像を斜め上に越えた答えに、深鈴の瞳が丸くなった。
「わしは一国一城の主になって、女の子にモテモテになろうと思ったがみゃあ……こんな所で死ぬとは……運が無かったみゃあ……」
ごぼっ、と足軽の口から血の塊が吹きこぼれる。
だがそれでもその足軽は、笑っていた。
「だがみゃあ……お主みたいな別嬪を助けて逝けるんだ……無駄死にじゃあ、ないみゃあ……」
「……おじさん?」
灰銀の長髪が、足軽の顔に掛かる。
少しだけ顔を近付けた深鈴の手を、足軽の手が掴んだ。今にも死にそうなのにそれを些かも感じさせない凄い力だ。
「だから、娘っ子……わしの相方をくれてやる……お主は、生き延びろ……かな……ら……」
少しずつ、言葉が途切れ途切れになっていく。死神の鎌が振り下ろされるまでのタイムリミットは、後数秒だ。
「……そうだ、おじさん!? おじさんの名前は!?」
「わしの名は……木下……藤吉郎」
「……っな……!?」
木下藤吉郎と言えば、後の豊臣秀吉。一介の草履取りから関白として天下を取る英雄の中の英雄。
……と、いう事は……これが悪質かつ大規模なドッキリでない限り、ここは戦国時代で……ちらりと見た旗印から、今は今川と織田の合戦の真っ最中という事なのか? 私は、映画とかでよくあるタイムスリップをしてしまったとでも言うのか!?
信じがたい、むしろ信じたくない事実ではあるが……顔をつねる必要は無い。藤吉郎の掴む手の感覚が、確かな現実であると教えてくれている。
「娘っ子……お主は、生きろよ……」
その言葉が、最後だった。先程まで確かに感じられていた藤吉郎の手から力が抜けて、ぱたりと落ちた。
「木下氏、討ち死になされたか……南無阿弥陀仏、でござる」
出し抜けに、背後から声が掛けられる。振り返るとそこには黒装束に身を包んだ少女忍者が腕組みして立っていた。
あなたは、と深鈴が聞く前にその忍びが名乗る。
「拙者の名は蜂須賀五右衛門でござる。木下氏の遺言に従い、ご主君におちゅかえするといちゃす」
最後に噛んでしまうのはご愛敬か。
「や、失敬。拙者、長台詞は苦手故」
「……藤吉郎さんの、娘……さん?」
「相方にござる。木下氏が幹となり、拙者はその陰に控える宿り木となりて力を合わちぇ、共に出世を果たちょう。そういう約束でごじゃった」
彼女の限界はどうやら三十文字程度のようだ。
「ご主君、名は?」
「銀鏡……深鈴よ」
「では拙者、これより郎党”川並衆”を率いて銀鏡氏にお仕え致す」
「…………」
「それで銀鏡氏、取り敢えず織田家に仕官する所から初め……」
「待って」
五右衛門の言葉を、深鈴の声が切った。
「は……」
「その前に、やる事があるわ」
すくっと、立ち上がる。深鈴はすらりとした長身であり、視線を合わせようとすると五右衛門は少し首が痛くなった。
「藤吉郎さんを、弔うわよ」
深鈴は五右衛門と共に藤吉郎の遺体を運び、戦場からほど近い丘へと埋葬した。運ぶ道すがら、藤吉郎はこの時代の標準的な体格の小男なのに、眠っている体や死体は重く感じるというのは本当だと深鈴は頭の片隅で思っていた。
深鈴は墓石も卒塔婆も立てられない、藤吉郎の刀を突き立てただけの粗末な墓に、近くで摘んできた花を添えた。それが彼女に出来るせめてもの供養だった。
目を閉じ、傍らの五右衛門と共に合掌して、祈る。
「藤吉郎さん……あなたからは、命をもらいました」
分からない事は山積みだが、一つだけ確かな事がある。
それは、木下藤吉郎が自分を生かしてくれた事。今こうして生きているのは、間違いなく彼のお陰だ。
だから、ここが何時代の何処であれ、この命を粗末に使う事だけは、それだけは出来ない。
この命はもう自分一人のものではなくなった、自棄になって投げ捨てるような事は絶対に出来ない。
自己満足でしかなかろうが、天秤の左の皿に乗ったこの命が、右の皿に彼の命を乗せた時に釣り合うものであると、証明しなければならない。
だから。
「出世したら、必ずお墓を立て直して供養します。だからそれまで、天から見ていて下さい……私の、銀鏡深鈴の、生き様を」
罪滅ぼしではない。それが彼女に出来る、たった一つの餞だった。