IS〈インフィニット・ストラトス〉-IaI   作:SDデバイス

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 ▽▽▽

 

 『人とISの関係』

 

宇宙での作業を想定して作られているISは、操縦者の全身を特殊なエネルギーバリアで包む。また生体機能を補助する役割も持ち、常に操縦者の肉体を安定した状態へと保つため、心拍数、脈拍、呼吸量、発汗量、脳内エンドルフィンなどの操作も行う。

 かなり深いレベルで人間のサポートを行うISには『意識』に似たようなものがあり、操縦時間に比例して操縦者の特性を理解しようとする。そうして相互的な理解を経る事で、ISの性能はより引き出されてゆく。

 故にISは単なる道具ではなく、パートナーと認識するのが正しい。

 

 ――とある人物の手記より抜粋。

 

 

 ▽▽▽

 

 

「織斑。お前のISだが、準備まで時間がかかる」

 

 授業が始まった直後、投げかけられた千冬さんの言葉は、割と想定の範囲内だった。

 俺が世界で唯一ISを扱える男として発覚したのはほんの数ヶ月前。ただでさえ”貴重”なISを一機用意するだけでも大変なのに、俺の場合は更に専用機なのだ。むしろ間に合う方がおかしいだろう。俺の――世界で唯一ISを動かせる男の存在が事前に知られていたのなら、話は別だが。

 操作に早く慣れたい身としては、出来る限り早く来て欲しいところではある。とはいえこちらはもらう立場、文句は言えない。

 まあ恐らく件の決闘には間に合うのだろう。何せ『一週間後』という期間を決めたのは千冬さんなのだから。

「そうですか。でも一機とはいえよく引っ張ってこれたもんだ。コアは相変わらず『467』から増えてないってのに……何考えてんですかね、篠ノ之博士さんは」

「私が知るか」

 ISの技術は国家・企業に幅広く技術提供が行われている――が、肝心の”コアを作る技術は一切開示されていない”。

 

 ――『467』。

 

 これが現在のISの存在している数だ。これより下になる事はあっても、増える事はまず無いだろう。完全にブラックボックス化されたコアは博士以外は作成出来ない。そしてその博士が一定数以上のコアを作ることを拒絶している現状、『467』という数字は絶対なのだ。

 その『467』のコアを作成したのは日本が誇る大天才・篠ノ之束博士。

 篠ノ之、だ。

「そういえば何で俺に専用機あるんですか? 俺、日本国民ではありますけど、特別国に属してる訳じゃないし、当然ながら企業にも属してないですよ?」

 『467』という絶対の数字の下、コアは各国家・企業・組織・機関に割り振られ、研究・開発・訓練が行われている。故に本来専用機は国や企業に属する人間にしか与えられない。

「だがお前の場合は状況が状況だからな、データ収集を目的として専用機が用意される事になった。理解できたか」

「なるほど。そーいえば俺って特例だったっけ。あーでも別の心配事が、一つ。データ収集目的って事は戦闘はあんまり想定されてないとかそういうオチだったりしません?」

 どうにも『データ収集』等と言われると――いわゆる電子戦特化型的なモノを想像してしまう。頭の部分がデカイレドームになってたりとか、そんなのね。

 いやそういうのが嫌いな訳じゃないんだが、来て早々ドンパチのために働いてもらわねばならないのだ。はなっから戦闘向きである事に越したことはないだろう。

「それについては心配するな」

 だが俺の疑問を聞いた千冬さんは即座にそれを否定した。

 って何でそんなしかめっ面なんですか。

「当の本人が、かつて無い程(・・・・・・)やる気になっているからな。仕上がりは期待していいだろう…………全く、何が装甲の磨きが足りないからもう少し待ってくれだ、一体何を考えているのか…………」

 後半はとても小さい声なので、距離の近い俺でさえほとんど聞き取れなかった。恐らく隣の山田先生にも聞こえていないだろう。

 まあよくわからんが、特例のISの制作に携われるってことでどこぞの研究機関の人が張り切ってる(ヒャッハーしてる)って事だろうか。

 じゃあ大丈――あれ何かさっきよりも不安になってきたぞ。

「あの、織斑先生」

「――何だ?」

 とんでもないゲテモノとか来たらどうしよう、なんて俺がこっそり慄いていると、クラスメートの一人が発言許可を求めるように挙手をする。そして一瞬で通常進行に戻る千冬さん。あの切り替えの速さ割と本気で見習いたい。

「篠ノ之さんって、もしかして篠ノ之博士の関係者なんでしょうか……?」

 彼女がそう言ったのは、さっきの会話の中で名前が出たのがきっかけだったのだろう。そもそも『篠ノ之』なんて『織斑』以上に珍しい名字だし。

 

 『篠ノ之束(しのののたばね)

 

 たった一人でISを作成、完成させた稀代にして天才の中の天才、正に大天才とでも言うべき御仁である。そして件の篠ノ之さん――篠ノ之箒の実姉でもある。

 ちなみに千冬さんと同級生。最強の兵器を作り出せる人と最強の兵器を乗りこなせる人が同時に排出されている辺り、尋常でない黄金期である。

 『織斑一夏』は篠ノ之博士に会った事があるらしいが、『俺』は会った事が無い。なので伝聞でしかどういう人なのかは知らない。聞いた限りの印象であるが、どうやら実に『天才』と呼ぶに相応しい人のようだ。

「そうだ。篠ノ之はあいつの妹だ」

 千冬さんが質問に対して肯定の返事を返す。ここで隠しても、ちょっと調べれば直ぐ解ることだからその対応はおかしいという訳ではない。

 なんだけども。

 

「ええええ――っ! す、すごい! このクラス有名人の身内が二人もいる!」

「ねえねえっ、篠ノ之博士ってどんな人!? やっぱり天才なの!?」

「篠ノ之さんも天才だったりする!? 今度ISの操縦教えてよっ」

 

 まあこうなるわな。

 一応今は授業中なのだが、あっという間に篠ノ之さんの席は集まった女子に埋もれてしまった。ああ、初日の俺を客観視するとこんな感じなのか。

 というかこのクラスの娘達、随分とフットワークが軽くてリアクションが良い。結構なお祭り騒ぎ好きなんだろう。

 でもそろそろ織斑先生のオーラがヤバイ感じに立ち昇り始めてるから席に戻ったほうがいいんじゃないかな皆――!!

 

「――――あの人は関係ない!!」

 

 轟、と。裂帛の気合のこもった声が教室の隅々まで一瞬で駆け抜ける。

 それまできゃいきゃいと響いていた声はぴたりと止み、騒いでいた本人達も目をぱちくりとさせている。

「…………大声を出してすまない。だが、私はあの女性じゃない。教えられるようなことは何も無い」

 そう言って篠ノ之箒は顔を窓の外へと向け押し黙る。これ以上話すことは無い、そう言葉でなく態度で示すように。

 篠ノ之箒の席に群がっていたクラスメート達も、さすがにこれ以上騒ぎを続ける気は無いのかそれぞれが自分の席へと戻って行く。

 

「さて、授業をはじめるぞ。山田先生、号令」

「は、はいっ!」

 

 千冬さんの声に促された山田先生が授業を始めるが――教室はどうにも微妙な空気のままだった。

 

 ▽▽▽

 

「間に合うんでしょうね」

「間に合うんじゃねーの」

 

 授業で使った教科書やノートを整理していると、金髪縦ロール(セシリア・オルコット)が俺の席の横にやってきた。

 俺は教科書から目を離さないし、金髪縦ロール(セシリア・オルコット)も正面を直視している。視線を合わせないまま、俺達は会話をする。いや会話というか、独り言を互いに呟いているような感じかもしれない。

「もし間に合わないのなら、日程をずらしても構いませんわよ」

「へえ。待ってくれるとはお優しいことで、さすがは代表候補生」

「言った筈ですわよ――このセシリア・オルコットの全力を以て叩き潰すと」

 かつかつと足音を鳴らして、金髪縦ロール(セシリア・オルコット)は出口へと向かう。

 最後に――教室のドアを潜る直前に、初めてこちらと視線を合わせ、

 

「――――全力で来なさい。それ(・・)を叩き潰してさしあげます」

 

 その蒼い瞳に込められたのは強烈な激情だ。とても静かに閉められるドアが何とも対照的である。

「やろう。盛り上げてくれるじゃねえか」

「織斑くん、本当に大丈夫なの?」

「何が?」

 こちらに声かけてきたの隣席の女子――この前の似非演説の時に何故か褒めてくれた娘だ。

「何って……いくらなんでも代表候補性を甘く見過ぎだよ、今からでもせめてハンデくらい付けてもらったほうがいいんじゃない?」

「そうだろうな。だがそれはしない。なぜならしたくない。どうせやるなら恨みっこなしで互いに本気のが面白いじゃねーか。そもそも勝つとか負けるとか、そいう損得考えるなら勝負受けてねえよ」

「楽しそうだねー織斑くん。そんなに目がきらっきらしてる男の子久し振りに見たよ」

「ああ、楽しいぜ。今この瞬間も人生が楽しくてたまらない。まー余興になるくらいには持ち込んでみせるさ。ただで負けてやるのも柄じゃねーし」

「ほほう。じゃあ楽しみにさせてもらおうかな? あ、そうだ織斑くん、この後時間あいてる? お昼一緒に食べようよ」

「お誘いは有難いんだが、先約というか予定があるんでね」

「予定?」

 首を傾げた女子に対し、首だけで篠ノ之箒の席を指す。その席の周りに人が皆無なのは、さっきの恫喝のせいである事は考えるまでもない。

「あれ? 織斑くんって篠ノ之さんと知り合いなの?」

 

「いいや。これから知り合うのさ、改めてな」

 

 はてな顔のクラスメートの横を通りすぎて、篠ノ之箒の席へと向かう。昼休みだというのに相変わらず窓の外を向いたままで、席を立つ気配がない。

「飯、一緒に行かないか。そっちも学食だろ」

「……私はいい」

 俺の誘いは冷たい声で拒絶される。まあ想定はしてた。

 今は空席になっている彼女の前の席を少し拝借する。俺が前の席に座っても、篠ノ之箒はこちらに顔も向けない。

 

「今朝の事だけどさ、一つ条件がある」

 

「……っ」

 ぴくりと反応。

 その証拠にポニーテールの先端がゆらゆら揺れている。さっきまでは窓の外を見続けていた彼女の横顔が微妙に動いている。時折視線がこちらに向いているからだ。明らかに俺がその”条件”を話しだすのを、そわそわしながら待っている。

「…………何だ、条件とは」

「気になる?」

「お前が気になるような言い方をするからだ」

 一分も経たないうちに、篠ノ之箒がこっちに少しだけ顔を傾けながらそう呟いた。数分は覚悟して待ってたが、思いの外速く彼女の限界がやってきたようだ。

 

「一緒に学食行ってくれたら話してあげる」

 

 にっこり笑ってそう言った俺に、篠ノ之箒は思いっきり顔を引き攣らせた。

 

 

 ▽▽▽

 

 

「ところで俺は君のことを何て呼べばいいんだろうか」

「好きにしろ」

「じゃあホーキちゃん」

「止めろ」

「君が好きにしろって言ったんじゃねーか!!」

「その呼び方はいくらなんでも酷すぎるだろう!?」

「可愛い子にはちゃん付けするのはこの国の伝統なんだぜ。知らないのか」

「かわ……っ!?」

「そうそう。そうやって直ぐ赤くなるとことかね」

「ばっ、馬鹿にしているのか!?」

「どっちかっていうと堪能してる」

「――――――ッ!!!!!」

 

 ホーキちゃん(決まるまで心の中ではこう呼ぼう)の手元で鯖の塩焼きが物凄い勢いで切り刻まれていた。箸の扱いすげえ。

 ちなみに買ったメニューはホーキちゃんは日替わり定食(鯖の塩焼き)で、俺は日替わり定食とカツカレーと親子丼。

 ホーキちゃんを学食に誘ったのは、クラスから”切り離されている”彼女を放っておけないという気持ちから。しかし同時に俺が死ぬほど腹が減っていたからでもある。

 何せ色々あって昨日の夜も今朝も食事にありつけなかったのだ。血糖値が絶望的に足りなくて実際さっきまでフラッフラだったし。

 

「――本当に、私の知る一夏ではないのだな」

 

 俯いたまま、ぽつりと、弱々しい声が漏れる。

 箸はその動きを止めていた。

「ああそうだ。ここに居る『織斑一夏』は、君の知る『織斑一夏』とは根本的に別物だと思ってもらって間違いない。身も蓋もない言い方をすると一旦リセットされたみたいなもんだからさ」

 正確に言うと上書き保存みたいなもんなんだが。でも正当な『織斑一夏』の部分はリセットかかってるみたいなものだから間違いではない。

「悪ふざけであって欲しいと、悪い夢であって欲しいと何度も思った。けれど、これはやはり現実なのだな」

 ぎりぎりと言う音はホーキちゃんの右手――箸を握る指先から聞こえてくる。

「私の会いたかった一夏は、居ない。そうなんだな、『一夏』」

「そうだよ」

 それっきり俺は黙り、彼女も黙った。

 でも静かにはならない、何せ場所が食事時の食堂なのだ。周囲の喧騒は収まるどころか増してゆく。でもだからこそ、たった二人の会話は雑音の中に埋れている。

「……それでも」

「それでも?」

 ぽつりと、喧騒に消えそうなその声を聞き取るために神経を集中させる。

「私は思い出して欲しいんだ、お前に。私と一緒に居た時のことを」

「うん」

 

「諦められない。私は、どうしても一夏との思い出を諦められない……!」

 

 顔を上げて、彼女は俺に言葉を叩きつける。

 その目尻には光を受けてきらめくものが滲んでいた。

「――そうだな。そうだよな、思い出ってのは大切だもんな。それでいい、君のその真っ直ぐさはかけがえのない美徳だと俺は思う」

 俺が手を差し出すが、彼女は反応しない。

 きっと俺の意図が読めないんだろう。だから、言葉で伝えよう。

 

「改めて、これからよろしく篠ノ之さん。俺の記憶を取り戻す手伝いを、お願いします」

「……私の事は箒でいい。苗字だと、あの人と紛らわしいだろうからな」

 

 差し出した俺の手を彼女が――箒が握る。

 目尻では今だ滲んだ涙が光っていたけれど、彼女は柔らかく笑っていた。

「どうせならホーキちゃ、」

「却下!」

「ちえ……ところで箒、一つ聞きたい事があるんだが」

「何だ」

「記憶戻すって具体的には何か考えでもあんの?」

「…………」

「無いんか。無いんだな、あんだけ大見得切っといて」

 

 そもそも俺に”戻る”記憶が残っているのかどうか。

 

「う、うるさい! ま、待て今考える……そうだ! 記憶を失ったときの状況を再現してみるのはどうだ!!」

「撥ねられろというか!?」

 

 仮に戻ったとして、今の『俺』がどうなってしまうのか。

 

「ぐっ……! だったら今度の休みにアルバムを持ってくる! そうだ篠ノ之の道場にも行ってみればいい!!」

「ごめんそんな感じのもう全部試したわ。俺が六年間何もしてなかったと思うのか」

 

 不安要素はそれこそ山のようで、希望は欠片も見当たらない。

 

「ならどうすればいいのだ!!」

「おい逆ギレしたぞこの娘!!」

 

 でも。その果ての結末で、どうか彼女が笑顔で居ますように。

 

 

 ▽▽▽

 

 

「おーりむーらせんせっ」

「気色悪い」

「ひでえ……」

 

 放課後、千冬が廊下を歩いていると気色悪い事この上ない声がかけられる。即座に吐き捨てた後に相手を確認すると、織斑一夏が傾きつつも立っていた。

「何か用か、織斑」

「ええまあ。練習用のISって、確か申請すれば借りれるんですよね。専用機届くまでせめてそっちでも触れないかなと」

 IS学園はISの扱いを学ぶ学園だ。故に当然ながら練習用の機体が多く存在しており、それらは申請さえすれば生徒は使用することが出来る。

 だが簡単に貸し出される訳ではない。無数の書類と審査を経て、初めて使用許可が降りる。それに今は学年度が始まって直ぐ。この時期に一年生が許可を出しても受理されるのには時間がかるだろう。

「確かに申請すれば使用許可は降りる。が、今の時期だと通るまで一週間かかれば早い方だろうな」

「うげえ」

 千冬の答えに一夏が盛大に顔をしかめてうめき声を上げた。恐らく専用機が来るまでにせめて練習機に触れておこうと思ったのだろうが、恐らく間に合うまい。

「意味ねえし……専用機来るの本番当日とかじゃあ流石に」

「…………」

「ないですーって待って下さいよ何で目を逸らすんですか織斑先生! あれっ、何か最悪の予感がする!?」

 先日、千冬が送った催促に対する返事は『NOW磨きING』だった。突拍子も無い行動には慣れていたつもりだが、今回は特に奇行が目立つのではないかあの”天才”は。

 悲鳴を上げていた一夏だが、一度深々とため息をついた後、それこそスイッチでも入れ替えるようにその感情を切り替えた。

 利も不利も、こいつにとってはどちらも同じ要素でしかない。ただあるがままを受け入れて、そこから自分の進みたい道を強引に掴みに行く奴だ。

(…………企業の奴隷はやはり嘘だろう)

 修羅場に放り込まれるとわかりやすいのだが、有事の際の一夏の眼は完全に『玄人』のそれである。”一流”を幾人も見てきた千冬がそう判断する程に。

「話はがらっと変わるんですけど。箒に俺のこと話したんですよー」

「箒、か。そう悪いことにはならなかったようだな」

「えーまあ。大体いい感じですかね」

 唐突なまでに、一夏はいつもの調子に戻る。

 そんないつも通りの口調で、笑いながら、一夏は語り出した。

 

「言われました、俺の記憶を取り戻すって」

 

「……そう、か。まあ、篠ノ之らしい発想といえば、らしいかもしれないな」

 相変わらず今の一夏の精神(記憶)がどうなっているのかは、一夏にも千冬にも――もしかしたら誰にも――わかっていない。

 だが本人は本来の『一夏』と『自分』は別なのだと考えている筈だ。それで、その考えで記憶(本来の一夏)が戻るという事は、

 

 ――それは、今の一夏が消えてしまうということを意味しているのではないか。

 

「やー、ほんっと真っ直ぐで強い娘だ」

「惚れたか?」

「人間性を評価してるだけでしょーが。どうしてそうなるんですか」

 だというのに、どうしてそんなに良い事(・・・)であるかのように話す。

 そんな風に、笑って話せる。

「お時間取らせてすいません。じゃあちょっとこの後呼ばれてるので。何故か剣道をやらされる羽目になったんで。本当に何故か。さっぱり流れが読めやしねえ」

「ああ、せいぜい絞られてこい」

「うへえ……」

 違う。こんないつも通りの会話の前に、問いかけなければいけない事があるのではないか。

 本当にそれでいいのか。そう問わなければいけないのではないか。

「い――」

「千冬さんは」

 呼び止めようとするより速く、一夏がくるりと振り向いた。

 まるで千冬がそうする事をわかっていたように。

 

「千冬ちゃんは、『弟』の事を一番に考えてあげねーと。だって世界で一人の『姉さん』なんだから、さ」

 

 喉元まで来ていた言葉は、言葉になる前に止まってしまった。

 少しの間だけ千冬が何も言わない事を確認して、一夏は改めて踵を返して歩き出す。その姿が視界から消える間千冬は何も言わず、何かする事もなく、ただ立ち尽くしていた。

 確かに弟が戻るのならば、それは嬉しい、喜ぶべき事だろう。変わってしまう前の弟と過ごした思い出は千冬にとってかけがえのない大切なモノ、それは今も変わりない。

 じゃあ、その後の思い出に価値は無いのか?

「そんな訳が、あるか」

 無意識の内に呟いていた。

 

 ずっと千冬の事を考えてくれた。

 

 記憶だって、今に始まった話ではない。昔から暇があればアルバムや記録の類を読み漁ったり、縁のある場所に行ったり、人に会ったり、料理の味付けを再現してみたり。

 それはきっと彼自身を殺すような行為であった筈なのに。千冬が弱音や愚痴を吐いた事はあっても、彼から弱音なんて一回も聞いたことがない。

「――今更だ。本当に今更だ」

 人気の無い廊下の一画で、壁に身体を預けて千冬は呻く。

 知っていたはずなのに、問題を先送りにして、現状に――彼の好意に甘んじていた。きっと千冬は知らず知らずの内に彼によりかかっていたのだ。

「一夏」

 そして今、それが消えるかもしれないと突き付けられて焦り始めている。そんな事はとうの昔から考えられたのに。いざ実際に予兆を目の前にして、今更に。

 織斑千冬としての正しい選択が何なのかは、解っている。

 彼を消してでも、織斑一夏を取り戻すこと。それが絶対的な正解だ。それを望む気持ちは確かに千冬の中にある。

 けれど、それでも心を大きく占める別の感情があるのもまた事実だ。

 

「一夏、私は――――」

 

 

 

 

 

 

 

 あなたに、きえてほしくない。

 

 


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