「……姉上」
気づけば空を仰いで呟いている俺が居た。
「なんだ、カトル? また空を見ていたのか?」
「……ああ。母上が行方不明になり、姉上があちらに赴いてもう一週間がたつ。頼りがないのは元気な証拠というのは人間どもの諺か何かだったか」
俺としては姉上と母上の無事を信じたい。
「だが、あちらを任されているのは、あのバラモスだ。部下を使い潰す無能であると噂に聞いたことがある。そんな奴の下に姉上がつくのは反た」
「そのくらいにしておけ。聞いているのが私だから良いが、他の者に聞かれたらお前の立場が危うくなるぞ?」
「っ、そうだな。済まなかった。しかし、姉上も母上があちらに行かれてから随分変わってしまわれた」
「……随分と言うレベルを超越してると思うが、そこは私も同感だ。知的美人として憧れていた同僚は私だけではなかったのだがなぁ」
そう、何処か死に場所を探すような母上に気を遣い、弱い人間共しかいないあちら側への赴任を進めたのは俺達だが、姉上は無理をしていらしたのだろう。暫くは何ともなかった、だが、半年もたったある日。
「姉上?」
「か、カトル?! いや、これは、その、だな?」
母上の部屋からした物音を聞きつけ、残していった下着を手に奇行へ走った姉上を見たあの日がターニングポイントだった。
「姉上は、両親を慕われていた。父が人間共との戦いで帰らぬ人となり受けた衝撃は姉上を俺の知らぬ所で蝕んでいたのだ」
母上の為を思えばこそと比較的安全なあちらへ送ったことが、敬愛する両親のどちらも側にいないという状況を作りだし、結果として姉上を壊してしまった。
「ただ母上に認められるため、押し込めていた何もかもが決壊してしまった反動なのだろう。気づくことの出来なかった俺にも責任はある」
母上行方不明の一報を聞き、姉上が完全に壊れてしまったあの日、この城ではあちこちから悲鳴が上がった。「お姉様が、トロワお姉様が」
と泣き叫ぶ幼なじみの声。何もかも受け入れられず死んだ目をして立ちつくす友人。今まで完璧超人めいたところがあったからこそ、男女問わずあこがれの人であった姉上は、ただの一日で大多数の男女の心を殺した。
「マザコン最高、寧ろいい」
とか親指を立てた奴はとりあえず蹴り倒して動かなくなるまで踏んでおいたが、そんなことをしても姉上が元に戻ることはなく。
「俺は止めた方が良かったのだろうか、姉上を?」
自分への問いは、意図せず口から零れた。
「あちらの人間共は弱いと聞くが、それでも母上が行方不明になられるような事態が起きた。ならば、姉上の身に何も起きないとどうして言えようか」
姉上は変わってしまわれたが、それでも実力や知恵が衰えた訳ではない。地上の人間に後れを取るとは思えなかったが、口に出してみると漠然とした不安を感じてしまう。
「姉君を案じるのも不安に駆られるのもわからんでもないがな、カトル」
そんな不安が伝わったと言う訳ではないのだろう、隣にいた友人が口を開いたのは。
「私が知る限りでは君の姉君は私よりも優秀だ。伝聞から道具を再現してしまうような才能もある。だいたい地方に派遣された母君とは違い、バラモスさま付きの軍師待遇での赴任なのだろう? ならば、あちらに築かれた拠点が攻め込まれるような一大事でも起きねば、危惧するようなこ」
「そうではない、そうではないんだロゼ。俺が危惧するのは、姉上があちらの城を抜け出し母上を探しに出る可能性と、そうなった場合母上を行方不明に陥らせた原因が姉上に牙を剥くのではないかということだ」
「っ、それは」
「母上にあそこまで傾倒されている姉上が、あちらに行ってずっと城勤めを続けて何もしないとは考えにくい。だいたい、母上を捜す以外の理由で姉上があちらに行く理由がない」
少しでも母上の近くにいたいという心理が働いたと言う可能性も皆無で無いように思えるが、それで気が済む姉上であれば、奇行に走るようなことは無かった筈だ。
「残念ながら今の俺にはあちらへの赴任を即座に認めて貰える程の才能も功績もない。だが、諦めるつもりもない。今は手が届かなくとも、いずれはバラモスさえ越えてみせる。無謀と笑うか?」
「……いや、君はこういう謂われ方を嫌うかも知れないが……君はあの姉君の弟だ。確証も無しにそんな大言壮語を吐くとは思わない」
「姉上の弟……か」
「気に触ったなら」
「いや、いい。今の俺は確かに姉上の弟でしかない。だが……」
ロゼの言葉に苦笑した俺はちらりとローブから覗く自分のつま先を見た。反り返った黄金色の靴の先端に同じ色の球体がついたそれは人間達の言うところの道化師のものに似ている。
「一歩一歩、着実に歩んでいく。そして、必ず……」
例え今はまだ及ばずとも、俺には姉上が作ってくれたこの靴がある。あの素早く硬い臆病者達の隠し持つ靴を再現したというこの靴が。
「そうか、なら私もうかうかしてられんな。もっとも、君に部下として仕えるというのも案外悪くは無いと思うが」
「冗談はよせ。お前を部下にしたら姉上や母上が何と言うと思っている?」
茶目っ気を見せる友人に嘆息しつつ問うが、答えは分かり切っていた。ロゼとは家族ぐるみで付き合いの長い友人なのだから。
「『そのまま結婚したら』とか、その辺りだろう? 私は構わないぞ?」
「馬鹿を言うな。いや、母上なら言いかねない気もするが……そうじゃない」
そう、問題はそこにない。
「ん? ああ、そうだな。まずは式場の予約だな」
「違う! ……ロゼ、解っていて言っているな?」
たわいのないこの手のじゃれ合いもいつも通り。いや、友人は俺の気を紛らわせようと気を遣ってくれているのかも知れない。
(友人を心配させるなんて、俺もまだまだか)
そもそも、弟の俺が姉上を信じなくてどうするというのだ。姉上なら大丈夫だ、姉上はきっと――。
本編で出ずじまいだったアンの息子さんは、こうしてアレフガルドで同僚さんと元気に過ごしてる模様。
そんな訳で、トロワの方も変態的なマザコンを発症するまではまともな人だったという裏設定もようやく公開出来ました。