「ざて……」
自分でも驚く程冷静な声が出た。
(我ながら、語彙に乏しいな)
自らの身に降りかかった現象を表す言葉を、俺は知らなかった。一歩間違えば顔面と顔面がぶつかって流血、何てことにさえなりかねないアクシデントだったが、シャルロットを支えるのがかろうじて間に合い、接触の衝撃は最小限で留まったのだ。
(うん、鼻血だらだらの再会にならなかったのは、良い。良いんだけど……)
やはり、俺の辞書には今の現象を端的に現す単語がない。
(鼻を口に含まれる、もしくは鼻をしゃぶられることを意味する言葉ってあったっけ)
そう、かろうじて接吻は免れたのだ。同時に接触直前に何か言おうとしたのか、悲鳴の続きをあげようとしたのか、開きかけたシャルロットの口に、俺の鼻が飛び込む形になって、今がある。先程の呟きが、冷静でありながら鼻づまりのような声になったのも、そのせいである。
「ジャルロッド」
固まるのも仕方ないとは言え、流石にそろそろ正気に戻って頂きたい。
「ん゛」
支える身体の肩が俺の声に少し遅れてびくんと跳ね。
「ぷはっ」
(よかったぁ……って、やばっ)
身じろぎに続いて鼻が解放されたことへ安堵しつつも、すぐさま我に返って支えていた腕に力をかけてシャルロットの身体を押し剥がす。
「ご主人……様?」
バニーさんのものらしきかすれた声が聞こえたのは、シャルロットの向こう。
(うわぁ)
エリザは良い、角度的に唇が鼻に行ったのは見えてるだろうし、事故だって解ってるから。
(うん、だけどバニーさんからはシャルロットの背中しか見えてないんだよね)
誤解を生むのに充分で、しかも同時に誤解を解こうとシャルロットの脇から顔を出すのも躊躇われる状況だった。
(唾液まみれの鼻を見せたら、それはそれでシャルロットの黒歴史の目撃者が増えるし)
誰か教えてくれ、この状況どうやって誤魔化して収拾を付ければいい。
(ギャグですか? 一発ギャグで笑いを取って有耶無耶にすれば良いんですか?)
いや、この状況下でふざけたら混乱してるのと勘違いされて拳か武器が飛んでくるだろう。それはスレッジの時に学習済みだ。
(もういっそのことバニーさんかシャルロットに愛の告白を……してどうする! だああっ、本当にどうしろと)
こういう窮地こそ良い考えが浮かばない。バニーさんの気配は動かず止まったまま。
「あ、あ、あぁ……」
シャルロットも色々衝撃だったのか、放心しつつ喘ぎながら後ずさっている。
「なんだ、どうした?」
そして、バニーさんの声を聞きつけでもしたのか、こちらにやって来る様子の野次馬らしきオッサンA。
(うわーい。どんどん じょうきょう が わるくなってる じゃないですか、やだー)
ちくしょう、おれ が なに を したって いうんだ。
(ええと、何、この状況。俺ってひょっとして「弟子に無理矢理鼻をしゃぶらせた罪」とかで捕まって牢屋にぶち込まれるの?)
心に傷を負いつつも立ち上がった勇者は大魔王を倒し、勇者の師匠という立場を笠に着て勇者に不埒な真似を働いた俺は獄中で不名誉と共に生涯を終えるんですね、わかります。
(えーと、キメラの翼は何処にしまったかな?)
逃げたい。もの凄く逃げたい。
(けど、ここで俺だけ逃げたら、シャルロットがなぁ)
鼻を口に含んでしまったせいで自分の師匠が逃げ出した何てことになれば、事実が伝わっても笑いものだし。何とか誤魔化したとしても師匠に逃げられたというだけで不名誉だろう。そも、ここまでにアクシデントで受けた精神的ダメージは加味されてない。
(一緒に何処かへルーラして、話し合う……のも駄目だ。これはこれで変な誤解を招く。これ、ひょっとして……)
どう考えても詰んでるんじゃないかと、俺が現状は詰んでるんじゃないかと思い始めた時。
「どうしましたの、エロウサギ? 急に走り出して……」
「っ」
現れた魔法使いのお姉さんは、まさに救いの女神だったと思う。
(仕方ない、かぁ)
全てを包み隠すのはおそらく無理だ、だから少しだけ真実を暴露して状況を打破することを決めた。
「実は、ルーラの着地にちょっと失敗してな。ご覧の有様だ」
片手で鼻を押さえれば、そこを打ったように見える筈。そのまま肩をすくめて見せれば、シャルロットの放心も頭をぶつけたとか、都合の良いように解釈してくれると言う寸法だ。
「あ……それで、さっき」
バニーさんの声が再び聞こえてきたと言うことは、とりあえず最大のピンチは切り抜けたと見て良いだろう。
(後はシャルロットの心のケアと)
僧侶のオッサン同様、転職して頭上にうさ耳のないバニーさんを胸中でどう呼ぶか。
(魔法使いのお姉さんも呼び方相変わらずだったし、このままバニーさんでも良いような気はするんだけど)
もし、賢者になる為クシナタ隊の誰かが遊び人になっていたり、新しく女遊び人が勇者一向に加わったりした時にややこしくなる。
(何より……問題はバニーさんじゃない、僧侶のオッサンだ)
降下する時に見たあの姿を間近で見た時、俺はオッサンを賢者のオッサンと呼べるだろうか。
「あ、あの……ご主人様」
「……転職したのだな」
「……はい」
躊躇いがちに声をかけてきた元バニーさんは、俺の言葉に頷き、微笑んだ。
(そっか。「元」を付ければ良かったんだ)
胸中でのモヤモヤ、ささやかな悩みは無意識に作り出した新しい呼称によって解消され。
「ところでご主人様……その、後ろのスノードラゴンは」
「あ」
変わりに、別の問題があったことを元バニーさんの指摘で気づかされたのだった。そう、この町には魔物を預かっていてくれる場所が無いのだ。
……いつからハプニングキスだと思っていた?
まぁ、ハプニングには変わりないですけどね?
次回、第三百三話「でっかい風船ってことにはならないですよね?」
うん、無理ですよね。わかります。