人類が海へ出るようになってから早幾年月。
その起こりはいかだの様な船と呼べない代物だったかもれしない。
しかしいつしか人類は、他の生物にはない知恵を使い、その行動範囲を拡げてきたのだ。
最初は純粋な好奇心だったのだろう。
自然から見れば人類などノミ以下のモノでしかない。
一度大波でも受ければそれは即、死につながるのだ。
事実、水平線の向こうに何があるのかを知りがった者は例外なく死んだのだから。
そもそも波打ち際ではさざ波のような小さなものに見えても、一度外洋へと出れば、そこには台風でもないのに人の身長を遥かに超える高さの大波がうねっていたりもする。
それをいかだから少々発展した程度の船で突き進もうとするなどは自殺と呼んでもいいだろう。
自然は人類の希望欲望など関係なく無慈悲に生命を奪うのだから。
それでも人類はあきらめなかった。
好奇心の上に屍を重ね、それはやがて少しずつ歩みを進めていったのだ。
何という探求心!
その恐れを知らない探求心は、いかだでしかなかった船を、帆船、蒸気船と発展させ、その素材を長距離の航行に耐えるように木材から鋼鉄製へと変化させた。
そして人類はとうとう水平線の向こうに何があるのかを突き止めたのだ。
そこに果ては無く、ただ別の土地があった。
そしてそれは探求心の次に生まれた心、己の欲望を満たすという事に発展する。
未開の土地。それを切り拓けば無数の可能性を秘めた土地になる。
そこには資源が、増えすぎた人口を受け入れる土地があった。
しかしそれは、血塗られた歴史の序章にしか過ぎない。
新たな土地も無限ではない。
さらにはそこに元々住んでいる人間もいた。
世界は拡大を続けていく物では無く、ただの大きなパイにしか過ぎない。
それを冒険の果てに知った人類、いや、そのもう少し小さなコロニーでる”国”の指導者たちは、己の利権を確保するために戦うことを選択したのだ。
同胞である人類同士で。
そして探求心を満たすための器だった船は便利な道具へと変化し、あるものは商いのための輸送を行い、あるものはその頑丈さを生かして武器を積むと軍艦として戦争に使った。
道具は所詮道具でしかなく、扱う人間によっては破壊しか生まない。
その道具に感情はないし必要ない。
なぜならそこに利便性のみしか求められていないのだから。
そんな物言わぬ道具であった軍艦に、個としての感情があったとしたらどうなるだろうか。
加えて、過去の悲しい記憶の欠片が残っていたとしたら。
フランスの小説家、ジュール・ヴェルヌはこう語っている。
【人間が想像できることは、人間が必ず実現できる】
彼はその著作の中で、地底や深海を見聞きし、80日間で世界をめぐる。
果ては人を大砲に載せて月へと向かう。
そうなると佐々木がいる世界もまた、人類の向かうはずだった進路の一つなのかもしれない。
なぜなら人類は今や、海だけではなく深海そして宇宙にすら手を伸ばしている。
ただの空想でしかなかったジュール・ヴェルヌの著作は、今は現実として成立しているのだ。
ならば物言わぬ道具が言葉を話し、誰かを想ったとしても……
きっとそれは必然だったのだと後に誰かが言うのだろう。
◇◆◆◇
響という存在は冷静であり、どこか他人から一歩引いたような印象を持たれる。
その飄々とした振る舞いには己の感情を乗せたりはしないからだろう。
しかし今、彼女の中には激しい感情が渦巻いていた。
それは自分の姉であり、いや姉であろうとする暁が突出しているからだ。
暁の行動は自分の死を厭わないとも見える危うさを孕んでいるように響には見えるのだ。
かつて響と暁は同じ艦隊に所属していた。
それは第六駆逐隊と呼ばれていた。
とはいえ、彼女たちが最近まで所属していた鎮守府での話ではない。
彼女たちの中に何故か存在する遠い昔の記憶の話である。
そこでの彼女たちは今の様な意志ある兵器ではなく、鋼鉄でできた軍艦だったのだ。
それが己の体験として、その時の生々しい感触が今も残っている。
彼女たちは極東にある小国で造られ、世界と戦っていた。
相手は多勢に無勢、だのに彼女たちの国は強大な敵を震撼させるほどに活躍していたのだ。
その第六駆逐隊所属、暁型2番艦の響は今、自分の過去と共鳴する負の感情に苛まれている。
それは”無念さ”という感情だ。
加えて、喪失感も混ざっているかもしれない。
響は自分たちが戦ってきた戦争の中で、よほど悪運が強いのか、終戦を迎えるその時にも存在していたのだ。
そんな彼女を人は不死鳥と呼ぶことすらある。
しかし響自身はそれを皮肉でしかないと自嘲せざるを得なかった。
なぜなら最後まで存在し続けたという事は、姉妹たち、または仲間たちが次々と消えていく無念さをこれでもかという程に味わった事を意味する。
最終的に彼女は、敵であった国への戦後の賠償として贈られた。
その国の言葉で「信頼」という名前を付けられたのは、皮肉中の皮肉であろう。
それほどの辛酸と苦渋の舐めてきた彼女の現在の状況は、普段かぶっている冷静な仮面を自ら剥ぎ取り、大声で叫びだしたくなる衝動に駆られていた。
「暁姉さん、危ないから下がってッ!!」
必死で叫ぶ。けれどもそれは暁には届かない。
彼女の表情はある種の狂気を孕んでいる。
目の前に転がる光景にだけ意識が向き、響の、いや己の置かれた危険な状況に気付いてないのだ。
自分が助けなければ――ただそれだけの一念は、周りに気を配る余裕を奪っている。
暁型の一番艦であり姉としての自負がある暁は、以前の記憶においても仲間の援護を敢行し、その結果、敵の集中砲火を浴びて沈没した。
第六駆逐隊において、最初の犠牲となったのは彼女なのである。
足の速い駆逐艦だからこその宿命である言えばそれまでであるが、だからこそ彼女たちの今世においての精神的な結びつきは強かった。
そしてその強い想いが皮肉にもこの状況を生みだしている。
なぜなら狼の群れの中に放り込まれた子羊のように怯える、自分の妹の姿を見てしまったから。
同じ艦隊、同じ暁型の駆逐艦である二人の妹。
その大切な存在である二人は今、窮地に立たされていた。
彼女たちはその背に岩場を背負い、さながら背水の陣という状況だ。
この状況は元々、佐々木司令官の号令のもとに行われ、そして暁と響は仲間の艦隊と別れた海域へと捜索に来ていた。
それは無事ならば助けたいという佐々木の想いを元に計画されたわけだが、その代わりに現場の暁たちが深海棲艦に襲われる可能性を孕んでいる。
そもそも佐々木は司令官に着任したことで、自らの鎮守府で艦娘を新たに建造することができる。
それは既に確立された方法で、既に彼が行っている装備の開発と同様の手法によってだ。
生態のよくわからない妖精たちの力を使い、相応の資材を持って造られる。
だからこそ彼は着任後に新規の建造を行い、自分の戦力を確保すれば良かったのだが、彼は既にいるだろう艦娘――――つまり暁たちがいた鎮守府の散り散りになった艦娘たちを呼ぼうと考えたのだ。
それは彼の人間的な弱さかもしれないが、暁たちはそれを受け入れた。
むしろ積極的にそれをしたいと希望を述べたほどだ。
佐々木としても彼女たちに提案する日のぎりぎりまで悩んでいたのだ。
なぜならそれは結果的に、彼女たちに被害が及ぶかもしれない為である。
木乃伊取りが木乃伊になる、その言葉が文字通り、彼女たちに降りかかってもおかしくはない。
それでも佐々木はそうすることを選んだ。
彼本来の平和ボケした日本人の平均感覚と、臆病と紙一重の優しさ。
そんなものが混ざりあい、彼はこの世界の常識をすべて受け入れることを良しとしなかったのだ。
そして今、考えうる最悪の状況が暁と響のもとに降りかかっている。
響が仲間たちと散り散りになった海域、その周辺を捜索していた二人は、そこからそう離れていない海域に小さな島を発見した。
その島はソラマメのような形をした岩場の多いもので、暁は入江の部分を確認してみることにした。
入江の部分であれば、外から発見されにくい、きっと妹たちもそう考えたのではないか――――暁はそう思ったのだ。自分ならばそうする。それは燃料には限りがあるからだ。
現実的に鎮守府を失った艦娘は、燃料切れと共に沈没するしかないのだ。
ならばどこかでその消費を抑えるために隠れている可能性の方が高い。
そして暁の予想通り、彼女の妹たちはそこにいた。
今まさに轟沈の危機を迎えつつあるという絶望的な状況で。
壁を背にして逃げ場のない妹。
2隻の中型の深海棲艦は、そのマリオネットのように青白く無機質な表情に、わずかな笑みを浮かべている。
その笑みはひどく獰猛なもので、怯えて震えている無力な駆逐艦を蹂躙することに快感を得ようとする恐ろしいものであった。
深海棲艦に2方向から囲まれている駆逐艦までの距離はわずか10メートル。
目をつぶっていても砲撃はあたる距離であった。
じりじりと嬲るように5インチの死神の鎌を振りかざす。
いつでもお前を殺せるのだ、無言のプレッシャーはそれを主張している。
そんな光景を見た瞬間、入江の入り口にいた暁は、響に状況説明をせぬままに高速で飛び出した。
彼女を支配した激情は、己の中に流れる液体を一瞬で沸騰させ、そして出しうる最大の船速で飛び込む事を選択したのだ。
「雷ッ! 電ッッ!! 伏せなさい!」
自らが砲弾のように暁は突っ込んだ。
どこへ? 妹たちと敵の間へだ。
暁が選択したのは自分が盾になる――それであった。
敵が砲弾を発射すれば、その距離から考えるに間に合わない。
ならばと暁が敢行した方法は、1隻に体当たりをし、その反動でもう一隻の前へ立ちふさがる事。
そうすればきっと、冷静沈着な一つ下の妹がどうにかしてくれるだろう。
つまり彼女は、自分が犠牲になることを決めたのだ。
「おねえちゃんッ!」
いったい誰が叫んだのだろう。
血相を変えて追いすがった響か、それとも妹たちか。
その時一瞬の沈黙が起き、そして入り江には無慈悲に砲弾の発射される音が反響した。
後、沈黙――――火薬の匂いだけが漂っていた。
◇◆◆◇
元々私は待つという事はそれほど嫌いじゃなかった。
なぜなら私は極めて普通に生きてきたからだ。
普通というのは存外苦痛なもので、ある一定の生活リズムを保つことを強いられる。
ではどれほどの人間にそれが出来るのだろうか。
毎朝私がオフィスに行くと、誰かしらが寝不足や二日酔いで出社してきていた。
それは小さな事かもしれない。
例えば残業の後に愚痴を言い合うための同僚たちの飲み会。あるいは出会いを求めての合コン。
自宅で自分の趣味にのめり込み、あと少しだけと午前様。
そこには小さな欲望があって、それを我慢したとしても特に困らない。
けれど別にいいじゃないかというのも人間なのだ。
人の生き方は人間の数だけあり、どれが正解でどれが不正解かなんて無い。
他人から見て苦痛であることがその人間の幸せなんてこともあるのだし。
なのでこの考えはあくまでもこれは私の主観でしかないのであるが。
とにかくそこらじゅうに転がる欲望をひと時我慢し、自分のペースを保つという事は、小さなストレスを抱えながらもそれをするという事になる。
しかし私はそれを行っていた。
元々の気質が、美味しいものは最後に食べるというのが私であるから、もしかするとそれは自然なことなのかもしれないが。
とにかくそうして、趣味であったり何か小さな欲望は全て休日の前夜まで我慢していた。
その後に味わう幸福感は爽快であると感じる私は、多少マゾヒストの気質があるのかもしれないにしても……。
しかしそれは現代日本での治安の良さの中での話だ。
日本は深夜にジャージ姿でコンビニに買い物に行ったりしても安全であるし、一区画にいくつもの自動販売機があっても釣銭を奪われることはほとんど無いという国だ。
それは多国の人間には不思議に思われるレベルの治安の良さなのだ。
だからこそ私の様な小市民が、自分の好きなように生き方を選ぶことが出来た。
しかし例えば中東諸国であったり、東ヨーロッパの小国群であればそうはいかない。
中には自動小銃を片手に出歩く若者が当たり前で、週末の夜にはロケット弾が降り注ぐ国だってあるのだ。
だから私の生まれは幸運であり、日本人は割と特殊なのだと思われるが。
とにかくそういう待つという行為は、たとえ苦痛であってもそれほど大したことじゃない。
しかし今、私はその身を焦がして待つという行為を初めて味わっている。
司令官用の革の椅子に深く腰掛け溜息をつく。
次の瞬間はその辺をうろうろと歩き回り、忙しなく時計を覗く。
それを何度も繰り返すが、悲しいことに時計の針はそれほど進んではいない。
突然叫びだしたい衝動にかられ、宿舎を飛び出しドッグへと向かう。
そこには妖精たちがうろうろしているばかりで静かなものだ。
落ち着かない私は冷静になろうと自宅に戻り、茶を沸かすための湯を沸かす。
急須に入れる茶葉は百田夫人から頂いたものだ。
彼女が毎朝煎じる香ばしいほうじ茶。
しかし立ち昇る芳香も、残念ながら私の心は落ち着かない。
それは卓袱台の向こうに、彼女たちの小さな姿がおぼろげに見えてしまうからだ。
私はなんと残酷な命令をしてしまったのだろう。
仲間を増やしたければ、新たに建造をすればよかったじゃないか。
彼女たちはつまるところ兵器だ。
辛抱強く説得すればどうにかなったかもしれない。
でも、それは違う。
私がこの重圧に耐えきれないだけの逃避だ。
平和しか知らない私には重すぎる重圧に、いま負けそうになっているだけだ。
少し陰った今日の空は、まるで私の心を表しているようだ。
暁は、響は、今どうしているだろう。
冷たい海に沈んでいやしないか。
こんな苦痛は初めてだ。
大切な者の無事を願う”待つ苦痛”は初めてだ。
私はそして、初めて神に祈った。
名も知らぬ神に。
今の私の状況はすべて現実だ。
人間と深海棲艦がその存在をかけて戦っている戦争状態なのだ。
もはやぬるま湯に浸かった幸せを享受することは許されない。
だからこそ思う。
過去の軍人たちの偉大さを。
彼らもまた、私以上に感じていたはずだ。
自分の部隊の無事を。
司令官はきっと孤独なのだ。
死地へ部隊を送りながら、無事で帰ってきてほしいと願う。
その矛盾した想いは決して交わりはしない。
なぜなら犠牲の出ない戦争などは絶対にないからだ。
それでも過去の司令官たちは願うのだろう、その二律背反な想いを。
この我が身を引き裂かれそうな感情の正体はなんなのか。
淡泊すぎる人生を営んでいた私には知らない感情なのだ。
そんな時、我が家の玄関を激しく叩く音がし、私は弾かれるようにそちらを見た。
「佐々木君っ! チビちゃんたちが帰ってきたよ!!」
そこには血相を変えた百田さんが私を呼びに来た姿があった。
「……百田さん、すいませんっ!!」
「お、おい佐々木君っ! そんな焦らなくたっ――――」
しかし私は、恩人である百田さんを突き飛ばすように走り出していた。
彼は何かを叫んでいたが、そんなこと気にしている余裕は無い。
とにかく私は急いだ。靴を履くのも忘れて。
きっとこれほど懸命に走ったことなど今までなかったのではないか。
それくらいに走る。
自分の心臓がこれでもかという程に鼓動し、息が苦しくなる。
素足のままの私の足は、舗装されていない道で小石を踏み抜き激痛が走る。
そんなことはどうでもいいのだ。
無事か? 無事なのか?
ただそれだけのために走った。
いた。彼女たちはそこにいてくれた!
ドッグのある埠頭に立っている。
白いセーラー服が赤く滲んでいる二人が。
その瞬間、私の頭は沸騰した。
「あ、司令官――――
「司令官いま帰った――――
「暁! 響!!」
そして私は沸きあがる衝動のままに彼女たちに抱き付いた。
2人は目を見開き驚いているがそんなことは関係ない。
小さな彼女たちは大きな私に包まれ見えなくなった。
戻ってきてくれた。ただそれだけの事で、私は泣きたくなってしまった。
「い、痛いよ司令官……ちゃんと戻ってくるって言ったでしょ!」
「司令官、さすがにこれは、恥ずかしいな……」
「うるさいっ! 無事に帰ってきてくれてありがとう……」
苦しそうに身じろぎする暁と響をさらに強く抱きしめる。
そして大の大人が声をあげて泣く。
何ともしまらないとは思うが、私は感情の赴くままにさせていた。
それでいいと思った。
なぜならそれを止める術を私は知らないから。
いつの間にか、周りに村人が集まっているのを知らなかった。
きっとそれほど長い時間、私はそうしていたのだろう。
その後私は”泣き虫司令官”というあり難くない二つ名を頂くのだが、今の私はそんなことは知らない。気にすれば私はもう村の中を歩けないだろう……羞恥で。
だが今はただ、抱きしめている彼女たちの温もりが嘘ではないのだと実感したいのだ。
詳しいことは後でいくらでも聞けばいい。
そして漸く落ち着いた私は彼女たちを放し、号泣のせいか、はたまた羞恥のせいで赤くなった己の顔を冷やすように手で仰ぐ。
そこで漸く私は気が付いた。
暁たちの背後にたたずむ2人の少女に。
「中々情熱的な司令官ね……これからが思いやられるわ」
「はわっ、はわわわわ……し、司令官さん、初めまして、なのです……」
なんとも微妙な顔をした、暁たちと同じセーラー服の2人がこちらをきな臭い表情で眺めていたのだった。
私の頬はさらに熱く、赤くなってしまった……。
村人たちの笑い声と共に――――
つづく
少しずつお気に入りも増えて嬉しいです。
ほとんど萌え的な要素のない小説ですが、少なからず気に入ってくださる人もいると感じ、もっと連載を続けてみようと思います。感謝します。
※誤字誤用修正
その大切な存在である二人は今、浅瀬に逃げ込んでいた妹たちを追い込まれていた
↓
その大切な存在である二人は今、窮地に立たされていた。
船側
↓
船速
その他何か所か誤字誤用を修正。